九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

被害者学

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正論7月号『せいろん女子会』批判 なぜ女性も「被害者にも下心」などと言ってしまうのか

 さて、前回『』という記事で正論の記事を批判しました。実は『正論』の今回の号ではセクハラに関係する記事はこれだけではありません。『せいろん女子会』という不定期連載記事でもセクハラを取り上げています。
 このせいろん女子会、今回の構成は司会に加え女性3名に男性1名というものでした。それでセクハラの話題をするのですが、気になるのはその中で行われたある会話です。

 被害者もいるのに
 『正論』誌上でセクハラと言えば、「被害者にも非が、下心が」云々という議論になるのは予定調和といえましょう。
 しかし気になるのは、女性が3名もいる座談会で、しかも1人はセクハラの被害にあったと言っているにもかかわらずそのような論調になっているという点です。これはいったいどうしたことでしょうか。

 望ましい被害者像が背景か
 本誌で主に取り上げられていたのは福田前事務次官によるセクハラです。これは朝日テレビの記者が隠し撮りした音声が公開されたことで特に話題になりました。そのような点が、前回記事で取り上げた座談会でもそうでしたが保守派の人々の間で注目され、「実はネタを上げるためにわざとやったのではないか云々」という勘繰りを生むことになったのです。
 一年もたっているのにとかいう、典型的なあれにはもはやわざわざ突っ込みを入れませんが、よしんば記者が次官のセクハラ発言をネタとして上げようともくろんでいたとしてそれは果たして問題のあることなのでしょうか。公務員、しかも霞が関のトップに立つ次官が外部の人間にセクハラ発言をしているという事実を報じることは公益に資するものです。またある事件の被害者が、その被害を「利用」して成功を収めたとしても、その利用の仕方に問題がなければ責める理由にもなるとは思えません。人というのはある種自分の経験を切り売りすることで社会的な成功を収めるものですし、この事例ではその経験がセクハラ被害だったというだけの話でしょう。

 しかしこのような、したたかな被害者というのはとりわけ保守派にとって評判の悪いものです。準強姦被害にあったジャーナリストの伊藤詩織氏が『ブラックボックス』を出版した際にもこの手の批判はありました。別段売名になっていないような事例にすらあるくらいです。そもそもこのような批判は、名前が売れるメリットとバッシングが集まるデメリットの差し引きができておらず、何よりこの手の批判が登場することそれ自体が、被害を公表することそのものは売名に使うにはあまりにも負担が大きいことを証明しています。
 ともかく、したたかな被害者はあまり同情を集めにくい傾向にあるのですが、それはおそらく「セクハラ被害者はこういう人に違いない」という「望ましい被害者像」というものが暗黙の内に了解されているからなのではないかと思います。
 かつてはすみとしこが「そうだ難民しよう」というあまりに有名で愚劣な絵を描いた際に、このブログで『「望ましい被害者像」という偏見』という記事を書き「望ましい被害者像」について指摘しました。あの記事の指摘はセクハラ被害者にも当然当てはまります。

 保守派がセクハラ被害者に対しどのような被害者像を持っているかはわかりません。「セクハラは全部女のでっち上げか大げさ!」と思っていても不思議ではありませんが、少なくとも自身の被害を契機に社会へ発信しようという姿勢が含まれているとは思えません。ここには「身内の話を外へ持ち出された」という歪んだ被害者意識もあるでしょうが。
 しかし被害者というのは千差万別で、中には客観的に被害リスクを上げる行動をしていたり、被害と直接関係ないけれど人間的に酷いなという人だっているかもしれません。ですがそのことは被害者の被害を相殺したり加害者を免責することには繋がりません。被害者の訴えを疑う理由にもです。

 このような望ましい被害者像の偏見からは、女性も逃れられません。しかし驚いたのは、実際に被害を受けてもなおその偏見を保持し続けている様子が見られたことです。このような偏見は実際の被害者が「望ましい像」から出たときに罪悪感を感じる原因となり、そういう意味でも有害です。

 やっぱり貧困な「批判者像」
 前回記事で指摘したことと同様ですが、自分が批判しようとしている相手への理解があまりにも貧困である点も目につきました。MeTooがTOKIOの山口を批判していないというもう見飽きた主張すらあります。MeTooがネットで中心的に盛り上がった運動であることを考えると、そこで発言していた人たちが山口の事件でも批判的な言説を展開していたことに気づくはずなのですが。
 また福田前事務次官のセクハラで麻生大臣まで責任を問われるのはおかしいという主張もされていましたが、彼らには麻生の失言の数々か聞こえていなかったのでしょうか。麻生も部下のセクハラだけならまだ辞任を求められることはなかったでしょう。彼が責められている最大の原因は、『性犯罪内閣にセクハラへの正しい対処法を教えよう』や『麻生太郎のセクハラ擁護発言は「ネットの議論」の本質をついている』で指摘したような失言です。保守派が麻生のような明らかな失言を批判しない理由が不思議でしたが、もしかすると彼らには麻生の声は実は聞こえていないのかもしれません。

 望ましい被害者像、そして貧困な批判者像から脱するには、結局のところセクハラやフェミニズムに関連する書籍を読み、先人の言葉や知識を蓄えるしかありません。少なくとも自分が直面している問題に自分の思い込みではなく、真正面から相手の言葉を見据えて受け止めるという知的な営みを徹底しなければいけないでしょう。
 せいろん女子会のメンバーがまずすべきなのは、『正論』を捨て街へ出ることです。

犯罪学者が実際に「山口メンバーについて行くほうも行くほうだよね」発言に直面した話

 ちょっともやもやしつつ、時間をおいてまとめてみます。
 私は貧乏学生なのでバイトをしながら日々つつましく生きています。職種は学習塾です。
 さて、ちょっと前にその塾のバイト学生や社員を交えた飲み会がありました。4月に入った新しいバイトを歓迎するという名目のあれです。10人くらいで卓を囲み適当に飲んでいたのですが、あるとき、何かのきっかけでTOKIOの山口メンバーが犯した強制わいせつ事件(ちなみに、すでに強制わいせつ罪は改正され強制性交等罪になっているはずなのに、どうしてこう報じられているのだろうか。私も最近気づきましたが)の話になりました。まぁ世間話としてありえることでしょう。
 しかし私は、その話題の中で耳を疑う発言を聞くことになります。

 「山口メンバーについていく女子高生も女子高生だよね」

 この発言者はバイト先の塾の社員、女性です。
 学習塾には当然、被害者と同じ年代の女子高生も通っています。場合によっては学校や家での出来事を相談されるかもしれない立場にあります。言い換えれば学校や家庭で発生する性的虐待被害の相談先になる可能性が、大げさではなく存在しているという立場です。
 しかし実際に飛び出したのはあの発言でした。しかもその後も、「示談金をもらっているのに騒いでいる」とネットで拾ってきたかのようなセカンドレイプ発言がどこからか飛び出す始末でした。

 そのとき犯罪学者は何をしたか
 さて、そのような発言に直面した私は何をしたでしょうか。非人道的な発言にぶち当たった犯罪学者、大上段に構え大立ち回り……だったらカッコよかったのですが、実際には大したことはできませんでした。だからこの記事は、私の反省と次に同じような状況に行き会ったら何ができるかという模索の記事です。

 まず、私はとりあえず「示談金をもらっているのに騒いでいる」という最悪の印象くらいは何とかしなければなるまいと思い、示談金をもらったという部分を否定しました。実際にはこの点は明らかではありませんが、そこは犯罪心理学者(大学院生は研究者として名乗るべき立場でしょう)の立場で押し切りました。
 本来であれば次に、どういう背景があれ被害者の非を言い立てるべきではないことを説くべきです。しかしできませんでした。第1に、飲み会という席に、みんなでワイワイ雑談している席にそういう話をぶち上げることが憚られたということです。要するに我が身可愛さにビビったというわけです。
 バイトをしなければ食っていけない私は今後もこの塾で働かなければいけません。大学院生になってから劇的な変化があったとすれば、バイトに一向に受からなくなったことです。大学生の時は1度たりとも面接に落ちたことはなかった人間が、人間の能力としては格段にレベルアップしているはずなのに肩書が変わっただけで2度も滑ったという経験はなかなか衝撃的でした。バイト先に居づらくなるようなことは避けたかった。

 そもそも虚を突かれてうまく話ができなかったという理由もあります。正直楽観視していました。確かにネット上には酷い言説があふれ、中にはそういう言説をリアルで見聞きしたという話もあります。しかし勤め先は学習塾、平均よりはだいぶ人道的な人たちの集まりだろうと思っていました。また実際にそんな発言をする人物に会ったことがないというのもありました。親はわりとリベラルな方で、家でもそんな話は聞いたことがありません。学友もまぁ、いま思えば少なくとも私の前でそんなうかつな発言をしない程度には賢かったわけです。だから実際に直に発言を聞いた時には「これが噂の!?」と驚きが先に来て固まってしまいました。

 そして何より、この状況で分かりやすく「どうあっても被害者に非はなく云々」と説得する言葉を持っていなかったということにつきます。過去に『セクハラ・性犯罪への対処で被害者をまずは信じるべき理由』で書いたように、理由はいくらでもあります。だから準備して時間をかければ納得させるくらいなんとかできるという自信はあります。今でも。しかし発言が飛び出したその状況というのは飲み会の席での雑談です。みんなが見ている中で会話の流れをぶった切り長時間しゃべり続けることは難しい。いま思えばそうしてしまえばよかったかもしれないと思いつつも、やはり難しいでしょう。
 そもそもナチュラルに「被害者に非がある」と言ってのける人にどのような言葉をかければ、わかりやすくその誤りを正せるでしょうか。社会で生きていく上でのルールが根底から違うという状況で「わかりやすく説明する」ということは不可能です。「因数分解を説明しなさい、ただし目の前の生徒は掛け算がわからない」と言われているようなものです。

 またその席では、なぜ山口メンバーがあんなことをしたのかという質問もされました。これも簡単に説明するのは、ある種のフェミニズムの理論を下地に持っている人には簡単ですが、それがない人には非常に難しい問題です。「被害者をバッシングする風潮が背景にある。彼は男が女を所有するのは当然だと考えていたからだろう」などといえば、わかる人には何となくわかるかもしれませんが、私の目の前にいる人には無理でしょう。後の会話で分かったことですが、セクハラが同性間でも成立しうることすら理解できていなかったのですから(初期研修で一応、不適切な発言をしないように言われてるんですが)!
 あるいは、極端なまでに簡単にすれば「お前みたいなのがいるからだよ!」となるわけですが、こんな真正面からケンカを売るようなことを言えるはずもなく……。

 次はうまくやれるのか?
 このような失敗、ある種の完全敗北を経験したのちに、次回また同じような状況に行き会ったときに何ができるでしょうか。私は今後もこの職場で働きますし、両親はわりあいリベラルとか言いましたが実家はクソ田舎なので旧態依然男どもの巣窟でもあるわけです。兄貴もネトウヨだし。だから同じような場面は今後何度でもあるでしょう。
 理想を言えば、やはり空気を読んではだめで、言うべきことを言うのだということに尽きるでしょう。しかしできたら苦労しないというわけです。
 ある種当事者から少し離れた距離にいる男性の私でもこのような苦悩を抱えるわけですから、当事者により近い女性の苦労はこの比ではないでしょう。また直に二次被害に晒される被害者の心境はいかばかりか。マジョリティはマイノリティに説得されても聞く耳持たず、同じマジョリティに説得される方が聞いてくれるという話もありますから、男こそがこの話を発信すべきなので泣き言を言っている場合ではないのですが。

 空気を読まずに発言せよという理想を迂回する方法があるとすれば、唯一「外堀を埋めて地道にストリームを作る」しかないのでしょう。どんな愚昧な人間でも、セクハラ発言が公然と咎められるような社会なら公言することはありますまい。ただそのようなストリームを作るにも、結局は直接の対決は不可欠なわけで、やはりこればかりは空気を読まずに発言することをちょっとずつでもいいからしていくしかないでしょう。
 1回目がだめなら2回目を、それがだめなら3回目を。少しずつでも言っていくしかないかもしれません。空気を読まないのはやはり怖いことですが、実際に二次被害に直面する被害者の苦しみに比べればかなりましなのですから。

#今度は福島がTOKIOを応援する番だ って、それ今やる必要ある?

 私が『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を見ている間に、Twitterではこんなハッシュタグがトレンド入りしていました。
 なるほど、TOKIOの山口メンバーのしたことは擁護できない、けれどTOKIOには感謝してます!ということらしいです。

 しかしそれ、いま言う必要ありますか?

 過去の功績で罪を無化する恐れ
 このような主張は一見もっともらしいように見えますが、かつての功績でその人の加害を帳消しにしようとする動きになる恐れがありますし、現にそうなってます。
 まぁ確かに、山口メンバーのしたことでほかのメンバーまで不利益をこうむるのは可哀そうだなという気はしないでもないです。しかしそもそもその不利益は彼が犯罪を犯したために生じたものであり、TOKIOというグループで活動していた以上その悪評が自分にもまとわりつくのは甘んじて受け入れるしかないでしょう。
 福島県ではTOKIOの写真を使ったポスターを撤去しているようですが、これもやむを得ないことです。「TOKIOはいままで頑張ってくれたのに!」とかそういう話ではなくて、いまこのタイミングでTOKIOのポスターは使い続けることは性犯罪を容認するメッセージにしかならないからです。むしろ撤去という判断は行政として妥当でしょう。

 これもまた1つのレイプ神話か
 功績のある男性がその立場を笠に着て女性を加害する。女性はそれを訴えるけど「でも彼もいいことをしたよね」と被害を矮小化される。というのは性犯罪を取り巻くストーリーとしてはひどくありきたりです。
 いうまでもなく、かつてどのような功績を残した人でも罪は罪です。第一功績と罪とは加減乗除で計算できるものではなく、罪を犯せば即座にマイナスになってその責任を取る必要が出てくるものです。

 しかし今回の事例のように、とりわけ性犯罪では功績によってその加害を無にしようとする動きが普遍的に存在します。それを実行している本人はそのつもりなんてさらさらないでしょうけど、ちょっと立場を変えて自分が被害者だったらと考えればわかるはずです。自分に被害を与えてきた人とその人が属するグループについて、周りの人間が「いやぁでも、いいこともしていたよねと」と口々に語ること、そのおぞましさたるや。

 加えて、山口メンバーがアルコール依存症であるのではないかという話も出ていました。確かにそれも一因かもしれませんが、ことさらにその要素を言い立てるのも、結局は加害者の加害性を減じる試みになっているのではないかと思います。アルコール依存症の全員が加害をするわけではありませんし。

【書評】加害者家族

 ちょっと読んでから時間が空きましたが、加害者家族の現状についていろいろと書かれた一冊です。まぁ結論から言うと読んでるとげっそりしてくるって感じなんですけど。

 やっぱりマスコミが禄でもない
 あまり安直にマスゴミマスゴミというのも嫌なんですが、『新版 犯罪報道の犯罪』でも描かれていたようにマスコミの取材というものの酷さは加害者家族に対しても同様のようです。馬鹿の一つ覚えのように家へ押しかける取材攻勢は近隣住民の反感も買い、その反感が加害者家族に向かうという悪循環を生み出しています。
 そもそも、被害者のことを記事にするのと同様、加害者本人ではなくその家族を記事にすることにどれくらいの公共性があるのでしょうか。読者が知りたいと思っているから報じるんだ、マスコミが報じるから読むんだという責任の擦り付けあいではなく、本当にその報道が公益に資するかどうかを互いによく考えていくべきでしょう。さもなくば『新版 犯罪報道の犯罪』で著者が指摘しているように、政府に表現の自由への介入を許すきっかけにもなり得るのです。

 誰かを攻撃しないと気が済まない人々
 もう一つ、気になったのは加害者家族を取り巻く人々のあんまりな冷徹さです。子供の通っていた学校の対応しかり、近所の住民の対応もそれなりに酷いのですが、報道に応じてどこからともなく湧いてくる人々の攻撃性は気味が悪いほどです。被害者やその遺族がそういう攻撃性を持つのはまぁ気持ちはわかるのですが、お前らは別に何もされてないやろうと。そう思うのですが彼らの行動力がどこから来るのかは謎です。

 本書ではワールドオープンハートという加害者家族の支援組織が紹介されています。現状は詳しく知りませんが被害者支援もまだまだ発展途上という日本の現状では加害者家族の支援はまだまだ広まっていないでしょう。犯罪によってダメージを受けるという意味では加害者家族もまた被害者であるという言い方もできますし、どうにかして支援体制を整えられればいいのですが。

 鈴木伸元 (2010).加害者家族 幻冬舎

【書評】殺された側の論理 犯罪被害者が望む「罰」と「権利」

 今年初の書評はうまいこと手に入れることのできたこの一冊。ルポなので視点が被害者遺族側へ視点が偏るのは当然なんだけど、それでもなんだかなぁという気がします。

 「被害者の権利」と感情との狭間で
 本書には著者が取材した、被害者家族や遺族の経験や主張が多く盛り込まれています。光市母子殺害事件から警察の無理な追跡によって殺されたという事例まで、読めば「あぁあの事件」となるものも多くあります。
 本書がしたためられた当時、そして今も救済措置が不十分であるために被害者やその関係者は被害の苦しみに加えその後に続く苦しみにも耐えなければいけません。事件の概要すら満足に知ることができない、裁判の傍聴も難しい、一家の大黒柱を失った経済的苦境も脱することができない等々。
 そのような苦境は当然解消されるべきです。今もって不十分である被害者の権利の拡充は国家の急務であり、制度改正は速やかになされるべきことです。
 しかし一方で、遺族から出てくる加害者の厳罰を望む声には首を傾げざるを得ない面もあります。いや、遺族が加害者を殺したいとまで思うのは当然であり、その個人的な感情を吐露することを否定はできないでしょう。問題は加害者個人に対する思いと国家の制度として加害者への罰がどうあるべきかという議論がまぜこぜになっていることにあるのです。いやいや、被害者遺族がそこを混同してしまうのは当然でしょう。被害者遺族の立場になったときにそこを分けて考えることができる人はほとんどいないでしょうから。

 では何がそんなに引っかかるのかといえば、それは被害者遺族のそのような切実な願いを前面に押し出すことを通じて自身の考えの代弁としようとしているかのごとき著者の態度が透けて見えるからでしょう。
 そのような態度は、主に取材ノートと題されたパートにおいて遺族たちが見せる単純な事実誤認が本書において注釈や括弧書きという手段ですら何ら訂正がなされないという書き方に現れています。学問的には犯罪学の素人である遺族が誤認をするのはやむを得ないとしても、無期懲役でもすぐ出てこれる(実際は年に数人しか仮釈放されない)や外国では死刑廃止の代わりに銃殺が増えた(根拠はない)などは紙面で指摘するくらいはしないとデマを書いているのと変わらないでしょう。
 また後半の部分には犯罪心理学者の小宮信夫が同席していますが、遺族の誤解をむしろ促進するような発言もしていたりして問題があります。

 遺族に見える「刑事裁判認識」のずれ
 また遺族の発言を見ていると、刑事裁判に対する認識において、とりわけ弁護士会のような立場の人たちとの違いが明確に読み取れます。
 遺族は刑事裁判を加害者と被害者が対決する場だと位置づけているようです。これは自身が当事者である以上当然の見方でしょう。しかし本来刑事裁判は加害者と彼らを起訴する国との対決であり、弁護士はたいていこちらの見方をしています。日弁連が裁判における被害者参加に否定的だったというのも、この見方に基づけば被害者の登場で裁判官が厳罰に傾き刑事裁判においては弱者である被告の不利益に通じるのではないかという懸念があったのだろうと思われます。
 このようなずれがあるために、本書で語られているように遺族は日弁連のような立場の主張に反発をしてしまうのでしょう。

 「制度がどうあるべきか」という議論を
 刑事罰、加害者の処遇を語るうえで重視すべきなのはまず国家の制度としてどうあるべきかです。私は感情論を否定しません。遺族が加害者への恨みを抱き厳罰を求めるのは当然でしょう。しかし我々のように遺族ではない立場の人間はそのような「遺族の気持ち」に安易に同化しわかった気にならず、制度としてのありようを議論すべきでしょう。
 本書にまさに書かれているように、被害者遺族といえども千差万別であり、「生きて償ってほしい人ばかりではない」のです。それは裏を返せば「厳罰を望む人ばかりではない」ということでもあります。当事者の気持ちは当事者になってみないとわからず、また当事者になっても別の当事者の気持ちはわかりません。

 藤井誠二 (2007). 殺された側の論理 犯罪被害者が望む「罰」と「権利」 講談社

被害者の動向を云々するのは百害あって一利なし

 日馬富士の暴行事件に関して、ワイドショーをぼんやりと眺めていますが、最近はすっかり「日馬富士はビール瓶で殴ったのかどうか?」「貴乃花親方の思惑とは!」みたいなくだらない論調ばかりになっています。

 被害者の動向は「不可解」か?
 特に気になるのは、被害者である貴ノ岩や関係者である貴乃花の行動を取り上げ不可解だと断じ、その背後にある「思惑」というものを読み取ろうとする報道が後を絶たないということです。
 被害者の行動が不可解だとされているのは、主に事件後も巡業に出ていることと被害届を協会への説明の前に出していること、協会の事情聴取に応じないことの三点でしょう。しかしここで想定されている「不可解ではない本来の行動」というのはいずれも外野から見たものであり、特段それが合理的という根拠もありません。
 巡業への参加は、貴ノ岩が事件をうやむやにしようとしていた点を踏まえれば意図は明白ですし、そうでなくとも「大丈夫だと思ったけど出てみたら結構きつかった」という可能性もあるでしょう。被害届の件に関しても協会にまず説明すれば隠蔽される可能性は大いにありますし、その後の聴取に応じないのも警察の捜査がすでに入っており方々でしゃべるわけにもいかないという事情があるとすれば説明がつきます。このように、被害者側の行動が不可解であるというワイドショーの前提は実に不確かなものです。

 被害者の行動を不可解と断じる愚
 しかし問題は、マスコミが手前勝手に「被害者本来の行動」を規定しそれから少しでも逸脱したものを「不可解」「裏に思惑が」と報じることにあります。このような報道は明に暗に、被害者の行動に少しでも理解不可能な点があれば被害の責任を帰してよい、加害者を免責してよいというメッセージを発する機能しかありません。
 ビール瓶で殴ろうがリモコンで殴ろうが傷害罪です。その後の行動にどんな思惑があれ、日馬富士の行為の責任が割り引かれることもないはずです。しかしマスコミの報道は、まるで貴ノ岩や貴乃花に何らかの思惑があり、日馬富士はそれに巻き込まれ責任を大きくされていると言わんばかりの報じ方をしています。どちらかといえば相撲協会に逆らう貴乃花けしからんというニュアンスでしょうか。
 このような類の見解は幾度となく見られています。直近の例では伊藤詩織氏の事件が記憶に新しいでしょう。長谷川豊が「なぜこのタイミングなのか!」などと気炎を吐いていましたが、完全にでたらめな見解でした(詳しくは『「なんでこのタイミングで?」と思った人はレイプ神話と親和性が高いよ』)。

 被害者にとって被害は人生でかなり特異的なイベントです。ゆえにその後の行動に不可解なもの、不合理なものが混ざるのも当然です。被害者は混乱するでしょうし、どうしていいかわからないということもあるでしょう。その点を重箱の隅をつつくようにあげつらいことさらに論じるのは、被害を軽視し加害者の責任を減じることで利するだけの行為です。

【書評】なぜ被害者より加害者を助けるのか

本書は、『中国人が多いなら中国人犯罪者も多いのは当然』においてコメントでご指摘のあったものです。
 加害者と被害者の人権問題においては、かねてより本書のタイトルのような物言いが横行していました。本書は、そのような「被害者の人権重視」を装った加害者人権軽視、ポピュリズム厳罰主義の最大公約数的な主張の集積地であるという見方が出来ます。
 本書の著者は警察庁官僚OBの弁護士です。『【書評】通訳捜査官 中国人犯罪者との闘い2920日』においても指摘したことですが、本来公権力を振るい被疑者の人権を制限するが故に、人一倍彼らの人権について慎重にかつ最大に理解すべき立場の人々からこのような安易な主張が謳われることに危機感を覚えます。

 被害者VS加害者ではない
 過去『産経新聞「ストーカー論」への反論』において指摘していますが、被害者の人権と加害者の人権はトレードオフではありません。当然、一方の人権を尊重するためにもう一方の人権に制限をかける必要がある場合もありますが、原則的には双方の人権は最大限尊重されるべきものです。
 本書の問題点は、犯罪に関わるほぼすべての問題を、被害者と加害者の対立構造へ無理やり落とし込み、加害者の人権を軽視することで被害者の人権の充足を図ろうとしていることに尽きます。
 本書では、被害者の人権が十分尊重されていないことを示すために、加害者を引き合いに出し、過剰に保障を受けているかのように書かれています。例えば、被害遺児が就学支援を受けられない一方加害者は少年院で学習を受ける、被害者の医療費は出されないが加害者のものは出される、加害者のプライバシーは配慮されるが被害者は容赦のない取材を受けるなどです。
 被害者への医療費の補助などは当然必要なものですが、国家権力により身体の自由を奪われる加害者にも、生存権の観点から必要なもので削ることはできません。また、加害者の保障を削ったところで被害者の保障にまわされるというわけでもありません。これらの保障は、治安対策に使われる費用の総額を増やすように働きかけるべきであり、限られたパイを奪い合うような対立を煽ることに意味はありません。
 また、被害者への保障の乏しさは、社会保障全般の乏しさの問題とも密接に関連しています。貧困層への就学支援が充実していれば、被害遺児への特別な制度が無くとも対応できるでしょう。報道によるプライバシーの問題は、加害者の責任ではなくマスメディアの人権意識の希薄さが原因でしょう。そのような背景を無視して、被害者の直面する全ての問題が加害者への過剰な配慮にあるかのように主張することは、問題の本質を見誤り問題解決を遅らせるだけです。

 なぜ加害者は保護されるのか
 本書は、加害者の人権を擁護することをまるでおかしなことであるかのように語っています。警視庁は入庁試験の科目に憲法を入れてないのでしょうか。
 こちらは『司法において犯罪者は弱者であるという前提』でも指摘したことですが、元々刑事裁判は被害者VS加害者ではなく、原告である検察、つまり国と被告人の対立構造です。国相手であれば、被告人という個人は圧倒的な弱者です。国家からの不当な弾圧を防止するために、容疑者や被告人の権利の擁護が特に気にされたというわけです。
 また、日本は戦前容疑者の権利に無頓着でした。小林多喜二がいい例でしょう。このような前科がある国において、悪しき歴史を繰り返さないために容疑者や被告人の権利がきちんと保障されているかどうか注視されるのも当然です。
 さらに言えば、本書の存在が示すように加害者側の権利の抑圧は、民衆に支持を受けやすいものです。権利の問題を市民の支持を理由に決定することはあるべきではありませんが、民主主義社会においては起こり得ることです。本書では日弁連が加害者の人権を擁護することを批判していますが、弁護士という立場の人間が多数派に追いやられがちな少数派の人権擁護に積極的に関わることは社会正義として求められることです。

 被害者参加制度は必要か
 本書の中核を占めるのは、被害者参加制度の必要性を訴える主張です。
 私は、この制度には慎重派というか懐疑的というか、とにかく諸手を挙げて賛成する気はありません。
 本書では、弁護士が加害者の人権を擁護し被害者の権利の実現であるこの制度に反対するのがおかしいと日弁連を非難する目的で、日弁連の出した声明文(本書での明言はないが恐らく『犯罪被害者等が刑事裁判に直接関与することのできる被害者参加制度に対する意見書』)へ逐一反論をしています。これへの再反論をしながら、私の主張を述べていきましょう。なお、番号と見出しの表現は本書によります。
 ②被告人が委縮する/③被告人の防御の負担が増える
 これは、主に被告人が犯意の否定や相手の過失、過剰防衛のように自身の責任を否定する主張をしなければならない場合を考えてのことでしょう。被害者や遺族がいれば、そのようなある種「言い逃れ」とも聴こえがちな主張をするのは難しくなります。責任感のある真面目な被告人であればなおさらで、被害者のことなど毛ほどにも考えない者が委縮せずに減刑を勝ち取るような皮肉も生み出しかねません。
 ④法廷が混乱する/⑦裁判員制度が混乱する
 「被害者が自分から裁判の混乱を招くはずがない」「裁判員となる国民を馬鹿にしている」と著者は反論していますが、これこそ人間の冷静さ、あるいは法廷の素人の能力を買いかぶった主張と言えるでしょう。
 被害者が自ら混乱を招くことを望まずとも、被告人と対峙した時に冷静でいられるとは限りません。ある程度感情的になるのが普通でしょう。また、そのような感情のやり取りに、裁判員が影響されないと楽観する証拠はどこにもありません。
 ⑥量刑が重くなる
 これに関しては特に著者も反論せず、むしろそうなったら今までの量刑が不当に低かっただけだと居直っています。
 このような主張から著者には、被害者が参加した裁判とそうでない裁判で結果が異なってはならないという視点が欠けていることがよくわかります。
 もし同様の事件でも、参加した遺族がいた場合とそのような遺族がいなかった場合で量刑に差が出たら、それは公平な裁判と言えるのでしょうか。これは上掲の4要素にも言えることです。被害者の参加の有無で結果に差が出るとすれば、被告人が公平な裁判を受ける権利を侵害されていると言わざるを得ません。
 また、①法廷が復讐の場になる⑤推定無罪の原則に反するに関しては上掲の声明文には該当箇所がありませんでした。恐らく主張のどこかを曲解したのではないでしょうか。あるいは他の声明文にあるのかもしれませんが、声明文を明言していない以上批評の方法に問題があることには変わりがありません。
 それと、本書では盛んにドイツとフランスを引き合いに出し被害者参加制度を求めていますが、この2か国では日本と裁判の性質が違うことも声明文で説明されています。

 事例の列挙は根拠なき根拠
 最後に、本書の基本的な誤りを指摘しておきましょう。
 まず、無期懲役が15年程度で仮釈放されるとしていますが、誤りです。昨今では20年を超えないと仮釈放されないのが現状です。
 次に、平成17年における検挙者のうち前科を有するものの割合が49%であることをもって再犯が多いように語っていますが、適当ではありません。この割合はあくまで検挙者に占める有前科者の割合であり、有前科者に占める再犯者の割合ではないからです。初犯者が少なければ大きくなる数字です。
 また、性犯罪者の再犯が多いともしていますが、これは『日本にメーガン法は必要か』で否定しています。もっとも、このような主張を行う人は再犯率がどの数字でも「高い」と言いたてる可能性があるので、まともに取り合う必要はないでしょう。
 厳罰化が犯罪の減少に繋がるという主張も本書に一貫してみられますが、そのような根拠はありません。
 最後に、被害者へのお礼参りや法廷での侮蔑的な発言など、加害者がいかに反省もなくただただ被害者にとって脅威となる存在であるかという事例の列挙に本書は紙幅を割いています。しかし、このような事例の列挙は、そのような事例が一般的であるということを意味しません。
 あるところでは曲がりなりにも統計を使うのに、ある部分では事例の列挙に終始している場合、根拠がないということが多いです。「事例の列挙は根拠なき根拠」と覚えましょう。
 もっとも、一般的だったからと言って加害者の人権を無視していいわけではないのですが。

 後藤啓二(2008). なぜ被害者より加害者を助けるのか 産経新聞出版

荻上チキSession22「少年犯罪の謝罪と贖罪の現実」を聞く!

 浜井浩一氏の出演した回を以前取り上げた(荻上チキSession22「『犯罪白書』から読み解く、ニッポンの犯罪の今」を聞く!)のですが、今回は被害者遺族への取材活動を中心に行っている藤井誠二氏が出演した回を取り上げます。
 2015年12月03日(木)藤井誠二「少年犯罪の謝罪と贖罪の現実」Session袋とじ
 今年は少年Aによる手記出版のために、酒鬼薔薇事件が再注目された年でもありました。その事態を被害者遺族はどう受け取ったのか、我々はそれをどのように今後の議論につなげればいいのか。浜井氏の視点とは違った方向から考える機会になればと思います。

 少年犯罪の謝罪はどうあるべきか
 この放送では主に、少年犯罪のその後とも言うべき、謝罪や贖罪について取り上げています。
 被害者遺族は、事件以後も苦しい立場に置かれることが多いようです。民事賠償には時効もあり、加害者の逃げ得というケースも少なくなく、それを防ぐためには遺族が弁護士費用を出して時間も割いて対応する必要があります。
 現在の少年犯罪対策は、加害少年の更生までを重視していました。謝罪や賠償をどうするのかという視点からのサポートは加害者側にも不足しているといえます。加害少年の両親も、どうすればいいのわからないという現状があるようです。
 また、被害者遺族の感情というのも多種多様で、それは遺族間でもそうですし、1人の遺族の中での時間によって変化するものです。遺族にも、どうやって加害者の謝罪を受けとればいいのかわからない人は少なくありません。賠償を受け取れば、相手を赦すことに繋がるように感じられ、拒否感情もあるようです。
 謝る側も、どうすれば被害者遺族の気持ちに沿えるのかわからず、謝られる側もどうやってそれに向き合えばいいのかわからないという現状です。
 周囲の姿勢も大きな問題があります。厳罰化の議論の中には、被害者遺族感情の発見というタームがあるのですが、それが厳罰化を正当化する理由になってきました。遺族の中には、加害者を許さない被害者像というイメージと自身の感情との齟齬に苦しむ場合もあるようです。

 質的視点を議論へ
 浜井氏のような(あるいは私のような)学者タイプであったりすれば、量的な情報を重視し質的な情報は軽視しかねないむきもあります。つまり、犯罪減ってる!やった!で話を終わらせがちで、遺族感情というものに寄り添うことを苦手としています。減っているからといって、犯罪がなくなっているわけではないので、遺族感情を組むというのも重要です。
 当然、遺族感情を持ち出して刑罰の目的を歪めるような議論は廃さなければなりません。一方で、1人1人のケースを見ていくことでわかることも少なくありません。
 本来質的な視点と量的な視点は議論の両輪であり、どちらが重要というものでもありません。質的な視点からわかったことを、今度は量的な視点から明らかにするということも必要です。
 法務省が加害者の出所後のその後をあまりに詳細に追うと、管理になりかねないという問題もあり、難しい面もありますが、民間の研究者と協力して明らかにしていくべきでしょう。 

性犯罪は季節で増減するか

 2010~14年に県内で強制わいせつ被害に遭った高校生以下の子どもは計177人で、わいせつ被害者全体の51%に上ることが1日、県警のまとめで分かった。高校生が全体の24・5%(85人)を占め、中学生が11%(38人)、小学生が13・5%(47人)、未就学児が2%(7人)などだった。
 一方、ことし発生した強制わいせつ認知件数は、8月末時点で28件で前年同期より12件減少している。
 県内で強制わいせつの被害に遭った高校生以下の子どもの割合は、14年が48%、13年が59%、12年が47%、11年が48%、10年が52%で、5割前後の高い水準で推移している。
 県警によると、秋は性犯罪の発生が増える傾向にあり、昨年は月別で10月に強制わいせつ事案が最も多く発生した。県警は10月から、「あ・歩きスマホをやめましょう」などの標語を書いた「女性を守るあいうえお」ポスターを中学・高校や地域の自治会に配るなどして性犯罪防止を図る。
 わいせつ被害者、半数が小中高生 県警まとめ-琉球新報
 という記事を見かけたので有言実行とばかりに検証しました。確かに、夏は性犯罪が増えるとか言われがちですが、秋は聞いたことがなかったなぁ……。

 東京都の場合
 本来、日本の傾向を調べるのであれば全国での認知件数を利用すべきですが、月別に纏められていないという欠点があったので、今回は東京都のものを利用します。なお、認知件数は年によってそこそこ変動しそうなので平成22年から26年の平均値を使用しました。結果は以下の通りです。
無題1

 どうも夏にかけて件数は上昇し、冬にかけて減少するという推移を辿っているようです。月ごとに日数が微妙に違うので、認知件数を日数で割って標準化したいところですが、そうすると数字が小さくなりすぎ傾向を見ることが出来なさそうなのでやめておきます。
 これで、少なくとも秋に性犯罪が増えるという俗説は否定できそうです。
 ちなみに、刑法犯全体の認知件数についても見てみました。こっちは平成26年だけの数字で、日付で割っています。
無題2

 あんまりおもしろくない結果だなぁというのが素直なところです。ほぼ横ばい。

 アメリカの場合
 たまたまアメリカの状況を分析していた記事(犯罪が発生しやすい時間・季節・日を犯罪種別ごとにグラフ化するとこうなる-Gigazine)を見つけたので、こちらも紹介しておきましょう。数字はシカゴ市のもの、文章中では発生件数と表現していますがおそらく認知件数でしょう。
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 月末に急激に上昇しているのは、おそらく警察側の都合が影響してるのではないかと思います。被害届を受理して、その書類を月末に一気に片付けるとかでしょう。元日に極端に上昇している理由は本当に不明です。
 ざっと見る限り、ほぼ横ばいで、しいて言うなら冬に減少気味かなというところです。少なくとも秋に増えるという説を支持するには至りません。

 季節で増える論は必要か
 今回の沖縄県警の話は、女性に防犯を呼びかける文脈で登場したものです。確かに、沖縄では10月に一番強制わいせつが多かったのでしょうし(月別の統計がなかったので確かめようがありませんでしたが)、増えていれば警戒すべきだという論理展開にもなるのでしょう。
 ですが、牧野氏が指摘するように、季節によって増えるから注意!などと呼びかける人は大抵どのような時期にあっても注意しろというものです。冬になったらなったで十中八九「お酒を飲み機会が増えるから注意しよう!」と言い出すことが目に見えています。このカシオミニを賭けてもいい。
 そして夜は注意しろ、でも日中も油断するなと、結局女性に四六時中警戒を強いることになります。警察なんだから、防犯を呼びかけてばかりいないで「パトロール増やしました」と景気よく言ってほしいものです。
 それはともかく、防犯意識の醸成は大切ですが、そればかりでは被害者への規範を強めるばかりで「何故注意しなかった」などと被害者バッシングの種にもなりかねません。特に性犯罪のような、被害者が訴え出にくく、偏見の付きまとう犯罪ではなおさらです。また、防犯意識を特定の属性の人々に過度に強いることは、犯罪リスクという刃で脅してその人たちの活動を抑圧することにもつながりかねません。
 防犯意識の醸成を偏重し、偏見の払拭や犯罪そのものへの断固たる態度を欠いたバランス感覚の広報活動をしていれば批判が噴出するのも当然でしょう。

「望ましい被害者像」という偏見

 偏見というのは、社会的に否定的に見られている集団にあるものだと思う人はいるかもしれません。しかし実際には、そうでもないような集団にも容易にみられます。
 代表例が犯罪被害者です。レイプ神話という用語の存在が示唆するように、「被害者というのはこういう人物だろう」とか、「被害者かくあるべし」というか、そういう不可解な信念は残念ながら根強く残っています。

 「他人の金をどうこう」という偏見の出所
 こんな話を今回持ってきたのは、こういう絵を目にしたからです。
 この絵には、難民に対するいくつかの誤解と規範意識(かくあるべしという命題)がみられます。
 まず、難民が「他人の金でどうこうしよう」ということを考えているという偏見ですが、戦争状態から逃走してきた人がそんなことまで考えていると想定するのには無理があります。難民に限らず、公害被害者にせよ犯罪の被害者が何らかの補償を求めるときには、この「他人の金をむしろうとしている」といった偏見が何故かついて回ります。彼らがそうした補償を求めるのは、受けた被害の補填や元の生活に戻るための原資として必要であるからであり、そもそもそんな補償を求めなければならないような状況に置かれない方が幸福であることは言うまでもありません。
 このような偏見を持っている人の相当数に、被害者の被害申告を虚偽のものであると根拠なく決めつける傾向があるような気もします。個々の事例が虚偽かどうかはそれぞれで判断するしかないでしょうが、そうした勘繰りが正しかったことはあまりありません。システムとして、大勢に一斉に補償を行えば虚偽の申告をして補償を受け取ろうとする者が少なくとも一定数登場するのは確率的に考えて当然のことですが、それだけをもって被害者の大多数が虚偽の被害者であると結論するのは過度な一般化に他なりません。
 虚偽の申告を考えるときには、特に公害において起こる得ることですが、補償の範囲外ではあるが 被害は受けたという微妙な部分に存在する人々のことも考慮に入れなければなりません。補償の仕組み上どこかで線引きをしなければなりませんが、そこから漏れた人が納得できるわけもなく、訴訟が長引く原因でもあります。国家の勝手な線引きで補償を受けられなければ生活が立て直せないというケースはもちろん、額はどうでもいいから責任を認めさせたいというケースもあるので、このような存在を「なんとしても金を引き出そうとしている」などと解釈するのは早計でしょう。

 被害者は楽しんではいけないか
 次に、イラストに一緒に書かれた言葉を見てみましょう。
 最初の2行「安全に暮らしたい 清潔な暮らしを送りたい」は難民の普遍的な欲求として認知されている部分でしょう。
 問題はその次の行からで、「美味しいものが食べたい」から「生きたいように生きていきたい」までは、少なくともイラストの作者は難民には過分な欲求だと捉えているのでしょう。文字が大きくなりつつ「他人の金で」に繋がる点や、そもそもこの絵が難民を否定的に見る文脈で出されたことを考えれば明らかです。
 しかし、仮に難民が「美味しいものを食べたい」とか「何の苦労もなく生きたいように生きていきたい」と思っていたところで、別にそれ自体は非難されるべきことではないでしょう。戦争状態というのは、単に身体の危機だけではなく、それに伴う経済的な危機、生活レベルの上昇や自己実現の可能性の消滅といった精神的な危機でもあるはずです。端的に言えば、幸福を追求する権利を阻害されているということです。
 難民だからといって、他の市民よりも1段低い人権状況に置かれることは許されないことですし、そうすることに法的正当性もありません。
 このような、難民には過分な欲求というような主張が登場する背景には、難民に限らずなんらかの被害者・被災者や問題を抱える者は常に暗く沈んでいて、不幸であるという偏見があるのでしょう。
 上掲のツイートはそのことを示唆するものです。しかしそのような状況におかれている者であっても、食欲がないわけではないでしょうし、楽しいことがあれば笑うでしょうし、問題をしばし忘れてのんびり過ごすこともあるでしょう。被害者も、被害を受けた経験があるということを除けばそうでない人々と何ら変わるところのない人なのです。

 注意すべきこと
 じゃあ被害者は不幸だみたいな思い込みを避けるために、一般的な偏見の逆張りをして「被害者は幸福だし、強いし、さほど被害を気に病んでないし……」うんたらかんたらをやれば問題は解決するのかと言えば、そうではありません。
 これも別に被害者についてに限った話ではないのですが、ある偏見を持たれている集団に対して、その偏見の単純な逆張りをしても問題は解決しません。それは逆方向に偏見を持っているだけになるからです。
 例えば、か弱く無能だとという偏見を回避するために、障碍者は素晴らしい感性を持っていて有能だと考えることにしたらどうでしょう。前者の偏見が、自立して様々な技能を持った障碍者の存在を無視する一方で、後者はさほど素晴らしい感性を持っていないような障碍者の存在を無視することになります。
 あるいは、性同一性障害の人をオネェ系の芸能人の様にむやみに明るい人だと想定することにも当てはまります。そのような偏見は明るく振る舞うことがストレスになるような人を無視しています。
 偏見に直面した時には、単純に逆張りするのではなく、偏見の枠組みそれ自体を解体する必要があります。ようするに「この集団にいる人にはいろいろいる」と考えるだけなのですが、単純に見えてなかなか難しい思考でもあります。だからこそ偏見が生れる下地があるのですが。
 偏見そのもの解体するのが難しい時には、せめて偏見の存在を自覚することが大切です。偏見は誰にでも存在しえるものです。だからこそ、その存在に自覚的になり、偏見に基づく思考が顔を出しかけた時にはそれを打ち消す必要があります。 
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
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kudan9newbridge@gmail.com
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