九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

被害者学

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【書評】犯罪被害者の声が聞こえますか

 今回は全国犯罪被害者の会、通称あすの会の結成から被害者支援制度の確立までを追ったドキュメンタリーです。
 2004年に犯罪被害者等基本法が制定され、2008年に給付金制度が成立するまで、被害者の心身および経済的な負担は想像を絶するものがありました。当時被害者や遺族に給付される金額は葬式代になるかどうかという程度であり、一家の稼ぎ手を失ったり重度の障害を負ったりした場合の治療費の負担はすべて自分でどうにかしなければいけませんでした。

 また、裁判に参加することもできず、傍聴券を自分で手に入れなければならない、記録を見ることもできないといった問題もあり、被害者は司法制度の蚊帳の外に置かれていたといっていいでしょう。

 本書で特に取り上げられている遺族の一人、岡村勲氏は妻を殺害された弁護士です。氏は弁護士でありながら、遺族になって初めて被害者の苦境に気付いたと回顧しています。

 なぜ被害者が置き去りにされたのか
 では、なぜ日本の諸制度では被害者が置き去りにされたのでしょうか。本書でもたびたび登場するように、あるいはそれ以外の場面でも聞かれるように、「加害者の人権は保護されるのに……」という言葉は典型的な恨み言となっています。

 これは、そもそも刑事裁判の形式に由来するといえましょう。
 刑事裁判はあくまで、犯罪者を取り締まる国家権力と、取り締まられる個人との戦いになります。この構図では、加害者たる個人のほうが圧倒的に不利。なので、個人の権利を最大限守るためにあれやこれやと手を打つことになります。

 一方、被害者は基本的にこの刑事裁判の構図から外れたところにいます。犯罪被害者に限らず、原則として弱者の権利擁護意識に乏しい日本のこと、こうなると被害者の権利を守ろうという動機も薄いため放置されることになったのでしょう。

 裏を返せば、巷で耳にするのとは違い、加害者側の権利擁護と被害者側の権利擁護は、常に対立するというものでもありません。まるで両者をトレードオフであるかのように論じる人がいますが、実際には両者を最大化することは可能なのです。

 刑事裁判への参加と日弁連の危惧
 本書で多く紙幅の割かれている話題の1つが、刑事裁判への被害者参加制度でした。本書では、会のメンバーが制度のあるドイツやフランスへ視察へ行く様子も描かれています。その中では、被害者が裁判へ参加しても混乱や長期化は起きないことが明らかにされています。

 そのような根拠の元、会は制度の制定を強く訴えるのですが、ここで強固に反対する人々がいました。関係省庁と日弁連の弁護士たちでした。
 もっとも、日弁連も否定的だった人はさほど多くないようですが。

 著者はこのような、とりわけ日弁連の姿勢に恨み言を書いています。しかしながら、本書で言及されている理事会の決議、意見書のような全否定姿勢はあんまりだとしても、懸念それ自体は妥当なものではないかと思えました。

 刑事裁判において、少なくとも建前上は、推定無罪、つまり被告は無罪であることが前提視され、検察側の証明が十分だったとき初めて有罪となります。ここに、被告を訴える被害者が登場するとどうなるでしょうか。

 被害者はあくまで、当然ですが、目の前の被告が真犯人である前提で話を進めます。そして被害者がその口で語る「犯行当時の事実」には、被害者が直に語っているという意味付けのためにそれ以外の証拠とは比べ物にならない「信憑性」が生まれることになります。このような状態であれば、まるで被告が真犯人であり、被害者が語る事実こそが真実であることが前提であるかのような状態が成立しかねません。

 実際に被害者参加制度が始まり、裁判員制度も始まりました。当初懸念されていた厳罰化の方向にはあまり進まなかったようですが、しかし、結果的懸念が杞憂に終わったことはその懸念が的外れだったことを意味しません。当時の状況から考えれば、被害者参加の悪影響を懸念する日弁連の立場はそれなりに妥当であるといえるでしょう。

 あすの会の活動によって被害者の苦境に注目が集まり、その権利が擁護されるようになったのは素晴らしいことです。しかし、かつて(ずいぶん昔だ)『犯罪被害者団体の功罪』で簡単に述べたように、その活動には良い面だけでなく、死刑への賛成や少年法の「改悪」など、被告の権利擁護の面からみれば悪い方向に進んだものもあります。

 我々の大半は、幸いなことに犯罪とは距離のある生活を送っています。であればこそ、犯罪に関連して権利を侵害されるようなことが少しでも減るような社会をどうしたら形作っていけるのかを考えるべきです。

 東 大作 (2008). 犯罪被害者の声が聞こえますか 新潮社

【書評】性暴力被害者への支援 臨床実践の現場から

 今回はこの1冊。近年出版されたものの中で、特に性犯罪被害者に対するサポートに関してよくまとまっているものではないでしょうか。

 警察と民間団体での支援の違い
 本書で特に注目すべきなのは、警察と民間団体それぞれでの被害者支援に関して述べている点でしょう。それぞれに長所と短所があり、二つの特徴をうまく区別して利用していくのが重要なのでしょう。

 警察は通報や初動捜査と密接にかかわっている分、初期のケアへは繋がりやすいようです。ただ、ケアに実際に繋がるかどうかは、捜査を担当した警察官がケアに詳しいかどうかに左右される側面も強いようです。警官の熱心さによってケアに繋がるかどうかが左右される点は改善すべきでしょう。

 また、被害の直後に繋がること特有の難しさもあるようです。被害直後という独特の心理状態は、本来必要なニーズを覆い隠してしまう可能性があり、時間が経ってからニーズが顕在するという場合もあるようです。

 民間団体の支援は、警察を介さない分、加害者の処罰や捜査を望まないタイプの被害にも対応できるというメリットがあります。また一方で、警察の捜査状況にあわせて対応を変え、付き添いなどのサポートをすることもできます。

 民間団体支援の弱点は、団体や地方によって対応のレベルにかなり差異があるという点でしょうか。都会では手厚いサポートがある一方、地方になると手薄になるような実情のようです。それぞれの地域性に合わせたサポートは民間団体に任せつつ、やはり手厚い支援は行政を中心にしっかりリソースを割いて整備していく必要があるのでしょう。

 カウンセラーの不安
 もう1つ興味深いのは、本書のもととなったシンポジウムに参加した臨床家にアンケートを取っており、その結果を分析している点です。

 サンプルの一般性は当然限定的ですが、結果を見る限りでは大半のカウンセラーが一度は性犯罪被害者のカウンセリングを経験していることが分かります。また、そのカウンセリングにおいて、経験の少なさや適切な指導者の不足から自身の技術や知識に不安を感じているカウンセラーが多いこともわかります。

 私は臨床に詳しくないのでよくわからない面が多いのですが、事例も詳しく載っており、ある意味ではこのような不安、回答に対応しているのかなと思いました。事例を知ることで、自身のクライアントの事例に引き付けて考える材料になるかもしれません。

 ともあれ、本書は被害者支援の実情を概観するのに便利な1冊となっているので、この分野に興味ある方は是非読むべきでしょう。

 小西聖子・上田 鼓 (編) (2016). 性暴力被害者への支援 臨床実践の現場から

【書評】社会に切りこむ心理学 データ化が照らし出す社会現象

 今回は簡単に、こちらの書評を。監訳者の定年退職を記念してまとめられたもののようで、内容は雑多な印象がありますがそれがかえっていい「心理学研究の水先案内」となっている一冊です。

 犯罪被害者遺族の心理学
 九段新報的にはやはり、第9章で述べられている犯罪被害者遺族の心理学研究が注目に値します。内容的には、犯罪被害者遺族に関心をもって調べている人からすれば目新しいものはないように映るでしょうが、しかしこういう「当然のこと」をいざ論文で述べようとすると、引用する文献に困ったりします。本章は先行研究の概観も行っているので、その点でも参考になります。

 とりわけ、事件発生から2年近く遺族を追跡し、遺族にふりかかる心身の困難、二次被害、生活上のニーズなどを追った研究には興味深いものがあります。その研究によると、事件発生直後からメディアスクラムや捜査機関の無配慮のような困難に遺族は直面しますが、2年経過すると地域社会の偏見や経済的な困難に行きあうようです。時間の変化とともにニーズも変わる一方で、直後から生じる困難と地続きの面もあることがわかります。

 では、我々は被害者遺族にどう接すればいいのでしょうか。本書によれば、遺族の話を聞くときに気を付けるべき態度は、遺族の感情を尊重することや、話をゆっくりと聞くことや話の腰を折らないこと、その人の傷を安易に他と比較しないことなどが挙げられます。

 消防隊員の惨事ストレス
 もう1つ、被害者心理学や臨床場面においては、支援者のストレスが従来より問題になっていました。相談に来た人の話を聞き続ける支援者や、凄惨な場面を目の当たりする救助隊員も重大なストレスを抱えることがあり、それへの対処は常に課題になっています。本書では消防隊員の惨事ストレスと、被災した自治体職員のストレスについてそれぞれ章を割いています。

 消防隊員の惨事ストレスで興味深いのは、彼らがストレスについて開示しない理由の1つとして、スティグマへの懸念が挙げられている点です。消防隊員という、危機に毅然として立ち向かわなければならない職業では、ストレスを開示することは弱さの証拠であるとみなされる恐れがあり、それが仲間内での評価や昇進にも影響します。そのような懸念から、隊員はストレスについて口にすることができず、表面上は平気なふりをすることでかえって悪影響をため込んでいきます。
 過酷な環境において、従事者のストレスへの対応は組織だって行う必要があると言えるでしょう。

 自治体職員のストレスに関しては、自身が被災者であるにもかかわらず立場上公務員として職務に専念しなければならなかった人々の問題が東日本大震災から取り沙汰されています。職員のストレスの大きな要因は「自身が被災者であるのに公務を優先すること」「被災によって激変する公務の質的量的変化への対応」「地元住民との辛い関わり」と指摘されています。
 それでも被災直後は、職員同士の連帯によって乗り越えられることもあるのですが、被災から時間が経過するとその連帯が弱くなり、ストレスは解消されないために悪影響が増してしまう側面もあるようです。

 そのような経験を経て、熊本で発生した震災時には、県が職員のメンタルケアにいち早く乗り出し対策を講じました。セルフケア用のリーフレットの配布や直接的なカウンセリングのほか、子供の一時預かりや三交代制による長時間労働対策といったハード面での対応も進めています。
 そのような対策を経ても、まだ長時間労働の問題は解決したわけではなく、産業医の不足といった問題も明らかになったようです。

 私が思うに、そもそもこの問題は、震災という必ず見舞われうる非常事態がありながら、役所の機能や人的リソースが日常業務を標準に組み立てられていることに一因があるのではないかと思います。とりわけ昨今では、自治体職員が非正規職員で占められているという問題も噴出しているわけですが、非正規の職員では非常事態には対応できません。自治体は本来、非常事態を想定して人員にある程度のゆとりをもって確保するといった対策が必要なのではないでしょうか。

 松井 豊 (監修) (2019). 社会に切りこむ心理学 データ化が照らし出す社会現象 サイエンス社

仮に「性被害ビジネス」だったとして、だからどうした?

 元TBS報道局のワシントン支局長だった山口敬之氏が伊藤詩織氏を反訴したと話題になっています。
 現時点で判明している情報によると、山口氏は性的暴行を主張した伊藤氏の行為が性被害ビジネスだとして、伊藤氏に約1億3000万円の損害賠償を請求しているとのことです。伊藤氏は2015年4月3日に当時TBSの政治部記者でワシントン支局長だった山口氏から「レイプドラッグなどで準強姦の被害を被った」と主張し、山口氏と裁判沙汰になっていました。
 山口氏は伊藤氏と性行為をした事実は認めながらも、あくまでも合意の行為だったと反論。警察が山口氏の逮捕を中止するなどのトラブルがあり、有利な立場を確認した山口氏が反訴に踏み切ったと見られています。
 元記者の山口敬之氏が伊藤詩織氏を反訴か 1億3000万円の損害賠償を要求 「彼女は性被害ビジネスに私を利用した」-情報速報ドットコム
 この件です。
 ツイートを見る限り、実際には「性被害ビジネス」というセンセーショナルな言葉は出てこず、該当するのは「(5)反訴被告(原告)の故意と動機」の中にある「(ウ)経済目的(「性暴力被害」の訴えを「生業」とする)」がこれに該当するのでしょう。
 要約は結構ですが、実際には書かれていないことを発言であるかのようにまとめるのは誤りの元なので、注意したほうがいいのではないかと思います。

 まぁそれはさておいて。この情報は当然多くの批判にさらされました。多くが「ビジネスなわけあるか!」というもので、それは全く妥当なのですが、ここではもう一歩踏み込んで「ビジネスだったとしてどうした?」という批判を展開しておこうと思います。

 なお、話の前提として、山口氏による性暴力加害が確かにあったものとします。それは『月刊Hanada12月号山口手記のおためごかし』でも論じましたが、氏は被害者の酩酊に乗じて性行為をしたこと自体は白状しているからです。なおその後、山口氏の弁護士を名乗るものが伊藤氏の手記が妄想であると長々ブログ記事を書いていましたが、それも誤りであることは『被告側代理人の弁護士の『伊藤詩織著 「Black Box」 が「妄想」である理由』が妄想である理由』で述べました。

 被害者が被害者として、利益を得ること
 まず、別段性犯罪被害者に限らないのですが、個人が自分の不幸な、あるいはネガティブな経験をもとに活動し、その経験がなければ得られなかった利益を得るという事例はまれではないでしょう。交通事故の経験者でも虐待の経験者でも、大病患者でもそうです。このような例の最もしょぼいものは、痛い怪我自慢とか不幸自慢のようなたわいもない雑談でしょう。

 そのような利益には様々なものがありますが、金銭やそれに近いものを得ることを指して「ビジネス」であると主張することは不可能ではありません。
 では、それがビジネスだったとして、何が問題なのでしょうか?
 大前提としてその経験が事実であったということをおきますが、このような場合、「ビジネス」として活動することを批判する根拠はどこにもありません。経験をしたものが自らの主体的な選択として、その経験を生かして活動すると決めた以上、活動すること自体を批判する論理的根拠は特に見出せません。
 それは被害者が、最終的に海外で注目されたり、カリスマ性のある存在となったとしても同じことです。

 それは被害の埋め合わせである
 また、このような「ビジネス」を批判することは、結局被害者が被害を受けた時点で重大なダメージを負っていることを無視しています。
 とりわけ性犯罪被害は、自身のコントロールを奪われ、またときには信頼していた者から加害を受けることでその信頼を破壊されます。そのような状況下にあって、被害者が活動を通してリスペクトされることは被害者の立ち直りにも重要な役割を果たします。また被害者をリスペクトする社会の側も、被害者もまた尊重されるべき個人であることを繰り返し確認することで、被害者を軽視するような風潮を追いやり加害へつながりやすい環境を解消し、ほかの被害者の尊重にもつながるといった効果を得ることができます。

 「ビジネス」というと極めて純粋な営利活動のように聞こえますが、ここで「ビジネス」とラベリングされている行為は、実際にはこのような活動なのです。「性被害ビジネス」というのは、これらの活動の側面を軽視し軽蔑する表現でもあります。

 「望ましい被害者」という妄想
 ではなぜ、「性被害ビジネス」なる主張がまかり通るのでしょうか。これはかつて『「望ましい被害者像」という偏見』で論じましたが、望ましい被害者という偏見が存在するからでしょう。
 上掲記事で論じたときは難民のことでした。はすみとしこが「そうだ難民しよう」の絵を描いたときです。世の中には難民が避難した先で幸せそうに暮らしていることが気に食わない人々が一定数存在しているようで、この漫画は批判された一方でそういう層には歓迎され、彼女は極右雑誌などで定期的に仕事をもらえるようになっています。

 今回は性犯罪被害者ですが、根っこは同様で「不幸な目にあったものは、それ以降ずっと不幸そうでなければおかしい」という謎の秩序があるのです。そういえば伊藤氏も当初、会見に出たとき「性犯罪被害者が胸元の開いた服を着ているのはおかしい」などと言われていましたね。これも同根でしょう。

 こういう偏見は、不幸な経験をした者もその後何十年も生きるし、その過程では楽しいこともたくさんあるだろうという基本的なことを創造する力が欠如しているがゆえに出てきます。性犯罪は「魂の殺人」と言われますが、本当に死ぬわけではないので当たり前です。むしろその後を生きていくことこそ、被害者にとっての1つの主題ともいえるでしょう。

 被害者も人であれば、その在り方は一様ではありません。自分の想像と違う被害者がいるからと言って、「偽物だ!」というのはあまりにも浅はかです。

マリーモンドと「個をリスペクトする」活動のすばらしさ

 これの件です。
 韓国の格安航空会社(LCC)のチェジュ航空から成田空港での地上業務を請け負っている日本企業「FMG」(千葉県成田市)が、旧日本軍の従軍慰安婦だった女性らを支援する韓国ブランド「マリーモンド」の製品を勤務中に所持しないよう、スタッフへ指示していたことが30日、FMGへの取材で分かった。
 FMGによると、韓国人スタッフが勤務中にマリーモンドのかばんを持っていると、社外の人から「慰安婦支援のブランドではないか」と指摘があった。これを受け22日、現場スタッフに勤務中の所持禁止を指示した。かばんには特定のスローガンは書かれていなかった。
 勤務中の慰安婦支援製品所持禁止 成田の航空業務企業-共同通信
 そもそもの発端は先月に報じられた、成田空港で働くスタッフにマリーモンドの製品の所持を禁じる命令を出した企業があったというニュースでした。戦時性暴力被害者を支援するという目的からしても、製品のデザインからしても企業、空港の運営に何ら差し障りのあるものではないわけですから、この命令は不当なものですが、企業は不安定な雇用体系を盾に命令をごり押ししたようです。

 さて、私はこのニュースを知るまで、実はマリーモンドというブランドを知りませんでした。元々ブランドとかに頓着していなかったタイプでしたし、この報道の前にも韓流アイドルに注目されているというニュースもあったのですが、アイドルにも興味なかったしということで知る機会がありませんでした。

 というわけで、せっかく知ったし戦時性暴力被害者支援に連帯するという思いも込めて、ピンバッジとペンを購入した次第です。マリーモンドの製品は花柄がメインだったので、「好きな色:紺色」みたいな地味男として四半世紀近くを生きてきて私には持ちにくいなぁというのが正直なところですが、ペンは普段使いに便利なデザインでうれしいです。
 日本からは日本版の公式サイトから購入できますし、韓国の公式サイトには英語版もあるのでこちらからも購入できます。ロゴTシャツとかも日本語サイトから購入できるとありがたいんですが。

 ちなみにこのペン、想像以上に書きやすく、シャーペンの芯が2Bがないと物足りないゴリラ筆圧の私でもほとんど力を入れずに書ける書き味だったのでこれから重宝しそうです。ピンバッジはタイミングがあればスーツのジャケットにでもつけようかと。
 ペンは外見の色とインクの色が一緒だそうです。

 「花ハルモニ」はデザインの力である

 ところで、私はこの騒動が持ち上がったとにこんなツイートもしていました。その裏をもう少し詳しくまとめておきましょう。
 慰安婦問題に限らず、何らかの「被害者支援」というのは、力を尽くせば尽くすほど支援される人の「被害者」としての側面が強調されていくことになります。しかし被害者と呼ばれる人は一方で被害者というだけではなく、それ以外の側面を当然持っている個人です。被害者としての側面を強調しすぎればそれ以外の個人としての側面が置いてけぼりになってしまい、自分が取り残された気分になってしまうという証言は、かつて被害者支援団体に支援を受けた人からたびたび聞くものでした。
 もちろん、支援団体は戦略として被害者の被害者としての側面を強調しなければならない場合がありますし(とりわけ、性暴力被害者のように無用の誹謗にさらされる場合は)、それは悪いことばかりではないのでしょうが、一方で支援者が熱心になればなるほど支援される側は疎外を感じるという矛盾も生じてしまいます。

 このような現象はある意味、被害者支援団体の宿痾ともいえるかもしれません。

 そのような問題を解決するにあたって、マリーモンドがとった戦略の1つが「花ハルモニ」というものだったのでしょう。被害者の「被害者」以外の側面を強調しようとしたって、支援の輪からは遠い我々からはその個人について知る機会はほとんどなく、結局はその人たちに対する印象は「被害者の1人」というものになってしまいます。

 しかもこうした被害者像の強調は、そこから外れる被害者に対するバッシングを強めるという副作用もあります。この辺は『「望ましい被害者像」という偏見』で論じましたが。
 被害者である前にまず独立した個人であるということを打ち出さなければならないのでしょう。

 そこに、花という象徴を持ってきたマリーモンドのデザインはまったくもって素晴らしいものだったと言えるでしょう。花言葉の例を出すまでもなく、古来から人々は花に様々な意味合い、イメージを仮託してきました。1人1人に花を対応させることでその花のイメージをその人たちに対照させ、同時にその花のイメージでもって我々にその人の人となりを想像させてきます。

 例えば、私が購入したバッジはセキチクをかたどっており、これは日本在住者の従軍慰安婦被害者で唯一裁判を起こした宋神道氏をイメージしたものになっています。日本のサイトでセキチクの花の商品が強く推されているのはこのような理由もあるのでしょう。公式サイトによればセキチクの花は一年を通して花を咲かせ、岩にも根付くものだそうで、そのような人柄を感じさせてくれます。

 このように、デザインによる解決方法があることを知ったことは私にとってまさに「蒙をひらかれた」経験でしたし、作ることの可能性を感じさせてくれるものでした。タイミング的には『「コンビニにレイプものは置いていない」という謎の自信はどこから来るのか』の問題が持ち上がっていたところで、クリエイターを名乗る人たちの見識の壊滅っぷりを見せつけられていたから余計に。

 なにはともあれ、これからもマリーモンドの活動をちまちま応援していけたらと思います。

【記事評】今のままでは「殺され損」 被害者遺族が待ち望む「代執行制度」(週刊新潮2018年12月27日号)

 さて、年頭所感で言っていたように、雑誌記事へ焦点を当てて論評していくコーナーである記事評を今回から始めていきます。最初は週刊新潮の12月27日号に掲載されたこちらの記事。随分古いな?と思われるでしょうが、私も最近、ある用事で銀行へ行ったとき待ち時間においてあった雑誌をパラパラめくってはじめて気づいたものなので、発売からここで取り上げるまでにずいぶん時間が空いてしまったというわけです。

 「殺され損」という扇情的なフレーズと発表媒体が時折少年犯罪事件で容疑者の実名報道を行う程度の人権意識しかない週刊新潮であるという点(あとそのときちょっと疲れていたし)から、「代執行制度」というフレーズを見たときには「被害者が死刑執行を……週刊新潮もそこまで主張するようになったのか」と思ってしまいましたがそうではなく、要するに刑事事件被害者への加害者からの損害賠償を、国が被害者の代わりに取り立てたり立て替えたりする制度が必要ではないか、という議論です。

 犯罪被害者の苦境
 犯罪被害者やその遺族は、そうなったその瞬間から様々な苦境に立たされますが、その1つが加害者からの損害賠償を回収することが困難であるという点です。現在は刑事裁判の証拠をそのまま民事へ流用する制度などができ、損害賠償請求がより簡便になりましたが、一方で無事に損害賠償を請求できても実際に払ってもらえないという事態が頻発しています。

 実際のところ、犯罪加害者が人一人の一生を償えるほどお金を持っているかといえばそんなことはなく、また真面目に支払う可能性も非常に少ないのが現状です。しかも刑事事件では時効が撤廃された罪種も多い一方で、民事の時効は未だ有効であり、有罪になっても損害賠償を請求できない事例も存在しています。また一旦民事で勝訴しても支払いを定期的に催促しなければ結局時効で支払い義務が消失してしまい、いつまでたっても手間がかかるという事態が起こっています。

 そうした事態を解消し、被害者の権利を擁護するためにも、代執行制度は必要となるでしょう。被害者の傷はお金で解決できるものではないかもしれませんが、一方でお金さえあれば解消できる問題も多くあり、そのためには十分な補償が速やかに支払われる制度を整えるのは政府の義務です。

 その責任はどこまで
 一方で、現状の厳罰主義的風潮の中代執行制度を法制化することには、一定の危険が伴います。記事中にもあるように、代執行制度では加害者本人ではなく家族の資産まで差し押さえて賠償へ当てるというアイデアがあるようです。未成年であればいざ知らず、成人である加害者の行為の賠償に関して家族が連帯責任を負うべきでしょうか。もし実際にそのようなことになれば、実質的に連座制の復活となりかねません。ただでさえ孤立し問題を抱え込むことになる加害者家族に、経済的な問題を加えて追い詰めることは避けなければなりません。

 また家族にも賠償の責任を問うとなれば、この責任をどこまで広げるかという問題にも行き当たります。配偶者や子供までなのか、親兄弟を含むのか、それよりも広い親族に伸びるのか。重罪の損害賠償はたとえ賠償をする人数を増やしたところで被り切れる金額ではないでしょう。そうなれば、1つの犯罪でドミノ倒しのように周囲の人まで経済的な問題を抱えることとなります。加害者家族はより風当たりが厳しくなりますし、社会的なつながりが犯罪を抑止するという従来の知見によって立つならば、この連座制は治安対策としては逆行しています。

 責任が及ぶ範囲が広がれば犯罪をためらうから、犯罪の抑止につながるという主張もあるでしょうが、それはありえないと断言できます。そもそも犯罪者は、捕まらないと思っているから犯罪を犯すのですから。

 犯罪被害者支援弁護士フォーラム?
 さて、話は本筋から逸れますが、記事中では犯罪被害者支援弁護士フォーラムなる組織の弁護士がコメントを寄せていました。そのなかでは「被害者の思いを考えれば少年犯罪の実名報道を求めたり、死刑を求めるのは当然」という趣旨のコメントをしていました。弁護士とは思えない発言であったので気になり調べてみました。

 まず本ブログでは、『日弁連「死刑廃止宣言」についてのあれこれ』と『「死刑廃止派は家族が殺されても反対できるのか」という人へ あるいは遺族感情と刑罰の関係について』でこのフォーラムを取り上げています。両方とも日弁連がかつて出した死刑廃止を求める声明に関してであり、フォーラムはこれへ反対の立場ですが、弁護士という立場で死刑賛成なのだから有象無象の死刑賛成派とは違って少しは骨のある議論が展開されているかと思いきや、思いっきりその有象無象をコピペしたようなレベルの議論だったのでがっくりきた印象でした。

 公式サイトを見ると、昨年度行われた死刑判決に関する意見書も出していますが、これも弁護士が書いたとは到底思えないほどレベルの低い、ありていに言えば死刑賛成派によって使いつくされ反対派によって否定され切った論理であるので、これはまた新しく記事を立てて論じておこうと思います。

正論7月号『せいろん女子会』批判 なぜ女性も「被害者にも下心」などと言ってしまうのか

 さて、前回『』という記事で正論の記事を批判しました。実は『正論』の今回の号ではセクハラに関係する記事はこれだけではありません。『せいろん女子会』という不定期連載記事でもセクハラを取り上げています。
 このせいろん女子会、今回の構成は司会に加え女性3名に男性1名というものでした。それでセクハラの話題をするのですが、気になるのはその中で行われたある会話です。

 被害者もいるのに
 『正論』誌上でセクハラと言えば、「被害者にも非が、下心が」云々という議論になるのは予定調和といえましょう。
 しかし気になるのは、女性が3名もいる座談会で、しかも1人はセクハラの被害にあったと言っているにもかかわらずそのような論調になっているという点です。これはいったいどうしたことでしょうか。

 望ましい被害者像が背景か
 本誌で主に取り上げられていたのは福田前事務次官によるセクハラです。これは朝日テレビの記者が隠し撮りした音声が公開されたことで特に話題になりました。そのような点が、前回記事で取り上げた座談会でもそうでしたが保守派の人々の間で注目され、「実はネタを上げるためにわざとやったのではないか云々」という勘繰りを生むことになったのです。
 一年もたっているのにとかいう、典型的なあれにはもはやわざわざ突っ込みを入れませんが、よしんば記者が次官のセクハラ発言をネタとして上げようともくろんでいたとしてそれは果たして問題のあることなのでしょうか。公務員、しかも霞が関のトップに立つ次官が外部の人間にセクハラ発言をしているという事実を報じることは公益に資するものです。またある事件の被害者が、その被害を「利用」して成功を収めたとしても、その利用の仕方に問題がなければ責める理由にもなるとは思えません。人というのはある種自分の経験を切り売りすることで社会的な成功を収めるものですし、この事例ではその経験がセクハラ被害だったというだけの話でしょう。

 しかしこのような、したたかな被害者というのはとりわけ保守派にとって評判の悪いものです。準強姦被害にあったジャーナリストの伊藤詩織氏が『ブラックボックス』を出版した際にもこの手の批判はありました。別段売名になっていないような事例にすらあるくらいです。そもそもこのような批判は、名前が売れるメリットとバッシングが集まるデメリットの差し引きができておらず、何よりこの手の批判が登場することそれ自体が、被害を公表することそのものは売名に使うにはあまりにも負担が大きいことを証明しています。
 ともかく、したたかな被害者はあまり同情を集めにくい傾向にあるのですが、それはおそらく「セクハラ被害者はこういう人に違いない」という「望ましい被害者像」というものが暗黙の内に了解されているからなのではないかと思います。
 かつてはすみとしこが「そうだ難民しよう」というあまりに有名で愚劣な絵を描いた際に、このブログで『「望ましい被害者像」という偏見』という記事を書き「望ましい被害者像」について指摘しました。あの記事の指摘はセクハラ被害者にも当然当てはまります。

 保守派がセクハラ被害者に対しどのような被害者像を持っているかはわかりません。「セクハラは全部女のでっち上げか大げさ!」と思っていても不思議ではありませんが、少なくとも自身の被害を契機に社会へ発信しようという姿勢が含まれているとは思えません。ここには「身内の話を外へ持ち出された」という歪んだ被害者意識もあるでしょうが。
 しかし被害者というのは千差万別で、中には客観的に被害リスクを上げる行動をしていたり、被害と直接関係ないけれど人間的に酷いなという人だっているかもしれません。ですがそのことは被害者の被害を相殺したり加害者を免責することには繋がりません。被害者の訴えを疑う理由にもです。

 このような望ましい被害者像の偏見からは、女性も逃れられません。しかし驚いたのは、実際に被害を受けてもなおその偏見を保持し続けている様子が見られたことです。このような偏見は実際の被害者が「望ましい像」から出たときに罪悪感を感じる原因となり、そういう意味でも有害です。

 やっぱり貧困な「批判者像」
 前回記事で指摘したことと同様ですが、自分が批判しようとしている相手への理解があまりにも貧困である点も目につきました。MeTooがTOKIOの山口を批判していないというもう見飽きた主張すらあります。MeTooがネットで中心的に盛り上がった運動であることを考えると、そこで発言していた人たちが山口の事件でも批判的な言説を展開していたことに気づくはずなのですが。
 また福田前事務次官のセクハラで麻生大臣まで責任を問われるのはおかしいという主張もされていましたが、彼らには麻生の失言の数々か聞こえていなかったのでしょうか。麻生も部下のセクハラだけならまだ辞任を求められることはなかったでしょう。彼が責められている最大の原因は、『性犯罪内閣にセクハラへの正しい対処法を教えよう』や『麻生太郎のセクハラ擁護発言は「ネットの議論」の本質をついている』で指摘したような失言です。保守派が麻生のような明らかな失言を批判しない理由が不思議でしたが、もしかすると彼らには麻生の声は実は聞こえていないのかもしれません。

 望ましい被害者像、そして貧困な批判者像から脱するには、結局のところセクハラやフェミニズムに関連する書籍を読み、先人の言葉や知識を蓄えるしかありません。少なくとも自分が直面している問題に自分の思い込みではなく、真正面から相手の言葉を見据えて受け止めるという知的な営みを徹底しなければいけないでしょう。
 せいろん女子会のメンバーがまずすべきなのは、『正論』を捨て街へ出ることです。

犯罪学者が実際に「山口メンバーについて行くほうも行くほうだよね」発言に直面した話

 ちょっともやもやしつつ、時間をおいてまとめてみます。
 私は貧乏学生なのでバイトをしながら日々つつましく生きています。職種は学習塾です。
 さて、ちょっと前にその塾のバイト学生や社員を交えた飲み会がありました。4月に入った新しいバイトを歓迎するという名目のあれです。10人くらいで卓を囲み適当に飲んでいたのですが、あるとき、何かのきっかけでTOKIOの山口メンバーが犯した強制わいせつ事件(ちなみに、すでに強制わいせつ罪は改正され強制性交等罪になっているはずなのに、どうしてこう報じられているのだろうか。私も最近気づきましたが)の話になりました。まぁ世間話としてありえることでしょう。
 しかし私は、その話題の中で耳を疑う発言を聞くことになります。

 「山口メンバーについていく女子高生も女子高生だよね」

 この発言者はバイト先の塾の社員、女性です。
 学習塾には当然、被害者と同じ年代の女子高生も通っています。場合によっては学校や家での出来事を相談されるかもしれない立場にあります。言い換えれば学校や家庭で発生する性的虐待被害の相談先になる可能性が、大げさではなく存在しているという立場です。
 しかし実際に飛び出したのはあの発言でした。しかもその後も、「示談金をもらっているのに騒いでいる」とネットで拾ってきたかのようなセカンドレイプ発言がどこからか飛び出す始末でした。

 そのとき犯罪学者は何をしたか
 さて、そのような発言に直面した私は何をしたでしょうか。非人道的な発言にぶち当たった犯罪学者、大上段に構え大立ち回り……だったらカッコよかったのですが、実際には大したことはできませんでした。だからこの記事は、私の反省と次に同じような状況に行き会ったら何ができるかという模索の記事です。

 まず、私はとりあえず「示談金をもらっているのに騒いでいる」という最悪の印象くらいは何とかしなければなるまいと思い、示談金をもらったという部分を否定しました。実際にはこの点は明らかではありませんが、そこは犯罪心理学者(大学院生は研究者として名乗るべき立場でしょう)の立場で押し切りました。
 本来であれば次に、どういう背景があれ被害者の非を言い立てるべきではないことを説くべきです。しかしできませんでした。第1に、飲み会という席に、みんなでワイワイ雑談している席にそういう話をぶち上げることが憚られたということです。要するに我が身可愛さにビビったというわけです。
 バイトをしなければ食っていけない私は今後もこの塾で働かなければいけません。大学院生になってから劇的な変化があったとすれば、バイトに一向に受からなくなったことです。大学生の時は1度たりとも面接に落ちたことはなかった人間が、人間の能力としては格段にレベルアップしているはずなのに肩書が変わっただけで2度も滑ったという経験はなかなか衝撃的でした。バイト先に居づらくなるようなことは避けたかった。

 そもそも虚を突かれてうまく話ができなかったという理由もあります。正直楽観視していました。確かにネット上には酷い言説があふれ、中にはそういう言説をリアルで見聞きしたという話もあります。しかし勤め先は学習塾、平均よりはだいぶ人道的な人たちの集まりだろうと思っていました。また実際にそんな発言をする人物に会ったことがないというのもありました。親はわりとリベラルな方で、家でもそんな話は聞いたことがありません。学友もまぁ、いま思えば少なくとも私の前でそんなうかつな発言をしない程度には賢かったわけです。だから実際に直に発言を聞いた時には「これが噂の!?」と驚きが先に来て固まってしまいました。

 そして何より、この状況で分かりやすく「どうあっても被害者に非はなく云々」と説得する言葉を持っていなかったということにつきます。過去に『セクハラ・性犯罪への対処で被害者をまずは信じるべき理由』で書いたように、理由はいくらでもあります。だから準備して時間をかければ納得させるくらいなんとかできるという自信はあります。今でも。しかし発言が飛び出したその状況というのは飲み会の席での雑談です。みんなが見ている中で会話の流れをぶった切り長時間しゃべり続けることは難しい。いま思えばそうしてしまえばよかったかもしれないと思いつつも、やはり難しいでしょう。
 そもそもナチュラルに「被害者に非がある」と言ってのける人にどのような言葉をかければ、わかりやすくその誤りを正せるでしょうか。社会で生きていく上でのルールが根底から違うという状況で「わかりやすく説明する」ということは不可能です。「因数分解を説明しなさい、ただし目の前の生徒は掛け算がわからない」と言われているようなものです。

 またその席では、なぜ山口メンバーがあんなことをしたのかという質問もされました。これも簡単に説明するのは、ある種のフェミニズムの理論を下地に持っている人には簡単ですが、それがない人には非常に難しい問題です。「被害者をバッシングする風潮が背景にある。彼は男が女を所有するのは当然だと考えていたからだろう」などといえば、わかる人には何となくわかるかもしれませんが、私の目の前にいる人には無理でしょう。後の会話で分かったことですが、セクハラが同性間でも成立しうることすら理解できていなかったのですから(初期研修で一応、不適切な発言をしないように言われてるんですが)!
 あるいは、極端なまでに簡単にすれば「お前みたいなのがいるからだよ!」となるわけですが、こんな真正面からケンカを売るようなことを言えるはずもなく……。

 次はうまくやれるのか?
 このような失敗、ある種の完全敗北を経験したのちに、次回また同じような状況に行き会ったときに何ができるでしょうか。私は今後もこの職場で働きますし、両親はわりあいリベラルとか言いましたが実家はクソ田舎なので旧態依然男どもの巣窟でもあるわけです。兄貴もネトウヨだし。だから同じような場面は今後何度でもあるでしょう。
 理想を言えば、やはり空気を読んではだめで、言うべきことを言うのだということに尽きるでしょう。しかしできたら苦労しないというわけです。
 ある種当事者から少し離れた距離にいる男性の私でもこのような苦悩を抱えるわけですから、当事者により近い女性の苦労はこの比ではないでしょう。また直に二次被害に晒される被害者の心境はいかばかりか。マジョリティはマイノリティに説得されても聞く耳持たず、同じマジョリティに説得される方が聞いてくれるという話もありますから、男こそがこの話を発信すべきなので泣き言を言っている場合ではないのですが。

 空気を読まずに発言せよという理想を迂回する方法があるとすれば、唯一「外堀を埋めて地道にストリームを作る」しかないのでしょう。どんな愚昧な人間でも、セクハラ発言が公然と咎められるような社会なら公言することはありますまい。ただそのようなストリームを作るにも、結局は直接の対決は不可欠なわけで、やはりこればかりは空気を読まずに発言することをちょっとずつでもいいからしていくしかないでしょう。
 1回目がだめなら2回目を、それがだめなら3回目を。少しずつでも言っていくしかないかもしれません。空気を読まないのはやはり怖いことですが、実際に二次被害に直面する被害者の苦しみに比べればかなりましなのですから。

#今度は福島がTOKIOを応援する番だ って、それ今やる必要ある?

 私が『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を見ている間に、Twitterではこんなハッシュタグがトレンド入りしていました。
 なるほど、TOKIOの山口メンバーのしたことは擁護できない、けれどTOKIOには感謝してます!ということらしいです。

 しかしそれ、いま言う必要ありますか?

 過去の功績で罪を無化する恐れ
 このような主張は一見もっともらしいように見えますが、かつての功績でその人の加害を帳消しにしようとする動きになる恐れがありますし、現にそうなってます。
 まぁ確かに、山口メンバーのしたことでほかのメンバーまで不利益をこうむるのは可哀そうだなという気はしないでもないです。しかしそもそもその不利益は彼が犯罪を犯したために生じたものであり、TOKIOというグループで活動していた以上その悪評が自分にもまとわりつくのは甘んじて受け入れるしかないでしょう。
 福島県ではTOKIOの写真を使ったポスターを撤去しているようですが、これもやむを得ないことです。「TOKIOはいままで頑張ってくれたのに!」とかそういう話ではなくて、いまこのタイミングでTOKIOのポスターは使い続けることは性犯罪を容認するメッセージにしかならないからです。むしろ撤去という判断は行政として妥当でしょう。

 これもまた1つのレイプ神話か
 功績のある男性がその立場を笠に着て女性を加害する。女性はそれを訴えるけど「でも彼もいいことをしたよね」と被害を矮小化される。というのは性犯罪を取り巻くストーリーとしてはひどくありきたりです。
 いうまでもなく、かつてどのような功績を残した人でも罪は罪です。第一功績と罪とは加減乗除で計算できるものではなく、罪を犯せば即座にマイナスになってその責任を取る必要が出てくるものです。

 しかし今回の事例のように、とりわけ性犯罪では功績によってその加害を無にしようとする動きが普遍的に存在します。それを実行している本人はそのつもりなんてさらさらないでしょうけど、ちょっと立場を変えて自分が被害者だったらと考えればわかるはずです。自分に被害を与えてきた人とその人が属するグループについて、周りの人間が「いやぁでも、いいこともしていたよねと」と口々に語ること、そのおぞましさたるや。

 加えて、山口メンバーがアルコール依存症であるのではないかという話も出ていました。確かにそれも一因かもしれませんが、ことさらにその要素を言い立てるのも、結局は加害者の加害性を減じる試みになっているのではないかと思います。アルコール依存症の全員が加害をするわけではありませんし。

【書評】加害者家族

 ちょっと読んでから時間が空きましたが、加害者家族の現状についていろいろと書かれた一冊です。まぁ結論から言うと読んでるとげっそりしてくるって感じなんですけど。

 やっぱりマスコミが禄でもない
 あまり安直にマスゴミマスゴミというのも嫌なんですが、『新版 犯罪報道の犯罪』でも描かれていたようにマスコミの取材というものの酷さは加害者家族に対しても同様のようです。馬鹿の一つ覚えのように家へ押しかける取材攻勢は近隣住民の反感も買い、その反感が加害者家族に向かうという悪循環を生み出しています。
 そもそも、被害者のことを記事にするのと同様、加害者本人ではなくその家族を記事にすることにどれくらいの公共性があるのでしょうか。読者が知りたいと思っているから報じるんだ、マスコミが報じるから読むんだという責任の擦り付けあいではなく、本当にその報道が公益に資するかどうかを互いによく考えていくべきでしょう。さもなくば『新版 犯罪報道の犯罪』で著者が指摘しているように、政府に表現の自由への介入を許すきっかけにもなり得るのです。

 誰かを攻撃しないと気が済まない人々
 もう一つ、気になったのは加害者家族を取り巻く人々のあんまりな冷徹さです。子供の通っていた学校の対応しかり、近所の住民の対応もそれなりに酷いのですが、報道に応じてどこからともなく湧いてくる人々の攻撃性は気味が悪いほどです。被害者やその遺族がそういう攻撃性を持つのはまぁ気持ちはわかるのですが、お前らは別に何もされてないやろうと。そう思うのですが彼らの行動力がどこから来るのかは謎です。

 本書ではワールドオープンハートという加害者家族の支援組織が紹介されています。現状は詳しく知りませんが被害者支援もまだまだ発展途上という日本の現状では加害者家族の支援はまだまだ広まっていないでしょう。犯罪によってダメージを受けるという意味では加害者家族もまた被害者であるという言い方もできますし、どうにかして支援体制を整えられればいいのですが。

 鈴木伸元 (2010).加害者家族 幻冬舎
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
E-mailアドレス
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