九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

犯罪報道

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

死刑制度は相模原事件の犯人の思想と何が違うのか:これまでのまとめも込めて

 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園(Tsukui Yamayuri-en)」で入所者19人が殺害された事件で、横浜地方裁判所は16日、植松聖(Satoshi Uematsu)被告(30)に死刑を言い渡した。
 日本史上最悪の大量殺人の一つとされる2016年のこの事件の裁判で、植松被告は起訴内容を認めていたが、弁護団は被告には薬物使用に関連した「精神障害」があったとして「無罪」を主張していた。
 しかし、青沼潔(Kiyoshi Aonuma)裁判長は「19人もの人命が奪われたという結果が、他の事例と比較できないほどはなはだしく重大である」と述べ、「計画的かつ強烈な殺意」があったと指摘。「酌量の余地はまったくな」いとして、被告側の無罪主張を退けた。
 青沼裁判長はまた、遺族から処罰を強く求める声があることに触れ、被告に前科がないことなどを「できるだけ考慮し、量刑の均衡、公平性の観点から慎重に検討しても、死刑をもって臨むほかないと判断した」と述べた。
 植松被告は以前、判決が何であれ控訴しない意向を示す一方、自分は死刑に値しないとも主張していた。死刑判決言い渡しには特に反応を示さなかった。
 相模原障害者19人殺害事件、被告に死刑判決-AFP
 昨日、相模原大量殺人事件の加害者に死刑判決が言い渡されました。これで事件はひとつの区切りを迎えたと言っていいでしょう。

 九段新報が見た相模原事件
 振り返ると、九段新報でもこの事件を何度も取り上げてきました。
 事件発生当初は、『相模原の大量殺人について』や『「措置入院でなぜ防げなかったのか」が無意味なわけ』で取り上げたように事件を防げなかったのかという論調が目立った印象です。そのときは措置入院が取り沙汰され、それには意味がない旨を記事に書きましたが、その後警察が危険を把握しつつ何もしなかったことが明らかとなり、別角度から「防げたかもしれない事件」だったことがわかりました。

 この事件は障碍者差別に強く裏付けられているのですが、加害者だけではなく日本社会全体に差別が根付いていることも改めて表面化しました。真っ先に措置入院の話題が出たのも、ある種このような事件を起こした責任を「精神障害」に押し付けんとする試みだったのでしょう。『長谷川豊なんかの発言をまともに聞いちゃだめだよ? 後編(相模原のやつ)』からもわかります。それが困難だと悟ると、いつものごとく在日コリアンへ責任を転嫁し始めました(『相模原の犯人が○○であることは事件と関係ないよ?』参照)。

 そのような差別性がまず表出したのは、報道でした。『なぜ障害者の被害者は実名報道されないのか』で扱ったように、普段は意地でも被害者のプライバシーを暴く報道が、この件では従順に被害者の匿名報道を貫きました。もちろん、報道に被害者の名前が必要だとは思えませんが、健常者は名前を出すのに障碍者は出さないという区別にはどのような意味があるか、一度考えるべきです。

 一方では、加害者を非難するという申し訳程度のエクスキューズを伴いながら、加害者の思想に共感する動きも多く出ています。つまり、命の選別を是とする風潮が、これまでは曲がりなりにも隠されていたのに、これをひとつの契機として表立って出てきたということです。

 顕著だったのは、やはり同様の医療現場でした。『大口病院事件 「延命されている人に楽しいことなんてない」は相模原事件の犯人と何が違う』で取り上げた事件や、『医師が「医療費が」などと出しゃばり患者を殺す不気味さ』の福生病院の事件がこれに当たります。「延命されているのは不幸だ」などと他者の感情を勝手に決めつけ、また延命治療が無益であるなどと救命を第一に考えるべきはずの医師が利益ベースで物事を考えるなど、気味が悪いとしか言いようのない振る舞いがまかり通っています。

 むろん、このような動きは突如現れたものではありません。ベースには犯罪者の意見をさも重要なものであるかのように扱う風潮があり(『「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮』参照)、また透析を自業自得だと言ってはばからないような自己責任至上主義の風潮があります(『長谷川豊が千葉一区&比例代表で出馬するようなので過去の暴言を蒸し返しておく』参照)。

 なにより、このような「命の選別」を、ほかならぬ政府が主導していることは決して忘れてはならないでしょう。『こんな時だからこそ「誰が」「誰を」殺してもいけないことを確認しなければならない』で触れたように、安倍首相の反応は極めて鈍いものでした。犯人が首相に手紙を送っているという背景があるにもかかわらずです。京アニ放火事件のときの反応とは対照的です。

 もっとも、この事件に際して平等と生命尊重の立場から多くの言説が登場したのも事実です。古いものになりますが、青い芝の会の神奈川県連代表が記した書籍も注目を浴びました(『【書評】障害者殺しの思想』参照)。言い換えれば、昔から進歩がないということにもなりますが。

 死刑制度は同じ穴の狢
 すでに同様の批判はされているでしょうが、ここでも繰り返しておきましょう。
 今回の事件の加害者を死刑にするというのは、結局のところ、加害者の主張を裏書きしているにすぎません。なぜなら、死刑制度もまた「殺していい命を決めて処理する」という、加害者の振る舞いと同じものでしかないからです。

 そもそも、相模原事件の発端は障碍者を無価値な人間と定め、生きる意味がない、生きているのは無駄だと決めつける思考形態でした。死刑制度もまた、重罪を犯した(とされる)人間を無価値と定め、生かすのは税金の無駄とばかりに殺してしまう制度です。違うのは、裁判を経るため死刑制度のほうが「まともっぽく見える」というところだけですが、冤罪の事例を見ればさほどまともではないことはよくわかると思います。

 相模原事件の加害者の振る舞いを批判しながら、彼の死刑を望むことは、端的に表現すれば「命を大切にしない奴は嫌いだ!死ね!」と言っているようなものでしょう。

NHKは田代まさし出演回をなかったことにすべきではない:表現を下支えする論理を持て

 宮城県警は6日、覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで元タレントの田代まさし(本名政)容疑者(63)を逮捕した。
 逮捕容疑は、8月23日に宮城県塩釜市の宿泊施設で、また11月6日に杉並区で、それぞれ覚醒剤を所持した疑い。
 63歳田代まさし容疑者また逮捕、覚醒剤所持の疑い-日刊スポーツ
 田代まさし氏が違法薬物所持で逮捕されました。
 NHK Eテレの障害者情報バラエティー「バリバラ」(木曜後8・0)の公式サイトは6日、元タレント、田代まさし(本名・政)容疑者(63)が出演していた放送回のページを削除した。田代容疑者の逮捕を受けての対応と見られる。
(中略)
 田代容疑者は7月4日、11日に放送された「教えて★マーシー先生」と題した特別編に出演。4日の放送では番組出演を決めた理由について「私ごときの者が少しでも皆さんのお役に立てればということと、もう少し薬物依存症のことを皆さんに知ってもらいたいな」と語り、MCからの「ろれつがあんまり回ってないですけど、ヤってるんですか?」とのブラックジョークには「ろれつが回ってなかったり、手が震えてて『大丈夫ですか?』ってよく聞かれるんですけど、使ってるときはピタっとそれが止まるんです。逆なんです。きれいにしゃべってるほうがあやしい」などと答えていた。
 NHK・Eテレ「バリバラ」、田代まさし容疑者出演回の放送ページ削除-サンスポ
 これを受けて、NHKは氏が出演していた回を番組の一覧から削除するといった措置を取りました。

 そんなことわかってただろうに
 しかし、この措置はどうにも筋の通らないものです。
 というのも、薬物の所持や使用は一般に再犯率の高い犯罪だといえるからです。つまり、NHKは田代氏を出演させた時点で、もしかすると何年後かあるいは何十年後かにはまた薬物の所持で逮捕されるかもしれない、そういうリスクがあることなどわかりきっていたはずです。

 にもかかわらず、NHKは氏の逮捕を受けて、まるで予想しなかった初犯の逮捕であるかのように慌てふためき放送回をページから削除するという措置をとっています。

 これは、前に『知っていて当然のことを知らなふりをする「カマトト」を許してはならない』で論じたような、わかりきっていたはずなのにわからなかったふりをするという振る舞いそのものと言えるでしょう。
 かつての薬物使用者に違法薬物の啓蒙を依頼するのであれば、当然このような事態は織り込んだうえでプランを立てなければなりません。それができていないのであれば、NHKの番組制作能力に疑いが付きます。

 表現を下支えする「論理」の欠如
 そもそも、薬物所持は、それに伴った加害がない限りは究極的には「自己責任」であり、逮捕された人を現在の番組に起用することは薬物使用を積極的に称揚することにつながる可能性があるので避けなければならないにしても、過去の放送回までなかったことにしなければならないほどのものでもありません。

 これはすでに『犯罪を犯した芸能人が出ている作品をどう処遇するべきか』で書いたことですが、結局このような「過剰反応」と評せざるを得ない対応は、表現を下支えする論理の欠如に起因するものです。

 違法薬物の啓蒙のために、そうした経歴のある者を起用した。そこに明白な理由があるのであれば、仮に起用したものが逮捕され、番組がやり玉に挙げられても論理で反論することができるはずです。にもかかわらずそうしないのは、本当のところではそこにはっきりと理由を作っておらず、なんとなく氏をトレンドとして利用しただけだからではないかと疑わせられます。

 この点は『プロの創作者ですら、表現を快不快の水準でしか捉えられないという本邦表現市場の悲惨さは何に由来するのか』で論じたような、性表現の内容ともダブってくるところです。

 よくゾーニングの議論で「少しでも認めると延々と交代することになる(だから少しのゾーニングも認めてはならない)」という極論を聞きますが(極論なのによく聞くというのがそもそもおかしい)、そのような極論が成立してしまうのも結局「なぜこの場にこの表現がふさわしいのか(あるいはふさわしくないとまで言えないのか)」という部分の論理を彼らが持ち合わせていないからです。もしそこの論理をしっかりと持っていれば、妥当な批判といちゃもんとの区別をつけて議論を成立させることができるはずです。

 今回の事例でいえば、別段大急ぎで氏の出演回を葬る必要性は全くありません。むしろ、いまこそ再放送して、ここまで意志が固く見える人物でも再び使用してしまうことをはっきりと示してもいいくらいです。
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養育費不払いの氏名公表に意味はあるか

 離婚相手から養育費を受け取れないひとり親家庭が困窮するのを防ごうと、兵庫県明石市が養育費の支払い命令に応じない離婚相手の氏名を公表できる条例の制定を検討していることが17日、分かった。市によると、養育費支払いを巡り、条例に基づいて罰則として氏名を公表する制度は全国初。
 厚生労働省の2016年度調査では、母子家庭の場合、離婚相手から養育費を受け取っている割合は24%程度。明石市は昨年11月から、養育費が滞っているひとり親家庭が最大月5万円の援助を受けられる制度を試験導入し対策を進めている。
 養育費不払いは氏名公表 兵庫・明石市、条例検討-共同通信
 この件です。

 ガス抜きにしかならないのでは
 確かに、取り決めをしたにもかかわらず養育費を支払わない親は問題となっています。そのために行政が対策に乗り出すのはいいことでしょう。

 しかしながら、氏名を公表することがどれほどの効果を持つかはかなり怪しいものです。氏名の公表を恐れてきちんと払うくらいなら、公表しなくても支払っていそうなものですが。また、一度公表されてしまえば、もう公表されたのだしと居直って支払わなくなる可能性もあるでしょう。

 しかも、氏名が公表されてもなお支払わないのであれば、ひとり親家庭には何のメリットもありません。

 本来、行政が行うべきひとり親家庭の支援とは、養育費の取り立てを代行するなど、ひとり親家庭の経済状況の好転に資するものであるべきです。氏名の公表は、単にさほど労力もかからず「やっている感」を演出するのに便利なだけで、ガス抜きの効果しかないのではないかと思われます。

 副作用が重大

 さらに言えば、上掲ツイートのような副作用の方が重大ではないかと思われます。

 養育費の不払いで氏名公表が批判されにくいのは、一見するともっともらしいというか、そうなっても仕方がないどうしようもない奴へ罰を与えられるという側面があるからです。
 しかしながら、大抵の場合、罰というのは「もっともらしい」ところから「非人道的な」ところにまでいともたやすく延長されてしまうものです。

 もし、養育費の不払いで氏名が公表されるのであれば、それ以外の不払いでもやはり氏名が公表されなければ罰の均衡性に問題があるということになります。そうなれば、税金、保険料、保育料、給食費などありとあらゆる不払いによる氏名公表に反対できなくなるでしょう。

 もちろん、これはある種極端な想定ではあります。しかし、養育費の不払いによる氏名公表を認めれば、同じ論理で行われる、一見極めて非人道的に見える氏名公表に反対するための理論的支柱を失うことになるでしょう。

 行政が行うべきなのは、氏名公表などという「やっている感」を出すためだけの対策ではありません。きちんと養育費を取り立て、ひとり親家庭に支払うための制度設計を進めていくべきです。


安直なマスコミ叩きで無視される「警察の不誠実」「実名報道を望む被害者遺族」と「報道被害を作る視聴者」の存在

 前回の記事で、DaiGoの動画に通底する態度を批判しました。今回は内容面を、安直なマスコミ叩きが引き起こすことを中心に指摘していきます。

 警察は嘘をつく
 京都アニメーション(京アニ)第1スタジオ放火殺人事件の全犠牲者の身元が27日、明らかになった。京都府警は当初から犠牲者全員の実名を公表する考えを示してきたが、「遺族の了承が必要」とする警察庁との調整が難航。事件発生から1カ月以上たっての公表という異例の展開となった。一方、府警が「実名公表を拒否している」としていた複数の遺族が京都新聞社の取材に「拒否していない」と証言した。今回の実名公表は、捜査当局が遺族一人一人の意向を正確にくみ、代弁することの難しさを浮き彫りにした。
 府警はこれまでから、殺人事件や交通事故で犠牲になった人の氏名を報道各社に公表してきた。当事者の安否に関わる情報を社会で共有することは有益だと考えているからだ。
 京アニ事件が発生した当時、第1スタジオには犠牲者35人を含む計70人の従業員がいた。その多くは、映画やテレビ作品の終幕に製作関係者として氏名が紹介され、中には著名なクリエーターもいた。現場近くの献花台には連日、大勢のファンや知人が詰めかけ、「あの人は無事か」「亡くなったのは誰か」と従業員の安否を案じた。
 府警は事件翌日の7月19日、犠牲者の氏名について「身元を特定次第、速やかに公表する」と報道各社に説明した。ところが3日後、京アニから「被害者や遺族のプライバシーが侵害される」として、実名発表を控えるよう要請されたのを機に状況が一変した。警察庁から「公表には遺族の了承が必要」との条件を示され、従来方針との間で板挟みとなり、公表時期がずれ込む結果となった。
 一方、府警はこの間、未公表となっていた犠牲者25人について、「遺族が実名公表を拒否している」としてきた。だが、京都新聞社の取材に応じたある遺族は「公表を拒否した事実はない。生前にお付き合いがあった方、交友関係が軽い人も含めて、消息を伝えられない状態はおかしい。府警には最近、積極的に氏名を公表してほしいと伝えている」と語った。
 別の遺族も、理不尽に命を奪われた娘を悼み、生きた証しを伝えたいとの思いから、報道各社の取材に事件発生当初から応じてきた。娘の氏名は27日にようやく公表された。「警察から意見を聞かれたことはなかった。何でやろう」といぶかしむ。
 遺族の意向に沿わず「実名公表拒否」 京アニ事件で京都府警、意向の正確な把握難しく-京都新聞
 報道によれば、警察が「実名公表を拒否」とした遺族の中に、その事実を否定する人たちがいました。

 警察というのは権力です。多くの警察官はまじめに仕事をしているでしょうが、しかし権力を持つ者の常として、本来あるべきではないところで嘘をつき、誤魔化しに走るということが全くないわけではありません。
 マスコミの仕事は権力監視にあります。つまり、警察が本当にきちんと仕事をしているのか、その実態を批判的に報じるのが本来の報道の在り方です。それをするためには、やはり警察は最大限情報を開示する必要があります。

 『犯罪報道に「物語」を求めすぎる病理』でも触れたことですが、もし警察が被害者の情報を全く開示しないのであれば、本来死傷者1名の事件が膨らみ死傷者22名として公表されるような事態も起こりえます。これは極例ですが、より小さな嘘や誤魔化しは頻繁に起こりえるでしょう。

 もし、今回のような粗雑なマスコミ叩きによって、警察が情報を開示しないことを正当化されてしまえば、警察活動の検証は困難になります。

 実名報道を望む遺族も
 もう1つ、この報道が明らかにしているのは、実名報道を望む遺族もいるということです。
 ネット上では、まるで遺族であれば実名報道を望まないものだとでも言いたげな論調が支配的ですが、当然そうではない被害者遺族もいます。

 そもそも、被害者遺族が苦しむ周囲の偏見の中には、「被害者遺族なのに楽しそうに暮らしていた」という、「自分の頭の中にしかない遺族像」から外れたという理由によるバッシングが多く含まれています。

 「遺族は実名報道を望まないもの」という固定観念がはびこれば、そこから外れる遺族が叩かれることにつながりかねません。重要なのは「意思に反した実名報道」であり、実名報道そのものではありません。

 ただしこの問題は、たいていの場合遺族が一人ではないことから難しいものになります。遺族の中で意見が分かれるということは頻繁に起こるでしょう。そのようなとき、報道がどう対応すべきなのかは今後の課題です。

 なぜそもそも、実名報道がなされるのか
 DaiGoは続く動画で、なぜマスコミが実名報道にこだわるのかを説明しています。「死の脅威を喚起されると購買行動が増える」ということですが、根拠も示されておらず、仮に本当だったとしてもその効果は限定的であろうことからこれはかなり無理のある話です。

 なぜこのような無理のある話になっているかというと、本当の理由を説明すると「愚かなマスコミVS良識ある俺たち」の構図が簡単に崩れるからです。
 コマーシャルの基本は「多くの人に届ける」ことです。仮に0.1%にしか効果のないCMでも、1億人が見たら100万人が商品を買い求めます。マスが大きいことは商売において絶対の正義です。ゆえに、企業は「視聴率が取れそうな番組」にコマーシャルを出します。

 そう、マスコミが実名報道にこだわるのはそのほうが視聴率が上がり、スポンサーを集められるからです。つまり、遺族の意思に反した実名報道の裏には、それを望む視聴者の存在があります。
 そしてこのような、安直な報道を望む人々の心性というのは、DaiGoが動画で語るような安直なマスコミ叩きに熱狂する人々の心性と共通します。それはまさしく、以前の記事で指摘したように、誰かが発信する物語へ気持ちよく耽溺することを最優先し、社会や報道がどうあるべきかを二の次に考える態度にほかなりません。

 まとめると、皮肉なことに、DaiGoのマスコミ叩きに熱烈な支持を送るような態度の人が、叩いているようなマスコミの報道姿勢を形作っている、マッチポンプであるということです。

 もし本当に、現在のマスコミの報道姿勢が問題だと思うのであれば、どのような姿勢であるべきかという大枠で話を考えるべきなのであり、マスコミ叩きというショービジネスに喜んでいる場合ではないのです。


犯罪報道に「物語」を求めすぎる病理

 報道各社は2019年8月20日、京都アニメーション放火事件の犠牲者の身元をすべて公表するよう、京都府警に申し入れ書を提出した。
 この動きを受け、SNS上では反発が広がり、反対署名まで立ち上がった。マスコミと世間との意識の乖離(かいり)がみられている。
 京アニの放火事故をめぐっては、8月21日現在、犠牲になった35人のうち10人の氏名が公表されている。残る25人は遺族の了承が得られておらず、府警は発表時期を慎重に検討している。
 京アニ側は「警察及び報道に対し、本件に関する実名報道をお控えいただくよう、書面で申入れをしております」と公式サイトで説明し、「遭難した弊社社員の氏名等につきましては、ご家族・ご親族、ご遺族のご意向を最優先とさせていただきつつ、少なくともお弔いが終えられるまでの間は、弊社より公表する予定はございません」との姿勢を示す。
 一方、京都府内の報道12社でつくる在洛新聞放送編集責任者会議は8月20日、事件発生から1か月以上たっても残りの25人の発表がなく、「事件の全体像が正確に伝わらない」と懸念を伝えた上で、「過去の事件に比べても極めて異例」として速やかな実名公表を求めたという。時事通信が報じた。
 遺族や京アニの意向にそぐわない実名公表の要求に、世間は敏感に反応した。署名サイト「change.org」では「京都アニメーション犠牲者の身元公表を求めません」との反対署名が立ち上がり、わずか一日で9000筆以上集まっている(20時現在)。「一般人が被害者の実名を知らなければ、事件や事故の悲惨さが伝わらないのでしょうか。そんなことはないと思います」「マスコミの発表しなければいけないという使命感って何?そんなのエゴでしかない」「個人、遺族の意志を尊重するという至極当たり前のことを当たり前にしてほしい」と厳しい声が寄せられている。
 マスコミの「身元公表」要求に反発も 京アニ犠牲者めぐり反対署名に9000筆-J-cast
 この件です。
 京アニの被害者を公表する必要はないだろう、という点には同意するんですけど、私がいまひとつこの手の話に乗れないのは、こうやってTwitter上でマスコミを批判する人の多くが、一方では別の話題におけるマスコミの安直な報道、ないしは犯罪に関するデマにころっと引っかかっているからです。

 とりわけ象徴的なのは、京アニ事件の容疑者が在日であるとか、あるいはNHKが一枚噛んでいるといった陰謀論めいたツイートが相当数出まわり、またRTされていたことです。このようなツイートを流布する人々と、被害者の実名公表を求めないという人々は結構な範囲でかぶっています。

 しかし本来、被害者名の公表が不要であるという態度と、このような陰謀論めいたフェイクニュースを信じる態度は相いれないはずです。なぜこのような、一見矛盾する態度を彼らは持つのでしょうか。

 物語としての犯罪報道を希求する
 その理由はおそらく、「物語」としての犯罪報道を彼らが希求しているからです。

 彼らの中にある物語は、犯人が在日コリアンであるとか、NHKが悪者であるとか、あるいは遺族の意思を踏みにじって実名を明らかにしようと試みるマスコミという「巨悪」を批判する俺というものです。事実であるとか、犯罪報道がどうあるべきかという点は無視され、物語として心地の良いストーリーが優先されるので、一見矛盾する態度も、実名報道を望んだ遺族がいたこともここでは無視されます。

 皮肉なことに、このような物語を求める心性は、被害者名の公表を試みる一般メディアと共通するということです。メディアはメディアで、不幸な被害者がたどった人生を描き出すことで受け手の関心を引き、商業的に成功することに躍起になっています。そこには取材を受ける遺族への影響の考慮はなく、故にメディアスクラムのような問題が頻発することになります。

 本来であれば、被害者の公表を望まない態度はすなわち「物語」としての犯罪報道を否定する態度であり、このような態度からは在日認定であるとか、NHK陰謀論のような見方もまた否定されなければなりません。

 しかし現状、そうなっていないのはネット上でマスコミ批判を繰り広げる彼らもまた、単に「自分にとって都合の悪い物語」を拒絶し、メディアから自分にとって心地のいい物語が垂れ流されることを望んでいるだけであって、犯罪報道がどうあるべきかという視点を欠いているからにほかなりません。

 このような物語を希求する心性から脱しない限り、『「犯人はアニオタ」報道をなくすために』で言及したように「犯人はアニオタ」報道に憤りながら一方で在日認定を信じるといった愚行が繰り返され、実際に「犯人はアニオタ」報道のように彼らにとって都合の悪い物語が報じられることも終わらないでしょう。

 マスコミの「氏名公表要求」には一定の正当性がある
 付言しておくと、マスコミが警察に被害者氏名の公表を迫ったことには一定の正当性があります。
 というのも、警察が被害者の氏名を公表せず、被害者の実在性が確認できない場合、その事件の実在性が疑われる、あるいはそこまでいかずとも、どの程度の被害なのかが確認できないからです。

 極端な話、被害者の氏名を公表しなければ、本来の死傷者を超えて人数を水増しし、事件が甚大であったあるいは過少であったかのように警察が情報を操作できてしまいます。警察権力を批判的に監視するという、マスコミの本来の業務からすれば、警察に情報の開示を求めるのは当然でありましょう。

 重要なのは、警察が氏名を公表する=マスコミが氏名を公表するではないということです。警察の情報をもとに、メディアが匿名報道をするということも考えられましょう。
 現状、マスコミが警察権力を批判的報道しているとは到底いいがたいので、氏名公表の要求が疑いの目で見られてしまうのはやむを得ないことではあるかもしれませんが。

 「メディアスクラム」はマスコミだけのせいではない
 もう1つ重要なのは、メディアスクラムはマスコミによってのみ引き起こされるものではないということです。

 これは加害者側の話ですが、『加害者家族』で言及されているメディアスクラム被害にはメディアによるものに加え、報道を見た一般市民によるものもあります。

 全く無関係の女性が、現在話題となっている煽り運転の車の助手席に乗っていたとされたデマの流布を見ればこのことはわかりやすいでしょう。
 メディアスクラムというとメディアが加害者で一般市民が被害者であるかのような印象がありますが、実際には被害者面をしている市民の多くも加害の片棒を担いでいるのです。メディアは商業であり、受け手が望む報道を行うことを考えれば、メディア自身によるスクラム被害も間接的には受けてたる一般市民が引き起こしたものであるともいえます。

 メディアの問題というのは、報道業界という遠く離れた界隈の問題であるというよりもむしろ、その界隈から流される報道を受け取る我々の問題でもあります。メディアの問題を言い立てるときには、まず自分がその問題を促進するような態度や行動をとっていないか省みる必要があるでしょう。

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「抵抗不能」要件を残すべきという理屈がよくわからない NHK #クローズアップ現代 『“魂の殺人” 性暴力・無罪判決の波紋』感想

 今年3月、名古屋地裁岡崎支部が出した判決に波紋が広がっている。19歳だった娘への性的暴行の罪に問われた父親に無罪が言い渡されたのだ。背景にあるのが、刑法で定められた犯罪の要件。2年前の法改正の前に議論されたが要件は改正されず、性犯罪被害の当事者などからは、「実態とあっていない」という批判があがっていた。番組では、法改正について議論した法律家などメンバー12人に緊急アンケートを実施。今回の判決をどう受け止めているのか聞くとともに、「魂の殺人」と言われる性暴力被害者の声を伝える。
 “魂の殺人” 性暴力・無罪判決の波紋-クローズアップ現代+
 放送日当日に、本当にたまたまこの話題をクローズアップ現代+が扱うことを知って、慌てて録画しました。それを観たので、感想を。

 全体的に、わかりやすい構成で問題点を論じているように見えましたが、一方で不十分な点も見受けられた点が残念です。

 1件だけではない
 まず、今回の無罪判決に対する反応を、岡崎地裁での準強制性交判決に端を発するものとして扱っていますが、正確には連続する4件の判決の論理のおかしさに対する反応というべきです。この点に関しては本ブログでも、以下の一連の記事で論じています。

 番組では、抵抗不能の要件を刑法から撤廃すべきかという議論で、1件こうした判決があったから帰るべきなのか、という議論の仕方になっていましたが、実際には1件ではなく4件も不可解な判決があったのです。むろん、それぞれの判決にはそれぞれの背景と問題点がありますが、抵抗不能要件が大きな足かせになったのは共通しているというべきでしょう。

 「抗拒不能」ではなく「暴行脅迫」が問題
 もう1つの不十分な点は、性暴力を刑法で裁くために必要な条件を、強制性交と準強制性交でまとめて「抗拒不能」と表現している点です。これは誤りではないのですが、不十分といえましょう。

 そもそも、刑法における性犯罪規定の問題は、強制性交等罪の「暴行脅迫」要件にあります。強制性交等罪は被害者の抵抗が著しく困難になる程度の暴行や脅迫がなければ、仮に同意がないことが明白であっても裁けないとしています。このような規定は、改正前の強姦罪が女性の性的自由ではなく夫の貞操権を守ることを暗黙の主眼と置いていたためであると、「性犯罪の罰則に関する検討会」の委員であり、番組からアンケートにも回答していた角田由紀子氏は『性と法律――変わったこと、変えたいこと』で指摘しています。

 裏を返せば、準強制性交はこの「暴行脅迫」要件が存在するために規定されていると言えます。「暴行脅迫」要件がある、つまり被害者に一定以上の抵抗が期待されている以上、薬物などを用いて抵抗できない状態に陥らせる行為は強制性交では裁けませんが、それではさすがにまずいので抗拒不能という論理をひねり出して準強制性交を規定したというわけでしょう。

 もちろん、被害者が心理的に抵抗したがいことは事実ですが、そもそもなぜ被害者が抵抗できない状態にあったことを証明しなければならないのかといえば、強制性交が単に不同意の性行為ではなく、不同意かつ一定の暴力があった性行為しか禁じていないためです。この「暴行脅迫」要件がなくなれば、被害者は抵抗不能であったことを証明する必要はありません。

 また、日本には抵抗不能を要件としない監護者性交等罪がありますが、番組はこれにも触れていませんでした。18歳未満で、いままさに被害にあっている者にとっては、抗拒不能を問わない刑法の規定があるという情報は重要なはずですが、番組では紹介されずじまいでした。

 不可解な論理
 番組では、両論併記を狙ってか、抗拒不能要件の撤廃を求める立場として被害当事者であり一般社団法人Springの代表理事である山本潤氏を、存続を主張する立場として角田氏と同じ「性犯罪の罰則に関する検討会」の委員だった弁護士の宮田桂子をそれぞれスタジオに招いています。また、「性犯罪の罰則に関する検討会」のメンバーにアンケートを実施し、宮田氏と角田氏を含む8名から回答を得ています。そのうち6名は抗拒不能要件を存続すべきという立場であり、角田氏と臨床心理士の齋藤梓氏が撤廃すべきという立場でした。

 しかしながら、要件を存続すべきという立場の人々の論理は、全体的に不可解で理解しがたいものでした。

 まず、抗拒不能要件が存在する大きな理由として、番組では「冤罪が増える」と「立証が難しくなる」という2つを挙げていました。
 しかし、まず1つ目の「冤罪が増える」という見方それ自体は、レイプ神話を反映したものにすぎないでしょう。確かに、法律が禁止する範囲が増えれば、論理的には冤罪の確率は上がります。しかし、山本氏が指摘していたように、ほかの犯罪同様、立証できなかった事件は不起訴になるなり、無罪になるなりするのであって、抗拒不能要件を撤廃すれば直ちに冤罪が増えるということにはならないでしょう。冤罪の懸念を性犯罪でばかり言い立てるのは不可解です。

 もう1つの理由はさらに不可解です。番組では宮田氏が「立証に関して、検察の取りうる手段が増えてかえって混乱する」などと言っていましたが、この理屈はよくわかりません。もし本当にそんなことが起こったとすれば、それは法律の問題ではなく、検察の無能さの問題でしょう。
 仮に抗拒不能の要件を撤廃したところで、薬品によって昏睡させられていたとか、暴力によって脅されたという要素は、合意がなかったことを類推させる材料としての力を失うわけではありません。むしろ、その暴力などに対して、抵抗が不能になるほどだったかという程度のハードルがなくなるわけですから、立件は容易になると考えるべきでしょう。

 また、アンケートや宮田氏の主張では、法曹の教育で対応すべきであるという意見もありました。しかし、強制性交への改正から3年、もっと言えば戦後70年という長い期間にわたって、一定の改善が見られたとはいえ、今回のような時代錯誤な判決が出てしまうことを考えれば、法曹への教育で解決できるという見方はあまりにも楽観的といえましょう。裁判官へのジェンダー教育もいまだになされていない現状で、教育で解決できるといわれても、全く信用できません。

 番組の最後に、宮田氏は法改正よりも先に被害者支援や性教育を充実させるべきと訴えました。しかし、これらの政策は法改正と対立するものではないので、両方ともやったらいいだけの話です。また、被害者支援にしても性教育にしても、刑法が適切に加害者を裁き被害者を過不足なくカバーするものでなければ、結局のところ支援や教育から零れ落ちてしまう人を掬い上げることはできません。

 宮田氏は、裁判では真っ黒なものだけが裁かれるので、裁判で無罪になったからと言ってその行為が許されるものではないと指摘します。しかしこの主張は、裁判がその事実認定ではなく、事実認定をした先の解釈のロジックによって批判されているというポイントを見ていないものでしょう。
 刑法は最低限の道徳と表現されることがあります。私の考えからすれば、同意のない性行為はまさにこの最低限の道徳で裁くべきものであるように見えるのですが、暴行脅迫要件を維持すべきという人々は、性行為に同意がないだけでは裁くのには不十分というのでしょうか。
 抗拒不能の要件はやはり、撤廃してしまうべきです。

【記事評】『DAYS JAPAN』最終号を考える(週刊金曜日2019年4月12日 (1228)号)

 遅ればせながら、週刊金曜日4月12日号の特集を今回は取り上げます。特集には渡部睦美氏の『扱われなかったパワハラと劣悪な労働環境の問題』、角田由紀子氏の『加害の事実認定なしのまま、なぜ「報告」できるのか』、乗松聡子『広河氏の言いたい放題を許した最終号の責任』の3つの記事が含まれますので、今回はその3つを一挙に論じていきます。

 扱われなかったパワハラと劣悪な労働環境の問題
 渡部氏は詳細な調査によって、『DAYS JAPAN』最終号の検証が骨抜きにされた過程を明らかにしています。それによると、そもそも『DAYS JAPAN』の休刊は、広河氏のパワハラと劣悪な労働環境に反発した社員による労働争議が明るみに出る前に、それをもみ消そうと決定されたものではないかということです。

 しかし、その労働環境の問題が明らかになるよりも先に、広河氏の性暴力が暴かれました。それを受けて、元々次期編集長になる予定で入社していたジョー横溝氏が最終号までの編集長となることが決まりました。それが2月号の「決意」に繋がったわけです。ですがジョー氏の編集長権限を無視するかたちで、役員が表紙から「性暴力」の言葉を削ろうとしたり一方的に最終号の発売を延期するなどの騒動があったために、結局ジョー氏は編集長を辞任しました。
 一連の流れからわかるのは、会社そのものの問題が広河氏の性暴力問題を助長したにもかかわらず、その責任を隠ぺいすることに躍起になっている『DAYS JAPAN』の姿勢です。

 加えて、この記事では広河氏が自身の権力を自覚して暴力をふるっていたことが示唆されています。私は『著名カメラマン広河隆一氏のセクハラ(性犯罪)について』などで、氏が権力に無自覚だったというナイーブさを批判しましたが、どうやらそれは言い訳に過ぎなかったようです。もっとも、どちらにしてもその態度は批判を免れませんが。

 加害の事実認定なしのまま、なぜ「報告」できるのか
 角田氏は『DAYS JAPAN』による報告が、加害の事実認定なしに行われた奇妙さを指摘しています。確かに、どこからどこまでが事実で、どこそこまでは事実じゃないかもしれないという範囲すらも示せていないまま「報告」をしても、なんのことかさっぱりわかりません。
 また「合意」とは何かもはっきり確認できていないまま、広河氏による「合意だと思った」という抗弁を取り上げているおかしさも指摘しています。『【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)』でも指摘した、週刊文春が報じた被害の容態は、もはや合意があったと誤解できる域を超えています。合意の定義をあいまいにし、事実認定をしないという態度は、広河氏の「合意があったと思った」という抗弁に著しく不利なこのような事例を黙殺するためであったと考えられてもやむを得ないでしょう。

 角田氏は広河氏の認識する「人権」の中に女性の人権が含まれていなかったとも指摘しています。人権を意識しながらその中に含まれない属性が存在するというのは、私からすればいささか以上に奇妙でよじれた認識なのですが、そう考えれば「人権活動家」だった氏の行為にもある程度説明がつくのは事実です。『「人権とかどうでもいいけどたまたま向いている方向がそっちだった」という人に対して我々は何ができるのか』でも論じたようなことは、「自分に従わない人間に人権はない」くらいの認識だったと考えれば説明可能かもしれません。

 広河氏の言いたい放題を許した最終号の責任
 乗松氏は、検証委員会の委員長が「職場のハラスメント研究所」代表の金子雅臣氏であることから、最終号も被害者の救済を二の次にして、加害者個人の責任追及を避け構造の問題に飛ばす路線になったことが当然の帰結と指摘します。

 金子氏は『世界』3月号において、作家の北原みのり氏との対談でも「加害者に語らせること」の重要性を述べています。確かに加害者がどう考えていたかは1つのキーファクターですし、セクハラには構造の問題もあるでしょう。しかしそれは、加害者個別の責任を免責するためではなく、ハラスメントの原因を認識し新たな被害を防ぐためにあるはずです。その点を金子氏は勘違いしているのではないでしょうか。

 また乗松氏は、検証委員会が被害者の言い分を満足に聞かず、被害者の思いの代弁を試みる部分が多数あることを批判します。週刊文春で被害を告発した8名のうち、検証委員会から連絡があったのはこの時点で2名だけという杜撰な状態の中、「検証」を試みていたことがよくわかります。

 すでに繰り返し指摘されていることですが、『DAYS JAPAN』の検証は検証の体をなしておらず、会社の責任も広河氏の責任も追及できていないがゆえに、金子氏が志向したであろう「構造の問題を明らかにして再発防止」という機能すら満足に果たせていないと考えられます。この問題に関しては、かつての従業員が組織を結成して更なる追及が行われるようですから、引き続き追いかけたいと思います。

「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮

 約100人が死傷したニュージーランド・クライストチャーチのモスク(イスラム教礼拝所)銃撃事件を受けて、ジャシンダ・アーダーン首相は19日、銃撃犯の名前を今後一切口にしないと誓った。
 アーダーン首相は議会で、「男はこのテロ行為を通じて色々なことを手に入れようとした。そのひとつが、悪名だ。だからこそ、私は今後一切、この男の名前を口にしない」と、気持ちをこめて演説した。
「皆さんは、大勢の命を奪った男の名前ではなく、命を失った大勢の人たちの名前を語ってください。男はテロリストで、犯罪者で、過激派だ。私が言及するとき、あの男は無名のままで終る」
 ニュージーランド首相、銃撃犯の名前は今後一切口にしないと誓う-BBC
 この件です。最初はヴォルデモートかよと思いましたが、そこにはきちんとした背景がありました。
 ちなみに、中学時代から犯罪学に傾倒していた私ですが、不勉強ながらこのサイトの存在は知りませんでした。その理由は次回以降の記事で書くつもりですが、ともかく。ちなみにここで述べられているマルク・レピンはカナダはモントリオール理工科大学で女性を中心に殺害した大量殺人犯です。

 レピンの記事で岸田氏が指摘するように、大量殺人犯にせよ連続殺人犯にせよ、自身をひとかどの人物として位置づけ、まるで大それたことをなしたかのようにふるまう傾向というのはある程度存在すると思います。そういう背景があればこそ、NZ首相のような、殺人犯に名声を与えない対処は実に的確で、尊敬に値します。この点は『明らかなヘイトクライムに「差別はダメ」とすらいえない本邦の首相』でも述べましたが、このようなリーダーを持てたNZ市民の幸運はいささか羨ましくも思います。

 殺人犯に深遠なものを見出そうとする風潮
 一方、やはり比べてしまうのは本邦の状況でしょうか。それこそ上で紹介した前回の記事でも触れたことですが、相模原の事件では犯人の名前が大々的に実名報道された一方、被害者の名前は障碍者であることを理由に伏せられました(『なぜ障害者の被害者は実名報道されないのか』参照)。被害者の個人的なストーリーへ焦点を当てた報道はプライバシーの侵害を招きやすく、とりわけ本邦のような報道姿勢の国で軽々に被害者の名前を語りましょうとは言えない側面があるのですが、少なくとも加害者のストーリーが盛んに報じられる一方で被害者が透明化されてしまうという非対称性はあまりよろしくないでしょう。

 そして最近も、togetterのまとめにあるように『【追記あり】やまゆり園の犯人の主張を正論だと「感想を述べる」人』がいるわけです。そもそもこの事件自体、「生産性のない人を生かすな」という日本社会に蔓延する思想を体現した事件であり、その後も『大口病院事件 「延命されている人に楽しいことなんてない」は相模原事件の犯人と何が違う』や『医師が「医療費が」などと出しゃばり患者を殺す不気味さ』で述べたように類似する反応が相次いでいるわけですが。

 もちろん、本邦に限らないのですが、こういう大きな事件を起こした犯人に深遠なものを感じてしまうのはある種、人の性のようなところはあるようです。日本においては宮台真司をはじめとする「評論家もどき」たちが、酒鬼薔薇の言説から日本の若者一般に通じる何かをひねり出そうという無謀を試みているわけですし(『【書評】「脱社会化」と少年犯罪』参照)、また重大犯罪で有罪を受けた受刑者が「真の更生論」を論ずるという本もあるわけです(美達大和の『死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張』。内容については『【書評】凶悪犯罪者こそ更生します』を参照)。

 アメリカに関しても、凶悪犯罪者のインタビューを通してプロファイル技術の確立を試みました。まぁ、これはあくまでプロファイラーの解釈を挟むことなので、犯罪者自身の言葉を丸っと信じてしまうのとはちょっと違うのですが。しかし凶悪犯に推理をさせるという形式の元祖ともいえる『羊たちの沈黙』はこの過程をモデルにしていますし。

 犯罪者は犯罪を知っているか
 こういう風潮の根底にあるのは、あれほど大きなことをしたのだからそこには何か大きな哲学めいたものがあるだろうという推測と、犯罪者は当事者なのだから犯罪に詳しいだろうという素朴な期待があると考えられます。しかしそれは両方とも、誤りです。そもそも大きな哲学めいた信念があるならば犯罪なんて犯しませんし、当事者が詳しいとも限りません。岡目八目というか、むしろ一歩引いた第三者のほうがよくわかるということのほうが頻繁にあります。その第三者が、体系的にその現象を研究している研究者ならなおさらです。

 そういえば『【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)』の時にも似たようなことを書きましたが、こと報道に関しては、加害者の「真意」というか、そういったものを過大評価して論じがちな側面があるように思われます。しかし実際は、そうとは限りません。そうでないことのほうが多いでしょう。

 犯罪者の言動に、むやみに深遠なものを見出そうとする姿勢は、そのまま犯罪者の犯罪行為の肯定、そこまでいかなかったとしても美化へつながりかねない行為です。そういう姿勢は、「馬鹿なあいつらにはわからないだろうが、俺には全てわかっている」という宮台真司的なキャラクターを演じるのには便利ですが、物事の本質をあっさり見誤ります。

【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)

 今回は『月刊創』4月号に掲載された、『DAYS JAPAN』の元発行人である広河氏の手記です。ちょっとタイミング的に遅くなってしまいましたが。
 なお、広河氏の問題についてはすでに『著名カメラマン広河隆一氏のセクハラ(性犯罪)について』『「人権とかどうでもいいけどたまたま向いている方向がそっちだった」という人に対して我々は何ができるのか』『「広河隆一の性犯罪を批判する左派がいない」ことにしたい層がいるっぽいので、とりあえず否定しておく』でも書いています。

 もはや同意の問題ではない
 まず目立ったのは、被害を訴え出た女性との性行為に同意があったこと、そして性行為にまで及んだのが被害者7名中2名であったことを主張して自身の加害のディスカウントを図ろうとしていることです。意図的であれそうでないのであれ、このような記述は本当に自身の行為が性暴力であったことを認識しているのか疑問を抱かせます。
 そもそも、性行為へ及んだのが2名だからと言って氏の罪が軽くなるわけではありません。もちろん被害が大きくなれば罪も重くなるわけですが、この問題に関しては1人の被害者が出た時点で加害者への評価は決しているので、その逆はあり得ません。

 特に問題なのは、自身の性行為に関して『「相手が合意し、明確な拒否がないけれど、心の底では嫌がっているかもしれない」と推し量る気持ちがなかったことは確か』などと、あくまで合意があったという前提で記述している点です。確かに広河氏の視点からは、合意はあったけど本当は嫌がっていたという風に映るでしょうが、しかし性暴力被害者の視点に立てば、それはそもそも合意ではないはずです。であればせめて「合意していないのに合意したと誤認した」と書くべきであって、合意があったという点になおも固執する姿勢からは氏の性暴力への理解の薄さが透けて見えます。

 加えて、この書き方ではまるで広河氏がその無神経さゆえに性暴力を働いたかのように読めますが、文春の記事によれば事実は異なります。
 「週刊文春」(1月3・10日号)でライターの田村栄治氏が報じた世界的フォトジャーナリスト・広河隆一氏(75)の性暴力告発記事。それを読んだ首都圏のある主婦から、新たな告発が寄せられた。
(中略)
 ほどなく、広河氏から海外取材に同行してほしいと言われたが、現地のホテルに行くと、部屋は一つしか用意されていなかった。
 そこで、広河氏にこう言われたという。
 「取材先の男性スタッフたちが、君を貸してほしいと言っている。僕らの滞在中、彼らは君を借りてセックスしたいそうだ。彼らにとって君は外国人だからね。君はどうするか。彼らとセックスするか。それとも僕と一つになるか。どっちか」
 そこからの2週間は悪夢のような日々だった。翔子さんは「2週間、毎晩レイプされた。逃げたくても、知らない国で誰にも助けを求められず、彼の言うことを聞くしかなかった」と振り返る。
 こうした証言を、広河氏はどう受け止めるのか。電話やメールで再三取材を申し入れ、代理人の弁護士を通じても催促したうえで6日間待ったが、氏からの回答はなかった。
 広河隆一氏に「2週間毎晩襲われた」新たな女性が性被害を告発-文春オンライン
 広河氏は意図的に、同意しなければならないような状況に被害者を追い込んでいます。それとも、このような言動も氏の無神経さゆえでしょうか。無神経さが相手を脅迫するレベルに達しているのであれば、危険すぎて社会生活はとてもではありませんが営めません。
 少なくとも文春が報じたような被害は、同意の有無を誤認したなどというものではありません。しかしこの手記では、広河氏はこの疑惑をなかったかのように扱っています。

 今更そのレベルかよ
 手記によれば、氏は報道のあと様々なセクハラ問題に関する書籍を読み、性暴力について学んだそうです。その中には、本ブログで書評をした『部長、その恋愛はセクハラです!』や『壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか』も含まれていました。
 これが普通の中年男性でも、このご時世にずいぶん遅れているなという印象ですが、しかし氏は「普通の中年男性」ではありません。何十年も性暴力について報じてきたジャーナリストです。その報道実践を通して、氏は実際のところ新書一冊分の知識もまともに身に着けていなかったのです。いったい今まで何を目にして、何を報じてきたんだという気分になります。

 そして何冊も本を読み、『壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか』のような名著を読んでもなお氏の「勘違い」は止められないようです。氏は女性に直接謝罪したいと考え、『私が向き合わなければならないのは、そこで紹介されている一人ひとりの女性なのだと』というように書いていますが、勘違いも甚だしい。氏が本当に向き合うべきなのは、何十年も性暴力を取材してきたのにそれが自身の生き方にはなんら影響しなかった、そして報道があってもその本質に変わりがないという自分自身のありようです。
 幸い、氏に助言している弁護士2名がかなりまっとうに、謝罪することはストップさせたようですが。

 この手記に意義はあるか
 さて、この手記は実は4月号で終わりではありません。5月号に続くようです。4月号掲載分だけですでに広河氏の無見識が十全に露呈しており、これ以上公開する意味があるようには思えません。

 そうはいっても、私はこうした性暴力加害者の書いたものを公開することには一定の意味があるとは思っています。というのも、加害者の内面を知ることは、なぜこの問題が起こったのかということを考察するのに役立つからです。実際、この手記も「あぁいまだこの認識なら性暴力もしますわ」ということを理解させてくれました。

 しかしこのような手記は、あくまで加害者の原因を探るためのものであり、加害者に好き勝手に放言させるものではないというバランス感覚で掲載されるものです。手記が被害者への中傷になっていれば掲載を控えるべきでしょうし、被害者の主張と大きく食い違えばその旨を編集部が注釈しておくべきです。なおかつ、被害者の視点に立った記事を同時に掲載するなどして、加害者の言い分ばかりが報道されないようにもすべきです。

 しかし『月刊創』はこの手記の掲載に関して、これらの配慮を欠いていたといわざるを得ません。その結果、上で指摘したように文春報道を無視した都合のいいピックアップを加害者に許していますし、挙句編集長は以下のように、
 月刊『創』は世の中でバッシングされている人たちの手記を載せることが多い。別に弁護するということではなく、世論が一色になっている時に違った声や異論に目を向け、考えるための素材にしてほしいと思うからだ。「敢えて火中の栗を拾う」のも時として必要と考えている。特に何かの事件について議論する時に当事者の生の声を聞くことは必要だ。
 7日発売の『創』4月号に『DAYS JAPAN』元編集長兼発行人の広河隆一さんの手記を載せたのもその一例かもしれない。何せ、女性の敵どころか、人類の敵といった言われ方で袋叩きにあっている最中だ。事件後、まとまった形で本人が発言するのは初めてだし、弁護士も最初、逆に炎上してしまうことを心配したようだ。私も本人から相談を受けた時は、その影響についてちょっと考えた。でも編集者としてやるべき仕事と考えて、『創』の誌面をさくことにした。
 「性暴力」で激しい告発を受けた『DAYS JAPAN』広河隆一さんの手記の中身-ヤフーニュース
 まるで広河氏への批判が「バッシング」(=不当な非難)であったかのように書いています。もちろん実態は違うわけで、編集長の篠田氏にはこの区別がついていないのではないかと疑わせられます。

 そもそも「特に何かの事件について議論する時に当事者の生の声を聞くことは必要だ」というのであれば、加害者側だけの手記を掲載する姿勢は矛盾があります。
 性暴力問題が生じたとき、被害女性側ではなく、加害男性側の主張こそ何か深遠な社会の本質を貫くようなことを述べているかのように扱う風潮はやめにしなければなりません。実際のところ、手記で露呈したように、ただの不勉強時代錯誤おじさんなだけなのですから。

松本人志の暴言があまりにもひどいので今までのものをまとめておく

 松本が「乱暴された」の不思議さに引っかかる気持ちを語る。
 「クリスマスイブに、彼女ですよね。お酒をたらふく飲んで、どういうつもりだったんですかね」
 この松本の発言を受けて、ジャーナリストの堀潤氏がスウェーデンの法律が「交際中であっても明確な相互の同意なしに性的行為に及んだ場合は違法になった」を解説。
 松本が、「それはどうかな。それはどうかな。それはどうかな」と否定的な態度を取ると、指原莉乃が小さく首を振って「いや、いや、違います」と制する。松本は笑いながら、
 「これはなんか嫌な火薬の匂いがする。松本、しっかりせえよ。松本、しっかりせぇ!」
 仕切り直して、炎上を回避しようとして笑いを誘った。
 松本人志、「明確な同意なし性行為は違法」に反論 「途中でイヤァンって言うやん」-ネタりか
 感想はツイートの通りです。ぶっちゃけそれ以上の何かが必要だとも思わないのですが……しかし最近、また松本人志かよで終わっている気もするので、今回は彼の失言暴言を逐一取り上げてそれへの批判を加えることで、間接的に彼を重用し続けるマスメディアの異常さも指摘しておこうと思います。

 炎上を笑いごとに
 上掲引用部の誤りは前回記事で指摘したので深くは書きません。ここで問題としたいのは、松本が「炎上した」という過去の事例を笑いごととしてしか捉えられていないことです。これは彼が、なぜ自分が批判を浴びたのかという根本を結局のところ理解できていないことの証左といえましょう。そもそも本当に分かっていれば、あのコメントへの批判を「炎上」などという雑な表現で解釈するわけがないのですが。

 「それは、お得意の体を使ってなんとかするとか……」
 NGT48・山口真帆の暴行被害告白騒動をめぐる松本人志(ダウンタウン)の発言が物議を醸していたが、その発言を向けられた当事者であるAKBグループのHKT48・指原莉乃が“見解”を発信した。
 問題となっている松本の発言は、13日放送のテレビ番組『ワイドナショー』(フジテレビ系)内で発せられた。山口の事件を紹介するコーナーで、指原は運営元について「すべての対応が悪かった」と語り、さらに再発防止策としてメンバー全員に防犯ベルが配布されたことについても、「それが自分のなかで一番気になっていて。その瞬間防犯ベルを引っ張って音が鳴って、誰がどうしてくれるの? っていう話で」と疑問を呈した。
 指原の発言を受け、松本は「自分の娘くらいの子をマネジメントしてると考えたら、もうちょっと真剣に考えると思う」とコメント。社会学者の古市憲寿は指原に「引退するんだし、NGTのトップになったら?」と提案すると、指原は「現状として、えらい人が仕切っても何もできない状況。私が立ったとしても、何もできないと思う」と見解を示したが、松本は「それは、お得意の体を使ってなんとかするとか……」と発言。さすがに指原は「何言ってるんですか? ヤバ……」と驚いた表情を見せたのだった。
 指原莉乃、松本人志を“公開処刑”状態…松本の笑えないセクハラ発言に“笑い”で返す-ビジネスジャーナル
 で、その「炎上」の発端となったのはこの発言でした。
 NGTメンバーが被害にあった、その一因に組織の構造上の問題があり、指原がトップに立ったとしても難しいだろうという内部批判であり、指原の見識は全く妥当なものであると同時に、立場上カメラの前でそのことに言及するのも勇気が必要であっただろうと察せられます。それに対する返しがこれなのですから、まったく信じられません。
 「体を使って」云々というのは、要するに今回の一因である構造上の問題へそのまま迎合する態度であり、やはり全く問題の本質を理解していないというべき発言です。しかも「お得意の」と常にそういうことが行われていることを匂わす、そういう常態化をそのまま受容するかのような発言は考えられません。

 「セクハラ、パワハラって、本当に境界線が難しくて」
 ちなみに、『ワイドナショー』で松本は、この件について、「セクハラ、パワハラって、本当に境界線が難しくて、相手がどう思ってたかなんてそのときわかんないんですよね。そのときは楽しく飲んで、楽しく帰ったはずなんですけど、後でなんか言われるみたいなこともきっとあるんだろうなとは思います」とコメント。
 ブラウスに手を突っ込まれたり、スカートをまくって下腹部を触ったりされて、「そのときは楽しく飲んで、楽しく帰った」という状況になるはずはない。触った側の認識に「彼女も楽しかったはずだ」という認知の歪みが生じているだけだ。ここでそういった一般論をもちこむのは、登坂アナ擁護のための話のすり替え以外のなにものでもない。
 元NHK登坂淳一アナが『ワイドナショー』で無反省ぶりを露呈…松本人志も勘違い発言で歪んだ性暴力認識の垂れ流し-Wezzy
 少し前にはこういうのもありました。
 まず、セクハラやパワハラが境界線の難しいものであるという認識が誤っています。確かに、実際にどのように処罰すべきかという段階になると、どの行為に対してどのような処罰が妥当なのかという判断が複雑化し、場合によって判断が分かれるという事態も起こるでしょう。しかし実際に生活するレベルでは、相手が不快に思うことをしないというただそれだけのことであってさほど難しいことではありません。相手の権利をきちんと尊重できる人にとっては。
 また処罰までいくのは大半がグレーな境界的な事例ではなく真っ黒もいいところなので(そこまでいかないとなかなか被害者が動かないというのもある)、そういう意味でも難しいというのは誤りでしょう。

 加えて、この発言が飛び出した背景も考える必要があります。この発言は元NHKアナウンサーのセクハラ報道に関して、その加害者が復帰し番組へ出演してのやりとりでした。セクハラとは言われていますが、報道を見る限り強制わいせつというべき行為であり、また加害者が全く反省していないこともうかがえます。そのような「真っ黒」な事例を目の当たりにして「境界線が難しい」などというコメントを言うということは、松本はこの事例を「相手がたまたま気難しかったから」くらいにしか捉えていないのでしょうか。

 「すんごいブスがいっぱい乗ってるでしょ、女性専用車両」
 31日放送の情報番組「ワイドナショー」(フジテレビ系)で、ダウンタウンの松本人志が、公共交通機関などの女性専用車両について「ブスばっかり」とコメントする一幕があった。
(中略)
 ここで土田晃之が、女性専用車両を増やしてみてはどうかと提案したところ、松本が「すんごいブスがいっぱい乗ってるでしょ、女性専用車両」と、利用客の容姿を批判した。
 この発言にスタジオはしんと静まり、山崎夕貴アナウンサーは口に手を当てて唖然としていた。
 司会の東野幸治は「いやいや」と、松本の一言をすぐさま否定した上で「(視聴者の)皆さん、大量の苦情の電話お願いします」と呼びかけた。土田も驚きの表情で「こんな偏見聞いたことないですよ」と意見してみせた。
 松本人志が女性専用車両に指摘「すんごいブスばっかり乗ってる」-ライブドアニュース
 2015年にはこんなことも。痴漢ないしは性犯罪と被害者の容姿を結び付けて考える典型的にレイプ神話が詰まった脳みそをお持ちです。このような発言は、どのような経緯で女性専用車両が設置されるに至り、そしてなぜ未だにこのような緊急避難的な措置が続いているのかということを全く知らないが故に飛び出すものです。

 「自分の娘が色んな男に輪姦されても仕方がない」
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 さらに著書の中ではこのようなことも言っていました。仮に女性蔑視的な男性を批判する文脈だったとしても、その責任を本人ではなく娘へ負わせようとする認識が意味不明です。また性犯罪を罰や攻撃のように扱う思考は性犯罪者のそれと同じであり、非常に危険な認識を持っているともいえるでしょう。

 「先生が生徒に暴力を振るったって、僕はあまり思ってなくて」
 ダウンタウン・松本人志が27日、レギュラーコメンテーターを務めるフジテレビ系「ワイドナショー」に出演し、東京・町田市の都立高で50代の男性教師が生徒の顔を殴るなどの体罰を加える様子と「ツイッターで炎上させようぜ」という撮影者の声が入った動画が拡散したことを受け、持論を述べた。
 松本は「生徒って教えを受けるものじゃないですか。これは教えを受けるものじゃないから。先生が生徒に暴力を振るったって、僕はあまり思ってなくて」とし、「そもそも生徒じゃないのを、学校に送り込んだ側の責任ないかなぁっていう感じはしますね。生徒じゃないもんね」と先生の行為よりも、生徒側とその家庭を問題視した。
 松本人志、炎上体罰問題に持論「生徒への暴力とは思っていない」-デイリースポーツ
 性暴力を肯定するなら当然の帰結として、体罰もばっちり容認します。どういう背景があれど教師が暴力をふるってはいけないという原則論が通じません。やはり危険な認識です。
 3日放送の「ワイドナショー」では、平幕・貴ノ岩への暴行問題の責任を取って、11月29日に引退を表明した元横綱・日馬富士の引退会見の模様を放送した。
 日馬富士の引退について、松本さんは
 「引退する必要はなかったと思ってますね」
 と、日馬富士の引退に納得していない思いを明かした。
 松本さんは「もちろん酒の場で物(リモコン)を使ってやりすぎたってのはありますよ」と、日馬富士の貴ノ岩への行為が行き過ぎた行為であったことは認めながらも、
 「(相撲は)人を張り倒して投げ倒す世界じゃない。その世界で土俵以外のところで一切暴力がダメっていうのは正直ムリがあると思うんですよ。だったらどうやって稽古つけんねやろって」
 と持論を展開。続けて
 「あの、稽古と体罰ってすごいグレーなとこで、でもそれで強くなる力士もいると思うんですね」
 と、日馬富士の行いの根底にあるのは「正義感」であるとして、自身はそうした日馬富士の味方であることを断言した。
 松本人志、「暴力ダメは正直ムリ」 日馬富士問題で発言、SNSで批判の声相次ぐ「心底がっかり」-J-CASTニュース
 加えて、日馬富士の暴行問題についても同様のことを言っています。暴行をしてはいけないという原理原則を守り擁護するのはそんなに難しいことでしょうか。

 注目すべきは、著書での発言を除きすべてが『ワイドナショー』でのものであるという点です。注目されやすいという側面もあるのでしょうが、フジテレビはこのような発言を繰り返す人物を公共の電場に乗せることに関して、明確に説明する責任があります。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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