九段新報

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政治問題なのに「政治利用するな」とはこれ如何に 【記事評】黙殺され続けるLGBT当事者の本音(月刊Hanada2019年3月号)


 ということで、予告通り読みました。月刊Hanada2019年3月号の『黙殺され続けるLGBT当事者の本音』 です。
 内容としては、極右が「当事者」と認定した人の主張を重視し、そうでない主張は「左派や活動家に利用されている」ことにして一方的に排除するという。どっちが当事者の声を黙殺してんねん的な、いつものあれでした。読む価値は特にないのですが、気になった論点がいくつかあったので論じておきましょう。

 「私は差別されていない」だからなに?
 本書は記事の筆者である福田ますみ氏が、様々な「当事者」の主張を取材するという形式になっています。その中ではとりわけ、杉田水脈を擁護する新潮45の特集に寄稿していたブロガーのかずと氏と、ゲイである富永氏の主張の紹介に紙面が割かれていた印象です。かずと氏の主張の誤りに関してはすでに『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる その他と新潮社のクズさについて編』で論じたので繰り返しませんが、記事では氏はその当時と同じ主張を繰り返しているだけでした。氏に対する批判は私のほかにもメジャーなところであったと記憶しているのですが、氏は「自身の主張が黙殺された」という認識のようだったので、読んではいないのでしょう。

 それはともかく、記事の中で「当事者」として意見を述べていた2人、あるいはそれ以外の記事に登場する大半の「当事者」の主張で一貫しているのは、「自分は差別されていない、だからLGBT問題で騒いでいるのは政治利用したい活動家だ、当事者はそんなことを望んでいない」というものでした。
 もちろん当事者にも色々いますし、考え方もいろいろでしょうが、この主張の興味深いところはそのようなさほど難しくない推測が自身の内集団に対してすら発揮されておらず、自分と主張の違うものを直ちに「政治利用する活動家である」と排してしまっている点です。

 仮に、彼らの「自分は差別されていない、だからLGBT問題で騒いでいるのは政治利用したい活動家だ」という主張が妥当なのであれば、別の当事者の「自分は差別されてきたから、何かの対策が必要だ」という主張もまた妥当であると見なさなければなりませんが、彼らの中では自身の体験に基づく主張のみが説得的なものとして認識されているらしいのです。
 これはネットの議論で、全然人の主張を理解できない人が良く振りかざす類のものなのでよくわかりました。私も言われた経験がありますが、このことを説明しても彼らはその論理的破綻を全然理解しないのでどうしようもなかったことがあります。

 加えて、このように「自分は差別されたことがない」という主張が、LGBTのうちGからなされていることが非常に興味深かったです。ゲイ、つまり男性同性愛者というのは、性愛の対象が同じ男性であることを除けばLGBTでは平均的な男性と最も近い属性であり、それは相対的に差別を受けにくいことを意味します。もっとも差別が皆無なのではありませんし、結婚ができないといった社会的に不利な面も相変わらずあるのですが、裏を返せばLBTよりも「今のままで幸せ」と言いやすい立場であることも事実でしょう。
 彼らが差別を感じずに暮らしていけているのは喜ばしいこと(まぁ、差別を差別と気づけていない可能性もありますけど)ですが、しかしそのことはほかの人々にとって「対策」が不要であることを意味しないはずです。

 その点でいえば、唯一女性のバイセクシャルとして記事で触れられていた森奈津子氏がその点を指摘しています。そこまで気づいていてなんで結局彼らと同じ穴の狢になってしまうのかはさっぱりわかりませんが。

 政治問題なのに政治利用するな?
 もう1つ、この記事で気になったのはやたらと「政治利用されている」というようなフレーズが登場したことです。
 いや、そもそも政治問題だったでしょ。

 事の発端は杉田水脈議員の寄稿でした。現役衆議院議員の不適切な発言というのはそれ単体で十分に政治問題ですが、それだけではありません。子供を産めるかどうかを「生産性」と表現し、その生産性が高いほうの対策を優先しようという発想は古くからの自民党の根付いていた考え方です。「子供を産む機械」発言から昨今の種々の失言まで、その主張は連綿と続いています。また杉田議員は安倍首相の強い推薦で比例代表に決まった経緯があります。
 つまり杉田議員の失言の背景には自民党の党としての考え方、ひいては安倍首相のセクシャルマイノリティに対する見識の問題があり、批判がその背景にまで及ぶのは当然のことです。

 しかしこの問題を批判する勢力への批判として、彼らは「政治利用」というフレーズを多用します。まるで「学問をする方の大学」みたいな言い回しになっていますが、なぜこのようなフレーズが説得力を持つと考えられ、また実際に一部では説得力を持ってしまっているのでしょうか。はっきり言って理解に苦しみます。

 ここからは推測するしかありませんが、これは「政治」とは何かという認識に関して、左派をはじめとする杉田議員を批判してきた立場の人々と、それを擁護する立場の人々で決定的な違いがあるのではなかろうかと思います。後者の人々は政治を「お上の言うことにありがたく従う」くらいにしか考えておらず、ゆえにそれへ反発、批判する行為がすべて「政治的」に見え、その指摘がそのまま相手の否定につながると考えるのでしょう。

 実際、こっちは政治の話をしているので、政治利用と言われましてもはぁその通りですがと言わざるを得ないのですけど。

表現の自由戦士の「ご注進戦法」は彼らの本質をよく表している

 さて、もうすっかり話も盛り下がったところでまとめておくのもよかろうということです。そう、『匿名でなされた #metoo について、詳細情報を出せないことに乗じて確認不能な情報を流布して当事者を貶める行為はやめろ』の件です。まぁ個人的にはこの記事で話は終わっていたので、それ以降はロスタイムですらなかったのですけど、そのロスタイムですらない何かで極めて興味深い現象を観察できたのは収穫でした。

 表現の自由戦士森奈津子、告げ口しまくる
 それはこのツイートに端を発する、「ご注進戦法」とも呼ぶべき一連の何かです。
 (そもそも表現の自由を称揚していたはずの人間が真っ先にやることが「法的措置をちらつかせる」って、お前ら表現の自由はどうした!?とずっこけたんだけどそれはまた別の話)
 まぁ、百歩譲って日対研への報告は、問題に関係していたわけなのでわからなくもありません。いや、この「日対研の被害の訴えを嘘だといったぞ!」というのがまず誤読の類(実際には「日対研の主張するところの加害者がmetoo当事者であると確認する方法がない」ということ。前回記事参照)であり、この議論も結局氏がこの点を認めないがために1ミリたりとも前へ進まなかったわけですが、ともあれ、まだこのツイート自体はわからなくもないところです。

 しかし、批判されているのは自分自身であるのだから、自分の言葉で回答すべきなんですがね。

 そしてこれから先、どんどん話がおかしくなっていきます。
 順番が前後しますが、こういう反応をしました。まぁこれも、ギリわからなくもないでしょう。無関係ではないので。しかしリプがあまりにも素早かったことと、当の山口弁護士からは(確認した限りでは)ガン無視されていたことが情けなさに拍車をかけていました。

 ちなみに私の発言が正しいことは、これもやはり前回記事に指摘しています。また名誉毀損が違法にならない条件は『【書評】名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』で書きましたが、今回は間違いなくプライベートな事柄ではなく、また「事実の真実性 または真実と信じるに足る相当性」があるので名誉毀損にはなりえません。大穴で「事実の公共性や目的の公益性がありません」と言われたら知りませんが。
 こちとら犯罪学ブログを運営してもう6年近いですから、そんな隙だらけの記事を書くとでも?
 まぁ、他人のプライバシーを侵害せず事実を書いていればよほど名誉毀損にはならないので、本ブログで心配することもないのですが。
 で、最大手がこのツイートです。いやはや、まさかKADOKAWAが出てくるとは思っていなかったので流石にびっくりしました。彼女は私の小説がいずれ大手出版社で出版される可能性の濃厚なものだと評価しているのでしょうか。いやぁ、書き手冥利に尽きますな。
 という冗談はさておいて、このツイート自分で書いてて流石に情けなくならないのかなと不思議には思いました。客観的に考えれば明らかに小説家デビューする可能性が低い相手(言ってて悲しくなるが事実だ)に、その希薄な将来まで人質に取ろうと全然縁のない大企業の権威を笠に着ようとしないと言い負かせない相手っていったい……。

 虎の威を借りる狐ということわざがありますが、あの狐は一応自分の知っていて利用できる虎の威を借りていたわけです。これが全然知らない虎の威となると、スネ夫にも劣る所業ですね。
 こういう、戦法としてそもそも成立していないものを「ご注進戦法」と名付けるべきなのかはいささか疑問ですが、最初に思いついたこのネーミングがしっくり来ているのでこのままいきます。

 これは「表現の自由戦士」の本質である
 で、こんな長ったらしい記事をお前は特定個人をバカにするために書いたのかと問われればもちろん違います。まぁバカにはしてますが、それがメインの目的ではありません。
 この記事のメインの目的は、この「ご注進戦法」が表現の自由戦士たちの思考回路の本質をよく反映しているのではないか、ということを論じることです。
 さて、私はかつてこんなツイートをしました。これ自体は特段独自性もない、言ってしまえば基本のきみたいな話でしたが、これがまぁ表現の自由戦士たちからは不評の極みだったようで、最終的に
 なんてツイートをするくらい疲れています当時の私は。
 ともかく、表現の自由戦士たちが共通して抱える命題の1つに「どうせ規制されるなら強権的で明確な線引きでないとダメだ。市民による合議は恣意的すぎる」というものがあることは確かなようです。
 しかしすでにツイートで指摘しているように、権力による明確な線引きは刑事罰までをも発動する恐れがあり、故に市民による合議という、より柔軟で弱く、社会情勢を反映しやすい方法による自主規制の方が結果として表現の自由を守る目的にかなうことは言うまでもないでしょう。

 表現の自由戦士たちが市民社会による合議を否定する理由はいまだ不明ですが、大きな理由の1つが、これもツイートで指摘している通り、彼らは不誠実でありかつ知見を一向にアップデートしないがゆえに議論についていくことができず、彼らの側から見ると一方的な強権的規制と大差ないように感じられるからではないかと思われます。どうせ規制されるなら「リベラル」な市民社会よりも自分の支持する自民党がいい!という反動保守的な側面もあるでしょう。

 というわけで、表現の自由戦士たちの思考回路の共通するベースに、対話や合議という市民社会に必須だけど面倒なプロセスを否定し、権力にすがる姿勢が見て取れます。そして上掲の「ご注進戦法」は、まさに相手と「自分」との対話を拒絶し、権威による一方的な決裁を望むという点において、彼らの権威主義をよく反映したものであると言えます。
 実際、すでに否定されている「トランス女性を女湯に入れないと……」というデマを繰り返し、かつ市民による合議によって合理的配慮の内容をすり合わせていく作業を「恣意的解釈が入る余地があり、議論もせずに」などとでたらめな表現をしているわけです(法案については『松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問-Buzzfeed』が詳しい。『女性の性犯罪恐怖に寄り添うことは、トランスジェンダーを差別しなくてもできるはずだ』も参照のこと)。これも議論を拒否し、強権的な線引きでなければ認めないという彼らの姿勢の応用といえるでしょう。

 私は、表現の自由戦士たちとの対話は無駄であり、何なら彼らへの対処は差別主義者に対するそれと同じようにすべきであると考えているのですが(『議論によって浮き彫りになった「表現の自由戦士」の不誠実』参照)、一方でまだこうした議論(になってないのでこう呼ぶべきではないのですが、適当な表現も他になく)を繰り返しているのは、1つには彼らのおかしさを知らしめるためであり、もう1つには彼らの思考回路を明らかにすることで問題への対処方法を探るためであります。

 このような、無駄とも思えるやり取りの中で明らかになった彼らの本質を大きく2つの要素で表現するならば「知ることの拒否」と「権威主義」ということになりましょう。つまり今回明らかになったような「権威主義」に加え、『議論によって浮き彫りになった「表現の自由戦士」の不誠実』で論じたような、青識亜論のようなタイプの詭弁家にありがちな「説明されても同じことを聞き続ける」思考回路によって、彼らのありようは支えられていると考えられます。

 じゃあどう対処すればいいんだといわれると、難しいんですけどね。

新潮45はどう消滅すべきなのか

 この件です。取り急ぎ。

 新潮45のとるべき姿とは
 私としては新潮45の休刊は喜ばしい反面、不満もあります。理想的には①廃刊と②なぜこのような事態になったのかの検証を行うべきだと考えます。

 ①に関して、廃刊すると言論の場も失われるし、きちんと刊行したうえで②を行うべきであるという主張もあります。この主張には一理あるとは思いますが、しかし新潮45のケースでは当てはまらないでしょう。
 このような主張が当てはまるのは、ある種偶発的な要素もありつつ一度だけ問題のある記事を掲載したという場合だけでしょう。新潮45のように、LGBTに関する言論だけをとっても2度、それ以外にも問題ある記事を恒常的に掲載していた媒体ではやはり廃刊することでこのような問題を解消、差別的言説が言論市場で決して許容されるものではないことを示す必要があります。

 しかし一方で、①を実行すると②ができないというジレンマがあります。これは新潮社のウェブサイトで、無料公開のかたちで行うべきでしょう。
 刊行したうえで②を実行すると、本来問題の解決、埋め合わせ、補償という意味合いが強いはずの②が商業的な意味合いを帯びてきます。とりわけ差別的言説を商売道具として活用してきた新潮45がこのような対処をとることは、差別で金を儲け、それへの反省で金を儲けというマッチポンプ式の商売となってしまう問題があります。ゆえに、新潮45の場合②は無料公開のかたちで行うべきでしょう。新潮社の企業規模からいっても現実的な着地点であると思います。

 杉田「論文」、小川「論文」
 ちなみに、気になるのが新潮45に掲載された各記事を「論文」と呼ぶきらいがあります。新潮45の見出しに引っ張られているのか、そもそも論壇誌では記事を論文と表現する文化があるのか、原因は不明ですが。
 しかしあのような、事実誤認と差別に彩られた記事を、仮に慣例的な意味合いだったとしても論文と表現するべきではありません。論文という言葉に付随する信頼性をあのような記事へロンダリングする行為は決して許されません。

 落書きという表現の自由
 ちなみについでに、この問題に関係して新潮社の看板に落書きがされたという「事件」もありました。それへの反応として「犯罪行為は許されない」というものがありました。
 確かに落書きは、厳密にいえば器物破損に問われるでしょう。しかしある程度反法的とはいえ落書き程度であれば表現、抗議活動として十分許容されるものであると思います。そもそも抗議、とりわけ市民から権力への抗議というのは警察や法律により犯罪として、誰かの権利を保護するというよりは権力の権力たる優位性を保持するために一方的に規定され排除されることの多いものであり、抗議活動の手段の是非に「反法的であるかどうか」を考慮することにはあまり意味がありません。
 具体的に言えば、①抗議対象が大規模であり②手段と程度が穏当であり③他者を直接的に危害することがなければ、抗議手段としては穏当であろうと思われます。

杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる その他と新潮社のクズさについて編

 さて、前々回『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編』と前回『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 藤岡&小川の双頭編』の続きにして完結編です。今回取り上げるのは前回とりあげなかった4人です。

 結局生産性の話
 この特集の中で唯一読解に耐えうる水準の記事を書いているのが元参議院議員でセクシャルマイノリティの当事者である松浦大悟氏です。氏は7人の中で唯一杉田記事に批判的ですが、まぁ新潮45に執筆依頼が来るくらいですから、結局のところ重要な論点を批判しきれず巻き取られてしまっています。

 というのも、記事後半部で氏は、アメリカで軍隊がセクシャルマイノリティの軍人を募集し、当事者たちが「国のために!」と盛り上がった云々などという話を記述し生産性があるという論調にもっていっているのです。いうまでもなく、繰り返しですが杉田記事が批判されたのはそもそも人を生産性で測ろうとする姿勢からです。それへの批判として生産性があるという話を持っていくのは、かえって杉田記事の土俵に乗る行為で思惑通りとなってしまっているでしょう。
 また選んできた事例が軍隊だというのも気にかかります。人権というのは保障されて当然のものであり、保障されたことに関してとりわけ感謝などというものを必要とする類のものではなく、ましてやそのために義務を果たす必要があるものではありません。故に、マイノリティの権利を認めたことと引き換えに「今度は自分たちが国のために」などと盛り上がった事例をもって生産性を強調するのは政治家のすることではありません。

 尾辻かな子は恥さらし
 次いでかずとという、これも当事者です。氏は立憲民主党の尾辻かな子議員に、当初は支持を寄せていたようですが記事中に至ると結語で「恥さらし」などというまでになっています。
 その理由は、尾辻議員が「金儲け」目的のために、本来国会議員同士なのだから直にやり取りすればいいところ、杉田記事にネットで火をつけ騒動を引き起こしたからだというものです。氏によれば尾辻議員はセクシャルマイノリティに関する講演を引き受けており、LGBT問題が大きくなって情報の需要が増せば金が儲かるだろうと推測しており、その推測は極めて下卑たもので確率も低いながら状況証拠ゆえ誤りだと断定しにくい面もあります。

 しかし氏の批判は重大なところで過ちを犯しています。それは、そもそも杉田記事は新潮45という「商業雑誌」で発表されたものであるということを見落としたことです。そう、商業雑誌で発表されたものであり、その後新潮45が同様の特集を組んだことからも明らかなように杉田議員は売らんかなで記事を書いていることは明白です。尾辻議員の行動に対し低い確率に着目して金儲けであると批判するのであれば、杉田記事にも同様の批判を寄せないのはおかしいでしょう。
 なにより、金儲けで当事者の恥さらしだという批判は、そのまま筆者に跳ね返っています。杉田記事のおかげで(?)話題が盛り上がり、新潮45が特集を組んだおかげで自身も記事を依頼され、それにより原稿料を受け取ると同時に自分のブログも売名できたのですから。尾辻議員が恥さらしなら自分もそうであると言わねばならないはずです。

 出たよ、「不寛容を認めないのは不寛容」というあれ
 最近BAN祭りのせいで食い詰めているネトウヨYouTuberのKAZUYAは、見開き1ページという最短記事での参戦となりました。が、ほかの記事と比べて特徴もなく、見るべきところは一番ありません。しいて言うなら「杉田議員を認めないあいつらこそ不寛容だぞ!」という話ですが、どこかで見たことある手垢のついた主張でしかありません。
 寛容/不寛容などという言い方をするから、こういう屁理屈が紛れ込む余地になるのでしょうか。単に人権を尊重する社会では、他者の人権をないがしろにしたり、人権という枠組み自体を破壊しようとする人間は受け入れられないというだけの話です。
 なお本ブログでは、かつて「公安がマークしてるから共産党は危険!」とふかしていた彼を批判していました(警察によれば共産党は危険()団体らしいぞ!)。懐かしい。

 公平、その大いなる勘違い
 最後は潮匡人氏。池田信夫が設立したアゴラ研究所のフェローという肩書だけで眉に唾を付けるに値する人物です。
 氏の主張は、NHKが杉田議員を批判したことに文句をつけるというものです。曰く、杉田議員をまるで大量殺人犯かのように扱う報道は不適切だし不公平だというものです。ここでいう大量殺人犯は相模原の事件の人物のことを言います。

 しかし人を生産性で測るという点に共通点を見出し、杉田記事と相模原事件の犯人とを関連させる主張は、少々ショッキングに聞こえたとしても誤りだとは言えません。生産性を軸に人権保護の是非を決めようとする思想は、そのまま生き死にを決めようとする傲慢さに直結します。

 公平性云々に関する議論については、単に氏が放送法やNHKの放送規定における公平性の意味を取り違えているにすぎません。そこで言われている公平性というのは、単に賛否が分かれる議論に関して双方の主張をバランスよく取り上げるべきという話であり、一方が人権侵害でもう一方が人権擁護だったときにも間に立って両論併記せよということではありません。むしろそのような姿勢でもって、人権侵害を訴える主張を電波に乗せることは放送倫理上許されないでしょう。

 新潮社は最初からクズですよ?
 ちなみに、本件の騒動に関して新潮社の文芸部が批判的なツイートをRTしたことに称賛が集まっています。また新潮45の特集を並べて最近のある時期からおかしくなったと主張するものも見られます。しかし私は、一部に良心ある社員がいることは否定しないまでも、新潮社という会社が最近ではなく随分前から、会社全体として人権の軽視と差別を飯の種にする組織であったことを指摘します。

 直近の例では、週刊新潮は『【綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人】間違いだらけの「元少年」の再犯議論』や『「綾瀬コンクリート詰め殺人」報道はなぜ「共産党員家族」にこだわるのか』で取り上げたように、「綾瀬コンクリート詰め殺人」のかつての少年事件の犯人の再犯を取り上げつつ、当時の少年法を無視した実名報道を正当化し、また事件と直接関係しない家族の政治信条を掘り下げた報道をしています。コンクリート事件は30年以上前のことであり、つまり新潮社は少なくともその時期からこうした問題ある報道を行ってきたということです。
 また海外における買春を正当化しつつ朝日新聞をバッシングする記事も書いています(海外における買春がなぜ批判されるべきなのか参照)。

 少し前の事例では、川崎で発生した少年による殺人事件においても、実名を公表し問題となっていました。この経緯は『川崎事件における週刊新潮の実名報道に大義はない』『川崎事件における週刊新潮の実名報道には正当性もない その1』『その2』でまとめています。ここでも部数だけを目当てにした問題ある報道です。ちなみに、任地でテロの被害にあった自衛隊員の女性を軟弱などとバッシングし続けるだけの記事を書いたこともあります(戦闘による心的ダメージにすら理解がない国防はかなりまずいのではないか)。

 また新書に関してもその信頼性は怪しく内容に乏しいものであったり(『言ってはいけない 残酷すぎる真実』や『死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張』後者は『加害者が本を書くということ』を参照)、内容に見るものがあっても編集の安易な判断なのか信憑性を減じるようなタイトルを付けられる事例(『いい子に育てると犯罪者になります』や『凶悪犯罪者こそ更生します』)が散見されます。

 良心のように考えられている文芸部にしても、『カエルの王国』などヘイトスピーチ最大手の百田尚樹の著作を数多く出版し、氏に文化人としての肩書を与えてしまっているという側面があります。

 つまり新潮社というのは、社全体がヘイトを容認する下地を作り、それが放置された結果が今回であるということです。今回のような事例を根絶するには、そもそも新潮社が社としてヘイトに親和的な方針を取っていることを認識し、それを改めさせなければいけません。

杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 藤岡&小川の双頭編

 前回、『杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編』で宣言したように、新潮45の10月号を読んできました。立ち読みで(ここ重要)。
【特別企画】そんなにおかしいか「杉田水脈」論文
◆LGBTと「生産性」の意味/藤岡信勝
◆政治は「生きづらさ」という主観を救えない/小川榮太郎
◆特権ではなく「フェアな社会」を求む/松浦大悟
◆騒動の火付け役「尾辻かな子」の欺瞞/かずと
◆杉田議員を脅威とする「偽リベラル」の反発/八幡和郎
◆寛容さを求める不寛容な人々/KAZUYA
◆「凶悪殺人犯」扱いしたNHKの「人格攻撃」/潮匡人
 新潮45 2018年10月号
 ラインナップは以上の通り、全部いろいろ酷いのですが、とりわけ最初の二人がやばいので今回はその2つの批判に注力することにします。あと諸事情あって、順序を前後し八幡記事も今回訴状に上げますが、その理由はそのときわかります。

 ちょっと何言ってるかわからないですね
 藤岡信勝は新しい歴史教科書をつくる会の理事を務める経歴の持ち主。氏はご丁寧に杉田記事の要点をまとめ(案外正確に)てくれます。その中で「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです」という記述を紹介しつつ、以下のように述べます。
 曰く、杉田水脈はLGBTに生産性がないとは言っていない、と。

 うん、ちょっと何言ってるかよくわからないですね。「○○という意味で生産性がないとは言っていない」とか、そういう但し書きつきの話かと思ったのですが、何度読んでもそういう意味ではなくマジで「杉田水脈はLGBTに生産性がないとは言っていない」ということしか書いていませんでした。記事中の記述を読み落としたうえでこう書くならまだ理屈はわかるのですが、この記事では筆者は杉田記事の内容を手ずからまとめたうえで断言しています。何を読んでいたんだ。

 生産性という言葉の要点
 それをさておくと、藤岡記事の要点は以下のようにまとめられるでしょう。つまり、杉田水脈は生産性という言葉を確かに使ったが、マルクス主義や上野千鶴子だって生産という言葉を使っているのだから杉田だけを叩くのはおかしい。単なる言葉狩りだ。
 なるほど、確かに藤岡のあげた事例では双方とも生産という言葉を使用しています。しかし自身であげた例で自明となってしまっているのですが、マルクス主義や上野は単に出産という言葉を生産に言い換えているにすぎず、杉田のように生産性でもって政策の優先度、ひいては人間の存在意義を測ろうとはしていません。故にこの批判は的外れなものになっています。
 まぁ、よしんばこの批判が全くもって正しいものだったとしても、それは杉田記事を擁護する理由にならないのは明白ですが。

 性的「嗜好」と生きづらさの矮小化
 小川記事の批判に入る前に、特集全体に見られた傾向についても触れておきましょう。これが小川記事を理解するうえで重要になってきます。
 前回の記事で、杉田記事が性的指向や志向とすべきところを、性的嗜好と趣味であるかのように記述している点を指摘しました。これは異性を愛するか同性を愛するかあるいはその両方かという、自分の意志ではある種どうしようもない、生き方の1つの大枠を決定づけるといっても過言ではない性的指向を、好きな顔のタイプであるとかのような単なる好みや趣味の問題と同列であると矮小化する議論です。このような矮小化をすることで、セクシャルマイノリティの訴えが馬鹿らしく取るに足らないものであるかのように印象づけるのが極右論壇に共通する戦略となっています。

 このような矮小化の技術は、小川記事が見出しにするような「生きづらさ」というキーワードにも関係します。通常、セクシャルマイノリティが生きづらさというときには、もちろん主観的かつ個人的な要素も十分含みつつ、社会制度による不利益も包括する概念として使用されます。というか、主観的かつ個人的な要素による生きづらさも社会制度から不可分ではないので否応なく含みます。しかし政治の局面で生きづらさが語られるとき、それは主に社会制度の側面に言及していると解するのが妥当な読解でしょう。政治で個人的な話だけを語ってもどうしようもありませんから。
 しかし杉田記事は、この生きづらさを「親との関係」という酷く限定的な側面にのみ押し込め、それをもって政治で生きづらさは解決しないと論じています。そもそも生きづらさが個人的な側面以外を幅広く含む以上この議論は誤りなのですが、杉田記事を擁護する勢力もおおむねこの枠組みに乗っかっています。

 結婚は神聖らしいよ
 さて本丸の小川記事、当人曰く論文ですが正直記事というレベルにすら達していない代物です。大学生でももっと上手な文を書くでしょう。
 氏の記事にはツッコミどころが多すぎるのですが、とりわけ酷いのは「人間ならパンツを穿いておけよ」のくだりと自身の造語によるSMAGを使用した議論です。
 前者に関しては、まさに前述の「矮小化」を発揮していると言えるでしょう。異性愛がそうであるように、同性愛もまた単にセックスの様態の話だけではなく、誰に恋し誰とともに人生を歩むかといった生き方の大枠そのものの話です。それを単にセックスだけの話であるかのように矮小化し論じる姿勢は誤りです。

 よしんば氏の言う通り、同性愛があくまで個人の趣味の範疇であったとしても、やはり氏の批判は失当というほかありません。というのも、仮に同性愛が趣味であるなら異性愛もまた趣味でしかありえず、同性愛者に「人間ならパンツを穿いておけよ」と言うのであれば異性愛者にも同じことを言わなければ筋が通らないところを、氏は全くそんなことを言っていないからです。
「そもそも私が言う結婚には、近代的な権利よりも遥かに古い、宗教的な淵源があるもの。親族共同体、民族共同体のなかで男女を言祝ぎ、その永続を祈っていく、それが本来のあり方。それが近代になって法律を作り、家族制度を整えた。そのことについて否定はしないが、同性愛に何万年もの歴史があるのに対し、同性婚ができたのはこの10年、20年。つまり、人類は数万年にわたって色々な形で同性愛と共存したけれども、婚姻とは結び付けなかった。このことに対する慮りがない傲慢さは信じられない。この長さこそ決定的だということが私のような保守的な人間の基本だ。近代に生まれたイデオロギーというのは50年後、100年後に変わる可能性がある。
 「じっくり文章を読んでくれれば対話点は見つかる」杉田水脈議員″擁護″を「新潮45」に寄稿した小川榮太郎氏が生出演で語ったこと-ライブドアニュース
 上記は新潮45発売後にネットの番組に出演した氏の発言ですが、記事中でも同様の、結婚に関する論旨不明かつ真偽不明な主張を繰り返しています。少なくともこの言及からわかるのは、氏が異性間の結婚に宗教上の理由で特に重きを置いているということだけで、同性婚に反対する理由には一切なっていません。

 痴漢に触る権利を!
 後者については、もやは本人は真面目に書いたのかいとまずそこを確認したくなる仕上がりです。だいたい、一読しただけで理解できた読者がどのくらいいるのでしょうか。
 SMAGはサドとマゾ、お尻フェチと痴漢を指す氏の造語です。なんでこんなものが出てくるのかというと、あくまでLGBTは趣味に過ぎないので彼らの権利を認めるのであれば同様にSMAGの権利も認めるのが筋だろう主張しているからです。これも前述の矮小化が効いているところです。
 なおこの部分に関して、小川が痴漢の権利を要求していると解釈する向きがありますが、厳密にいうとそれは正確な読解ではありません。あくまで反語的な意味として、こんなとんでもないこと認められないでしょう?という話で出てきています。まぁそこは大した問題じゃないんですけど。

 そもそもLGBTを趣味として解釈している時点でこの議論には意味がないのですが、それに加えて、他者の人権を侵さない限り特段差別されているとはいいがたいSMAを引き合いに出すところ、またその3つとは明らかに異質な痴漢を並べてしまうところに議論の意味不明さをブーストさせる力があります。
 痴漢は言うまでもなく犯罪であり、小川が引き合いに出した3つの趣味とは違いその成立に必ず他者の人権侵害を伴うものです。これを並べ、さらに被害女性の苦悩を自身のLGBTを見ると苦痛なのだというただのわがままと並列する愚を犯しています。要するに身体上の侵害と快不快の問題の区別すらついていないというわけです。奇しくも表現の自由戦士がどうあがいても問題を快不快でしか捉えられないのと同じように、氏もこの問題を自身の快不快という側面からしか捉えられず、故に人権侵害であるというレベルの議論に参画できないのです。自分の持つ側面でしか物事を捉えられないという、人間の想像力の限界でしょう。

 単なる事実誤認のオンパレード
 ちなみに指摘しておけば、小川氏の言うような「女性の匂いを嗅いだら自動的に手が動いてしまう」ような痴漢の存在はまれでしょうし、痴漢が「制御不能な脳由来の症状」という証拠も特にありません。『男が痴漢になる理由』が指摘するように、痴漢は多かれ少なかれざっくばらんにでも計画を立てるものですし、その動機は女性に対する認知の歪みです。氏は痴漢に関する見識も時代遅れであることがわかります。
 著者のインタビューを掲載した以下の記事も参照してください。
 また、小川氏は寄稿文の中で、痴漢を繰り返す行為は「脳由来の症状」である、と綴っている。
 しかし、「痴漢行為は『脳由来の症状』ではありません」と斉藤氏は指摘する。
「痴漢などの性暴力は、加害者が社会の中で学習して引き起こされる行動で、脳の病気ではありません。痴漢加害者は、時と場所や相手、方法を緻密に選んで痴漢行為を行います。泣き寝入りしそうな相手を選んで行動化しているんです」
(中略)
 「痴漢は『選択された行動』にもかかわらず、それを『脳由来の症状』と過剰に病理化してしまうと、加害者の行為責任を隠蔽することになりかねません」
 小川氏は、痴漢行為について「制御不可能」と表現している。
 斉藤氏によると、痴漢を「脳由来の病気」による行動と決め付けたり、「男性の性欲はコントロールできないものだから仕方がない」と性欲説で曖昧にする論説はこれまでにもあったという。
 しかし、痴漢行為は決して「やめられない」わけではない。
「こうした表現は、性暴力の問題をうやむやにするための巧妙な論法として今まで社会の中で前提の価値観として共有されてきました。しかし、脳由来の問題とすることで、痴漢や性暴力の問題を矮小化することに繋がり、結果的に加害者を助けてしまうことにも繋がります」
「脳由来の病気とすると、性犯罪者は手のつけられない『モンスター』のような存在ということになります。そして、その人は『痴漢をやめられない』ことになる。しかし、性暴力とは、学習された行動であるからこそ、学習し直すことで必ず止めることができます」
「時間をかけて正しい治療教育を受けることで、痴漢を繰り返してしまう人から、痴漢をやめ続けることができる人になっていきます。しかし、それが小川氏の主張によって、性暴力の再犯防止に関する誤解が広がってしまう恐れもあります」
 痴漢とLGBTの権利をなぜ比べるのか。「新潮45」小川榮太郎氏の主張の危険性、専門家が指摘-ハフィントンポスト
 このように犯罪をセクシャルマイノリティと並べ同列であるかのように論じるのは、氏の論述能力から言って意図的であるとは思えませんが(十中八九偏見が並んだというだけでしょう)、犯罪をスティグマとして利用しセクシャルマイノリティを貶める効果を持つ恐れがあります。氏の文章は痴漢を趣味の範囲であるかのように矮小化すると同時に、それに対する一定妥当な印象をマイノリティに擦りつけようとするものであり、犯罪学ブログとしては看過できません(それが、8月時点では杉田記事に言及しなかった本ブログがこの時点で批判に乗り出した大きな理由です)。

 従来、マイノリティは犯罪性を有するものとして解され、それを理由に差別が正当化されていきた歴史があります。セクシャルマイノリティに関しても例外ではなく、事実とは乖離して性犯罪と親和性があるように語られてきました。しかし言うまでもなくセクシャルマイノリティと性犯罪は本来別物であり、偏見でマイノリティを論ずることはあってはなりません。

 また、氏の記事には染色体に関する事実誤認もありました。氏曰く染色体にはXXかXYしかないそうですが、犯罪学者的にはXXYの存在を忘れるわけにはいかないでしょう。ロンブローゾ曰くの生来的犯罪者とされた染色体異常です。
 もっとも、仮に染色体に関する記述が正しかったとしても、遺伝医学と優生学の結びつきを考えれば遺伝によって政策を云々する言及が許されないことは言うまでもありません。

 ヘイト雑誌の恐るべきコスパ
 さて、最後に八幡記事ですが、この記事に見るべきところはありません。というのも、これは前回触れた月刊Hanada10月号の記事とほとんど内容が同じだからです。驚くべきことに、科研費を出汁に某学者を叩くところまで一緒という凝りよう、もといコピペようです。

 ヘイト雑誌の中身が塑造乱造であることは話に聞いていましたが、我が身で思い知ったのは初めてのことだったので驚いてしまいました。もっとも、小川記事における事実誤認や「調べる気もない」という記述からしていい加減なものであることは明確でしたが。
 ヘイト雑誌は他の雑誌記事に比べてコスパがいいと言われます。それはまず、まともな校閲を飛ばすことで人件費を抑えることができるからでしょう。校閲が入ればこのようなシンプルな事実誤認を放置するわけがありません。また八幡記事でも明らかなように、明確なコピペ記事であっても読者から文句が出ないので、大量の記事を安く早く上げることができるというメリットがあります。

 一方、このブログ記事のようなものは、正確性を重視する必要があるため、書くのに時間がかかります。ここまでで都合1時間半くらいはかかってます。書くべきことを正確に書き、論旨を明確に整えるためには、内容が簡単でありきたりなことでも時間がある程度かかるのです。これはヘイト雑誌とそのカウンターにおける非対称性です。
 そのため、ヘイト雑誌は単に論壇上で反論し叩き潰すだけでは不十分、というかそれは困難でしょう。重要なのはそもそも出てこないようにすることですが、現在の日本社会でそれが可能かどうかは微妙なところです。

杉田水脈の『LGBT発言』とその擁護が酷すぎる 前提確認&月刊Hanada編

 杉田水脈が「LGBTに生産性がない」などというどストレート発言し物議をかもしたのがだいたい2か月前。そんな彼女が(ってわけではないけど)早々たる面々を引き連れて、新潮45が再び特集を組みました。
 が、私が内容を確認しようとしたところ、まだ本屋に来てませんでした……。

 なので今回は、そもそも杉田記事の何が問題だったのかを再確認しつつ、たまたま見つけた月刊Hanada10月号の擁護記事の問題を指摘する前哨戦とします。

 なお杉田水脈に関しては「なんか高額な気がする」以上に根拠のない科研費への攻撃(「科研費で政治活動」という批判の無意味さ)と典型的なセカンドレイプについて(世界に出荷される保守政治家の無知と無恥)すでに取り上げています。

 そもそもの問題点
 もう2か月も前になる記事の内容を確認するのは容易ではありませんが、しかしこれだけ問題となる記事だと、全文を引用しているサイトがありました。ちょっと多めになりますが、関係する箇所だけ引用しておきましょう。
 この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。
(中略)
 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
 どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
(中略)
 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
(中略)
 一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
(中略)
 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。 「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。
 杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)-Skeltia_vergber on the Web
 ここでポイントは主に2つ。1つは氏のセクシャルマイノリティに関する無理解、もう1つは生産性という言葉の使い方及び政策の優先順位のつけ方です。

 前者について、氏は日本にセクシャルマイノリティに対する差別がないと断じますが、それがそもそも前提として間違っています。例えば一橋大学では同性愛者としてアウティングされた学生が自殺するという事件が発生していますし、そもそも同性婚が認められないという事実をもってして日本ではセクシャルマイノリティが差別されていると判断することも不足ではないでしょう。少なくとも日本でセクシャルマイノリティが差別されていないと断ずる根拠は特にありません。
 またゲイやレズビアンを「性的嗜好」を表現しているのも誤りです。普通は性的指向だとか志向というように表現し、単なる趣味以上のものであることを示します。我々異性愛者が気分次第で異性を愛するか同性を愛するかをころころ変えることができないのと同じくらい、同性愛者もそうであろうという予想は容易につきます。
 もっとも、両性愛者の存在からもわかるように、そこまで異性愛と同性愛が区別できるとは限らないとも言えます。氏は男子校や女子高の事例でこの不安定さを指摘しますが、不安定だから人権の保障に値しないという理由にもならないでしょう。そして、「普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません」と書いているように、氏は異性との結婚を幸福と規定していますが、それは性的指向のいかんに関わらずその人次第です。

 後者について、氏は子供を作るかどうかという点を「生産性」という言葉で論じています。しかしここには2つの問題が含まれています。
 1つは、そもそも子供を作ることだけが生産ではないということです。子供を作る以外にも社会に貢献する手段はあるでしょう。ゆえにセクシャルマイノリティだからといって生産性がないというのは早計です。しかしこの議論はあまり本質的でもないので割愛します。
 2つ目は、そもそも人をどのような側面であっても「生産性」という尺度で測ることが間違っているという点です。人は生産をするために生まれたわけではありません。生産するために結婚するわけでもありません。国家としては生産を基準に考えるのが都合がいいのでしょうが、しかし市民がそれに従う理由も義理もないのです。ゆえに、生産性がなくても生きていていいし、生産性がなくても異性愛者と同じ結婚する権利を求めてもやはりいいのです。

 月刊Hanada記事の批判
 さて、本当はもっと大事な批判点があるのですが、話を分かりやすくするために先にこちらに言及しましょう。それは月刊Hanada10月号に掲載された『杉田水脈議員へのメディアリンチ』という、八幡和郎氏による記事です。法学部出身なのに歴史の本を書いている時点で察してください。

 氏の記事の要点も2つ。まず馬鹿馬鹿しいほうから片付けると、これは杉田水脈はLGBTを差別していないという用語です。しかしその根拠が「本人が偏見がないと言っている」という程度のものであり、これなら世の中に差別主義者は誰もいないということになります。
 ちなみに氏の擁護にはもっと酷いものがあって、特にTwitterで記事を論難していたある学者について「科研費の疑惑を追及されたから焦っているのでは」などと書いていますが、これでは「ズボシ!顔真っ赤!」などと言い出すネットの議論と大差ないでしょう。こんなことなら初めから記事を書かないほうが擁護になったのでは。

 もう1つのほうが重要で、あえて残していた杉田記事の批判点とも重なるのですが、これは記事がLGBTへの差別や偏見ではなく、単に政策上の優先順位の話に過ぎないというものです。
 なるほど、確かにリソースが有限である以上どうあっても政策には優先順位がつかざるを得ません。また杉田記事は「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と書いているように、政策の優先順位の話とも解釈できるような書き方になっているので(まぁ字面通りに解釈したらやはり「税金を投入するな」と書いてある用紙にか読めませんが)、そこで擁護の余地が生まれるというわけです。

 しかしそもそも、子供を産むかどうかという「生産性」で政策に優先順位をつけるのがおかしいという話をしなければなりません。政策の内容にもよるので一概には言えませんが、セクシャルマイノリティへの政策で論じられているのは結婚する権利であるとか、学校職場その他で性的指向を理由に差別されたり悩まないで済むような対策といったものであり(それがざっくばらんに「生きづらさ」と表現されているわけです)、それは人権上の要請と考えるべきものです。そして人権上の要請は最優先で対処されなければならないはずです。それに優先順位があるとすれば、範囲や規模の大きさとか緊急性とかの話になるはずであり、少なくとも生産性の話にはならないはずです。

 生産性というタームにより優先順位を設定することは、例えば病床人や高齢者は生産性がないので困窮しようが放置しようという話に繋がります。そして何をもって生産性があるとするのか、何をもって優先とするのかを決めるのは大抵の場合社会のマジョリティであり、生産性が低いとされがちなマイノリティの苦悩を直感的には理解できず、また理解しなくても生きていける層であることは認識しなければいけません。

 要するに、杉田記事や擁護者の問題は、人間を生産性でもって判断しようというところにあります。しかし人間は生産のために生まれたわけではないので、生産性が低くてもなんら問題はないのです。

「正義の暴走」なんて存在しない

スクリーンショット (3)

 こういう質問をもらって、どうやって答えようかと考えていました。

 そもそも「正義」って?
 そもそも「正義の暴走」なる現象を論じるには、暴走する主体として想定されている正義そのものがどのようなものであるかを把握する必要があります。
 正義とは、一般的には正しいとされる道徳概念です。概念というのはいささかわかりにくいので、目標のようなものと考えればいいでしょう。「人は生まれながらにして平等である」というのが正義ならば、それは目指すべきものという意味で目標と同義でしょう。

 正義は暴走しない
 正義を目標と同じようなものであると考えれば、これが暴走するという状態は考え難いことになります。仮に何らかの目標へ向かう力が暴走と表現できる状態に陥るとすれば、それは手段の暴走とか、その目標に向かう意思(善意とでも表現できる)の暴走というべきでしょう。
 かつて『「主張がクソ」と「手法がクソ」は分けて考えるべき』で述べたように、手段の是非とその目標の是非は分けて考えられるべきです。ある運動の手段が批判されるべきだとしても、その主張自体が批判されるべきとは限りません。まぁ、くそな主張をする人々は手段もくそになりがちですが、逆が真とは限らないわけです。
 ゆえに、正義の暴走と通俗的に言われる事態は、たいていの場合その目標を達成する手段において問題があるというだけだったりします。このようなものを「正義の暴走」と表現することは問題の焦点をぼかす効果しかありません。

 質問で述べられているオウムや宗教戦争というのは、その目標(=正義)はさておくとしても手段に多くの問題をはらむものであることは論を待ちません。これを正義の暴走と表現すると、その目標に問題があるのか、手段に問題があるのかその双方なのかがよくわからなくなってしまいます。
 また質問でゆらぎ荘や幸色に対する批判も一緒くたに正義の暴走と表現している旨が書かれていますが、これは単にその人が現状存在するものへの多少強い批判をすべてそのように評しているだけであると思われます。「正義の暴走」という表現は何かを言ったようで便利かもしれませんが、どのみちその中身を論じなければ意味がありません。手段がだめなら何がだめなのか、主張がだめなら何がだめなのかを論じなければ結局何も言っていないのと変わりがないでしょう。

【書評】歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化

 今回は犯罪とは直に関係あるわけじゃありませんが、今後を考えると押さえておいた方がいいかなぁと思って読んだ一冊。大当たりでした。
 本書は歴史修正主義の普及を社会学、とりわけメディア文化の視点から読み解いたものです。私は社会学の専門ではありませんし、ましてやメディア文化とかさっぱりなので今回は偏った読みになることは承知の上で気になったところをまとめ、自身の興味につなげて発展させる読みをしようと思います。全般的に本書を知りたい人はぜひ手に入れましょう。いい本です。

 ゲームのルールが違う
 歴史修正主義者とは基本、話が通じません。この理由に関してはかつての議論でも「バカだから」「アホだから」みたいな理由が考えられていましたし、それ自体は一因かもしれませんが、著者は「ゲームのルールが違う」という点を取り上げます。
 これは本書で初めて知ったことですが、歴史修正主義者は「歴史をディベート」することに熱心です。実際歴史ディベートなるものを題材として著作も多く出版されています。著者によれば、ディベートは歴史学的な通説と怪しげな新説を対等な舞台に並列し、かつ「もっともらしさ」という学問ではありえない基準で勝敗を決します。そして本の中では仮想的に歴史修正側が通説側を「論破」することで読者に快感を与え自分たちに正義あり!と盛り立てていきます。確かに、『犯罪学と嫌韓流 その交点』で書いたことがありますが、かつて読んだ『マンガ嫌韓流』は論敵を思いきり醜く愚かに描くことでネトウヨ側が勝利するという構図でした。もっとも私はその露骨さにある意味助けられネトウヨにならずに済んだわけですが。

 通常、歴史学者や私を含むその成果を重んじる立場の人たちは、学術的なあるいは論理的なルールに則って歴史的事実の立証を試みます。資料を読み解き証言を聞き集め、そのすべてを総合した先に映し出されるものが歴史的事実です。しかし歴史修正主義者は、そのようなルールで動いていません。彼らは歴史を学問として立証される事実ではなく解釈の問題であり「民族の物語」であると規定します(やたら彼らが「歴史の授業で日本を誇れるように」と意味不明な文言をうわ言のように言っていた理由がわかりました)。そしてそれを説得するためにディベートの手法、つまりもっともらしく主張し、手数を叩きこむ手法を用います。
 このブログに寄せられるネトウヨと思しき人たちの議論に関して、常々「コピペっぽい」「いくら同じようなことを主張しているとはいえ、言い回しが似すぎじゃないか」とか考えていましたが、これもディベートというタームで読み解けます。歴史ディベートの書籍には「こう言われたらこう言い返せ」式のマニュアル本のようなものがあり、ディベートそのものが機械化しているようです。本来ディベートは、教育的には知的なものだと位置づけられていたはずですが、これでは知的退廃もいいところです。

 小林よしのりの罪は重い
 安倍政権の長期化が確固たるものとなり、ネトウヨが増殖を続ける昨今、小林よしのりが左派っぽくふるまうことが目に付いていました。おめーがネトウヨ作ったくせに何良識派ぶってんだこいつはとか思っていましたが、実際(幸いなことに!)ネトウヨ文化には疎いのであまり云々することもできず苦々しく思っているだけでした。
 しかし本書を読んだ後なら自信をもって「小林よしのりはネトウヨの製造物責任を取れ!」と声を大にして言うことができます。

 本書では小林よしのりがSAPIOで連載している『新ゴーマニズム宣言』の発展を扱っています。そこを読むと、いかに彼がネトウヨの製造と普及に「貢献」してきたかがわかります。
 詳しい解説はそれこそ本書に譲りますが、小林は読者を煽りその熱を利用してゴー宣を発展させていきました。なるほど、読者の「あっ、俺作者に見てもらえている」観を利用すると読者の熱量が上がっていくというのは、私は作者読者の両面で経験則的に知っていることですが、これを意図的にうまく利用するというのはかなり難しい。ある意味では小林の手法というのは、著者曰く既に登場していた論壇誌の手法の後追いだったとしても「天才的」だと、渋々認めざるを得ないところです。
 だからこそ、今まさに小林がネトウヨを否定し、自身が良識的な保守(なんてものがあればの話ですが)であるかのように装うことは厳しく非難する必要がありますし、左派も「保守の理解も得られているパフォーマンス」に小林を安易に使うことはやめるべきです。

 我々はネトウヨとどのように「ゲーム」すべきか
 本書の最後は、歴史修正主義者との議論に際しては彼らの「知」のあり方を熟議すべきだと論じています。ここは本書唯一の不満点です。著者はその直前で「彼らの主張にどのような真実もない」と結論していますし、そもそも本書の議論はまさに彼らの知のあり方の熟議の1つであったはずです。であれば、困難な課題でありつつもそのような知のあり方を受けてどのような対策がなされるべきか方向性くらいは示してしかるべきではなかったでしょうか。

 では改めて、歴史修正主義者やネトウヨたちと対峙するために我々は何をすべきでしょうか。彼らの「ゲームのルール」に則り、そのうえで叩きのめすべきでしょうか。これは日本中の知性を結集すれば可能に見えます。しかしそもそも、彼らのルールは彼らに有利な「傾斜」が存在することを意識しなければいけません。
 最大の傾斜は感情です。人はふつう不快よりも快を求めるものです。「あの戦争で我々は加害者だった」よりも「被害者で解放者だった」を、「日本は差別の蔓延する国だ」よりも「日本スゴイ」を求めるものです。当然、私だって気持ちいい方が好きですから、気を抜けばそっちへ転がる危険性はあります。
 それを関連する強固な傾斜が、人間は各々を平等で差のないものであるというよりは内と外に分かれるものだと認識する習性です。そして内側を贔屓する習性もあります。最小集団実験のように、意味のない集団にすら贔屓が生じます。人間は必ず習性通りに動くものではありませんが、これもまた気を抜けばそちらへ転がることを意味します。
 そして最後に、向こうはこちらと違っていくらでも嘘をつけるという傾斜があります。同じルールに則るといってもここだけは譲れない一線です。例えばこちらが「この資料からこういうことがわかる」と言って、向こうが苦し紛れに「その資料は日付が間違っているぞ」と言ったとしましょう。これは5秒で考えた出鱈目ですが、事実を重んじるこちらは一応確認しないといけません。そしてその指摘が当たらないことを説明しなければいけません。それをささっと10分で済ませたとしても、その間に向こうのデマは1000RTとかいっているわけです。しかも向こうは、こちらの説明を「わからないふりをする」こともできます。これは重大な傾斜になります。

 このような傾斜がある以上、彼らの主張は絶えず批判しなければいけないとしても「ゲーム」をしてはいけません。方法があるとすれば、トップダウンで主張を叩き潰すくらいです。つまり政府が何度も繰り返し「差別はいけない」とか「かつての加害を忘れない」とか言うことです。いまはむしろ差別と虚偽を是認するかのような言説が政府でもまかり通っているので酷い状況になっているとも言えます。
 いまの現状で、まともな人権感覚と歴史認識を持つ責任者を政府に立てるのは絶望的に見えるかもしれませんが、そこまで不可能なことでもないと思います。きっかけは何でもいいのです。フランスでは死刑廃止が主要な論点ではなかったものの、政権を取った人々は死刑廃止を推し進めました。そのように、経済だとかの別のきっかけで立った人たちが人権感覚や歴史認識をまともな方向へ引っ張り戻す可能性はあります。
 もっとも、この方法も抑制策にすぎません。ドイツですらそうであったように、歴史修正主義が再噴出する可能性は否定できないのです。

麻生太郎のセクハラ擁護発言は「ネットの議論」の本質をついている

(前略:3分50秒ごろから)
麻生:セクハラ罪ってないでしょ
記者:それだけですか?
麻生:セクハラ罪って罪があるの?
記者:批判を浴びていることについてはどういったご見解でしょうか。
麻生:セクハラ罪って罪があると思ってらっしゃるんですか?よくわかりませんけど、セクハラ罪って罪はあの、いわゆる、罪としては親告罪であって、意味わかります?
記者:続けてください。
麻生:いや、わかんないんだったら説明しても意味ないだろ?セクハラ罪って罪はありませんから。親告をされた、まだ、訴えられているって話も伺ってませんから、セクハラ罪って罪はないってことを申し上げた、事実を申し上げただけです。
 これの件です。
 この前からずっと「セクハラ罪はない」 などと意味不明な供述を繰り返していた麻生太郎ですが、この発言で余計に意味不明さが増しました。試しに該当部分を書き起こしてみましたが、やはり意味不明です。
 福田淳一前財務事務次官のセクシュアルハラスメント問題を受けて、麻生太郎財務相は、「セクハラ罪っていう罪はない」と事務次官をかばうような発言をしました。他方、野田聖子女性活躍担当大臣は、セクハラ再発防止策に向けた検討を始めると述べたということです。このような状況のなかで、セクハラに関する現行法の問題点について、ハラスメント法制に詳しい、独立行政法人 労働政策研究・研修機構(JILPT)の内藤忍副主任研究員にお伺いしました。
(中略)
 そうです。その均等法です。セクハラについては、民間と公務員の職場では適用となるルールが違います。まず、民間の職場では、均等法の11条にセクハラに関する規定があります。この11条は、事業主(会社)に向けたものになっています。つまり、セクハラの予防、相談窓口の設置、セクハラの事後対応の義務*は、会社が負っているのです。そのため、セクハラに対応する義務があるのは、均等法上、会社だけなのです。
(中略)
 しかし繰り返しますが、均等法も人事院規則も、基本的に会社のセクハラ対応義務だけなのです。つまり、「セクハラをしてはいけない」という禁止の規定がないのです。禁止の規定がないので、禁止の対象となる行為の定義もありません。
ー定義がない?
 そうなんです。均等法等には実は、「セクハラはいけない」とか「してはいけない行為はこれこれですよ」という規定、つまり定義規定がないので、裁判で訴える場合の根拠にはなりません。そのため、裁判となると、加害者の責任は、民法上の「不法行為」に該当するかどうかで判断するしかありません。セクハラについて明文の法規定がないために、企業にとっては、どういったセクハラが違法だと判断されるかが事前に分かりにくい状況になっています。
 「セクハラ罪」が今の法律で問いにくい訳――内藤忍さん(JILPT)に聞く-ヤフーニュース
 確かにセクハラ罪という罪はありません。刑法上の規定でもそうですし、実は男女雇用機会均等法の上でも明確な定義をもって禁止されているわけではないようです。しかしいま問題となっているのはセクハラ罪の有無ではなく、自身の部下のセクハラが問題となっているなかでそのような発言を繰り返す態度のほうです。
 またセクハラ罪という罪がないのであれば、セクハラが親告罪か非親告罪かという話にはならないはずです。ゆえに「セクハラ罪はない」という主張と「セクハラ罪は親告罪で、告訴がないから云々」という主張は両立しません。なのに麻生はこの2つの主張を平然と両立させています。

 麻生発言は「ネットの議論」の典型例
 実はこのような議論のスタイルは、ネットの議論では頻繁に目にすることができます。
 このパターンは反論として同一人物から繰り出されるAとBは両立せず、しかしそれ単体では反論としてある程度説得力を持つというのが特徴です。「反表現規制」派が「ゲームに影響されるバカはいない」と「ゲームは犯罪を抑止する」を同時に言ったり、ネトウヨが「太平洋戦争はアジア解放のためだった」と「太平洋戦争はコミンテルンの陰謀で起こされた」を同時に言うようなものです。
 通常、議論を起こす際には自身の中に確固たる1本の持論が存在しています。その持論を成り立たせるためには、その根拠となる主張は相互に矛盾することはあってはなりません。矛盾が生じればそのまま持論が崩壊しかねないからです。しかしネットの議論ではいともたやすく矛盾が起こります。
 これはネットの議論が、持論の展開ではなく「相手を論破する」ことに重きを置いているからです。いわゆるゲーム感覚のディベートでしょう。だから持論はそもそも持っておらず、相手へ反論できるカードをとにかくたくさん提示すれば勝ちなので、そのカードAとBとの間にある矛盾は気にならない、ある種の死にステータスのような扱いを受けるのです。

 麻生のような、ネトウヨを擬人化したようなスタイルの議員にもこれは当てはまります。彼は「記者や口うるさい野党を黙らせたい」という一心で発言しており、その発言に当人の確固たる見識など存在しません。そのため、「セクハラ批判を黙らせる」という目的でなされる反論AとBとの間にある矛盾は彼にとって何の意味も持たないのです。
 もっとも麻生発言の場合、A「セクハラ罪はない」は事実としてもB「セクハラ罪は親告罪」というのは意味不明で、仮に強制わいせつのことを言っているのであればこれは昨年非親告罪になったので誤りです(国会議員なのにそんなことも知らないの?)。セクハラ罪の有無は法律の規定の問題なので、被害の親告がないからセクハラ罪がないというのもやはり意味が分かりません。麻生発言はそれ単体としてみても破綻しています。
 唯一解釈可能なのは、「セクハラ罪」を法律上の罪の話ではなく福田前事務次官のセクハラそのものであると解することです。そうすればAは「セクハラの事実はない」と、Bは「親告がないのでセクハラはない」と解釈することができるので一応筋が通ります。もっとも前後の文脈からそれは考えられません。音声まで出ているセクハラをあそこまで自信満々に否定すればやはり大臣としての資質が問われますし、被害者が訴え出ていないなら被害はないとみなすという姿勢も同じことです。

 秘儀:論点ずらし
 もう1つ、ネットの議論にありがちなのは、矛盾し支離滅裂な主張の中に「それ自体は事実である」というものを入れ込み、それ単体の正しさを自身の主張全体の正しさに無理やり援用しようとする手口です。これは「記事の日付が正しいから虚報新聞の記事は正しい」と言っているようなものです。
 またこの手口は、支持者を動員した「論点ずらし」とも組み合わせて使われます。現在問題となっているのは主張の根拠Aの正しさではなく、それが根拠として使えるかといった議論総体の正当性であるにもかかわらず、Aの正しさを問題とすることで本来議論すべき問題から目をそらす手口です。
 報道ステーションで「セクハラ」の問題をまたやっていた。
 麻生太郎が「セクハラ罪はない」と言ったらしいが、間違っているのか?
 日本の法律にセクハラを違法として裁いて罰を与える条文があったか?

 麻生太郎は事実を言っただけじゃないか!
 セクハラが「モラル」としてダメということ、「マナー」として美しくないということくらい、麻生大臣も知っているんじゃないのか?
 大雑把な喋り方は麻生太郎の個性であって、そのくらい一般庶民なら分かってるんじゃないか?

 セクハラに対して、罰を与える法律を作るべきと言うなら、やってみな。
 共謀罪と同じ「自由」を著しく損なう危険な法律になるだろう。
 共謀罪で反対したように、わしは「自由」を狭める恐れのある法案には反対する!

 しかし「報道ステーション」の欺瞞は甚だしい。
 メイン司会は男がやって、サブに女が控えていて、硬派なニュースの解説は男がやるという体制じゃないか。
 男女が対等と言うなら、司会の男女を入れ替えろよ。
 硬派な解説も女にやらせろ。

 セクハラは欧米でも消滅してはいない。
 日本だけが遅れているんじゃない。
 男尊女卑はフランスでも残存している。

 それでもわしはセクハラを発見したら、批判はする。
 「モラル」として、「マナー」として、批判し続ける。
 報道ステーションのセクハラ欺瞞-BLOGOS
 その典型例は小林よしのりによる擁護です。いま問題となっているのはセクハラ罪の有無ではないのに、「麻生太郎は事実を言っただけじゃないか!」とこれそのままでコピペなのではないかというくらい綺麗な例文で強弁するということをしています。
 小林の記事はそのような論点ずらしのほかに、ネットの議論にありがちな手口をほとんど網羅しています。麻生発言の正当性を強弁した後はマスコミや欧米にもあるセクハラを問題視することで麻生発言の相対化を図ります。いうまでもなく、いま問題になっているのは麻生発言でありマスコミや欧米の現状がどうであれ免責されるわけではありません。
 そして最後に「でもわしはセクハラは批判するぞ!」というエクスキューズで締めるという、ネトウヨの生みの親の面目躍如といった記事に仕上がっています。こんな記事を書く人間がきちんとセクハラを批判できるとは到底思えません。

 「答えない責任」を記者に転嫁
 かように、麻生の不誠実さを証明し資質を問う証拠はいくらでも登場するのですが、最後に1つだけ。
 上掲の動画の続きを見ると、記者が男女共同参画の観点から女性議員の数を増やすことについて尋ね、なぜか麻生がその質問に対する答えではなく「いま男女比がどうなってんの?」と記者に逆質問をするというシーンがあります。そして肝心の質問には答えません。
 この会見だけではなく、麻生は往々にして「記者に逆質問をして答えない」という手口を用います。このような手段はかの石原慎太郎も都知事時代に用いていました。
 この手口は、記者からの質問に答えなかったという自分自身の責任を、記者が不勉強で意味のない質問をしたのだという記者の責任に転嫁するという機能を持っています。こうして強気な態度に出ておけば支持者が「無知蒙昧な記者を俺たちの麻生が一刀両断!」と喜ぶことまで計算されています。
 このような手口は「情報を与える大臣と与えられる記者」という権力関係なしには成立せず、パワハラに近い構造を持っていることもわかります。セクハラ擁護大臣にはぴったりの手法と言えるでしょう。
 財務省は9日午前、外部の弁護士を講師に招きセクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)の再発防止を目的とした研修会を開いた。
 福田淳一前事務次官がテレビ朝日女性社員に対するセクハラ問題で辞任したことを受けた措置。財務省はセクハラ研修会を定期的に開催する方針だ。
 研修会は大臣官房や主計局、主税局、理財局などの総務課長級以上の幹部約80人が対象。岡本薫明主計局長、星野次彦主税局長、太田充理財局長らが出席した。麻生太郎財務相は参加の予定がなく、次官職務を代行している矢野康治官房長は国会対応のため欠席した。
  財務省でセクハラ防止研修=局長ら幹部が参加-時事通信
 そんなセクハラ擁護大臣は、自身の担当する官庁で行われるセクハラ研修会に出席することすらしなかったようです。「矢野康治官房長は国会対応のため欠席した」とわざわざ断ってあり、麻生にはそれがないことから予定を入れることすらしなかったようです。
 いい加減、公の舞台から退いてもらうべきでしょう。

「科研費で政治活動」という批判の無意味さ

 自民党の杉田水脈議員が扇動者となって、最近科研費に対する攻撃が盛んになっています。
 基本的に科研費は、専門家によって計画が厳しく精査され、またその使途も「消耗品に使えなくて困る」という悲鳴が上がるほど厳しいものでした。故にこのような指摘は基本的に事実に基づかない出鱈目なものです。
 そのようなシステム周りの説明は私より詳しい人が散々批判を加えているのでそっちはお任せして、本ブログではもう少し枝葉末節ながらも重要な部分に対して批判を加えていきましょう。
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 その重要な部分というのは、この科研費に対する攻撃が、元来牟田和恵氏のようなフェミニズム研究者が開催していた上掲ポスターのようなシンポジウム(2016年開催のイベントが今更やり玉に挙がっているというのが、この攻撃の性質をよく表してるように思えます)に対し「科研費を政治活動に使っている!」という言い方でなされたことに端を発しているという点です。

 研究知見を社会に還元するのは研究者の仕事の1つ
 研究成果を明らかにし、論文以外の形でも社会に広く公表し還元していくのは研究者一般に求められている職務の1つです。科研費は攻撃者がお題目のように言うように「国民の血税」であるがゆえに、むしろ広く成果を公表する必要性はほかの研究に比べて高いといえるでしょう。
 そして科研費は、そのような成果を取りまとめるための事業にも使用できることが明示されています。
【Q4101】科研費の「補助事業」とは何を指すのでしょうか?
【A】研究課題に係る「研究の実施及び研究成果の取りまとめ」が補助事業の対象となります。
(中略)
【Q4104】科研費の使途に制限はありますか?
【A】科研費は採択された研究課題の研究を行うための研究費であり、対象となる研究課題の「補助事業の遂行に必要な経費(研究成果の取りまとめに必要な経費を含む。)」として幅広く使用することができます。
 しかし、研究活動に使うといっても、対象となる研究課題以外の研究に使うことは目的外使用になり認められません。また、ルールにしたがって使用することが求められており、研究者の勝手な解釈によってルールに違反して使用した場合には、不正使用として返還やペナルティが科せられることになります。
 科研費FQA-日本学術振興会
 そのような社会的要請と科研費の制度により、上掲ポスターのようなシンポジウム開催に科研費から費用を捻出することは問題がないといえます。仮に問題がある支出があれば今頃学術振興会が動いてるでしょうし。

 政治性がある=政治活動 ではない
 しかし彼らの理屈はこうです。あのシンポジウムは政治性がある。政治活動だから駄目だ……。
 なるほど、確かに政治性はあるでしょう。一体何をもって政治性とするかは明らかではありませんが、そこを別に明らかにしなくても政治性がありそうだという判断は賛同を得られるでしょう。
 しかしここで気を付けるべきなのは、政治性があることがすなわち政治活動ではないということです。
 政治活動が何なのかという点もまた、必ずしも定義が明らかではないので厄介ですが、科研費の使徒という文脈で議論されるのであれば「研究成果の取りまとめと関係のない活動」という風に考えるべきでしょう。
 例えばある人が日本における共謀罪制定の利益と損失を研究していたとしましょう。これは政治性のある研究と言って差し支えありません。しかし政治活動とは言えません。論文を書けば筆者の主張として共謀罪を制定すべきorすべきではないという結論に至るでしょうが、それはあくまで学術研究としてなされたことです。またその研究に関してシンポジウムを開いて、共謀罪について自身の研究を下地に議論を述べたとしても、これは科研費の不正使用という意味で政治活動とは言えません。
 これが「研究とは全然関係ない文脈で、デモに参加し共謀罪について意見を述べた。その際にかかった費用を科研費から支出した」となれば不正使用とみなされるでしょう。
 重要なのは、あくまで研究成果の公表の一環として行われるのかどうかという点であろうと思います。

 なお、このような議論において陥りがちな過ちでもあるのですが、ある活動がシンポジウムであるかどうかという判断に「結論が偏っていないか」という視点を持ち込むべきではないと思います。研究であれば当然、一定の視点が前提にあり、また研究で得た知見から導かれる結論もあります。そのような過程を考慮すれば、研究の結論としてある論点に関して賛否のどちらかに偏るというのは当然で、むしろそうならないほうが不自然ですらあります。

 研究知見は元来政治性と不可分
 また見落とすべきでない視点として、元来研究知見やその公表という行為は政治性と不可分であるという点があります。不可分というか、政治によってはいかようにも関連するというほうが正確でしょうけど。
 やり玉に挙げられているフェミニズムは政治的に見えるでしょう。彼らは歴史学も「歴史戦」なる言葉を使い政治性を見出しています。しかしこれは本来おかしな話です。歴史的事実は元々政治とはかけ離れた文脈で存在しているはずのものです。フェミニズムにしたって、ラディカルな主張をさておけば「女性の人権を守ろう」というところに行きつくのであり、人権の擁護は近代国家の大前提であるのでこれが政治的なあれこれと本来関係するはずがありません。
 逆のパターンも考えられます。「ワクチンを知ろう!」というシンポジウムがあったとしましょう。ワクチンのメカニズムは医学的な知見であり、それ自体は政治と関係がありません。しかし時の政治家が盛んに「ワクチンは悪だ!摂取させるな!」と言い出せばどうでしょう。あるいは「このワクチンは絶対安全だから打て!」と言っていればどうでしょうか。そのような背景で開催されれば、途端に政治性を帯びたシンポジウムに早変わりです。

 政治というのはそもそも、民主主義社会であれば自分の属する集団がどのような決断をするのかを議論し、決める行為だということができます。そして民主主義社会は、みんなで決めなければ何一つ行うことができません。そのような社会では、凶悪犯の処遇から夕飯のおかずまで(日本伝統の家庭料理を奨励するのだ!レトルトは死ね!とか言い出しそうな議員は結構いるので笑い事ではない)すべて政治的になりうるのです。
 理系の研究よりも文系の研究のほうが、政治としてみなされる分野を研究することが多いのでやり玉にあげられがちという事情はあると思います。

 まとめると
・政治的だからと言って科研費的にNGな「政治活動」とは言えない。
・そもそも政治的じゃない研究なぞない。
 ということです。国会議員ならばせめて、学術研究の何たるかをある程度理解したうえで発言してほしいものですが、まぁむりな期待でしょう。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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