九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

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九段新報プレゼンツ #総選挙に役立つ本

 衆議院総選挙が告示されたので、今回は特別編。来る総選挙に向けて役に立つ本をピックアップしていきます。ただし犯罪学ブログという立場上、そっち方面へ分野が偏ることになりますのでそこはあしからず。
 また取り上げた本の中には、今すぐ候補者選びに役立つというものは少ないかもしれません。しかし短期的に役立つ知識ばかりが知識ではなく、貯め込んでおき忘れたころに火を噴くようなものもまた知識です。そのような長期的な観点からも、書籍を選んでいきます。
 なおリンクは本ブログの書評記事に通じています。また取り上げるものはすべて私が読んだことのあるものに限ります。

 安倍政権が何に立脚しているか
 中村一成(2014). ルポ京都朝鮮学校襲撃事件 <ヘイトクライム>に抗して 岩波書店
 高 史明(2015). レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット 勁草書房
 まず挙げるのはレイシズム、とりわけ排外主義にかかわるものを取り上げた2冊です。
 いうまでもなく、安倍政権の根幹にある要素の1つが排外主義です。『差別主義者は無限の証明を要求する』でも取り上げましたが、朝鮮学校に対する補助金排除の政策が代表的です。まぁこれは自民党だけの問題ではないのですが、終戦後から長年政権を担当してきた自民党に最も大きな責任があることは間違いありません。
 そして長期政権がそのような姿勢をとるということは、それを支持する人々の思想を反映しているためであろうと考えられます。そのような排外主義の行き着く先、不寛容と差別を放置する社会が表出するほんの一部が表れているのがこの2冊です。
 気鋭の社会心理学者である高氏による著作は、インターネットとヘイトスピーチという密接にかかわる二者の分析へ先鞭をつけるものです。ネット上での選挙運動も盛んになった今だからこそ目を通すべき一冊でしょう。
 中村氏による著作は岩波ブックレットであり、手に取りやすく読みやすくなっています。在特会による朝鮮学校襲撃事件は、野蛮な側面のヘイトクライムが日本においてピークだった頃に発生した事件でした。カウンターが盛んになった現在ではこのように露骨な事件もなりを潜めつつありますが、一方で政権に就く権力者による丁寧な側面のヘイトスピーチはかえって目立つようになりました。麻生による「武装難民銃殺」が最たる例でしょう。排外主義の行き着く先を、気分が悪くなるほど精巧なタッチで描いています。
 なおヘイトスピーチに関しては以下の2冊も読みやすく参考になります。
 師岡康子 (2013). ヘイト・スピーチとは何か 岩波書店
 安田浩一 (2012). ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて 講談社

 角田由紀子 (2013). 性と法律――変わったこと、変えたいこと 岩波書店
 牧野雅子 (2013). 刑事司法とジェンダー インパクト出版会
 安倍政権がもう1つ立脚するのは女性蔑視的な視点です。まぁこれだって自民党の責任だけじゃないんですけど(以下略)。これは非嫡出子に対する差別的な制度を裁判所に是正するように判決された際の反応であるとか、夫婦別姓制度に対する態度から推し測れるものです。また自民党の今回の公認候補の男女比率からもわかります。
 さて、そこで取り上げるのはとりわけ性犯罪を規制する法律について考察された角田氏の著作です。先ごろ改正された強姦罪が実は性的自由を保護法益とせずに、夫の妻に対する貞操権を保護していたのではないかという主張には説得力があります。
 制度上の性差別もさることながら、排外主義の項でも指摘したように意識の上での差別もその放置は社会に重大な問題を表出させます。その1つを取り上げたのが牧野氏による著作です。これは知人の逮捕を契機として、警察が容疑者と「協働」し「性欲が抑えられなかった故の性犯罪」というレイプ神話を再生産していく過程が描かれています。むろんそれは神話であって事実とは異なるのですが、性差別を是とする警察組織の中ではそれが事実とされてしまい、それが桶川ストーカー事件にみられるような様々な齟齬を生み出す一因となっているのです。
 ジェンダーに関して全く前知識がないという場合には、以下の著作が非常に役に立ちます。
 加藤秀一 (2017). はじめてのジェンダー論 有斐閣
 また社会的な性差別の別の側面を把握するためには以下の著作をお勧めします。
 仁藤夢乃(2014).女子高生の裏社会  「関係性の貧困」に生きる少女たち 光文社

 芹沢一也(2006). ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち 講談社
 芹沢一也(2005). 狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか 講談社
 もう1つ、精神障害者に対する姿勢も取り上げておきましょう。なぜなら、理由はよくわかりませんが安倍首相と日本精神科病院協会が非常に懇意で、晋精会なんて講演会もあるくらいです。マジで理由はよくわかりませんが、日本精神科病院協会は世界の潮流に反し長期入院を推し進めるような方針をとり、悪名高き神喪失者等医療観察法を支持する組織です。故に、日本における精神障害者に対する政策の問題は自民党というよりも安倍首相にダイレクトに帰属される面があります。
 上掲2冊はこのような方針、政策の問題点を平易に理解することのできるものです。

 疑いの力を味方につける
 浜井浩一・芹沢一也. (2006) 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? 光文社
 荻上チキ・浜井浩一 (2016).  新・犯罪論 「犯罪減少社会」でこれからすべきこと 現代人文社
 森達也(2015). 「テロに屈するな!」に屈するな 岩波書店
 民主主義国家において権力の監視は主権者たる国民へ課せられた義務であり、その行使は健全な政治を推し進める原動力でもあります。そのためには、政府や権力の一挙手一投足を批判的かつ懐疑的に見つめる必要があります。
 権力が民衆を騙そうとするとき、まず行うのは虚偽の流布による恐慌の誘発でしょうか。とりわけ犯罪という要素はこの目論見に都合よくつかわれる場合の多いものです。しかし浜井氏による2冊は犯罪がもはや民衆にとって脅威とは考えにくいことを端的に示しています。同時に、政府の行う政策がいかに根拠に基づかないか、そしてどのようにエビデンスベースの政策論議を進めていくべきかを考えるうえでも役に立ちます。
 政府が恐怖を煽ろうとするとき、かつての石原慎太郎の「三国人発言」のように犯罪を利用することもありますが、実際にはテロというより限定されたキーワードを利用する場合が多くあります。そのような欺瞞に対抗するヒントを森氏の著作は与えてくれるでしょう。実際に日本では、余計なことさえしなければテロの脅威はさほどでもないのですが、それでも緊急事態条項や強力な防護策が求められる現状もあります。それが本当に役に立つのかという視点も必要ですが、そもそも必要なのかという疑いにも立脚することを忘れるべきではありません。

 浅野健一 (2004). 新版犯罪報道の犯罪 新風舎
 ネットの一部の層では、マスコミが政府を嫌い偏向報道をしているということが「定説」と化していますが、実際には真逆の様相です。いまやマスコミの幹部が首相と会食し、政府の主張を批判抜きで垂れ流す状態です。というか、幹部と会食しておきながらばかすかバッシングされているのだとしたらどんだけ首相根回し下手なんだよという話になりますが。
 浅野氏の著作は、直接的ではないもののこうしたマスメディアが権力とねんごろになった結果の弊害を存分に描き出しています。警察権力と密接に結びつくことでスクープを得ようとする刑事記者の姿は、国会に張り付き議員のご機嫌を取って独自の情報を得ようとする政治部の記者に重なることでしょう。

 荻上チキ (2011). 検証 東日本大震災の流言・デマ 光文社
 ネットのデマという分野では、この一冊がダイレクトに響くでしょう。疑う力といっても、それが明後日の方向へ向かっては意味がありません。本書は東日本大震災に関するものですが荻上氏が指摘するようにデマはパターンを繰り返します。ゆえに事例が異なるデマでもその情報を理解することはデマへ対抗するワクチンとなるのです。

 坂井豊貴 (2013). 社会的選択理論への招待 : 投票と多数決の科学 日本評論社
 最後は、選挙の構造自体を疑おうというものです。小選挙区制が与党有利に働いているのではないかという指摘もありますが、ここではより大枠の仕組みへ疑問を投げかける一冊を提示します。
 一番だけへ票を投じるのではなく、順位を投じることでより細やかな民意を反映しようとするボルダルールを本書では提唱しています。詳しくは『多数決は意思決定手法の欠陥製品であるという話』で取り上げましたが、重要なのは選挙のルールの根幹すら疑うという徹底した懐疑主義的な姿勢です。口を開けて権力の言いなりになるのは簡単ですが、民主主義国家に生きる主権者であれば常に権力は批判的に見つめるものなのです。
 なお同内容の書籍(といってもこればかりは私も読んでいないのですが)に、以下のものがあります。こちらは新書なので入手も容易で読みやすいでしょう。
 坂井豊貴 (2013). 多数決を疑う――社会的選択理論とは何か 岩波書店

 というわけでざっと紹介しました。これらの本を読んでもすぐに選挙に役立つというわけでもありませんが、ここにある知見を下地とすることは必ず政治を論じるうえで役に立つはずです。

ロードバイク(あるいはママチャリ)がなぜ危険だと思われるか

 という話なんですが、この話題には犯罪への認識一般に関連するものの見方が絡んできています。
 恐らくですが、ロードバイクとママチャリで違反者の数にさほどの差はないでしょう。多種多様な人々が乗るママチャリでは、当然規範意識が低い人も乗る可能性は高いのですが、一方でロードバイクも年間で10万台以上は確実に売れているようで、大勢いる使用者の全てがルールをきっちり守っているとも考えられません。
 ではなぜ、自転車の危険運転の話題で、殊更ロードバイクが槍玉にあげられているのでしょうか。

 ロードバイクが危なく見えるわけ
 大前提として、ママチャリの普及台数はロードバイクを圧倒するでしょう。どの程度の差があるかは不明ですが、少なくともママチャリ<ロードバイクとはならないであろうことは確実です。これが、ロードバイクが槍玉にあげられる大きな原因になっています。
 簡単に言えば、珍しいものが目を引きやすいという話です。ママチャリは日常に溢れているので、少しぐらい違反があってもさほど気に止まりませんが、ロードバイクは珍しく外見上の特徴も強いために目を引き、少しの違反でも意識に昇りやすくなります。
 また、人間の判断には、錯誤相関と呼ばれる、関係のない2つの出来事に関連を見い出してしまうという特徴があります。例えば今回の事例では、あまり目にすることのないロードバイクが、あまり目にすることのないだろう重大事故を引き起こすという思い込みがこれに当たります。
 マスコミの報道がロードバイクを中心になされているというのも大きいでしょう。一時、ブレーキのついていない競技用の自転車による公道の走行が問題視されたこともあってか、自転車事故というとママチャリ以外の、あまり一般的でない車種によるものが起こすのだというイメージが先行しているように思えます。単に、ママチャリが事故ったというだけではニュースバリューに欠けるというのもあるでしょうが。ロードバイクによる事故が報道され、人々の意識に昇りやすくなれば、ロードバイクによる軽微な違反にもより目がいきやすくなるのではないかと思います。

 ママチャリこそ危険と思うわけ
 一方で、ロードバイクユーザーがママチャリこそ危険であると主張するのにも、身内びいき以上の理由があります。
 第1に、ロードバイクユーザーの周囲には同じくロードバイクユーザーが多く存在すると考えられるため、彼らにとってはあまりロードバイクは奇異なものではないのでしょう。むしろ、外集団であることも手伝って、ママチャリのほうを奇異なものとして認識している可能性もあります。
 ある集団が外集団を好ましくないものとして認識するのは、どの集団にあっても普遍的な現象ですので、ここでもそれが発動しているとみていいのでしょう。

 結局のところ、アホが乗ればママチャリであれロードバイクであれ危険なので、各々気をつけていただきたい所存です。 

リスクの評価がすれ違う時

 現代社会において、比較するという営みは重要な行いの1つとなっています。その中で最も重要なのは、どちらがより安全かという比較、リスクの比較でしょう。
 幸いにして、科学の発展した世の中では様々な数字でもってリスクを「客観的」に評価することが可能です。高血圧の人であれば塩分の量を比較してどちらを食べるか決め、肥満の人ならカロリーを比べるでしょう。
 その出来事に遭遇することが即ち自分の死を意味する場合なら、確率が使われます。自動車と飛行機どちらに乗った方が安全か、どの治療で病気を治すかは事故が起こったり治療が失敗する確率で比べるでしょう。
 では、このような例ではどうでしょう。
オスプレと他の飛行機の"事故率"10万飛行時間に換算した場合
オスプレイ事故率 1.93%
フィリピン航空━━━━━ :事故率 2.47 
コリアンエアー━━━━━ :事故率 2.58
チャイナエアライン━━━━━ :事故率 7.16 
 オスプレ事故率,これが事実 
 (仮にこの、情報の出典の示されてないブログのいうことが正しいのであれば)確率で言うならば、オスプレイは下手な旅客機よりも安全だということになります。従って、オスプレイが危険だという主張には説得力がなく、オスプレイよりも先に外国の民間機を排除したほうがよいということになります。
 しかしこの考え方は、我々がリスクについて評価するときに考える重要なものを見落としています。

 リスクは等しく評価されない
 その重要なことというのは、リスクは常に等しく評価されるわけではないということです。
 上述の例から少し離れて、犯罪とその他の事故で死ぬ確率の話をしましょう。過去の記事(実際の犯罪リスクはどの程度か)で私は、犯罪に遭う確率と他の確率を比べたことがあります、例えば、
 交通事故で死亡 0.015%
 心臓病で死亡(虚血性心疾患) 0.075%
 癌による死亡 0.34%
 脳卒中 0.13%
 殺人(+嬰児殺+殺人予備+自殺関与) 0.0010%
 強盗(+強盗殺人+強盗傷人+強盗強姦+準強盗) 0.004%
 強姦 0.0012%
 放火 0.0010%
 という風です。極めて客観的な評価を下すなら、殺人やその他の凶悪犯罪対策に使うお金は病気の対策に使うべきだし、犯罪に遭うことを不安視して病気になることを不安に思わないのはナンセンスだということになります。
 しかし、大抵の場合そうはなりません。人々は病気で死ぬことよりも犯罪に遭うことの方を心配します。急病で死ぬことを大変な不幸だったと諦めても、殺されたことをそういって諦める人はほとんどいません。
 これこそが、リスクが等しく評価されていないということです。人々は犯罪のリスクを過大視し、病気のリスクを過小評価します。
 なぜそうなるのかはとにかく、同じ確率という単位で表現できるリスクが、その通りに客観的に評価されない場合があることはわかっていただけるでしょう。
 上述の例であれば、オスプレイ反対派はオスプレイの危険性を民間機に比べ過大評価していると言えます。

 リスクはリターンの代償
 なぜこのようなリスク評価のばらつきが出るのでしょうか。これは推測ですが、リスクを受け入れることでもたらすリターンが関係しているのではないかと思っています。
 例えばタバコの副流煙と自動車の排気ガス。私のような嫌煙家はこの副流煙を親の仇のように憎んでいますが、喫煙者からすれば自動車の排気ガスと何が違うのかわからないかもしれません。ちなみに、煙の健康被害はそれに含まれている化学物質の量を調べることである程度客観的に評価できますよね。
 リスクを評価するとき、そのリスクを甘受することでリターンが得られるなら、そのリスクはリターンと相殺されて数字よりも小さく評価されるかもしれません。
 例えば自動車の場合、排気ガスというリスクを甘受すれば車という素晴らしく便利な輸送手段の恩恵に与れます。これが莫大な利益だということに異論はないでしょう。
 問題はタバコです。喫煙者はこういうでしょう。タバコを吸うことで気分がスッキリし、頭が冴えて動きが良くなり、気分転換になり……。しかし嫌煙家はそうは思いません。タバコで気分がスッキリして頭が冴えるのは、ニコチン依存に陥った脳がそれを補給することで「元の状態」に戻るだけで、気分転換なんて他にもいろいろあると考えます。
 これのように、リスクの評価が食い違うのと同様にリターンの評価も食い違うことが多々あります。こうなると、相殺されるリスクにも違いが出て、余計にリスクの評価が食い違います。
 先程の犯罪と病気の例なら、病気になるようなリスクは暴飲暴食のような快感の大きな生活の代償だと言えるかもしれません。しかし犯罪のリスクには引き換えになるリターンがありません。
 オスプレイと民間機の例ではどうでしょう。民間機が自動車のような利益をもたらすことは明らかですがオスプレイはどんな利益をもたらすでしょう。賛成派はきっと、軍備の増強による近隣諸国の牽制と情勢の安定とかをあげるでしょう。しかし反対派にとって、このリターンはさほど魅力的ではなく、下手をすれば軍備の増強はリスクであってリターンでも何でもないと考えているかもしれません。

 自分の反論者に、実際のリスクよりも過大評価していることを数字で示しても、あまり意味がないというのが現実かもしれません。主観的な評価に客観的な評価をぶつけても効き目は薄いのでしょう。
 そういうときには、なぜそのような評価になったのかという部分に考えをめぐらせ、可能ならその不安を解消する必要があります。その行為こそ、説得における重要なプロセスかもしれません。 

【書評】犯罪不安社会 誰もが「不審者」?

 最近でこそ治安悪化が実態に伴わないと叫ばれて久しいですが、恐らく本書が登場した2006年は今よりもっと熱狂的に治安悪化が叫ばれていたでしょう。いや、実は案外今も大差なかったりして。私は早いうちから犯罪心理学に興味を持って勉強していたので、犯罪心理学を学んだことのない一般の人がどのようなイメージを抱いているのか想像しにくいんですよね。こういうイメージを持っているらしいと聞きはするんですが、どこまで蔓延しているのもなのかもよくわかりませんし。
 本書は4章構成になっており、第1章で浜井が統計をもとに治安悪化言説を批判、第2章では芹沢が犯罪に対する言説の変遷を分析、第3章では引き続き芹沢が地域防犯活動への批判を展開、第4章で浜井が刑務所の実態を述べるという形になっています。第1章の内容なかなり今更な感があるので割愛し、第2章以降について触れていきます。

 犯罪の語られ方
 現代型犯罪のはじまりとしての役割を与えられたのはあの宮崎勤事件でした。段ボールに死体を入れて送り付けるという手口にしても、彼が典型的な(と考えられた)オタクという当時の人々には理解できない生物であったことなどが理由でしょう。しかし不可解な動機による、衝撃的な手口による事件というのは宮崎勤事件以前にもありふれていました。一体なぜ宮崎勤事件は始まりとしての役割を与えられたのでしょうか。
 恐らくその事件における狂乱ともいえる報道合戦、そして数多の言論人が時代の象徴としてこの事件を語ったことが一因でしょう。言論人たちは彼を解明することに一生懸命になり、彼が平凡な人間ではないだろうというある意味自分勝手な前提のもとに語っていきました。言論人にとって宮崎勤は、自分の主張を補強したり、あるいは語りのきっかけになるような便利なおもちゃであり、世間にとってもこれらの事件の解明は手ごろな娯楽でした。
 重要なのは、その語りは彼を理解しようとする視点、あるいは彼は時代の被害者なのだとして自身の批判言説のだしにしようという視点が存在していたということです。この視点はしかし、次第に薄れていきます。
 酒鬼薔薇事件を経て、宮台真司が酒鬼薔薇フォロワーなどと呼称した少年たちによる、豊川市主婦殺害事件や佐賀バスジャック事件が発生すると、言論人たちの視点が徐々に変わります(宮台真司の酒鬼薔薇事件への反応は【書評】「脱社会化」と少年犯罪に詳しい)。
 そして犯罪被害者による運動があり社会が被害者を「再発見」します。今までは凶悪犯の心の解明という娯楽に現を抜かしていた世間が被害者への同情を覚え、反転して加害者には怒りを覚えるようになります。ここから犯罪の語られ方から犯罪者を理解しようとする視点が抜け落ち、彼らを徹底的に敵視するようになっていきます。
 その方向を大阪の池田小事件が決定づけます。報道は犯人である宅間守を解明しようとしますが、それは怪物に対する視点であり、人間に対するそれでなくなっていきます。昔なら同情の対象になったであろう彼の家庭環境は単なる怪物の生成過程であり、彼の子供の頃の些細な出来事は全て異常性の兆候として処理されていきます。
 こうした視点を得た現代の犯罪言説は、犯人の怪物視の他にもう1つ特徴的な視点を持っています。それはセキュリティの視点です。本書では法制度批判と別れていますが、私は同根だと考えます。なぜ犯罪が防げなかったのかという声が合唱の様に響き、犯罪対策が絶対的正義と目される社会の到来となったのです。

 こうした背景は私の中にあった疑問の答えにもなるものでした。様々な書籍で宮崎勤事件や酒鬼薔薇事件が社会の象徴として語られた過去があるにも関わらず、どうして最近の事件ではそのような視点の言説が登場しないのかという疑問です。しかし犯罪言説がそうした視点を失い、加害者を悪として糾弾する機能に限られたのだとしたら当然の結果なのでしょう。

 防犯マップに意味があるか
 環境犯罪学という分野があります。犯罪が起こりやすい環境というものがあり、その環境が人を犯罪に駆り立てるのだという考え方です。小宮信夫が積極的に提唱しており、本も存在します(犯罪は予測できる 新潮社 2013)。ていうか私も読んだことがあります。その時ははっきりと気が付かなかったんですが、少なくとも小宮が主張する意見に関しては、根拠が皆無です。特に防犯マップなるものが防犯に役立つという彼の主張には根拠がありません。恐らく「犯罪が起こりやすい場所がある」という考え方は一般人の想像に合致するが故に何の違和感もなく受け入れられるのでしょう。
 確かに犯罪の起こりやすい場所は存在しえるでしょう。盗みを行う者も、人通りの多い道のど真ん中でやろうとは考えないでしょう。しかしそれはあくまで相対的な価値観です。ある場所が犯罪のしにくい場所になったら、別の場所が相対的に犯罪のしやすい場所になるというだけの話ではないでしょうか。これは想像ですが、一応犯罪学の考え方の一つに犯罪の転移というものもあるようです。
 本書によれば、民間のボランティアによる防犯パトロールは増加傾向にあるようです。私の地元にもあるようですし、最近は珍しくないのでしょう。しかしこのボランティアの増加はある弊害を招きます。
 それは社会の不寛容化とも言うべき現象です。彼らは子供を守るという大義名分の元に、脅威となる環境や人物を発見し排除しようとします。防犯マップに代表されるような「危険な場所を探そう」という考え方が援用されれば当然の結果ともいえます。そして排除の矛先は障碍者やホームレスといった社会的弱者に向きがちになります。家を持たずに公園で寝泊まりする人間や、パッと見少し変わっていて言動も少し普通ではないと感じられるような、特に知的障碍者は彼らにとって不安を与える者と解釈されます。実際に子供が好きで、見つけると微笑んだり笑いかけたりする自閉症の男性が「見つめられて子供たちが怖がっている、何とかできないか」と言われたというエピソードも本書に紹介されています。
 それら不寛容の行き着いた先が第4章に登場する刑務所の実情に繋がります。

 刑務所は福祉の砦
 刑務所の収容人員が増加しているとどのような印象を受けるでしょうか。きっと刑務所は凶悪な人間であふれかえっていると想像するでしょう。事実犯罪白書においても、治安の悪化による収容人員の増加というストーリーを採用しています。
 しかし浜井はそうではないと主張します。刑務所に収容されるのは高齢者や障碍者、外国人ばかりで懲役の労働に必要な人員が不足するという事態にすらなっているというのです。
 例えば病院や福祉施設であれば、面倒を見きれない人が入ってくることを断ることが出来ます。一方で刑務所はそこに入れるべしと裁判所に判決を下されれば拒否することはできません。どんな犯罪者でもある意味平等に受け入れるのです。そういったシステムのために今や刑務所は福祉最後の砦ともいえる状態に陥っています。刑務所自体はそのような受刑者を想定して作られていないために、あちこちで不都合が出てきているといいます。
 また刑務所自体に対しても実態に基づかないイメージが流布しています。例えば無期懲役。15年程度で出てこれるというイメージが蔓延していますが、実際には2005年の段階でたったの3人しか仮出獄が認められておらず、彼らの平均所在期間は20年を超えています。人を殺した事件の犯人はよほどのことがない限り認められないともいいます。

 エビデンスベースの議論を
 これら実態に基づかない犯罪言説は、芹沢の言葉を借りれば「おしゃべり」「床屋談義」の域を出ないものです。本来は一笑に付すべきであり、その程度でいいはずのものですが、行政から立法、挙句は司法にまで蔓延っているという笑えない現状です。
 流石にまずいと思った世界各国の犯罪学者たちはキャンベル共同計画という、様々な犯罪対策の効果を統計的に分析しようというプロジェクトを立ち上げています。しかし彼らの努力も、それを聞こうとする社会の姿勢がなければ水泡と帰すでしょう。
 私もいくつかの記事で何度も言っているように、犯罪に限らず議論においては根拠を必ず示すことを意識せねばなりません。根拠のない主張は妄想と同価値だとして取り合わないことが重要です。

 不安という漠然としたものに基づく治安対策には際限がありません。根拠を見ない以上犯罪の減少という客観的な事実に気が付くことがないからです。そうした不安はまず無駄な対策によって予算を食いつぶし、我々の自由を喰らった後にSF小説も真っ青なディストピアを残しかねません。「本当に」犯罪の減少を願うなら、根拠に基づく議論を求めてゆくべきでしょう。

 浜井浩一・芹沢一也. (2006) 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? 光文社
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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