九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

議論

欲しいものリストを公開しています。
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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

著名な写真家がクズばっかなのは「撮影する権力」に鈍感だからではないか

 なお、ちょっとググったら氏の著書3冊のうち2冊のタイトルに「ぼく(ひらがな)」が含まれており「クソサブカルあるあるかよ」と思いました。もう1冊は当該記事の連載を書籍化したもので題名には「僕(漢字)」が含まれています。公的な場で「僕(ぼく)」という一人称を、しかもタイトルに使用してしまう幼稚性に「こどもおじさん」らしさを感じます。
 しかも氏は写真家でした。前回『「日本学術会議叩き」に事実が一切ないという異常事態』で触れたように、写真家って生き物は総じてクソなんでしょうか。どこかにいるまともな写真家の方はいい加減キレたほうがいいと思います。知らんけど。
 「真意」と真逆の理解をされる文章しか書けない人は文筆家や政治家を辞めるべきでは?-九段新報
 以前、こんなことを書きました。今回はそのお話です。

恐るべきクソの山々


 こんなツイートまでしましたが、冷静に考えると別に偏見でもなさそうです。振り返ってみましょう。

 クソ写真家列伝のトップバッターはやはり広河隆一をおいてほかにいないでしょう(『【記事評】『DAYS JAPAN』元発行人手記 「性暴力」について謝罪し30年遅れで学ぶ(月刊創2019年4月号)』など参照)。彼は戦場で性暴力被害にあっている女性を報じたことで一躍注目を浴びたにもかかわらず、自分が性暴力加害者だったというドクズです。お前はいったい何を報じていたんだ。

 第二走者は冒頭にあげた幡野広志を挙げておきましょう。相談に答える連載を書きながらDV被害の相談を疑うとかいうクソです。
 そして第三走者は宮嶋茂樹です。こいつは関西弁でコラムを書くという無教養さを丸出しにしながら日本学術会議にいちゃもんをつけ、ついでのように隣国への差別を開陳していました(『「日本学術会議叩き」に事実が一切ないという異常事態』参照)。ちなみに、これが初めてではありません。

 そして、結構前に書いた記事ですが『芸術作品は作者と切り離すべきかという話-九段新報文化面』でちらっと触れた大橋仁も相当なクソです。こいつはタイのセックスワーカーを無許可で撮影し作品としていました。

 同じ記事の冒頭のツイートでリンクしているように、アラーキーこと荒木経惟もモデルに性暴力をふるっていたことや同意なく撮影をしていたことなどが告発されています。リンクの記事は有料になってしまったので、ことの経緯は『アラーキーのセクハラ疑惑 KaoRi 水原希子らが告白-Thisismedia』を読むとわかりやすいでしょう。

 あと最後に、ブログでは取り上げていませんでしたが、鈴木達朗という写真家も富士フイルムの作成したPVでストリートスナップを作成している場面が取り上げられ、それが迷惑行為であると批判されました(経緯は『「フジフイルムPV炎上」のモヤッと感を整理する-ITmedia』に詳しい)。実際、勝手に写真に撮って作品にされているわけで被写体からすればいい迷惑です。

 とまぁ、ざっと上げただけであっさり6名集まり、それもそれぞれが木っ端の写真家ではなくそれなりに評価された人々であることがわかります。

 実際には、鉄道オタクの例を挙げるまでもなく、アマチュア写真家が撮影のために迷惑行為を繰り返しているという指摘は定期的になされていますから、こういう「クソ写真家」は無名のものを含めれば相当数いることが容易に想像できます。

撮影するという権力

 彼らはなぜ、人道的感覚という部門において、ここまで見るも無残な成績を残しているのでしょうか。写真家である以上、感性が平均より鈍いということはないはずです。知らんけど。

 私の推測では、写真を撮影し公開するという「権力的行為」と、その権力性に気づいていない彼らという要素が深く関係しているのだと思います。

 写真を撮るという行為は、そこに否応なく権力を伴います。撮影者は被写体である人にポーズを指示してみせ、任意のタイミングでシャッターを切ります。そこには、ただ指示に従属し撮影されるがままである被写体と、被写体の全てをコントロールできる撮影者という勾配が生じます。

 また、撮影した写真をどう加工し、どれをどこにどの程度公開するかという判断も権力を伴います。いわば、写真になった被写体の行く末を管理できるわけです。そして、写真家として認められれば、撮影するという行為自体が「○○さんに撮ってもらえる」などといって特別視され、さらに権力を獲得していきます。

 私自身、高校自体は放送部であったため、動画と写真という違いはあれど、このような権力性を意識させられる場面を多く経験しました。3年生ともなれば私は「お馴染みのカメラの人」であり、カメラを向ければ大抵の生徒が好意的なリアクションを返してくれました。逆に言えば、嫌がる人にカメラを向けることだってできた、つまり一種の強制力も持っていたとも理解できるわけです。

 もちろん、このような権力は撮影という行為とその技術に付随するものでしかなく、撮影という場面に限定されたものでしかありません。いくら写真家として尊重されたとしても、しょせん写真家としてという限定がついたものでしかなく、人間的に優れているとか、存在そのものが他者より上位になるというわけではありません。卑近な言い方をすれば、著名な写真家も写真がうまいだけのおっさんでしかなく、カメラを手放せばただの人です。

 私に好意的なリアクションを返してくれた人々も、私がカメラを持っていたからそうしたというにすぎません。別に私のことが好きだったわけじゃないでしょう。私は人望という点において自己評価が極めて低い高校生だったので勘違いはしませんでしたが、時にはそうじゃない人もいます。

 例えば、これは写真家に限った話ではありませんが、鈍感な人間は自身の権力が極めて狭い限定付きのものであることに気づかず、あたかも自身が全体的に偉大になったかのように勘違いします。そうした勘違い野郎の典型例が、上司としての尊敬を恋愛感情に取り違えた結果のセクハラというわけです。広河といい荒木といい、セクハラ野郎が混じっているのは象徴的です。

 こう考えると、著名な写真家がこぞってこの権力性に気づけていなさそうなのはかなり深刻な問題です。著名な写真家がそうであるということは、つまり無名の有象無象もまたそうであることを示唆するからです。場合によっては、その著名なベテランが権力性に無神経であることを無名たちに奨励している可能性すらあるわけです。「予定調和な撮影から芸術は生まれない」とか言って。

大人になれない男たち

 とはいえ、長年写真を撮っていて、撮影するという行為に付随する権力性に気付かないほど鈍感というのはちょっと想像を絶します。そこらの田舎のティーンエイジャーだった私ですら、動画を編集しながら「下手な編集をして被写体のイメージを下げたらまずいぞ」というかたちで自身の権力性をある程度は自覚していたのに、いい年した「プロの写真家」が全く気付かないなどということがあるのでしょうか。

 この謎に迫る手掛かりは、実は冒頭に引用した部分にあります。それは「ぼく」というフレーズです。引用部分で書いているように、私はそれを『公的な場で「僕(ぼく)」という一人称を、しかもタイトルに使用してしまう幼稚性に「こどもおじさん」らしさを感じ』ると指摘しています。

 要するに、彼らは大人になれていないのです。大人の矜持として理解すべき様々なことを一切放棄しているがゆえに、本来であれば気づいて当然の権力性にも一切気づかないのです。

 何も私は、幡野の著書のタイトルというごく僅かな事例のみでこのことを主張するつもりではありません。
 まず思い出してほしいのは、宮嶋茂樹のコラムが関西弁で書かれていたということです。産経新聞とはいえ全国紙のコラムで書くときには、それなりの文体というものがあります。対談の書き起こしじゃないんだから、関西弁というのは常識的な感覚ならまずありえない選択です。

 幡野は批判された相談への回答の後、『10月19日に公開されたぼくの記事について-cakes』という記事で経緯の説明と謝罪をしていますが、ここでも一人称はひらがなの「ぼく」です。ご丁寧にタイトルまで。かなり大きな失態の後の公での謝罪としては感覚的に理解しがたい言葉選びです。

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 そして、荒木のこの外見が象徴的です。ブログを書くためにググったときにこれが出てきてびっくりしました。言語化するのは難しいのですが、私の第一印象は「実に子供っぽい」というものでした。80歳の大人の恰好ではないわけです。

 これらの事例を通して私が何を言いたいかというと、社会通念上、人は年齢を重ねれば背伸びしてでも「その年齢にふさわしい人≒大人」として振る舞おうとするところ、彼らは全くそうしようとしていないということです。大人に相応しい文章の書き方なり、大人に相応しい外見なりを取り入れようという意思が微塵も感じられません。これは彼らの「成熟拒否」的な要素を反映しているのではないかと思います。

 芸術家だからいいじゃないかとか、服装ぐらい自由でいいだろうという批判もあるでしょうが、私は「人を撮影する」仕事であるからにはある程度被写体に信頼される大人として振る舞うことが求められると思います。例えば、(いまはどうかわからないけど)学校行事で写真屋さんが写真撮影しますが、もしその写真屋が荒木みたいな恰好で学校に入ったら警備員につまみ出されます。それは、撮影という行為が権力を伴うものであり、それがゆえに信用できない奴にその権力を振るわれると被害につながりかねないからです。言い換えれば、写真家は多かれ少なかれ「権力をふるっても大丈夫な人」であることを様々な面で保証しなければいけないはずです。

 まぁ、写真家の心得はさておくとしても、彼らの成熟拒否は結局のところ権力への無頓着さに繋がり、そしてそれが現に様々な被害に繋がっているといえるわけです。そうであれば、このような成熟拒否は放置できないでしょう。

 裏を返せば、皮肉なことに、ティーンエイジャーだった私は思春期という「大人になりたがる年齢」だったがゆえに、成熟拒否した大人よりも大人に近い意識を持ち、自身の権力性に気づけたのかもしれません。元々大人っぽい子供でしたけども。

跳梁跋扈するこどもおじさんたち

 公平を期すために言えば、男たちの成熟拒否という問題は写真家に限ったものではありません。現在の日本には広く蔓延っているといってもいいでしょう。

 この最たる例は、本ブログでも再三批判してきたTwitter Japan社長の笹本でしょう。彼は58歳であり、会社も14年続いているにもかかわらず『ぼくらもまだまだ若造なのです』などと腑抜けたことをいう典型的なこどもおじさんです(『【Twitter凍結記#13】「Twitter社長に30の質問」とかいう腑抜けた企画をぶっ叩く その2』参照)。外見を見ても、整える気のない髪形におもちゃのような太い縁の眼鏡という、大人ぶることを放棄したかのようなファッションセンスです。


 そもそも、私がここで使っている「こどもおじさん」という語彙の元ネタは上のツイートにあります。当然のことながら、「こどもおじさん」はネットに跋扈するネトウヨと表現の自由戦士を射程に入れた概念であると言うべきでしょう。「ワンピース読んで海賊になった人がいるんですかwww」などという低レベルな混ぜっ返しの原点も、成熟拒否に求めることができるかもしれません。

 大人ぶる、もっと言えば「ハードボイルド」「いい男ぶる」というのはかなりジェンダーバイアスの入った価値観であり、それ自体手放しで肯定できるものではないのかもしれません。しかし、こうした成熟拒否の跋扈を目の当たりにすると、旧来的な大人ぶりにも一定の意味があったのではないかと思わずにいられません。欧米で言えば成熟した市民としての振る舞いがこれに取って代わったのでしょうが、残念ながら日本では「成熟した市民」なんてのは「古き良き男らしさ」よりも絶滅危惧種です。

 いぶし銀な男は望むべくもないとしても、せめていい大人であろうとする矜持くらいはあってほしいものです。

経営者って基本アホだよねという話


 また堀江が騒いでいるようですね。 

 ついでに堀江シンパのアホも騒いでいるようで、巻き添えを食った餃子屋さんは本当に不運だと思います。普通に車運転してたら信号無視のダンプが突っ込んできてしかも被害者面というレベルですから。

 これは私の持論ですが経営者という種族は基本アホです。中には孫正義のような例外もあるのでしょうが、それはあくまで例外でしかありません。

携帯屋時代のこと

 別に私がこういうのは根拠のないことではありません。まぁ、元々世にいう「経営者」の言動がアホだなと思っていましたが、それはあくまで堀江や田端のような目立つ経営者だけのことだろうと考えていました。が、ある経験をきっかけに経営者はデフォルトでアホなんだなと確信するに至りました。

 それは、私が学生時代、携帯ショップの販売員としてバイトしていた頃の経験です。

 私は当時、大手携帯会社であるD社の販売員をしていました。正確には日当1万円の派遣で、そのころ各社が力を入れていた光回線の販売を任されていましたが、実際には基本的なプランの説明からタブレットの販促まで求められたので、普通に全般的な販売員のようなものでした。

 私は立場が派遣だったので、1つの店に留まるのではなくシフトごとに様々な店に行かされるようなかたちでした。となると、当然その店ごとの事情というのがいろいろ見えてきます。特に顕著だったのは来店者数でしょう。ショッピングモールの中に入っているような店はどんどん人がやってきて、私が何もしなくても勝手に売れていきます。一方、過疎った街の駅前のショップはそもそも人が来ず、営業しようにもする相手がいない有様でした。

 さらに悪いことに、そういう過疎った街にはたいていまだ光回線が来てません。つまり、苦労して営業して契約してもらえる気になったところで、家に回線が引けないという営業の力ではどうにもならない状況が頻発するということになっていたのです。

 こういう事情がありましたから、「あたり」の店に入れれば簡単に成果を上げられる一方、「はずれ」の店に入れば努力のしようもない有様です。

 しかし、どうも信じがたいことに、このような店の事情にかかわらず、その店ごとの目標の売り上げ数というのはあまり大差なく、また店ごとの事情を全く勘案せずに店舗間で競争が行われていたようです。これでは、「あたり」の店が勝つに決まっており、「はずれ」店舗の店員は努力しても勝ち目がありません。

 しかも、この競争のペナルティは「店の宣伝に使う費用が削られる」だったようです。ただでさえ売れない店から売るための資金を引き揚げること自体愚行というほかありませんが、別に店員個人にとっては店の宣伝費が減っても罰にはならないのでマジで何の意味もないペナルティです。

 とまぁ、このように大学生ですらおかしいと思うようなことを言い年をした大人が大真面目にやっている、というのが日本企業の経営者なのです。これはもうアホというほかありません。

なぜ経営者はアホになるのか

 では、なぜ経営者はアホになるのでしょうか。
 これはおそらく、誤帰属という言葉で説明できるのではないかと思います。

 そもそも、会社の経営には多種多様な変数がかかわってきます。経営者の手腕もその1つですが、実際にはそのときの社会情勢や天運、業界の事情などの周辺的な要因、つまりひとまとめにすると「運」というほかない要因のほうが強く影響するものです。あるいは、会社がつぶれると困る部下たちがへいこら働いてどうにかしているだけかもしれません。

 まぁ、当たり前ですね。会社という集団が大きくなればなるほど、個人が影響を及ぼせる程度はおのずと限られてきます。そして事業規模が大きくなればなるほど、偶然その業界が傾いたりしただけで一気に会社ごとぶっ壊れかねなくなります。

 しかし、経営者はそのことを理解していません。下手に自分が会社の行く末を決められるポジションにいるせいで、会社の発展が自分のおかげだと容易に誤解してしまいます。

 経営者、特に堀江のような新興の経営者が経営者になったのは、元々金を持っていてそれを元手に始めた事業が偶然うまくいったからにすぎません。万事幸運だけでその地位にたどり着いただけで実際の手腕に乏しいことは、彼が打ち上げるロケットが悉く爆発してることからも察せられます。しかし、なまじ1度成功して持ち上げられてしまったので、彼らは自分の経営手腕が優れていると勘違いしています。

 これが、経営者がアホになる大きな要因です。

アホを持ち上げるな

 もっとも、社会の側にも問題があります。それは、経営者だというだけでこういうアホを持ち上げる風潮があることです。

 社会はなぜか経営者=優秀と理解する節がありますが、当然そうではありません。経営者は会社のトップ→トップならそれまで優秀な業績をおさめたのだろう的な理屈でしょうが、その会社内の評価軸が狂っていることは往々にしてあるのでトップだからと言って優秀とは限りません。むしろ、社長はただ経営者の一族だから社長になれただけ、という事例のほうが多いのではないかとも思います。

 そしてもちろん、経営者が言うことのすべてが正しいわけではありません。単に偶然これまではそれでうまくいっていたとか、実は全然うまくいっていないが表面化していないだけというパターンもありがちです。こういう中身のない「経営論」をありがたがって持ち上げ、一端の専門家のように扱うから経営者がさらに勘違いするのです。

 堀江や田端のような人間にしたってそうで、彼らの言動をきちんと精査するとただの間抜けに過ぎません。しかし、彼らの言葉を本にする出版社があって、それをありがたがる人々がいるから彼らの勘違いが終わらないのです。

 堀江のような人間の夜郎自大を終わらせるためには、まず社会の側がもっとまともなものを持ち上げるようにならなければいけません。

【書評】反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体

 今回は前々から気になっていた1冊です。
 反知性主義というと、何となく「知性を馬鹿にして軽視する姿勢」くらいの意味で使いがちな単語です。しかし、アメリカにおける反知性主義の源流を探ると、これはむしろ「反権威主義」くらいに考えるべき用語であることがわかります。

ピューリタンとラディカルな平等

 アメリカの反知性主義を理解するには、アメリカのキリスト教を理解しなければならないと著者は説きます。
 この辺の話は長く複雑なので、当然簡単にはまとめられないのですが、1つ重要なポイントを抑えるとすれば、アメリカが植民地となった初期の「知的階級」であるピューリタンの存在が大きかったと言えるでしょう。

 ピューリタンはキリスト教の一宗派であり、大雑把に言うと教会の権威主義に反発したプロテスタントのうちの1つです。

 ピューリタンの語源が「馬鹿正直」であることからもわかる通り、彼らは実に厳格に宗教を信仰しようとしました。その最たる例が日曜礼拝です。彼らは日曜日になると教会に出かけ、数時間に及ぶのが当たり前であった司祭の説教を聞くことを習慣としていました。時代によっては礼拝を休むと罰金を科せられることもあったようで、その厳格さは驚きです。

 しかし、ぶっちゃけ誰もそんな長い話を好き好んで聞きませんし、理解もできません。ピューリタンの家庭は子供も礼拝に出席させ、そこでの説教を理解できたか夕食の席で子供に問うのが常だったようですが、説教それ自体は子供向けのわかりやすいものがあったわけでもありません。

 そして、ヨーロッパでは抵抗者であり少数派だった彼らが、アメリカ植民地では権威であったという一種の自己矛盾もありました。そこに現れたのがリバイバリズム、信仰復興運動でした。

 なんだか難しいキリスト教の説教に置いてけぼりを食らっていた信徒たちは、宗教的な回心を経験できず真の意味でキリスト教徒になれていませんでした。その不安に様々な社会情勢が重なった結果、集団ヒステリー的に回心が起こります。そうして信仰に目覚めた人の中から、神学を学んだり司祭の資格を持っているわけではない、いわば「素人伝道師」のような者たちが登場します。

 素人伝道師は街を回り説教を行います。多くは現れてはただ消えるのみですが、中には説教に優れた伝道師がいて、彼らがリバイバリズムを牽引することになります。当然、これまで伝道をしてきた教会関係者は面白くなく反発します。そこで彼らは決め台詞のように言うのです。「信仰は教育に左右されない。あなた方こそイエスが批判した『学者パリサイ人』のたぐいではないか」と。

 ここに、反知性主義の目覚めが見て取れます。

 そんな反知性主義を推し進めたのが、キリスト教の「神の前には皆平等」という考え方でした。神の前には長年専門的な訓練を受けた司祭も、昨日回心したばかりの男もみな同じ。いや、むしろ我々の素朴で謙虚な無知こそ尊いのだという考えが、神学の知見を軽んじる口実になったのでしょう。

わずかな狭間

 もちろん、当初のアメリカは反知性主義的な考え方が一般的だったわけではありません。初期のアメリカは学のあるヨーロッパ的な権威、ジェントルマンがリーダーシップをとって治める国でした。

 事情が変わったのはアンドリュー・ジャクソンが大統領候補となった頃でした。この時のアメリカは父が2代目の大統領だったジョン・アダムズが再選を目指しており、まさにジェントルマンが支配する国でした。

 しかし、選挙に勝ったのはジャクソンでした。ジャクソンはまともに学がなく綴りを頻繁に間違えるというエピソードや、素行が悪かったために地元の住民は彼が大統領候補となったときに驚き「だったら俺でも大統領になれる」と言ったとかそういうエピソードに事欠きません。ヨーロッパ的知性が反感を買い、その知性を持たないことが大衆に受け入れられる条件となる、ホフスタッターはこの時代を「ジェントルマンの凋落」と表現しています。

 まともな学がなくても大統領になれる。ジャクソンはそんな「アメリカン・ドリーム」の体現者でした。この時期から少し経って、実業家として著名なカーネギーなども登場しますが、そのような「大逆転の大成功」は減っていきます。ある意味、アメリカン・ドリームは19世紀後半の残像といえるでしょう。

 ともあれ、宗教も政治も、人々の平等さを重視し、そうするあまり権威や知性を嫌うといった傾向がアメリカでは確立されてきました。

彼らは何に「反」しているのか

 著者によれば、反知性主義者が反発しているのは知性そのものというよりも、むしろ知性に結び付いた「権威」でした。これは、反知性主義の宗教的ルーツが権威と化したピューリタン司祭への反発であったり、政治的ルーツがヨーロッパ貴族的な特権階級への対抗であったりすることからもわかります。

 しかしながら、このような権威へ熱心に反発するあまり、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった調子で「知性そのもの」へも反発してしまっているのが現代の反知性主義ではないかと思います。

 例えば著者は、キリスト教保守派が学校で進化論を教えることに反発すること「進化論そのものというより何を教えるか上から押し付ける権威への反発」であると分析しています。が、それが結局進化論の否定に結びついては科学音痴の出来上がりでしょう。「押しつけへの反発」は「知見そのものへの反発」ではありませんが、その2つを区別することは容易ではありません。昨今のマスク拒否騒動もしかりです。

 人は神の前に平等かもしれません。法的にも平等です。しかし、『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』が指摘したように、学問領域、専門性への見識においては全然平等ではありません。しかし、神の前での平等があらゆるところへ援用された結果、専門知がないがしろにされることとなりました。どころか、権威批判の流れから無知こそが礼賛される有様です。

 そして何より、現在のアメリカでは反発すべき「権威」それ自体がかなり恣意的に決定されている様子があります。
 ヨーロッパ的知性のアダムズと素朴な反知性のジョンソンの戦いの構図は、トランプとヒラリーが争った大統領選挙に引き継がれています。

 この選挙では、ヒラリーが「ウォール街」に近い人物であるとみなされ嫌われました。しかし、冷静に考えると実業家のトランプのほうがむしろウォール街に近いとも言えたはずです。
 結局のところ、現在の反知性主義は、相手に権威のレッテルを張り自分は違うとアピールすることによって、市民の短期的短絡的な支持を得るための道具と化しています。

日本の反知性主義

 ところで、著者は最後に、日本では"真正の"反知性主義が生まれるのは難しいと論じています。確かに、知性がそもそも軽んじられがちな日本では、権威と結びついた知性を批判する反知性主義が生まれることはないでしょう。

 しかし、現代的な、俗っぽい「反知性主義的な何か」ならすでにあります。その最たる例が大阪の中心とする「維新」系のポピュリズムでしょう。

 大阪で維新がなぜ支持されるのか。大阪をアメリカに見立ててみれば手掛かりがつかめるかもしれません。アメリカの反知性主義が想定した権威はヨーロッパでした。ヨーロッパ的権威への反発こそがアメリカのフロンティアスピリッツの走りでした。

 大阪が反発するのはどこでしょう。第一に東京、第二に京都です。東京は日本の中枢であり、言わずもがな権威の中心です。京都は文化と学問の土地です。そんな日本版ヨーロッパ的権威への反発として維新が登場したと考えられるかもしれません。

 維新の先駆けであった橋下徹は、自らが弁護士というインテリであったにもかかわらず、インテリをこき下ろし庶民の味方を演じました。これはアメリカ大統領選でアダムスが、そしてヒラリーがこき下ろされたのによく似ています。

 そして視野を広げれば、この反知性主義と呼ばれがちな、正確に言えば反インテリ主義とでもいうべき何かは、いまや日本中に広がっています。安倍首相が稚拙な間違いを犯せば犯すほど一部の支持者は熱狂的に支持を強めるバグのようなありさまは、稚拙な間違いがそのままインテリという「権威」に対するアンチテーゼとして機能するからでしょう。

 とまぁ、考えられることは山ほどあるのですが、本書が解説する知識をベースにするだけで様々な現象の理解が深まるという点で優れた1冊であることは間違いありません。

 森本あんり (2015). 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社

【書評】それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力

 今回の書評は『【書評】黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』の時にちらっと言及した、上のリンクからAmazonのギフト券を貰ったときに紹介された1冊です。

 著者のレベッカ・ソルニットは『説教したがる男たち』で「マンスプレイニング」の概念を広く知らしめた人物であり、本書で論じられているように「そのものに名前を付けることで対処する」という振る舞いを体現した者であるということができるでしょう。日本においては、シーライオニングという概念がバズった途端に某著名「ネット評論家」が大バッシングにあいいろいろ暴露された挙句TwitterのID変更に追いやられるというしょうもない顛末もありました。

 ちなみに、『説教したがる男たち』のほうも一緒に買ったので読みます。

 とはいえ、犯罪心理学者の私としては、『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』の印象が非常に強く勝手に歴史学系の人だと思っていたので、『説教したがる男たち』の著者と同一人物であることを知ったときにはひどく驚きました。もっとも、本書に遍在する虐げられた者たちへの視点を読めば、あまり驚くことではないのかもしれません。

トランプよりもヒラリーが嫌い

 さて、そんな本書はアメリカ大統領選で噴出したアメリカに根付くミソジニーを解き明かすことから始まります。トランプの当選に至った大統領選の動向でよく疑問視されるのが、バーニー・サンダースを支持するような「社会主義的な」人たち、そしてトランプのミソジニーの標的となるだろう女性たちの少なくない数がトランプに投票したという事実です。

 著者はここに、ミソジニーの影響を見て取ります。トランプの対立候補であったクリントンは女性であり、女性に対する敵意や蔑視が人々をトランプへの投票へ駆り立てたのだろうと推測しています。実際、クリントンは野心的であり(そりゃ大統領選に出るんだから野心的に決まってる)、不誠実であり(メール問題はハラスメントよりも重大らしい)、感情的であり(トランプよりも?)、女性に関する政策に偏って主張している(実はそんなに言ってない)とされ批判を浴びました。著者はこれらの批判が事実無根であることを論理的に解き明かしています。

 結局のところ、クリントンは「女性が憎い」という感情に敗れ去ったのかもしれません。興味深いことに、私の手元にもそれを示唆する根拠があります。それは『社会はなぜ右と左にわかれるのか』で著名な社会心理学者ジョナサン・ハイト氏が日本の右派雑誌の1つである『Voice』からインタビューされた時の記事です。(『【記事評】なぜ社会の分断が進むのか(Voice2019年4月号)』参照)

 ここでハイトはクリントンについて「病的な嘘つき」で「(夫のおかげで政治家の地位になったのであって)実力で政界にいたわけではない」と述べています。まぁ、クリントンだって嘘の1つや2つついたことがあるでしょうが、明らかにもっと病的な嘘つきであるトランプを無視してこのような評価を下すことがフェアだとは思えません。

 当時の私は、勝手にリベラルだろうと思っていた(事実、アカデミズムには左派が多い)ハイトがこのようなことを言うのに驚き、彼は実は極右なのか?と思ったりもしたわけですが、単に強烈なミソジニーを持った左派と考えたほうがしっくりくるのかもしれません。日本にも左派っぽいけど女性の権利になると突如として「バグる」人は多く、その一種だとも解釈できます。

ヴァギナで投票しない

 差別の厄介なところは、ときとして差別される側のマイノリティもその差別を内面化してしまうところにあります。大統領選挙のとき、クリントンへ投票しなかった女性たちもそうだったのかもしれません。彼女たちのスローガンは「私たちはヴァギナで投票しない」でした。

 とはいえ、著者は彼女たちを批判することに否定的です。その理由は、女性は結局のところ女性に投票してもしなくても批判されるというがんじがらめ、そして男性はペニスで投票すると絶対に言われない非対称性です。

 表現の自由戦士は女性が全員フェミニストに見えるそうですが、もちろん実際は違います。それはアメリカでも同じです。特にミソジニーの強い地方では、その女性蔑視を内面化したほうが安全でスムーズに暮らせるという事情もあるでしょう。そのような事情を無視して、女性が別の女性に忠誠を誓わなかったことを非難するのはフェアではありません。

 そして、男性は同じ男性の候補に投票しても非難されません。まぁ、そもそも大統領選に女性の候補が登場することが初めてであり、大統領候補=男性という図式が自明視されていたためなのでしょう。ハイトのような見方をする人物は明らかに「ペニスで投票する」タイプだったわけですが。

ストーリーをブレイクする

 本書で最も興味深い論考の1つが、著者が母校であるカルフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院で行った卒業スピーチのものです。この論考のタイトルになっている「ブレイク・ザ・ストーリー」はスクープをするという慣用句ですが、ここで著者は「既存の物語を破壊すること」の重要性を指摘しています。

 既存のストーリーをブレイクした例として、ここではやはり著者自身の業績を挙げるべきでしょう。著者は『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』の執筆活動によって、ハリケーンカトリーナにまつわるストーリーを破壊しました。それは、災害被害にあった有色系人種の人々が、被災地で犯罪行為を行い手が付けられない状況にあったという物語です。

 著者は丹念な調査により、このようなストーリーは虚構であり、実際には「有色系人種による暴動が起こるかもしれない」というメタ的なパニックによって自警団が作られ、彼らが被災者を攻撃したことを明らかにしました。ここに著者は「追いつめられ暴れる有色系とそれから自らを守る白人」という決まりきった物語を破壊したのです。

 著者の指摘では、既存の物語を破壊し、解放し、解き明かすことは作ることと同等の創造性を持つことです。客観性という虚構から抜け出し、我々が物語に主体的にかかわっているという事実に目を向けなければいけないのです。

伝播する希望

 本書にはほかにも、低レベルな裁判で死刑判決を受けた囚人、警察にワンマガジン分以上の弾丸を浴びせられ殺された人、高騰する家賃によって家を追い出された地元民といった、悲劇的で「ありきたりな」物語が詰め込まれています。まるでアメリカの理不尽をぎゅっと押して230ページに収めたかのような出来上がりですが、この本には希望があります。

 それは、あるところの希望が別のところへと伝播していることを指摘しているからです。著者は結局のところ原発の稼働を許した市民活動を引き合いに出し、それが失敗だっただろうかと問います。その面だけ見れば失敗といえるかもしれません。しかし、そのとき立ち上がった人たちに影響された人たちが別のところで立ち上がり、最終的に100近くの原発の建設を止めたことに繋がったと明らかにします。

 明らかに、希望は別のところへ繋がるのです。イギリスで参政権を得るために動いた女性にガンディーが感銘を受け、ガンディーの活動にキング牧師が影響されたように、時代も土地も超えて繋がっていくのです。

 本邦の例でいえば、例えばシールズの活動があるでしょう。あれは何かを残せたのでしょうか?少なくとも、あの時のうねりのいくらかが市民連合につながり、野党共闘へ流れ込みました。metooから影響を受けたkutooは様々な企業での不合理な服装規定を撤廃しつつあります。

 このような希望の連鎖はいつ起こるかわかりません。明日かもしれないし、100年後かもしれません。しかし、動けば繋がり、動かなければつながらないことは明白です。
 そこに希望があるのでしょう。

 本書は、言葉によって現象を調伏するという意味ではそこまでわかりやすいことをしているわけではありません。マンスプレイニングやシーライオニングほど劇的なことはめったに起こりません。しかし、言葉を連ねることで思索が深まり、現象を解明できるという経験は私もブログを書く上で経験しています。それこそが、「それを、真の名で呼ぶ」意味かもしれません。

リベラルが勝つために、まず「リベラルはだめだ仕草」をやめろ


 この件です。実はこの件には前振りがありまして、

 それがこれです。 奇遇なことに同じ現代ビジネスで、同じ石戸諭氏のかかわる記事ですね。
 TLの反応を見る限り、この手の記事は結構好意的な反応をもって受け取られていることが多いように見えます。しかしながら、この手の記事が好意的にみられるということそれ自体が、ある種「リベラルの弱さ」と言っていいのではないかという気がします。

何のための「リベラルはだめだ」なのか

 この手の記事がまずダメなのは、そもそも何のための「リベラルはだめだ」という論調なのかという根本が忘れ去れているからです。

 記事はおおむね、いつまで経っても選挙に勝てないリベラルを諫めるという体をとっています。しかしながら、これはあくまで体でしかなく、実際にはそのような機能を持ち得ていません。なぜなら、リベラルに選挙戦略を提示するという目的に対して、記事の内容があまりにも低レベルだからです。
辻田:なるほど、さすが手厳しい(笑)。それはともかく、さきほど反権威という話がありましたが、この20年ほどでリベラルはもう権威ではなくなったように思います。7月の都知事選でもリベラル勢力が大負けしたわけですが。
石戸:小池さんは選挙活動すらせずにあれだけの票を獲得しました。
辻田:リベラルが強いとされる東京でこの結果ですから、リベラルがすっかりマイノリティになったということでしょう。でもリベラル自身はまだ勘違いしていて、市民が大同団結すればいけると思っているところがある。
石戸:ああ、そういうところはありますね。
 リベラルは自己評価が高すぎる…これでは選挙も勝てず何も変えられない-現代ビジネス
 まず最初に挙げた記事です。すでにツイートでも指摘していますが、彼らによると東京はリベラルが強い土地ということになっています。が、あの石原慎太郎を何期も都知事にするような土地が「リベラルが強い土地」なわけがありません。これは「ほかの土地に比べて」という相対的な話かもしれませんが、石原がぼろ勝ちするような土地を「強い」と評するのは端的に誤りなのでどのみち同じことです。

 ついでに言うと、『市民が大同団結すればいける』というのも割と藁人形臭さがあります。
石戸 これは自民党がなぜ議席を取れるのか、という話ともつながっています。石破茂さんのインタビューをしたとき、彼が幹事長時代に口すっぱく言っていたのは選挙区を回れ、とにかく足で稼げということでした。これはちゃんとドブ板をやりなさい、ということです。僕はどこかで「大事なのは政策でしょ。議員は政策で惹きつけてなんぼでしょ」と思っていました。
 もちろん、政策は大事。ここは譲れないけど、一方で選挙は回って、握手してそこで語って、自分を知ってもらって票を動かすことが大事です。昔、取材していた岡山県でも選挙に強い議員は、朝から敬老会の行事、青年会議所のイベント、地域のお祭りとくまなく回っていました。選挙カーの上とか講演会の会場とかで政策だけ訴えれば政治が動くかって、そんなことはないのだ、思い知らされました。
 かつてほど強くはないですが、それでも自民党議員は回っています。ところが野党側は回っていない。そうなると「あの先生は来ないねぇ」となって、人は逃げていく。
 「右派が持っていて左派に決定的に足りないもの」とは一体何か?-現代ビジネス
 もう1つの記事では、自民が選挙に強くリベラルが弱い理由を「草の根を張れない」からと評しています。が、この主張は2つの観点から完全に誤りです。

 1つは事実関係の誤りです。まず、自民が選挙に強いのは広島の事例から明らかなように、結局金をばらまいているからだという視点が抜けています。広島のような事例が広島に限らないのは、騒動に反応する形で出てきた元自民の議員の証言からも明らかです。この点を無視して自民の選挙運動を評価するのは誤りでしょう。

 事実関係としてもう1つ挙げるなら、地域に草の根を張れば強いという理屈ならなぜ共産党の議席があんなに少ないのかという反証に対応できていないという点もあります。つまり、得票を得るのに実は草の根なんかどうでもいいのです。

 もう1つの観点は、それで勝っていいの?という観点です。地元の祭りに顔を出して選挙に勝てるのが事実だとして、それでいいのかという観点を無視しています。選挙なのである程度は勝ちを狙うべきですが、程度というものがあります。民主主義を前に進めるには、このような低レベルな現状に乗っかるだけではなく、それを変えていく必要もあるはずです。

俺はわかっている仕草

 このように、これらの記事は内容認識のレベルでお話にならず、リベラルへの提言や批判といった機能を全く有していません。もし本当に、彼らがリベラルの選挙戦略を憂慮し提言をしているのだとすれば、こんなレベルで現状認識を誤ったことは言わないでしょう。では何のための記事なのでしょうか。

 それはひとえに、「大多数のリベラルとは違って問題がわかっている俺」をアピールするためのものにすぎません。

 この「リベラルはだめだ仕草」は、人々の注目を集め承認欲求を得るのに非常に有効です。なぜなら、まず第一に、日本人の大半はよく言えば保守、悪く言えばネトウヨなので、リベラルを叩く言説に飛びつきやすいからです。市場のマスが大きい分よく売れるわけです。テラケイのでたらめが毎度バズってるのがよい例でしょう。

 まぁ、テラケイは適当すぎてネトウヨにしか受けませんが、石戸氏のような形式の記事はもう1つの市場として、リベラルにも受けるという特徴があります。一見すると冷静にリベラルの問題点を批判しているように見えるので、同じ「自分の属している派閥の問題がわかる俺」でありたい一部のリベラルに受けがいいのです。

 つまりこのような記事は、右にも左にも受けるのでビジネスとしては非常に有効です。もっとも、リベラルの面構えでネトウヨに媚びるという振る舞いは極めて姑息で、態度を割り切っていない分極右論壇よりも不誠実ではないかという気もします。

 リベラルが勝つためには、まずこういう事実関係の認識すらままならない「リベラルはダメだめだ仕草」を排さなければなりません。批判は重要ですが、事実にすら基づかない批判や「どうあるべきか」の視点を欠きただ現状に迎合するだけの提案は有害なだけです。

いや、馬鹿じゃね?

辻田:民衆をちゃんとつかんでいるのが彼らの強みだと思うんですけど、今は民衆あるいは有権者がまともなのか否かという問題はあります。つまり選挙の結果を受けて、最近リベラル勢は愚民論を唱えたりしますよね。
石戸:良くない方向ですね。自分の音楽が理解されないのは、理解できない社会が悪いからだ。自分の商品が売れないのは、消費者が愚かでリテラシーが低いからだと言っている人を想像してみるといいです。
辻田:都知事選もフォーカスの当て方によっては、N国や桜井誠氏がそこまで結果を出さなかったという意味では健全とも言えますが、何をやっても勝てない左派は、選ぶ民衆の方が愚かだという方向にもいっています。
 リベラルは自己評価が高すぎる…これでは選挙も勝てず何も変えられない-現代ビジネス
 ところで、最初の記事にはこういう部分もあります。リベラル愚民論というのは割とポピュラーであり、ある程度は当たっているところもあるでしょう。自分とは違う考え方をする人を安易に「バカ」だとする態度は戒められなければなりません。

 しかし、何事も限度というものがあります。例えばコロナウイルス対策に何もしないばかりかオリンピックを優先し感染拡大に「貢献」した知事に投票するとかはあまりにも愚かな行為でさすがにこういうのには「馬鹿」と言ってもいいでしょう。さすがに、いくら何でも。いい大人が1+1=4だ!って大声で叫んでいるのを馬鹿と言うなと主張するレベルの強弁です。

 というか、このレベルすら「馬鹿」と呼べないというのは、左派に対してあまりにも偏って厳しすぎる理解であるともいえましょう。一方の右派は歴史的事実に基づいた人間を馬鹿呼ばわりで大バッシングして大盛り上がり。そりゃ向こうのほうが「楽しそう」に見えますし、厳しいリベラルを避けようとなるでしょう。

 もちろん、選挙戦略として、あまり声を大にしてこういう人に「馬鹿」と言えない事情はあります。ですが、我々が考えるべきなのは「こんなのに投票しちゃう馬鹿をどうするか」「そもそも選挙に来ない馬鹿をどうするか」であって「こういう人は馬鹿じゃない」ではないはずです。馬鹿にどうリーチするかという対策を考えるべきであって、彼らが馬鹿なのは前提です。

 馬鹿にどうリーチするかという対策は難題です。なにせ相手が馬鹿ですから、合理的な手は使えません。しかし安直に勘定へ訴えかける手は、より進んだ民主主義を目指す左派の立場からも使えず、ここがどうあっても選挙に勝ちさえすればいい右派との大きな違いです。

 難題には一朝一夕に答えは出せません。しかしありがたいのは、こういう難題に対し「自分はもうわかっている」という態度をとる人はたいてい間違っているのがわかりきっていることです。

 我々はそういういい加減な人たちに惑わされることなく、当初の目的と理想を忘れずに頭を悩ませ続ける必要があります。

「ポリコレのせいでアメコミが売れなくなっている」という説はどうしたら証明できるのか


 この件です。

どうすれば論証できるのか

 混乱が生じているのですが、ここでの主張の要点は、「ポリコレの嵐」という原因によって「アメコミ売り上げ低迷」という結果が起きている「因果関係」があるということです。つまり、この主張を論証するためには

①PCによる要求が年々強くなっており
②アメコミの売り上げが年々低下しており
③この2つの間に因果の関連がある
 という少なくとも3つの段階を示さなければいけません。

 まぁ、①は統計的なデータを示すのは困難ですし、多様性の要求が強くなっているのは様々な事例から自明であると考えてよいでしょう。よって検討すべきは②と③です。

アメコミの売り上げは?

 アメコミの売り上げについて調べてみると、以下のような記事がヒットします。
 2018年は世界的に電子書籍が大躍進の年であった。
(中略)
 アメリカでは、Marvel ComicsやDC Comicsに登場するキャラクターを扱った映画が国内外でヒットしたことにより、原作コミックが注目を集めたが、マンガ市場はほぼ横ばいに推移した1177億円という規模だった。
 本記事では、日本と比較する形で、電子コミックが盛んな中国、国内外で人気のアメコミを出版するアメリカの3か国のマンガ市場の比較記事を紹介する。
5621deba8a18b839c7a4321764bb05e8-1-500x281

 【市場比較コラム】日本・アメリカ・中国のマンガ市場比較-オタク産業通信
 つまり、売り上げは減っていません。以上です。

 まぁ冷静に考えれば、あれだけアメコミの大作映画が次々と公開されているのにコミックの売り上げが落ちるわけないんですよね。よって、こんな議論は少しでも論理的思考ができれば引っかかるはずのない与太です。

 ちなみに、売り上げ低迷の証拠としてシェア割合の話を引っ張り出す人がいますが、意味がありません。シェアの割合はアメコミの売り上げが変化せずとも、別のジャンルの売り上げが変われば変化するからです。「アメコミの」売り上げ低迷を意味することはありません。

 ②が虚偽であった以上、③を検証する必要もありませんね。

Mangaの躍進は反ポリコレのせいなのか

 こういうことを言うと、質の悪いオタクはすーぐゴールポストを動かします。代表例が「日本のMangaがアメリカでシェアを伸ばしているのはポリコレに支配されていないストーリーが面白いからだ」とか。

 もちろんエビデンスがないのでこの主張に意味はありません。以上です。

 個人的には、ポリコレ関係なく単に面白くて目新しいから受けてるだけじゃないかと思います。漫画を読むときいちいちポリコレかどうか気にするのは日本のミソオタとアメリカのコミックスゲートだけでしょう。

 アメコミは秘伝のタレかよってくらい同じキャラで何度も話を作るので、いい加減むこうのオタクも飽きている可能性もありますね。「またバットマンかよ!」みたいな。そこに長くてもせいぜい50巻までで終わる漫画が新しく来たらそっちに手が伸びるんじゃないでしょうか。50巻とか、戦前から続いているアメコミよりははるかに短いですからね。

 あと、日本の漫画が反ポリコレであるという前提がそもそも自明ではありません。確かに日本の漫画はときおり信じられないほど低レベルな炎上事件を起こしますが、だからと言ってすべての漫画がそうだというわけではありません。というか、アメコミにしたってすべてがポリコレなわけではなく、当然猥雑な漫画だってたくさんあるでしょうから(ネオナチに変身するコミックとかあったぞ)、売れてないのは単にポリコレ関係なく面白くないからってだけでは。

そもそもPCと面白さは一致しない

 そもそも、ミソオタたちはポリコレであることがイコールつまらないと考えているようですが、それも違います。そもそも面白さとPCは別の尺度なので、PC的だがクソつまらない作品もありますし、反PCでも面白い作品はあります。

 つまり、ある作品が面白くないとき、それはPC的だから面白くないのではなく、単にストーリーがクソだから面白くないのです。たぶんPC的で面白くない作品を作る人は反PCで作品を作ってもやっぱり面白くないと思います。

 もっとも、反PCであることそれ自体に価値を見出すような、評価軸が狂ったミソオタは話が別でしょうけど。そういう人は鍵十字の旗を背負って公道を練り歩いたら滅茶苦茶反PCで面白いはずなので漫画なんか読まずにそうすべきですね。社会的には終わると思いますが、文化の未来のためにはむしろ終わっておいてほしいですから。

 そして、アメリカが反PCな作品を絶対に認めずに消し去ってしまう社会かというと、これも違います。古典的名作などは今の視点から見ると滅茶苦茶反PCだったりしますが、きちんと補足を入れて子供が見たときに勘違いなどをしないように配慮したうえで公開しています。反PCであるというのは要するに「取扱注意」というだけで、反PCだからアウトというわけではありません。

 ただ、個人的には反PCであることはむしろ作品のつまらなさと相関すると考えています。というのも、安直に反ポリコレを売りにする創作者というのはたいてい腕が劣っているからです。つまらない芸人が過激な芸に走るようなもので、安直に走る人というのはたいてい腕がないからそうするのです。

 私も素人ながら作品を作る立場ですから、どうせなら困難を実現する方向で努力をしたいものですね。

「解説役に殉じる」という山田太郎の不誠実


 この前『安楽死や尊厳死は認めるべきなのか』の前段階として、そもそも山田太郎はなんでこう長々と中身のない動画をあげるのかとかを考えたので、この辺のことをまとめておこうかと思います。

解説役を自認する山田太郎

 まず最初に、山田太郎がどのように解説役というポジションで振る舞っているかを振り返っておきましょう。幸い、彼のこうした言動を『山田太郎が「しなかったこと」リスト』にまとめてあるので探すのは楽です。

 一番象徴的なのはこのケースでしょう。香川県のゲーム規制条例についてです。この規制は自民党の県議を中心に、きわめて怪しい手続きによって成立してしまったものですが、同じ自民党議員である山田太郎は「地方のこと」と特に具体的なアクションを起こしませんでした。

 いや、正確には久里浜医療センターが「実在しないゲーム依存」を煽って規制条例を作ったかのような言説をばらまくという、さらに悪いことをしていました。この言説が誤りであることは『主張の真偽を検証する方法:「久里浜医療センター黒幕論」を例に』などで指摘しています。

 もう1つの例は、検察庁法改正案のときです。この法案は結局世論に押し流されて消えましたが、大勢が決した後にのこのこやってきて解説役を演じたのが彼です。もちろん彼は、法案に重大な責任がある自民党の議員ですが、この件で何かしたという情報は皆無です。

与党議員に求められること

 そもそも、与党の議員に求められることとは何でしょうか。
 それは、ある問題に対するきわめて具体的な行動にほかなりません。

 与党議員はその多くが行政を主導する大臣と繋がりを持つ立場であり、野党議員とは比較にならないほどの権力を持つ立場にあるという前提を確認しなければなりません。そのような立場にあるわけですから、ある問題が持ち上がったとき、単に「駄目だと思う」程度のことは何かをやった内に入りません。野党議員であれば出来ることが限られるので実効的な動きができなくてもやむを得ない側面がありますが、与党議員は違います。

 ましてや山田太郎は「自民党を変える」という触れ込みで自民党から出馬し、当選しました。表現の自由を守るために日本最大の表現弾圧集団の一員になるという不可解な動きを正当化するための「自民党を変える」だったわけですから、実際に変えられなければ「表現弾圧に加担する議席になったんだね」と評価されてもやむをえません。

 さらに言えば、そもそも表現の自由を守るうえでは、実際に表現を弾圧できる立場にある人がそうせずに、きちんと表現の自由という原則を擁護する姿勢を常に打ち出すだけでも大切なのですが、山田太郎はそれすら行っていません。行動を起こさず、言及することすらなく、まさしく山田スルー太郎という状態になっています。

なぜ山田太郎は解説に殉じるのか

 

 そして話は戻ります。例の安楽死の話は山田太郎が毎週更新している動画の第408回にありますが、感想としては「で、お前はどう思うの?」という以外にありません。彼は20分ほど長々とオランダの安楽死について解説して終わります。

 このような姿勢は、実は私が今までに見た動画すべてで共通しています。彼は長々と背景を解説する中で、ぼうっとしていたら聞き逃してしまいそうなほど短い時間、極めて曖昧な主張をぽろっと言うだけということを繰り返してきました。

 要するに「で、お前はどう思うの?」というところが極めて薄いということです。
 まぁ、私もこれまでに山田太郎の発言を散々批判してきましたが、よくよく振り返ればその多くは「言葉の端から読み取れる考え」であるとか「解説の内容から見て取れる主義主張」についてのものであり、真正面から彼の主張を塊として扱ったことはなかったように思えます。

 政治家といえば一般に「私はこう思う」という自己主張の塊であって、そういう塊を理想としてぶち上げてそこに社会を近づけようとするものだと思うのですが、彼は違うようです。自己主張の塊という点に関しては、そこらの極右排外政治家のほうがよほど色濃く表れているといえましょう。

 なぜこのような状態になっているのかは推測するほかありませんが、基本的に彼が批判を避け八方美人的に支持を集めようとしているからではないかと思われます。自分の意見を表に押し出さなければ、それについて批判されることもありません。仮に何か言われてもすべて「いや、これは現状の解説だから」で押し通すことができます。

動画しかない理由

 こうした彼の「批判回避戦法」は、彼が主に主張を訴える場所が動画だけという点とも関係しています。彼はネットに強いと謳っていますが、その割にはTwitterの更新頻度は低く小池晃以下、Webサイトでの発信も政策面に関しては動画のリンクを張るだけという状態です。

 じゃあ動画が見られているかというとそんなことはなく、ほとんどの動画は1000から2000くらいの再生数で終わっています。そもそもチャンネル登録者は2万人以下であり、各動画は1時間以上あるので見られないのは当然ですが。

 本来、政策論争のように込み入った話で何度も参照されることもあるだろうものをまとめて発信するには、文章が最も適しています。閲覧性に優れ、賛同するにも批判するにも引用が容易であることからも、意見表明の基本は文章であるというべきでしょう。文章ならば聴覚障害があってもアクセスでき、読み上げ機能があれば視覚障害もクリアできそうです。

 一方、山田太郎の動画は動画なので視覚障害こそ問題にならなさそうですが、テロップが皆無なので聴覚障害者ははじかれます。仮にここはYouTubeの自動テロップで回避するとしても、そもそも1時間の動画に複数の論点が混在し明確に区切られていないという閲覧性の低さはどうにもなりません。

 要するに、山田太郎の主張を確認するには、1時間もあるわかりにくい動画を延々と閲覧する必要があるというわけです。それが毎週増え続けいまや400以上なわけですから、彼の主張を客観的に検証することはもはや不可能といえましょう。

 これは私がかつて『ネットで「議論」に勝つ方法:詭弁のカタログ』で触れたような、相手の応答コストを増大させ批判を防ぐタイプの詭弁と同じものとみなすことができるでしょう。

 それでも彼が動画を投稿し続けるのは、動画を投稿しそこで何かしらの話題に触れたという事実をもって、問題をスルーしたという批判を回避するためのアリバイを作ることができるからです。実際には言及したといってもただ解説っぽいことをしただけで、自分の意見も言っていないしましてや与党の議員として期待される行動も起こしていないのですが、とりあえず言及したという事実をもって支持者は擁護してくれます。

真の問題は不誠実さにある

 こうしてみると、山田太郎を批判するときに、表現の自由において全く役に立っていないなどという理由を持ち出すのはあまり本質的ではないような気がします。

 真に山田太郎を支持すべきではない理由は、やはり彼の不誠実さにあるとみなすべきでしょう。旗色を明確にせず、自由を守るといいながら真逆の考えの政党から出馬する態度、言ったことを実行しない一方でほんのわずかな活動を大げさに取り上げて成果とする態度など、彼の不誠実さは極まっています。

 私の考えでは、不誠実であることはもっとも信用できない人間の条件です。仮に考えが違っても無能であっても、誠実であればその限界の中でも信じることは可能です。こちらを害するために動かないことが明白だと想定できるからです。しかし、いくら能力が高くとも考えが一致していても、不誠実であれば信用できません。そういう人間はこちらを裏切り害する恐れがあるからです。

 やはり、山田太郎が表現の自由の守り手であるかのような主張は断固として排し、批判していかなければならないでしょう。

【書評】暗黒の啓蒙書

 今回の書評は、ブログ読者の方からAmazonギフト券と共に勧められた1冊です。
 本作の著者ニック・ランドはアメリカの反動主義の旗手として知られる人物らしいです。本書はそのニックが掲示板に投稿した文章の全訳であり、文章自体はオバマ政権下の時期に投稿されたものであるとのことです。

 そういう背景を頭に入れて読んだのですが……ぶっちゃけ、何を書いているのかさっぱりわからない、というのが最初の印象でした。しかしこの意味不明さこそ反動主義の本質であり、また左右どちらにとっても都合のいいものとして持ち上げられる道具としての本書の特徴をよく表しているのかもしれません。

本書の意味不明さと精密さの欠如

 本書は一読して何を言っているかさっぱりわかりません。もしわかるという人間がいるならば、実は本書を読んでいないか嘘をついているかのどちらかだと断言できるでしょう。

弁証法の持つ政治的な操作性
「つまり弁証法とは、対立物の合一についての教義だと定義することができる。それこそが弁証法の本質を例示するものである」とレーニンは述べ、そしてつづけて、次のように述べている。「だがこのことは、様々な説明や展開を要求する」。いいかえよう。要するにそれは、さらなる議論を要求するのだ。

 本書の不可解さは、各章の初めの一段落を引用すればすぐに明らかになります。例えば上で引用したのは本書のPART 4bの冒頭なのですが、すでに何を言っているのかさっぱりわかりません。もちろん、章全体を読めばぼんやりと「こう言いたいのかな?」と推測することは可能ですが、それはあくまで推測でしかなく、しかも非常に苦痛な作業になっています。

 本書の意味不明さの原因を一言で表すならば、それは抽象的な概念を用いて議論するのに必要なすべての手続きを無視しているためであると言えます。

 まず、本書はオバマ政権誕生とその背景にある「リベラル独り勝ちと保守の衰退」に抗うために作成されたものであることからもわかるように、現実のアメリカ社会についての考察であるはずです。であれば、本書の論考は常に現実社会との具体的な接点を持たなければいけないはずです。にもかかわらず、本書で著者は、自身の議論をわかりやすくするために具体例を出すということをほとんど行っていません。唯一の例外は後述するトレイボン・マーティン射殺事件への言及ですが、これに関してもただの牽強付会に終わっています。

 つまり本書の議論は著しく抽象的なためにわかりにくいという1つ目の特徴が存在します。そこへ輪をかけて話を分かりにくくしているのが、著者が抽象的な概念を全く精密に扱えていないという事実です。ここにはさらに2つの側面があります。

 1つは、おそらく意図的でしょうが、抽象的概念を粗雑に規定、あるいは拡散させているという点です。よい例が、著者が現在の政治の中心にいる人々を「大聖堂(カテドラル)」という言葉で表現している点です。これは著者独自の用法でしょうが、しかし「大聖堂」が具体的にどの範囲を指すのかを説明する部分はありません。裏を返せば、読者が恣意的に「大聖堂」という名前に該当する敵を想定しながら著者の文章を読むことが可能となっているというわけです。こういうのを精密な議論とは、というかただ単に議論とは呼べません。

 著者はこれを同じことをあらゆることでやっています。上で引用した「弁証法」も、現代の社会において何を指し示すのか全く説明されないまま使用され、政治議論の何かを否定するという話になっています。また「ドーキンスの議論」なるものを長々と批判するパートもあるのですが、そもそも「ドーキンスの議論」が何なのか確認する部分はありません。

 通常、本書のようなものを読む読者は反動主義の議論的背景をあまり理解していません(だからこそ読むんですが)。本書は元々掲示板に投稿されたものですが、そうだとしてもある程度議論の背景を整理する行為を行ってから実際の議論を始めるのが作法というものです。そうしなければ、各々の認識に齟齬が生じ議論が混乱するからです。抽象度の高い議論を行おうと思えばなおさらです。

抽象概念を持て余す程度の能力

 抽象的な概念を全く精密に扱えていないという事実のもう1つの側面は、より単純に、抽象的概念を適切に理解できていない、という点につきます。

 ブログ読者の方から本書を紹介されたときに、統計と人種主義についての記述もあると言われましたし、いままでの私の記事の傾向からしてそれが一番読んでほしかったところではないかと思うので言及しますが、本書が扱う統計と人種主義の関連性は「抽象的概念を適切に理解できていない」ことを最も象徴している部分です。

 本書のような「統計的事実から人種の真実を」云々と主張する人々の根本的失敗は、我々が通俗的に「人種的平等」というときの「平等」が何を指しているかを捉えそこなうという点にあります。ここでいう平等はあくまで「権利の平等」であり、人種間の能力が違っているとかそういう話ではありません。つまり、彼らが「統計的事実」によって人種間のIQの違いなどを熱心に論じたところで、本来そんなものには何ら意味はないのです。

 フェミニズムはかつて、男女が同一の存在である、ゆえに権利も同じであると主張しましたがうまくいきませんでした。男女は見た目にも違う存在だからです。そのため、第一波から第二波に発展する際に「違っても権利は同じ」という論理を確立しました。人種的平等も同様で、仮に白人と黒人が違う存在でも、同じ人間である以上権利も同じである、というのが「人種的平等」の中身なのです。彼らはこの抽象的な「平等」という概念をきちんと理解できていないのです。

 抽象的概念を理解できないという点では、著者は統計情報の取り扱いにも悲惨な失敗を犯しています。統計はなまじ数字であるばかりに極めて具体性の高い情報であるかのように思われがちですが、実際には統計手法や定義によってその顔を容易に変える生ものであり、極めて抽象的な概念の操作にほかなりません。

 著者は黒人の犯罪率という「統計的事実」を取り上げ、黒人を犯罪者予備軍であるかのように警戒することを擁護します。しかしこの見方は、犯罪統計上の数字が純粋に黒人の民族としてのありようを反映しているという極めてナイーブな見方によるものであると、本ブログの読者ならピンとくるのではないでしょうか。

 犯罪統計は「誰が犯罪を犯したのか」を表すものであるというよりは、警察が「誰を犯罪者として捕まえたのか」を示すものであると理解したほうが実際に近いと言えます。黒人への偏見が渦巻く社会であれば、黒人の犯罪者は捕まりやすくなりますし、もっと言えば犯罪者でなくとも犯罪者として捕まる可能性も高まります。「統計的事実」はかくしてあっさり「腐る」ことが起こりうるものなのですが、抽象概念を持て余す彼らにはそのことが理解できません。

 最後にもう1つ例を。著者はトレイボン・マーティン射殺事件を取り上げ、リベラル社会にある硬直したものの見方を非難します。そのものの見方とは、ずばり「偏見から黒人を犯罪者として恐れる白人と、そのために殺される黒人」という図式です。

 著者はこの図式が間違いである理由として、事件の加害者であるジョージ・ジマーマンがヒスパニック系であったことをあげます。つまり加害者が白人ではないから、この図式は成り立たないというわけです。しかし、この見方はあまりにも単純で、彼らの抽象概念理解のできなさをよく表すものです。

 トレイボン・マーティン射殺事件における「物語」の重要な側面は、黒人が犯罪者予備軍のように扱われ、射殺されても加害者に咎めがないという点です。そしてこの物語は、別に加害者が白人でなくとも成立します。ステレオタイプというのはそのステレオタイプを向けられている属性の人間すら内面化するものだからです。「危険な黒人」というステレオタイプの問題を強調するために必要なのは、無実の黒人少年が空き巣と間違えられて自警団員に射殺されたという部分だけです。

 もっと言えば、白人中心的な裁判において加害者が無罪になったという点で「黒人の命を軽視する白人」という部分も成立するのですが。

反動主義者にとって都合のいい不可解さ

 ここまで、本書がいかに不可解であるかとその原因について論じましたが、実はこの不可解さは左右の読者両方にとって都合のいいものです。

 まず右派について。右派は当然、この議論に賛同する者が多いのですが、文章が不可解である以上きちんと内容を理解して賛同しているものは皆無です。では何が都合がいいのでしょうか。

 本書の都合のよさは、最終的に「いつまでも自分が被害者の立場にいられる」という点に収束します。
 そもそも、反動主義者のような現在の保守系の人々の中心的なアイデンティティは、お利口さんな多様性と権利主義にあらゆるものを奪われた被害者であるという点だけです。そのことは、著者が本書で「弁証法においては保守は常に敗者である」などと主張していることからも明らかです。

 支離滅裂な議論は、敗北者ムーブにとって実に都合のいいものです。議論が支離滅裂であれば、当然論敵たる左派からは無視されます。その無視こそ「あいつらは偉ぶって俺たちの話を聞かない!」という被害者ムーブの良い口実になるのです。実際には自分の主張の低レベルさからくるものなのですが、彼らはお構いなしです。

 また、著者は本書の前半と後半でそれぞれ、未来に向けた提言もしています。前者は「新官房学」による新しい社会の創造、後者は民主主義を否定した国家形態の提唱といえるでしょう。しかしなら、これらの提唱はすべて、極めて抽象的な大風呂敷であり、現実性と具体性を欠くため絶対に実現することがありません。というか、どうなったら実現したといえるのかもわかりません。

 これらの提唱の実現を夢見ることは、すなわち叶わぬ夢に破れ続けることを意味します。それはつまり、自分が大きな理想を抱いたにもかかわらず夢半ばで敗れた敗北者であるという立ち位置を容易に得ることになります。実際には荒唐無稽な理想を鵜呑みにしたというだけなのですが、ポジショントークにはこれで十分です。

 こうして、保守は自身が敗北者であるという確信を強めて連帯するという、ある種のマゾヒズム的アイデンティティを肥大させ社会の破壊に精を出します。厄介なのは、このような荒唐無稽な議論を適切に無視すればするほど彼らの被害感情は膨れ上がり手が付けられなくなるというパラドックスが存在するということでしょう。

「一味違う左派」によるマウント取り

 先ほど、本書の不可解さは左右の読者両方にとって都合のいいものと書きましたが、左派に関してより正確に書くならば、本書の不可解さは「普通の左派とは一味違うと自認している左派気取り」にとって都合がいいと書くべきでしょう。そのことは、訳者のあとがきではっきりとわかります。
 まず、とうぜんあるだろうリベラル派からの批判にたいして一言しておく。露悪的で扇情的なランドの文章は、そもそも扇動のためのものであり、ひらたくいえば悪口をいうための悪口なのであって、基本的には、あまりまともに取り合う必要はないものだ。逆にそれに逐一逆上しているようだと、――ネット・スラング的ないいまわしでいう「釣り」に引っかかるようなもので――かえってランドの思う壺になり、つまりは潜在的な反リベラル派を元気づかしてしまうことになる。むしろ必要なのは自省だろう。「暗黒啓蒙」のようなテクストが書かれた要因のひとつに、リベラル派のもつ「正しいことは正しい」のだとするような思考パターンがあることはあきらかであり、いま現在の私たちの日常生活を見ても、そうした思考が抑圧的に機能している例は枚挙にいとまがないはずだ。ランドの議論に批判のための批判ゆえの過剰さがあることは指摘しておきつつも、民主主義や平等は、本当にそれほど重要なものなのかについては、あらためて深く考えてみるべきである。
 このように、訳者はリベラルの「傲慢さ」に対し「自省」を促しています。ここで注目すべきなのは、著者の主張が出てくる背景に一定の理解を示しつつ、しかし「釣り」であるというどこかで見た言い訳によって著者の主張へのまっとうな反論を封じ、自分のように「リベラルの傲慢さを自省する」のが唯一の解であるかのように振る舞うという、芸術的までの仕草であるといえましょう。

 本書の不可解さは、不可解であるがゆえにこのような「俺はお前らと違って理解できる」という態度によるマウンティングを可能としています。しかしなら、冒頭で書いたように本書はまったくもって意味不明で精密さに欠ける文章の羅列であり、これを読んで内容を理解できたと称する行為は端的に言って虚偽でしかありません。

 また、訳者は本書の背景に「リベラルの傲慢」があると主張しますし、これ自体はポピュラーな主張ではありますが、果たして本当でしょうか。リベラルが傲慢とされる理由の1つは『「正しいことは正しい」のだとするような思考パターン』らしいのですが、しかし実際のリベラルの主張に耳を傾けてみると、「差別はダメ」とか「人類の平等」みたいな、小学生のお題目みたいなレベルのことしか言っていません。

 これをもって「正しいことは正しい」などと理解するのは、「1+1=2ではないかもしれないだろう」と強弁し駄々をこねるかのようなふるまいです。この程度のことを理解しない子供に対して頭を抱え、呆れ、時にため息をつくのは極めて通常の振る舞いであり、傲慢さの反映とは言えないでしょう。

 そもそも、近代国家に住む我々は人権の実在を前提としているのであり、これがどうしようもなく「絶対的正義」であることは自明です。そのことを著者が書くように「カルト的」「宗教的」と表現するのは自由ですが、そうしたところで人権の極めて優れた「生活保障上の都合のよさ」が無効になるわけではなく、ただの言葉遊びにしかなりません。

 結局のところ、本書を用いて大多数のリベラルの風潮に異を唱えるのは、自分はその大多数と違うということだけをアピールしたいポジショントークであり、実質的には意味のないことです。ぱっとみ難しい言葉を使っているせいで何か深遠なことが書いてあるかのように見えますが、実はそんなことはありません。

 意味不明なものは正しく意味不明であると理解し、そこら辺に投げ捨てておいて、我々はまっとうに前へ進む必要があります。

安楽死や尊厳死は認めるべきなのか

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の林優里さん(当時51)から依頼を受け、薬物を投与し、嘱託殺人の容疑で7月23日、京都府警に2人の医師が逮捕された事件が波紋を広げている。
 逮捕されたのは宮城県の開業医、大久保愉一(よしかず)容疑者(42)と東京都の開業医、山本直樹容疑者(43)。
 2人は昨年11月30日、京都市内の林さん宅に知人だとして訪問。現場にいたヘルパーに席を外させ、薬物を投与して、立ち去った。林さんは回復の見込みが少ない難病ALSを悲観し、<耐えられない。安楽死させてください>
 と死の願望をSNSで綴り、大久保容疑者と知り合ったとされる。
 京都・嘱託殺人で逮捕の医師の素顔は? 元国会議員の妻「…離婚します」〈週刊朝日〉-AERAdot
 この件です。山田太郎の動画を見たりして、やはり自分の中で1つ結論を出しておくべきだろうと思い記事にしました。

そもそも安楽死/尊厳死とは

 安楽死と尊厳死のわかりやすい説明を探してたら、なんと進研ゼミのサイトに行きつきました。以下に引用します。
安楽死
 回復の見込みがなく、苦痛の激しい末期の傷病者に対して、本人の意思に基づき、薬物を投与するなどして人為的に死を迎えさせること。日本では法的には認められていない。横浜地方裁判所の東海大学安楽死事件(1991年)に対する判決(1995年)においては、
(1)患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛があること
(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、代替手段がないこと
(4)患者自身による、安楽死を望む意思表示があること
 の4要件を満たせば、安楽死が認められる(違法ではない)とされたが、これまで認められた例はない。
 積極的安楽死とも呼ばれる。

尊厳死
 回復の見込みがない傷病者に対して、本人のリヴィング・ウィル(生前の意思)に基づき、人工呼吸器や点滴などの生命維持装置を外し、人工的な延命措置を中止して、寿命が尽きたときに自然な死を迎えさせること。
 植物状態におちいるなどしたとき、人工的な延命措置によって生命を維持し続けることは、人間としての尊厳を保っていないと本人が考えた場合、人工的な延命措置を行わずに自然な死を選ぶ権利があるとする考え方にもとづく。QOL(生命の質)を重視する流れから、この権利が求められるようになった。
 消極的安楽死とも呼ばれる。
 【現代の諸課題と倫理】尊厳死と安楽死について-進研ゼミ高校講座
 これを読むと、まずいまの議論の印象と実際の安楽死や尊厳死の規定がだいぶ違うことが目につきます。日本の現状は、厳しい条件を付けつつ安楽死は認める可能性がある一方で、尊厳死を認める法律はないというものです。

「当人の意志」は尊重したいが

 私の基本的な考え方は、安楽死も尊厳死も認めるべきではないというものです。ただし、安楽死に関しては例外はあります。

 なぜ基本的に認めるべきではないかというと、「当人の意志」によって死を望むというときの「意志」が、果たして本当に当人の「自由意志」であるか怪しく、はっきりとそうだと断言できないためです。

 尊厳死に関しては話は早いといえましょう。尊厳死が問題となる状況では、その人は意識がなく自分で意志を伝える方法がないので、当人の意志を確認できません。よって、「当人の意志だから尊厳死」という判断を下すことは不可能です。

 予め尊厳死に関する意志を示しておくという方法も提言されていますが、これではその意志が「最新の、現在の考えを反映したものである」という保証がありません。最新、というのは単に「毎年確認しているから」「毎日確認しているから」というだけの問題ではなく、自分が大事故や大きな病気になり尊厳死を考えなければならない状態に置かれてもなお同じ意志であるかという問題です。比較的健康なときの判断が、尊厳死を考慮しなければならないほどの状況に変わったときに維持されるという保証はどこにもありません。

 また、そもそも意識がない以上当人の苦痛はほぼ存在しないと考えられるので、尊厳死させないと侵害される権利は限られており、それは「生きる権利の保障」に優越しないとも考えられます。意志がわからないなら生かす側に振っておくべきです。

 そういうわけで、尊厳死に関しては当人の意志が確認できない以上認めるべきではありません。

それは本当に自分の考えか

 安楽死に関しても私は基本否定的です。安楽死は尊厳死と異なり、当人の意志表示を確認することが可能で、そのために条件付きとはいえ日本でも認められる可能性はあります。しかしながら、日本においては認めるべきではないのではないかというのが私の考えです。

 なぜなら、当人の意志で安楽死を望むというとき、それが本当に当人の「自由意志」なのかやはり疑いがあるからです。

 例を挙げましょう。ある患者が安楽死したいと言いました。その理由が「これ以上治療費がかかるから」だったとしたら、この意志は本当に自由意志なのでしょうか。

 おそらく違います。この患者にお金があれば安楽死を望むことはなかったでしょう。「家族に迷惑をかける」とかでも同義です。こういう場合、この人は安楽死を望んでいるのではなく、望まなければいけない立場に追いやられているだけです。これを自由意志とは言いません。

 もう1つ、安楽死で多そうな理由が「治る見込みのない病気で苦しいから」というものがあります。現実問題として、治療方法のない病は存在します。そういう病気のために安楽死を望む人は、自由意志で望んでいるように見えます。お金や家族への負担が理由ではないからです。

 が、これも本当に自由意志といえるのでしょうか。こういう人も、当然ですが治療方法があれば、あるいはもっと苦痛を和らげる方法があれば安楽死を選ばずに済むのではないでしょうか。そういう人もまた、上の例とは違う側面から安楽死を望む立場に追いやられているだけではないでしょうか。

安楽死を認めることは、治療法の発展を妨げる

 こう書くと、そうは言っても治療法がないのは事実である、そのような人に安楽死を認めないのは酷なことだと反論されそうです。

 しかしながら、安楽死を認めることは「治療法がない」という状態を固定化し、難病患者を治療からより遠ざける危険性があることを指摘しておかなければなりません。

 難病の治療法がなかなか開発されない原因の1つは、難病治療が商売にならないことにあります。ただでさえ開発が難しいのに、開発しても患者が少ないので採算が取れないというわけです。医療技術の研究には公的資金も多く投入されているでしょうが、やはり営利企業の開発のほうが資金も潤沢です。

 そのような状況でも、何とか治療方法が開発されてきたのは、難病患者を治す、あるいはせめて苦痛を和らげる以外の選択肢が存在しないからです。患者を放置するわけには当然いかないので、少しずつではありますが治療方法は研究され発展します。

 ここに安楽死という選択肢が加わったらどうなるでしょうか。死は極めて簡単な選択肢です。どんな人でも簡単に死ぬことができますから、当然です。困難な選択肢と簡単な選択肢がぶつかり合えば、後者が勝つのは必定といえましょう。

 こうなると、わざわざ困難を乗り越えて難病の治療方法を開発する必要性がさらに薄くなります。むしろ、「苦痛なく死ねる安楽死法」みたいなものの開発のほうが盛んになる可能性すらあります。「死ぬ方法」は病状にかかわらず普遍であるためどんな人間にも適用でき、難病患者よりも市場が広いので金になります。

 こうなると、ただでさえ少ないリソースは「安楽死方法」の開発に食いつぶされ、難病研究はより遅れるでしょう。「治療方法がない」という事実によって安楽死を認めることが、「治療方法がない」という事実を固定化し人々の生きる権利を潰していくという構図が出来上がります。そのため、やはり安楽死を認めるべきではないのです。

 もちろん、安易に流れるというこの構図は、治療方法の開発だけではなく、社会保障などにも当てはまります。「死ねばいい」ということになれば、誰も難病患者を支援しなくなるでしょう。維新が考える安楽死などは、まさにこのような視点からの死の強制です。

生きる権利と死ぬ権利は対立する

 私が考える、安楽死を認める例外は、上述したような「生きる権利への圧迫」が生じえない場合です。つまり、周辺的な状況に全くかかわりなく、確実に当人の意志によって安楽死が望まれていることが確かめられるなら否定する理由はないと思います。

 簡単に言えば、これだけ生きる権利が保障されていてもなお死にたいならもうしょうがない、というとき以外認めるべきではないということです。

 具体的に規定するのであれば、まさしく上で引用した「安楽死が認められる要件」のような状況でしょう。特に「死期が迫っていること」が入っているのがミソで、これによって「治療方法が開発されているがその人の治療には間に合いそうにない」状況を想定することが可能です。
 ただし、この状況の前提としてもちろん、治療費等の負担面で患者やその家族に適切な保障がなされていることが必要です。

 山田太郎の動画を見たときにこんなことを書いていますが、私の考えは「死ぬ権利を認めることは生きる権利を侵害すること」です。それはまさに、上に書いたような理由から導くことができます。

 そもそも、人間は生きながら死んだり死にながら生きたりできません。生きるか死ぬかはどちらかしかない以上、生きることは死ぬことの否定であり、死ぬことは生きることの否定です。

 山田太郎は「生きたい人は生きればいいし、死にたい人は死ねばいい」と多様性を認めるニュアンスでこのようなことを言ったのかもしれません。しかし、そのような見方は人が社会の中で生きていることを無視した発想です。

 安楽死を認めるかどうかという議論は、単に自分たちが個人的に生きるか死ぬかを選ぶというだけにとどまりません。社会として安楽死を認めるかどうかという議論であり、つまり社会を「苦しくても生きられる社会」に進めるか「死ねる社会」に進めるかの議論です。そしてこの社会は、少なくとも日本では実は両立できません。

 「死ねる社会」では、苦しい状況で生きることは異端視されます。死ねるので当然かもしれません。単に異端視されるだけならまだしも、日本のように狭量で同調圧力の強い社会では、確実に「死なないのはおかしい」という方向に変容します。「死ねる社会」はつまり、日本においては「死なないといけない社会」と同義です。これでは「苦しくても生きられる」ことは絶対にありえません。苦しいと殺されます。

 「苦しくても生きられる社会」でも同様のことは起こりえます。起こりえますが、生きる権利が何よりも尊いという自明の前提を考慮に入れれば、「苦しくても生きなければならない社会」は「死なないといけない社会」よりもよっぽどましであることは言うまでもありません。
 もっとも、人間社会が「殺す」方向へ流れやすいことを考えれば、「苦しくても生きなければならない社会」ができるとは到底思えませんが。

 そういうわけで、「生きるのも死ぬのも多様性の1つだよね」みたいな議論には乗れません。寛容のパラドックスで不寛容が寛容な社会でも認められるべきではないように、死ぬ権利も生きる権利を保障する社会では極力認められるべきではないのかもしれません。

「今の価値観で昔を裁くな」というが、そもそもそれは昔の価値観でもセーフだったのか問題

 【6月10日 AFP】米国をはじめとする各国で人種差別と警察の暴力に抗議するデモが拡大し、放送業界が配信内容の見直しを進める中、動画配信サービスHBOマックス(HBO Max)は9日、映画『風と共に去りぬ(Gone with the Wind)』をストリーミング配信のコンテンツから削除した。
 南北戦争を舞台にした1939年公開の同作はアカデミー賞(Academy Awards)9部門を受賞し、インフレを考慮した興行収益で歴代トップに君臨する歴史大作だが、奴隷が不満を言わず、また奴隷所有者が英雄のように描かれているという部分は批判の的にもなっている。
(中略)
 『それでも夜は明ける(12 Years A Slave)』の脚本を担当したジョン・リドリー(John Ridley)氏は8日付のロサンゼルス・タイムズ(Los Angeles Times)の論説に寄稿し、『風と共に去りぬ』について「表現において基準を満たしていない」だけでなく、奴隷制の恐ろしさを無視し、「有色人種の最も痛ましい偏見」を永遠のものとしていると指摘し、排除されるべきだと主張した。
 HBOマックスは歴史的背景に関する議論や説明を追加して配信を再開する予定だが、「差別は存在しなかった」と主張することになりかねないとの理由で編集は行わない意向を示している。
 米動画サービスが『風と共に去りぬ』配信停止 人種差別理由に-AFP
 これの件で、いわゆる表現の自由戦士が吹き上がっています。

 彼らの主張のテンプレとして、「当時のものを今の価値観で裁くな」というものがよく見られます。これは、例えば引用した記事のように昔の作品がその差別性などを批判されたとき、当時は問題とされなかったんだからケチをつけるなという反論として登場します。

 この主張がバカバカしいのは、いま問題となっているのが「昔の行為が当時の価値観に照らしてどうだったのか」ではなく「昔の行為をいまこの瞬間にどう解釈するのか」という点であることをすっかり見落としているということです。極論すれば、この問題を論じるときには、昔の価値観などどうでもよく、いま我々がそれをどう受け止めて対処するかが問題なのです。

 結局のところ、この「当時のものを今の価値観で裁くな」は「何もしない」をそれっぽく言い換えただけのものにすぎません。

 さて、そうはいっても気になるところはあります。それは、そもそも奴隷制度のような「昔の行為」が、果たして本当に「昔はセーフだったのか」ということです。

「今の価値観で昔を裁くな」の欺瞞

 なぜ「昔は本当にセーフだったのか」という点が気になるかというと、この発言が多くの場合「昔はセーフだったことにして過去の蛮行を正当化する」ことに使われているからです。

 日本で最も良い例が、戦時中の従軍慰安婦問題です。この問題では、歴史修正主義者がよく「当時は合法だった」と主張します。ちょっと検索するだけで以下のような例が出てきます。

 しかし、この言説は明確に誤りです。以下に引用するように、日本軍の行った慰安婦の徴用は明らかに違法で、どう考えてもアウトな代物でした。

 当時の国内法・国際法に照らしても違法だった
 当時慰安婦にされて日本から戦地に送られた女性の中には、実際の「仕事」の内容を知らされずに「良い仕事がある」などと騙されて連れていかれた人が多数見られます。これは旧刑法226条「帝国外に移送する目的を以て人を略取又はしたる者は二年以上の有期懲役に処す 帝国外に移送する目的を以て人を売買し又は被拐取者若くは被買者を帝国外に移送したる者亦同じ」とあり(国外移送誘拐罪・国外移送人身売買罪)、刑事罰を課せられる違法行為です。また旧刑法227条では「前三条の罪を犯したる者を幇助する目的を以て被拐取者又ハ被買者を収受若くは蔵匿し又隠避せしめたる者は三月以上五年以下の懲役に処す」とあり(被拐取者収受罪) 、同じく刑事罰を伴う違法行為です。前者については女性を集めた業者に、後者ではそうした女性を「収受」した軍に直接的な責任があります。
 当時は合法だった?-慰安婦問題FAQ

アメリカの奴隷制度は当時もセーフだったのか

 では、『風と共に去りぬ』で問題視されているアメリカの奴隷制度はどうでしょうか。
 ここで重要なのは、「合法であること」は必ずしも「セーフであること」を意味しないということです。ルールは人が作るものであり、その時々の人の思惑や限界に左右され、不適切な立法も行われます。

 では何を基準に判断したらいいでしょうか。これは法律のさらに上の概念である人権をおいてほかにありません。人権、つまりすべての人が生まれながらにして平等な権利を持つという概念を知っていてもなお、ある人種を奴隷にするという行為をしているのであれば、それは当時の価値観からみてもアウトだったと判断できます。

 人権という概念が広く世に知られるようになったのは1789年のフランス人権宣言でしょう。これよりも前、1776年にアメリカは独立宣言を出しています。そしてその中で思いっきり、『われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり』と書いています。

 つまり、アメリカという国は誕生と同時に人権の存在を認識していたのです。
 にもかかわらず、アメリカは奴隷制度を当時から維持していたわけです。ここからわかるように、当時の価値観でも普通にアウトですね。

 ちなみに、この解釈が牽強付会でないことを示すために、当時から奴隷を解放しようと動く組織(レールロード)が存在したという事実も指摘しておきます。

人権宣言以前ならセーフなのか

 こういう人もいるので、人権という概念が広く知られる前ならセーフなのかも考察しておきましょう。

 私の考えでは、人権概念が知られる以前であっても、奴隷制度のようなものは当時からすでにアウトであると考えるべきだと思います。

 それはなぜか。それは人権が「価値観」というよりむしろ「物理的に存在しているもの」に近い性質を持つと考えているからです。

 「物理的に存在しているもの」というのは、例えば「引力」のようなものです。ニュートンが万有引力の法則を発見する以前、地球には引力は存在しなかったのでしょうか?もちろんそんなことはありません。ニュートン以前にも引力はありましたが、ただ知られていなかっただけです。

 人権も同じような性質があると考えるべきです。人権の発見以前には人権がなかったのではなく、ただあったのに気づかれなかっただけです。人権発見以前の人なら奴隷にしてよかったのかというと、当然そんなことはありません。

 これは当時の人々にとって酷なことでしょうか?そうは思えません。当時からすでに、下層民や奴隷であっても平等に扱うような振る舞いをするものは名君として称えられ、苛烈な扱いをするものは暴君として非難されていました。当時の人々も、人権という言葉は知らずとも、人権をないがしろにする振る舞いがある程度不当であることは直感的にわかっていたはずです。

 というか、それがわかっていなければそもそも『人権宣言』にたどり着かないはずですけどね。

 それに、人を奴隷にしちゃまずいくらいの話は、人権などという大仰な概念を持ち出すまでもなく、素朴な良心を働かせれば普通にわかりそうなものです。そういうことからも、奴隷制度が当時の価値観ですでにアウトだと考えるべきだとわかります。

 結局のところ、差別がダメなんて話は昔からわかっていたことで、この点に関して「今の価値観」と「当時の価値観」が滅茶苦茶隔たっているということはありません。百歩譲って石器時代と比べるならまだしも、南北戦争程度の昔だとすでに人権概念すら知られていたので、18世紀くらいを「万人の万人に対する闘争」くらいにイメージしていると無知を晒すだけです。

 「今の価値観で昔を裁くな」と聞いたら、あぁこの人は誤魔化しをしようとしているなくらいに考えるのがちょうどいいでしょう。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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