九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

死刑

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犯罪被害者支援弁護士フォーラムの死刑賛成論は「とてもつまらない」

 さて、結構前になりますが、『【記事評】今のままでは「殺され損」 被害者遺族が待ち望む「代執行制度」(週刊新潮12月27日号)』内で犯罪被害者支援弁護士フォーラムという組織について取り上げました。
 このフォーラムは犯罪被害者支援をうたっており、弁護士としては珍しく死刑制度にも賛成を表明しています。しかし、
 さて、話は本筋から逸れますが、記事中では犯罪被害者支援弁護士フォーラムなる組織の弁護士がコメントを寄せていました。そのなかでは「被害者の思いを考えれば少年犯罪の実名報道を求めたり、死刑を求めるのは当然」という趣旨のコメントをしていました。弁護士とは思えない発言であったので気になり調べてみました。

 まず本ブログでは、『日弁連「死刑廃止宣言」についてのあれこれ』と『「死刑廃止派は家族が殺されても反対できるのか」という人へ あるいは遺族感情と刑罰の関係について』でこのフォーラムを取り上げています。両方とも日弁連がかつて出した死刑廃止を求める声明に関してであり、フォーラムはこれへ反対の立場ですが、弁護士という立場で死刑賛成なのだから有象無象の死刑賛成派とは違って少しは骨のある議論が展開されているかと思いきや、思いっきりその有象無象をコピペしたようなレベルの議論だったのでがっくりきた印象でした。

 公式サイトを見ると、昨年度行われた死刑判決に関する意見書も出していますが、これも弁護士が書いたとは到底思えないほどレベルの低い、ありていに言えば死刑賛成派によって使いつくされ反対派によって否定され切った論理であるので、これはまた新しく記事を立てて論じておこうと思います。
 と前回の記事で述べたように、その理由は、誤解を恐れずに言えば「つまらない」ものでした。

 私は死刑廃止派ですが、しかし死刑賛成論もいろいろと探っています。質のいい賛成論は反対論をブラッシュアップするのにも役立ちますし、何よりコピペレベルの議論にはいい加減飽き飽きしており、「こういう考え方もあるのか」という驚きも欲しいところでした。
 なので弁護士が死刑賛成論をぶち上げていると知った時には期待したのですが、しかし実態は死刑賛成論の中でも極めてレベルの低い程度のものでしかありませんでした。これには九段さんもがっかり。

 では実際の中身を見ていきましょう。
 フォーラムは死刑執行がなされるたびに声明を発表しています。内容自体はそれぞれで大きな違いがないので、基本的には最新の声明である2018年12月27日の声明、そしてオウム関連犯罪の死刑執行がなされた2018年7月26日の声明に依拠します。

 基本的な論点は以下の点です。
・再審請求は死刑を回避する理由にならない
・死刑制度を廃止した国の治安のほうが悪い
・世論は死刑制度に賛成している
・被害者の気持ちを考えろ/原因究明を理由に回避するな

 再審請求中でも殺せ
 一部には、再審請求中の執行を非難する声もあるようですが、再審請求中であっても執行を停止しなければならないという法の規定はありません。また仮に再審請求中には執行しないとすれば、再審請求が死刑囚の延命のために濫用される恐れがあります。
 死刑執行支持に関する声明
 最初の論点にして最大の論点は、フォーラムが再審請求中の死刑を肯定している点です。これは弁護士としてあるまじき態度というべきでしょう。
 もちろん、死刑囚の中には時間稼ぎ目的で再審請求を行うものもいるでしょう。しかし、再審請求は十全な裁判を受けるための権利であり、これを否定することは直ちに人権侵害につながる可能性のあるものです。再審請求中でも死刑を執行できるとすれば、最悪の場合、冤罪であることが濃厚な事例で検察の失態を覆い隠すために駆け足的に執行してしまうという事例も考えられるでしょう。

 しかも再審請求中の執行を肯定する根拠が「法の規定がないから」というのはあまりにもレベルが低い。法に書いてなければ何をやってもいいなどという態度をとる組織が、人権擁護を語るべきではないでしょう。

 犯罪被害者支援の弁護士なのに犯罪に無知すぎる
 先日、先に行われたオウム事件死刑囚7名の死刑執行を受けて、一部の諸外国から我が国に批判があり、また、国内の一部の団体も、死刑制度は世界の潮流にあらがう暴挙だとの批判がありました。確かに、我が国には、民主主義社会ですから、国内には様々な意見があって当たり前だと思います。
 しかし、死刑制度は、その国の司法制度の根幹に関わる問題であり、その国の宗教観や文化に関わることですから、我が国が決めることであり、諸外国から干渉されることではありません。諸外国が、わが国の治安に責任を負ってくれるとでも言うのでしょうか。しかも、その「諸外国」はわが国よりも治安が悪いのです。
 死刑執行に関する声明
 2つ目はこの点です。私が「コピペレベル」といったのは主にこの点と次の点によるものです。
 まず死刑制度が人権問題であるという視点が完全に抜けています。宗教観や文化も大事でしょうが、近代国家であれば人権が最優先事項であり、わが国が決めることなどという理由は人権を無視することはできません。
 加えて、『その「諸外国」はわが国よりも治安が悪い』という物言いは犯罪そのものへの無知を露呈しています。当然、社会全体の犯罪件数は多種多様な要因に影響を受けるものであり、単純に死刑の有無と件数を比較するような雑な議論では語れません。

 世論は死刑制度に賛成している、それがどうした
 内閣府の調査では、我が国では国民の約86%という大多数の人が死刑制度に賛成しています。我が国に意見する一部の諸外国に横行している現場射殺が我が国ではほとんどなく、たとえ凶悪犯人であっても、できるだけ生かして逮捕して言い分を聞き、厳しい司法手続きを経た上で、真にやむを得ない場合だけを死刑にしているからこそ、それだけ多くの国民の支持を得ているのでないでしょうか。オウム事件の死刑囚6名に対する執行は、こうした国民世論を踏まえたものです。
 死刑執行に関する声明
 世論調査が死刑制度に関して賛成を「やむを得ない」、反対を「廃止すべきである」という均衡を保っていない選択肢を使用していることが批判されています。そのような批判を無視して世論調査の割合を根拠にすることは、死刑制度賛成を声高に主張しながらこの問題で基本的に論じられていることを把握していないことを示唆しています。
 というかそもそも、上述のように死刑制度は人権問題であるので、世論が支持していることは制度維持の根拠にはなりません。

 加えて、現場射殺の問題も述べていますが、死刑の代わりに射殺がされているという事実はありません(「死刑廃止国は死刑の代わりに射殺している」のは本当か参照)。日本で現場射殺が少ないのは、単に犯人が強力な凶器を所持している可能性が低いためでしょう。また射殺は問題視する文脈で制圧による圧死が触れられていないのも疑問です。
 実際には、警官による過剰な暴力を用いた制圧という問題を論じているのではなく、現場射殺の問題を死刑議論に利用できるから論じているだけでしょう。

 被害者の気持ちは死刑支持の理由にならず
 そして、何より、大切な家族の命を奪われた犯罪被害者の遺族の心情を考えれば、特定の価値感だけで、死刑執行を軽々に批判すべきではありません。刑事司法は、加害者のためにも、また被害者ためにも、全ての国民のためにあるはずです。生きて償うという加害者側の勝手な都合だけで、被害者側の心情を踏みにじることには賛成できません。
 死刑執行に関する声明
 最後です。
 もし仮に、被害者遺族の心情を考えて死刑にすべきという主張が正当性を持つのであれば、死刑にしてほしくないという遺族の心情もまた同程度に考えるべきであり、そういう犯罪者は死刑にすべきではないという話にもなります。それはつまり、被害者遺族の心情で刑罰の重さが決まるということであり、量刑の公平性を著しく損ないます。

 本来、刑罰の多寡はその行為によって決められるべきであり、遺族の心情で左右されてはなりません。もし心情で左右されるのならば、犯人を恨む遺族が多い場合には極刑になり、天涯孤独の被害者はそういう遺族もいないので極刑にならないという不公平も生じます。

 このような論点は、死刑廃止論ではすでに出尽くしたもの、反論されつくしたものであるはずです。ゆえに2018年の時点においても未だにこのような主張を声明として発表するフォーラムの死刑賛成論は、コピペのようなレベルでしかないのです。

【書評】死刑囚最後の日

 今回の書評は珍しく小説です。ヴィクトル・ユゴーの代表作である本書。作者は『レ・ミゼラブル』の人と言ったらわかりやすいですかね。『レ・ミゼラブル』でもそうだったのですが、著者は死刑であるとか犯罪者の悲哀のようなものを中心的なテーマとして小説を書きあげることも多かったようです。

 1932年の死刑廃止論
 さて、本書が初めて出版されたのは1892年。出版当初から賛否両論あったようで、ユゴーはその後1932年に改めて長い序文を足しています。ちなみにそれ以前に、ベッカリーアが『犯罪と刑罰』を記したのが1764年という時期です。ヨーロッパにおける死刑廃止議論はそれほど古くからあったわけです。

 さて、ユゴーはその序文の中で、死刑に反対すべき理由を3つ、死刑賛成の根拠に対応するかたちで述べています。

 1つは、犯罪者を社会より排除しなければならないという理由。これは終身刑で事足りると一蹴します。

 2つ目は報復しなければならないという理由。しかしユゴーは、復讐は個人がすべきであり、裁きは神の領域であると否定します。

 最後は見せしめが必要であるからという理由。しかし本書のストーリーでもそうであったように、当時の死刑は見せしめとして機能しておらず、ただのエンターテインメントとなっていることはユゴーの言葉を借りるまでもなく明らかでしょう。

 宗教的な意味合いの強い2つ目の理由を除けば、おおむね現代の死刑制度議論へそのまま援用できる話になっているでしょう。排除は終身刑で足りるというのは純然たる事実ですし、死刑が見せしめとしての機能を持たないというのは歴史と犯罪学の知見が明らかにしてきたことです。効果があればやっていいという話でもないでしょうけど。

 裏を返せば、死刑議論は1932年の時点から一向に前へ進んでおらず、死刑維持派は復讐の点を除けば32年にすでにユゴーに論破されていた主張を機械的に繰り返しているにすぎないというべきでしょう。

 しかし優れた政治家であったユゴーを擁したフランスですら、死刑を廃止するのに長い時間を必要としました。ユゴーは19世紀には死刑を廃止できると考えているようでしたが、実際には1981年になってようやく廃止することができました。
 日本はまだです。

安倍首相は「個人的にどう思うか」と「システムとしてどうあるべきか」の区別がついていないのではないか

 「パパは憲法違反なの?」の根拠は何か。
 衆議院予算委員会では、憲法9条に自衛隊を明記する必要性をめぐり、安倍首相と野党議員が激論を交わした。
 立憲民主党・本多平直衆院議員「(安倍首相が)下関の講演で、『お父さん憲法違反なの』と言われて、自衛官の息子さんが涙を浮かべていたという話をしているが、これは実話なのか」
 安倍首相「実話であります」、「防衛省から聞いた話であります」
 本多衆院議員「わたしの実感と違うんですよ。わたしは、小学校中学校とずっと自衛隊の駐屯地のそばで育ち、たくさん自衛官の息子さんがいて、こんな話が出たことがないんですよ」
 安倍首相「本多議員は、わたしの言ったことはうそだと言っているんでしょ。それは非常に無礼な話ですよ。うそだって言ってるんでしょ、あなたは」、「本当だったらどうするんですか、これ」
 安倍首相vs野党 憲法と自衛隊で激論 「パパは憲法違反?」めぐり-FNN PRIME
 この件です。 
 そもそもこの件それ自体、安倍首相が人伝に聞いただけの話をさも事実であるかのように語り、それを突っ込まれると逆切れをするという首相の素質を疑わせるやり取りなのですが、今回はそれはさておきます。

 今回取り上げるのは、それ以前に「仮にその話が本当だったとして、改憲すべきという話になるのか」という点です。

 個人的にどう思うかと、システムとしてどうあるべきかは別
 「自衛隊がかわいそうだから改憲」などと揶揄されていますが、もしこの安倍首相の話が事実だったとして、それが改憲をする根拠になるでしょうか。

 確かに、自衛隊に限らずですが、父親の職業が原因で子供が辛い思いをするのだとすれば可哀想でしょう。しかしそれはあくまで「可哀想」という極めて情緒的な反応であって、それはどうシステムとしてあるべきなのかという議論には繋がりません。

 例えば子供が可哀想だとして、それは自衛隊を憲法へ書き込めば解決する問題なのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。子供同士のいじめの理由というのはあってないようなもので、1つの理由を潰しても別の理由が出てくるでしょう。

 またそもそもを考えれば、自衛隊を憲法に書き込むかどうかは、子供が云々という話で決めていいものではありません。憲法を変えれば多岐に影響が及ぶでしょう。本来はそのあらゆる面を考慮して考えるべきであって、子供が可哀想だからなどという理由は根拠にはなりえません。

 このような、個人的な情緒と全体のシステムの話の混同は別に安倍首相に限ったことではありません。例えば麻生財務相が景気回復の実感がないことを「感性の問題」と述べたことも問題となりましたが、これも個人的な情緒の問題と社会全体の話の区別がついていない例でしょう。当然のことですが、景気回復が事実かどうかは感性と関係なくデータから判断されることです。そのデータが捏造だったという話なんですけど。

 死刑でもよくある話
 なぜいきなりこのような記事を書いたというと、今後連続して書こうと思っている死刑の話と絡むからです。

 死刑廃止を唱える人が必ず言われる反論の1つに、「被害者遺族のことを考えているのか」とか「お前の家族が殺されたらどうするんだ」というものがあります。しかしこのような反論は、そもそも反論としての体をなしていません。

 なぜならば、犯罪者個人をどう思うのかと、システムとして死刑をどうするのかという話は全く別の問題だからです。家族を殺した犯罪者を憎み、殺したいと思うのはある種自然な感情でしょう。それ自体は誰にも否定できません。しかし死刑というのはその恨みのある犯罪者個人以外の、犯罪者すべてに適応される制度なので、その制度をおく理由もまた一般に広く適用できるものでなければなりません。

 つまり犯罪者個人に対する復讐心は、死刑制度の維持理由とはならないのです。そういう人はあまり多くないかもしれませんが、しかし仮に、家族を殺した犯罪者に対して極刑を望みつつ、制度としての死刑を廃止すべきだと主張する人がいたとしても、そこには何の矛盾もありません。前者はあくまで個人的な恨みの話であり、後者は社会の制度の話で、全然違う問題なのです。

【記事評】今のままでは「殺され損」 被害者遺族が待ち望む「代執行制度」(週刊新潮2018年12月27日号)

 さて、年頭所感で言っていたように、雑誌記事へ焦点を当てて論評していくコーナーである記事評を今回から始めていきます。最初は週刊新潮の12月27日号に掲載されたこちらの記事。随分古いな?と思われるでしょうが、私も最近、ある用事で銀行へ行ったとき待ち時間においてあった雑誌をパラパラめくってはじめて気づいたものなので、発売からここで取り上げるまでにずいぶん時間が空いてしまったというわけです。

 「殺され損」という扇情的なフレーズと発表媒体が時折少年犯罪事件で容疑者の実名報道を行う程度の人権意識しかない週刊新潮であるという点(あとそのときちょっと疲れていたし)から、「代執行制度」というフレーズを見たときには「被害者が死刑執行を……週刊新潮もそこまで主張するようになったのか」と思ってしまいましたがそうではなく、要するに刑事事件被害者への加害者からの損害賠償を、国が被害者の代わりに取り立てたり立て替えたりする制度が必要ではないか、という議論です。

 犯罪被害者の苦境
 犯罪被害者やその遺族は、そうなったその瞬間から様々な苦境に立たされますが、その1つが加害者からの損害賠償を回収することが困難であるという点です。現在は刑事裁判の証拠をそのまま民事へ流用する制度などができ、損害賠償請求がより簡便になりましたが、一方で無事に損害賠償を請求できても実際に払ってもらえないという事態が頻発しています。

 実際のところ、犯罪加害者が人一人の一生を償えるほどお金を持っているかといえばそんなことはなく、また真面目に支払う可能性も非常に少ないのが現状です。しかも刑事事件では時効が撤廃された罪種も多い一方で、民事の時効は未だ有効であり、有罪になっても損害賠償を請求できない事例も存在しています。また一旦民事で勝訴しても支払いを定期的に催促しなければ結局時効で支払い義務が消失してしまい、いつまでたっても手間がかかるという事態が起こっています。

 そうした事態を解消し、被害者の権利を擁護するためにも、代執行制度は必要となるでしょう。被害者の傷はお金で解決できるものではないかもしれませんが、一方でお金さえあれば解消できる問題も多くあり、そのためには十分な補償が速やかに支払われる制度を整えるのは政府の義務です。

 その責任はどこまで
 一方で、現状の厳罰主義的風潮の中代執行制度を法制化することには、一定の危険が伴います。記事中にもあるように、代執行制度では加害者本人ではなく家族の資産まで差し押さえて賠償へ当てるというアイデアがあるようです。未成年であればいざ知らず、成人である加害者の行為の賠償に関して家族が連帯責任を負うべきでしょうか。もし実際にそのようなことになれば、実質的に連座制の復活となりかねません。ただでさえ孤立し問題を抱え込むことになる加害者家族に、経済的な問題を加えて追い詰めることは避けなければなりません。

 また家族にも賠償の責任を問うとなれば、この責任をどこまで広げるかという問題にも行き当たります。配偶者や子供までなのか、親兄弟を含むのか、それよりも広い親族に伸びるのか。重罪の損害賠償はたとえ賠償をする人数を増やしたところで被り切れる金額ではないでしょう。そうなれば、1つの犯罪でドミノ倒しのように周囲の人まで経済的な問題を抱えることとなります。加害者家族はより風当たりが厳しくなりますし、社会的なつながりが犯罪を抑止するという従来の知見によって立つならば、この連座制は治安対策としては逆行しています。

 責任が及ぶ範囲が広がれば犯罪をためらうから、犯罪の抑止につながるという主張もあるでしょうが、それはありえないと断言できます。そもそも犯罪者は、捕まらないと思っているから犯罪を犯すのですから。

 犯罪被害者支援弁護士フォーラム?
 さて、話は本筋から逸れますが、記事中では犯罪被害者支援弁護士フォーラムなる組織の弁護士がコメントを寄せていました。そのなかでは「被害者の思いを考えれば少年犯罪の実名報道を求めたり、死刑を求めるのは当然」という趣旨のコメントをしていました。弁護士とは思えない発言であったので気になり調べてみました。

 まず本ブログでは、『日弁連「死刑廃止宣言」についてのあれこれ』と『「死刑廃止派は家族が殺されても反対できるのか」という人へ あるいは遺族感情と刑罰の関係について』でこのフォーラムを取り上げています。両方とも日弁連がかつて出した死刑廃止を求める声明に関してであり、フォーラムはこれへ反対の立場ですが、弁護士という立場で死刑賛成なのだから有象無象の死刑賛成派とは違って少しは骨のある議論が展開されているかと思いきや、思いっきりその有象無象をコピペしたようなレベルの議論だったのでがっくりきた印象でした。

 公式サイトを見ると、昨年度行われた死刑判決に関する意見書も出していますが、これも弁護士が書いたとは到底思えないほどレベルの低い、ありていに言えば死刑賛成派によって使いつくされ反対派によって否定され切った論理であるので、これはまた新しく記事を立てて論じておこうと思います。

「綾瀬コンクリート詰め殺人」報道はなぜ「共産党員家族」にこだわるのか

前回『海外における買春がなぜ批判されるべきなのか』で触れた週刊新潮の報道、もう1つのクソみたいな記事は『【綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人】間違いだらけの「元少年」の再犯議論』でも触れた綾瀬コンクリート詰め殺人に関するものでした。見出しは『新聞・テレビが報じない「少年法」の敗北 綾瀬「女子高生コンクリ詰め殺人」の元少年が「殺人未遂」で逮捕された』。内容自体はその記事で言及されていたものと大差ないので文字通り紙幅の無駄だったわけですが、気になる点がいくつかありました。

 中身はないけど言及され続ける「共産党員一家」
 本誌記事においても、ネット記事の『綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人の“元少年”が、今度は殺人未遂で逮捕されていた!』においても必ず言及され続けているのが、この事件の容疑者の両親が共産党員であったことです。とはいっても、本当に申し訳程度に触れられているだけであり、共産党員に絡んだ記述はネット記事における『警察への対応も筋金入りでした。家宅捜索も弁護士立ち会いの下で認めるという具合で、そのために捜査が遅れたと言われたほどでした』程度です。それに関しても単に被疑者としての権利を行使したというだけのものであり、少々法律に詳しかったんだろうなくらいの話です。
 ではなぜ、事件を語るうえで大した要素ではない「両親が共産党員」という情報が今に至るまで登場するのでしょうか。これは推測するしかありませんが、記事の筆者がこの情報を犯罪者を犯罪者たらしめる決定的な要素だと考えていたからだろうと思われます。あるいは、こいつは叩いてもいい奴だぞと読者に対して示すシグナルであったのでしょうか。前回記事で触れたバスケ選手の買春問題で、ことさらそれを報じた朝日新聞を叩いていたのと似たような問題意識が透けます。
 もちろん、両親が共産党員であることは「部屋からアニメグッズが見つかった」程度の、大した情報にならない話ですが、特定の1つの属性を発見し犯罪の原因を全て押し付ける報道になれてしまった世論にとってはこの程度でも十分納得いく理由であったのでしょう。

 職場を追われていた「元少年」
 そして本誌記事で興味深い記述のもう1つは、容疑者の元少年がかつて就職していた職場を、事件について知られたことをきっかけに去っていたことに関する記述です。まさしく、少年法を排そうと、少年事件を実名報道しようと躍起になる人々の望む通りの過程をここでも辿っているわけですが、その結末は御覧の通りです。
 もちろんそのまま仕事をしていたとして、再犯しなかったとは限らないでしょう。しかし仕事といった社会的絆、守るべきものが再犯の可能性を減じるという従来の知見に基づいて考えるならば、彼の身に起こったこのイベントは再犯の確率をぐんと上げることはあれど良い方向に働くことはなかったのは間違いありません。この件を持っても、少年法の敗北と結論付けるのは誤りであり、むしろ少年法を無視した売らんかなの報道姿勢が招いた再犯であったすら言うことができるわけです。実名が報じられていなければ職場を去ることもなく、それが再犯を防止していた可能性もあるわけです。

 前回記事のコメントについて
①今回また殺人未遂事件を再犯したこの○○は、「元少年」であっても今や45歳のれっきとした大人なんだから、実名表記は問題ないのでは?
②「著名な事件ならいざ知らす」って、「綾瀬女子高生コンクリ殺人事件」こそは、日本犯罪史上有数の40日間に渡る猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄という「著名な事件」でしょう。これが著名でないなら、新橋九段さんが考える「著名な事件」の具体例を挙げていただきたい。
「この事件の犯人の名前が「一部のネット民の間」でしか話題になっていない」って、だって事件当時は週刊文春など一部のマスコミしか実名報道せず、また現在の様なネット社会でもなく、一般人は犯人の実名をほとんど知る状況になかったわけだから、むしろ当然でしょう。
③形式的には「逆送(「逆走」ではない)されたから厳罰」とは言えるのでしょうが、この湊伸治への判決は「5年以上10年以下の不定期刑」だったそうですから、犯行内容からすれば現実的には大した「厳罰」とは言えないでしょう。ゆえに新橋九段さんの言う「「厳罰化は再犯防止に意味がない」という結論は導けても、さらに厳罰化しなければいけないという主張はできないでしょう。」という主張こそ筋が通らず、むしろあべこべでしょう。
 新橋九段さんも渋々?認められているように「再犯できないから死刑にすべき」という主張は筋が通っていますよね(または死刑までいかなくとも、仮出所できる日本の「無期懲役」ではなく、本当の意味での「終身刑」が必要と思います)。
 また「それ以外への悪影響、差し引きの犯罪発生率」とは、具体的にはどういうことでしょうか?
④「窃盗」とて立派な犯罪であり、ゆめゆめ軽視すべきではありませんが、新橋九段さんが『「少年法いらない論者」は「窃盗犯でも死刑や無期懲役の極刑にしろ」と考えているにちがいない』と主張するのであれば、それはいくら何でも極論でしょう。

引用注:容疑者の実名にあたる部分は削除しました。
 ところで、前回の記事にこのようなコメントがついていました。記事の中ではかなり大雑把に通過した場所でもあるので詳しく説明すると、

 ①そもそも私は犯罪報道において、年齢にかかわらず被害者や加害者の実名報道は不要という立場です。実はほかの記事においても、容疑者の実名が載らないように引用する部分を工夫することは多々ありました。とりわけ今回は少年法を破るかたちで実名を報じられた元少年に関する記事だったので配慮しました。もちろん法律上、今回の事件を実名報道することに問題はありませんが、これはこのブログの運営方針によるところが大きいです。

 ②あの記事における「著名な事件ならいざ知らず」というのは綾瀬の事件以外の、過去に起きた無数の殺人事件を指しています。しかし綾瀬の事件やそれと同等程度に著名な事件においても、それらの事件の加害者の名前を記憶し続け、目にしたときに事件と結びつけるのは至難の業でしょう。

 ③あの事件に関してもより厳罰を科すことが可能であるというのはその通りでしょう。しかし刑期が長ければ再犯が防げるという根拠はなく、この記事でも述べたように社会との分断がむしろ再犯の確率を上昇させることも併せて考えれば、家庭裁判所による保護観察といった少年事件一般における処理から実刑へと「質が変化した厳罰化」が行われてもなお再犯したという事実は厳罰化が意味をなさないことを示唆すると解釈するに問題はありません。
 実のところ、「厳罰が足りないから再犯が起こるのだ」という主張は、その根源のところで否定することが極めて困難です。現在の日本の最高刑は死刑ですが、より厳罰を目指すとすれば死刑のうえ打ち首獄門とか、一族郎党連座とかいくらでも上があるので、どのような刑罰に対しても「いや罰がぬるい」と主張することは可能だからです。であれば、刑の期間ではなく罰それ自体の質が変化した今回の事例は厳罰化が功を奏さない事例と解釈する方がより妥当です。

 なお死刑の悪影響ですが、主なものとして「野蛮化」と呼べる現象があります。例えば強盗を死刑の対象にする厳罰化をしたとしましょう。このような社会では強盗犯は殺人でも強盗でも死刑なのは変わらないのだから、目撃者を殺害して逮捕される確率を減らしたほうが得だと考え厳罰化がなければ起こらなかった殺人が発生する可能性があります。飲酒運転が厳罰になったために、運転手が事故を起こした際にその場から逃走し、飲酒の証拠を隠滅している間に被害者が死亡するという事例が発生するようになったのと同じです。
 つまり刑罰というのは、単に厳しいだけではなく、かならず犯罪者が「ここで思いとどまったほうが得かもしれない」と思うだけの余地を残して設計すべきなのです。

 ④当該記事に『「少年法いらない論者」は「窃盗犯でも死刑や無期懲役の極刑にしろ」と考えているにちがいない』に該当する部分はありません。
 しかし窃盗に限らず、従来死刑が適用されない犯罪について死刑が選択肢として恒常化すると、受刑者教育でもって再犯防止を行うインセンティブが減じ、再犯率に悪影響が出ることが予想されます。

「死刑廃止国は死刑の代わりに射殺している」のは本当か

 さて、『オウム関係者の大量死刑執行のタイミングで、死刑の無意味さを再確認する』で論じたようにオウム関係者の死刑執行を期に死刑制度の議論が盛んです。死刑制度といえば、こういうやり取りがもはやおなじみとなりつつあります。

 本当でしょうか。という前にこんなブログ記事も書かれていました。
 特に海外からの圧力がすごい。
 彼らからすると犬を食っているようなもんなんだろう。
 (欧州でも半数近くの人は死刑復活を望んでるらしいけど)
 そして、それに対する反論もいつもきまってる
「死刑廃止国は現場で犯人を射殺しているのに死刑が野蛮とかおかしいじゃないか!」
 本当かよ…
そしてこの意見に対する死刑廃止派の反応もお決まりのモノ
「『死刑廃止国では現場で犯人を射殺している』というのはデマだ!そんな統計データはない!」
 本当かよ…
 疑問だらけなので調べてみた
 死刑廃止国が犯人を射殺した件数を調査してみた-痩せるコーラ(新)
 しかし、この記事の議論は粗雑で問題が多いものです。

 死刑廃止と銃殺のロジック
 そもそも、死刑廃止と銃殺のロジックは「死刑の代わりに銃殺をしている」という、代替関係にあるというものでした。しかしこの記事ではその代替関係をオミットしてしまっています。ここがまず大きな間違いです。
 もちろん、仮に代替関係を抜きにして論じるにしても問題があります。仮に死刑廃止国で射殺が多いという事実を示せたとしても、「銃殺をバンバンしている廃止国が死刑を維持している国を野蛮というのはおかしい」という結論を導くには不足です。というのも、現場での射殺が多いというのは、それ自体が国として射殺を容認している証拠にはならないからです。もちろん、可能性はありますが、政府がそのことに肯定的であるという証拠にはなりません。「射殺が多いぞ、まいったな」と思っているのであれば、死刑を実施している国を野蛮と批判するのに論理的な齟齬はないはずです。
 そしてたいていの場合、一部の首脳がおかしな国でなければ政府も国民も捜査段階での射殺には否定的です。移民をばんばん隔離してるトランプ大統領を擁するアメリカですら、黒人が警官に射殺されると大規模なデモが起こることからも明らかでしょう。

 射殺は死刑の代替か
 では本題、射殺は死刑の代わりとなっているのでしょうか。
 実はこれ、おそらく既存の統計では判断することができないでしょう。そもそも判決としての死刑と捜査現場における射殺が代替関係にあるというのが論理的に意味不明です。死刑を廃止することが捜査段階での射殺の増加につながることを論理的に説明できるとは全く思えません。一番近い予想をするとすれば、同じ国で死刑廃止前後に射殺が変化していることを調べることでしょうが、これでも直接の関係を見出せるとは思えません。
 あとこの検証が困難なのは、一部の国では死刑廃止が大昔であるということも手伝っています。引用元のブログに倣ってワールドカップベスト8の国を調べてみると、ブラジルでは1855年、フランス1981年、イギリス1998年(イングランド1969年)、スウェーデン1921年、ロシア1996年、ウルグアイ1905年、クロアチア1990年、ベルギー1996年でした。
 しかも厄介なのは、捜査員による被疑者の死亡事例を丁寧に統計にしている国がおそらく少ないことです。日本の警察においてもこの手の情報は見つからず、国外の情報を調べるとなれば余計に困難でしょう。現に、引用元のブログもウィキペディアのような英語で手に入れられる情報しか利用していませんし。

 しかし、統計が手に入らずとも、その論理のおかしなところを指摘すれば済むため「死刑廃止国では死刑の代わりに射殺している」という主張を崩すことは可能です。例えば各国の射殺件数ですが、これはその国における銃の浸透具合や凶悪犯罪の発生頻度に影響を受けるため、死刑の有無にだけ影響を受けるわけではありません。日本は死刑廃止国に比べて銃が少なく凶悪犯罪も少ないため、必然的に銃の使用も少なくて済むのでしょう。そこには死刑の有無の影響はないと断言してもいいかもしれません。

 また、この論理のおかしなところの最大のポイントは「なぜか『銃殺』しかカウントしていない」ということです。捜査員の手によって被疑者が殺害されることを問題とするならば、凶器の別を問う必要はありません。制圧による圧死や取調べにおける拷問を遠因とする自死なども計上してしかるべきです。しかしこの手の議論ではなぜか、銃殺にのみピントが向けられています。
 鹿児島市で2013年、会社員男性が鹿児島県警の警察官に取り押さえられた際、死亡する事件があった。業務上過失致死罪で2人の警察官が有罪判決を受けたが、事件は警察に密着取材するTBSテレビの番組の撮影中に起きていた。事件の一部始終は制作スタッフが撮影。この映像を県警が押収していた。TBSは映像を放送しておらず、押収に対する抗議もしていない。報道機関としての対応を疑問視する声が出ている。
 鹿児島・警官取り押さえ男性死亡 警察官による制圧死 撮影したTBS、映像を放送せず-毎日新聞
 日本においては上掲記事が存在するように、被疑者が死亡する場合銃殺よりも制圧による圧死のほうがポピュラーです。これを計上すれば、欧米各国の銃殺数に近づくだろうと思われます。残念ながら統計がないので検証は不可能ですが。

 結論から言えば、銃殺件数はどうあれ死刑の議論に関係がありません。繰り返すように死刑の有無と銃殺の多寡が関係するというロジックがまず成立しませんし、死刑廃止国の銃殺が多いからと言って上述のような種々の論理からそれを口実にやつらこそ野蛮であると断言するには足りません。
 というか、そもそも死刑廃止国こそ野蛮だと言い募ったところで死刑の残虐性が消失するわけではないので、この議論は終始無駄と言わざる得ないのですが。

オウム関係者の大量死刑執行のタイミングで、死刑の無意味さを再確認する

 松本・地下鉄両サリン事件などで計29人の犠牲者を出した一連のオウム真理教事件をめぐり、死刑が確定していた教祖の麻原彰晃(しょうこう)死刑囚(63)=本名・松本智津夫(ちづお)=ら7人の死刑が6日午前に東京拘置所などで執行されたことが、関係者への取材で分かった。教団が起こした事件の死刑囚は計13人おり、執行は初めて。上川陽子法相が命令した。平成7年5月の麻原死刑囚の逮捕から23年。犯罪史上類を見ない一連の事件は大きな節目を迎えた。
 ほかの6人は、早川紀代秀(68)=福岡拘置所▽井上嘉浩(48)=大阪拘置所▽新実智光(54)=同▽土谷正実(53)=東京拘置所▽遠藤誠一(58)=同▽中川智正(55)=広島拘置所-の各死刑囚。
 麻原彰晃死刑囚ら7人死刑執行 早川・井上・新実・土谷・中川・遠藤死刑囚-産経新聞
 この件です。
 このブログではいままでにも、死刑の不必要性をいろいろなかたちで訴えてきました。今回はまた別の形で、この件で噴出した問題を指摘していこうと思います。

 麻原の死刑執行は刑事訴訟法違反の恐れあり
 実は死刑執行をできる人というのは、刑事訴訟法で定めがあります。
1.死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2.前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。
 刑事訴訟法第475条
1.死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する。
2.死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、法務大臣の命令によって執行を停止する。
3.前2項の規定により死刑の執行を停止した場合には、心神喪失の状態が回復した後又は出産の後に法務大臣の命令がなければ、執行することはできない。
4.第475条第2項の規定は、前項の命令についてこれを準用する。この場合において、判決確定の日とあるのは、心神喪失の状態が回復した日又は出産の日と読み替えるものとする。
 刑事訴訟法第479条
 つまり、再審請求をしている人や心神喪失の状態にあると死刑は執行できません。この規定は心理士たちに、死刑囚の精神状態を回復することが人道的に許されるかという議論を引き起こしていますがいまはおいておきます。
 麻原については従来より、心神喪失の状態にあるのではないかという指摘がなされていました。実際に麻原の状態に関する記述を見てみると、断言はできませんが典型的な拘禁反応であろうという気がします。政府はおそらく、このような状態が詐病であるという建前で刑を執行したのでしょうが、であればなおさら、それを示す精神鑑定が後世検証されるかたちで公表されるべきです。
 なお、麻原の精神鑑定に関しては以上のような主張もありますが、執行に関連するのは裁判当時ではなく執行前の精神状態なので、裁判で精神鑑定が行われたことそれ自体はこの批判に対応するものではありません。

 法務大臣は命令に従っただけか
 死刑に関して、このような主張もよく目にします。死刑の執行は法務大臣の責務なのだから、個人の思想でその責務を放棄することは許されないという考えです。確かに基本的にはそうですし、私もいままではそのような考えを持っていましたが、いまは死刑に関しては違うのではないかという考えです。
 前提として、死刑は人権侵害の濃度が特段強い司法・行政上の措置です。憲法の禁じる残虐な刑罰に当てはまるかどうかはともかくです。そして諸外国の例でみられるように、死刑は廃止される傾向にあります。
 そのような、人権侵害の極致にある業務は、個人の良心と人権思想を後ろ盾に拒否することができ、それは正当化されると考えるべきではないでしょうか。現に公務員には憲法の順守義務があり、これは公務員に市民の人権を守るように命じているものでこの命令は死刑を定めた刑事訴訟法よりも上位に位置すると解釈することができます。
 なにより、死刑は執行されずとも別段不具合が生じない処置でもあります。犯罪者の逮捕や刑務所への収容を良心だと言って拒まれれば困ってしまいますが、死刑はそうではありません。死刑囚が死刑を執行されずとも、誰の人権も侵害されないのでその面からも執行の拒否は正当化できるでしょう。
 もっとも、上川法相に死刑執行の苦悩などというものが存在しないことは確かでしょう。

 暴走する正義の人々
 今回の件で最も醜悪なのは、死刑を正義とぶちあげ祭りのように盛り上がる人々でしょう。
 オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(63)ら教団元幹部7人の死刑が執行された6日、テレビ各局は朝から一斉に放送を臨時ニュースに切り替えた。同じ日に7人執行という過去にない展開を受け、テレビ局に入ってくる情報は刻々と変化。取材で得た執行状況をリアルタイムで伝えたり、死刑囚の顔写真に執行が済んだことを示すシールを貼ったりするなど異例の報道になった。SNS上では、違和感を訴える声も相次いだ。
 死刑囚写真に次々「執行」シール TV演出に疑問の声も-朝日新聞
 オウムの件でマスコミがかつて教団を肯定的に取り上げたことを批判する人々がいますが、彼らは一方ではこのような演出を支持するなり、それと何ら変わらない反応をしているのです。死刑を肯定するにしても、死者を悼むなりといったもっと適切な反応はいくらでもあるはずです。
 オウム真理教の元代表・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の刑が6日、執行された。大きく報道されて以降、三女・松本麗華さんのTwitterには、刑の執行を喜ぶ声や地下鉄サリン事件を起こした教団を非難する声などが寄せられている。
 麗華さんは1995年の地下鉄サリン事件当時11歳で、三女・アーチャリーとして知られていた。3年前からは実名と顔を公開し、執筆やカウンセラーの活動をする一方で、自身の体験や父に対する考えなどをメディアでも語っている。オープンに活動する麗華さんはTwitterにも頻繁に投稿。しかし、死刑執行後は麗華さんのアカウント対し、「おめでとう」とはやし立てるなど心無い言葉を浴びせるユーザーが相次いでいる。
「死刑執行おめでとう!」
「無事に死刑執行されたね! パパにおやすみなさいは?」
「サリンで苦しんる人はまだ居ますよ? 親族なら恥ずかしくてツイッターなんかやってられない」
「お前らのバカ父のせいで今も苦しんでる人が沢山いるんだよ!金払えwとにかく良かった?!!全国民が歓喜」
 松本智津夫死刑囚の死刑執行後 三女・松本麗華さんのSNSに暴言-ライブドアニュース
 特に悪辣なのは麻原の三女のTwitterアカウントに大量のコメントがついたことです。いくら凶悪犯とはいえ父親を失った人への共感も捨て去る。死刑は市民を野蛮化しかえって社会の治安を脅かすという指摘もありますが、この様を見ればその指摘には納得です。
 どのような理由があれ、死んでいい人間がいるということを政府が大々的に肯定することは、このような残虐な反応を引き起こします。そして「死んでいい理由」というのは大抵の場合拡大されるか無視されるかで、「死んでいい人間がいる」という部分だけピックアップされ利用されることになります。このような反応を防ぐためには、どんな理由であれ人の命を奪ってはいけないと政府が強くその姿勢を打ち出す必要があります。

【書評】犯罪と司法精神医学

 最近ちまちまと精神分析に関して勉強しているのですが、これがかなり難しい。精神分析というのは心理学よりも雰囲気が法学よりで、エビデンスを積み重ねて周囲を納得させるというよりはある考え方に別の考え方をぶつけてブラッシュアップしていくという作業で「この症状は責任能力があるかどうか」と考えていく、みたいな感じです。その難しさが一方では食い違う鑑定書をいくつも生み出し、また一方では精神鑑定は信用できないという印象を生み出しているのかもしれません。

 幻聴=責任無能力ではない
 本書にはこれでもかという量の症例が登場します。中には「あぁそれは無能力だろうなぁ」と素人目にもわかるものからかなり微妙なラインで専門家でも悩んでいるもの、これが責任無能力になるの?というものまで様々です。
 本書において興味深かった事例は幻聴に従って自販機から金銭を窃盗したというものです。「神の声が聞こえて……」みたいな言い訳はある種心神喪失の代表例みたいな印象が付きまとい、酷いときにはこれを言っとけば無能な精神科医が責任無能力を認定してくれるだろうという雑な描き方もされています。
 しかしこれは実際には誤りで、幻聴が聞こえているからと言って必ずしも責任能力がないという認定にはなりません。統合失調症の患者でも大半が幻聴に従うわけではなく、また治療の一環として積極的に無視するように指導されるくらいです。つまり幻聴という症状が責任能力に関わるには、その幻聴に抗えないほど精神が参っている必要があるのです。よくよく考えれば、我々だって明確に誰かから言われたことを必ずしも聞き入れて行動するわけではないですもんね。

 医療観察法批判
 本書では特に、著者が力を入れてきた医療観察法への批判に紙幅を割いています。本書に収められた論考の発表は法律制定前であり、その際になされた議論に関してわかりやすく批判が展開されています。
 著者の言葉を借りるのであれば、この法律の問題点は「医療は迅速に、司法は慎重に」「医療のものは医療へ、司法のものは司法へ」という原則を捻じ曲げてしまうところに集約されています。
 医療の面からみれば、犯罪を犯した直後のクライアントが一番苦痛を感じている時点で素早く治療を実施するのが理想的です。観察法以前の速度は治療までに2週間ほどと決して理想的ではありませんが、この法律の下ではこれがさらに遅くなり最悪の場合3か月ほど治療の開始が遅れる可能性もあります。医療観察法に基づく措置入院を実施するかどうかを決めるのに時間がかかるからです。その審査にも当然精神科医は絡みますが、あくまで精神状態をそのまま判定することが求められているだけなので積極的な治療ができません。
 また受け入れ先の確保が難しく元々の居住地から遠方へ移動しなければならない、転院が繰り返され長期的な治療がなされない、退院後の治療については一切考慮されていないので入院が長期化しやすいといった医療上の問題点が山積しています。そもそも、重大犯罪を犯したことと治療の上で特別な措置が必要であることに繋がりがあるという根拠もありません。
 司法の面からは、再犯するかもしれないごく少数を病院へ収容するために再犯の危険性がない大多数も一緒に収容することになるというフォールスアラームの問題が立ちはだかります。
 これらの問題点に関して、著者は法案に賛成する側からはほとんどまともな説明のないままであることを指摘しています。池田小学校の児童殺傷事件というセンセーショナルな事件で受けた衝撃のまま法律をよく考えずに作り上げたことがよく見て取れます。

 その他、病院で発生した患者の他害の責任を病院に求められるか、精神疾患を負った死刑囚を死刑にすべきか、そのために治療すべきかという論点が詳細にまとめられており、かなり重たいながら読み応えのある内容になっています。
 特に死刑に関してはオウム真理教の教祖である麻原彰晃が該当する議論ですが、日本ではこの点は一切議論することなく死刑の準備を進めているのではないかと思われ危惧されます。まぁ、僕はそもそも死刑廃止論者なのでこの辺の話は些末にも感じるのですが、実際に死刑囚の治療を求められうる精神科医からすれば矛盾を感じつつも議論せざるを得ない問題なのでしょう。

 中島 直 (2008). 犯罪と司法精神医学 批評社

長谷川豊が千葉一区&比例代表で出馬するようなので過去の暴言を蒸し返しておく

 第48回衆院選が10日に公示された。街には候補者のポスターが貼られ、選挙カーが走り回っている。東京都知事・小池百合子氏が代表を務める希望の党の結成、民進党の希望の党合流、立憲民主党の立党……政局は日々めまぐるしく変化している。
 そうした中、日本維新の党からの公認を受け、千葉1区から出馬した元フジビテレビアナウンサーの長谷川豊氏がウェブの一部で話題となっている。おそらく多くの読者は周知のことだろうと思うが、国会議員を決める需要な選挙を前に、改めて振り返っておきたい。
 長谷川豊の「自業自得の透析患者を殺せ」という主張に変化なし。「8割の女はハエ」「60歳以上は選挙権剥奪」発言も-Wezzy
 これの件です。
 政治家として備えるべき資質、備えるべきではない特徴というのは立場によっていろいろあると思いますが、民主主義国家の国会議員になるうえで備えるべきでない資質としてまず挙げるべきは「差別主義にまみれていないこと」でしょう。これは立場上どうこうというよりも、前提です。民主主義国家を成立させるうえで、基本的人権を尊重することはイデオロギーを超えた前提であり、これを備えない人物はほかの要素がどうであれ議員として立つ資格は全くありません。
 長谷川豊という人物は、そういう意味では議員としての資質を欠く人物の筆頭候補というべき人物です。そのような人物を公認し、かつ比例代表の名簿にも組み込む維新の会の政治に関する姿勢も十分に問われるべきでしょう。
 というわけで今回は、本ブログで今まで取り上げた記事を振り返りながら、長谷川豊の発言をまとめこの人物がいかに政治家としての資質を欠くかという話をしていきます。そのような論点では上掲記事や政治家レイシズムデータベースなども取り上げていますが、ここは犯罪学ブログなのでそのような論点を中心に話を進めていこうと思います。

 暴言その1 超ありきたりなレイプ神話
 しかし、この女性、かなりキレイ…ではなく、山口氏もFacebookで疑問を呈していたのだが、そもそも…
 なんでこのタイミング?
 なのだろうね。
 「性的被害にあった」と主張する女性には、私は基本的に「その話を信じる前提」で話を聞くようにしてきた。私自身、何度も性的被害を受けた女性本人にインタビューをしている。
 性的な事件は絶対に許すことは出来ないし、私は個人的に彼女が主張しているホテルの防犯カメラの映像などは、可能であれば公開すべきではないかと考えている。彼女が薬物を使って昏睡状態にさせられ、レイプされたのであれば、それは許してはいけない犯罪だ。 が、同時に山口氏の投げかけた
「なぜこんなタイミングで?」
 という疑問にも、この女性には答えてほしい気はする。
 基本的にどっちでもいいのだが、この「自称」被害女性は「なんでこのタイミング」だったのだろう…-本気論本音論
 『「なんでこのタイミングで?」と思った人はレイプ神話と親和性が高いよ』から。フリージャーナリストの女性が強姦されたという事件に関してです。この事件に関しては『山口敬之の強姦事件、不起訴相当はなぜ?』『「強姦被害者が処女かどうかは捜査に必要な情報」という主張』などもご参照ください。
 どっちでもいいと言いながらこんな記事を書いちゃうあたり、全然どっちでもよくないことがまるわかりな恥ずかしい文章ですが、単に恥ずかしいのはそれだけではありません。
 性犯罪被害の告発に何らかの意図、要するに加害者とされた男性を貶めるためだとか金銭が欲しいからだといった背景を妄想してしまうのはレイプ神話の極めて典型的な事例です。実際には性犯罪の告発にはそれ相応の決意と被害のダメージからの一定の回復を待たなければならず、被害の直後の告発に至らないケースも多く存在します。ゆえに、告発が被害からかなり遅れたとしても別段そこには意図なんてないことが大半です。
 まぁ仮に絶妙なタイミングで被害をカミングアウトし、加害者に最大限のダメージを与えてやろうと被害者が画策していたとしてもそれ自体責められることでもない気がしますが。
 また今回の事例では被害者は検察審査会に申し立てのできる期間内に申し立てをしているというだけの話であり、そこにケチをつけられるいわれもありません。
 ルールに則ってなされた申し立てにすらいちゃもんをつける人間に政治家が務まるでしょうかね。

 暴言その2 人権なんてくそくらえ
 私、もっと苦しめて全然いいんじゃないのって考え方の人間なんですが、私がおかしいんですかね? もしですよ? もし、私の嫁さんや娘が同じことをされたとしましょう。
 私、絶対にこの程度じゃ済まさないぜ?
 そのレイプ犯、その殺人鬼、裁判所なぞに任せませんぜ? 絶対に自分の手でヤるわ。そんなゴミクズ。
 【長谷川豊】「死刑反対」の人権派は「死刑」の根本的な意味を分かっていないんじゃないか?
 『長谷川豊なんかの発言をまともに聞いちゃだめだよ? 前編(死刑の話)』からです。
 死刑囚に対する発言です。この発言をした段階では彼はまだ単なる一私人でしたが、国政への進出を考える人間のものだとするとかなりうすら寒いものがあります。
 政治や法律の基本的な考え方ですが、警察機構の執行する逮捕や家宅捜索、あるいは司法による断罪と刑罰というのは多かれ少なかれ人権侵害行為です。故にその行使には極めて厳重な制約が課せられています。そしていかに残忍な犯罪者であるといえども人権はあるのです。そう簡単には殺せないのです。
 国会議員となり権力をふるう人間が、犯罪者は残忍に殺せということはどのようなことを意味するでしょうか。それは、ある理由があれば最低限の人権制限以上のことをしてしまえと主張しているということです。つまり彼は、それが正当化できると自分が考える理由さえあれば、人権なんか無視してこちらを殺しに来るということです。そしてこの「理由」というのは、いくらでも延長可能なものなのです。この辺の思想は彼のいう「透析患者は殺せ」によく表れています。
 なお彼はこの記事で「人権派弁護士」のような人々を指し「手ぇ、抜いてんじゃないよ」などと偉そうに語っていますが、どんな残虐な者、それこそ長谷川豊のような人でなしにすら人権があるという根源的矛盾に真正面から立ち向かわずに安易な回答に飛びつく彼こそ手を抜いていると非難されるべきでしょう。

 暴言その3 「人殺しは大嫌いだ、死ね!」
 「これから取り調べが進み、動機の解明が待たれます!」
 というリポート。
 う~ん。まぁ、そのリポート自体を否定するつもりはないのですが、私個人の感想では……この事件って……
 圧倒的な障がい者であるバカが普通の障がい者の方を殺害した事件
 と認識しています。本音ベースで言えば、皆さんもそうなのではないでしょうか?
(中略)
 私は「動機の解明」なんて待たないでいいと思っています。税金の無駄使いは辞めて、とっとと殺すべき。飯食わす金がもったいないです。
 【長谷川豊】相模原の一件は「動機」を考察する必要があるのだろうか?-教えてgoo!
 『長谷川豊なんかの発言をまともに聞いちゃだめだよ? 後編(相模原のやつ)』より。
 こんな短い記事で論理矛盾を起こすという偉業を成し遂げる長谷川豊の姿です。相模原の事件というのは、要するに恣意的な基準で生きるべきではないと判断した人物を殺して回ったというものなのですが、その事件に関する考察の結論が「こんな異常者殺してしまえ」では自分もその犯人と同類だと言っているようなものでしょう。
 まあ実際、上掲の死刑の話とか透析患者への発言を鑑みるに、マジで同類なのでしょう。方向が障碍者に向くか犯罪者や重病患者に向くかの違いでしかありません。
 なおこの記事は、これに続く彼の支離滅裂な弁明も見ものです。政治家になったら麻生ばりの失言王になるだろうことは想像に難くありません。

 暴言その4 道徳と法律の区別もできない
視点2 ~なんでこの被告の奥さんは罪に問われないんだ?~
 昨日明らかになったわけですが、この奥さん、そもそもかなりノリノリで不倫しています。記事にもあるように、コスプレプレイなども興じていたとのこと。それが、どの辺りだったのか……心境が変わったのか「私はセクハラされた」「肉体関係を持った」と告白しています。これは女性自身が自分から告白していることが明らかになりました。
(中略)
 この犯罪行為、局部を切り取られた被害者男性弁護士を同情する気はないですし、あまりにも過剰な凶行に及んだ被告男性を擁護する気もないですが……この被告男性の妻……彼女が全くお咎めなしって……
 どう考えても納得できない気がするんですが!
 【長谷川豊】局部切断事件~どうしてこの女は罪に問われないんだ?~-教えて!goo
 元ボクサーの男性が妻の不倫相手である男性の局部を切り落とすという事件がありました。それへの反応です。
 不倫した妻が罪に問われないのは、言うまでもなく別段不倫が犯罪ではないからです。明確な教唆でもなければ罪に問われないでしょう。こんな基本もわからない人間が政治家になれるんでしょうかね?
 刑法というのは「最低限の道徳」とも言われます。制限しないとまずい部分だけを制限し、いたずらに人々の自由を侵害しないように制定されるのが基本です。不倫は道徳的にはいけないことなのかもしれませんが、刑法で禁止するほどのことでもありません。
 あるいは、姦通罪の復活を目指しているのかもしれませんけど。

 こんな感じで、長谷川豊というのは政治家としての資質を欠く男です。というか彼を政治家にするならオウムでも座らせておいたほうがましでしょう。少なくともマイナスになる行動はしないので。差別主義者、人権軽視、法律の知識も皆無……彼を政治家にできる理由が全く見当たりません。

【書評】死刑肯定論

 久々の書評。今回は死刑の話です。と言っても、あまりいうことはないんですが。

 大上段だけど
 本書の初めで、著者はだいぶ大風呂敷を広げます。いわく、今までにない死刑論を展開するとかなんとか。
 確かに、権力論から死刑を論じるのはあまり見ない方法かもしれません。しかし、哲学に明るくないせいか私なんかは「だからどうした?」という印象も受けます。
 そもそも、これはタイトルにもあるように死刑の是非にかかわる話のはずです。そこに権力論から見てどうのこうの、という話を持ち出されても、こちらとしては反応に困るというか。

 肯定できてない肯定論って?
 そもそも、私が本書を手に取ったのは、いくつかの法律系の著作がある著者が死刑を肯定するという、そのコンセプトにひかれたからでした。実のところ、本という形で死刑を論ずるとたいていの場合廃止論になります。肯定論もあるにはあるのですが、犯罪者の立場だとかジャーナリストや評論家だとか、専門性が怪しく実際主張にも説得力がありません。それこそが死刑肯定論の本質なのだと言われればそれまでなのかもしれませんが、これではあまりにもつまらない、というのが正直な思いでした。
 そこに登場した本書なので、それはさぞ説得的な死刑肯定論が繰り広げられているのだろうと期待していたのですが、その期待はあっさり裏切られました。本書では死刑を肯定するどころが、今までの肯定論を全否定する念の入れようです。肯定論を期待して読んだ人はがっかりするでしょう。

 否定論としては優秀?
 しかし、本書では徹底して肯定論の主張を潰しているので、否定論としては優秀かもしれません。
 特に私が注目した点は、罪と刑罰の釣り合いです。死刑肯定の理由として根強い人気を誇るのが、人を殺したらその死をもって償うべきだ、というものです。これ単体で見るといかにも説得力がありそうですが、実際にはそうではありません。
 死刑以外の刑罰を考えると、そこには罪を自由刑や罰金刑に置き換えるという変換作業が必ず入ります。傷害で有罪になった人は同じだけ傷つけられるのではなく、それ相応の懲役刑で償うのです。
 そのようなシステムがあり、かつそれを是認しているにもかかわらず、殺人に対してのみ全く同等の刑罰で挑もうというのは刑の公平性を著しく欠くことになります。このような主張を目にしたとき、なるほどと思いました。
 もっとも、じゃあほかの刑罰も同等にしようぜという野蛮人が現れると無力な主張でもありますが。

 専門家があえて頭を絞り死刑を肯定する、というのも企画としては面白いかもしれません。こんど時間があればやってみようかと思います。

 森炎(2015).死刑肯定論 筑摩書房
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
E-mailアドレス
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