九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

大量殺人

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

優生思想はなぜ科学的に「アホ」なのか


 この件です。ちょうど優生思想を背景としたとみられる殺人事件の後なので、発言者のバカっぷりがすごいです。ちなみにこのアカウント、どこかのネトウヨではなくRADWIMPSのヴォーカルです。さようなら俺の青春時代。

 このブログでインテレクチュアル・ダークウェブ(笑)(後述するように馬鹿馬鹿しいので私はこの言葉を使うとき必ず(笑)を付けます)を取り上げたときにも書いてるんですが、こういう進化心理学とか優生思想を信奉している人たちがバカっぽいのは、権利という概念をさておくとしても、まったく科学的ではない発想を科学的であると勘違いして偉ぶっているからです。

 この記事では優生思想がとんだバカであることをきっちり抑えておきましょう。

 ちなみに、優生思想というと一般的にナチスのT4作戦、あるいは日本の優生手術のように「劣った遺伝子を減らす」方向性のものですが、ラッド野田の発言も方向が違うだけで優生思想として同じものであり、否定する理屈もほぼ同じなのでここでは区別をつけません。

自閉症を全員殺せば自閉症は消滅するか

 優生思想の基本理念を簡単に図示するとこうなります。「障害は遺伝する」→「障害の原因となる遺伝子を持つ者が子供を作らなくなれば障碍者はいなくなる」→「実行しよう。俺天才!」しかしこの流れにすでにアホアホポイントが2つも存在します。

 1つ目のアホアホポイントは「障害の原因となる遺伝子を持つ者が子供を作らなくなれば障碍者は減る」です。確かに障害の中には遺伝が強い影響を及ぼすものもあり、例えば自閉症は親や兄弟が自閉症だとリスクが格段に上がることが示されています。

 しかし、それは必ずではありません。健常者の親から自閉症児が生まれることもあれば、自閉症の両親から健常児が生まれることもあります。

 これは、大抵の先天性の障害が「複数の遺伝子の組み合わせで発現するかが決まる」からです。
 例えば両親が自閉症だと、2人の親が自閉症の原因となる遺伝子をたくさん持っているので、子供もその遺伝子をたくさん引き継ぐ可能性が高くなります。その結果、子供が自閉症となる可能性も上がります。しかし、たまたま自閉症の原因となる遺伝子をほとんど引き継がないという場合も当然あります。

 逆に、両親が健常者である場合でも、子供は自閉症の原因となる遺伝子をたくさん受け継ぐ可能性があります。これは健常者も多かれ少なかれ、自閉症の原因となる遺伝子を持っているからです。ただ遺伝子が少ないから自閉症の症状が出ていないだけ、みんなある程度はこういう遺伝子を持っているのです。

 優生思想は障碍者を殺して新たな障碍者が生まれないように試みます。しかし、残念ながらたいていは複数の遺伝子の組み合わせで障害の有無が決まるので、健常者の親からも障碍のある子どもはばんばん生まれます。もし本気で障碍者を生まれないようにしようとするならば、全員が子作りをやめなければいけません。ね、アホでしょ?

障害は社会が作る

 もう1つのアホアホポイントは「障害は遺伝する」の部分です。つまり優生思想は先天性の障害しか視野に入れていないわけですが、もちろん健常者でも2トンダンプとかにはねられたら障害が残る可能性はかなり高いでしょう。

 というのは極端な例ですが、先天的な器質が原因となる発達障害などでも後天的な環境の問題は見過ごせません。特に軽度の発達障害の人たちで大人になってから発覚するようなパターンは、環境の変化が強く影響している可能性があります。

 要するに、環境がその人にマッチしていてうまくいっていれば障害が見過ごされる一方、環境とミスマッチを起こして問題が生じると障害が診断されるというわけですね。環境の問題を個人に転嫁しているような感もありますが。逆に言えば、発達障害と診断された人でも環境が合っていればさほど問題なく過ごせるということもあり得ます。

 優生思想は人間を障碍者か否かで二分しようとしますが、このようにそもそもその境界はさほど明確ではありません。とりわけ精神疾患系や発達障害は今日の健常者が明日の障碍者になる、ということもあり得る世界です。

 もし障碍者とラベリングされた時点で殺されたり断種されたりする優生思想の「理想の」世界が訪れると、人々はどうするでしょう。論理的に考えれば、当然誰も殺されたくないのでなんのかんのと誤魔化します。こうなると一目でわかる場合を除いて障碍者は社会に隠れ、なんのかんの健常者として生きていくことになるでしょう。

 つまり、障碍者は根絶できません。はいアホ。

あなたも私も障碍者

 優生思想の持ち主は当然、自分が健常者で優生思想が社会を席巻しても影響がないと思っています。仮にその想定が事実だったとしても、例えば自分が産む子供に障害があるかもしれないみたいな想定をしない時点で十分馬鹿なのですが、そもそも自分が健常者であるという想定がまず危ういものなので輪をかけて馬鹿です。

 というのも、上述のように障害の有無は社会によっても変わってきます。これは言い換えると、障害の有無というボーダーラインがわりあい恣意的であることを意味しています。

 よい例が発達障害でしょう。昔はこんな障害認識されていませんでしたが、学校教育が盛んになり仕事もデスクワークが中心となったことによって「じっと席についていられないのは困るし当人も辛いよね」ということで障害の仲間入りをしました。ADHDとかは極論、狩猟の時代にはなんら障害ではありません。

 もう1つのよい例が知的障害です。知的障害はIQが70から75以下くらいだと診断されますが、まず基準がめっちゃアバウトです。この範囲のIQの子供は一般にボーダーライン児と呼ばれ、子供に応じた支援がなされますが、明確に知的障害とラベリングされないこともあります。

 また、IQはその年齢の子供の平均を100とするので、同じIQ70でも時代によって知的能力に違いがあります。フリン効果という言葉があるように人間のIQが上昇を続けているので、2020年のIQ70は1930年のIQ70よりも頭がいいはずです。こういう風に、障害か否かは周囲によっても変わってきます。

 もっと言えば、発達障害のように社会構造の変化によって、それまで顧みられていなかったものが障害としてラベリングされることも出てくるかもしれません。ゲーム障害もいい例ですが、例えばリモートワークが盛んになり感染症によって滅多に家から出られない世界なら、人と会わない寂しさに耐えられない人は「離別不安症」とか「直接対面依存症」とか言われそうですね。

 また、ネット上の誹謗中傷が問題視されていますが、ラッド野田のように明らかにやばい発言を抑えられずネットに流してしまう人が増え続ければこれも障害とみなされ、「衝動性タイピング障害」などと呼ばれるようになるかもしれません。こうなると野田も断種対象ですか。おお怖。

 こんな風に、障碍者を殺す社会は結局誰もが殺されるかもしれない社会なわけです。そんな綱渡りな社会、自分は大丈夫だと思っている楽観的な馬鹿以外誰も住みたくありません。

実験する前に分かれ


 最後にここを潰しておきましょうか。ラッド野田の発言も「才能を保存する」方向でしたし。
 こんなものは実験するまでもなくダメなんですが、その理由は簡単です。

 その理由は、よいものを規定することは悪いものを規定することと同じだから、です。

 例えば「足が速いことが名誉な社会」を想像してみてください。これは足の速さをよいものと規定する社会です。こういう社会で、私のような50m走で8秒をきったことがない鈍足人間はどんな扱いを受けるでしょうか。

 そうですね。クソ人間扱いですね。この社会は表面上「足が速い」というよいことしか規定していないように見えますが、実際にはその対極にある属性を悪いものとして規定していることと同義です。酔いの反対には悪いがあるわけですから、速いの反対にある遅いが悪いと結びつくのは時間の問題です。

 ではさらに考えを進めて、足が速い人間を色々と優遇することにしたらどうでしょうか。例えば50m走で6秒をきる人間は税金タダとか。
 こういう社会は当然、足の速い人間が負うはずだった税金を足の遅い人間に転嫁します。税金免除の反対は税金倍だからです。社会システム的にも、免除された分の税金を誰かが払わなければならないので当然そうなります。

 重要なのは、さらに社会を推し進めると、この差別的取り扱いが税金システムに収まらなくなるという点です。社会がある属性を良いものとして扱い、裏返しとしてある属性が蔑視されるようになると、この関係は社会の公的なシステムに留まらなくなります。

 この関係を実際の社会で最もよく表しているのが、国籍による差別です。国籍はあくまで公的な登録上の違いであり、それによって受ける取り扱いの際にも限りがあります。しかし実際には、家を借りられないなどといった公的な場所以外の私的な契約場面でも差別が引き起こされています。これは社会が国籍による差別を導入した結果、本来無関係な場面でもその関係が援用されてしまう例です。

 そういうわけで、ある属性を良いものとして扱い出生に取り扱いの差をつけることは、巡り巡ってその属性の対極にいる人たちを死に追いやることに繋がるので、この詭弁屋の発言はアウトだというわけです。

 もっとも、こんな小理屈を並べるまでもなく、日本国憲法における平等に反するからアウト、で済む話なんですが。

優生思想は全力で馬鹿にしろ

 ここまでの議論で、私は優生思想の信奉者を執拗に馬鹿とかアホとか言っていますが、これにはちゃんと理由があります。

 優生思想の信奉者たちの多くは、自分が賢いと思っています。自分が賢いから教条的な理由に囚われることなく、いままでタブー視されていた議論もフェアに検討することができると思っています。なので優生思想を開陳することで自分の賢さをアピールしようと試みます。

 しかし実際には、上述したように彼らはただの馬鹿です。もし彼らが科学的あるいは論理的な思考力を平均程度持っていれば、上述のような理屈ですぐにこれがまずいことを理解できます。また本の1冊や2冊を満足に読みこなす能力があれば、過去の優生思想政策に関する本を読みそのまずさを理解できるはずです。

 彼らはそのどっちにも至っていないわけですから、彼らには平均程度の論理的思考力も、科学的思考力も、読解力も、本を1冊くらいは読もうという発想力も、これ言ったらまずそうだなと考えつく常識も、何もかもが不足しているということになります。つまり馬鹿です。

 優生思想の信奉者を潰すためにも、まず彼らのすがる「賢い俺」幻想を木端微塵にしなければいけません。そして「優生思想が何となく賢そうに見える」現状を打破するためにも、優生思想を全力で馬鹿にしておかなければいけません。

死刑制度は相模原事件の犯人の思想と何が違うのか:これまでのまとめも込めて

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園(Tsukui Yamayuri-en)」で入所者19人が殺害された事件で、横浜地方裁判所は16日、植松聖(Satoshi Uematsu)被告(30)に死刑を言い渡した。
 日本史上最悪の大量殺人の一つとされる2016年のこの事件の裁判で、植松被告は起訴内容を認めていたが、弁護団は被告には薬物使用に関連した「精神障害」があったとして「無罪」を主張していた。
 しかし、青沼潔(Kiyoshi Aonuma)裁判長は「19人もの人命が奪われたという結果が、他の事例と比較できないほどはなはだしく重大である」と述べ、「計画的かつ強烈な殺意」があったと指摘。「酌量の余地はまったくな」いとして、被告側の無罪主張を退けた。
 青沼裁判長はまた、遺族から処罰を強く求める声があることに触れ、被告に前科がないことなどを「できるだけ考慮し、量刑の均衡、公平性の観点から慎重に検討しても、死刑をもって臨むほかないと判断した」と述べた。
 植松被告は以前、判決が何であれ控訴しない意向を示す一方、自分は死刑に値しないとも主張していた。死刑判決言い渡しには特に反応を示さなかった。
 相模原障害者19人殺害事件、被告に死刑判決-AFP
 昨日、相模原大量殺人事件の加害者に死刑判決が言い渡されました。これで事件はひとつの区切りを迎えたと言っていいでしょう。

 九段新報が見た相模原事件
 振り返ると、九段新報でもこの事件を何度も取り上げてきました。
 事件発生当初は、『相模原の大量殺人について』や『「措置入院でなぜ防げなかったのか」が無意味なわけ』で取り上げたように事件を防げなかったのかという論調が目立った印象です。そのときは措置入院が取り沙汰され、それには意味がない旨を記事に書きましたが、その後警察が危険を把握しつつ何もしなかったことが明らかとなり、別角度から「防げたかもしれない事件」だったことがわかりました。

 この事件は障碍者差別に強く裏付けられているのですが、加害者だけではなく日本社会全体に差別が根付いていることも改めて表面化しました。真っ先に措置入院の話題が出たのも、ある種このような事件を起こした責任を「精神障害」に押し付けんとする試みだったのでしょう。『長谷川豊なんかの発言をまともに聞いちゃだめだよ? 後編(相模原のやつ)』からもわかります。それが困難だと悟ると、いつものごとく在日コリアンへ責任を転嫁し始めました(『相模原の犯人が○○であることは事件と関係ないよ?』参照)。

 そのような差別性がまず表出したのは、報道でした。『なぜ障害者の被害者は実名報道されないのか』で扱ったように、普段は意地でも被害者のプライバシーを暴く報道が、この件では従順に被害者の匿名報道を貫きました。もちろん、報道に被害者の名前が必要だとは思えませんが、健常者は名前を出すのに障碍者は出さないという区別にはどのような意味があるか、一度考えるべきです。

 一方では、加害者を非難するという申し訳程度のエクスキューズを伴いながら、加害者の思想に共感する動きも多く出ています。つまり、命の選別を是とする風潮が、これまでは曲がりなりにも隠されていたのに、これをひとつの契機として表立って出てきたということです。

 顕著だったのは、やはり同様の医療現場でした。『大口病院事件 「延命されている人に楽しいことなんてない」は相模原事件の犯人と何が違う』で取り上げた事件や、『医師が「医療費が」などと出しゃばり患者を殺す不気味さ』の福生病院の事件がこれに当たります。「延命されているのは不幸だ」などと他者の感情を勝手に決めつけ、また延命治療が無益であるなどと救命を第一に考えるべきはずの医師が利益ベースで物事を考えるなど、気味が悪いとしか言いようのない振る舞いがまかり通っています。

 むろん、このような動きは突如現れたものではありません。ベースには犯罪者の意見をさも重要なものであるかのように扱う風潮があり(『「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮』参照)、また透析を自業自得だと言ってはばからないような自己責任至上主義の風潮があります(『長谷川豊が千葉一区&比例代表で出馬するようなので過去の暴言を蒸し返しておく』参照)。

 なにより、このような「命の選別」を、ほかならぬ政府が主導していることは決して忘れてはならないでしょう。『こんな時だからこそ「誰が」「誰を」殺してもいけないことを確認しなければならない』で触れたように、安倍首相の反応は極めて鈍いものでした。犯人が首相に手紙を送っているという背景があるにもかかわらずです。京アニ放火事件のときの反応とは対照的です。

 もっとも、この事件に際して平等と生命尊重の立場から多くの言説が登場したのも事実です。古いものになりますが、青い芝の会の神奈川県連代表が記した書籍も注目を浴びました(『【書評】障害者殺しの思想』参照)。言い換えれば、昔から進歩がないということにもなりますが。

 死刑制度は同じ穴の狢
 すでに同様の批判はされているでしょうが、ここでも繰り返しておきましょう。
 今回の事件の加害者を死刑にするというのは、結局のところ、加害者の主張を裏書きしているにすぎません。なぜなら、死刑制度もまた「殺していい命を決めて処理する」という、加害者の振る舞いと同じものでしかないからです。

 そもそも、相模原事件の発端は障碍者を無価値な人間と定め、生きる意味がない、生きているのは無駄だと決めつける思考形態でした。死刑制度もまた、重罪を犯した(とされる)人間を無価値と定め、生かすのは税金の無駄とばかりに殺してしまう制度です。違うのは、裁判を経るため死刑制度のほうが「まともっぽく見える」というところだけですが、冤罪の事例を見ればさほどまともではないことはよくわかると思います。

 相模原事件の加害者の振る舞いを批判しながら、彼の死刑を望むことは、端的に表現すれば「命を大切にしない奴は嫌いだ!死ね!」と言っているようなものでしょう。

【書評】ひれふせ、女たち ミソジニーの論理

 今回書評するのは、フェミニズム界隈で話題となった1冊です。最近、この界隈で注目を浴びる書籍が多く、興味深く追っています。本書は一般向けに出版されたミソジニーの解説書……なのですが、分厚い、そして結構難しい。慶応義塾大学出版会ですからね、版元が。哲学議論の素養がない私には、著者の議論を十分理解できなかったかもしれません。

 それでも、著者が本書で指摘しているミソジニー概念の「改良」という点について、いくらかの手がかりを得ることは有益でしょう。

 ミソジニーがこうである必要はない
 本書は、エリオット・ロジャーが起こしたアイラヴィスタ銃乱射事件を取り上げるところから始まっています。この事件は、加害者がカルフォルニア大学サンタバーバラ校のソロリティ・ハウス(アメリカの大学にある社交的なシェアハウスのようなもの。共通点のある女子学生が集い生活する)に侵入し、その前に起きた殺人と合わせて最終的に6名を殺害、十名以上を負傷させた後自殺したものです。

 この事件を起こす前、加害者はYouTubeに予告動画をアップロードしていました。そこでは女性から選ばれなかったことに対する加害者の恨みつらみが述べられており、この事件は「ミソジニー殺人」として注目を浴びました。

 しかし、その見方に賛同する者ばかりではありませんでした。主に男性論者ですが、この事件は女性への憎悪という意味でのミソジニーがきっかけなのではなく、精神疾患、社会的孤立、欲求不満の産物であり、少し状況が違えばソロリティ・ハウスではなくショッピングモールに向かっていただろうと主張しています。

 『【書評】暴力の人類史 上』『【書評】暴力の人類史 下』で著書を取り上げたスティーブン・ピンカーもその一人です。彼は「統計的には、男性は女性よりも男性を多く殺している」という、どこかで聞いたことのあるような主張をした記事を引用して、この事件がミソジニー由来であることを否定します。

 ここでは、ミソジニーが「全ての」女性に「敵意」を向け「攻撃のみ」を行う心理的過程であると想定されています。しかし、著者はそうではないと指摘します。

 まず、著者はミソジニーを加害者ではなく被害者の視点から組み直します。つまり、加害者の敵意といった確かめようのない心理的過程を必須とするのではなく、結果として女性を害する行動をミソジニーの要素として規定すべきであるというのです。まぁ、当然でしょう。著者の主張するように、ミソジニー殺人の加害者の少なくない数が自殺するので、加害者の心理的過程をミソジニーに必須とするならば、ミソジニーと呼べる殺人は数少なくなります。

 さらに、著者はミソジニーが「全ての」女性に対するものではないし、「攻撃」ばかりが導かれるものではないと指摘します。ミソジニーはあくまで、性差別の「法執行機関」のようなものであり、敵意が向けられるのは性差別が規定する規範から逸脱した女性に対してのみです。むしろ、規範に迎合的な女性には慈悲的にふるまうことも考えられるでしょう。

 また、ミソジニー殺人に典型的ですが、女性への敵意は必ずしも、その男性を「傷つけた」女性個人へ向くとも限りません。ある種八つ当たり的に、全く無関係な女性に攻撃が向くということは、大量殺人のプロセスにおいてもよくあることです。

 つまりミソジニーは、あくまで「言うことを聞かない女を懲らしめる」といった方向性の振る舞いであり、全ての女性に対し敵意的である必要もなければ、その「懲らしめ」があらぬ方向を向いている可能性すらあるということです。

 ヒムパシー:名前のない問題
 もうひとつ、本書で取り上げられている重要な概念はヒムパシーというものです。これは、女性に加害をした男性に対し、世間が、時には女性すらも同情的になり、免責しようとする振る舞いを指しています。

 この件に関しては、本書でも言及されていますが、アメリカでは『【書評】ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』で取り上げたような事件が代表的でしょう。大学の著名なスポーツ選手が女性をレイプした事件で、「輝かしい将来」に同情した裁判官たちが極めて軽い刑を言い渡したような事例が起こっています。

 日本でも、例えば『【記事評】『DAYS JAPAN』最終号を考える(週刊金曜日2019年4月12日 (1228)号)』で触れたような事例があります。加害男性の話を聞こうという、一見もっともらしい態度によって、問題の視点が男性の内面へとずらされ、いつの間にか彼らを罰することが忘れ去れてしまうということが起こりえます。

 このような現象は、時に被害者を非難する原動力になると言えますが、著者はより巧妙で分かりにくい形式として、性暴力の語りから被害者が欠落するということを指摘しています。先例の大学スポーツ選手によるレイプ事件では、加害者とその関係者は呆れたことに、アルコール摂取と性的不品行の危険性について世間を啓もうする活動をする計画を開陳し、著者は「苛立ちを覚える」「他人を説教する前に、まずは自分から道徳教育を受けるべき」と指摘しています。

 上掲の広河氏の例でも、同様のことが起こっています。『【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)』などが盛んに広河氏の主張を掲載したように、さも加害者の発言に何か価値があるかのように世間は扱います。しかし、被害者の声が表に出ることはあまり多くありません。

 本書ではこれ以外にも多数の概念を扱い、総体的にミソジニー概念のブラッシュアップを図っています。そのような視点は、世界で同時多発的に起こっている、女性へのバックラッシュへの理解を助けるのはもちろんのこと、それ以外のあらゆる差別問題を理解する基盤にもなるものでしょう。

 ケイト・マン (2019). ひれふせ、女たち ミソジニーの論理 慶応義塾大学出版会

【記事評】銃の悲劇をなくすために(NEWS WEEK日本版2020年1月14日号)

 記事を書くタイミングを逸し、随分と時間が空いてしまったが、興味深い内容だったので触れておこうと思います。

 ニューズウィーク日本版の1月14日号で、アメリカのスポーツ用品チェーンであるディックス・スポーティング・グッズ社が行ったアサルトライフルの全面販売中止を取り上げています。

 銃を扱う店として
 アメリカでは、銃を売る店が大量にあります。ホームセンターでも販売されていると報じられたのを目にしたことがある人もいるでしょう。銃=護身用の武器という建前ではありますが、ハンティングにも銃は欠かせないものであり、スポーツ用品店は殺傷能力の高いライフルを多数取り揃えています。

 ディックスはそのような店の責任として、2018年にフロリダ州で発生した乱射事件をきっかけに、銃の販売禁止に乗り出します。CEOのエド・スタックは、アサルトウェポンの禁止、年齢制限を21歳以上に引き上げ、バンプストックの取り扱い禁止、銃販売における待機時間と調査の設定などを提案します。

 ただ、懸念もありました。用品店に銃を買いに来る客は、それ以外のハンティング用品も買いに来るのです。銃自体の売り上げはさほどでもありませんが、波及効果が大きくなる可能性がありました。

 また、販売中止に反発した顧客や従業員が店を去る可能性もありました。そして、そのことは実際に起こりました。

 支持の声
 一方、ディックスの方針を支持する声も多数ありました。中には、いままでディックスで買い物をしたことはなかったがこれからはそうするとメッセージを送った人、店へ花束やドーナツを差し入れに来る人(アメリカらしい)、店長と直接話したいと申し出た人などがいました。

 大企業であるディックスがこのような方針を貫いたことは、大きな変化になると、エドが出演したニュース番組の司会者ジョージ・ステファノポロスは述べました。エドが最後に述べたように、変化の機運がいい方向へ向かってくれるといいのですが。


犯罪学者が観た『ジョーカー』の凄さとヤバさ

 今日、まさにこの記事を書く直前、『ジョーカー』を見てきました。
 ホアキン・フェニックスがジョーカーを怪演し、バットマンが出ないのに、そしてアメコミ映画「なのにベネチア国際映画祭で最高賞を受賞したことで一気に注目度の増した本作。アメリカでは公開が厳戒態勢、しかも公式から相当な警告が打たれたこともあって、私はドキドキしながら観ていました。

 以下、ネタバレに触れるところがあります。



 映画全体の印象を言えば「犯罪者の自伝を読んでいる気分」となりましょうか。私は個人的な興味関心と仕事の都合上、よく犯罪者の過去を追ったルポタージュを読むのですが、感覚としてはそれに近いものがありました。

 ホアキン演じるアーサー、後のジョーカーは、クラウンとして様々な場所へ派遣される仕事をしていました。収入は少なく、病の母と二人暮らし。精神的な問題を抱え定期的にカウンセリングを受けており、しかも神経の障害から突発的に不気味に笑う発作を起こすことがあります。

 物語が進むと、彼の状況が悪くなっていきます。
 ヘマを繰り返したためと同僚と折り合わなかったために仕事はクビになり、社会保障も打ち切られてしまいます。地下鉄で自分を暴行した3人を殺害したことで一線を越えます。親しくしていた隣人はただの妄想であったことに気付き、母親も殺し、当人の言う通り守るものが何もなくなった状態でクライマックスへとなだれ込む、という構図です。

 この物語を観ていて、私は愕然としました。
 当然フィクションとして誇張されていますが、彼の軌跡は一般的な大量殺人犯のそれとよく似ていたからです。

 2019年版ジョーカーは「大量殺人犯」の変型である
 大量殺人犯、つまり日本でいえば池田小事件や秋葉原無差別殺傷の犯人のような、あるいはアメリカでいえば銃乱射事件の犯人のような者は一般的に、社会への敵意をため込んでいるといわれています。とはいえ、その敵意が常に噴出しているわけではなく、抑え込むための様々なものが途切れたときに犯行に至ることが多いのです。

 典型的なのが、精神疾患の悪化です。うつ病のように元気がなくなることが多いので、大半の精神疾患は攻撃性と結びつかないのですが、例外もあります。1つが幻覚です。幻覚で見た敵から身を守るために暴力をふるい、それが他社を傷つけるというのは典型的な事例といえましょう。もちろん、幻覚を見る人が全員攻撃的になるわけではないことは付言しておきます。

 本作のアーサーも、これとは少し違いますが幻覚を見ていました。物語の中盤、彼が所謂「信頼できない語り手」であることが示されています。彼が劇中で聞いた同僚の一言からテレビに映った映像まで、どこまでが事実でどこまでが幻覚なのかははっきりしません。

 もう1つが、仕事や家族のような他者とのつながり、社会的絆と呼ばれるものです。これは犯罪を犯すと失ってしまうものであるので、犯行を踏みとどまるためのハードルとなります。裏を返すと、これがなくなったとき「無敵の人」となり、死をもいとわない過激な攻撃にうって出ることになります。

 アーサーはカウンセリングと処方薬の中断に挟むかたちで、立て続けに仕事と母親を失っています。3つのうち1つでも維持できていれば、彼はジョーカーにならなかったかもしれません。

 ジョーカーは伝染する
 さて、劇中最後ではジョーカーの引き起こした暴動に巻き込まれるかたちで、ブルース・ウェインの両親が殺害されています。これがバットマンのオリジンにつながるわけですが、年齢があまりにも違いすぎます。この映画はDCEUに繋がるものではありませんが、バットマン原作の展開を考えると、この後ハーレイ・クインと一緒に悪事を働いたりロビンを惨殺するといったかたちで大人になったバットマンと対峙することになるはずです。本編中のアーサーは低く見積もっても40代、ブルースが大人になることには還暦です。

 つまり、この映画の後があるとすれば、ジョーカーとしてバットマンと対決するヴィランはほかに存在するということになるはずです。あのゴッサムでの暴動を見て、あるいはどこかで知って、ジョーカーの悪意に感染してしまった誰かこそ、後にバットマンと戦うジョーカーなのかもしれません。

 ジョーカーという存在、その悪意が他者へ伝染する性質のものであることはほかの作品でも描かれていたことです。ハーレイ・クインはまさにその伝染を受けたものですし、PS4ゲーム『バットマン:アーカムナイト』の展開もその発想を受けていました。

 この「伝染する悪意」という概念もまた、大量殺人事件によく見られる特徴といえるでしょう。
 少し違う例ですが、日本では神戸児童連続殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇事件の後、散発的に同年代の少年による凶悪犯罪が発生しました。このように、「劇場型犯罪」は同種の事件を引き連れて、それこそ「伝染」したように見えることがよくあります。

 これは、事件を報道で見聞きした人たちが、心のもやを事件の中に見出したことが原因でしょう。人の感情や精神状態は、時折明言しがたいもやもやとした形状をとることがあります。このようなとき、ふと目にしたものに影響されて「私のもやもやの正体はこれだったんだ!」と早計に結論を下してしまうことが起こります。

 神戸児童連続殺傷事件ののちに起こった事件について、加害少年が「酒鬼薔薇に先を越されたように感じた」という趣旨のことを言ったとされています。彼らもまた、あの事件の報道を見て心の中のもやもやを「あれが正体だった」と思ってしまったのでしょう。

 先述のように、本作のジョーカーの軌跡は実際の犯罪者のそれをよく研究し、下敷きとしています。つまり恐ろしく「リアリティ」があるわけで、観客の中に「あのジョーカーは俺だ」と思ってしまう人がいたとしてもおかしくはありません。アメリカ上映時の厳戒態勢は過剰反応ではないというべきでしょう。

 クオリティの高い創作で「ヴィラン」を描く危険性
 未だにレイシストの小説を下品に宣伝して喜んでいるような本邦からは羨ましい限りですが、本場ハリウッドの創作は長年にわたって試行錯誤と洗練を繰り返してきました。その結果、創作物のクオリティレベルは極めて高い水準を誇っています。

 ですが、そのような高水準は時として裏目に出ます。徹底的なリサーチと描写によって、まるで実在の人物のように描かれたジョーカーは、本当にその悪意を誰かを伝染させジョーカーとしてしまう危険性を孕んでいます。
 劇中に登場する喫煙シーンがかっこよければよいほど、タバコを吸ってみたいと思う人が多く出てくるのと同じ原理です。タバコであれば基本的には自分の健康を害するだけですが、ジョーカーはそうもいきません。

 クオリティを高くすればするほど、そのクオリティの高さゆえに「魅力的な悪役」は描けなくなっていくでしょう。その悪役が致死性の毒ガスのように、現実世界へ侵食してしまうからです。

 創作のレベルが高くなれば、本作のような悪役映画は作られなくなります。もしかしたらラストチャンスかもしれません。
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こんな時だからこそ「誰が」「誰を」殺してもいけないことを確認しなければならない

 京都市のアニメ制作会社「京都アニメーション」のスタジオで18日朝、放火とみられる火災が発生した。京都市消防局によると、同日夜までに33人の死亡が確認された。出火当時の建物内には約70人がいたという。
 NHKなどによると、亡くなった33人のうち、男性が12人、女性が20人で1人は性別が不明。さらに、35人が病院に搬送され、そのうち17人は重傷で、16人が入院して手当てを受けているという。
 朝日新聞によると、現場近くで確保された男は手足にやけどを負い、重体。消防当局は、1階で2人、2階で11人、3階から屋上にかけて20人の遺体が発見されたと話しているという。
 「京都アニメーション」に放火の疑い、死者33人に-BBC
  京アニのスタジオへの放火事件から数日経ちました。
 このタイミングであるからこそ、原則へ立ち返り、「誰が」「誰を」殺してもいけないということを確認する必要があります。

 首相による「選択的な」お悔やみ

 このようなことを考えた最大の原因は、この事件に対する安倍首相の反応にあります。重大な事件へ反応を見せた、という部分だけ切り取ると何の問題もないように見えてしまいますが、しかし安倍首相はこれまでにこのような反応を一切してこなかったことを忘れてはいけません。

 象徴的なのは相模原市の障害者施設で発生した大量殺人事件に対する反応である。この事件では、加害者が「安倍首相のためにやった」などと発言しているにもかかわらず、彼の反応は実に鈍いものでした。公の場で、差別的な動機による犯罪が決して許されるものではないことも確認せず、このような犯人の動機が自身の主義に反するということすら明言しない始末です。

 ほかにも、多数の死者を出し平成最悪と呼ばれた西日本豪雨の際には、有事対応を怠り私的な宴会に興じていたことも明らかになっています。この災害でも、少なくとも災害から数日以内にTwitterで声明を出すようなことはありませんでした。

 また、『度重なる在日コリアンへのヘイトクライムに政府は対処すべき』でも紹介したように、安倍首相の在任期間中に幾度となく在日コリアンへのヘイトクライムが発生していますが、そこでも首相は一切反応をしていません。
 私の批判に対して「事件の政治利用だ」という反応もありましたが、政治利用という言葉がしっくりくるのはむしろ、自身の中心的な支持層であるアニメオタクへ媚びるチャンスとみると、これまでの冷淡さが嘘のように素早い「お悔やみ」を発する首相の態度でしょう。

 このような、明らかに事件を政治利用してパフォーマンスを行い、支持者の歓心を引くようなふざけた真似をキチンと見抜き、ふざけるなと批判する程度のリテラシーは市民へ求められるものです。

 「誰が」死んでも問題だ
 もう1つ、この件でわざわざ原則を確認しなければならないという思いを抱いたのは、この事件の反応として「偉大な才能が……」というものが多く見られたからです。
 京都市伏見区のアニメ制作会社「京都アニメーション」の放火事件について、西村康稔官房副長官は19日の会見で「現時点で死者33人、負傷者35人と報告を受けている。多くのお悔やみの言葉を頂き、この会社がアニメ業界で国内外から高く評価されていると改めて実感した。多くの才能、人材が失われたことを本当に残念に思う」と述べた。
 「多くの才能、人材が失われた」京アニ放火で官房副長官-朝日新聞
 その典型的な反応は、記者会見で事件に言及した官房副長官の言葉「多くの才能、人材が失われたことを本当に残念に思う」にあります。
 確かに、偉大な才能が失われたことは残念なことでしょう。しかしこのような言説を聞くたびに、私はやはり相模原で起きた障害者の大量殺傷事件を思い起こさざるを得ません。

 あの事件では、死者を悼むどころか、加害者の思想へ共感を示す人々が相次いで見られました。直接的に事件へ賛同を示すことはなくとも、「殺していい人間といけない人間がいる」という、加害者の考え方をなぞる人は大勢います。

 例えば、事件の直後、維新の会から公認されていたこともある長谷川豊は加害者について「とっとと死刑にするなり、人体実験の対象にするなりすればいいだけだ、というのが私の意見です」と述べていますが、何らかの理由をつけて人を殺せという加害者を同じ主張をしていることに気づいていません(『長谷川豊なんかの発言をまともに聞いちゃだめだよ? 後編(相模原のやつ)』参照)。

 また、医療にかかわる事件では、延命治療されている患者を勝手に「不幸だ」と断定し「安楽死させてあげよう」などとおぞましいことを言い出す者がいたり(『大口病院事件 「延命されている人に楽しいことなんてない」は相模原事件の犯人と何が違う』参照)、医者が「医療費がかかる」などと考える必要のないことを出しゃばって透析を勝手に中止したりといったことをしています(『医師が「医療費が」などと出しゃばり患者を殺す不気味さ』参照)。

 いうまでもなく、どのような人命が失われたとしてもそれは悲劇なのです。この放火が京アニで起ころうが小学校で起ころうが、刑務所で起ころうが障害者施設で起ころうが悲劇であることには変わりないのです。この事件でことさら「才能」を持ち出す人はそれがわかっていません。

 犯人の国籍に意味があるか
 日本で重大事件が起こると、必ずと言っていいほど犯人の国籍探しのようなものが始まります。今回もそうでした。しかし、このような行為にはまったく意味がありません。

 たいていの場合、犯人が外国籍だという言説はデマなのですが、それを抜きにして、仮に犯人が外国籍だったとしても、そのことはほとんど情報を持たないからです。民族性なるものがあるとして、それが一人の極端な行動で理解できるわけがありません。仮に在日コリアンの一人が放火をしたことをもって在日コリアン全体を危険だというのであれば、その何百倍もの凶悪犯を輩出した日本人は地球上類を見ないほどのやばい民族であるということにならなければ筋が通りません。

 このような言説は、加害者の抱えていた問題、とりわけ社会的環境的な問題を「民族性」という内的な要素へ矮小化することによって、事件の原因を深く考えずに済まそうというものです。そのような言説がまかり通っていれば、早晩似たような事件が起こることになるでしょう。

 嘆かわしいのは、普段「オタクを犯罪者扱いするな」と意気軒昂な人々がこのような言説へ積極的に加担していることです。『「犯人はアニオタ」報道をなくすために』で述べましたが、自分たちがやってほしくないと言っていたことを自ら進んで行っているわけですから、「犯人はアニオタ」報道が減るはずもありません。


【記事評・下】「家族という病」を治す<七人の提言>(文藝春秋2019年8月号)

 前回『【記事評・上】「家族という病」を治す<七人の提言>(文藝春秋2019年8月号)』からの続きです。今回は引きこもり支援の専門家として活動している斎藤環氏と、ゲーム依存の専門家である樋口進氏の記事を取り上げます。

 前回取り上げた素人5人衆のページもこの人たちに割り当てればよかったんじゃないですかね。

 斎藤環『ひきこもりの「家庭内暴力」は止められる』
 斎藤氏の記事は、長年引きこもり支援にかかわってきた立場から、川崎の事例や元農水次官の事例と典型的なケースとの類似点、乖離点を論じており、非常に参考になります。

 例えば、川崎の事例では、引きこもりといいつつも外出することが多く、また引きこもりにみられやすい家庭内暴力も見られなかったことを指摘しています。氏の指摘では、家庭内暴力は「期待通り、思い通りにならない」フラストレーションから生じるものですが、川崎の事例のように家庭にいる家族が父母ではなく叔父叔母であると、父母よりも距離が遠いためにそもそも思い通りになることを期待せず、暴力に向かいにくかったのではないかと推測しています。逆に、そのことが外への暴力へ繋がった可能性もあるようですが。

 氏は、引きこもりが危険な存在であると言わないと同時に、まったく危険ではないと言うつもりもないとドライに論じます。そして、家庭内暴力に対しては毅然と対処し、場合によって警察に介入してもらうことも大切で、それがむしろ暴力を繰り返してしまう引きこもり当事者にとってもいいのだと指摘します。

 かつても、引きこもりという特性が注目された事件がありました。しかしそのような事例を見ても、また今回の事例を見ても、単に引きこもりである以上に特殊な環境を加害者が取り巻いていることが往々にしてあります。氏が主張するように、わかりやすい特徴に飛びつくのではなく、引きこもり対策は対策としてしっかりと考えていく必要があるでしょう。

 樋口進 我が子を「ゲーム依存」にしないために
 樋口氏の記事は少し毛色が違い、ゲーム依存について集中的に述べた文章になっています。これは元農水次官によって殺害された被害者がインターネットゲームに依存していたためでしょう。

 ゲーム依存は社会問題になりつつも、実態はまだよくわかっていない状態です。
 ゲーム依存がほかの依存症と違うのは、未成年者が7割ほどを占める低年齢化がみられることです。タバコやアルコールも使用開始年齢が低いと依存になりやすいと言いますが、年齢による制約の少ないゲームではその影響がもろに出るのでしょう。

 依存症は基本的に、脳内で快楽を司る報酬系がおかしくなることで起こります。ゲームなどの刺激を受け続けることで、報酬系が従来の刺激で満足しなくなり、もっと強い刺激を常に欲するようになるのです。

 言い方は悪くなりますが、ゲームというのはできるだけプレイヤーを依存させるように作られています。特に買い切り型ではないソーシャルゲームは、コンスタントにプレイヤーからなされる課金が基本的な収益であるため、できるだけ常にプレイしてもらおうとします。その結果が連続ログインボーナスや期間限定イベントといった施策に繋がっているのです。

 ゲーム依存の大きな特徴は、生活の優先順位の第一位がゲームになってしまうことです。現実社会でのトラブルからゲームにのめりこみ、ゲームにのめりこんだからまた現実社会でトラブルを起こすという悪循環が起こりえます。

 しかしながら、ゲーム依存はそれ自体が問題として認識されにくい面もあるのかもしれません。かつてテレビがゲーム依存を報じたときも、ネットの反応は「じゃあ仕事に依存してる人もいるだろ!」という屁理屈めいたものでした。自ら依存しているのと、周囲の環境から強いられているのは全く違う話なんですがね。

 ゲームをすべての悪者にするのは極端ですが、同時に、ネットにはびこるゲーム無謬論のような見方もまた極端です。ゲームにも悪い面は確かにあるので、それをしっかりと認めてうまく付き合っている必要があるでしょう。

 幸い、ゲーム依存は現実社会への価値を見つめなおし、ゲームより優先させるべきものをはっきりさせることで徐々に緩和させることができるようです。子供相手であれば、ゲーム時間を明確に決めるといったルールを定め、子供とよく話し合うことが肝心なようです。

 また、ゲーム依存の悪影響を鑑みれば、いずれタバコやアルコールと同じような規制も必要になってくるかもしれません。もちろん、規制はないほうがいいわけですから、まずはゲーム会社の自主規制によって、ゲーム依存を防いでいく必要があります。


【記事評・上】「家族という病」を治す<七人の提言>(文藝春秋2019年8月号)

 今回の記事評で取り上げるのは『文藝春秋』の8月号の特集です。
 この特集では、川崎での殺傷事件、そして連鎖するように発生した元農水次官の息子殺害事件についてのものです。

 まず突っ込みを入れたいのは、<七人の提言>と識者が何かを書いているような雰囲気を醸し出しつつ、実際には引きこもり支援をしている斎藤環氏とゲーム依存を専門としている樋口進氏を除けば素人もいいところです。まぁ、強いて言うなら特集の発端となったらしき、「一人で死ね」と発言した橋下徹氏は当事者だとしても7人のうち4人(佐藤優・古市憲寿・橘玲・三浦瑠璃)は犯罪についても引きこもりについても素人という有様です。

 この惨状はかつて、『川崎事件における週刊新潮の実名報道には正当性もない その1』『その2』で触れた週刊新潮による少年犯罪報道を彷彿とさせるものです。あのときは9名中甘く見積もっても6名が素人というざまで、いい加減それっぽいことを言うだけの素人に重大な問題を語らせるという報道の在り方を見直す必要があります。

 今回の記事評では、素人サイドの記事を上で、専門家サイドの記事を下で論じていきましょう。一緒に語るなんて専門家に対して無礼でしょうから。

 橋下徹『僕は元農水次官を責められない』
 特集の最初はこれです。氏はそもそも「一人で死ね」という発言が批判されていたわけですが、氏自身はなぜどうして批判されたのかあまり理解していないような議論運びになっています。
 報道の通り、5月28日(火)朝方、川崎市で多くの子どもが刺殺、刺傷される事件が発生した。
 現時点では被害状況の一部しか判明していないため、事実関係は明らかではないが、犯人らしき人物が亡くなったことも報道されている。
 それを受けてネット上では早速、犯人らしき人物への非難が殺到しており、なかには「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」などの強い表現も多く見受けられる。
 まず緊急で記事を配信している理由は、これらの言説をネット上で流布しないでいただきたいからだ。
 次の凶行を生まないためでもある。
 秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。
 要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
 類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
 「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。
 やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。
 川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい-ヤフーニュース
 そもそも、一人で死ねという発言が批判されたのは、それがいままさに苦しんでいる人を追い詰めるだけだからという理路がありました。

 橋下氏は記事で、優先順位の問題だ、死ぬなというのはきれいごとで、仮に死ぬとしても人の命を奪うなという規範を押し出すほうが優先だと主張しています。これは実際に重要なことをきれいごとと切り捨てることで、さも自分の主張が現実的であるように見せる氏のいつもの手法でしょう。

 しかしこの主張は、そもそもこのような事件は自殺と他殺が密接に関連しているので、自殺しないように働きかければ他殺もしないという点があっさり見過ごされています。誰かを殺させないようにしたいのであればやはり「死ぬな」というほうが「現実的」な対策なのであり、「一人で死ね」は逆効果というべきでしょう。

 三浦瑠璃『「一人で死んでくれ」は被害者の心の叫びだ』
 順番が前後しますが、「一人で死ね」発言を肯定している点で三浦氏の記事も関連させておきましょう。

 氏は、この発言は自然な感情であり、感情が完璧である必要はない、怒りの表明は健全だと主張しています。
 なるほど、確かに「この事件にかかわった人」から「一人で死ね」という発言が出るのはやむを得ないことでしょう。そう思う気持ちは当然です。

 ですが氏が見落としているのは、そのような発言をした人は、橋下氏と三浦氏を含めて、その大半が事件と何ら関係のない人だということです。
 事件で被害にあった人が怒るのは当然ですが、直接関係のない人が怒りを表明し、あまつさえほかのだれかを追い詰めるような発言をすることに何かメリットがあるでしょうか。幸いにも事件から距離がある我々だからこそ、わかりやすい怒りに捉われずに、事件の背景にあるものを掬い上げ論じるべきですし、少なくとも「スカッとするような本音」のようなものに引き寄せられることは避けなければいけません。

 ちなみに、古市憲寿氏の記事はネットのどこかで見たような議論の寄せ集めで、このタイミングで公開される記事としてはあまりにも面白みが欠ける一方特に問題がある感じでもないので割愛します。

 橘玲『「リベラル社会」が男たちを追い詰める』
 さて、こちらは本ブログでは『言ってはいけない 残酷すぎる真実』など(悪い意味で)お馴染みの人です。タイトルですでに怪しい感じがしますが、案の定な仕上がりです。

 氏は記事の中で、引きこもりに男性が多い理由を「男女の性愛の非対称性」とぶち上げ、進化心理学からそれを解き明かそうとします。
 『進化心理学は疑似科学である 【書評・上】進化心理学から考えるホモサピエンス』『それは反証可能性がないことの反論にならないよね? 【書評・下】進化心理学から考えるホモサピエンス』で指摘したように、進化心理学は疑似科学なのでこの時点で読む価値はなくなっていますが、とりあえず突っ込みは入れておきましょう。

 氏は「①生物の最も合理的な性愛の形態は乱交である」→「②だが人間社会は一夫一妻制にして男性に女性を分配するようにした」→「③しかし現代の「リベラル」な社会はその制約を嫌い否定していった」という理論で、タイトルにあるような『「リベラル社会」が男たちを追い詰める』という主張を導いています。

 まず①の主張は進化心理学、つまり疑似科学によるものなのですでにその時点で理論が崩壊しています。②はまぁその通りだとしても、③もかなり怪しいものがあります。
 確かに自由を重んじる社会は不倫を批判するような「道徳的な制約」を嫌う傾向があります。しかしそれはあくまで、「個々人が良しとしているなら外野が口を出すことじゃないよね」という話であって、社会全体が一夫一妻制を否定しているわけでは断じてありません。むしろ、配偶者の意思をないがしろにするタイプの不貞には厳しくなっているといってもいいでしょう。

 氏は、このような性愛の競争からドロップアウトした男性が、日本では引きこもりになると主張しています。しかしこれは、引きこもりになってしまう様々な原因を恋愛に矮小化する危険な考え方といえるでしょう。この点はすでに『大量殺人の原因は「セックス不足」ではない 「キモくて金がないおっさん」論のまやかし』で指摘しています。

 例えば、引きこもりの原因の1つは対人関係での不適応でしょうが、この不適応が起こる背景の1つに「自分のセクシャリティ(同性愛やトランスジェンダーなど)を否定される」といったものがある人がいるだろうということは想像に難くないわけですが、こういう恋愛(異性愛が自明視されている)にすべてを矮小化する議論ではこういう人は救えません。

 佐藤優『メディアや世論にも病理がある』
 さて、最後はこの人です。Twitterでも書いてたんですけど、そもそもこの人誰なんでしょうか。まあいいや。

 さて、氏の主張は「メディアが大雑把な分析を垂れ流している」というもので、それ自体はうなずけるところもあるのですが、大問題があります。それは大雑把な分析の代表例として、大量殺人の動機としてよく知られる「拡大自殺」を「反証不可能な仮説」と断じていることです。

 氏は拡大自殺を「いかなる実験や観測によっても反証されえない」としていますが、これは大きな誤りです。例えば池田小で殺傷事件を起こした加害者はその言動から、多かれ少なかれ拡大自殺と呼べる動機があったことはわかります。またバージニア理工科大学での銃乱射事件など国外のケースでも、残された動画などから拡大自殺と呼べる動機が内包されていたことはわかります。

 もちろん、加害者死亡で終わった今回の事件にもそれが当てはまるのかはわかりませんし、加害者自身の言葉が本心を反映しているとは限りませんが、しかし「反証不可能」というのは明白な誤りというべきでしょう。

 七人識者を集めたと自賛しながら、実際はそれらしいことを言うだけの素人で大半を埋めるという数合わせはもうやめなければいけません。

大量殺人の原因は「セックス不足」ではない 「キモくて金がないおっさん」論のまやかし

 28日川崎市でスクールバスを待っていた小学生らが包丁で刺され19人が死傷した事件で、容疑者の男が走りながら包丁を振り回し手当たりしだいに刺す様子がバスのドライブレコーダーに記録されていたことが捜査関係者への取材でわかりました。警察は、初めから大勢に危害を加える目的だったとみて調べています。
 28日の朝、川崎市多摩区の路上でスクールバスを待っていた小学生や大人合わせて19人が包丁で刺されるなどして、いずれも都内に住む小学6年生の栗林華子さん(11)と、外務省職員の小山智史さん(39)が死亡し、17人が重軽傷を負いました。
 走りながら手当たりしだいに バスのドライブレコーダーに記録-NHN NEWS WEB
 川崎で痛ましい事件が起こりました。このような耳目を引く事件に関しては、常にその原因が議論されます。 

 今回の事件にどれくらい当てはまるかは不明ですが、大量殺人一般では主に、拡大した自殺と社会への不満が原因であるとされることが多いです。アメリカのスクールシューティング、銃乱射事件に典型的ですが、自分の不満を社会のせいだととらえ、特定の属性の人々を激しく攻撃することで復讐をしようと考えるのです。
 標的になったのがスクールバスであることや、一部報道の内容を合わせて考えると、大阪で起きた池田小事件と似たような背景があるのかなと感じます。

 「無敵の人」という言葉
 さて、こういう事件に際して近年よく聞かれるようになったのは「無敵の人」という言葉です。これは犯罪学的に考えれば、社会的絆など犯罪の抑制に役立つ資本をほとんど持っていないような「持たざる者」の犯行であることを表現しているのでしょう。

 しかしながら、このような「何も持っていない者が犯行に走る」という見方はかなり不正確です。あくまで大量殺人一般の原因を当てはめて考えれば、何かを持っていようが持っていまいが、ある特定の対象に強い憎悪を抱けば事件は起こりえます。強い憎悪が、自分の持っている物の価値を正しく評価することを妨げ、まるで自分が何も持っていないかのように、あるいは自分に値するものを得ていないかのように感じてしまうからでしょうか。

 「無敵の人」という言葉が市民権を得たのは『黒子のバスケ』作者への脅迫事件からですが、この言葉は実際には秋葉原で発生した無差別殺傷事件の犯人を指して使われることが多いような印象です。しかし、あの事件の犯人は職もあり、恋人がいたこともあったという、いわゆる「無敵の人」とは全然違う特徴を持った人物であったことはすでに分かっています。「無敵の人」という言葉はあくまで、理解しがたい(ように思える)犯行をわかりやすく理解するための枠組みに過ぎず、そういう意味では「犯人はオタク」と大差ありません。
 ※参考 「犯人はアニオタ」報道をなくすために

 原因はセックス不足?

 もう1つ、「無敵の人」原因論と関係して最近よく聞くのは、「キモくて金のないおっさん」が差別され、虐げられているから事件を起こすんだという形式のものです。

 実際には、「キモくて金のないおっさん」論というのは形を変えた「女尊男卑」論であり、事実関係から誤りがあります。この議論には、「キモくて金のないおっさん」の待遇を論じる際に比較対象とされるのがなぜか、「キモくもないし金もある」女性だったり、当然庇護対象として見られるべき子供だったりするという論理的転倒があります。もし「キモくて金のないおっさん」が「おっさん」ゆえに虐げられていると論じるのであれば、その比較対象はあくまで「キモくて金のないおばさん」でなければならないでしょう。

 同時に、この「キモくて金のないおっさん」論というのは、特に中年男性にとって体のいい脅し文句となっている点にも注目すべきです。端的に言えば、「俺たちが望むものを差し出さないと誰彼かまわず殺すぞ!」と言っているわけです。このたび、某「風刺」漫画家が「悪い女をレイプしろ!」と言って炎上しましたが、論理構造としてはほぼ一緒です。もし「キモくて金のないおっさん」が嫌厭される事実があるとすれば、この暴力性が最大の原因というべきでしょう。

 そしてわかりやすいのが、彼らがまず第一に差し出せと言及しているのが「金」ではなく「セックス」であるという点でしょう。もちろん、女性にはセックスの相手を選ぶ自由がありますから、「キモくて金のないおっさん」の上に女性へ敬意も払えない人が選ばれる確率は極小なわけですけど。

 ただし、このくだらない「キモくて金のないおっさん」論を笑ってばかりもいられません。この議論の問題はまさに、「俺たちが手に入れられていないもの」の第一として「セックス」を持ち出しているという点なのです。

 こういうとき、たいていの場合セックスというのは女性との人間関係の極致にあるものとして想定されています。「モテる」こと、つまり常に自分の周りに人(というか女性)が存在しているという「人間関係が豊かな状態」を示す最大の指標として「セックス」が位置付けられているのだと思います。
 まぁ、明らかに女性をセックスの道具としてしかみなさないような態度と矛盾しているような気もしますが、彼らの中では女性を人として扱うことと道具として扱うことの区別がないので矛盾はないんじゃないでしょうか。

 こういう考え方は、前に『犯罪学者、恋愛工学とやらを分析する 恋愛工学の思想編』で論じたことと被っています。本来、(女性との)人間関係の最高到達点は「セックス」に限らないはずであるのに、多様な関係の在り方を無視して「セックスできなければ意味がない」かのように論じる議論の在り方には問題があります。

 そして、このような議論は今回のような大量殺人の原因を明らかにし事件を防ぐどころか、むしろ「インセル」的な動機のある犯罪を誘発することにつながるでしょう。
 先ほど、私は大量殺人の原因を「恨みによって持っているものの価値がわからなくなる」と論じました。犯罪学は、守るべきものが増えて犯罪を犯すハードルが上がると犯罪が抑制されることを明らかにしてきましたが、それはあくまで、その人自身が自分の持っているものに価値を見出せればの話でしょう。どれだけ得難いものを持っていたとしても、当人がそれに価値を感じていないなら持っていないのも同じです。

 人間関係の最高到達点をセックスのみに限定する考え方は、裏を返せばセックスに至らない人間関係の価値を認めない思想です。実際には、セックスに至らずとも得難い関係はあるにもかかわらずです。そうやって「価値あるもの」の範囲を狭める考え方を真に受けてしまえば、自分が持っているものの価値を見出すことができず、「俺はセックスできない」という喪失感だけが募り恨みを増すということになるでしょう。

 このような事件を防ぐためにできることがあるとすれば、最新技術を用いた目新しい対策でもなく、ましてや「キモくて金のないおっさん」に女性をあてがうことでもなく、結局は色々な生き方に価値を見出していくことくらいでしょう。

「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮

 約100人が死傷したニュージーランド・クライストチャーチのモスク(イスラム教礼拝所)銃撃事件を受けて、ジャシンダ・アーダーン首相は19日、銃撃犯の名前を今後一切口にしないと誓った。
 アーダーン首相は議会で、「男はこのテロ行為を通じて色々なことを手に入れようとした。そのひとつが、悪名だ。だからこそ、私は今後一切、この男の名前を口にしない」と、気持ちをこめて演説した。
「皆さんは、大勢の命を奪った男の名前ではなく、命を失った大勢の人たちの名前を語ってください。男はテロリストで、犯罪者で、過激派だ。私が言及するとき、あの男は無名のままで終る」
 ニュージーランド首相、銃撃犯の名前は今後一切口にしないと誓う-BBC
 この件です。最初はヴォルデモートかよと思いましたが、そこにはきちんとした背景がありました。
 ちなみに、中学時代から犯罪学に傾倒していた私ですが、不勉強ながらこのサイトの存在は知りませんでした。その理由は次回以降の記事で書くつもりですが、ともかく。ちなみにここで述べられているマルク・レピンはカナダはモントリオール理工科大学で女性を中心に殺害した大量殺人犯です。

 レピンの記事で岸田氏が指摘するように、大量殺人犯にせよ連続殺人犯にせよ、自身をひとかどの人物として位置づけ、まるで大それたことをなしたかのようにふるまう傾向というのはある程度存在すると思います。そういう背景があればこそ、NZ首相のような、殺人犯に名声を与えない対処は実に的確で、尊敬に値します。この点は『明らかなヘイトクライムに「差別はダメ」とすらいえない本邦の首相』でも述べましたが、このようなリーダーを持てたNZ市民の幸運はいささか羨ましくも思います。

 殺人犯に深遠なものを見出そうとする風潮
 一方、やはり比べてしまうのは本邦の状況でしょうか。それこそ上で紹介した前回の記事でも触れたことですが、相模原の事件では犯人の名前が大々的に実名報道された一方、被害者の名前は障碍者であることを理由に伏せられました(『なぜ障害者の被害者は実名報道されないのか』参照)。被害者の個人的なストーリーへ焦点を当てた報道はプライバシーの侵害を招きやすく、とりわけ本邦のような報道姿勢の国で軽々に被害者の名前を語りましょうとは言えない側面があるのですが、少なくとも加害者のストーリーが盛んに報じられる一方で被害者が透明化されてしまうという非対称性はあまりよろしくないでしょう。

 そして最近も、togetterのまとめにあるように『【追記あり】やまゆり園の犯人の主張を正論だと「感想を述べる」人』がいるわけです。そもそもこの事件自体、「生産性のない人を生かすな」という日本社会に蔓延する思想を体現した事件であり、その後も『大口病院事件 「延命されている人に楽しいことなんてない」は相模原事件の犯人と何が違う』や『医師が「医療費が」などと出しゃばり患者を殺す不気味さ』で述べたように類似する反応が相次いでいるわけですが。

 もちろん、本邦に限らないのですが、こういう大きな事件を起こした犯人に深遠なものを感じてしまうのはある種、人の性のようなところはあるようです。日本においては宮台真司をはじめとする「評論家もどき」たちが、酒鬼薔薇の言説から日本の若者一般に通じる何かをひねり出そうという無謀を試みているわけですし(『【書評】「脱社会化」と少年犯罪』参照)、また重大犯罪で有罪を受けた受刑者が「真の更生論」を論ずるという本もあるわけです(美達大和の『死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張』。内容については『【書評】凶悪犯罪者こそ更生します』を参照)。

 アメリカに関しても、凶悪犯罪者のインタビューを通してプロファイル技術の確立を試みました。まぁ、これはあくまでプロファイラーの解釈を挟むことなので、犯罪者自身の言葉を丸っと信じてしまうのとはちょっと違うのですが。しかし凶悪犯に推理をさせるという形式の元祖ともいえる『羊たちの沈黙』はこの過程をモデルにしていますし。

 犯罪者は犯罪を知っているか
 こういう風潮の根底にあるのは、あれほど大きなことをしたのだからそこには何か大きな哲学めいたものがあるだろうという推測と、犯罪者は当事者なのだから犯罪に詳しいだろうという素朴な期待があると考えられます。しかしそれは両方とも、誤りです。そもそも大きな哲学めいた信念があるならば犯罪なんて犯しませんし、当事者が詳しいとも限りません。岡目八目というか、むしろ一歩引いた第三者のほうがよくわかるということのほうが頻繁にあります。その第三者が、体系的にその現象を研究している研究者ならなおさらです。

 そういえば『【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)』の時にも似たようなことを書きましたが、こと報道に関しては、加害者の「真意」というか、そういったものを過大評価して論じがちな側面があるように思われます。しかし実際は、そうとは限りません。そうでないことのほうが多いでしょう。

 犯罪者の言動に、むやみに深遠なものを見出そうとする姿勢は、そのまま犯罪者の犯罪行為の肯定、そこまでいかなかったとしても美化へつながりかねない行為です。そういう姿勢は、「馬鹿なあいつらにはわからないだろうが、俺には全てわかっている」という宮台真司的なキャラクターを演じるのには便利ですが、物事の本質をあっさり見誤ります。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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