九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

生来的犯罪説

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

犯罪者について「遺伝」を論じる愚 みやま市長の事例から

 福岡県みやま市の松嶋盛人市長が、先祖の悪行は子孫の精神・身体障害、犯罪者の有無などに影響するとする文書を作成し、職員研修で配布していたことが分かった。12日の市議会一般質問で「差別と偏見に基づく表現だ」との批判を受け「そう捉えられるのは残念」と釈明。西日本新聞の取材に対し「道徳教育の大切さを訴えるつもりだったが、思慮が足りず反省している」と話した。識者は「優生思想につながる危険な考えだ」と指摘している。
 文書(A4判1枚)は「人間の『徳』について」と題し、8月26日の研修で講師役の松嶋市長が管理職22人に配布した。
 100年以上前の「アメリカの家系調査報告に残る記録」を挙げ、1720年にニューヨーク州で生まれた「怠惰な無頼漢」の家系は「6代を経る中で約1200人の怠け者、貧窮、精神や肉体を病む者、犯罪者の存在があった」「300人の嬰児(えいじ)が死亡、440人が病的な行為で肉体的に破滅、前科者は130人」などと記した。
 一方、同年代生まれの神学者の子孫は「65人が大学教授や学校長、100人以上が牧師や神学者」などとし、対比した子孫の一覧表も掲載した。これらはある月刊誌から引用し、一覧表は自ら作成したという。
 松嶋市長はこの比較から「一人の人間の『徳』の有無がいかに家族や子孫に大きな影響を及ぼすか」との自らの論考も載せた。取材に対し「差別の意図は全くなかった。『徳』の醸成の大切さを訴えたい一心だった」と話している。
 「無頼漢の家系は怠け者、病人」市長が差別的表現 職員向け研修の文書で 福岡県みやま市-西日本新聞
 この件です。
 写真で確認できる「ジュークの子孫」云々という話は、犯罪心理学の入門書なんかでよく見るものです。ですが最近の入門書であればたいていの場合、安易に犯罪性と遺伝を結びつけるような議論を否定する注意書きと並べて書かれているものです。市長が読んだ本は古かったのかいい加減だったのか……。ある月刊誌って何でしょうね。『正論』とかかな?

 遺伝と犯罪についての補足
 この辺の話は『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』に詳しいので読んでほしいのですが、一応補足しておきましょう。

 前掲書が指摘するように、犯罪性と脳機能には密接な関係があります。ゆえに、犯罪と遺伝は無関係ではありません。
 しかし、これも前掲書が慎重に否定するように、犯罪性が遺伝と関連するということは、犯罪者の子供は生まれついての犯罪者、ということを意味しません。脳機能に原因があるならばそれを改善すればいいわけで、実際に著者はそのようなプログラムを作って効果を検証しています。

 また、そもそも遺伝というのは「親の性質を必ず子供が受け継ぐ」ものではありません。確率は確かに高くなりますが、一方で「トンビが鷹を生む」ということわざもあるように、全く予想外の特徴を持った子供が生まれることもよくあります。

 さらに言えば、遺伝子的な特徴を持つことは必ずしもその特徴が発現することを意味するわけでもありません。体格が大きくなりやすい遺伝子を持った子供でも、飢餓状態にあれば小柄なまま成長することになるでしょう。

 遺伝ではなく「徳」につなげる不気味さ
 ただ、興味深いのは、みたま市長がこの件を遺伝ではなく「徳」の文脈で論じているということです。
 もちろん、先祖の行為が子孫の特徴に影響するなどというのは非科学的な思い込みにすぎません。しかし彼は、このような無茶を論じることで2つのことを成し遂げようとしているのではないかと思われます。

 1つは、子孫への影響をある種の人質にとって「徳」を強要することです。別に、私のように子供を作る気のさらさない人間からすれば「はぁ?」って感じですが、最近私のTwitterに殺到した反応を見る限り「人生の至上目的は子孫を残すことである」と思っている人は少なくないようです。故に、子孫を人質にとる戦法は徳なんかを重んじる保守的な人々には効果があるのではなかろうかと思います。道理で自民党議員による「何人産め」系の失言がなくならないわけです。

 もう1つは、先祖の行動によって子孫を差別してもよいという思想の流布です。これは思惑というよりも彼の頭の中が透けて見えたと考えるべきでしょうか。もちろん、親が極悪人でも子供を差別する理由にはなりませんが、彼はそう思っていないので「犯罪者の子供は犯罪者」といった短絡的な思考につながったのでしょう。
 そしてこのような考え方こそが、戦時中の加害責任を否認するような歴史修正的な態度に繋がっているのでしょう。こちらからすれば、明白な歴史的事実を否定するほうが神経を疑われそうだと思うんですけどね。

 重要なのは、ここでいう「徳」の内容は時の権力者、今回は市長の一存によっていくらでも変更可能であるということです。遺伝と違って徳には明確な定義があるわけではありませんから。そのような恣意的な理由で差別を正当化するものがかつて教育者であり、いまも首長であることにうすら寒い思いがしますね。


【書評】暴力の人類史 下

 前回紹介した『暴力の人類史 上』の下巻です。これもまた読むのに難儀しましたが……。

 権利革命
 人間を暴力から遠ざけた歴史的な力。その最後は権利革命と呼ばれるものです。当たり前のように殴られてきた女性や子供の権利はもちろんのこと、いろいろと議論を呼ぶ動物の権利すら最近ではまじめに考えられるようになってきました。おかげで学習心理学者は倫理審査の申請に苦労する羽目になりました。
 それはさておいても本章に登場するかつての子育てのスタンツは興味深いです。今でこそ子供は白紙であり、生まれた直後には善も悪もないと考えられています。しかしかつては子供というのは獣と同類であり、何としてでもいうことを聞かせる必要があるものでした。
 差別の対象となる属性を動物に例えるというのは極めて典型的な戦略ですが、動物の権利が認められるようになったことと暴力が減少したことの間には関連があるのでしょうか。

 心理学の世界へ
 本書では散々歴史的な流れを解説していましたが、著者のピンカーは元々心理学者のようです。なので下巻の大半は心理学的な知見に関して割かれています。
 といっても、個々の部分の知見は『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』や『女性のいない世界』で述べられていたものと重なる面があり、というかレインの名前に関しては直に登場するくらいなので既にいろいろと読んでいる身からするとあまり新規性がないのも事実です。一冊にまとまっているとわかりやすくていいですけど。
 興味深いのは「共感」に関する知見です。共感性というのは昨今、特に暴力の特効薬のような扱いをアメリカではされているようです。しかし実際には、ある程度効果はありつつもそこまで強い効果があるわけではないようです。Twitterとかでも「いじめっ子はかえって共感性が高いんだ」という俗説が人口に膾炙していますが、その真偽はさておいても共感性は使い方次第な面はあるようです。

 かなり分厚い本なので読みとおすのに苦労しましたし、内容を覚えるような類のものではないので関連する分野の研究者が一冊持っておくといろいろ便利という類の本でしょうね。しかしこれだけの知見をよく1人でまとめたもんです……。

 スティーブン・ピンカー (2015). 暴力の人類史 下 青土社

【書評】言ってはいけない 残酷すぎる真実

 本書は、遺伝研究の知見を中心に、従来考えられてきたことを覆すような最新科学の成果を紹介しているものです。犯罪についてのみ記述された本ではありませんが、章が割かれていますし、心理学的にも看過できない誤りがみられるので指摘しておくべきでしょう。
 なお、本書は随所で「タブーを打ち破る!」的な、言ってしまえば手あかのついた宣伝方略を多用しているわけですが、内容自体は別に目新しいものはなく、最新の科学の知見の動向を多少なりにでも知っていれば普通に知っているか、予想がつくレベルの話ばかりです。

 遺伝率70%なら環境には意味がないか
 本書は特に、遺伝の効力の強さを喧伝することに終始しています。著者自身は否定していますが、どうしてもそれは決定論的にならざるを得ません。
 しかし、根本的に著者は遺伝のしくみについて勘違いをしています。
 例えば、著者は体重の遺伝率が74%であることなどを捉えて、環境による影響が極めて少ないということをしきりに論じています。確かに、体重の遺伝率が74%で環境が26%と聞けば、素直にそう解釈するでしょう。
 しかしその考え方は、遺伝研究においては最新のものではありません。実は環境閾値説というものが、遺伝研究では提唱されているのです。
 これは、いくら遺伝率が高くても環境が十分に整っていないとそれが発現しないという理論です。例えば、体重では、いくら太りやすい家系だったとしても、太るための栄養を手に入れることが出来なければ太ることが出来ないということです。よくよく考えてみれば当たり前ですが。
 なお、環境閾値説では、環境がいいとポジティブな遺伝的要素が発現しやすくなり、悪いとネガティブな要素が発現しやすくなるとざっくりまとめている場合があります。

 レイプは進化の賜物か
 進化心理学の知見にも触れ、例えばレイプが進化の過程で残った適応的な行動であると論じています。しかし、この主張にもいくつか疑問点があります。
 1つは、レイプ犯の少なくない数が、レイプ時に性行為を完遂できないという問題です。これはあくまで見知らぬ者同士のレイプに中心的な話でしょうが、レイプが遺伝子をより多く残す戦略だとすればこの事実とはかみ合いません。
 もう1つは、これは進化心理学の知見全般に言えることですが、反証可能性がないという問題があります。「今も残っている機能には意味があったのだろう」ということは非常にもっともらしいのですが、裏を返せば「今残っている機能にも意味はなかった」とか「意味があったけど残らなかった機能がある」ことは証明が極めて難しいか、あるいは不可能です。純粋な意味で「悪魔の証明」となっているのです。

 第5章丸パクリ問題
 本書の第5章「反社会的人間はどのように生まれるか」は、拙稿『』で紹介した本が元となっています。
 元となっているというか、その本に書いてあることを丸写しして最後に申し訳程度に著者の見解を数行書き足したようになっています。
 これは、あくまで従属的でありメインは著者の記述であるとする引用のルールに沿うものなのか疑問があります。一応、第5章だけでなく本書全体を見れば、様々な本の記述を再構成したという意味で、引用かどうかはさておきパクリにはならないという理屈なんでしょうけど。

 少なくとも簡単に言えることは、新潮新書+煽りすぎなタイトルな時点で信憑性を察するべきですし、ご丁寧にも参考文献は書いてあるので本書ではなく原典に当たるべきだということです。

 橘 玲(2016). 言ってはいけない 残酷すぎる真実 新潮社

【書評】人が人を殺すとき 進化でその謎をとく

 進化心理学という言葉があります。これは、現代の人間にみられる、一見非合理的な心的機能が、実は昔には必要にかられて発達してきたものであり、進化の産物であるという考え方です。
 この考え方は、犯罪行為にもしばしば援用されるもので、その研究の集大成が本書ということになります。
 確かに、本書で説かれている進化心理学的な視点による犯罪理解は、かなりもっともらしいように見えます。しかし、残念ながらもっともらしそうなお話しの域を出ないようにも見えますし、何より進化心理学に対して私が抱いていた疑問に対する答えは何もありませんでした。
 順番に、進化心理学的な視点による犯罪解釈への疑問を挙げながら本書の知見と批判を連ねていきましょう。

 理不尽な進化
 本書において、犯罪行為は人間の適応度を挙げるものだとして説明されています。適応度というのは、ここでは単にどれほど子孫を沢山残せるかという意味です。
 確かに、外敵に脅かされたときや自身の適応度が下がるように事態に直面したとき、場合によっては他者を殺めてでも自身の適応度を守ろうとする行いは子孫の繁栄には重要で、それが出来るということは有利に働いたでしょう。そのため、殺人を犯すような攻撃性を持つ者が繁殖レースの勝者となり、攻撃性が子孫に伝播し現在に至るということもあるでしょう。
 しかしこの視点は、あくまで繁殖レースが公平なゲームであることを無邪気に仮定したものでもあります。
 デイビッド・ラウプという生物学者は、生物の進化の過程が、従来の進化論で考えられているような公平な競い合いではなく、もっと「理不尽な」ゲームであったことを指摘しています。
 理不尽な進化のシナリオというのは、生物が暮らし適応を目指していた環境がある日突然がらりと変わってしまい、今まで適応していた生物が不適応となり逆に今まで不利をかこっていた動物の性質がその環境にバッチリ適応してしまうような状況を指します。何億年と栄えた恐竜が突如絶滅し、体の小さな哺乳類がその小ささゆえに寒冷期の環境に馴染んだようなことが例としてあげられるでしょう。
 これはあくまで種丸ごとを左右するもので、人間という種の中での生存競争には関係がないと思う人もいるかもしれません。実際にはこのような理不尽な環境変化は、後述するようについこの前も起こったばかりなのですが、ここで重要なのは種の繁殖レースが外的な要因(ほとんどの場合単なる運)に左右されることがあるということを、進化心理学は見落としているということです。

 進化心理学では説明できないこと
 もう1つ、進化心理学が見落としているのは、進化心理学ではどうにも説明できない現象が人間の心理に存在するということです。
 例えば本書では、若い男が攻撃的であることが盛んに述べられています。その理由は、大抵の場合配偶者の確保に有利だからと説明されています。しかし、年齢を重ねるごとに男性の犯罪が減る理由は述べられていません。
 また、多くの社会において、報復のルールが存在し、大抵の場合被害と報復が釣り合うようにしているということに関しても何も説明はしていません。単純に進化心理学で考えれば、報復で敵を皆殺しにした方が自身の適応度は上昇しそうなものなのですが、そうはしないのです。
 もっと悪いことには、著者たちは進化心理学の考え方を当てはめることで「何とでも言おうとしている」のではないかとも思える記述があることです。
 それは、男性による配偶者殺しに関しての記述です。著者はまず、進化心理学的に考えれば、若く繁殖力のある配偶者は貴重だから丁寧に扱い、年老いた配偶者はさっさと片付けてしまった方が新しい配偶者を探しやすいから、年齢が高い配偶者の方が殺人の被害者になりやすいのではないかと予想を述べます。
 そしてデータを見るのですが、実際には若い配偶者の方が被害に遭っていました。すると著者は、これは配偶者の価値が高いためにより強固な手段に出ようとしたのだろうと解釈を加えます。
 要するに、この事例ではどちらの結果が出ようが進化心理学的に正しいということになるのですが、正反対の現象に問題なく接続できるというのは、これが現象が起こる理由の科学的な説明というよりは、現象に対する信念的な解釈の枠組みであることを示唆しています。
 宗教家があらゆる現象を神の御業だと解釈するように、進化心理学者はあらゆる人間の心理を適応の必要性から起こったと解釈しているようにしか見えません。

 環境変化のその先
 さて、地球に隕石が落ちたように、人間の環境も理不尽に変化しています。その最大のものが、社会契約と人権という概念の発明でしょう。
 これにより、殺人や暴行という行為は自身の適応度を高めるどころか皆無にする危険性をも孕むようになりました。刑務所に入れられ青年期を無駄にすれば子孫なんて望むべくもないわけですから、当然です。
 逆に、現代社会では経済力や異性を虜にするコミュニケーション能力が適応度の上昇に貢献しているように見えます。進化心理学で考えれば、今後の人類は攻撃性を失いコミュ力の高い生物になっていくということになります。
 進化心理学が見落としていることの3つ目は、我々が未だ進化の途上にあるということです。進化心理学は過去から現在へどう変化したかを語りたがりますが、現在から未来へどう変化するかという部分を語ることが驚くほど少ないように見えるのです。

 進化心理学への疑念をつらつらと書いたわけですが、私は別に進化心理学に詳しいというわけではないのでこの視点自体をそもそも勘違いしていることもあるでしょう。残念ながら、本書は進化心理学のわかりやすい入門書とはなっていませんし、訳のせいか何が言いたいかもわかりづらいものに仕上がっているのです。
 ただ、進化心理学最大の問題は、あらゆる現象に対して「うんうん、それもまた進化のせいだね」と言えてしまうということにあるのは間違いないと思います。現在の人間にある性質が、例外なく進化の産物であり、非合理的に見える性質も、過去には合理的だったのか合理的な行動から導かれた性質なのだと仮定するのであれば、その説には反証可能性がなくなります。

 マーティン・デイリー,マーゴ・ウィルソン(1999). 人が人を殺すとき 進化でその謎をとく 新思索社

【書評】暴力の解剖学 神経犯罪学への招待

 犯罪に生得的な原因はない。これが現代にいたるまでの犯罪学者たちの合意でした。しかしそのような考えはもう時代遅れになりつつあるようです。
 本書は、犯罪の生得的、生物学的要因へ切り込んだものです。従来タブー視までされてきた研究領域は、我々にどのような知見を与えてくれるのでしょうか。

 魚を食べると
 本書の知見を乱暴に要約すると、「脳の認知機能の低下は犯罪を招く」ということになります。前頭前野の機能不全は自省と計画力の欠如を呼び、海馬のそれは共感性の欠如を招きます。脳の機能不全を招くものは遺伝、頭部への外的なダメージ、周産期の合併症や妊娠中の喫煙飲酒、栄養不足や鉛中毒など様々です。
 あらゆる原因が脳機能に悪影響を与え、あらゆる脳機能の不全が犯罪を招くとも解釈できかねないほどに、脳と犯罪との結びつきは大きいのです。
 1つ面白い知見を紹介しましょう。
 以前から日本において犯罪率が異様に低い理由は、不明とされてきました。もしかすると、それへの答えになるかもしれません。
 ノルウェーの研究で、100人の子供たちにオメガ3という栄養素の含まれたドリンクを6か月間飲ませました。統制群にはそれの含まれていないドリンクを飲ませ、その後の問題行動を追ったところ、オメガ3入りのドリンクを飲んだ群では6か月後の問題行動が減少し、それがさらに6か月後も続きました。統制群は同様に6か月後の問題行動は減少しましたが、もう6か月経つと実験前の水準に戻っていました。
 オメガ3という物質には、シナプスの機能や樹状突起の分岐を促進するなどして、脳機能と構造を強化する機能があります。つまり、犯罪に繋がりかねない脳の機能不全を部分的にとはいえ回避することが出来るのです。
 そして、このオメガ3はDHAなどからなる、魚に多く含まれる栄養素なのです。
 日本が海産物の消費大国であることはすでに知られています。このような要因が、犯罪率の低下に貢献しているのかもしれません。

 宿命的ではない
 遺伝や合併症など、生得的な要因によって犯罪が生じるという知見を目の当たりにすると、そのような要因を持った人々は犯罪者であることを宿命づけられているかのように感じる人もいるかもしれませんが、それは大きな誤りです。
 特に遺伝のような要因を考えるときに一般的に言われるのは、生物学的な要因は環境との相互作用によって発現するということです。
 著者は、新生児の合併症と母性の剥奪(悪辣な生育環境)を調べ、その有無で4群を作り問題行動を調査しました。すると、どちらの要因もない正常群と片方の要因のある2つの群では問題行動に差はなかった一方、両方の要因のある群では3倍近い問題行動が見られたことを指摘しています。このように、生得的な要因を持っているからと言って必ず犯罪者になるわけではないのです。
 また、どのような段階でも生物学的な要因の悪影響を取り除くことが可能だとも言っています。

 民族とは関係がない
 生物学的な要因と言えば、インターネットで猛威を振るうネトウヨたちは喜んで飛びつくかもしれません。彼らが従来から主張する犯罪の遺伝を証明したように聞こえますし、在日コリアンや韓国人が犯罪者の遺伝子を持っているというレイシズム言説にお墨付きを与えるようにも聞こえるからです。
 本書では、民族や人種による差については特に扱ってはいません。研究対象の大半が白人だからでしょう。それに、民族の差異というものを否定するような知見も紹介しています。
 認知機能の低下など原因の1つに、MAOA遺伝子の突然変異によるMAOA酵素の生産量の低下があります。これを引き起こす低MAOA遺伝子の基準率は、中国人(77%)では白人(34%)の2倍以上になるのですが、犯罪率ではアメリカよりも中国の方がずっと低いのです。

 ユートピアかディストピアか
 著者は本書の最後に、未来像を示しています。そこでは犯罪の兆候がある人々を予め施設に収容し、犯罪に走らないように問題を解決します。また親は正しい育児の方法を学び、免許を取得しなければいけません。報復により正義を示す時代は終わり、暴力は臨床障害と同じように扱われ、治療の対象になります。
 そこは犯罪被害のないユートピアです。しかし、この世界は一歩間違えばオーウェルも真っ青なディストピアになりかねない危うさも秘めています。
 生物学的な要因による犯罪の予測が100%でない以上、犯罪のない社会はあり得ません。また、政府は絶対的な安全を錦の旗にして、これらの知見を換骨奪胎し統制だけを強めるということも十分考えられます。
 どこまですべきか、どこからすべきでないかは慎重に考える必要があるでしょう。 
 エイドリアン・レイン(2015).暴力の解剖学 神経犯罪学への招待 紀伊國屋書店

【書評】女性のいない世界

 性比不均衡という問題をご存知でしょうか?元々女性100人に対し男性は105人生まれるというのが自然な均衡なのですが、様々な理由による産み分けによって男性の割合が上昇を続けているという問題です。これによって独身男性の増加、結婚ビジネスの横行による女性の地位低下といった問題が引き起こされると危惧されています。この前実家に帰った時、「子供のためにお見合いパーティーに参加する親の気持ちがわかり出した」と言われた私も割と他人ごとではありません。
 年次統計によれば、日本は未だ崩れていないので一応安心ですが。しかしこの統計、ひのえうまの時には男性の比率が上がっていたりするので面白いですね。いや、笑い事ではないのですけど。
 さて、本書はそんな問題を中心に記述したものなのですが、犯罪学的に興味深い部分を発見したのでメモもかねて記事を書きたいと思います。

 犯罪促進物質?テストステロン
 本書後半では、結婚できない独身男性が大量に存在することを治安上の問題に結び付けています。曰く、犯罪者となる割合が最も大きい独身男性において、テストステロンの分泌量が多く、結婚後には減少するようになるとのことです。
 もっともテストステロン自体が攻撃性を促進するのではなく、既にその人が攻撃的になっており、文化的・環境的要因も整っている場合攻撃傾向を強めるようです。
 独身男性が余りに余った集団として最古の例は、建国時のローマ帝国だと言われています。ここには近隣諸国から最下層のものが流れてきたために女性が男性に対して少なすぎました。そのためローマは、祭を装い諸国から家族連れの見物人を引き寄せてその妻や娘を奪うという手段に出たのでした。
 ローマ帝国の建国史自体は神話のようなもので実際にあったとは思えませんが、女性の地位が低かったかつてのアテネやポルトガルでは女性の比率が低かったことがわかっています。
 また、もう少し最近の例で言えば、開拓時代のアメリカ西部があげられるでしょう。北部からの長旅は女性に耐えられるものではなく、故に西部には男性が溢れ、カンザスでは女性100人につき男性786人という驚異的な比率でした。結果としてこの地では、先住民族への虐殺が吹き荒れました。
 テストステロンが攻撃性を促進する文化的要因というのは、端的に言えば「面子を気にするかどうか」でした。西部の人間に多かった南部出身者はこれが強いようで、面子を試される場面では北部の者よりも先にキレるという実験もあります。アメリカ人が他の先進諸国の人間と比べてテストステロンの分泌量が多いというのも関係するのかもしれません。

 中国版ネトウヨ達
 現代の余剰独身男性として本書で挙げられているのは、中国の男性です。中国では一人っ子政策があったこともあり、性比不均衡は大きな問題となっています。
 本書で描かれる彼らの生態はこういうものです。サバゲーに熱中する(彼らを見る女性である著者の冷めた目線が面白い)、中国人女性との情事をブログに公開した外国人英語教師の個人情報を探る(失敗したようですが)、日本が安保理で常任理事国入りを指向した翌日にすし屋を襲撃するなどなど。攻撃が陰険か直接的かという違いを除けば、日本のネトウヨとダブって見えます。
 興味深いのは、日本人ビジネスマンの集団が行った売春接待や、上掲の外国人教師に対する反応です。「中国の女性を食い物にする不逞の輩を許すな」という文脈で語られているようで、性比不均衡による結婚の困難であるとかを思わせられます。また、日本のネトウヨがよく主張するような「韓国人の強姦犯」といった妄言とも通底するものを感じさせられます。日本では性比不均衡は問題になっていませんし、ネトウヨがヒキニートのオタクというステレオタイプは必ずしも当たりませんが、なにか満たされない感じを女性問題に当てはめているのかもしれません。

 本書を読み始めたときには、このような記述に出会うとは思っていませんでした。本を読むということの大切さを改めて実感する次第です。

 マーラ・ヴィステンドール(2012).女性のいない世界 講談社 

「○○人には犯罪者が多い」論の不毛さについて

 昨日投稿した「難民受け入れ前に大掃除が必要だ」に関連するのですが、産経新聞でこんな記事を見つけました。
 大阪市生野区でベトナム人とみられる男性3人が殺傷された事件。現場周辺では近年、ベトナム人らアジア系外国人が急増し、路上でけんかしたり、大音量で音楽を流したりするトラブルが相次いでいたという。
 近所に住む自営業女性(79)は6日深夜、大声で騒ぐ声に気づき、外に出たところ、男性が路上に倒れ、大量の血が広がる様子を目の当たりにした。「現場は血の海だった。(6日)夕方にも同じ路上付近で、アジア系の外国人らが言い争っていたようだ」と話していた。
 重傷の男性2人が見つかったマンションに住む30代男性も、以前からアジア系の外国人が言い争ったり、殴り合ったりする姿を目撃していた。男性は「これまでトラブルはよく起きていたが、人が亡くなるようなことはなかった」と声を震わせた。
 現場付近では近年、語学学校がアパートを借り上げ、生徒のベトナム人や中国人を住まわせるケースが増えているという。語学学校の関係者は「やはり家賃が安いというのが理由だろう」と話した。
  増えるアジア系外国人、殴り合いや言い争いなどトラブルも…近隣住民「血の海」に表情こわばらせ-産経新聞
 このタイミングでこの記事ということは、意図するところは難民受け入れへの難色と言ったところでしょうか。過去にも似たような意図の記事もありましたし。もしシリア難民の件を知らないのでやったのであれば、その程度の情報収集能力で記者としてやってけんの?という話になってきますし。
 外国人が増えると犯罪も増えるといった主張から、なんちゃら人には犯罪者が多いとか日本の凶悪犯罪はほとんどがなんとか人のせいなんだとか、犯罪がスティグマとしてこの上なく便利であることも手伝ってこういった主張は活火山の溶岩よりも豊かに湧き出ているのが現状です。
 これらの主張が統計的に誤りであることは過去の記事(「外国人の犯罪は多いのか検証してみた」「在日は強姦率が高いというデマ」「韓国は本当に性犯罪大国か(ネトウヨ君へのコメ返しを込めて)」)で腐るほど指摘してきました。今回はもっと根本的な問題として、ある国籍や民族と犯罪性を結び付けることの不毛さを説きたいと思います。

 多少の差を埋めるもの
 上掲の統計的根拠をもとに数々のデマを打ち消しても、必ず湧いてくるのが「差はあるだろ!」式の反論です。中にはむしろ自分の主張が証明されたかのように大喜びする者までが現れる始末です。
 確率にして0.1%未満のものを差だと強弁するその勇敢な試みには是非とも賛辞を送りたいところですが、仮にこの差が強固なものだとしても民族と犯罪性を結び付ける証拠にはなりません。
 というのも、外国人が犯罪を犯すのは彼らが外国人であるからではなく、外国人であることから来る様々な問題が原因だと考えられるからです。
 例えば貧困。貧困はそれ自体が犯罪への誘因となりますが、貧困による社会的な繋がりの喪失も犯罪の大きな原因となります。また外国人であるが故に日本社会にうまく適応できず、あるいは疎外されるために就職や結婚、あるいは集団への参加などの機会を喪失し社会的な絆を持てないことが犯罪の原因になったりします。
 犯罪心理学にはソーシャル・ボンド理論というものがあります。これは社会的な繋がりを持っている者はそうでない者に比べて犯罪を犯さないというもので、端的に言えば就職や結婚をしていたりすれば犯罪が露見した時に失うものが多いからしにくいよねということです。
 つまり社会的な絆を持ちにくい外国人は、その分犯罪へのリスクが低くなり誘引されやすくなるのではないかと考えられています。この社会的な絆が、日本人と外国人の犯罪率をの差を埋める要因でしょう。

 犯罪者のDNAは存在するか
 ある国籍や民族を犯罪性に結び付ける人々の主張に多く見られるのが、犯罪者としてのDNAという表現です。おおよそ、犯罪者としての素質に関わるDNAがあって、それを代々受け継いているからある民族は自分たちと比べて犯罪性が高いのだという主張になっています。
 さて、生まれつき犯罪者となる人物がいるという生来的犯罪者説を主張したのはロンブローゾですが、これは1900年代のものでありとっくの昔に否定されています。また双生児研究などの手法を用い遺伝と犯罪性の関連を調べた研究もありますが、一部の精神鑑定の分野を除いては否定されています。要するに現代で生来的犯罪者説を主張するのは100年という歴史的周回遅れを演じることになるわけです。
 犯罪神経学の分野では、先天的に犯罪性と関係する神経的な特徴が発見されているらしいということを聞いたことがありますが、それが特定の民族に結びついているという結果は得られていないと思います。そういう研究結果があれば知りたいくらいですが。
 生来的犯罪者説が犯罪学者の間で支持されないのは、過去の研究で否定されたことや研究の結論が特定人種への差別へつながりかねないという懸念があるでしょう。しかし、そもそも先天的に犯罪を犯すことになるDNAという概念を構成しにくいという原因もあると思います。
 「先天的に犯罪を犯すことになるDNAという概念を構成しにくい」というのがどういうことか理解するためには、そもそも犯罪とは何かということをおおよそでも理解する必要があります。
 犯罪というのは、極めて社会的な行為です。犯罪を犯すには、まず何かの行為を犯罪とするルールとそれを規定する共同体がなければいけません。また、そのルールは決して固定的なものではなく、時と場合によって変化します。例えば殺人は戦場ではむしろ奨励され、売春は合法化されたその日から犯罪ではなくなります。
 つまり、犯罪という行為があるのではなく、ある行為を我々が犯罪と呼称しているに過ぎないのです。
 ここでDNAの問題に立ち返りましょう。食事や睡眠といった原理的な欲求を満たす行動ならともかく、犯罪という社会的な行動を直接喚起するDANは存在しえるのでしょうか。
 私はDNAの専門家ではないので結論は出せませんが、恐らくないだろうと思います。仮に何かの犯罪行為を喚起するDNAがあったとして、その行為が犯罪かどうかは結局時代や状況によるので、あるとまで結論することはしにくいでしょう。
 直接犯罪行為を喚起するDNAを想定しえないとすれば、犯罪行為に関係する性質を引き出すDNAの存在を想定するのが妥当だということになるでしょう。攻撃性や共感性、対人不安などが考えられます。こうした特性を引き出すDNAというのはあるでしょう。
 しかし当然のことながら、それらの特性が必ずしも犯罪に結びつくとは限りません。下手をすれば、協調性が組織犯罪の片棒を担ぐことに繋がるように、望ましいと思われている特性が犯罪につながる可能性もあります。一応、間接的に先天的に犯罪を犯しやすい人がいると主張は出来ないこともないという感じですね。

 こんな感じで、そもそも犯罪者になるDNAがあるという知見は今のところ得られていませんし、間接的に支持する根拠もあるかなー程度のものです。ただこれにしたって特定の民族と結びついているわけではありませんし。 

犯罪とDNAの関係 犯罪は特別な人による行為か

 都知事選が終わり舛添都知事が誕生しげんなりしています。某脳科学者の表現を借りれば「東京だせー」になるのでしょうか。
 都知事といえば、この前読んだ師岡康子著『ヘイトスピーチとは何か』において差別発言の見本市として石原慎太郎元東京都知事の発言がいくつかまとめられていました。その中に興味深い発言が含まれていたのでその部分を引用します。

 中国人に対しては二〇〇一年五月八日『産経新聞』の「日本よ」と題する文章において、中国人同士の犯罪事件に関連し、「こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することで、やがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れがなしとはしまい」と書いている。中国人が犯罪者となるDNAを有するというナチス張りの発言である。

 このような「特定の民族が生来的に犯罪者となるDNAを有する」という理論は差別主義者によく見られる発言です。すこしTwitterを検索してもこの手のツイートを見つけることは難しくないでしょう。では犯罪心理学の世界ではDNAなどの生まれ持った性質がどれほど犯罪に影響すると考えられているのでしょうか。

 生来的犯罪説と犯罪の遺伝
 19世紀、イタリアの犯罪学者ロンブローゾは生来的犯罪説を唱えます。この理論では犯罪者には身体的特徴がみられ、彼らは動物的生活への先祖返りだとされました。しかしこの理論はロンブローゾがデータに手を加えたなどといわれて現在では否定されています。
 また20世紀にイギリスの学者であるゴーリングは兄弟の片方が刑務所に入っている場合のもう片方の刑務所収容歴を調べました。結果は一般の兄弟で8%、二卵性双生児では12%、一卵性双生児では77%でした。しかしこれものちの研究で否定されています。

 結論から言って、少なくとも犯罪が遺伝するということはあり得ません。それは「犯罪とはそもそもなにか」ということに関連しています。

 犯罪は社会的行為である
 念のために言っておけば、社会的行為というのはあくまで様々な人との関わりあいの行為であるという意味であってこの言葉には物事の善悪の判断は含まれていません。
 犯罪というのは何をもって犯罪だとされるのでしょうか。まず第一に被害者が「これは犯罪だ」と訴えることです。しかしそれだけでは十分とは言えません。犯罪が犯罪たりうるにはその行為を「確かに犯罪だ」と認める第三者の存在が必要です。これを裁定者と呼びます。犯罪とはこれらの人々が関わる「社会的」行為なのです。当然社会あるいは裁定者によって同じ行為も犯罪かどうかの評価は変わるわけで、そんなものを遺伝したなどと表現はできません。
 「行為」という点も重要でしょう。行為は蜂のダンスのような本能的な行動でない限り生まれつき知っていることなどありえないのです。私がこうしてブログを書くという行為ができるのも生まれた後に学習したためです。まさか生まれつきパソコンの使い方を知ってるわけはないので。
 こういうと「犯罪は遺伝しないが攻撃的な性格などは遺伝する」という人もいるでしょうが、この意見には「攻撃的な人も全員が犯罪者ではない」という視点が抜け落ちています。攻撃的な性格がすべて犯罪に直結するとは限らないので攻撃的な性格=犯罪という単純な図式でとらえるのは間違いです。

 犯罪は普通の心の延長上にある
 差別主義者が特定の民族をさして生まれついての犯罪者だという理屈を使う背景には「犯罪者=自分より劣っている」という犯罪への無知からくる認識が「特定の民族=自分より劣っている」という差別心からくる認識と結びついて「特定の民族=犯罪者」へ発展したということもあるでしょう。しかし犯罪は特別な人が起こすものではありません。我々も今までの人生が少し違っていたら犯罪者となっていたかもしれないし、その可能性はこれからもあります。

 犯罪を理解するにはまず、犯罪は特別なものだという認識を捨てねばなりません。 
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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