九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

社会学

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【記事評】スペシャルインタビュー『セサミストリート』リリー(THE BIG ISSUE JAPAN364号)

 先日、少し遠出をしたときに、偶然『ビックイシュー』を販売する人に出会いました。
 ちょうどその時、気になっていた記事もあったので、バックナンバーであった364号を購入しました。今回はこちらの内容について触れていきます。

 『セサミストリート』の挑戦
 インタビューに登場した『セサミストリート』のパペット、リリーは家族でホームレスになっているという設定のキャラクターです。

 もともと、『セサミストリート』はエルモやクッキーモンスターといった、可愛らしくコミカルなキャラクターで人気を博していた児童向けの番組です。しかしながら、近年ではリリーのほかに自閉症のジュリアやHIVキャリアのカミといった、社会的にも重要ながら番組では扱いの難しいと思われるキャラクターを多く登場させています。

 犯罪学ブログ的には、父親が投獄されている設定の少年アレックスが注目です。

 このようなキャラクターの登場は、実際のアメリカの状況を反映しています。アメリカでは現在、250万人の子供がホームレスの状態にあり、その半数が6歳以下の子供であるといわれています。
 リリーは元来、食料不安を抱える子供として番組に初登場しました。食料不安は低所得者が陥る状態であり、ホームレスの前段階であるといわれています。

 「見えにくい子供」を可視化する
 あるホームレス支援に携わる人はインタビューで、リリーのような境遇にある子供は、自分のような境遇にあるのは自分だけだという孤立を感じているといいます。『セサミストリート』という大きな番組において、自分と同じ境遇にある子供が描かれることには大きな意味があるでしょう。また、番組を通じて、自分のような子供を気にかけてくれる大人がいるということを知ることもまた、彼らを支えることに繋がるはずです。

 番組は、ウェブサイトに掲載する子供向けの教材の作成から始め、専門家のフォーカステストを経てリリーの登場まで作り上げました。このような膨大な道のりの中に、専門家の知見を重視し、番組作成に取り入れる製作者の真摯な態度が表れているといっていいでしょう。

 もし子供がホームレスについて聞いてきたら
 子供がもし、ホームレスについて尋ねてきたらどうするのか。このような疑問もインタビューでは取り上げられています。リリーの生みの親である一人は、偏見や判断を加えずに具体的に教えるべきだと指摘します。「あの人はなぜ道路で寝ているの?」と聞かれれば「あの人にはいま、住む家がないんだよ」などというように返せばよいでしょう。

 「普通とは違う」人々に子供が関心を向けるのは当然のことでしょう。重要なのは、その関心を偏見につなげないように気を使いながら、疑問には明確に答えていく態度が大人には望まれています。


事前連絡と障碍者の公共交通機関利用

 鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪。車いすでも搭乗できるように設備を整える。
 バニラ・エアが謝罪 車いす客に自力でタラップはい上がらせる-ハフィントンポスト
 この件です。私からすればどう考えたってバニラ・エアに非があるし、航空会社が改善すればそれで済む話だと思うのですが、そうは考えない人もいるようです。

 事前連絡という負担
 確かに、公共交通機関を利用する障碍者の側が予め連絡しておけば済むというのは一面事実です。しかし、それで済ませてはいけないという主張があります。
 かつて、車椅子に乗った人がバスへの乗車を拒否されるということがありました。バス会社の言い分は、介助者がいなければ安全が確保できないというものでした。
 これへ痛烈な批判を加えたのが、脳性まひ者の組織「青い芝の会」に属していた横田弘氏です。氏の著作である『障害者殺しの思想』では、その理由が述べられています。曰く、バス乗車に介助者が必要となれば、障碍者が外出に負担を感じるようになり、それが外出を抑制することになるというのです。
 我々は言うまでもなく、バスに乗るのに特段気を付けたりすることはありません。乗りたいときにふらっと乗り、行きたいところへ行くことができます。しかし障碍者はそうではないのが現状です。移動に困難を抱える者であれば、誰かの助けが必要になるかもしれません。そうなれば、介助者の日程調整や打ち合わせが必要になり、好き勝手な外出は事実上不可能になります。
 これは、バニラ・エアの問題でも取りざたされている「事前連絡」でも同じことが言えます。公共交通機関の利用に逐一事前連絡が必要となれば、それを利用した外出は著しく抑制されます。使う機関を調べて連絡して……というのは労力がかかるからです。時間がずれれば改めて連絡しなければいけないかもしれませんし、何かの理由で使う駅などが変われば「準備していない」と門前払いを食らうかもしれません。

 障害者差別解消法と合理的配慮
 平成28年4月から、障害者差別解消法が施行されています。この法律では、障害者を差別することが禁止され、合理的配慮を行うことが求められています。航空会社が飛行機の乗り降りに必要な機材を空港へあらかじめ用意しておくことは、この合理的配慮に含まれると考えていいはずです。

 男性が活動家だったからといって
 この件で男性が活動家だったことを指摘する声もありますが、それが今回の事例を考える際に何か影響するとは到底考えられません。むしろ、氏が今までにそのような活動を行い、そして今回の事例もしつこく問題化したことは、空港における障碍者差別を可視化し今後の改善につながる可能性を高めることになります。
 日本人は活動家という人種が嫌いな人が大勢いるので、当事者が活動家であることを指摘することが何かの決定打のように論じられる場合をよく見るのですが、実際には当事者が活動家であることはその事例をたいして説明しないことがいくらでもあります。

 ここで重要なのは、事前連絡すればいいじゃんで済む話かどうかではなく、障碍者が健常者に比べて負担を強いられているかどうかです。現実にはどうしようもなく負担がかかる場合もあるでしょうが、それは本来なくすべき負担ですし、そうなるように社会は努力していくべきなのです。

【書評】犯罪の世間学

 今回は、図書館の新着図書でたまたま目についた一冊。新着っていうか学生選書ってやつですか。大学の図書館ではどこでもやる企画ですが、それが我が大学でも行われていて、毎年地味に楽しみにしています、大量に新しい本が入ってくるという意味以外で。入ってくる本を見ると、ああこの本とこの本は同じ人が選んだなみたいなことがなんとなくわかって楽しいです。わかってるじゃねぇか……と言いたくなるものもしばしば。

 世間学ってなんぞ
 で、本書なんですが、世間学という学問の視点から犯罪のあれこれについて書いているというものです。その内容についていろいろ突っ込みたいのは山々なんですが、まずはっきりさせておく必要のある部分があります。それは、世間学ってそもそもなんだよという話です。
 世間学というのは、日本特有の文化である世間について論ずる学問です。世間学会なるものもあるくらいですから、社会学では比較的ポピュラーな勢力なんでしょうか。……と検索したところ、この学会、所謂普通の学会とは雰囲気を異にしているんですよね。あくまで心理学基準での印象なので、社会学ではこれがスタンダードだと言われればぐうの音も出ないわけですが、1回の学会の研究発表が2件とか、学会誌が学術雑誌っぽくないとかいろいろ疑問があります。
 世間学の主張そのものにも、私は疑問があります。世間学は、まず日本には法と権利を第一とする社会が存在せず、代わりに「贈与・互酬の関係」と「身分制」のルールが支配する世間があるとします。前者は「貰ったらお返しする」的なやつで、後者はカースト制のことですね。そして世間学は、このような世間は日本にしかない断言します。
 しかし、そもそも「日本にしかない」と断言できる文化がどれくらいあるかという疑問があります。百歩譲って西欧には見られにくいのはその通りっぽい気がしますが、中国や韓国といった、文化的に相互作用のあり歴史的経緯にも比較的近しいものがある文化にまで全く当てはまらないなどということがどのくらいあるのでしょうか。
 世間を構成する「贈与・互酬の関係」と「身分制」は、どこにでもみられます。前者は、それを動機づける返報性という人間一般の性質として明らかにされていますし、後者は「カースト制」という表現を著者自身が使っていることからもわかるように、アメリカにだって存在するものです。これらの要素プラス「法や権利の軽視」が世間の定義だとすれば、アジア圏の集団主義的な文化を持つ国や、欧米でも田舎の方では世間と表現しても差し支えない文化が存在してもおかしくないと考える方が自然ではないでしょうか。
 無論ここまでの推論は私の推論でしかないわけですが、少なくとも本書では「本当に世間が日本にしかないのか」「日本に社会は本当にないのか」といった論点に関する立証を書いているのは事実です。本書の主目的がそこにはないとしても、「日本以外に世間はない」というほど強い断定を本文中で何度も使用している以上、世間学を説明するくだりで軽くでも立証がなされるべきでしょう。
 まあ、本当にそもそも論を言い出したら「本当に世間が日本にあるのか」という部分も論証を書いていると言えるわけですが、世間が元々日本の社会情勢をもっともらしく表現するように定義されているのだとすれば、それはあまり意味がないでしょう。

 その現象、日本特有?
 本書は世間が日本特有であるという立場に立っているので、世間が導いた現象も当然日本に特有であるという主張がなされます。しかしこれも、論証を欠いているのは言うまでもありません。
 例えば、裁判においては世間の「ゆるし」が被告の刑罰を左右すると本書はしています。確かに、情状酌量的な要素はクローズアップされますし、起訴便宜主義はそのような要素が犯罪者の将来を左右する可能性を高めています。
 しかし、これが世間のある日本に特有かと言えばそうでもないでしょう。無論、日本ほどではないにせよ、海外でも犯罪者の態度や更生の可能性といった要素が処遇を左右することはあるはずです。というか、日本の司法のシステムが欧米をモデルにしている以上、多かれ少なかれ必ずあるでしょう。
 他にも、子供が罪を犯した時に親が謝るとか、家族が嫌がらせを受けるみたいな話も日本に特有としていますが、疑問があります。せめて欧米には少ない程度にしておけばよかったのに、全くないとか言い出すからこちらも懐疑的にならざるを得ないのですが。

 世間を経由する必要は?
 著者は、世間は犯罪を抑止も促進もすると言います。そのうち、促進をした例としていくつかの事件をあげ、世間という言葉を用いて理由を説明しています。しかし、この説明を世間という言葉を使用してする必要がどこまであるのでしょうか。
 著者の説明は、要するに犯罪者となった人物のソーシャルキャピタルの欠如が犯罪を引き起こしたと言っているようなものです。であれば、日本の犯罪に対してにしか利用できない「世間」なる言葉をわざわざ用いて説明する必要はないでしょう。そもそも、本書に出てくる犯罪自体日本に特有である訳ではないのですから(というか日本に特有の犯罪ってなんだ)。既存の用語を利用したほうが、世界中の犯罪を説明することができ、かつ実証の後ろ盾も得られると思うのですが。

 本書の主張はいちいちもっともらしいです。しかし、もっともらしいことと正しいことには天と地ほどの開きがあります。本書はもっともらしいことを書くのに終始していますが、つまりそれで終わっており、それが本当かという疑問に耐えられるものになっていないということです。
 社会学の姿勢というものをよく知っているわけではないのですが、このように「もっともらしいけど本当かは微妙」な論考ばかりが乱造され、出版され社会学のラベルを張られて世に広まるというのは社会学にとってプラスなのか気になるところです。 
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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