九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

犯罪報道

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明らかな暴行事件を「喧嘩」と書く緊張感のないメディアの表現

 19日、けんかの仲裁に入り暴行を受けた事件で、元女子プロレスラーの長与千種さんが記者団の取材に応じた。深夜、大会開催のために訪れていた札幌市内でジンギスカンを食べてホテルに戻る途中、立体駐車場から女性の叫び声が聞こえてきたという。
 「最初はじゃれあっているのかなと思ったが、"助けてください""もうやめてよ"という、聞いたことがないような悲鳴だった。"警察を呼んでください"と言われたので呼んだが、タイムラグがあるだろう、もしレイプされていたり、暴力を受けていたらやばい、と思って、今までにないすごいスピードで(階段を)駆け上がった。すると男が女性に乗っかっていて、足と首を取っているような状態だった。女性は引きずり回され、素足で、膝には擦過傷があって、バッグなども散らばっていた。先に着いた若い子は唖然としてたし、現役の選手に行かせるわけにもいかないし、とりあえず一番身体の大きい私が行っとくかなって」。
 男に対し「女の子に何やってるの!離れて!」と注意し、女性を引き起こした長与さん。「やっていいことと悪いことがあるでしょう、もうしないって約束する?」と男を叱り飛ばし、女性を解放した瞬間、男が長与さんの頭に掴みかかってきたという。
 「女性が傷付いているのに見て見ぬふりはできなかった。でも仕事柄、絶対に手は出せなかった」暴行を受けた長与千種さん-amebaTIMES
 この件です。
 最初ニュースの見出しを見たときは「喧嘩」と書いてあったので、男女がお互いにやりあっているところの間に入ったのかなと思って本文は読まずにスルーしていたのですが、Twitterでの反応を見て本文を読み直すと明らかに「喧嘩」と呼べる代物ではなくて驚きました。
 報道によると、加害者の男性は被害者の女性に馬乗りになり一方的に攻撃をしていたようです。その暴行の激しさは、防御に専念したとはいえプロレスラーにけがを負わせたというところからもうかがい知ることができるでしょう。

 喧嘩というのは通常、両者ある程度対等にやりあうような状況を指す言葉です。一方的な攻撃は喧嘩とは言わず、暴行であるとか、夫婦であればDVと表現すべき事例であろうと思います。しかしこの事件のニュースを読む限り、このことを「喧嘩」と表現するメディアが大多数で「暴行」と書いた報道は私は見つけることができませんでした。

 メディアの言葉遣い、そのいい加減さ
 言葉の選び方には、否応なくその人の価値観が現れます。メディアで使用される言葉、事実の言いかえはまさしくその代表例と言えるでしょう。
 最たる例は性犯罪を「わいせつな行為」と表現する言いかえです。性暴力の「性」の部分のみをピックアップした表現は、「暴力」の部分をメディアが認識できていないことの証左です。
 また言いかえとは少々異なりますが、報道において被害者の実名を報じたり、かと思えば消してみたりというふらつき具合、非一貫性は彼らが犯罪報道という使命において何を重視すべきかという点を一切考慮できていないことを示しています(『なぜ障害者の被害者は実名報道されないのか』『被害者の実名報道は必要か?』参照)。犯罪報道の確固たる目的を持っているのであれば、その点でぶれるということはまずありえないはずで、このようなぶれが生じるのは周りの反応や上の命令によって付和雷同的に方針を決めているからにほかなりません。

 警察の責任
 今回の事件ではどうも、警察のプレスリリースに「けんか」とあったためにそれに沿った報道になった側面もあるようです。マスコミが警察の発表を鵜呑みにする緊張感のなさもそうですが、明らかな傷害事件をそうと認識できない警察にも呆れます。

 言葉は性質を規定する
 このような主張に対して、「たかが言葉ではないか」という反論も考えられます。しかし言葉には「物事の性質を規定する」という特徴があるため、無視できません。
 例えば今回の事例でも、喧嘩と表現するか傷害事件と表現するかで、そのイメージは大きく変わります。それは結局のところ、純然たる事実に対しどのような評価を下すべきかという社会的な合意にも影響をします。「夫が妻に一方的に暴行を加えていた」という事実に「喧嘩」という評価を下すのであれば、以降、夫による一方的な暴力という同様の事例もやはり「喧嘩」ということとなり、その暴力には双方に責任があるかのように扱われることになります。

 あるいは、セクシャルハラスメントという言葉が存在する前は、そう呼ばれるべき「事実」は単に「コミュニケーション」などとして呼ばれ、まったく問題ないものとして扱われてきました。それらの「事実」へ「ハラスメント」というラベルを張ったときにはじめて、それが問題ある行為であるという認識が生まれ、そのように対処できるようになるのです。
 またあるいは、性暴力を「わいせつ行為」と呼んだり、「いたずら」という表現をすれば、その性暴力は暴力とは認識されなくなり、その表現に見合った軽い行為、ちょっと悪いけれど謝ればチャラになる程度の行為であるかのように扱われます。実際にはそんなことはなくても、社会的にはそういうものだと合意されてしまうのです。

 ゆえに、事実を表現、評価する言葉には本来、細心の注意を払って適切なチョイスをしなければならないはずです。しかしメディアは往々にして、言葉を使う職業であるはずにもかかわらず、この認識があまりにも薄く、いい加減な仕事をしている場合が、とりわけ犯罪報道において見受けられます。
 このような適当な言葉の選び方は、現に慎まれなければなりません。

杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる その他と新潮社のクズさについて編

 さて、前々回『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編』と前回『』の続きにして完結編です。今回取り上げるのは前回とりあげなかった4人です。

 結局生産性の話
 この特集の中で唯一読解に耐えうる水準の記事を書いているのが元参議院議員でセクシャルマイノリティの当事者である松浦大悟氏です。氏は7人の中で唯一杉田記事に批判的ですが、まぁ新潮45に執筆依頼が来るくらいですから、結局のところ重要な論点を批判しきれず巻き取られてしまっています。

 というのも、記事後半部で氏は、アメリカで軍隊がセクシャルマイノリティの軍人を募集し、当事者たちが「国のために!」と盛り上がった云々などという話を記述し生産性があるという論調にもっていっているのです。いうまでもなく、繰り返しですが杉田記事が批判されたのはそもそも人を生産性で測ろうとする姿勢からです。それへの批判として生産性があるという話を持っていくのは、かえって杉田記事の土俵に乗る行為で思惑通りとなってしまっているでしょう。
 また選んできた事例が軍隊だというのも気にかかります。人権というのは保障されて当然のものであり、保障されたことに関してとりわけ感謝などというものを必要とする類のものではなく、ましてやそのために義務を果たす必要があるものではありません。故に、マイノリティの権利を認めたことと引き換えに「今度は自分たちが国のために」などと盛り上がった事例をもって生産性を強調するのは政治家のすることではありません。

 尾辻かな子は恥さらし
 次いでかずとという、これも当事者です。氏は立憲民主党の尾辻かな子議員に、当初は支持を寄せていたようですが記事中に至ると結語で「恥さらし」などというまでになっています。
 その理由は、尾辻議員が「金儲け」目的のために、本来国会議員同士なのだから直にやり取りすればいいところ、杉田記事にネットで火をつけ騒動を引き起こしたからだというものです。氏によれば尾辻議員はセクシャルマイノリティに関する講演を引き受けており、LGBT問題が大きくなって情報の需要が増せば金が儲かるだろうと推測しており、その推測は極めて下卑たもので確率も低いながら状況証拠ゆえ誤りだと断定しにくい面もあります。

 しかし氏の批判は重大なところで過ちを犯しています。それは、そもそも杉田記事は新潮45という「商業雑誌」で発表されたものであるということを見落としたことです。そう、商業雑誌で発表されたものであり、その後新潮45が同様の特集を組んだことからも明らかなように杉田議員は売らんかなで記事を書いていることは明白です。尾辻議員の行動に対し低い確率に着目して金儲けであると批判するのであれば、杉田記事にも同様の批判を寄せないのはおかしいでしょう。
 なにより、金儲けで当事者の恥さらしだという批判は、そのまま筆者に跳ね返っています。杉田記事のおかげで(?)話題が盛り上がり、新潮45が特集を組んだおかげで自身も記事を依頼され、それにより原稿料を受け取ると同時に自分のブログも売名できたのですから。尾辻議員が恥さらしなら自分もそうであると言わねばならないはずです。

 出たよ、「不寛容を認めないのは不寛容」というあれ
 最近BAN祭りのせいで食い詰めているネトウヨYouTuberのKAZUYAは、見開き1ページという最短記事での参戦となりました。が、ほかの記事と比べて特徴もなく、見るべきところは一番ありません。しいて言うなら「杉田議員を認めないあいつらこそ不寛容だぞ!」という話ですが、どこかで見たことある手垢のついた主張でしかありません。
 寛容/不寛容などという言い方をするから、こういう屁理屈が紛れ込む余地になるのでしょうか。単に人権を尊重する社会では、他者の人権をないがしろにしたり、人権という枠組み自体を破壊しようとする人間は受け入れられないというだけの話です。
 なお本ブログでは、かつて「公安がマークしてるから共産党は危険!」とふかしていた彼を批判していました(警察によれば共産党は危険()団体らしいぞ!)。懐かしい。

 公平、その大いなる勘違い
 最後は潮匡人氏。池田信夫が設立したアゴラ研究所のフェローという肩書だけで眉に唾を付けるに値する人物です。
 氏の主張は、NHKが杉田議員を批判したことに文句をつけるというものです。曰く、杉田議員をまるで大量殺人犯かのように扱う報道は不適切だし不公平だというものです。ここでいう大量殺人犯は相模原の事件の人物のことを言います。

 しかし人を生産性で測るという点に共通点を見出し、杉田記事と相模原事件の犯人とを関連させる主張は、少々ショッキングに聞こえたとしても誤りだとは言えません。生産性を軸に人権保護の是非を決めようとする思想は、そのまま生き死にを決めようとする傲慢さに直結します。

 公平性云々に関する議論については、単に氏が放送法やNHKの放送規定における公平性の意味を取り違えているにすぎません。そこで言われている公平性というのは、単に賛否が分かれる議論に関して双方の主張をバランスよく取り上げるべきという話であり、一方が人権侵害でもう一方が人権擁護だったときにも間に立って両論併記せよということではありません。むしろそのような姿勢でもって、人権侵害を訴える主張を電波に乗せることは放送倫理上許されないでしょう。

 新潮社は最初からクズですよ?
 ちなみに、本件の騒動に関して新潮社の文芸部が批判的なツイートをRTしたことに称賛が集まっています。また新潮45の特集を並べて最近のある時期からおかしくなったと主張するものも見られます。しかし私は、一部に良心ある社員がいることは否定しないまでも、新潮社という会社が最近ではなく随分前から、会社全体として人権の軽視と差別を飯の種にする組織であったことを指摘します。

 直近の例では、週刊新潮は『【綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人】間違いだらけの「元少年」の再犯議論』や『「綾瀬コンクリート詰め殺人」報道はなぜ「共産党員家族」にこだわるのか』で取り上げたように、「綾瀬コンクリート詰め殺人」のかつての少年事件の犯人の再犯を取り上げつつ、当時の少年法を無視した実名報道を正当化し、また事件と直接関係しない家族の政治信条を掘り下げた報道をしています。コンクリート事件は30年以上前のことであり、つまり新潮社は少なくともその時期からこうした問題ある報道を行ってきたということです。
 また海外における買春を正当化しつつ朝日新聞をバッシングする記事も書いています(海外における買春がなぜ批判されるべきなのか参照)。

 少し前の事例では、川崎で発生した少年による殺人事件においても、実名を公表し問題となっていました。この経緯は『川崎事件における週刊新潮の実名報道に大義はない』『川崎事件における週刊新潮の実名報道には正当性もない その1』『その2』でまとめています。ここでも部数だけを目当てにした問題ある報道です。ちなみに、任地でテロの被害にあった自衛隊員の女性を軟弱などとバッシングし続けるだけの記事を書いたこともあります(戦闘による心的ダメージにすら理解がない国防はかなりまずいのではないか)。

 また新書に関してもその信頼性は怪しく内容に乏しいものであったり(『言ってはいけない 残酷すぎる真実』や『死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張』後者は『加害者が本を書くということ』を参照)、内容に見るものがあっても編集の安易な判断なのか信憑性を減じるようなタイトルを付けられる事例(『いい子に育てると犯罪者になります』や『凶悪犯罪者こそ更生します』)が散見されます。

 良心のように考えられている文芸部にしても、『カエルの王国』などヘイトスピーチ最大手の百田尚樹の著作を数多く出版し、氏に文化人としての肩書を与えてしまっているという側面があります。

 つまり新潮社というのは、社全体がヘイトを容認する下地を作り、それが放置された結果が今回であるということです。今回のような事例を根絶するには、そもそも新潮社が社としてヘイトに親和的な方針を取っていることを認識し、それを改めさせなければいけません。

実名報道が「前科者を排除」しつつ「市民の警戒」をもたらさないという、矛盾に見える現象について

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 こんな質問をもらいましたので回答します。確かに、それぞれの主張だけ見ると矛盾が生じます。
 しかし私は、「かつての犯罪者が実名を知られることで生活から排除される」ことと「一般市民が犯罪者の実名を覚えられないために警戒できない」ことにはある種の非対称性が生じるために、この二つの一見正反対の現象は両立すると考えています。
 その非対称性は、地域と重要性という言葉でまとめることができます。

 「地域」の非対称性
 まずは、地域について見てみましょう。
 犯罪は通常、その地域と密接にかかわってしまいます。鈴木伸元著『加害者家族』が指摘するように、犯罪が発生するとものものしい捜査やマスコミのメディアスクラムによって犯罪者の存在が明るみに出ます。また実名を報道されれば、学校の同級生などが気付き、なまじ見知らぬ他人のことではないために記憶されるでしょう。こうなると、刑期を終えたとしてもその地域に戻ることが難しく、別の地域へ出ることを余儀なくされます。こうして、刑期を終えた犯罪者は排除されます。

 ではその犯罪者が出て行った先の地域はどうでしょうか。その地域にとっては、かつての事件は見知らぬどこかの誰かが起こしたものであり、日ごろ報道される有象無象の1つにすぎません。また流入してくる当事者自身も、地域からすればよくいる転居者にすぎず、気に留められることはまれでしょう。そのため、近くに前科者がやってきたといっても、それに気づく住民はまれです。
 こうしてみると、「前科者自身は排除され、一般市民は事前に警戒するのが困難」というパラドックスに見える現象が両立しうることがよくわかります。

 「重要性」の非対称
 もう1つは重要性に関するものです。ここでいうのは、その人物の過去がどの程度重要に思われるかという話です。
 例えば、前科者が新たに職に就こうとしたとしましょう。この際、経営者はこの者が過去にどのようなことをしてきたかを事前に調査するかもしれません。かつては興信所に頼んで調べさせたという事例もあるようですし、現実的な可能性です。ましてやググってみようかと思う可能性はより高いでしょう。そうすると必然的に、前科者に触れた報道がネット上に残っているために露見し、そのために不採用となるかもしれません。
 一方、そうではない普通の従業員はいちいち新しく入ってきた同僚のことを調べようとは思わないでしょう。

 つまり、経営者にとっての採用者とか、大家にとっての入居者とか、親にとっての子供の結婚相手とか、重要と思われる相手に対しては過去を調査する動機が起こり実際にそれがなされるために排除が起こる一方で、前科者が再犯するとすれば被害者になりうるその他大勢にとっては、前科者の存在は重要ではないため過去を知ることもなく、故に警戒なるものは起こりえないということなのです。
 こうして、やはり前科者が排除される一方で市民が前科者の存在に気を付けるということが起こりえないという、矛盾に見える現象が発生します。

 このようにみると、質問にあるよう「前科者が排除される」ことと、「市民が報道を忘れるので警戒なんてできない」という現象が実は矛盾なく両立する可能性があることがわかるでしょう。

スクリーンショット (5)

 ちなみに、法務省の研究部会報告『再犯防止に関する総合的研究』によれば、ちょっと昔のデータですが、一般刑法犯の検挙人員にしめる有前科者の割合は3割に達しません。初犯者が減り再犯者が横ばいという現状なのでいまはもうちょっと割合が高いかもしれませんが、このデータからも前科者ばかりを警戒する無意味さがわかるでしょう。前科のない者もそれなりに危険っちゃぁ危険なのです。

「綾瀬コンクリート詰め殺人」報道はなぜ「共産党員家族」にこだわるのか

前回『海外における買春がなぜ批判されるべきなのか』で触れた週刊新潮の報道、もう1つのクソみたいな記事は『【綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人】間違いだらけの「元少年」の再犯議論』でも触れた綾瀬コンクリート詰め殺人に関するものでした。見出しは『新聞・テレビが報じない「少年法」の敗北 綾瀬「女子高生コンクリ詰め殺人」の元少年が「殺人未遂」で逮捕された』。内容自体はその記事で言及されていたものと大差ないので文字通り紙幅の無駄だったわけですが、気になる点がいくつかありました。

 中身はないけど言及され続ける「共産党員一家」
 本誌記事においても、ネット記事の『綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人の“元少年”が、今度は殺人未遂で逮捕されていた!』においても必ず言及され続けているのが、この事件の容疑者の両親が共産党員であったことです。とはいっても、本当に申し訳程度に触れられているだけであり、共産党員に絡んだ記述はネット記事における『警察への対応も筋金入りでした。家宅捜索も弁護士立ち会いの下で認めるという具合で、そのために捜査が遅れたと言われたほどでした』程度です。それに関しても単に被疑者としての権利を行使したというだけのものであり、少々法律に詳しかったんだろうなくらいの話です。
 ではなぜ、事件を語るうえで大した要素ではない「両親が共産党員」という情報が今に至るまで登場するのでしょうか。これは推測するしかありませんが、記事の筆者がこの情報を犯罪者を犯罪者たらしめる決定的な要素だと考えていたからだろうと思われます。あるいは、こいつは叩いてもいい奴だぞと読者に対して示すシグナルであったのでしょうか。前回記事で触れたバスケ選手の買春問題で、ことさらそれを報じた朝日新聞を叩いていたのと似たような問題意識が透けます。
 もちろん、両親が共産党員であることは「部屋からアニメグッズが見つかった」程度の、大した情報にならない話ですが、特定の1つの属性を発見し犯罪の原因を全て押し付ける報道になれてしまった世論にとってはこの程度でも十分納得いく理由であったのでしょう。

 職場を追われていた「元少年」
 そして本誌記事で興味深い記述のもう1つは、容疑者の元少年がかつて就職していた職場を、事件について知られたことをきっかけに去っていたことに関する記述です。まさしく、少年法を排そうと、少年事件を実名報道しようと躍起になる人々の望む通りの過程をここでも辿っているわけですが、その結末は御覧の通りです。
 もちろんそのまま仕事をしていたとして、再犯しなかったとは限らないでしょう。しかし仕事といった社会的絆、守るべきものが再犯の可能性を減じるという従来の知見に基づいて考えるならば、彼の身に起こったこのイベントは再犯の確率をぐんと上げることはあれど良い方向に働くことはなかったのは間違いありません。この件を持っても、少年法の敗北と結論付けるのは誤りであり、むしろ少年法を無視した売らんかなの報道姿勢が招いた再犯であったすら言うことができるわけです。実名が報じられていなければ職場を去ることもなく、それが再犯を防止していた可能性もあるわけです。

 前回記事のコメントについて
①今回また殺人未遂事件を再犯したこの○○は、「元少年」であっても今や45歳のれっきとした大人なんだから、実名表記は問題ないのでは?
②「著名な事件ならいざ知らす」って、「綾瀬女子高生コンクリ殺人事件」こそは、日本犯罪史上有数の40日間に渡る猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄という「著名な事件」でしょう。これが著名でないなら、新橋九段さんが考える「著名な事件」の具体例を挙げていただきたい。
「この事件の犯人の名前が「一部のネット民の間」でしか話題になっていない」って、だって事件当時は週刊文春など一部のマスコミしか実名報道せず、また現在の様なネット社会でもなく、一般人は犯人の実名をほとんど知る状況になかったわけだから、むしろ当然でしょう。
③形式的には「逆送(「逆走」ではない)されたから厳罰」とは言えるのでしょうが、この湊伸治への判決は「5年以上10年以下の不定期刑」だったそうですから、犯行内容からすれば現実的には大した「厳罰」とは言えないでしょう。ゆえに新橋九段さんの言う「「厳罰化は再犯防止に意味がない」という結論は導けても、さらに厳罰化しなければいけないという主張はできないでしょう。」という主張こそ筋が通らず、むしろあべこべでしょう。
 新橋九段さんも渋々?認められているように「再犯できないから死刑にすべき」という主張は筋が通っていますよね(または死刑までいかなくとも、仮出所できる日本の「無期懲役」ではなく、本当の意味での「終身刑」が必要と思います)。
 また「それ以外への悪影響、差し引きの犯罪発生率」とは、具体的にはどういうことでしょうか?
④「窃盗」とて立派な犯罪であり、ゆめゆめ軽視すべきではありませんが、新橋九段さんが『「少年法いらない論者」は「窃盗犯でも死刑や無期懲役の極刑にしろ」と考えているにちがいない』と主張するのであれば、それはいくら何でも極論でしょう。

引用注:容疑者の実名にあたる部分は削除しました。
 ところで、前回の記事にこのようなコメントがついていました。記事の中ではかなり大雑把に通過した場所でもあるので詳しく説明すると、

 ①そもそも私は犯罪報道において、年齢にかかわらず被害者や加害者の実名報道は不要という立場です。実はほかの記事においても、容疑者の実名が載らないように引用する部分を工夫することは多々ありました。とりわけ今回は少年法を破るかたちで実名を報じられた元少年に関する記事だったので配慮しました。もちろん法律上、今回の事件を実名報道することに問題はありませんが、これはこのブログの運営方針によるところが大きいです。

 ②あの記事における「著名な事件ならいざ知らず」というのは綾瀬の事件以外の、過去に起きた無数の殺人事件を指しています。しかし綾瀬の事件やそれと同等程度に著名な事件においても、それらの事件の加害者の名前を記憶し続け、目にしたときに事件と結びつけるのは至難の業でしょう。

 ③あの事件に関してもより厳罰を科すことが可能であるというのはその通りでしょう。しかし刑期が長ければ再犯が防げるという根拠はなく、この記事でも述べたように社会との分断がむしろ再犯の確率を上昇させることも併せて考えれば、家庭裁判所による保護観察といった少年事件一般における処理から実刑へと「質が変化した厳罰化」が行われてもなお再犯したという事実は厳罰化が意味をなさないことを示唆すると解釈するに問題はありません。
 実のところ、「厳罰が足りないから再犯が起こるのだ」という主張は、その根源のところで否定することが極めて困難です。現在の日本の最高刑は死刑ですが、より厳罰を目指すとすれば死刑のうえ打ち首獄門とか、一族郎党連座とかいくらでも上があるので、どのような刑罰に対しても「いや罰がぬるい」と主張することは可能だからです。であれば、刑の期間ではなく罰それ自体の質が変化した今回の事例は厳罰化が功を奏さない事例と解釈する方がより妥当です。

 なお死刑の悪影響ですが、主なものとして「野蛮化」と呼べる現象があります。例えば強盗を死刑の対象にする厳罰化をしたとしましょう。このような社会では強盗犯は殺人でも強盗でも死刑なのは変わらないのだから、目撃者を殺害して逮捕される確率を減らしたほうが得だと考え厳罰化がなければ起こらなかった殺人が発生する可能性があります。飲酒運転が厳罰になったために、運転手が事故を起こした際にその場から逃走し、飲酒の証拠を隠滅している間に被害者が死亡するという事例が発生するようになったのと同じです。
 つまり刑罰というのは、単に厳しいだけではなく、かならず犯罪者が「ここで思いとどまったほうが得かもしれない」と思うだけの余地を残して設計すべきなのです。

 ④当該記事に『「少年法いらない論者」は「窃盗犯でも死刑や無期懲役の極刑にしろ」と考えているにちがいない』に該当する部分はありません。
 しかし窃盗に限らず、従来死刑が適用されない犯罪について死刑が選択肢として恒常化すると、受刑者教育でもって再犯防止を行うインセンティブが減じ、再犯率に悪影響が出ることが予想されます。

【綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人】間違いだらけの「元少年」の再犯議論

8月19日、埼玉県川口市の路上で、32歳の男性の肩を警棒で殴った上、首をナイフで刺したとして45歳の男が殺人未遂の疑いで緊急逮捕された。逮捕された男は川口市の無職
(中略)
 という名を聞いてピンとくる人は、多くはないだろう。しかし、すでに一部のネット民の間では話題の男なのだ。
 今から30年近く前になる。彼こそ1989年、日本中を震撼させた、綾瀬「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の4人の犯行グループの1人なのだ。
(中略)
 には懲役4年以上6年以下の不定期刑が下された。
 当時、実名で報じたのは週刊文春だ。記事を担当したコラムニストの勝谷誠彦氏(57)が振り返る。
「少年法の名の下、実名報道はできないという風潮は今も変わってない。だけど、取材すればするほど、あの事件は酷かった。だから、“野獣に人権はない”と言って、実名報道に踏み切ったわけです。だって名前も報じられない彼らは、数年経ったら世の中に出てきて平気で歩き回るんですよ。逆に殺された、あんなに可愛い女子高生の名前は、じゃんじゃん報じられていた。どっちの人権が大事なのかと思ったけど、人権派という方々からは随分いじめられたね。日本は出所した者に甘すぎるんですよ。アメリカなんて性犯罪者にはGPSまで付けているわけですから。あれほどの性犯罪者、重犯罪者の名を、若いからというだけで実名で報じないのは、むしろ一般庶民に危険が及ぶのだから」
(中略)
 29年前の事件から更生したとはとても言い難い。
 綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人の“元少年”が、今度は殺人未遂で逮捕されていた!-デイリー新潮
 (引用註)当時報道されるべきではない少年の名前を報じたという報道姿勢に加担することはできないため、加害者の実名にあたる部分は省略しました。
 この記事です。よくもまぁ30年以上前の事件の加害者の名前を憶えていたなと感心する次第です。

 実名報道のありきたりな「言い訳」
 まず注目に値するのは、当時の少年の実名を報道した記事の担当者である勝谷氏の物言いです。
 まず被害者と加害者の人権を天秤にかけて、前者のほうが大切であるとする典型的なレトリックを使用しています。しかしいうまでもなく、この両者の人権はトレードオフではなく、両方とも最大限尊重されるべきものです。衝突することもあるでしょうが、少なくとも実名報道はそのような事例ではありません。ゆえに、この二者をトレードオフであるかのように見せかける議論は詭弁であるといえます。また被害者の実名報道を問題視していますが、当時も今も報道側にいる勝谷氏はむしろその実名報道を行っていた側であり、自ら行っていたことを問題視しそれを理由の1つにするというのは筋の通らないマッチポンプでしょう。

 次に、一般市民の安全を引き合いに出しています。凶悪犯罪者が人知れず社会へ戻ってくるのは危ないという理屈なのでしょうが、ここでは30年以上前の事件の加害者の名前を逐一記憶しているという非現実的な前提が自明視されています。著名な事件ならいざ知らず、無数に存在する殺人事件の犯人の名前を記憶するのが難しいことは、この事件の犯人の名前が「一部のネット民の間」でしか話題になっていないことからもうかがえます。半年でも難しいでしょう。大阪の富田林署から脱走した人の名前をフルネームで言える人だってどれくらい存在するか、怪しいものです。

 このブログを定期的に読んでくれている人は、ここに登場する実名報道の言い訳に既視感を憶えるでしょう。これらの理屈は『川崎事件における週刊新潮の実名報道には正当性もない その1』『その2』で指摘したように、川崎で少年が殺害された事件の加害少年の実名の報道の正当化にも使われました。勝谷氏の認識が30年前から変わっていないとすれば、日本のマスコミや世間はそこから一歩も成長していなかったということになるでしょうね。

 厳罰化すれば防げたのか
 まぁ、上掲ツイートで落ちている気もしますが。

 この議論をする前に、少年法の仕組みについて整理しておきましょう。
 通常、容疑者は事件を起こして逮捕されると警察から検察へ送られます。成年であれば処理されたり刑事裁判ですが、未成年は通常家庭裁判所に送られて審理されます。しかし例外的に、重大な犯罪を犯した少年は検察へ戻され、そこから成年と同じように刑事裁判のルートにのります。これを逆走といい、この事件の元少年もこの処理をされました。

 少年法なんていらないなお歴々の望む処理を、まさにされたうえでこの元少年は再犯に及んでいるわけで、この事例から「厳罰化は再犯防止に意味がない」という結論は導けても、さらに厳罰化しなければいけないという主張はできないでしょう。
 これ以上の厳罰となると死刑や無期懲役しかありません。上掲ツイートのように、少なくともその当人は再犯できないから死刑にすべきという主張は一応はできますが、それ以外への悪影響、差し引きの犯罪発生率を考慮すれば犯罪防止に有効ということはできません。
 また上で指摘しているように、犯罪の大半は窃盗のような「小物」であり、死刑や無期懲役は望むべくもないものであるのが現状です。それらすべてに極刑を課して処理するのは、行政の面から考えても現実的ではありませんし、「極刑にすればいいから更生なんて知るか」という方針をとればこのような犯罪者が放置され再犯がかえって増えることにつながりかねません。

 結局のところ、重大事件が繰り返されても、過去の凶悪事件の加害者が再犯しても、表に出てくるのは手垢のついた、犯罪学的には一言でも否定できる程度の陳腐な主張でしかありません。もし本気で再犯の防止や犯罪の減少を目指すのであれば、30年前から成長のない議論を繰り返すのは逆効果でしょう。

ファクトチェックのファクトチェック 「日本報道検証機構」は信頼に値するか

 「女子受験者を一律減点 東京医大、恣意的操作」ー 今朝の読売新聞が衝撃的なスクープを放った。女子であるという理由だけで減点とはいかがなものか、と反応したくなる。だが、待てよ。この報道を「事実」と鵜呑みにするのは早い。紙面上、事実と信じるに足るエビデンスは何も示されていないからだ。大学側も事実関係を認めるコメントは出していない(8月2日午後6時現在)。
(中略)
 もちろん「把握していない」というコメントは「そのような事実はない」という明確な否定とは異なる。だが、「そのような事実がある」と取材に対して証言した人物が、いったい何人いるのか。「女子一律減点」に直接関わった人物なのか、伝聞で知った人物なのか、その証言の裏付けとなる客観的証拠もあるのか、証言だけなのか。
 どこを読んでも、読者には、記事の信憑性を判断する手がかりが何ら与えられていない。この記事のリードには「大学の一般入試で性別を対象とした恣意的な操作が明らかになるのは極めて異例で、議論を呼びそうだ」と書かれている。裏を返せば、メディア(読売新聞)は、読者に記事の信憑性を判断する手がかりを与えずとも、これを事実として受け入れ議論してくれると考えている。そして、実際にその思惑どおりになっているのだ。
 東京医大「女子受験者を一律減点」報道 まだ鵜呑みにできない理由-ヤフーニュース
 これらの件です。
 すでにツイートで語ったように、このファクトチェックからは検証機構、および代表である楊井人文氏の姿勢がにじみ出ていると考えられます。

 なぜ今更、この話題で?
 ヤフーニュースにおける、楊井氏執筆記事を確認すると、直近の記事は昨年5月に書かれた『拉致問題「なぜ日本は直接言ってこないのか」 金正恩氏発言は事実か?』が最後であり、東京医大の記事は一年以上ぶりに書かれたものでした。また同機構の公式サイトを閲覧した限り、ほぼすべての検証は昨年秋までで止まっているようです。17年に立ち上げたとする新団体ファクトチェック・イニシアティブにおいても検証は同様であり、東京医大の件が久々の仕事です。

 しかしその「検証」は、引用部分を読めばわかるようにとても検証と表現するに堪えうるものではなく、せいぜいが「証拠がはっきり書かれていないからまだわからない」という程度のものでした。記事が書かれた時点では既に半ば自爆めいた「こんなの常識」という擁護も出そろっていたという状況です。
 活動をしていなかった一年間の間に、誤報が皆無だったとは考えられません。通常、人の行いには何らかの意図があると考えれば、なぜ、いま、この話題で、この程度の記事で再び書こうと思ったのでしょうか。

 検証機構は不偏不党ではない
 日本報道検証機構、などというワードを聞くと、いかにも中立っぽい立ち位置に立って検証をしているという印象を受けますが、実際にはそうではありません。一般論として、人はイデオロギー的に中立でいられないというのもありますが、それ以上に、楊井氏が元々産経新聞の記者であることが影響しているでしょう。当然の前提として産経新聞のイデオロギーに氏も親和的であるとするならば、わざわざ今回の件に関していちゃもんをつけたいと思ったのだろうと考えるのはいささか露悪的な解釈とはいえあり得ることでしょう。

 その氏の思想性を思わせるのが、公式サイトに掲示された「誤報レベル7」のリストです。機構では誤報の危険性をレベル0から6で表しているのですが、レベル7は「確実かつ深刻な誤報のうち、悪質性が際立っているもの」と、確率だけでなく深刻性の評価が含まれています。つまり、このレベル7だけは(レベル評価にあくまで氏のイニシアチブが強く取られていると仮定して)氏の比較的主観に近い評価が入り込む余地があり、どのようなニュースが「悪質性が際立っている」と評されるかで氏の内面にあるイデオロギーを推察することができます。
 で、レベル7に分類されているニュースは現在5つのみなのですが、その内訳をみると放射能関連が1件、オスプレイ関連2件、慰安婦関連1件、あとは中日新聞の『貧乏物語』に関するものが1件でした。中日新聞に関しては誤報指摘の隠ぺいを含むため、放射能関連に関しては誤報箇所が多数にわたるため悪質という評価はわかりますが、ほかの3件については少々その理由がわかりません。オスプレイ関連に関しては事故評価を「海兵隊が」引き上げたという主語が違うというもので、間違いには違いないが報道の大筋に影響があるかというと首をかしげざるを得ず、悪質といえるかは微妙に思えます。また慰安婦の記事に至っては「吉田証言の取り消し」であり、これを「韓国で大きな反響を呼び、長期間放置された大誤報」とするのはどこかで見たことのある姿勢といえるでしょう。

 ちなみに、レベル6を見てみると、「茨木のシールズを標榜していると誤報されたが謝罪も訂正もされていない」という市民団体の評価にかかわる記事や、福島県内のモニタリングポストが停止されているという市民の健康に関わる記事があり、これこそ悪質と呼べるのではないかと思うのですが、機構はそうは考えていないようです。

 なお、これはあくまで機構が活動を止めている期間の報道ですが、本ブログが過去に取り上げた例では、いずれも産経記事ですが、法務省の総合法務研究所の報告を思いっきり誤読した例(【新潟・岡山女児殺害】メーガン法は「誰の人権を守る」か以前の問題だ)、また正論というコラム欄での記述ですがカンジャール族に関する記述に誤りの疑いが濃厚な事例があり(『『正論』によるとリベラルはモテない男がなるものらしいぞ!』そう、例の睾丸の人です)これらは放置されています。また厳密にいえば誤報というわけではないのですが、沖縄における基地建設反対派が外国人で占められているかのように報じた事例(「逮捕者のうち4人は韓国籍」だったらどうした)、靖国神社のトイレを爆破した事件に外国人が関わっているかのように容疑者逮捕前から報じた事例((特定の)外国人排斥を煽る産経の靖国神社報道の異常さ)、相模原事件の犯人が生活保護受給者であると報じ関連があるかのように書いた事例があり(相模原の犯人が○○であることは事件と関係ないよ?)、人権の面から重大な問題がありますがこれに関しても沈黙を貫いています。

 自分のミスには甘い検証機構
  一方、他者の誤報に厳しい機構が自身の誤りにはいささか甘い面も見られています。
【追記】
 読売新聞は8月6日付朝刊の続報で、2次試験の小論文が「100点満点」だったという情報も明らかにした。この読売の続報を前提にすると、小論文の得点に男女一律「0.8」を掛ける操作により、最大20点の減点となる(例えば、得点が80点だった場合はマイナス16点で64点)。その後、現役と1、2浪の男子に20点、3浪の男子には10点をそれぞれ加点し、女子と4浪以上の男子は加点なしとする操作を行っていた、とされる(当初80点だった場合、現役~2浪の男子はプラス4点、3浪男子はマイナス6点、女子と4浪以上の男子はマイナス20点)。そうすると、最終的に男子は加点されるケースと減点されるケースの両方があり得るが、女子が加点されるケースはなく全員減点のままとなる。
 いずれにせよ、この続報を前提とすると、女子のみが減点対象になるわけではないが、女子は全員減点しか行われていないことに変わりなく、性差別の本質は変わらない。得点操作の段階が1次か2次かの違いはあるにせよ、操作の効果に着目すれば「女子の一律減点」という表現も間違いではないとの見方もできる。(2018/8/6 9:50)
 「女子の一律減点」はなかった? 読売が「3浪以下の男子に加点」と修正【追記あり】-ヤフーニュース
 結局は読売新聞の記事が大筋で正しかったという話なのですが、氏は追記というかたちでごまかし正面からの謝罪と訂正を避けています。「間違いではないとの見方もできる」どころかばっちり正しかったわけですが、そうとすら書けない「ファクトチェック」に信頼性はあるのでしょうか。


 ファクトチェックにすら眉に唾をつけて
 ここまで見てきた日本報道検証機構の仕事と姿勢を勘案すると、彼らの「ファクトチェック」なるものは大筋では間違っていないといえるものの、要所要所で無理のある、あるいは言葉尻をとらえたり報道が更新される過程を無視して誤報だと一方的に断定する場合があるといえるでしょう。このようなファクトチェックは、そのファクトチェック自体にある程度の留保をつけて読む必要があります。そもそも報道というのは多かれ少なかれそういうものですが、少なくとも全国三紙を読むときよりは慎重になる必要がありそうです。

 日本報道検証機構の信頼性を減じる最大の理由は、実際はそうではないのに不偏不党を装っているという点にあります。人間多かれ少なかれイデオロギー的に偏ることを考えれば、不偏不党を装われるよりは予めどういう思想を持っているかを明言された方が信頼できるというものです。
 そのため、やはりファクトチェックはこうした実績の薄い外部機関よりも、すでに活動して長い各社報道が相互監視と権力監視の意味を込めて行うべきでしょう。特に朝日のような左派新聞は同業者を批判するのは下品だと思っているのか、産経が言いたい放題という現状もありますが、報道全体の質の格上げのためには相互批判も重要な役割を負うでしょう。

 もう1つ、信頼性に影響している姿勢は機構が報道の検証をあくまで「あっているか、間違っているか」に拘泥しているという点が挙げられます。つまりさほど重要ではなさそうな部分でも「誤報だ!」と大騒ぎしてみたり、一方明らかに人権上重大と思える報道も明確な誤りがなければ無視というスタイルが貫かれており、今回の記事もその姿勢の一部といえるでしょう。
 誤った報道による被害を問題視するのであれば、単に外形上の正答不正答だけでなく、その報道そのものが与える影響も加味する必要があるはずです。例えば東京医大の件では、多少勇み足な面があったとしても、受験生の人権にかかわる問題であれば報じ、不正があるかどうかを明確に調査するべきであると考えられます。一方、公人ではない個人が関わる件はより注意深く検証し確証が取れてから報じるということも必要になるはずです。
 報道問題を論ずるのであれば、外形上の誤報にこだわらず大局を見据えて検証を進めていくべきでしょう。

世界に出荷される保守政治家の無知と無恥

 まぁ、あんまり語るべきこともないんですけど、記録として。
 BBCは28日夜、強姦されたと名乗りを上げて話題になった伊藤詩織氏を取材した「Japan's Secret Shame(日本の秘められた恥)」を放送した。約1時間に及ぶ番組は、伊藤氏本人のほか、支援と批判の双方の意見を取り上げながら、日本の司法や警察、政府の対応などの問題に深く切り込んだ。制作会社「True Vision」が数カ月にわたり密着取材したドキュメンタリーを、BBCの英国向けテレビチャンネルBBC Twoが放送した。
(中略)
 一方で番組は山口氏を擁護する人物として、自民党の杉田水脈議員を取材した。杉田議員は、ネット座談会などで伊藤氏を強く批判している。
 番組の取材に対し杉田議員は、伊藤氏には「女として落ち度があった」と語った。
 「男性の前でそれだけ(お酒を)飲んで、記憶をなくして」、「社会に出てきて女性として働いているのであれば、嫌な人からも声をかけられるし、それをきっちり断るのもスキルの一つ」と杉田議員は話している。議員はさらに、「男性は悪くないと司法判断が下っているのにそれを疑うのは、日本の司法への侮辱だ」と断言。伊藤氏が「嘘の主張をしたがために」、山口氏とその家族に誹謗中傷や脅迫のメールや電話が殺到したのだと強調し、「こういうのは男性のほうがひどい被害をこうむっているのではないかと思う」と述べた。
 「日本の秘められた恥」  伊藤詩織氏のドキュメンタリーをBBCが放送-BBC
 先日、BBCがジャーナリストの伊藤詩織氏へ取材をしたドキュメンタリーが放送されました。引用記事にはその一部も掲載され、映像では極右排外団体であるしきしま会の活動家が「名乗り出ている被害者は怪しい」などとYouTubeの動画で語るシーンや、サイトの書き込みで「朝鮮へ帰れ」という文章が映し出される場面もありました。もちろん、これらの発言や書き込みはすべて英語字幕で翻訳され視聴者に届けられています。

 そんななか、同番組で自民党の政治家杉田水脈氏がインタビューを受けており、伊藤氏に関して引用部のように、セカンドレイプの典型のような返答をしていることも話題になっています。

 言い訳にならない論理
 その記事に対して、当の本人は以下のように反論します。
 この記事の中に「番組の取材に対し杉田議員は、伊藤氏には『女として落ち度があった』と語った。」と書かれており、ネット上では「セカンドレイパー」だとの批判が噴出していますが、これも[切り取り]です。
 もし女性が、薬を飲まされて無理やり連れ込まれて強姦されたのであれば、私は「女として落ち度があった」とは全く思わないし、そんな犯罪者は本当に許せないと思います。
 が、この点については伊藤詩織氏と山口敬之氏の主張が食い違っています。
(中略)
 このように対立する二つの証言があり、それらを検証した結果、東京地検が不起訴としています。これに対し、東京第6検察審査会も「不起訴相当」とする議決を公表しました。客観的に見て、伊藤氏よりも山口氏の証言の方が信憑性が高いと司法が判断を下したことになります。
 この結果を踏まえた上で、私は「これは強姦事件ではないと司法が判断した。女性にも落ち度があったと言わざるを得ない。」と発言しています。
 もう一度、言います。私は性犯罪は許せないと思います。無理やり薬を飲まされたり、車に連れ込まれて強姦されるような事件はあってはならないし、犯人の刑罰はもっと重くするべきと考えています。
 が、伊藤詩織氏のこの事件が、それらの理不尽な、被害者に全く落ち度がない強姦事件と同列に並べられていることに女性として怒りを感じます。「海外に日本の現状が誤って広がることをなんとか止めたい」インタビュアーの質問に応えながら、そればかり考えていましたが、そこはゴッソリ抜かして編集されたようで、とても残念に思います。
 【BBCが放送した伊藤詩織氏のドキュメンタリー「日本の秘められた恥」について(その2)】-杉田水脈公式ブログ
 要するに「落ち度のない場合なら批判しないが、この事件は違うから正当な発言だ」とでも言いたいのでしょうが、そもそも落ち度がある(と自身が恣意的な基準によって判断した)事件なら被害者の非を理由に加害者の責任を減じてよいという考え方そのものが、二次加害の典型的な例と言え、番組ではこれを含めて批判する意図があったのでしょう。
 また国会議員は警察や検察といった行政、あるいは裁判所を含む司法が適切にその職務を全うしているかを監視する役割があり、それが三権分立の基本ですが、氏は疑惑のある警察や検察の判断を無批判に受容することでこの役割を放棄しています。
 そして、「海外に日本の現状が誤って広がることをなんとか止めたい」というのはまさしく極右政治家が抱きがちな被害者意識ですが、この発言を見るにBBCの番組が広めた「日本は性犯罪被害者に厳しい国である」という現状はまったくもって正しかったと言わざるを得ません。
 以前にもお伝えした通り、今年の夏は2月にBBCの取材を受けました。その時の企画書は下記の通り。「#metoo運動の日本での反応」ということで、男女共同参画やセクハラに対する一般的な話しが主でした。インタビューは2時間以上に渡りました。話題は性犯罪のことにも及びましたが、「日本は他国に比べ、レイプなどの少ない、女性が安心して暮らせる国である」ことを強調しました。その上で、伊藤詩織氏の件について色々聞かれました。
 【BBCが放送した伊藤詩織氏のドキュメンタリー「日本の秘められた恥」について(その1)】-杉田水脈公式ブログ
 氏は『「日本は他国に比べ、レイプなどの少ない、女性が安心して暮らせる国である」ことを強調』したようですが、強姦加害者が首相と懇意の人物だったがために不起訴になった可能性が高いというケースを取り上げた番組のインタビューでこのような発言をすることは極めて滑稽にすら映ったでしょう。
 加えて、インタビュー時に示されていたものと番組の内容が違うという不満も語っていますが、取材の手法としてインタビューの目的をずらして伝えることでアポを取り付けやすくする方法をさほど珍しいとも思えません。少し姑息な方法ではあるでしょうが、与党議員という権力者相手に行うのであれば十分許容されるべき手法です。

 氏はインタビュー動画を全て公開することも検討しているようなので、ぜひそうして欲しいと思います。保守政治家のずれまくった性犯罪認識を語った二時間以上の動画とか、資料価値がめちゃくちゃ高いでしょうから。

野球がスポーツになるか暴力集団になるかの分水嶺

 タレント稲村亜美(22)が、始球式で球児に取り囲まれるハプニングがあったことについて、「怪我がなければいいことを祈ります」とコメントした。
 稲村は10日、神宮球場で行われた日本リトルシニア中学硬式野球協会関東連盟の開会式を締めくくる始球式に登板。関東地区の202チームの選手がマウンドを取り囲む中、美しいフォームを披露したが、感激した球児たちに取り囲まれるハプニングが発生。ネット上を中心に心配の声が上がっていた。
 稲村亜美、球児に囲まれ「怪我なければいいことを」-日刊スポーツ
 これの件です。

 それに対しては知った当初こう反応していました。前々から野球は嫌いだと思っていましたけど今回の件でそれが決定的になった感じです。

 大人が子供を指導できるか
 子供の行為に関しては最大限好意的に解釈して「子供だから悪いこととわからなかったんだろう」「集団だったから」とかばうことは不可能ではないでしょう。そうする必要があるとも思えませんけど、まぁ不可能ではないです。
 問題は、この件に直面した大人がどのような対応をしたかです。
 運営元の組織のHPを見る限りこの件に関して何か声明を出した様子は一切ありません。個々のチームが子供に対しどのような指導をしたかは不明ですが、この分では期待できないでしょう。報道を見る限りでもこの一件を襲撃ではなく「ハプニング」と矮小化し、それに関して気丈にふるまう被害者を「さすがプロ」と持ち上げるばかりでこの件が問題であるという視点に立ったものは確認できる限り皆無でした。
 「神スイング」で知られるタレントの稲村亜美さん(22)が3月10日、神宮球場であった野球大会の始球式で、中学生球児らに「襲われる」ハプニングがあった。ツイッターでは「どう考えても集団暴行事件」「紛れもなく痴漢」など怒りの声が上がっている。
(中略)
 始球式は「知る限り初めて」(担当者)といい、稲村さんのスケジュールが合ったことで実現したという。「経験がなかったこともあり、不手際があった。あそこまでは想像していなかった」と責任を感じている様子。
 止めに入ろうとしたが、中学生の圧力に負け、審判団や役員が球児を引き剥がすのに時間がかかってしまったという。大事には至らなかったが、軽傷を負った生徒もいるそうだ。
 稲村亜美さんに数千人の中学球児殺到 「紛れもなく痴漢」など怒りの声続々、運営平謝り-弁護士ドットコム
 例外は弁護士ドットコムの記事。この記事では運営は謝罪したことになってはいます。
 今後の仕事への影響を考えると被害者は「大したことがなかったように振舞わざるを得ない」立場でしょう。だからこそ周囲が問題を認識し訴える必要があるのですが、そのようなことが行われている気配もありません。

 野球界に残る性差別の噴出
 個人的には、この件は野球というスポーツの世界に滞留するホモソーシャルな価値観と性差別が順当に噴出した結果であろうとみています。
 特に高校野球に特徴的でしたが、野球というスポーツはそれに携わる女性を選手や指導者である男性の下に置くことで成り立っている世界です。女子マネージャーの献身が毎年のように美談として扱われる一方である年には女子がグラウンドに入ってバッティングを手伝うことを禁じたことが問題となりました。この件に関しては運営組織も結局かなり狭い範囲で認めることになったようですが。
 プロ野球においても「妻の献身」がやたら取り上げられる点からもわかるように、野球をする子供が手本とする世界においても性差別の根っこが残っている(まぁこれは野球に限った話ではないといわれればそれまでですけど)ように、指導すべき大人もそれを是正する能力がありません。体罰や傍から見ると異様とすらいえる精神論の蔓延などは性差別とは親和性も高いでしょうし、いまの指導者もかつての指導者からそうした要素を受け継いで今もまさに自分が指導する子供たちに明に暗に受け継がせようとしているという蟲毒状態が続けば、当然こういう問題が噴出するのは自明です。あるいは単に、これは氷山の一角とみなせるかもしれませんけど。

 野球はスポーツたり得るか?
 このような襲撃事件を経験したのち、この問題についてだんまりを決め込んでいる現状、ともすれば問題であると認識しているかも疑わしい背景を鑑みるに、野球が果たしてスポーツとして市民社会に存在しているのかという点も疑問になってきます。
 加害を加害と認識できない、そう指導できない大人に率いられた集団が金属の棒を方々で振り回しているというのは市民社会にとって脅威でしかありません。集団であればこそ、単独では加害性をほとんど持たない者も加害に参加するという可能性も現実的にあり得るでしょう。

 ちなみに、集団強姦というのはその集団を解体すれば再犯はほとんど起こらないといわれています。ということは、あとはわかりますよね?

【書評】暴力の人類史 上

 本日はこちら。死ぬほど分厚い名著です。ようやく読む機会を得ました。死ぬほど分厚いので上下巻に分けてレビューします。

 結論:全ての暴力は減少している
 死ぬほど分厚い死ぬほど分厚いと言っていますが、本書の要点をまとめると結局のところここに落ち着きます。
 本書では稀有なことに、犯罪だけでなく戦争からテロリズム、拷問のような残虐な刑罰まですべての暴力といえる暴力を扱っています。そしてその全てで、時代による揺り戻しも多少はありつつ減少傾向を見せているのです。
 その理由は何でしょうか。本書では大きく5つの原因──リヴァイアサン・通商・女性化・コスモポリタニズム・理性のエスカレーターを取り上げています。早い話が、政府が誕生し暴力を独占すること、商業が栄え略奪ではなく商売によるプラスサムゲームのほうが利益が高いと考えられるようになったこと、暴力的な男性ではなく平穏でリスクを回避しようとする女性の権利が向上し政治に口を出せるようになったこと、印刷技術の発展と教育レベルの向上により人々が他者の視点に立つ共感性を涵養できたこと、知性の適用範囲が広がり暴力を解決すべき問題だと捉えられるようになったことが全ての理由なのです。
 このような見方は、日本国内に限ってもほかの研究が支持しているものです。『戦前の少年犯罪』が著名ですが日本においても昔へさかのぼればさかのぼるほど犯罪は苛烈で頻度も高いものでした。統計的には『現代日本の少年非行―その発生態様と関連要因に関する実証的研究』が現代において少年犯罪の増加など起きていないことを示しています。刑罰においても日本はいまだ死刑を維持する数少ない国の一つですが、江戸時代にはもっと残虐な刑罰が大量にあったことを考えればこれでもかなり進歩していると考えるべきでしょう。また戦前は多種多様なテロリズムが発生しそのたびに日本の政治はぐらついてきました。一方現代はオウム真理教によるサリン事件や相模原の事件などがありましたが、裏を返せばその程度ともいうことができます。

 テーブルマナーと暴力
 面白いことに、暴力の減少過程は当時のテーブルマナーの教本に反映されていると著者はいいます。実際、著者が引用しているマナーの記述を読むと、テーブルクロスでナイフを拭くなとかそもそもスプーンを使えとか三歳児の子供に向かって注意するような内容を著名な哲学者が大真面目に書いているのです。
 このようなマナーは、人の生理的な衛生感・嫌悪感と暴力性が分かちがたく結びついていることを示唆します。実際に心理学的な研究でも清潔な人より汚い人に対して人は冷酷に振舞うことが示唆されていますし、逆に手を洗っただけで罪悪感が軽くなるという研究もあるくらいです。中世のフランスが象徴的ですが、昔は今に比べれば衛生状況は最悪と言ってもいいくらいで、貴族ですらハイヒールはドレスの裾が地面に落ちた排泄物で汚れないようにするためにできたという逸話が出来上がるくらいなので社会の最下層にいる人々の衛生状態はお察しです。そのような生理的嫌悪が暴力的な対応を加速させたことは想像に難くありません。
 近代になりマナーが発展するにつれて、食卓には鞘から抜かなくてもよいナイフが登場しました(それまでは各々が帯刀していた短剣を使っていたらしいです。そりゃ刃傷沙汰も増えるわけです)。次第にナイフに対する暴力への嫌悪感から先が丸くなっていき、魚用のものは必要以上に切れないように切れ味をわざと悪くするといった工夫がなされるようになってきました。

 暴力が増えるプロセス:文明化の逆行
 本書で著者が指摘しているように、暴力の減少は常に一方通行だったわけではありません。60年代には欧米諸国で一旦暴力の増加傾向がみられることになります。ちなみにいま日本で一番暴力的だなんだと言われている団塊の世代は47年から49年生まれで、彼らがちょうどティーンエイジャーになるのが60年代なので傾向としては一致するかもしれません。
 著者はこの理由を脱文明化のプロセスで説明しています。文明化がいったん落ち着いた間欠にラジオが普及するようになり、彼らを指す呼び名も相まって世代としての団結力が高まり「世代そのものが別の国家」のようになりました。また政治腐敗が取り沙汰された時でもあり、権力や上流階級への不満といったものが爆発したためにそれに対する抵抗運動・カウンターカルチャーが盛んとなります。政治への批判だけならまだしも、カウンターカルチャーは際限なく広がり既存のもの全てへの反発の様相を呈していきます。この反抗のための反抗ともいえる状態が脱文明化を生み出し、暴力が一時的に増加したのではないかと著者は考察しています。
 なおこのような流れは日本にもあり、学生運動が盛んだった安保闘争はまさに1960年の出来事なのです。
 その後この世代の暴力への対応として学校での教育や取り締まりが厳しくなり、子供たちは再び文明化のプロセスに取り込まれていきます。その辺のプロセスも管理教育が強まった日本と共通するかもしれません。

 そのほかにも、アメリカ南部やイスラムにおいて暴力減少のトレンドに置いてきぼりを食らっているような現状に対する考察などがあります。個人的には統計を示せば十分だったような気もするのですが、具体的なエピソードがあるほうがやはりわかりやすいですし、それを示さないと統計を十分に読んでもらえないだろうという著者の懸念もわかるところです。

 スティーブン・ピンカー (2015). 暴力の人類史 上 青土社

周りの反応を含めポプテピピックを「劇場型犯罪」と評するのは適切

 週明けに配信でチェック → 日曜日に配信で視聴 → 土曜深夜に配信開始を起きて待つ ・・・という感じで順調に中毒に慣らされてきた感のある、アニメ『ポプテピピック』。
 私はアニメ畑はてんで詳しくないので、TwitterのTLで見かける「ポプテピピックからさかのぼるパロディアニメの源流が云々」みたいな議論には加われないのだけど、多根清史氏がツイートされていた「劇場型犯罪」という形容がものすごく印象的でして。
(中略)
 アニメ放送開始と共に原作もちょくちょく読み返すのですが、相変わらず意味がよく分からないんですよね、これ。いや、もちろん分かるものも多くて、パロディとか、パターンとか、ブラックユーモアとか、笑えるのもある。でも、体感で4割くらいは「これは笑えるのか?」「意図がわからん・・・」みたいなのがある。元々そういう作風を自称してる漫画なのは分かってて言ってるんですけど。
 でも、「よくわからない」ことと「つまらない」ことは別に常にイコールではないので、なんとなく読んでいるうちに、あの2人が やんややんや やってることそのものが「も、もしかして面白いのでは?」に変わっていく。その中毒性が肝な訳で。
 だからこそ、この意味不明さを「面白い」「俺は理解できる」と断じることでカッコ付けるオタク特有の醜い自尊心を誘発させる麻薬のような側面があって、そういう意味で「劇場型犯罪」と評されるのは納得なんですよね。アニメでも原作の「??」なテンションをそのまま再現していて、「これを面白がるのがツウ」みたいな囁きと葛藤を投げかけてくる。ずいぶん穿った見方かもしれないけど、でも、『ポプテピピック』って割と前からネットではそういう立ち位置だったし、それはそれでアプローチとして別に構わないと思うんですよ。だから、必ず「あれをありがたがってるヤツはネタじゃなくてクソ」みたいな声も挙がるんですけど、それ込みの流行生成というか。
 そして、その「醜さ」をこういうテンションで評する私こそが御多分に洩れず斜に構えてるというブコメやコメントがついて、でもその人も次の人に同じように評されるという、終わらないループが始まる訳ですね。ネットって面倒くさいなあ。
 劇場型犯罪アニメ『ポプテピピック』の感想-ジゴワットレポート
 この件ですね。これについて私は以下のように反応していました。

 そもそも劇場型犯罪とは何なのか
 冷静に考えると劇場型犯罪って何なのかはっきりと定義を把握できていない気がするので確かめておきます。
げきじょうがた‐はんざい〔ゲキヂヤウがた‐〕【劇場型犯罪】
 犯行声明などを発表し、人々の注目を集めることを目的の一つとする犯罪。また、テレビや新聞などのマスメディアに大々的に取り上げられることによって、人々の注目が集まった犯罪。
 コトバンク
 ということです。私としては例として「神戸児童連続殺傷事件」やそれに伴う少年犯罪が真っ先に思いつきましたね。

 周りの反応を含めて「劇場型犯罪」と評する意味
 さて、私は上掲のツイートのように周りの反応を内包した評価としてポプテピピックを劇場型犯罪と評したことを秀逸だと思いました。
 というのも、「神戸児童連続殺傷事件」のような劇場型犯罪に関しては周りの「俺は犯人の真意がわかっている」というポジショントークが盛んにおこなわれていたからです。その筆頭が社会学者(というのも躊躇われるが)の宮台真司でした。『【書評】「脱社会化」と少年犯罪』で触れたように、彼はこの事件とその後に続いて起きた青少年による犯罪、氏の言葉を借りれば酒鬼薔薇フォロワーによる犯罪に関するスタンスこそが、上で引用したポプテピピック評で言及されている『「俺は理解できる」と断じることでカッコ付けるオタク特有の醜い自尊心を誘発させる麻薬のような側面』が劇場型犯罪に備わっている要素であることを物語っています。
 宮台真司はその議論の一般化可能性や学術的なエビデンスを一切無視し自身の頭で考えた「少年Aの本心、真意」を看破、それを少年一般に広げて考えることで社会そのものに関する議論でも「俺はわかっている」という態度を貫くという芸風を持っています。このような芸風はポプテピピックを語りたがるオタクの芸風に一致しています。

 バズらせるためには「わかっている俺」を演出する余地が肝心か?
 ところで、先に引用したポプテピピック評ではこのアニメのことを「バズらせ特化型」とも指摘していました。このあたり、実は「劇場型犯罪アニメ」との接続になっているのかなとも思います。
 というのも、噂ではポプテピピックはヴィレッジヴァンガードで展開しているという象徴的な話(私が行ったことのあるヴィレヴァンでは確認できてませんが)があります。ポプテピピックはサブカルチャーに傾倒する、ヴィレッジヴァンガード御用達みたいな人々のことを「サブカルクソ女」とストレートに罵倒しています。それが当のビレッジヴァンガードで展開しているというのはどういうことでしょうか。
 おそらくこのサブカルクソ女罵倒はプロレスみたいなもので誰も真面目に捉えていないという側面が強いのでしょうが、その反面「私は罵倒されているサブカルクソ女に該当しない」という自意識を喚起する部分もあるのだと思います。その自意識こそが「オタク特有の醜い自尊心」にも通底するのでしょう。当然劇場型犯罪が起こった時に現れる有象無象の評論家に見られる「わかっている俺」態度にもです。
 あるものをバズらせるためには、それについて反応をしてもらわなければいけません。そのために「わかっている俺」をくすぐってわかっているアピールをTwitterなりブログなりでしてもらうのは実に都合のいい戦略です。
 心理学的には、あいまいな刺激には受け手の解釈がふんだんに入り込む余地があり、それによって受けては様々な反応を示します(ネットの議論が炎上しやすいのもこのため)。ポプテピピックはその意味不明な作風と供給過多のパロディで、劇場型犯罪は意味不明な犯行動機と様態によって曖昧さを加速させ、「わかっている俺」を生み出す余地をたぶんに設けることでバズらせるという共通した手段を持っています。

 これは予想ですが、流行が終わったときに(原作者に振り込まれる印税を除いて)結局何も残らないという点も共通するのではないかと思います。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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