九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

犯罪捜査

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【書評】死体は語る

 今回取り上げるのは司法解剖を多数行ってきた法医学者である著者による1冊です。全体的には「へぇ面白いな」くらいのものなのですが、取り上げられていた事例にかつて読んだ『完全犯罪と闘う ある検死官の記録』とのオーバーラップがあったので興味深く思いました。

 自殺か他殺か
 1つ目の事例は、あるマンションで女性が死んでいたという事件です。首には真新しいゴムホースが巻き付けられており、それは切断されたガス用のホースでした。ガス栓からはガスが漏れており、一見すると自殺のようにも見える状況でした。

 ゴムホースを使って首を絞める場合、結び目があると手を放しても締め付けが緩くならず、従って「自分で自分の首を絞めて自殺する」ということが可能だそうです。しかしこの事件では結び目がなく、自殺とは考えられないと著者は判断しました。一方、『完全犯罪と闘う』でも著者の芹沢氏は自殺にしては締め方が荒々しすぎるなどの特徴から自殺説を退けています。結局、事件は女性の夫の不倫相手による、自殺に偽造した殺人であることがわかりました。

 面白いのは、本書の著者は監察医であり、『完全犯罪と闘う』のほうの著者は検死官という別の立場からそれぞれ同じ結論に至っているということです。完全犯罪というのは多くの人の目を欺かなければならず、ゆえに難しいものなのだと改めて思わされます。

 死体を見つける鍵
 もう1つの事件は、妻子ある大学助教授と不倫関係にあった女子大生が殺害された事件です。被害者は7月ごろに行方不明となり、9月には助教授が一家そろって心中しているのが見つかっていました。このような状況だったので、被害者が殺害されているのは濃厚でしたが、どこに埋められたかがわかっていませんでした。

 冬になると土が凍り付き、掘り返すことができなくなります。そこで捜査員は著者のもとへ、春からどのように遺体を捜索すればいいかアドバイスをもらいに来ました。捜査の過程から、二人がたびたび密会に使っていた別荘に遺体が埋まっていることは確かでしたが、いかんせん広い。
 そこで著者は、検土杖を使うことを提案します。生き物の死体は、水中にあれば腐敗が2倍遅くなり、地中にあれば8倍遅くなるというのがカスパーという学者の説だそうで、死後半年ならばまだ腐敗しきっていない可能性がありました。しかし地中にあれば死臭は上へあがってこず、犬を使って探知することはできません。

 そこで検土杖という道具を使いました。これは先がパイプのようになっており、土を穿てばパイプに残った土や空けた穴から地中の臭いを嗅ぐことができます。それで死臭を嗅ぎ分ければ見つけることができるかもしれないというわけです

 結局、遺体は真冬の二月に見つかりました。実のところ、このあと遺体が司法解剖されるわけですが、その手前での検死が芹沢氏の最後の検死になったようです。氏も別の視点から遺体のありかを推測しており、室内に殺害の痕跡が残っていないことなどから地中に埋められたのではないかと述べています。

 著者は両方とも東京で活動していた人ですから、重大事件となればこうしたオーバーラップも起こるのでしょう。奇妙な感じではありますが、各々の視点から同じ事件を検討するのも興味深いものです。

【書評】記憶を消す子供たち

 今回の書評は、性的虐待などのトラウマ記憶を綺麗さっぱり忘れ去り、あるとき突然思い出すという現象についての1冊です。著者であるレノア・テアはアメリカで活躍する精神科医です。

 本書を取り上げる前に、まず思い出しておくべきなのは『【書評】抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって』の記事でしょう。ロフタスによる著作は、抑圧された記憶とその復活について否定的に論じており、本書の立場とは真逆の立場です。

 どのようなときに抑圧し、思い出すのか
 テアは本書で様々なケースを論じ、記憶の抑圧が必ずしも生じるわけではなく、いくつかの特徴を持つ子供に起こりやすいことを論じています。その特徴というのは主に、トラウマティックな出来事を繰り返し経験していることと、思い出すまでの間に乖離症状、つまり心ここにあらずとなり、普段の当人とは全く違ったような人であるかのようにふるまう症状を経験していることです。このような特徴がある場合、被害者は辛い経験を耐えるために、心をどこが別の場所へ追いやってしまい、それが常態化することでストレスに耐える技術として確立されることで乖離症状を経験しやすくなるのと同時に、乖離中の記憶を覚えていないということが起こりうるのです。

 一方、思い出すきっかけは様々です。本書で紹介されていたケースは、自分が被害にあった年齢と自分の子供の年齢が近くなったことをきっかけに思い出したことが挙げられています。カウンセラーとのやり取りで思い出すこともあるようです。

 「歪曲された記憶」と区別するには
 しかしロフタスは著書の中で、このような現象が起こるという主張へ疑問を呈しています。しかし本書の症例を見る限り、記憶が抑圧されることは全く起こりえない話ではありません。ではどのように二つを区別すればいいのでしょうか。

 1つの方法は、思い出したという者に、乖離症状の経験があるかを調べることでしょう。乖離症状の経験があれば、トラウマティックな経験をそうやってやり過ごし、忘れていた可能性が高まります。
 もう1つは自発的に思い出しているかを調べることです。ロフタスがねつ造された記憶であると指摘しているケースの大半は、催眠術や集団療法といった記憶の歪曲されやすい状況下で思い出されたものでした。一方、本書の症例で、ほかの証言が登場したことで記憶が大筋では正しかったことを証明できたケースは、自発的に思い出していました。本書に登場する症例でも、母親に誘導されたケースでは記憶の歪曲が認められ、裁判でも無罪になっています。

 危うい議論
 確かに、抑圧された記憶が思い出されることはありえそうです。しかし本書における著者の議論には科学的に危うい部分もあります。

 例えば著者は、思い出された記憶は驚くほど細部が記憶されている一方で、基本的なところが誤っている場合もあると述べています。しかしその点を抑圧されて思い出された記憶の特徴としてしまうことは、抑圧された記憶の信ぴょう性をかえって傷つけることにつながります。
 というのも、細部を記憶していることと基本的なことを誤っていることという、相反する特徴を両方とも特徴と位置付けてしまえば、記憶がどのように再生されたとしてもそれは記憶が抑圧された証拠となってしまい、反証可能性がなくなるからです。正しくても間違っていても論拠になるならば、それは科学ではありません。

 また著者は、ロフタスの実験における「再生が誤っていた」という判定は厳しすぎ、一般には大筋であっていれば正しく思い出されたとみなすべきであると論じています。その主張には一理ありますが、抑圧された記憶が性的虐待の加害者を裁こうという前提に立っている場合は賛同できません。特に証言しか証拠がない場合において、証言の正確性は一般よりも厳しく求められなければ、冤罪を導く可能性があります。

 最後に、著者は抑圧された記憶が無意識のうちに人へ影響することを主張していますが、これはあまりにも飛躍が過ぎます。例えばスティーブン・キングやジェイムズ・エルロイがかつて見たトラウマティックなシーンの記憶を、無意識のうちに作品に反映していると主張しますが、これはこじつけの域に達しています。そう解釈することは不可能ではないかもしれませんが、偶然の一致の可能性を排除できず、証明することもできません。
 また症例として、母親に水路へ沈められた記憶を持つ人が、水泳やスキューバダイビングへ惹かれたことを記憶のためであるかのように書いていますが、これもこじつけでしょう。だいたい、嫌で抑圧していた記憶を再現するようなことをしてしまう理由が、全然説明されていません。乖離してまで忘れた記憶をわざわざ思い出そうとする合理的理由はありません。

 本書からわかるのは、被害者が被害の経験を忘れ去り、不意に思い出すことは確かにある一方で、その信憑性は薄氷のようなもので、証言以外の証拠がなければなかなか有罪にできないだろうということです。虐待などについて時効をなくすことは、加害者を罰するための1つの方策でしょうが、現在進行形の被害がこれ以上悪化する前に防ぐという意味も含めて、現在に加害者をきちんと罰するための方策が考えられるべきであろうと思います。

【記事評】20日に判決 乳腺外科医「わいせつ」裁判 証拠を捨てた科捜研の杜撰な鑑定(週刊金曜日2019年2月15日)

 前回『「術後せん妄による強制わいせつ罪冤罪」は女性に非があるわけではないことは強調すべき』で論じたこの事件について、さらにもう少し話を掘り下げておきましょう。参照するのは週刊金曜日1220号です。

 なぜ検察はここまで「熱心」なのか
 そもそも、私はこの事件にいささか違和感を持っていました。誤解を恐れずに言えば、検察があまりにも「熱心」すぎるのです。
 事件自体は当時の法律で強制わいせつです。一般的に検察は性犯罪に冷淡であり、捜査が行われたとしても起訴を見送るという事例は枚挙にいとまがありません。証言の様態から言っても「被害の訴えが門前払いされた」という風に問題になるほうがあり得そうな事例でした。しかしなぜか検察は、前回記事で述べたような証拠の捏造をも疑われるようなことをしてまで、被告人の医師を起訴しています。有罪率こそ全ての検察としてはなかなか奇妙に見える挙動です。

 しかしこの記事の記述に、1つヒントになりそうなものを見つけました。それは事件の発生した柳原病院が全日本民主医療機関連合会(民医連)に加盟しているということです。
 記事によれば、民医連は安倍政権に対し度々批判的な姿勢をとってきました。実際に民医連のHPを見ると、9条の会・医療者の会という組織のページも見つかります。

 また記事によれば、2016年9月4日に刑事27名が家宅捜索へ訪れ、院長室を捜索したということです。そもそも事件の様態を考えれば家宅捜索で証拠が出てくるとは考えにくく、ましてや院長室は全く関係しないことは明白です。にもかかわらず刑事たちは院長のパソコンを開くようにも命令しています。パソコンにこの事件の証拠があるのでしょうか。
 その前後にはNHKに情報をリークさせたり、逮捕の様子を報じさせたりということもしています。

 どういう背景があるにせよ、警察が政権に批判的な組織に対し過剰な家宅捜索などをかけることで組織の構成員名簿を手に入れようとしたり、捜査それ自体を脅しや見せしめのように使って組織の弱体化、運動の萎縮を狙うことはまれではなく、そのような戦略の一環だったという記事の推測は的外れではないでしょう。

 そう考えれば、検察がこの事件に対し異様なまでに「熱心」であったことも頷けます。あれだけ大掛かりな捜査を行った事件が冤罪でしたでは批判は免れないと考えたのでしょう。

 「科学捜査」が聞いて呆れる
 また記事では、より詳しく杜撰な「科学捜査」の実態を報じています。例えば、皮膚に付着した加害者の唾液やDNAを採取する場合、その採取状況がわかるような写真なり動画なりを残すのが基本といわれています。しかし記者のインタビューに答えた警察官曰く、そのようなことをすべきだと全く習っていなかったというのです。これはまさか本当に習っていなかったとは考えにくいので、「写真は破棄したけどそういうことにしておいた」のではないかと個人的に勘ぐっているのですが。

 またネガティブコントロールも採取していなかったことが明らかにされています。ネガティブコントロールは同じ条件で加害者が触れたとされる部分以外からも採取を行うことです。今回の場合であれば、採取されたDNAが唾液由来であることはアミラーゼ反応によって主張されていますが、もしネガティブコントロールからも同様のアミラーゼ反応があれば、その反応は唾液ではなく被害者の汗に由来する可能性がある、ということがわかるのです。
 しかし今回はネガティブコントロールが採取されておらず、アミラーゼ反応が本当に唾液に由来するのかはわかりませんでした。

 被害者の利益のために
 今回は検察の主張する犯行事実が存在しない可能性が濃厚である事例でしたが、しかし科学捜査の杜撰さは元々被害者の利益を損なうものでもあります。本来であれば証明できたはずの犯行事実を、その捜査の杜撰さのために「証明できなかった」ということにされてしまうのですから。

 加えて、検察の杜撰さは本件の被害者の利益も損なっています。早々に術後せん妄であると結論が出ていれば早期にケアがなされていたかもしれないものを、無駄に長引いた裁判につき合わせた結果その機会を失うこととなりました。
 もし被告人に国家賠償が認められるのだとすれば、検察のために治療機会を逸した被害女性にも認められてしかるべきかもしれません。

「術後せん妄による強制わいせつ罪冤罪」は女性に非があるわけではないことは強調すべき

 手術直後の女性の胸をなめたなどとして、40代の乳腺外科医が準強制わいせつ罪に問われていた事件。東京地裁(大川隆男裁判長)は20日の判決で、外科医を無罪とした。
 本件では、2016年5月10日に東京都足立区内の病院で、右胸の腫瘍を切除する手術を受けた30代女性患者のA子さんが、病室に戻ってから、医師に左胸をなめられたなどして被害を訴えている。一方、外科医は一貫してわいせつ行為を否認し、無実を訴えてきた。
 当日、LINEでAさんから連絡を受けた知人が警察に通報。駆けつけた警察官が、左乳首付近から微物を採取した。裁判では、警視庁科捜研による微物鑑定の信用性と、A子さんの証言の信用性が最大の争点となった。
 検察は、被告人のDNAが含まれる唾液及び口腔内細胞が検出された、と主張。鑑定を行った研究員は経験豊富で知識や技術、技量は充分などと鑑定の信用性を強調し、被害を訴えるA子さんの証言も信用性が高いとして、医師に懲役3年を求刑していた。
 一方の弁護側は、科捜研がDNA鑑定の際のデータやDNA抽出液の残りが廃棄していることなどから、「鑑定には客観的裏付けも再現性もなく、科学的信頼性がない」と信用性を否定。唾液やDNAは、手術前の触診や他の医師と術式を検討した際など付着する機会があった、としてきた。
 さらに弁護側は、病室は4人部屋で当日は満床だったうえ、看護師らが頻繁に出入りしていたことなどから「事件は状況的にありえない」と主張。専門家証人が、A子さんの被害の訴えについて、「麻酔の影響による『せん妄』の可能性がある」と証言していた。
 【速報】わいせつ罪に問われた外科医に無罪判決-ヤフーニュース
 この件です。

 被害女性に非はない
 まず第一に、強調しておきたいのは、本件において被害女性に非はまったくないということです。せん妄は現実と幻覚の区別がつかないがゆえにせん妄なのであり、その両者の区別がつくならせん妄という症状になって苦しむことはありません。

 客観的な事実がどうあれ、被害女性の主観では被害は純然として存在していたわけで、その心理的なダメージもまた客観的に被害が存在していた場合と大差ないであろうと考えられます。加えて、本件では自分が主張していた被害がせん妄であったというギャップによるダメージも加わるでしょうから、彼女への適切なケアがなされることを望みます。

 『この冤罪事件は「性犯罪被害者の主張を疑え」という話ではない』でも論じたように、被害を訴え出た人に非はない、あるいはさほど非が大きくない事例であっても、それを利用して「女性の被害の訴えを聞くな、信用するな」という方向へもっていきたがる人間は一定数います。今回もTwitterなどで検索すると、多数ではないものの目につきます。

 被害者は事実認定に関してはあくまで素人であり、また被害にあった直後は心理的にも混乱している状況です。そのような背景のもとでなされた被害の訴えに事実の誤りなどがあるのは、むしろ普通でしょう。そのような誤りを見つけ出し、事実を明らかにするのは捜査機関の役割です。警察や検察はそのために税金で雇われているのです。

 本件の責任は科捜研と検察にある
 争点2で信用性が問われている科捜研の鑑定は、A子さんの左乳首付近を警察官が拭き取ったガーゼ片を調べたもの。鑑定した科捜研研究員は、被告人のDNAが大量(1.612ng/μl)に含まれる唾液及び口腔内細胞が検出された、と証言している。
 この鑑定が信用できるかどうかは、本裁判の最大の争点と言える。検察側は、採取や保管に関わった警察官らや鑑定を行った研究員に加え、アメリカに留学中の元科捜研研究員を証人に立てた。
(中略)
 これに対し弁護側は、最終弁論で「鑑定には客観的裏付けも再現性もなく、科学的信頼性がない」と力説した。
 DNAに関しては、本件ではDNA型よりその量が問題になっている。大量のDNAを検出したのは、医師が舐めて口腔内細胞が含まれた唾液が付着したため、というのが検察側の見立てだからだ。
 ただ、1.612ng/μlという数字は、鑑定を行った科捜研の研究員が作業の過程をメモしたワークシートに書かれているだけ。DNA鑑定の際の増幅曲線や検量線などのデータは廃棄されており、確認ができない。
 しかも、ワークシートは鉛筆で記載され、少なくとも9カ所、消しゴムで消して書き換えた形跡があった。弁護側は、ワークシートは実験ノートに当たり、ボールペンなど書き換えができない筆記具で書くのが常識として、科捜研の対応を批判している。
 鑑定で使用したのはガーゼから抽出したDNA抽出液の一部。その残りが保存されていれば、再鑑定も可能だが、これもすでにない。研究員は残液を「2016年の年末の大掃除の時に廃棄した」と証言している。
 この時期には、被告人が裁判で否認していることが明らかになっており、期日間整理手続が行われることも決まった。鑑定人が証人として呼ばれ、裁判で証拠が厳しく吟味されることは、十分予想できただろうに……。
 弁護側は意図的な廃棄である、と批判。DNA抽出液の廃棄は、「資料の残余又は鑑定後に生じた試料の残余は、再鑑定に配慮し、保存すること」とする警察庁内部通達に反しているとも指摘した。

 「背筋が凍る…」と専門家
 そして、再現性がなく、実験ノートの記載も不適切だったSTAP細胞事件を引き合いにして、科捜研鑑定の科学性に大きな疑問符をつけた。
 弁護側証人となった法医学者は、「このような形で実際の刑事鑑定の分析がされているということに、少し背筋が凍るような気持ちになった」と証言している。
 また、微物の採取状況やアミラーゼ鑑定について、写真を残していないことも弁護側は問題視した。アミラーゼは消化酵素の一つで、唾液のほか、尿、血液、鼻水などに含まれる。試薬を溶かした寒天の上に、A子さんの左乳首付近をぬぐったガーゼ片を置いて、色の変化を見る検査を行っているが、写真が1枚もなく、鑑定結果の裏付けがない、と指摘している。
 さらに弁護側は、被告人のDNAやアミラーゼがA子の左乳首付近に付着する機会は多くあったと主張。具体的には、手術前に洗う前の手で左右の胸を入念に触診したことや、2人の医師が手術台に横たわるA子さんをはさんで、切開する範囲を当初の予定より小さくするなどの検討した際に、つばの飛沫が飛んだ可能性などを挙げた。
 乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する-ヤフーニュース
 本件がここまでこじれてしまった最大の原因は、科捜研による杜撰なDNA鑑定と検察による無理な起訴です。
 上掲引用記事でも述べられていますが、今回の件で科捜研は試料を破棄するというとんでもないことをしています。再鑑定を妨げるための意図的な破棄であると疑われてもやむを得ない状況でしょう。そもそも鑑定の信頼性を保つために、試料が適切に保管されるのは大前提であるはずです。

 ほかにも、4人の患者で満室であった病室内で、カーテンのすぐ外側には患者の母親がいるという状況での犯行という無理のある想定を鵜呑みにしていたりと、本件の検察側の主張には重大な問題が散見されています。

 追記:この件に関して、状況があり得ないということはあまり強調しないほうがいいのかもしれません。あり得ないというのであれば、満員電車での痴漢のほうがよほど状況的にもあり得ないわけで、それに比べるとむしろ現実的だったかもしれません。あくまで今回は、無罪である可能性を示すほかの証拠(鑑定の捏造の可能性や術後せん妄)があったからそう言えるというだけで。
 性犯罪被害の訴えが、捜査員の恣意的な「それは状況的にあり得ない」という判断で一蹴されるという事態はそれこそあり得そうですし、本件がそのような不適切な判断を助長するようなことがあってはなりません。
 なぜこのような無茶な起訴が行われたのかに関しては、そのヒントとなるであろう事実を週刊金曜日の2月15日号が報じているので次回の記事で取り上げます。

 とにかく、今回強調すべきなのは、この冤罪の原因は科捜研と検察にあり、せん妄を経験した被害女性には一切の非がないということです。今回の件は捜査機関が適切な捜査を行っていれば容易に防げた事例であり、その責任を被害女性に転嫁したり、ましてや本件の事例をもって「性犯罪被害の訴えを疑え」というように歪曲した主張をすることは許されません。

「膨大なカメラでリレー方式追跡/AIで顔認証」が歓迎ばかりもできないわけ

 この件です。
 ぼんやりと話には聞いていましたが、やっぱり「膨大なカメラでリレー方式で追跡」という方法でした。
 確かに、最新技術の発展は目覚ましいものがあります。これらの技術を利用すれば犯罪者をより迅速に逮捕できるでしょう。しかし、歓迎ばかりもしていられない事情もあります。

 リレーの途中で間違える可能性は?
 まず、このリレー方式って間違える可能性はないのか?という疑問が浮かびます。当然ながら、1回の試行での失敗率が低くとも、それを繰り返せば無視できない程度の失敗率へと膨らんでいきます。仮に防犯カメラに映った誰かを見誤る可能性を1%しかない、つまり99%正しく認識できるとしても、それを10回繰り返すと正しく認識出る確率は90%程度に落ち込みます。

 もちろん、犯罪捜査は監視カメラの映像だけで行うわけではありません。「適切な」捜査を行えば監視カメラの追跡で誤ってもそのことに気づくことができ、そして冤罪を防ぐことができます。
 しかし現在の警察にそのことを期待するのはいささか楽観的でしょう。
 東京都八王子市の40代男性も2016年、不鮮明な防犯カメラの映像などを根拠に、2年前の傷害事件で逮捕、起訴された。牛田喬允弁護士によると、警察の初動が遅れ、より鮮明な映像が映っていたかもしれない防犯カメラを押さえられなかった可能性があるという。
 男性側が、犯人が逃走に使ったタクシーを突き止め、ドライブレコーダーの映像を入手。別人が映っていたことが決め手になり、公訴棄却になった。牛田弁護士は、「少ししか残っていないのに、映像が過度に使われている」と問題提起する。
 今年3月、最高裁で逆転無罪判決を受けた、広島県のフリーアナウンサー・煙石博さんも防犯カメラの映像で冤罪被害を受けた1人だ。
 煙石さんは2012年、広島県内の銀行で他の客が置き忘れた封筒に入っていた6万6600円を盗んだとして、逮捕・起訴された。映像に煙石さんが封筒を手にしたシーンはなく、指紋も検出されなかったが、ほかに封筒に近づいた人がいなかったことから、一審・二審は有罪判決を下した。
 これに対し、最高裁は、映像から煙石さんが封筒に触れていないと認定した。封筒には最初からお金が入っていなかった可能性がある。「監視カメラの映像を都合よく使われた。映像は科学的に分析・解析して、公正中立に扱うことが大前提だ」(煙石さん)
 冤罪を生む「防犯カメラ」、憤る冤罪被害者「都合良く抜き出され、こじつけられた」-弁護士ドットコムNEWS
 防犯カメラの映像の中から都合のいいものだけを抜き出し、ほかにあった決定的な無罪の証拠を握りつぶすという捜査手法を警察や検察はたびたび行ってきていました。
 リレー方式で追跡するという方法は、労力がかかる分一度出した結論を訂正できず、冤罪へ突き進む恐れは従来の方法よりも強くなると考えていいでしょう。

 「AIで顔認証」も危ない
 また、引用した動画で紹介されている「AIによる認証」も危うい要素を持っています。というのも、AIの判断基準は複雑でわかりにくく、場合によっては作成者にも説明が不可能であり、なぜ映像の人を容疑者と同一人物であると認定したのかわからない可能性があるからです。
 極端な話、裁判で「容疑者が映像に映っていました……とAIが判断してます」という検察の証言が行われるかもしれないということです。その証言に反論しようにも、なぜそうAIが判断したかわからないとどこをどのように反論すればいいかもわかりにくくなります。

 また、高度に発展したAIの判断基準を、裁判官が正しく理解して判決を下せるかという疑問をあります。往々にして、裁判官は「検察の言っていることのほうが正しいだろう」というバイアスにとらわれていますから、AIのブラックボックス的な判断基準を鵜呑みにして、結果検察の無双状態、というのはあくまで最悪のシナリオですが、現状の司法制度だとわりと現実的な想定になってしまっています。

 所詮、あくまで防犯カメラもAIも道具にすぎず、適切な捜査が可能かは警察や検察のありように左右されます。いまのままではまず碌なことにならないだろうなと危惧しています。
 ハロウィーンの渋谷で大騒ぎをして、軽トラックを押し倒した男たち4人を逮捕。
 警視庁のエース部隊を投入してのスピード捜査には、あるメッセージがあった。
 「酒を飲んだノリでやってしまった」。
 5日朝に逮捕された、4人の男。
 警視庁の捜査員たちは、この事件を「2018クレイジーハロウィーン事件」と呼んでいた。
 スピード逮捕「逃げ得は許さん」 渋谷ハロウィーン事件-FNNPRIME
 っていうか、今回の逮捕劇、スピード逮捕ってはしゃいでいる記事があったのですが、なんで現行犯逮捕できなかったんでしょうね。警備で警察官も配置されていたでしょうに。衆人環視のもと堂々と発生した事件にもかかわらず1か月もかかっています。全然スピードじゃない。

【書評】証言台の子供たち [甲山事件]園児供述の構造

 今回の書評は目撃証言の供述分析を行った貴重な一冊。これ以降、証言の信頼性という概念が市民権を得るようになった気もするのですが、正確な犯罪捜査へはまだまだ時間がかかりそうです。

 供述分析とは何か
 そもそも、本書で行われている供述分析とは何でしょうか。供述分析とは目撃者の証言や容疑者の自供の変遷を追いかけることでその証言がなされたときにどのような力が加わったのか、どのような理由があって供述が変遷したのかを明らかにする分析手法です。
 通常、人の記憶は実にあいまいで不確かなものであり、それゆえに供述が繰り返されると細部が、あるいは大きく変容することがあります。その変容の在り方を詳しく検討することで供述の信頼性を確かめるのです。
 本書では甲山事件の裁判で証言台に立った園児五名の証言を検討していますが、その変遷過程を辿ると奇妙な事実が浮かび上がります。
 この事件で園児たちに求められたのは、容疑者となった保育士が被害者を連れ出すという極めて日常的な一コマでした。園児たちはあとになってその場面が犯行の瞬間であったらしいと教えられたのであり、それ以前の認識ではさほど重要な場面であるとは思えないものでした。そのような場面を供述するので彼らの証言は当然大きく変遷を辿ります。
 例えば、目撃したはずの行動の順序が入れ替わっているという事実。行動の細部までを記憶している人間はまずいないので、そういった部分が変容しているのであれば理解できます。しかし人が自分の目で見た行動を証言として再構成するとき、あれをしてからこれをしたというその行動の流れの順序まで変容するとは考えられません。これは捜査員が意図的か非意図的かはともかくある種の予断をもって証言を聴取した傍証です。
 また当初はてんでばらばらと言うべきほどだった園児たちの供述は、3年の月日を経て見事と言わざるを得ない収斂を見せ容疑者の犯行を再構成します。しかし5人の園児の、3年前の目撃証言が一切の矛盾なく完璧に合致することはあり得ないでしょう。
 証言の変遷では、一旦思い出したはずのものを次の取り調べで否定するという奇妙なものも見られます。特に3年前の出来事を「思い出し」てからがひどく、思い出したはずのことがこんなに大きく変遷するだろうかと首を傾げざるを得ません。

 冤罪の構造
 検察は事件当時、一度は起訴を諦めますが3年後に新証言が登場してから起訴を行い、一審で負けた後も控訴するという無茶な法廷戦略をとり続けました。著者はこのような冤罪が起こる原因の一つとして「精神薄弱児」に対する認識の問題を挙げています。
 精神薄弱児という言い方は昔のものなのですが、本書を読む限りこれは今でいうところの知的障害児を指すのであろうと思われます。検察は証言が大きく変遷することに関しても、捜査員の誘導で記憶が歪められたり意図的な作話があったのではないかという指摘に関しても「精神薄弱児だから仕方ない/あり得ない」という論理で反論してします。
 著者はこれを完全否定し、精神薄弱児でも作話は可能であり、また供述の変遷も検察が言うように「その場の気分」だけが関連するランダムなものではないと指摘します。
 知的障害と一口に言ってもその容態は幅広く、甲山学園に限っても会話のできる者と出来ない者が混在していました。知的障害は知能検査によるIQが一定以下だとそう認定されるのですが、一般的な知能検査では動作性IQや言語性IQのように知能の種類によってIQを分ける場合が多く、要するに「会話は得意だけど計算がさっぱり」というような知的障害児が存在しうるのです。
 故に「知的障害児だから」という大雑把な論理で供述の矛盾を糊口しようとする検察の論理は認めることができません。著者は供述を「知的障害児である」という点にかかわらず分析し信用性を否定しました。その結果裁判では弁護側の主張が認められ無罪を勝ち取ることができたのです。

 浜田寿美男 (1986). 証言台の子供たち [甲山事件]園児供述の構造 日本評論社

【書評】現着 元捜一課長が語る捜査のすべて

 今回は「現場の捜査員が語る」系の一冊。まぁ捜査時の動きとか警視庁のシステムとかは興味深いですし、なかなか表に出てこないものなので資料としても優れているとは思うのですが、一方で行間からにじみ出る著者の思考形態もなかなか興味深いものがあります。

 被疑者への敵意がすごい
 本書を通読してまず感じるのが、著者の被疑者への敵愾心です。そりゃ、警察官なのだから犯人へは敵意も持つでしょうけど、推定無罪の原則とかどこに行ったのだろうという気もします。このような人々に取り調べを受けるのは確かにきついものがあるでしょう。
 特にその敵愾心がピークに達するのは、とある放火殺人事件の被疑者に対してでした。この被疑者、かつて警察のお粗末な捜査の末に10件もの殺人事件に問われ、無罪となった人物でした。なおそのことは『』にも紙幅を割かれて書かれていました。犯罪に関する著作を読んでいると時折こういう数奇なことが起こります。
 著者は被疑者のことを、支持者に取り囲まれていて厄介な人物として描写しています。結局のところ捜査員の慧眼と機転により決定的な証拠をつかみ有罪にしますが、そもそも支持者に取り囲まれるような状況にしたのは自分たちのずさんな捜査だったという視点がぽっかり抜けているようにも思えます(著者はその事件に直接かかわっていなかっただろうとはいえ)。

 非合理性への信奉
 もう一つ、目についたのは非合理的なものへの信奉でした。犯罪捜査という不安定な作業に従事する以上、何か神頼みのようなものをしたくなる気持ちはわからないではないですが、それが行き過ぎるとあらぬ方向へ転がりかねません。
 現場では著者も推理力を働かせますが、それがいささか雑というか、ミステリなら間違いなく無能警察のやるようなことを平気でやっているのも目立ちます。独身女性がお茶を出すとき茶托を使わないはずがないなど、そうかもしれないけど……と言わざるを得ません。むろん本書にはその山勘が成功した事例しか載っていませんが、それが外れてお宮入りした事件だって無数にあるのでしょう。
 警察の体育会系的な組織風土や旧態依然とした文化も多く出てきます。上司の飲みに付き合わされたなど、警察小説を書くには格好の題材かもしれませんが、捜査される側からすればこんな非合理的な集団に犯罪捜査を任せていいのだろうかと不安にも思います。

 そのような組織風土は警察をまとめ上げ、結果として多くの事件解決に貢献した側面もあるのでしょう。しかし、それが同時に冤罪を生み続けるシステムの根幹をなしているような気もしないではありません。善悪表裏一体の組織ですが、捜査するときはせめてその悪い面が出ないようにしてほしいものです。

 久保正行 (2012). 現着 元捜一課長が語る捜査のすべて 新潮社

「強姦被害者が処女かどうかは捜査に必要な情報」という主張

 前回でも言及した、フリージャーナリストに対する準強姦事件に関することです。
 「捜査員のみなさんから、『処女ですか?』と質問されました。『なんのための質問ですか?』と聞いたら、『聞かなくてはいけないことになっている』と。捜査のガイドラインに載っているんだと思いますが、そうならとてもおかしいことだと思います」
 そう話すのは、元TBSのジャーナリスト山口敬之氏(51)から、レイプ被害を受けたと訴えているジャーナリストの詩織さん(28)。詩織さんは5月29日、山口氏が不起訴処分になったことを受け、検察審査会に不服申し立てをしたあと“実名・顔出し”の記者会見を行い、注目を集めた。
(中略)
 「捜査の過程では、被害者として耐えられないことがたくさんありました。所轄の高輪署では、男性警官がいる前で私が床に寝転がり、大きな人形を相手にレイプされたシーンを再現させられました。さらにそれを写真に撮られるんです。口頭で説明すれば状況はわかることなのに、なんでこんな屈辱的なことをしなくちゃいけないのか。ほんとうに苦しかった……」
 詩織さんの口からはまさに“セカンドレイプ”のような捜査の実態が語られた。8日、性犯罪に関する刑法の厳罰化に向けた法改正が衆議院で可決された。しかし詩織さんは「こういう捜査の方法から変えていかないと、被害者が警察に届け出できない。いくら性犯罪の法律が厳罰化されても救われない」と指摘する。
 とくに詩織さんのように知人からレイプ被害を受けたと訴えた場合、「合意があったのでは?」と被害を受けた側が疑われ、被害届を受理されるのすら難しいという現実がある。
 「処女ですか?」と聞かれ…詩織さんが語る“捜査中の屈辱”-女性自身
 強姦被害者が、残念ながらたいていの場合直面する困難の1つに、捜査を担当する警察官からのセカンドレイプがあります。ここでは主に、処女かどうか何度も尋ねられたことと、自身が事件の再現をさせられた点が指摘されています。
 再現の点に関しては後述するとして、ここで注目するのは被害者の処女性に関する部分です。

 捜査に必要?そのわけは
 この点、擁護の使用もないだろうと私は考えていたのですが、人によっては考えを異にするようです。
 彼らの主張によれば、強姦罪と強姦致死傷罪で量刑が違い、捜査方針も異なるから確認が必要だということです。
(強姦)
 第百七十七条
 暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。
(親告罪)
 第百八十条
 第百七十六条から第百七十八条までの罪及びこれらの罪の未遂罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
(強制わいせつ等致死傷)
第百八十一条
 第百七十六条若しくは第百七十八条第一項の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯し、よって人を死傷させた者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 第百七十七条若しくは第百七十八条第二項の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯し、よって女子を死傷させた者は、無期又は五年以上の懲役に処する。
 刑法から関係する条文を引用しました。強姦罪は同意を得ない性行為に対する罪、そこに傷害や殺人が加わると強姦致死傷となるというイメージでいいでしょう。親告罪ではない犯罪が組み合わさるから、セットになっている強姦に関しても非親告罪として扱われるといった感じでしょうか。確かに、条文を見る限り2つの罪ではその捜査方針が大きく異なり、故に傷を負ったかの確認は必要だという主張は正しいでしょう。
 しかし、それでもなお被害者に処女かどうかを尋ねることに正当性が保証されるとは考えられません。というのも、被害者が処女かどうかという情報は、それだけでは被害者が強姦された際に傷を負ったかについて何も語らないからです。
 このような捜査の背景として、強姦時に処女膜が破裂した場合強姦致傷となるという判決があるようです。しかし医学の常識として、処女であるからと言って必ずしも処女膜があるとは限りません。この場合、被害者が処女だったとしても強姦致死傷には当てはまらないということになるはずです。一方被害者が非処女であっても、被害の際に怪我を負えば強姦致死傷に当たる可能性があるはずです。
 要するに、警察官が本来尋ねるべきなのは被害の際に怪我を負ったかどうかであり、被害者が処女かを確認することではありません。というかこんなこと、被害者に聞くよりも先に被害者を治療した医師に尋ねたほうが確実だと思うんですがね。病院にかかっていた場合。
 ちなみに元検事の弁護士氏はこんなことも言っていましたが、後続のツイートのように意味はさっぱり分かりませんでした。

 再現に関して
 事件の再現に関しては、ある証言によると前は人形ではなく男性捜査員でやっていたようで、警察の前時代性を思わせる話だと思います。
 どうしても再現が必要ならば別の女性捜査員が行って、被害者は口述で説明するとか、今ならCGを使うとかいろいろできそうなので、その辺はきちんと強姦事件における事情聴取のあり方を見直すべきでしょう。

よろしい、では「極左暴力集団」の定義を教えてくれ

 沖縄県の米軍基地周辺で展開されている反対運動について、警察庁の松本光弘警備局長は9日の参院内閣委員会で「反対運動を行っている者の一部には極左暴力集団も確認されていると承知している」と述べた。基地反対運動に過激派が関与している実態はこれまでも沖縄県警が指摘していたが、国レベルで認めたのは初めてとみられる。無所属の和田政宗氏に対する答弁。
 松本氏はまた、平成27年以降の検挙状況も説明。米軍北部訓練場(東村など)や名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ周辺での抗議活動参加者による威力業務妨害事件が32件あり、41人を逮捕したことを明らかにした。委員会終了後、和田氏は自身のツイッターに「極左暴力集団とはテロや殺人を行ってきた過激派を指す。こうした集団が基地反対運動に入り込んでいる事は極めて恐ろしい」と投稿した。防衛省幹部は同日、「県外から沖縄に入った過激派が、反基地運動を先鋭化させている側面もある」と指摘した。
 沖縄の反基地運動に「極左暴力集団を確認」 警察庁幹部が参院で答弁 国レベルで認めたのは初めて-産経新聞
 この件です。この記事を見て「ええ、暴力集団が!コワイ!」と思った人は権力を信用しすぎなので気をつけてください。

 そもそも「極左暴力集団」って何よ
 北海道警察のHPにはこのように説明があります。
 過激派(極左暴力集団)とは、平和で自由な民主主義社会を暴力で破壊、転覆しようと企てている反社会的な集団です。過激派は、その成立の経緯や信奉する理論などから様々なセクトに分かれています。中でも革マル派は、表面上暴力性を隠して市民運動に参加したり、主要産業の労働組合などへの浸透を図り、組織の拡大に向けた様々な活動を行っています。
 過激派(極左暴力集団)とは?-北海道警察HP
 お察しの通り、法的にあるいは操作的に明確な定義があるわけではありません。一体何を持って「極左」なのか、どこまで行ったら「暴力集団」なのかは謎に包まれています。
 裏を返せば、何を持って極左暴力集団とするかは警察に一任されているということになります。極左暴力集団という用語自体警察内で使われるだけの用語なので、警察が「この集団は極左暴力集団だ!」と言えば活動実態はどうあれ極左暴力集団ということになってしまいます。

 本当に極左暴力集団いるの?
 よしんば極左暴力集団が極めて明確に定義されていたとしても、問題は残ります。国会答弁で警備局長が認めたとのことですが、この認識が正しいか証明するものは何もないのです。証拠を求められる裁判所ではないので、言うだけタダというわけです。質問をした和田氏は「極めて恐ろしい」などとカマトトぶって書いていますが、基地反対派に過激な人間がいると印象付けるためになされた質問であることは明白でしょう。国会答弁で述べたというだけで真実であるかのように扱うのは、真実に対してあまりにも粗雑な態度です。

 威力業務妨害にしたって
 また産経新聞は威力業務妨害による逮捕者なども並べていますが、これも意味がない数字です。威力業務妨害をどのような基準で現行犯逮捕するかもやはり警察の一存であり、逮捕者を多数出して過激な運動であるという印象をつけたければ手当たり次第に捕まえて逮捕者を水増しして、後で釈放すればいいだけの話です。逮捕というと明確な基準の元に運用されているかのような印象がありますが、実際にはかなり警察の恣意的な基準で使われているのです。

 県公安委員会が高江で反対する市民について「犯罪勢力」と表現していたことがわかりました。これは沖縄平和市民連絡会が県公安委員会に情報公開請求を行い明らかになりました。
 文書では警視庁と5つの県警から派遣されている警察官の人数や派遣期間が非開示として黒塗りにされていました。その理由として「犯罪を敢行しようとする勢力がこれに応じた措置をとり警備実施に支障を及ぼす恐れがある」などと書かれていました。
 県公安委資料 反対市民を「犯罪勢力」-琉球朝日放送
 警察は過去にも、基地反対運動を「犯罪勢力」と表現するなどしてきたようです。犯罪者を捜査・逮捕する権力集団である警察が、犯罪性のスティグマを自身の都合のいいように活用し、スティグマを付与した集団への偏見を煽り同時に犯罪者そのものへの偏見をも煽る行為は、慎まれなければなりません。

官憲の拳銃使用を無邪気に肯定し過ぎでは

 表題の通りです。
 29日午後7時20分ごろ、京都市北区衣笠東開キ町の路上で、食事用ナイフ(刃渡り約9センチ)を持った男を京都府警の警察官が発見。警告に従わずに男が刃物を持って立ち向かってきたため、北署地域課の30代の巡査部長が威嚇射撃を1回した後、4発を男の両太ももに命中させた。同区に住む男児(6)が近くに倒れており、頭部の3カ所を計10針縫うけがをしていた。
(中略)
 巡査部長は3~4メートルの距離から小西容疑者の左右の太ももに2回ずつ命中させた。小西容疑者はその後に刃物を投げ、警察官に取り押さえられたという。同署の横田政幸副署長は「現時点では適正な拳銃の使用だったと判断している」とコメントした。
 刃物男の太ももに4発 京都府警-毎日新聞
 こんな事件がありまして、拳銃使用という対応に対する反応として、あまりにも無邪気にほめたたえるようなものが多かったというのが印象です。
 拳銃使用とその批判という観点では、以前『拳銃使用について回る批判は仕方ないのでは』という記事を書いていたのですが、そこでは銃殺されたのが犬だったということもあって、「拳銃使用は適切だったとしてもそういう批判が出る方が健全」といった論調をとっていました。しかし、今回の事件ではそもそも拳銃の使用やその方法が適切だったのかというところに疑問があります。

 そもそも適切だったか
 毎日の報道では発砲の状況がよくわかりませんが、産経の報道ではもう少し詳しく書いてあります。
 「刃物を捨てなさい」
 現場近くの主婦(55)は警察官が男に呼びかける声を聞いたという。
 「誰かがけんかをしているような声が聞こえたので、窓を開けると、警察官がパトカーから急いで降りていた」
 主婦によると、警察官はドアを閉める間も惜しむように、ドアを開けたまま、男に刃物を捨てるよう指示した。自宅の窓越しだったが、主婦の目からも男が刃物を持っているのが確認できたという。
 だが、男は北に向かって逃走する。そして、銃声が響いた。
 「男が北の方へ逃げていった。それを警察官が追いかけて、その後、パン、パンと乾いた音が2~3回聞こえた。男がピストルを持っていたのだと思って、怖かった」
 【ナイフ男、母子襲撃】逃げる男、追う警官…夜の住宅街に「パン、パン」と発砲音-産経新聞
 つまり報道を総合すると、男が男児を攻撃→警官到着→男逃亡→警官威嚇射撃→男が警官に攻撃しようとする→発砲という流れだったのだろうと推測できます。
 この時点で、そもそも威嚇射撃が必要だったのかという疑問が生じます。男の逃亡というのが、今すぐ取り押さえないと他の人々に危害を加えかねない状況だったのでしょうか。

 もう1つの疑問は、発砲した拳銃の命中率が良すぎるという部分です。4発撃ち、両足に2発ずつ命中させています。単に命中率100%というだけでなく、均等に命中させてすらいます。報道によると、どうも男と警官の距離はかなり近かったようなのですが、それでも動いている人間に対する命中率としては驚異的です。
 これをネット上では「凄腕」などとはやし立てる反応が目立ったわけですが、私としてはもっと可能性のある推論が頭をよぎりました。それは、動けなくなった犯人に立て続けに発砲したのではないかというものです。
 無論これは根拠のない推論ではありません。例えば、FBI捜査官の銃撃戦における命中率が50%らしいのですが、銃撃戦でないことと日本の警官がFBI捜査官より銃撃に精通してはいないだろうことを勘案して、彼の命中率をやはり50%だと仮定すると、4発すべてが命中する可能性は6%ほどという極めて低い数字です。これを考えると、警官が6%の確率を引き当てる凄腕だったというよりは、4発のうち何発かは静止した的を狙ったから当たったのだと推測する方が自然でしょう。
 最大限好意的に解釈すると、慌てた警官がめくらめっぽうに撃ちまくった結果とも考えられるのですが、そうして発射された弾が両足にそれぞれ2発ずつ綺麗に命中する可能性は6%より低いことは明白であり、この可能性は極めて低いといえます。
 ちなみに、警察の使用する拳銃は1発で人の突進を止める威力はないのだとしたり顔で語る、軍オタを自称する人もいました。警察の使用する拳銃にはいくつか種類があるので一概には言えないのですが、例えば.38スペシャル弾を使用する拳銃であれば、1、2発で人の突進を止められないということはないでしょう。

 上掲の動画では.38スペシャル弾がポリタンクを粉砕しています。人間に置き換えた時にどの程度の威力になるかは想像するしかありませんが、4発撃ちこまなければならなかったということはないでしょう。

 なんでそんなに批判するの?
 ここまでの議論を、純粋に「警官カッコイイ!」と思った人は「なんでこの人はこんなに警官を批判したがっているの?」と思ったかもしれません。しかし、私がこの件を警官に厳しい視点で考えるのにも、わけがあります。
 警察は市民を守るもの、というのはあくまで表向きのイメージです。実際にはそうですし、大抵の市民は警察のそういった面にしか直面しないので、気にする人はあまりいないのですが、警察にはもう1つの側面があります。それは、市民を弾圧する側面です。これは、単に日本の警察の立場上の問題でもありますが、警察が市民を守るために他の市民を逮捕などで抑圧するという手段をとる以上、どこの国の警察でも必ず生じる問題でもあります。
 弾圧というと、精々活動家が逮捕されたりしているくらいで自分たちは関係ないという印象を持つかもしれません。それがまず誤りなのですが、それをさておくとしても我々とは無関係ではありません。というのも、我々はたとえ犯罪に手を染めていなくても、冤罪という形で簡単に警察に逮捕され得るからです。そして無理やり、時には身体的な暴力を使用して自白をとることが問題となっています。
 逮捕というのも、刑法に規定のある犯罪であり、暴力行為です。警察は、犯罪捜査目的のために、大目に見られているにすぎません。このような暴力行為の行使は、我々の生活を守ると同時に脅かすものにも容易になり得ます。それ故、警察のような公権力の暴力行使は、その適切性を厳しく監視されなくてはならないのです。
 拳銃使用にも、この議論は当てはまります。その使用が適切であるかどうかという問題は、即ち我々の権利が守られるかに関わってきます。拳銃使用が緩やかに認められれば、アメリカのように罪のない人々が銃殺され警官はお咎めなしという状況にもなり得るのです。
 だからこそ、警官が発砲したと報じられたとき我々がすべきなのは、それを安易に囃し立てるのではなく、それが適切な仕様だったのか疑ってかかることなのです。厳しい目による多角的な検証の結果、適切だというのであればそれはそれでいいのですから。 
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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