九段新報

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なぜ不同意性交罪議論が噛み合わないのか 「冤罪」と「救済」のボーダーライン

 前回、『「痴漢が性犯罪として計上されていない」のは正しいので、記事の訂正の必要はない』を書きまして、やはり一度不同意性交罪の是非を論じておく必要があるかなと考えました。なので、今回と次回の記事でまとめることとします。
 なお、すでに『「共産党が性行為の原則違法化を!」という主張の誤りと無意味さと』を書いているわけですが、これは「不同意性交罪はセックスの原則違法化だぞ!」というトンデモに対する反論なので、少々話がずれます。別にセックスが原則違法でもいいじゃねぇかというのは偽らざる思いですが、現実そうはいかないということもよくわかってますよ。

 なぜ議論が噛み合わないのか
 不同意性交罪の議論に関して、現実にどう適用すべきなのかという話の前に、まずはこれをやっておきましょう。
 私の印象ですが、不同意性交罪の議論は現在、全く噛み合っていません。弁護士同士の議論ですらあまり有効な話になっていると思えないというのが実情です。なぜ、このようなことになるのでしょうか。
 問題のヒントは、対立軸が「性犯罪をきちんと罰したい人々」VS「冤罪を心配する人」という構図になっているというところにあります。

 これは不同意性交罪に限った話ではありませんが、通常、何かを法律で規制しようとするとき、その線引きは必ず「冤罪の可能性」と「罪を見逃す可能性」との兼ね合いになります。つまり悪くないのに悪いといってしまう可能性と、悪いものをいいといってしまう可能性ですね。前者の可能性を減らそうとすれば後者の可能性が上がり、後者を減らそうとすれば前者が増えます。

 不同意性交罪であれば、同意のない性行為という明らかな悪行を罰するために暴行脅迫要件を撤廃すれば必然的に冤罪の可能性は上がります。

 このとき、冤罪の可能性を重視する人々はこれをもって、不同意性交罪を批判します。一方、悪行を罰することを重視する人々はどうしようもなく冤罪の可能性が上がってしまうことは織り込んだうえで、この法律を支持しています。

 冤罪の可能性が「どれくらい」あるか
 ……と書くと、いかにも不同意性交罪新設論者が冤罪の可能性を軽視しているかのようですが、実はそうではありません。

 重要なのは、どんな法律でも必ずこのバランスがあるということと、どこに線を引いても冤罪の可能性は0にならないということです。前の記事で住居侵入罪を例に挙げましたが、あれだって冤罪の可能性と悪行を裁けない可能性の兼ね合いで線引きがされています。そこを、悪行を罰するためにルールを変えれば必ず冤罪の可能性は上がりますが、それはあくまで必然的な結果なのでそれ自体はルールの変更がだめだという理由にはなりません。

 もちろん、刑事裁判において冤罪の可能性は極力0であるべきです。しかしながら、法律でどう規定しても論理上冤罪は0にはならないので、冤罪が起こりうるということそれ自体は法律を批判する根拠にはなりません。法律を批判したいならば、冤罪が明らかに受忍できないレベルで起こりうることを指摘しなければならないでしょう。
 「この法律だと冤罪の可能性が0.000……001%あるぞ!だから危険だ!」という主張に意味はないということです。

 不同意性交罪に問題があると言いたいのであれば、その法律が処罰の範囲を広げたことによる以上に冤罪を生み出しかねない危ういものであることを指摘しなければなりません。もっとも、そういう指摘は聞こえてきませんが。
 (原理的に言えば、共謀罪のときのように、そもそも処罰範囲を広げることに妥当性があるのかも議論すべきでしょうが、不同意の性行為が処罰されるべき行為であることは自明なので今回はスルーします)

 冤罪の可能性を減らす
 とはいっても、冤罪の可能性を減らすべきなのは言うまでもありません。それは、法律の規定以外でも達成することができます。不同意性交罪を新設する際には、それと並行して刑事司法改革も行う必要があるでしょう。その点について、不同意性交罪の新設を主張する人の中に反対する人はいないと思われます。
 そうなると、犯罪を証明するためには、自白がきわめて重要になってくる。
 「2019年3月、岡崎で自分の娘に性的暴行をした父親が無罪になった、という判決が話題になりました。この事件では、検察官が、被告人が言っていないことを調書に書き込んでいました。要するに、検察官の作文です。
 後から発覚して、被告人の自白調書は使えなくなった。それが結果的に、無罪判決の一因となっています。
 このような調書依存の体質が改まらないなかで不同意性交罪が導入されると、冤罪が多発するでしょう。黙秘権を行使されたら、起訴できないという事態も生じてきます」
 共産党の「セックスは原則犯罪」公約を弁護士が徹底批判-BLOGOS

 奇妙なのは、不同意性交罪に否定的な人々の中に、現在の刑事司法や警察行政が冤罪を生み出しかねない問題点を孕んでいることを理由に挙げている人がいるということです。例えば上に引用した主張は、前回の記事で私に絡んできていた弁護士氏によるものです。

 しかし、冤罪を生みかねない調書依存の体質などは、不同意性交罪の新設に関わらず改められるべきものでしょう。裏を返せば、不同意性交罪の新設とは何の関係もない話……とまではいかないにせよ、立法を拒否する理由としてはいささか妙だということです。

 もし警察の無能や冤罪体質が、適切な立法を否定する理由になり、それが改善されない限り立法はできないということになれば、適切な立法など一生できないでしょう。警察や裁判所がどんな態度でもやはり冤罪は0にはなりませんし、極端な話「まだ冤罪対策ができないないから時期尚早」を言い訳にずっと適切な立法をネグレクトするということにも繋がりかねません。

 現実的に考えれば、不同意性交罪を新設すると先に決めてしまったほうが、それに対応するために冤罪対策も進むというものです。性差別問題というのは、往々にして「女の問題」であるときは軽視され、「男の問題」になったとたん解決が図られるということがあります。不同意性交罪が新設されいい加減な司法では自分たちが冤罪を食らうかもしれないと恐怖すれば、彼らも少しはまじめに対策に取り組むでしょう。

 不同意性交罪の新設に反対する人の2種類
 不同意性交罪の新設に反対する人は、おおむね冤罪の危険性を指摘します。しかしこの人たちには大きく分けて2種類います。

 1つは、毎度おなじみ、性犯罪のときだけやたら冤罪を気にする人です。こういう人は単に性犯罪の処罰範囲が広がることが気に食わないだけで、冤罪なんかどうでもいい人なのでまともに取り合う必要はありません。

 もう1つは、それ以外の人々です。つまり、少なくともある程度冤罪全般を気にしているという人です。
 しかしながら、上で論じたように、法律の適用範囲を広げれば、それがどういう法律であれ原理上、冤罪の可能性は上がってしまいます。重要なのは、罰したい行為に対してあまりにも冤罪の可能性が上がりすぎるかどうかという部分です。ですが反対派の主張を一覧しても、この点に関して詳細な応答があるようには見えません。
 もっともそれは、まだ不同意性交罪の新設が理念の段階であり、具体的な条文が存在しないのでやむを得ない側面はあります。

 ただ強調しておきたいのは、あくまで不同意の性交は最低限の道徳と呼ばれる刑法で罰すべき行為であり、議論の余地は「どのように法律を決めたら都合がよさそうか」という部分にしかないということです。


「共産党が性行為の原則違法化を!」という主張の誤りと無意味さと

 性暴力・性犯罪の被害者や支援者でつくる一般社団法人「Spring」は13日、刑法の性犯罪規定をめぐり、強制性交等罪(旧強姦〈ごうかん〉罪)の「暴行・脅迫」要件の撤廃など、同意のない性行為を罰するための法整備を求め、山下貴司法相に要望書を提出しました。
 「暴行・脅迫」要件は、罪の成立に「被害者の抵抗が著しく困難になる程度の暴行や脅迫」を求めるもの。上司と部下、教師と生徒といった力関係や、恐怖で体が動かないフリーズ反応によって抵抗できなかった事例が無罪とされ、被害者が救われない実態があります。
 Springが要望したのは、(1)2017年の刑法改正時に盛り込まれた「3年後の見直し」の実現(2)「暴行または脅迫」「抗拒不能」規定の撤廃を含む見直し(3)不同意性交等罪の創設(4)地位関係性を利用した性犯罪の規定の創設(5)性犯罪等の被害実態調査の結果を法改正や運用見直しに生かすこと(6)子どもや障害者などの事件で必ず司法面接を行い、ビデオ証言を採用すること―の6項目。
 “同意ない性交”罰する法整備を 性犯罪被害者らが法相に要望書-しんぶん赤旗
 1か月も前の話になりますが、しんぶん赤旗が性犯罪を罰する刑法の改正、ならびに不同意性交罪の新設を求めていました。共産党もかねてより法改正を主張していましたし、このSpringの提案におおむね賛同する形なのでしょう。
 共産党が性交渉の原則違法化を参議院選挙の公約にしました。-Togetter
 しかし、Twitterを通すとこの提案がこんな感じに曲解されます。興味深いのは、一山いくらのネトウヨ連中ではなく、弁護士ですらこのざまということです。ネトウヨが弁護士になっただけじゃねぇのとか言わない。

 指摘しておきたいのは、このような指摘が
1.そもそも「性行為の原則違法化」というのは事実ではなく
1-1.「推定有罪にする」「立証責任の転嫁」という指摘に至っては愚かもいいところで
2.仮に事実だとしても意味のない議論で
3.さらに仮に「性行為の原則違法化」がされたとして何の問題があるのか
 という種々の側面から誤りであるということです。

 1.そもそも「性行為の原則違法化」というのは事実ではない
 まず、不同意性交罪が性行為の原則違法化というのは全くの誤りです。
 不同意性交罪はその名称からわかりきっているように、あくまで不同意の性交を禁じるものです。

 いうまでもなく、正常な性行為は明に暗に双方の合意が存在しています。つまりあくまで性交は原則として合法で、合意のないという「特殊な」事例のみ違法になるということなのです。

 このような規定を「原則違法化」などと要約する人は、常に相手の意思を無視して性交をしているがゆえにそう思うのだとしか考えられません。
 非常に怖いですね。

 1-1.「推定有罪にする」「立証責任の転嫁」という指摘に至っては愚かもいいところ
 さて、上掲のまとめでは「原則違法化」であるという指摘とともに「性犯罪を推定有罪にするものだ」「立証責任を被告へ転嫁する」という主張も展開されていますが、実際にそうなるというまともな根拠は提示されていません。曲解と誤読のオンパレードです。

 当然ながら、不同意性交罪を創設したとして、それが「推定無罪の原則」から逸脱するということはまずありません。検察が不同意の証拠を集める責を負うのは当然です。
○辰巳孝太郎君
 強制性交等は、反抗を著しく困難とする程度の暴行、脅迫を用いて性交し、それを認識していたか、準強制性交等は、心神喪失、抗拒不能であることを認識し性交したかが問われます。激しく抵抗できなければ暴行、脅迫要件が適用されず、そして途切れ途切れに抵抗すると心神喪失も抗拒不能も認められない。
 じゃ、被害者どうすればよかったのか。
 例えば、拒否の意思を示しており、相手の同意がないのは明らかなのに、現在の法律ではレイプとされないことがある。
 同意がないから殴るんじゃないのか。そもそも、性交などを行うときに相手の意思や心情を尊重するのは当然のことだと私は思います。むしろ確認することもなかったということが非難されるべきではないのか。
 二〇〇九年、国連は、女性に対する暴力に関する立法ハンドブックを作成しました。そこでは、明確で自発的な合意がない限り犯罪が成立することとし、その立証に当たっては、加害者に対し被害者から同意を得たか否かを確認するための段階を踏んだことの証明を求めるべきであるとしています。
 大臣、そもそもこういう暴行、脅迫要件は撤廃されるべきなんじゃないですか。
 強いての証拠として、共産党の辰巳議員が質疑で言及した、国連の『女性に対する暴力に関する立法ハンドブック』での記述を挙げています。しかし、このハンドブックでは立証責任の転嫁はあくまで両論併記で紹介されています。常識的に考えれば、この立証責任の転嫁は従来そして今現在も男性に有利となるように偏っている法廷の状況を正しバランスをとるための提案であることは明白でしょう。
 少なくとも、性犯罪一般について立証責任を完全に転嫁してしまうかのような話ではありません。
D7KvcJ7UcAA5OIH
 「推定有罪にするぞ!」という話に関しては上掲の新聞記事が証拠として挙がっていましたが、ただの誤読です。
 記事の筆者である後藤氏は、「疑わしきは被告人の利益に」という原則が『素朴な形で適用される』のだと指摘しています。つまり通常の適用ではなく、より単純化した、不適切な形で適用される。ある種無理やり「疑わしき」を見出して被告人の利益にするような運用がされているのだと指摘しているのです。

 このような問題は『逃げられない性犯罪被害者 無謀な最高裁判決』が指摘するように、性犯罪裁判ではかねてより指摘されていました。このブログでも『法律の素人が判決を批判するということ+「疑わしきは被告人の利益に」は理屈を捻じ曲げて被告人を無罪にしろという意味ではない』で論じましたが、「疑わしきは被告人の利益に」というのは「ちょっとでも疑わしいところがあれば何が何でも被告人の利益にする」という意味ではありません。

 2.仮に事実だとしても意味のない議論である
 「原則違法化」に関して、「いや、合意があれば違法性が阻却されるだけであって原則違法であることには変わりがない」という反論も考えられるでしょう。それには一理あるかもしれません。しかし意味はありません。

 「ある行為を許可なく行うと罰せられる」ことをもって「原則違法化」であると主張することの無意味さは明白です。なぜなら、この世にあるあらゆる行為は、その大半が「許可なく行ってはいけない」ことだからです。罰せられるかどうかは別にしても。
第130条
 正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。
 例えば住居侵入罪があります。これは上掲の条文からもわかる通り、正当な理由があれば違法性が阻却されるだけで、他人の建物に入ることを原則禁じています。が、そのことで騒ぎ立てる人を、少なくとも不同意性交罪について「原則違法化」と主張する人の中に見たことはありません。

 これは何も馬鹿げた例ではありません。実際に『これが犯罪? 「ビラ配りで逮捕」を考える』が論じているように、この「正当な理由がないのに」を拡大解釈して、ビラ配りのためにマンションに立ち入った者を逮捕するという事例が存在しています。
 まだ創られていない不同意性交罪なんかよりもよほど人権を侵害していますが、不同意性交罪の冤罪を懸念するほど人権を重んじる人たちがこれに文句を言わないのは極めて不思議です。

 そもそも自己決定権があるこの社会において、財産の移動から身体接触その他もろもろに至るまで、相手方の許可なく行えば非難されます。刑法は最低限の道徳として、性行為という極めて重大な行いについて、その原則を確認するだけです。

 3.さらに仮に「性行為の原則違法化」がされたとして何の問題があるのか
 最後に、仮に向こう方の無理筋な主張をすべて飲み込み、やはり不同意性交罪が性行為の原則違法化になるのだとしましょう。
 それで何が問題なんでしょうね?

 日常的な行為であるかのように語られるために埋もれがちですが、そもそも性行為というのは極めて侵襲性の高い行為、つまり実行した影響が甚大である行為です。

 その影響の最たるものは言うまでもなく、妊娠の可能性です。もし妊娠すればどう対処するにしても膨大な時間的、金銭的コストの発生は避けられません。
 また性病、あるいはその他の感染症の感染リスクもあります。性行為はデリケートな部分と接しあう行為ですから、雑に行えばシンプルに負傷する可能性だってあります。

 重要なのは、その侵襲性が女性の側に著しく偏っているという点です。妊娠は女性しかしません。また入れる側と入れられる側という非対称性から、あるいは体格の非対称性から負傷リスクも女性の方が高いと言えましょう。一見平等にリスクのありそうな性感染症ですら、梅毒の患者は男性の方が多いことから察せられるように、男性の方が無頓着で女性側にリスクが偏っている可能性があります。
 その場合、男性行為者による安易な一方的、主観的な合意の主張がされており、それを裁判でも認めるというようなことが少なからず行われています。私は基本的には全ての性行為は意に反しているというところを前提として規定を考えるべきだと思います。
 そのため、「正にこれこそ合意に満ちあふれた性行為である」という性行為がどういうものなのかというのもやはり考えていただいて、こういう合意がない限りは、性犯罪、性暴力であるという所から出発した上で、どこまで刑法の射程とするのかということを検討するということが必要ではないかというふうに思っております。
 したがいまして、通常の性行為は合意であるという前提を置いて、性犯罪規定の見直しをするというのは、私は望ましくないと考えております。
 まとめで引用されていた、後藤氏の「基本的には全ての性行為は意に反している」というのは、おそらくこの非対称性を背景としているのでしょう。女性側に大きく偏ったリスクがある行為について、基本的に合意であり特別な場合に合意がないのだという考え方よりもむしろ、デフォルトが不合意で特別な場合にそのようなリスクを受け入れてもいいと思うのだと考える方が自然だというのはその通りといえましょう。

 そのような侵襲性の高い行為について、よほどのこと(とはいえ相手の合意があればいいだけなんだけど)がない場合は原則として違法であるとするのは、果たしてそこまで不条理なことでしょうか。

 今回は様々な視点から「原則違法化」という主張の誤りを指摘しましたが、それは相手方の主張を正確に理解し、性犯罪の実態を抑えてさえいれば、どのような立場に立ったとしてもこのような愚にもつかない主張をすることはまずないということを示したかったからです。
 つまり、あのまとめで嬉々として自説を開陳している人たちは、それすらできてないってことなんですけど。


犯罪学者が提唱する本当の「最強の痴漢対策」

 さて、前回「痴漢に安全ピン」について論じましたが(『なぜ痴漢に安全ピンを持ち出さざるを得ないのかを考えない議論に価値はない』参照)、これは別の面では「おれのかんがえるさいきょうのちかんたいさく」がどんどん出てくるということにも繋がっています。しかし残念ながら、このような対策のほとんどは、その発案者が仮に隣接領域の専門家であったとしても、たいして効果のなさそうな、まさしく「さいきょうのちかんたいさく」レベルになっている実情があります。

 私はこれまでにも、痴漢に関する記事を書く際にちらほらと、痴漢対策はこうすべきみたいな話を書いてきていましたが、ちゃんとまとめたことがなかったと思うので、ここいらで本当の「最強の痴漢対策」をまとめておこうと思います。

 どこへアプローチするか
 痴漢に限らず何らかの対策を考えるうえで大切なのは、原因を特定し添えに働きかけることです。というわけで、まずは痴漢の原因って何だろうということを考えてみます。

 犯罪というのは基本的に、個人の要因と環境の要因の組み合わせで起こるものだというのが近年の考え方です。つまり、普段は犯罪をしない人でも環境が整えば「魔が差して」しまうこともあるし、どんな環境でも一定の高い確率で犯罪をする人もいるというわけです。

 ゆえに、犯罪対策ではこの2つに働きかけるのが大切です。ただし、それぞれの要因への働きかけには長短があります。
 環境要因は容易に変えられる場合もあれば、きわめて困難な場合もあります。また一見容易に変えられるように見えても、それをすると特定の人々に著しい負担を押し付けることになるという可能性もあります。
 個人要因に働きかけることは、うまくいけば絶大な効果が得られる一方で、そもそも難しかったり、働きかけ自体が人権侵害になったりする場合があります。まぁ、痴漢の場合は常習的に他者の権利を侵害するような行為を繰り返しているわけで、その点は心配する必要はないと思いますが。

 痴漢へのアプローチ
 というわけで、犯罪対策には環境要因と個人要因に対処すべき、という話になるわけですが、個人要因について掘り下げることにあまり意味はありません。というのも、それは個々のカウンセリング技法の研究ということになりますから、臨床心理学の素人が言及してもあまり意味のある議論になりません。

 なのでここでは環境要因について言及することとします。環境要因といっても色々ありますが、痴漢対策では「検挙率を上げる」この一点に集中すべきであると考えます。
 なぜなら、犯罪一般において、犯罪を促進する環境要因としてまず考えられるのが「罰の確実性」だからです。これは学習心理学の知見ですが、罰の確率が低いと動物はその行為をなかなかやめません。一方、その行為をすると毎回罰せられるという状況であれば、動物はすぐにその行為をやめます。実際には、少しだけ罰せられない可能性のある部分強化のほうが学習効率はいいんじゃないかとかありますけど、原理的に「犯罪をもらさず罰する」ことは不可能なので、細かいことはともかく検挙率を上げることに注力すればいいでしょう。

 検挙率を上げるアプローチの利点は、大筋の方針を決定することで細かい対策の方向性を定めるとともに、あらゆる場面での痴漢行為を防ぐことが容易であるという点です。満員電車の痴漢とそれ以外の場所の痴漢では対策も異なってしまうのが普通だと思うのですが、「痴漢の検挙率が高い」というざっくりした認識が社会に広まれば、場面に限らず痴漢が抑止されることが期待されます。

 もっとも、ここで検挙率検挙率と言っていますが、環境要因としては確かに検挙率の低さは最大の促進要因とはいえ、検挙率が高くなることはそのまま問題の解決を意味しません。「罰する」という言葉を使っているように、検挙が最終的に罰ないしは治療へ繋がらなければどうにもなりません。検挙されたが不起訴で終わっては捕まらなかったのとあまり変わらないのです。なので以降の議論では、まず検挙率の上昇のための方策を考え、次いで検挙した痴漢をいかに治療へつなげるべきかを考えることとします。

 検挙率上昇のために
 では、痴漢の検挙率をあげるためにどうすればいいのでしょうか。それには、そもそもなぜ痴漢されたという被害の訴えが多いにもかかわらず、その痴漢を捕まえたという訴えは少ないのかを考える必要があります。そして、その原因を排除すれば、自動的に痴漢の検挙率が上がるという寸法です。

 (電車内の)痴漢を捕まえるハードルの高さの原因となっている主な原因を書き出すと、主に以下の2点があげられます。
①そもそも女性一人で男性を捕まえておけない。ましてや警察引き渡すなんて無理。
②痴漢を捕まえていると会社や学校へ遅れるので諦めざるを得ない。

 1点目はある種自明でしょう。欧米では周りの人が協力してくれるといいますが、そうでもなければ大の男を捕まえて警察に引っ立てるというのは、同じ男であっても難しいものがあります。
 2点目は、特に入試の時期に痴漢が増えるというのと関係もしています。痴漢被害の訴えと時間厳守の約束を天秤にかけ、後者を取らざるを得ない被害者はかなりの数であると思います。
 これらの対策は別々に考え、以下の2つにまとめることができます。

 ①の対策 警察を増やせ
 ①はかなり単純で、警察に引き渡せないなら警察が捕まえればいいという話です。私服警官にせよ制服警官にせよ、「痴漢です」と訴えがあった瞬間に飛んでこれれば被害者が何かする必要はないわけですから。それに、どこに警察がいるかわからないという状況はそれだけでも抑止効果があるでしょう。

 この提案には「そんな人員どこにいるんだ」という反論が予想されますが、いるじゃないですか。共産党を散々付け回している無駄な人員が。いらない仕事で暇をつぶしている公安をこちらに回したほうが、よほど世のためです。
 それに、電車に警官を乗せるのは常にやる必要もありません。定期的に私服警官をどっと動員し、痴漢が捕まるんだという印象を与え、痴漢それ自体を減らしてしまえばそこから先は多くの人員を割く必要もなくなります。

 ともかく、警察が本気になれば存外簡単にこの対策は実行できます。実行可能性も対策には重要な要素ですから。

 ②の対策 通勤時間をずらせ
 ②の対策は、要するに約束の時間があってそれに遅れられないなら、遅れてもいいようにしてしまえという発想です。通勤時間が柔軟に変えられるなら、痴漢を捕まえていて遅れても不都合はないわけです。

 そしてこの対策には、満員電車を解消するというもう1つの対策にもつながるというメリットもあります。必ずしもそうではありませんが、満員電車は痴漢発生の重大な要因の1つといえるでしょう。被害者は逃げにくく、加害者は逃げやすい構造と、被害の訴えを「迷惑」とみなす大多数に囲まれる構造上の問題を解消するためにも、満員電車は解消すべきです。

 満員電車が解消されれば、車内における警官の痴漢検挙活動も容易になります。また、混雑していない分加害者を取り違えるタイプの冤罪も起こりにくくなるでしょう。いいことづくめです。
 最後に、通勤時間に遅れても構わなくなれば、「被害者が声を上げたせいで会社に遅れる」という非難は一切封じられます。

 もちろん、遅れてもいいようにできる約束ばかりではないでしょうが、しかしこの対策は、そのメリットの大きさから、働き方改革の意味も込めてぜひ実現に移すべきです。この対策は一見実現が難しそうに見えますが、まず政府が本気になって労基署を動かして長時間労働を排し、そこから提言を行えば困難というほどでもありません。ようは本気度なのです。

 検挙から治療へつなげるために
 では、検挙率を上げてからの対策です。痴漢は盗撮と並んで再犯の多い犯罪であることが知られているために、検挙した加害者をいかに治療へつなげるかは極めて重要な要素です。

 ここで私は、刑法に「性的侵略罪」のような、強制わいせつまでいかないけど他者の性的自由を侵害する行為を包括的に取り締まる法律の新設を提案します。
 この「性的侵略罪」では、痴漢のように服の上から体を触る行為のほか、盗撮のように行為自体が刑法ではフォローされていなかった行為(『やはり盗撮は刑法で包括的に対策すべき』参照)、セクシャルハラスメント、また衣服に体液をかけたるといった器物破損で取り締まられていたが明らかに性的な要素のある行為、性器を露出するといった今までは公然わいせつで『社会の性的道徳秩序の維持を目的』として規制していたが明らかに性的自由の観点から処理したほうが適切であると考えられる行為を包括的に含み、禁止します。

 つまり、最低限の道徳である刑法で、より明確かつ広範囲に「個人の性的自由」を保護することを打ち出す規制を作り出すべきということです。

 そして、「性的侵略罪」の特徴として、有罪となった者に必ず実刑を科すこと、治療を義務付けることを盛り込みます。
 これは、罰金のような軽微な罰則では治療につながらないためです。本当であれば執行猶予もなしと言いたいところですが、それは難しそうなので治療を義務付けるということで良しとしましょう。

 むしろ執行猶予を適切に活用し、社会との断絶を生み出さないようにしつつ治療を続けていくことが大切かもしれません。重要なのは、治療をすべきであって刑罰自体は重くある必要はないということです。

 もう1つ、この「性的侵略罪」の利点は、あくまでこれらの行為が治療の対象でありつつも、罰則の対象でもあることを打ち出せることです。『【記事評】『DAYS JAPAN』最終号を考える(週刊金曜日2019年4月12日 (1228)号)』でも論じたように、性犯罪加害者の治療が大切であるという話が転じて、治療のために加害者の責任を免ずるような言説が出てきてしまっているのが現状です。しかしそうではなく、あくまで罰則ありきで治療につなげるのだという立場を維持することは、社会における性犯罪の認識を考えるうえでも重要でしょう。

 対策をまとめると
・電車内に警官配置
・出社時間をずらし満員電車解消
・性的侵略罪の設立
 ということになります。刑法の新設はさすがにハードルが高そうですが、前2つはそれに責任を持つ組織が本気になれば明日からでも対策に乗り出せることなので、是非ともやるべきです。

やはり盗撮は刑法で包括的に対策すべき

 秋田市立中学校で4月、同僚の女性職員のスカート内を盗撮したとして捜査していた男性臨時講師(28)について、秋田県警は県迷惑防止条例違反の疑いでの立件を見送る方針を固めた。16日、県警への取材で分かった。条例は不特定多数の人が利用する「公共の場所、乗り物」での盗撮を規制しているが、校舎をこれに当てはめるのは困難という。
 秋田市教育委員会によると、臨時講師は4月、教室内で女性職員2人を小型カメラで盗撮。学校が県警に被害届を出していた。
 臨時講師は1月に県内の公共施設で10代の女性の下着を盗撮したとして4月12日に逮捕、送検された。
 秋田の校内盗撮、県警立件見送り 条例「公共の場」に該当せず-共同通信
 この件です。

 なぜ立件見送りなのか
 本件が立件を見送られた最大の原因は、記事にあるように県迷惑防止条例が「公共の場所、乗り物」での盗撮を禁止しているという点にあります。
 おそらく、本件の現場となった「中学校の校舎の中」は、あくまで市の土地であって、公共の場所ではないという判断になったのでしょう。

 通常、盗撮への対処は現場によって大きく2つに分かれます。電車内や駅のホームといった公共の場所では、迷惑防止条例が適用される場合が多いです。一方、個人の家に隠しカメラなどを設置した場合、その設置の際に私有地に侵入したとして不法侵入などで対処することが多いようです。

 意外と高い「盗撮」のハードル
 市の中学校の校舎内が「市の私有地である」ので公共の場所ではないとみなされ、それによって迷惑防止条例の適用が妨げられるのであれば、実は本件のような盗撮事案を処理する法的根拠がなくなります。というのも、加害者が講師のような、その施設で働く職員であった場合、不法侵入を適用することも難しいからです。

 こうなると、盗撮という明らかな人権侵害行為を働いているにもかかわらず、それを裁く法律が欠けているという事態になります。私有地において不法侵入が適用されにくい立場の者の、本件のような盗撮を禁じる法律は、実は国内に存在しません。

 刑法で包括的な対策を
スクリーンショット (37)

 上の図は法務省の研究部報告55『性犯罪に関する総合的研究』の第4章に掲載されている、性犯罪者の前科の有無の割合のグラフです。盗撮は一番下ですが、痴漢と並んで性犯罪前科が突出して多いことがうかがえます。

 このグラフからわかるように、盗撮は痴漢同様、依存症的に繰り返す者の多い犯罪です。このような犯罪を防ぐには、検挙した盗撮犯をきちんと治療へとつなぎ、再犯を防止することが必要です。
 しかしながら、本邦の盗撮対策は遅れに遅れ、刑法で禁止すらしていない現状です。日本の盗撮対策は迷惑防止条例と住居侵入罪の応用に頼りきりであり、盗撮が性犯罪として明確に位置付けられた対策になっていません。

 このような、盗撮を犯罪として軽く見、刑法による禁止規定すら設けない態度もまた、盗撮犯の背中を押す要素になっているでしょう。強制性交等罪の改正と合わせて、全国的に、場所を問わず、過不足なく盗撮を禁じることのできる法律を作り上げる必要があります。

無罪判決批判に「ヒステリックな」反応をする弁護士たち

 3月28日、名古屋地裁岡崎支部は、娘に中学2年の頃から性虐待を続け、19歳になった娘と性交した父親に対する準強制性交等罪の事件で、父親に無罪判決を言い渡しました。
(中略)
 実の娘と性交をしても無罪放免という結論には多くの疑問が表明され、「これで無罪なら、どんなケースが性犯罪となりうるのか」と、司法に対する強い不信感が表明されています。 
 このたび、この事件の判決文に接することができましたので、判決の問題点、判決からうかがえる問題点を述べたいと思います。
 19歳の娘に対する父親の性行為はなぜ無罪放免になったのか。判決文から見える刑法・性犯罪規定の問題-ヤフーニュース
 先日、伊藤和子氏の手による判決文の分析を読みました。ここで俎上に挙げられているのは『「過去に抵抗したことがある」ことを根拠に抵抗不能を認めないのはいくら何でも不条理ではないか』で論じた、実の父親が当時19歳の娘を強姦した事件です。
 記事によれば、裁判所は性行為の事実、激しい暴行、抵抗が難しい精神状態にあったことまで認めています。にもかかわらず、いかのような理由で抗拒不能という検察側の主張を退けています。
 判決はこの条文を本件にどうあてはめたのでしょうか。まず、直前にあった暴行の影響はどうでしょうか。

 Aが執拗に性交しようと試みる被告人の行為に抵抗した結果受けた本件暴行における暴力はAのふくらはぎ付近に大きなあざを生じるなど、相応の強度をもって行われたものもあったものの、この行為をもって、その後も実の父親との性交という通常耐えがたい行為を受忍しつづけざるをえないほど強度の恐怖心を抱かせるような強度の暴行であったとは言いがたい。
 出典:判決文


 次に、精神科医から、女性は抗拒不能な心理状態だった、という鑑定意見が出ていることについてはどうでしょうか。判決は

 Aが抗拒不能の状態にあったかどうかは、法律判断であり、裁判所がその専権において判断すべき事項
 出典:判決文


 として、鑑定意見などによって裁判所の判断は左右されないんだぞ、という姿勢を示したうえで、

 Aが本件各性交時において抗拒不能状態の裏付けとなるほどの強い離人状態(解離状態)にまで陥っていたものとは判断できない
 出典:判決文


 と判断しました。
(中略)
 そして最後のまとめとして、判決は以下のようにダメ押しをして、無罪としたのです。

 本件各性交当時におけるAの心理状態はたとえば性交に応じなければ生命・身体等に重大な危害を加えられるおそれがあるという恐怖心から抵抗することができなかったような場合や、相手方の言葉を全面的に信じこれに盲従する状況にあったことから性交に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていたような場合などの心理的抗拒不能の場合とは異なり、抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するにはなお合理的な疑いが残るというべきである。
 出典:判決文


 つまり、女性が被告人に対して抵抗しがたい心理状態にあったとしてもそれだけでは十分でない、
●「解離」という精神状態に至った
●生命・身体などに重大な危害を加えられる恐れがあった
●性交に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていた場合
 という極めて高いハードルを課して、これをクリアしない限り、いかに性虐待があっても、親から無理やり性交されても、レイプにはならない、父親は何らの刑事責任を問われない、というのがこの判決の結論なのです。
(太字は筆者、記事中の引用部分を示す)
 記事を読む限り、裁判官は極めて恣意的な判断で検察の主張を退けているとしか考えられません。そもそも「解離」状態までいかずとも抵抗が難しい場合があることや、身体に重大な危害が加えられる恐れがあることを自分自身で認定していることを無視し、かつ「性交に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていた場合」という厳しい基準を突然引き出しています。これは明らかに「疑わしきは被告人の利益に」を逸脱しています。

 私は先日の記事で、暴行脅迫がなかったので準強姦にかけたのではないかという主旨のことを述べましたが、記事によれば抗拒不能は一定緩い基準で認められる場合も多く、そうすると検察はむしろ十分の勝機をもって挑んだのであり、私が当初思っていたほど挑戦的な起訴ではなかったのではないかと思います。

 判決批判が気に食わない弁護士たち
 さて、時を同じくして、東京では北原みのり氏らの呼びかけでこのような判決に対する抗議行動が行われました。その時の様子はハッシュタグ#itisrape_japanで主にわかります。
 元来より、一連の無罪批判に対して、上から目線で法律知識を振りかざすだけでなぜそのような批判が沸き上がっているか理解していないと思しき弁護士の反応は目に入っていましたが、#itisrape_japanの活動に対しての反応はさらに強いものでした。
 3月、性犯罪について無罪判決が続き、話題になりました。
(中略)
 それはさておき、性暴力は許さないという風潮が強い昨今、4件の無罪判決は、世間から大きな非難を浴びることとなりました。
 世間からの非難の中には、「実際に被害に遭っている女性の心理的状況に配慮がなされておらず不当だ」などと判決の事実認定のあり方に疑問を呈する、傾聴に値するものも含まれていました。
 しかし、多くは「性犯罪で無罪なんてありえない」、「これじゃ性犯罪者はやりたい放題」などという感情的なものが多く、性犯罪で無罪判決を出すこと自体に対して怒号を浴びせるものでした。今日なんて、性犯罪に対する無罪判決を非難するデモが行われているようです。
 弁護士の中にも、日本を「強姦天国」と揶揄する人物が表れたり(その弁護士は、それなりの考えをもってこの言葉を使ったようですが、言葉が独り歩きしていることは否めません)、政治家(共産党)の中にも、内容を吟味することなく一連の判決の非難をSNS上で繰り返す人物がいます。
 刑事司法には「無罪の推定」という絶対不可欠の原則があります。
 被告人が有罪であることは検察官が立証する責任を負っています。
(中略)
 リベラル派というのは、人権保護を重視する思想の持ち主のはずであり、したがって、通常は「冤罪を防ごう」などと叫んでいるはずなわけです。
 冤罪を主張する再審事件について無罪判決が出たりすると、肯定的なコメントを出す。
 それがリベラル派のはずなのです。
 が、こと性犯罪ということになると、どうやら思考が全く逆転してしまう人たちが、中には含まれているようです。
 「性犯罪で無罪なんて許せない」という思想はつまるところ、「性犯罪については無罪推定の原則を適用しなくていい」、「疑わしきは罰せよ」ということを意味することになるからです。
 つまり、「性犯罪をやったと疑われるような人」なんて人に非ず。刑事司法の大原則を適用して権利を保障する必要なんてないんだという考え方なのです。
 嫌疑をかけられた時点でそれなりのことしてるんでしょ。
 女の子にテキーラ一気飲みさせるなんてそれ自体が許せない。
 児童ポルノ動画持ってるなんて気持ち悪い。
 だからこんなやつは疑われて罰せられてもいい。
 そういう考え方です。
 この「特定範疇に属する人」に対しては不当な取り扱いをしても問題ないという考え方、何かに似ています。
 レイシズムです。
 日本におけるレイシズムは、主に在日コリアンの方を標的にしており、その徹底的な排除を謳っています。
 強姦天国、冤罪天国。-弁護士テラバヤシは、本日も晴天なり
 上の二つの反応は典型的で、かつ中でも強いものでしょう。後者のツイートは、デモに参加していた人々の中に、従来より被害者支援の活動をしてきた者がいたことを無視して得々とそれっぽいことを語るという、マンスプレイニングのお手本のようなものでした。

 重症なのは前者のブログでしょう。報道を見れば4つの事件のうち3つが「同意のない性行為があったと認定されたにもかかわらず無罪」という事例であり、それへの批判が「推定有罪!」になるわけではないことは自明であるはずですが、基本的な事実誤認を犯したうえでレイシズムと同じだと断じる愚を犯しています。
 一連の無罪判決批判は、その理路が第一に批判されており、それに加えて裁判官の偏見や制度上の欠陥が批判されているのです。それは人種に基づいて差別的な態度をとるレイシズムとどうして一緒になるのでしょうか。

 「無罪判決が出たのだから、被告人を有罪であるかのように批判するな」と言いたいのかもしれませんが、その行為が刑事犯罪として裁かれるかどうかと、その行為が批判に値するかどうかは全く別の話だということは『法律の素人が判決を批判するということ+「疑わしきは被告人の利益に」は理屈を捻じ曲げて被告人を無罪にしろという意味ではない』で論じました。

 感情的な反応はいけないのか
 同じ記事でも触れていますが、そもそも裁判制度は複雑なものであり、素人の批判は本来区分けして考えるべき論点を混同することはままあります。専門家の仕事は、そのような批判を単に切って捨てるのではなく、整理してまとめ、誤っているところは誤っていると指摘しつつ議論を深化させることでしょう。

 またこのような運動に対して、感情的であるという反応もありますが、これも考えてみれば奇妙なものです。ないがしろにされた当事者たちが感情的になるのは当然のことであり、感情的であることは直ちにその主張が誤っていることを意味しないからです。
 もちろん専門家であれば、感情から多少距離を置いて議論することを求められるかもしれませんが、しかしそれは感情を表出することがだめだというわけではありません。にもかかわらず「感情的である」という指摘をもってまるで批判そのものに応答したような気分になっているのはどういうことでしょうか。

 そもそも弁護士の仕事は第一に市民の権利の擁護です。法律は常に市民の権利を擁護するわけではないことは本件の一連の事例をもってしても明らかです。そのようなとき、単に既存の法律を得々と解説するだけでそこに批判的視点の加わらない者は、弁護士としての職責を全うしているとはいいがたいでしょう。

「過去に抵抗したことがある」ことを根拠に抵抗不能を認めないのはいくら何でも不条理ではないか

 2017年に愛知県内で抵抗できない状態の実の娘(当時19歳)と性交したとして準強制性交等罪に問われた男性被告に、名古屋地裁岡崎支部が「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として無罪判決(求刑懲役10年)を言い渡していたことが4日、分かった。判決は3月26日付。
 公判で検察側は「中学2年のころから性的虐待を受け続け、専門学校の学費を負担させた負い目から心理的に抵抗できない状態にあった」と主張。弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論した。
 娘と準強制性交、父親無罪 「抵抗不能」認定できず 地裁岡崎支部-毎日新聞
 この件です。
 まずは事件の状況を整理しておきましょう。

 「準強制性交」である理由
 本件で注目すべきは、被告が薬物や物理的な拘束を利用していない中で「強制性交」ではなく「準強制性交」での起訴となっている点です。このような起訴がどこまで一般的かはわかりませんが、有罪となっていればなかなか画期的な判例にもなったかもしれません。

 判決文が公開されていないので推測になりますが、このようなかたちでの起訴になったのは事件において「暴行脅迫」があったといい難かったからではないかと思います。「強制性交」で裁くためには、被害者の抵抗ができない程度に暴行や脅迫が必要ですが、性的虐待が日常的に繰り返し行われていたとすれば、被告は暴行脅迫を用いずとも性行為を強要できた状況にあったと考えるのが妥当でしょう(そもそも実の父親から性行為を強要されるという事実自体が「脅迫」だろうと思うんですけど)。

 そのような中で、被告を起訴するために検察がとった戦略が「準強制性交での起訴」だったということだと思います。確かに、繰り返しの虐待で抵抗不能に陥っていたと考えれば理屈は通ります。検察に関しては、難しい事例を積極的に起訴したことは評価されるべきでしょう。

 ちなみに、強制性交等罪には監護者性交等罪も含まれていますが、今回は被害者が被害当時19歳だったために使えなかったのだと思われます。監護者性交等罪で裁くには被害者が18歳未満である必要があります。

 あまりにも不条理な認定
 一方、裁判所の認定はあまりにも不条理なものに映ります。
 抵抗が可能であったかどうかを判断するうえで、裁判所はかつて抵抗を続けて拒むことができたことなどをもって「以前に性交を拒んだ際受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、暴力を恐れ、拒めなかったとは認められない」としています。

 そもそも娘が実の父親から性交を強要され暴力まで振るわれている状況で「暴力は恐怖心を抱くようなものではなく」というのが無茶苦茶なのですが、その根拠に過去の抵抗を持ち出すのが輪をかけてぶっ飛んでます。

 第一、今回裁判で裁かれているのは被害者が19歳の時に受けた2件の被害についてであり、この時に抵抗ができなかったかどうかが争点であるはずです。にもかかわらず過去の抵抗の実績を持ち出し「今回も抵抗できたはず」というのは、個々の被害の状況を軽視するものでしょう。もちろん被害者とて黙って被害を受けるばかりではなく、状況が許せば抵抗もするしそれが成功することもあるでしょうが、しかしその成功をもってありとあらゆる場面でも同様に抵抗可能だと判断するのは過度な一般化であるというべきです。
無題1

 加えて、過去に抵抗できたことをもって被告が無罪になってしまうとすれば、それは被害者にとってあまりにも理不尽です。このような認定が認められれば、被害者は加害者を刑事裁判で裁くためには1回も抵抗してはならないということになりかねません。
 裁判所の、過去の判決も含めた言い分を真に受けると上のようなフローチャートになります。注目すべきはこのフローチャートのスタートが「抵抗しましたか?」からになっていることで、抵抗が必要な性行為なんて重大な人権侵害に決まっているのですが、それでも有罪にするにはこれだけの理不尽なハードルを越えなければならないことになってしまっています。

 あまりにも狭い認定範囲
 では今回の事件の被害者が、本当に全く抵抗しなければ有罪にできたかというとそれも実に怪しいのが日本の司法の現状です。
 当時12歳の長女に乱暴したなどとして、強姦と児童買春・ポルノ禁止法違反の罪に問われた男性被告の判決公判で、静岡地裁は28日、強姦罪について「唯一の直接証拠である被害者の証言は信用できない」として、無罪を言い渡した。
 判決によると、被告は2017年6月に自宅で当時12歳だった長女と無理やり性交したとして、昨年2月に起訴された。
 公判で検察側は、長女が約2年間にわたり、週3回の頻度で性交を強要されたと主張したが、伊東顕裁判長は、被告方が家族7人暮らしの上、狭小だったと指摘。「家族がひとりも被害者の声に気付かなかったというのはあまりに不自然、不合理」と退けた。
 12歳長女への強姦で無罪、静岡 地裁「被害者の証言信用できず」-共同通信
 例えば静岡で判決があったこの事件も、報道から推測するに強い抵抗はなく、故にほかの家族も気づかなかったという理路であると思うのですが、こちらは抵抗が強くなかったであろうことが無罪の傍証として利用されてしまっているのです。もちろん準がつくかどうかの差異はあるとはいえ、裁判所は「疑わしきは被告人の利益に」を超えて何が何でも被告人を無罪にしようという動機で判断しているとしか思えない事例が散見されます。

 裁判所の言い分を真に受けるのであれば、常態化している性的虐待においては、準強制性交であれ強制性交であれ、極端な話、一度でも抵抗に成功すればそれ以降の加害はすべて「抵抗不能ではなかった」か「抵抗を難しくするほどの暴行脅迫がなかった」ということになってしまい、有罪にすることが難しくなります。

 暴行脅迫要件は悪い文明
 このような歪んだ論理は、やはり性犯罪における暴行脅迫要件の存在のせいであるところが大きいのでしょう。
 本来、合意がない性行為はそれ自体が重大な人権侵害です。故にこのことを問題にするときは、まず合意があったかどうかが重要であって、暴行脅迫はその傍証として機能するべきところです。
 しかし暴行脅迫要件がある場合、被害者側が単に合意がなかっただけではなく、抵抗が難しくなる程度の暴行脅迫もあったことを証明しなければなりません。つまり、暴行脅迫が補強材料ではなく、必須の要件となって性犯罪の範囲を狭める働きをしてしまっているのです。
 もちろん暴行脅迫があれば合意があったとはとても言えないでしょうが、暴行脅迫がなければすべて合意があったということにはならないはずです。しかし暴行脅迫要件の存在は「暴行脅迫がなければ合意があったも同じ」という裁判での認定を導いています。
無題2

 その結果、本来問題とすべき合意のない性行為のさらに狭い範囲しか性犯罪として裁けないという状況が生じています。

 しかも本邦においては、性犯罪が故意犯であるために「合意がなく、かつ暴行脅迫があった」だけではなく「その暴行脅迫を抵抗を阻むものとして振るっていると加害者が認識し、かつ合意がなかったと加害者が認識している」といういくつものハードルが登場することになります。
 これでは性犯罪として有罪になるのはあまりにも明白な事例のみでしょうし、現に判決を見ればそうなっています。しかし犯罪としての悪質性は、むしろ手練手管を用いたために明白な事例ではなくなり、故に厳しい認定要件を掻い潜ることのできる加害者のほうが上回るとも言えます。そのような事件が有罪判決を免れ、更生治療のレールにも乗らないというのは問題です。

 やはり暴行脅迫要件はつぶすほかないでしょう。

法律の素人が判決を批判するということ+「疑わしきは被告人の利益に」は理屈を捻じ曲げて被告人を無罪にしろという意味ではない

 この前、『「抵抗しなかったのは被害者の精神状態によるものだから無罪」という輪をかけて意味不明な判決 あるいは性犯罪に限って慎重になる人々』を書いた時にもちらっと言及したんですが、性犯罪に関連する批判を展開すると必ずと言っていいほど「もっと慎重に云々」というような趣旨の反論を目にします。今回もそのような事例を山ほど見てきたので、改めてこれについて論じておきましょう。

 「判決全文を見ないと」
 この手の主張で最も頻繁で、かつ説得力があるかのように見えるものの1つは、「全文を見ないと詳細がわからないので、報道から得られる情報のみで批判を展開するのはまずい」というものです。確かにこれは正論のように聞こえますが、しかしこれは正論になるための重要な前提をネグレクトしています。

 その前提というのは、「すべての裁判で判決文の全文が速やかに公開される」ということです。残念ながら本邦では、この前提は必ずしも満たされていません。
「判決書(判決文が記された書面)は、原則として、誰でも閲覧できます」
 と白川弁護士は言う。では、実際に閲覧したい場合はどうすればいいのだろうか。閲覧申請の窓口は、民事事件と刑事事件で異なるようだ。
「民事事件については、訴訟が終わっている場合は、第一審を担当した裁判所の記録担当係の窓口で、窓口にある閲覧申請書に記入して提出します。控訴や上告でまだ訴訟が続いている場合は、高裁などその訴訟を担当している裁判所に申請します。
 ただ、判決書の中に、当事者の私生活についての重大な秘密や営業秘密等が記載されている場合、その記載部分の閲覧が制限されることがあります」
 では、刑事事件の場合はどうだろう?
 「刑事事件の場合、判決書を含む確定記録は、第一審の裁判所に対応する検察庁で保管されています。したがって、検察庁の記録担当係の窓口で、閲覧申請をします」
 刑事事件についても、民事事件と同じく、プライバシー保護の観点からの閲覧制限があるという。
(中略)
 だが、いまは情報はインターネットで収集するのが当たり前の時代だ。裁判所や検察庁に行かなくとも、ネット経由で判決文を見ることができたら便利だが、それは可能なのだろうか?
「裁判所のホームページ(http://www.courts.go.jp)の『裁判例情報』というコーナーで、裁判例を検索、閲覧することができます。ここには事件名、裁判年月日、裁判要旨の他、判決の全文も掲載されています」
 ありがたいサービスだが、すべての判決が掲載されているわけではないようだ。
 「このコーナーに掲載されるのは、裁判所が選択した主要な判決だけです。掲載の基準は定かではありませんが、知的財産に関する判決は比較的よく公開されているといえます。
 ただ、インターネット上に掲載されているものとされていないもので、判決の効力等に違いがあるわけではありません」
 あの裁判の判決について知りたい! 関係者以外でも「判決文」は閲覧できるの?-弁護士ドットコムニュース
 このことは、上で引用した記事からも明確です。インターネットで公開される判決は裁判所の恣意的な判断によって選別されたもののみであり、そうでないものを閲覧するためには第一審に対応する検察庁へ直に足を運ぶ必要があります。
 これでは専門家であれ非専門家であれ、全文にアクセスできるものは極めて限られることになります。このような前提の下で「全文を読まなければ批判するな」ということは、実質的に裁判所の判決を批判するなと言っているようなものです。

 もちろん、判決に関する報道の正確性や、重要な論点を過不足なくおさえているかという点には保留がつくでしょう。しかしそのような保留があったとしても、報道をもとに判決を批判するという行為それ自体を否定する理由にはなりません。

 無罪判決を下されたから?
 もう1つ。『なぜ「拒否できない」ことが認められているのに「準強姦罪は無罪」なのか』と『「抵抗はできないけど同意のそぶりはできる」という非対称性』で取り上げた事件も併せて、無罪判決を批判するうえでこういう批判もあります(ツイートの引用元)。
 なるほど。控訴するかどうかという段階であれ「疑わしきは被告人の利益に」という原則があり、しかも第一審で無罪判決を下されているのだから、被告を犯罪者であるかのように扱うような言説はやめるべきであるということでしょう。
 しかしこれ、「疑わしきは被告人の利益に」という言葉の本来の意味を捻じ曲げ、かつ刑法という狭い範囲での判断をあらゆる範囲へ広げようとする詭弁です。

 まず「疑わしきは被告人の利益に」について。これはあくまで、「被告人を有罪にするには合理的な疑いが残るなら、それは被告人の利益となるように処理する」というようなことです。つまり「この証拠から被告人が有罪であるとも無罪とも解釈できるなら、無罪側をとる」ということです。しかしそれはあくまで、どっちか迷うレベルなら被告人の利益と解釈しようということであって、合理的な理屈や心理学の知見を無視してまで何としてでも被告人を無罪にしていいというわけではありません。少なくとも、本ブログで批判した2つの判決に関しては、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を超えて不可解な判決を下しています。
 …しかし、かくのごとく「神話」が存在するのかどうかを問題とする以前に、刑事裁判には鉄則がある。「疑わしきは被告人の利益に」。人権感覚に溢れた天才が突然決めたものなどではなく、人類が冤罪の歴史を重ねに重ねてようやくたどりついた鉄則。被告人が無罪を証明するのではない。被告人を起訴した検察官が、証拠に基づいて、合理的な疑いを残さないレベルで立証する責任がある。一応合理的に説明ができれば有罪なのではない。合理的、具体的な疑い(可能性)が残れば無罪なのだ。
 残念ながら、ご指摘の書物は根本的に刑事裁判を理解していない、あるいは故意に曲解しているとしか思えない。以下の本書に関するアマゾンでの〝 般若心経〟氏の書評は、それを的確に指摘している。なお、言うまでもないが、当方は、この〝 般若心経〟氏と全く無関係である。この書評はさておき、他の書評での氏の辛辣な司法に対する論評は、必ずしも当を得ていないように思う。
 興味深いことですが、かつて『【書評】逃げられない性犯罪被害者 無謀な最高裁判決』の記事を書いたとき上のようなコメントをもらいました。Amazonの書評にも同様の批判があるようです。しかし本書を読めば、本書が批判している判決がこの原則を超えて無理筋な判断を下していることは明らかです。
 性犯罪被害者の権利を侵害する口実に「疑わしきは被告人の利益に」を使われてはいけません。

 もう1つの、刑事裁判の適用範囲に関して。刑事裁判はその罰が強固であることから、非常に限られた範囲でしか犯罪と認定しません。これは刑事の性質上やむを得ないことです。しかし裏を返せば、犯罪とみなされずとも、人権侵害であることが明白な行為というのは多々あります。

 本ブログで判決を批判した2つの事件は、まさにその事例というべきでしょう。1つは抗拒不能に乗じて性行為を強要し、もう1つはそもそも強要する目的で暴力をふるっており、そのこと自体は裁判でしっかり認定されているのですから。
 もちろん、刑事裁判において無罪になった被告を、犯罪者と同様に扱うようなことがあってはなりません。しかし批判の文脈において、判決の中でそれが犯罪とみなされずとも、少なくとも人権侵害があったことが明確になっているとすれば、その行為自体を批判することは全く妥当な行為です。

 『名誉毀損の判決にはいくつか段階があることすら理解できない右派論壇』でも似たようなことを論じましたが、刑事裁判における無罪にもさまざまあり、疑われた行為がまったくなかった場合もあれば、行為は確かにあったが無罪になったということもあります。今回の事例は後者の典型ですが、刑事罰を免れたからと言ってその行為に関する道義的な責任も全く免れるということにはならないはずです。
 ゆえに、刑事裁判で無罪になった被告を、その行為について批判することは全く妥当であり、推定無罪の原則に反するものでもありません。

 極めて不可解で興味深いのは、このような「突然良識的になる」ような反応が性犯罪に限って盛んに見られるということです。こういうとまた「性犯罪に限っているわけではない!」と反論されそうですが、普段大した反応を受けないTwitterなどで盛んに反応されること自体1つの傍証ですし、それを抜きにしても性犯罪以外の事件で冤罪を心配するような声はほとんど聞いたことはありません。

【書評】キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る

 今回はちょっと変わり種な1冊。実は『京都のヘイトデモカウンターへ行ってきた #0309nohate京都』のあとで京都の町をぶらつき、迷い込んだ古書店でたまたま見つけた1冊だったりします。こういう出会いがあるから古書店巡りはやめらんないんだよ。

 それはともかく、本書は弁護士である著者が、ミステリその他の小説中で描かれる犯罪、ないしは法律上の処理へ突っ込みを入れまくるというひねくれた1冊になっています。まぁ、私だって『アラフォー刑事と犯罪学者』シリーズを「巷の犯罪心理学小説が全然正しくねぇじゃねぇか!」という思いから書き始めたわけで、同じ穴の狢であり、非常に親近感を覚えるわけです。警察的に正しいのかって?聞こえんなぁ。

 『マークスの山』にケンカを売る
 著者がとりわけ力を入れて、特に批判しているのは高村薫の『マークスの山』です。この作品は直木賞を受賞し累計100万部売り上げるベストセラーになりましたが……あらすじを読んで弁護士じゃなくてもずっこけます。これはひどい。

 この作品は主に4つの出来事からなっています。それは
①南アルプスの発電所近くで、猛吹雪の中作業員が人を獣と見間違え撲殺してしまい、「殺人犯として」懲役8年の刑に服する。
②数年後、①の事件の近くで別の遺体が発見される。被害者の身元につながりそうな物品は一切見つからなかったが、①で殺人犯となった作業員が「自分がやったと思う」と証言し、これも殺人罪で有罪になる。
③同時期、東京都内である人物が連続窃盗事件を起こす。その窃盗犯が最後に侵入した家でさまよっていると、家主がその人影に驚いて階段から転落、窃盗犯は「強盗致傷罪」で逮捕、裁かれた。
④事件の背景が明らかになる。ある大学の山岳部に所属する5人(医師、検察官、弁護士を含む)とある人で山に登るのだが、山岳部のリーダーはそのある人に命を狙われていると思い、山岳部のうち2人と共謀して殺害しようとするが途中でやめる。しかし偶然にもそのある人がテントで急死し、彼らは「この状況では過失致死や未必の故意で起訴されるのは必定」とその人を山中へ埋めて逃げる。
 というものです。

 ①にかんして、これは「殺人罪」で起訴されることはまず考えられません。状況からみて過失致死であろうというのが著者の考えです。しかしこのくらいであれば、詳しくない作者なら間違えるかもしれません。
 酷いのはここからです。②ですが、ここでは証言をした犯人(とされる人)を、何の裏付けもなく真犯人として処理してしまっています。普通は裏付け捜査が行われ、証拠が出なければいくら自白しても犯人にならないのは弁護士でなくても知っています。だからこそ多くの冤罪事件では、検察が証拠をねつ造したり無罪の証拠を隠したりするのです。

 ③もあり得ません。窃盗犯が手を出していない以上、家主の転落を考慮して「強盗致傷」になるということはあり得ません。そして④、メンバーの中に法律の専門家が2人もいながら、なぜこの状況で起訴されるなどという奇想天外な発想へ行きついてしまうのでしょうか。殺そうとか考えていたからでしょうか。

 法律的にはいくら何でもあり得ないことの連続である作品です。もちろんフィクションである以上一定の脚色や偽りは必要ですが、これはいくら何でも度が過ぎているというか。

 専門家ですら
 弁護士からみて酷い作品はこれにとどまりません。ていうか、もはや法律関係ないだろという部分で突っ込みたい作品がボロボロ出てきます。
 量刑判断が重要なテーマにもかかわらずそこで法律上重大な誤りを犯し、しかも「車でひいて殺してしまった人をトランクへ入れた」ことの是非が問われる作品なのに、トランクへ入れた理由がなぜか「車の座席には風呂敷包みの現金5億円があったから」という珍妙極まる夏樹静子の『量刑』。犯人がわざわざ自分のアリバイを崩す工作を行い、最後は証拠皆無の自白で締めくくられる森村誠一の『人間の証明』。殺人が疑われる不自然死ならまず行われる司法解剖が行われず、そのために一向に犯人が明らかにならないだけだった海道尊『チームバチスタの栄光』。

 そして極めつけは、現職の高裁判事が推薦、ゲラも読んでいるのに禁止されていないはずの反対尋問への誘導尋問を禁止しちゃう、刑事の立会いで被疑者との面会を認めちゃう、挙句「弁護士会から睨まれる」という理由で当番弁護士がなかなかならないシーンも書いちゃうというトンデモぶりを発揮した姉小路裕の『司法改革』でしょう。
 念のために付言すれば、当番弁護士は依頼があれば即受けることになっているそうです。

 ミステリ作家が犯罪を知らないという仮説にまた強力な証拠が。

 しかし著者は、何も文句ばかりつけているわけではありません。宮部みゆきの『名もなき毒』など優れた作品は素直に評価しています。中学時代『模倣犯』を読んで以降宮部みゆきは読んでませんでしたが、これは読んでみようかと思います。

 木村晋介 (2007). キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る 筑摩書房

「抵抗はできないけど同意のそぶりはできる」という非対称性

 福岡地裁久留米支部で今月12日に言い渡された準強姦(ごうかん)事件の無罪判決が大きな反響を呼んでいる。判決は「女性が抵抗不能の状況にあったとは認められるが、男性がそのことを認識していたとは認めることができない」として無罪の結論を導き出したが、ネットでは「こんな判決がまかり通るのか」「男性が『レイプだ』と思っていない限り、罪にならないってこと?」などと批判や疑問が相次いでいる。どんな理由で今回の判決は下されたのだろうか。【安部志帆子/久留米支局、平川昌範/西部報道部】
 
飲み会で泥酔
 判決によると、事件は2017年2月に起きた。福岡市内の飲食店でスノーボードサークルの飲み会が開かれ、20代の女性は友人と一緒に午後11時ごろに来店。女性はそのサークルのイベントや飲み会に初めて参加したが、「罰ゲーム」でショットグラスに入ったテキーラを数回一気飲みさせられたり、カクテルを数杯飲んだりした。その後、中央フロアのカウンター席で眠り込んだまま嘔吐(おうと)し、仕切り扉によって区切られたソファフロアに運ばれた後も眠り込んでいた。
 一方、無罪判決を受けた40代の男性は午前0時ごろに来店。女性とは初対面だったが、午前5時40分過ぎにソファで女性と性交し、少なくとも4人以上が様子を目撃した。その後、女性は別の人物から体を触られた際に「やめて」と言って手を振り払い、声を出して泣き、友人と店を出た。女性は翌日夜にサークルのLINEグループを退会した。

「女性は抵抗できない状態にあった」
 男性は逮捕され、準強姦罪(刑法改正で現在は「準強制性交等罪」に名称変更)で起訴されて裁判に。準強姦罪を定める刑法178条は「人の心神喪失もしくは抗拒不能(抵抗できない状態)に乗じ、または心神を喪失させ、もしくは抗拒不能にさせて、性交等をした者」としており、刑法が原則とする故意犯(自らの行為の犯罪性を自覚した上で行う犯罪)とされることから、争点は(1)女性が抵抗できない状態にあったかどうか(2)女性が抵抗できない状態にあったことを男性が認識していたか――の2点だった。
 そして判決。福岡地裁久留米支部の西崎健児裁判長は、争点(1)について、「カウンターで嘔吐しながらも眠り込む深い酩酊(めいてい)状態にあり、その後も無防備なまま眠り続けていたことから、飲酒後約1時間半経過していたとしても、女性は抵抗できない状態にあった」として、「抵抗できない状態にあったとはいえない」とする弁護側の主張を退けた。

「女性が合意していると勘違いしていた」
 一方、争点(2)については、「女性は目を開けたり、大きくない声で何度か声を発することができる状態にあり、それほど時間がたたないうちに別の人物から体を触られた時に『やめて』と言って手を振り払ったことから、飲酒による酩酊から覚めつつある状態であったといえ、外部から見て意識があるかのような状態だったと考えられる」と指摘した。
 そのうえで「サークルのイベントではわいせつな行為が度々行われていたことが認められる。男性はこの飲み会で安易に性的な行動に及ぶことができると考えていたとうかがわれ、女性から明確な拒絶の意思が示されていなかった」として「女性が許容していると男性が誤信してしまうような状況にあったということができる」と判断。故意ではなく、<女性が合意であると男性が勘違いしていた>という論理で無罪という判決に至った。
 判決はまた、「飲食店内で他者から見られる可能性があり、警察に通報される危険性もある中で、同意がないとか、抵抗できない状態にあると認識したうえで男性が性行為に及んでいたとはにわかに考えにくい」として、現場の状況も判断材料の一つとした。
(中略)
 では専門家はこの判決をどう見ているのだろうか。
 元刑事裁判官の陶山博生弁護士(福岡県弁護士会)は「女性は抵抗不能となるほど酒に酔っているのに同意のそぶりを示せるわけがない。論理的に苦しい判決」と首をかしげる。一方で「今回は男性の弁解を崩すに足る証拠が乏しかったのだろう」とも指摘。飲食店に居合わせた人たちの動きや女性のその後の行動などを詳しく調べれば、違った判決になっていた可能性もあるとみている。
 「古い刑法の考え方に基づく判決だ」と批判するのは甲南大の園田寿教授(刑法)だ。刑法38条は「罪を犯す意思がない行為は罰しない」としており、今回の判決も「女性が許容していると誤信してしまうような状況にあった」として男性の故意を否定した。だが、園田教授は「被告側が同意の存在を誤信したことについて合理的に説明できなければ故意犯と認定すべきだ。そうでなければ、身勝手な誤信は全て無罪になってしまう」と主張する。
 準強姦無罪判決のなぜ その経緯と理由は?-毎日新聞
 先日、『なぜ「拒否できない」ことが認められているのに「準強姦罪は不起訴」なのか』で扱った事件の続報が出ていました。しかし記事を読んでも酷い判決だなという印象はぬぐえません。

 「抵抗はできない」が「同意はできる」の謎
 この判決で注目すべきなのは、裁判官が被害女性の状態について、明確に「女性は抵抗できない状態にあった」と認定している一方で、同意の誤認については「外部から見て意識があるかのような状態だったと考えられ」、「女性から明確な拒絶の意思が示されていなかった」として「女性が許容していると男性が誤信してしまうような状況にあった」と認定しています。

 素朴に考えれば、抵抗できないような酩酊状態であれば、同様に性行為に同意することもままならないと考えるべきでしょう。しかしこの裁判官は、あたかも「抵抗はできないが同意はできる」状態が存在しているかのように論じています。裏を返せば、抵抗には一定のエネルギーや明確な意識が必要だが、同意にはそれが必要ないとでもいうかのような論理で判断を下しています。

 また、記事をよく読むと「女性から明確な拒絶の意思が示されていなかった」ことを同意の誤信の根拠としています。これは「明確な拒絶がないもの=同意」という考え方を反映しており、女性が同意しなければ同意ではないという近年の性的同意のありよう(Yes Means Yes)に真っ向から反する、前時代的な認識です。

 検察は被告の抗弁を崩せていないのか
 記事中に登場する専門家のうち、陶山博生弁護士と、引用部分にはありませんが奥村徹弁護士はともに、被告の主張を崩せなかったことが判決の原因であろうと述べています。つまり検察側が、被告の主張に合理的な論拠がないことを示せなかったのではないかという意見なのですが、私はこの主張にも首をかしげざるを得ません。というのも、少なくとも記事を読む限りでは、裁判官は極めて恣意的な、根拠のない主観的判断のみをもって、被告の主張が合理的であると判断しているにすぎないからです。

 例えば、裁判官は「飲食店内で他者から見られる可能性があり、警察に通報される危険性もある中で、同意がないとか、抵抗できない状態にあると認識したうえで男性が性行為に及んでいたとはにわかに考えにくい」と論じています。しかし一方で「サークルのイベントではわいせつな行為が度々行われていたことが認められる」とも述べています。つまりサークル内において、同意を明確にしないまま、おそらく場合によっては拒絶があってもなお性行為をするような事態が常態化しており、被告の行動は同意を誤認しているからというよりは、むしろ同意を無視しても咎められないことに自信があったが故であると考えるべきではないかと思われます。

 また「警察に通報される危険性もある中で」とも述べていますが、このサークルのメンバーの、少なくとも大半があけすけな状況下で性交することを咎めない規範意識であることは「サークルのイベントではわいせつな行為が度々行われていたことが認められる」という裁判官の論述からも明らかです。そのような規範意識の人々であることを認めている一方で、常態化していた行為の一部について「警察に通報される危険性もある」と、一般的な規範意識を突如復活させて判断するというのは極めて奇妙なロジックであるといえましょう。

 またすでに述べましたが、「女性から明確な拒絶の意思が示されていなかった」から誤信してもやむを得ないというのは、前時代的な性的同意の考え方に支配されており、通常その他の場面で採用されるであろう、積極的な同意がなければ同意したことにならないという基準が捨て去られているのもやはり奇妙です。この裁判官は、契約書に「この契約は拒否します」とサインがなければ、すべて契約が成立すると考えるのでしょうか。

 このような主張に対し、「いや理想はどうであっても、現実こういう解釈をすることが一般的であり、そのために被告が誤認をするのもやむを得ないのだ」という反論があり得るでしょう。そして、法廷の場では一定有効なのでしょう。
 しかしそうであれば、女性蔑視の酷い社会であればあるほど、被告が同意を誤信する余地が大きくなり、無罪になる可能性も高くなります。これほどの不条理、理不尽はないでしょう。

 裁判官の主張は、何らかの根拠に基づいているように見えて、その実一切のエビデンスに基づかないでたらめであるということは、とりわけ性犯罪に関してよくある話です。その点は『【書評】逃げられない性犯罪被害者 無謀な最高裁判決』でも論じました。
 今回の判決は、法整備の不備もありましょうが、第一には被告の本来無理筋な主張に裁判官がのったために生じてしまったものであろうと思います。もしこのような判決が維持されるのであれば、極端な話ですが、相手方の同意を踏みにじったことを自覚し、性犯罪を犯してしまったことを強く反省する被告に有罪判決が下る一方で、より悪質であろうと考えられる、ありもしない同意の誤信を強弁する被告が無罪放免となるような運用もあり得るでしょう。

 記事中の議論でも、過失犯を裁くことのできる立法をすべきという主張があります。私はその考えに賛成ですし、いずれ必要であろうと思っています。しかし一方で、相手の同意を踏みにじるという極めて能動的な行為について、過失犯が存在しうるという考え方には違和感も感じずにはいられません。

「抵抗しなかったのは被害者の精神状態によるものだから無罪」という輪をかけて意味不明な判決 あるいは性犯罪に限って慎重になる人々

 静岡県磐田市で昨年、25歳だった女性に乱暴し、けがを負わせたとして強制性交致傷の罪に問われたメキシコ国籍の男性被告(45)の裁判員裁判で、静岡地裁浜松支部は20日までに、「故意が認められない」として無罪判決(求刑懲役7年)を言い渡した。判決は19日。
 検察側は「被告の暴行で女性の反抗が著しく困難になることは明らか」と主張していたが、山田直之裁判長は、暴行が女性の反抗を困難にするものだったと認定した上で、女性が抵抗できなかった理由は、女性の「頭が真っ白になった」などの供述から精神的な理由によるものであると説明。
 「被告からみて明らかにそれと分かる形での抵抗はなかった」として、「被告が加えた暴行が女性の反抗を困難にすると認識していたと認めるには、合理的な疑いが残る」と結論付けた。
 女性に乱暴の男性に無罪、静岡-共同通信
 この件です。

 強制性交罪の構成要件
第177条
 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛門性交又は口腔性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。
 今回の裁判で裁かれている強制性交等罪は以上のように条文で書かれています。一般的に、ここでいう暴行または脅迫は被害者の抵抗を困難にする程度であるといわれています。

 判決文が公開されていないので報道から察するほかありませんが、無罪に至った理由は主に
・被害者が抵抗しなかったのは被害者の精神要因によるもの
・被告からみてそれとわかる抵抗がなかった
 の2点あります。

 後者の抵抗云々に関しては、はっきり言って意味不明です。抵抗を困難にする程度の暴行脅迫を要件としつつ、一方では加害者から見てはっきりわかるほどの抵抗を求めるというのであれば、全ての強姦事件が無罪になってしまいます。抵抗できれば暴行脅迫がなかったということになってしまい、抵抗できなければ暴行脅迫が抵抗を困難にする程度ではないとみなされてしまうからです。

 抵抗できなかったのは被害者の精神によるもの?
 問題は前者のポイントです。やはり判決文が明らかではないため、具体的な判断の根拠はわかりませんが、報道で見る限り裁判官は性犯罪被害者一般に対する理解があまりにも欠如していると言わざるを得ません。

 というのも、おそらく裁判官は被害者の「頭が真っ白になった」という供述から、被害者が特別暴力への抵抗力が弱いのであろうと判断しているのだと考えられますが、しかしこのような反応は性犯罪被害者にありふれています。性犯罪被害者が被害に対して義死反応のような、硬直を見せることはよく知られています。故に、少なくとも報道で明らかになっている供述からは被害者が特別暴力に脆弱であったとは考えられません。

 加えて、仮に裁判官の判断が正しく、被害者が脆弱であったとして、それを理由に被告の加害行為を免責することは正当でしょうか。なるほど、例えば身体的に脆弱な者に対して、平均的な人と同様にじゃれた結果死なせてしまったような事例であれば、少なくとも殺意は認められないでしょう。
 しかし今回のような事件では、裁判長が「暴行が女性の反抗を困難にするものだったと認定」しているような暴行を加えており、おそらく初めから性暴力を加えようという意図は明白です。そのような場合、「思ったより程度の弱い暴行で抵抗をあきらめさせれた」被告が、それを理由に無罪になることは明らかにおかしいのではないのでしょうか。

 性犯罪に限って慎重な人々
 一方で、無罪判決に対する批判に対しこういう反応もあります。
 もちろん判決文が分かっていない以上、批判は不完全なものにならざるを得ません。しかし一方で、判決文が必ずしも公開されるとは限らない、公開されたとしても話題が落ち着いて以降になる可能性もあるという状況がある中で、報道からだけでもわかる事実から批判を繰り広げるのは必要なことです。

 加えて、そもそもこのような「判決文を読まないとわからない~」という反応が、性犯罪に限って盛んに登場するという印象があるのが気にかかるところです。皮肉なことに、せいぜい15RTしかされていない私のツイートに対して、

 このような反応がこの数やってくるという事態それ自体が私の印象を裏付ける傍証になっています。もちろんこれはすべてではありません。要するにRT数と反応数が近似するという異様な状態が、性犯罪に限って慎重な人々の存在を明らかにしています。

 彼らの反応が性犯罪に限っていることは、彼らが性犯罪以外の犯罪報道に対して「推定無罪だから」「判決文が公開されていないから」と言わないことからも明らかです。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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