九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

通俗心理学

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【書評】月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う

 今回は、以前カンパで頂いたアマゾンギフト券で購入した一冊です。カンパの詳細についてはブログ上部をご覧ください。

 女性犯罪の原因は月経にあり?
 本書で取り扱われているのは、女性犯罪の原因は月経であるという俗説です。あくまで俗説ですが、旧来よりヒステリーなどに関連する学説として、女性の子宮が精神の不安定さに関連すると考えられていたので、犯罪と結びつくのはある意味では時代的な必然といえるでしょう。

 もっとも、問題なのはその学説が、当時の技術的限界を差し引いてもいい加減な論証の上に成り立っていたという点です。例えば、犯罪心理学の祖としてその名前がよくあがるロンブローゾは、万引きや公務執行妨害を犯した女性の多くが月経中であったことを具体的な数字を挙げて論じていますが、これはあくまで女性自身が自己申告したものを、さらに伝聞で聞いただけの信頼性に欠けるデータでした。
 しかも場合によっては、女性が犯罪を犯しやすい時期が月経中になったり月経前になったり、あるいは無月経だったりとばらついて理論として訳が分からないような状態になってしまっています。要するに月経と何らかの関係があれば犯罪につながると言っているようなもので、これでは理論と到底呼べるような代物ではありません。

 しかし残念ながら、これほど粗が目立つ理論は例外的な犯罪学者を除いて、多くの学者に受け入れられてきました。例えばロンブローゾの著作を翻訳した寺田精一、また『【書評】殺人論』でも取り上げた小酒井不木もその一人でした。

 女性犯罪論 その時代的背景
 ではなぜ、このように冷静に考えればどうにもおかしいと思われる理論があっさりと受け入れられたのでしょうか。著者はその原因の1つに時代的な背景をあげます。
 女性犯罪論が盛んに論じられた当時、つまり戦前から戦後まもなくくらいの時代にかけては、女性に対して健康な国民を生んで富国強兵に貢献する母体としての役割が期待され、押し付けられた時代でした。

 そのような背景、というより願望のために、為政者たちは女性を男性と同等に扱わず、男性の下へ押し込めるような理屈を、意図的かどうかはともかく必要としていました。その点、女性が月経によって不安定になるという理屈は実に都合がよかったわけです。そのような側面を最大限強調するために、月経と犯罪との関連が特に使われていったようです。

 要するに、自身の願望を押し通すために科学を装った主張を、多少どころではない齟齬を無視して利用したということなのでしょう。

 月経原因説は過去の遺物か
 さて、これらの話はせいぜい戦後まもなくの、1930年代そこらまでの話がメインです。しかし月経を犯罪の原因とする議論は過去の遺物となったわけではありません。
 例えば、74年に発生した甲山事件。幼児が排水溝で見つかり勤務していた保育士が逮捕された冤罪事件ですが、ここでは月経原因説に基づいて女性の容疑者に月経について尋ねたといいます。また本書には70年代から80年代にかけて出版された、月経原因説をとる書籍も多数指摘されています。

 極めつけは、本書の前書きで指摘されている、2003年に出版された刑事政策の教科書です。ここには現代に生きる月経原因説を見ることができます。まぁ、杉田聡『』でも指摘されていたことですが、法学や政策といった本来犯罪を専門的に扱うはずの分野の専門家(多くは男性)が、犯罪現象そのものに対して恐るべき無知を発揮するということは往々にして起こります。

 さすがに、2018年になってこのような議論を見かけることは、私の記憶ではありませんが……もしかしたら探せばまたぽろっと出てくるかもしれませんね。

 田中ひかる (2006). 月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う 批評社

「母親の遺伝子だけで知能が決まる」は本当か

 昨日コンビニをふらふらしていると週刊現代11月17日号の見出しが目に入りました。そこには「わが子が勉強できないのは母親のせいだった」の文字が。
 記事の内容はまず、平成29年度の学力テストとそこで同時に実施された「保護者に対する調査の結果と学力等との関係の専門的な分析に関する調査研究」の結果を受けて、父親の学歴よりも母親の学歴のほうが子供の成績に影響すると主張します。そして調査を実施した専門家の「母親のほうが子供といる時間が長いから影響があったのだろう」という解釈を提示します。この解釈自体は妥当なものでしょう。

 しかし記事は、その解釈が本当か疑問を挟みます。そして「知能は母親の遺伝で決まることが分かっている!」という研究を引用するかたちで、見出しの主張が正しいのだといいます。
 ですが、常識的に考えて親の一方の特性ばかりが遺伝して、もう一方がほとんど関係ないということがあり得るのでしょうか。

 元ネタは何か
 さて、まずこの主張がどこからやってきたのかを明らかにしましょう。出典がどこかというのはその主張の妥当性を判断する手がかりになりますから。
 親切なフォロワーに、ライブドアブログでこの「母親だけが知能遺伝に関係する」という主張を否定する記事を教えてもらいました。さらに掘り下げていくと、どうも元ネタが女性自身に2016年に掲載された記事のようです。
《知的能力は父親ではなく、母親から受け継がれる》
 もともとはアメリカのニュースサイト「サイコロジースポット」に掲載されたジェニファー・デルガド氏が書いた記事だが、いまや世界各地で転載されているのだ。デルガド氏の記事は、次のような内容だった。
《……研究結果によると、父親の遺伝子を持つ細胞が蓄積されるのは、気分や本能をつかさどり、飢え、攻撃性や性的衝動を制御する大脳辺縁系。母親の遺伝子を持つ細胞が蓄積されるのは、記憶、思考、音声そして知覚といった認知機能をつかさどる大脳皮質……》
 やや難しいが、子供の知的能力は母親から遺伝し、攻撃性や衝動といった本能は父親から遺伝することが判明した、ということのようだ。知性にまつわる遺伝子は、母親から子に受け継がれたときにのみ機能するのだという。そして記事には、その結論の根拠となる大学の研究などについても書かれていた。
(中略)
 はたしてこの学説について遺伝の専門家たちは、どう考えているのか?同志社大学生命医科学部医生命システム学科の石浦章一教授はこう話す。
「確かに特定の病気については、母親由来の遺伝で発病するものがあります。これは父親由来では発病しないんです。しかし、そういう病気以外で、知能に関して父親の遺伝子がオフになる(伝わらない)という説は、私は聞いたことがありません」
 石浦教授によれば、人間は2万個くらいの遺伝子を持っていて、そのうちの半分の約1万個の遺伝子の組み合わせで頭脳の賢さが決まっているのだそうだ。ほかにも重要なのが子供の脳が形成される幼児期だという。
 驚きの新説「頭の良さは母親からしか遺伝しない」は本当なのか-女性自身
 内容としては、まぁそうだよなという感じです。
 ちなみに石浦氏の言う特定の病気というのは、ダウン症のように1つの遺伝子の異常などを原因とする「一遺伝子疾患」を想定しているのではないかと思います。こういう病気はあまり多くなく、遺伝を原因とする病気の多くは複数の遺伝子の組み合わせからなる「多遺伝子疾患」です。(なので戦時中のファシストのように、精神疾患を根絶しようと患者を虐殺したとしても、原因となる遺伝子それ自体は健常者もいくつか持っているので根絶は無理ということです。)

 ここに書かれた「サイコロジースポット」というサイトは知りませんでしたが、調べてみると元ネタズバリの記事が見つかりました。
 Smart people should thank their mothers because, according to researchers, their mothers are mainly responsible for transmitting intelligence genes. Thus, gender stereotypes that have survived for centuries are perhaps about to disappear. Single women who want an intelligent child don’t need to look for a Nobel Prize at the nearest sperm bank and it is likely that men will begin to see the intelligence of women as an important part of their attraction.
 Did you know that intelligence is inherited from mothers?-Psychology Spot
 調べてみると、どうも特段専門的に信頼できるサイトではなく、単なるブログ程度のもののようです。現にサイトの下部にブログだと書いてありますし。サイトを運営しているジェニファー・デルガドにしても、大学で心理学を専攻したものの、研究者ではないようです。もし研究者なら記事の権威づけのためにそう書くでしょうが、本人のプロフィールにはそのような記述はありませんし。

 ちなみに、この記事に対するファクトチェックとして「Intelligence Is Inherited Only from Your Mother?-Snopes」という記事も見つかったので、以降の参考にします。

 知能は複数の遺伝子の組み合わせで決まる
 そもそも「知能は母親から遺伝する」説というのは大きく分けて2つの前提からなっています。1つは少数の特定の遺伝子によって知能が決まるということ。もう1つはその特定の遺伝子が母親からしか受け継がれないということです。

 まず前者ですが、これは石浦氏の言う通りで誤りでしょう。そもそも様々な人間の特性は大量の遺伝子の組み合わせで決まります。また知能というのも、週刊現代の記事では「お勉強するための能力」くらいに単純に捉えられていますが、本来は多様な能力を総称したものです。一口に知能といっても記憶する能力、抽象的な概念を理解する能力、言葉で説明する能力、空間的な認識をする能力といったものがあります。これは知能検査が様々なテストからなることからもわかるでしょう(っていうかそもそも、知能は「知能検査で測定される能力」という定義なんですが)。

 あるいは、知能を走る能力に置き換えたほうが分かりやすいかもしれません。一口に走るといっても、そのためには地面を強く蹴る能力、足を速く動かす能力、姿勢を維持する能力、はてはゴールまで気を抜かずに動き続ける意志など様々な能力が関係します。そのため、単に「足が速くなる遺伝子」なるものはそもそも想定しえないということになるでしょう。

 「知能は母親から」はどこから来たのか
 知能が少数の遺伝子で決まらない以上、主張の前提となっている後半部「その遺伝子が母親からしか受け継がれない」というのも誤りですが、そもそもこの主張はどこから来たのでしょうか。
 大元になったサイコロジースポットの記事を読む限り、主張の根拠になっているのはラットの脳の発達を規定する遺伝子が母親由来だったという研究と、もう1つ「知能がX染色体に関連する遺伝子で決まる」としていると記事が解釈している研究があるのですが、ファクトチェックによるとどうも誤読のようです。

 そもそも仮に、知能を決定する遺伝子がX染色体に関係するとしても、それがすなわち母親に由来するという話にはならないでしょう。子供が女性の場合、X染色体は両方の親からそれぞれ同じだけ受け取ることになるはずですから。

 結論としては、母親だけが子供の知能の原因になるということはまずありえないということです。おそらく読者層のメインである男性を慰撫するために子供が勉強できない責任を母親に押し付けるような記事になったのでしょう。

 「知能は遺伝によって決まる」は何を意味するのか
 ところで、知能が遺伝によって決まると主張する記事を読むたびに私は違和感を覚えていたのですが、その正体が今回の記事で分かったような気がします。
 例えばかつて、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』の書評をした時にも思ったことなのですが、知能が遺伝で決まるとことさらに強調する人たちというのは、明に暗に「だから努力して勉強しても意味がない」ということを結論に持っています。しかしいくら才能があろうが伸ばさなければ意味がない一方で、才能がなくなって訓練すればある程度は伸びるはずなので当然そんなことはないわけで、この辺の奇妙な悲観主義ともいえる態度がどうして導かれるのか気になっていました。

 そこで今回の記事に出会ったわけですが、この記事は知能の話をするときに「子供が勉強ができる」とか「いい大学に行った行かない」ということを引き合いに出しています。
 もしかすると、こういう人たちは勉強の至上目的を「一流大学に行く」ことに設定していて、それができなければ勉強に意味がないと結論しているのかもしれません。確かに知能がある程度遺伝によって規定され、それによって勉強の最高達成度がある程度決定されるという状況においては、IQ80前後の子供が将来東大へ入学するような確率は極めて低いのは事実です。それを前提として勉強の目的を「一流大学に行く」ことのみと設定すれば、もともと東大に手が届くレベルの知能を持って生まれなかった人が勉強するのは無駄だという結論にもなるかもしれません。

 しかしそういう勉強観はいささか貧弱というか、貧しい見方であると言わざるを得ません。確かにこの学歴社会ではいい大学に行くメリットは計り知れません。しかしそのことは、いい大学を出なければ勉強に価値がないことを意味するわけではありません。
 仮にFランと馬鹿にされるような大学であっても、出るのと出ないのでは年収が変わってくるでしょう。また高校までの勉強と大学からの勉強では質的に違いますし、化けるということもあるでしょう。
 あるいは大学に行かないとしても、数学の基礎や歴史、科学の基本をきちんと知っているかどうかはその後の生活に影響を与えることになるでしょう。極端な話、大学に行かないからと九九も満足に覚えないのであれば日常生活に支障をきたすでしょう。

 「知能が遺伝で決まる」論の強調は、このように勉強の目的を狭く捉える見方に立脚しているのでしょう。しかしよしんば、勉強の最終到達地点が一流大学レベルでなかったとしても、学んでものを知ることには意味があるはずです。

SAPIO12月号の外国人犯罪煽りはもうネタ切れ?

 産経新聞の紙面広告にSAPIO12月号のものがあり、どうやら外国人犯罪について触れるようなので読んでみました。一読した感想としてはヘイト雑誌にしては穏当な方で、だけれどもまともなメディアとは思えない記事であるのは事実という半端さだったので、そりゃ不定期刊にもなるわという感じでした。
 気になった記事についてざっと見ていきましょう

 闇事件ファイル 警察がアピールする「外国人犯罪は横ばい」はまったく信用できない
 記事の筆者である清水真氏は、もともと警察の通訳捜査官だったようです。外国人犯罪についてのデマで食っている坂東といい(『【書評】在日特権と犯罪』『坂東忠信がまたデマ本を出すようなので彼の過去のデマを蒸し返す』参照)、警察には極右雑誌で儲ける人しかいないのかとまず頭を抱えるところです。
 記事の内容としては、警察の統計資料では外国人犯罪の検挙数が横ばいだが、それには表に出ない暗数があるから実際は本当にそうかわからないというものです。特集全体を見れば明らかに「本当は増えているのだ!」と言いたいのでしょうが、しかし記事でははっきり明言しないあたり、ついうっかり「日本の犯罪の半数は外国人犯罪なのだ!」(『【書評】通訳捜査官 中国人犯罪者との闘い2920日』参照)と書いて馬脚を露した坂東より慎重な方のようです。

 さて、その外国人犯罪の暗数ですが、実は入管と万引きGメンが生み出しているというのが筆者の主張です。入管は不法滞在の外国人を強制送還するのですが、もしこの外国人が発覚していない犯罪を犯していればそれは調べられることなく暗数になってしまいます。また万引きGメンは、外国人の万引き犯を言葉が通じないといった理由で、お金を払うそぶりがあればうやむやにしてしまうだろう指摘しています。それぞれの指摘はある程度の妥当性はあるでしょう。
 しかし問題は、そのような暗数がどの程度あるか、警察の統計の信頼性を毀損する規模で存在するのかという議論を一切していない点です。つまりほんのまれな事例として筆者の指摘するようなものがあるのか、かなり頻繁な事例なのか判断がつかないのです。
 もちろん、暗数なのでどの程度あるかなんてわかりませんが、しかし傍証となる何らかのデータは示せるでしょう。性犯罪であれば、通報率が低いことをもって背後に莫大な暗数があることを主張することができます。

 私の予想では、どちらの事例もさほど多くないのではないかと予想しています。警察に見つかりそうにないけど入管に見つかるという事態、あるいは強制送還と刑務所を比較して前者を選ぶ事例がそう頻発するとは思えず、また万引きに関しても外国人が厄介ならむしろ警察に投げる動機のほうが強くなるだろうし、少なくとも日本人の万引き犯に比べて通報をためらう確たる理由もなかろうと思われるからです。これは無論、推測ですが。

 夜遊びのマナー 中国人の“日本人女性爆買い”ご乱行現場「300万円払うから蒼井そらに会わせて」
 「中国人マナー悪い」ネタの極北といったところでしょうか。性風俗におけるマナーの悪さをつらつらと書いています。もちろん、現場で働くセックスワーカーを思えばこうした問題は解決されるべきですが、しかし記事を書きそして読んでいるであろう年代の男性が自身を棚に上げて人を馬鹿にできる立場ではないのは確かでしょう。かつての「買春旅行」を考えれば。
 そういえば東南アジアの風俗店で勝手に写真を撮った写真家もいましたし、セクハラ騒動などを見ても(『世界に出荷される保守政治家の無知と無恥』参照)昔の話ではないでしょうけど。

 この件で他人事のようにため息をつけるのは、せいぜいバブル期に物心ついていなかった世代くらいから。あとはかつてのツケが回ってきたような感じです。ツケを払わされているのがツケた当人ではなく、その人たちは中韓叩きに躍起というのがなんとも救いがないのですが。

 脳科学 若者が“痛い人”認定するオッサンの特徴とは
 さて、最後は外国人犯罪とは全然関係ないのですが、脳科学の話です。筆者は最近本を出しまくっている脳科学の中野信子氏で、なんとなく胡散臭いなと思っていましたが、九段新報には初登場です。そして記事の内容からやっぱり印象は間違ってなかったんだ!って感じになりました。

 記事は要するに、偉そうにするおっさんがむかつくという内容だけなのですが、問題はそのむかつく理由を脳科学で説明するといいながら全然脳科学でも何でもないところです。
 筆者はおっさんが偉そうにする理由をサルにおけるマウンティングであると説明するのですが、それは生物学とか進化心理学の話です。動物における話を人間に無批判に当てはめる姿勢はまさにという感じですが、それはさておいて。
 また記事の途中では「集団極性化」という概念も登場するのですが、それは脳科学ではなく社会心理学です。

 私は常々、脳科学者の中には人間にかかわる学問のすべてが脳科学であるかのようにふるまい、脳科学こそが最強の学問であり、それ以外の学問の存在が目に入っていない人がいると思っていたのですが、筆者はまさにその典型というべきでしょう。ほかの学問の知見を脳科学だと偽る収奪も許せませんが、その収奪をする目的がヘイト雑誌のページ埋めというのは落涙を禁じえません。
 私に言わせれば、脳部位の活性化と人間の思考言動が対応していることを真に示せていない脳科学はまだまだ発展途上の学問なのですが。
 ちなみに氏の著作の中には「サイコパス」や「シャーデンフロイデ」といった概念を扱うものがあるのですが、これらも元を辿れば心理学的な概念です。脳科学の視点から研究されることもありますが、しかし論文を見る限り筆者がその専門だとは到底思えず、なぜ書いているのはさっぱりわかりません。

 わざわざ読んだ割には内容の薄い記事ばかりでしたが、ヘイト方向に内容が厚くても困るのでこれくらいでいいのかもしれません。

表現の自由戦士たちの「エビデンス」を読んでみた その1

 今回はこの辺の話。『議論によって浮き彫りになった「表現の自由戦士」の不誠実』でも指摘したことですが、どうも彼らは自分がエビデンスとして使っている論文を全然読んでいないようなので、じゃあ私が読んでやろうということになりました。
 今回扱う論文は3本。エビデンス最大手の「カチンスキー報告」とやらは(たぶん)含まれていないので、前哨戦みたいなものだと思ってください。
【 ポルノと性犯罪増加の因果関係を立証した科学的な調査は1つも無い 】

○ジョンソン大統領の諮問機関(米,1970)
「ポルノと性犯罪には関係なし」
○レーガン大統領の諮問機関(米,1986)
「性的暴力表現に過剰にさらされた場合、性犯罪と因果関係あり」
 ただし,初期委員による「関係なし」とのレポートにレーガンが立腹し, 委員が入れ替えられた後の結論.偏った委員の構成が指摘されている(Meese, 1986).
○Baron & Strauss(米,1987)および Scott & Schwalm(米,1988)
 大規模な調査の結果「ポルノと性犯罪の関係性を示す証拠は無い」
○ロングフォード委員会(英,1972)
「ポルノは社会的道徳に悪影響」ただし客観的根拠は無し。
○わいせつ物検閲委員会(英,1979)
「ポルノが社会に及ぼす影響は小さい」
○カナダ司法省(加,1985)
「社会道徳とポルノの間の因果を証明する体系的な証拠は存在しない」
○フレーザー委員会(加,1985)
「性犯罪の原因とポルノを結びつける主張は根拠に乏しい」
○Kutchinsky(西独,デンマーク,スウェーデン 1985a, 1991)
「ポルノが入手しやすくなると、性犯罪の件数は減少する、あるいは変化しない」
○Diamond and Uchiyama(日, 1999)
「ポルノは80,90年代に入手が格段に容易になったが、性犯罪は劇的に減少した」

 ソース:科学警察研究所とハワイ大の共同研究「日本におけるポルノと性犯罪」より抜粋  元論文:Milton Diamond, Ayako Uchiyama, "Pornography, Rape, and Sex Crimes in Japan" International Journal of Law and Psychiatry, Vol. 22, pp. 1-22 (1999) 
 児童ポルノ関連ソースと統計データ:2ちゃんねるまとめ
 ちなみに、標的は上掲のサイトに「引用」されていた論文です。今回扱うのは上から3つ目に示された論文の1つであるScott & Schwalm(米,1988) とソースとなっているこの論文自体、さらにカチンスキー報告とは直接関係ないようですが、カチンスキーが書いた論文のうち1本です。

Scott, J. E., & Schwalm, L. A. (1988). Rape rates and the circulation rates of adult magazines.    Journal of Sex Research, 24, 241-250.
 では一本目。読んでいて私がこうなった理由は後半に話すとして、まずは研究の全体像を論じておきましょう。
 この研究がどのように性犯罪とポルノの関係を調べているかというと、ある年における各州の性犯罪率とポルノ雑誌の流通量を比較し、相関を見るようなかたちです。もちろん貧困率やアルコール依存症の割合などを統制変数にはしているようですが、しかしこの計画には「認知件数だから実数わからないじゃん」以上に根本に大きな問題があります。

 それは単にその年の性犯罪とポルノの量だけを調べているという点です。これではポルノの増加に伴って性犯罪がどう変化したかはわかりません。この方法でわかるのは性犯罪の多寡とポルノの多寡に関連がありそうかどうかです。仮にもともと性犯罪が少なくてもポルノの増加とともに犯罪が増えれば影響があるといえるでしょうし、性犯罪が多くてもポルノの増加と関連しなければ影響はないと言えるでしょう。相関は各州で見るのではなく、それぞれの州の経年の変化で見ておくべきでした。

 さて、私がツイートのようにもっと恐ろしいものの片鱗を味わってしまった原因は、この研究の分析にあります。「この変数を考慮すると相関があるけど、この変数を考慮すると相関はなくなる」話のまず前半を読んだせいです。じゃあ性犯罪とポルノの相関がなくなる要因は何かというと、読む限りではたぶんポルノではない雑誌のようなものの流通量なようです。いかんせんその辺がはっきり書いてないのでわかりにくいのですが。

 少なくとも、この研究をもって「ポルノと性犯罪に関連がない証拠だ!」するのはいささか疑問でしょう。
 そうなると不思議なのが、なぜあたかもそのような証拠であるかのように扱われているかという点です。引用元の論文を読んでみると、この論文は以下のように言及されています。
  Subsequent nation-wide studies in the United States also seemed to find no strong evidence that rape rates were associated with the availability of pornographic magazines (Baron and Straus, 1987) or adult theaters in a community (Scott and Schwalm, 1988; Winick & Evans, 1996).
 可能性は2つあります。1つは著者もちゃんと論文を読んでいなかった可能性(研究者も人だからあり得ない話ではない)。もう1つは文章中にある"find no strong evidence"が「強い証拠は見つかっていない」程度の消極的な否定なのに、強く否定しているものと誤読したか。まあ英語がよくわからないのでどう読むのが正しいかはわかりませんが。

Milton Diamond, & Ayako Uchiyama (1999). Pornography, Rape and Sex Crimes in Japan.
  International Journal of Law and Psychiatry 22(1): 1-22.

 お次はこれです。これは上掲の「エビデンス一覧」の大元になった論文ですが、それとは別に「ハワイ大学と日本の警察の共同研究で否定されてます(ただし論文すら示さない)!」な人がちょいちょい出てくるので検討しておきましょう。

 しかしこちらは話は簡単ですっぱり「エビデンスにならない」と断言していいでしょう。というのも、この研究は性犯罪の件数に警察の統計を使うという不備もさることながら、ポルノの流通量が増えているかどうかを数値化すらしていない、そして当然の帰結として相関係数すら示せていないという大問題があります。
 つまり調査した期間に、性犯罪が減りポルノの利用が増えたらしいことを単に記述するだけにとどまっており、その2つにどれくらい強い関連があるのかはさっぱりわかりません。分野の違いを考慮したとしても、正直言って論文になっているのが不思議なほど低レベルなものです。

 相関係数が分からない、というのはつまりその2つの変数の間にどのくらい強い関係があるのか、その関係が統計的に偶然以上の意味を持つのか判断する材料がないということです。この状態で「ポルノと性犯罪の相関はこれこれだ!」と言われてもこちらとしては「そう思うならそうなんじゃない?」という反応しか返せません。
 よって、この論文をエビデンスに使うのもやはり不適当です。

Kutchinsky, B. (1973a). The effect of easy availability of pornography on the incidence of sex
  crimes: The Danish experience. Journal of Social Issues, 29, 163-181.

 本日最後はこちら。カチンスキー報告ではないのですが、そのカチンスキーが書いた論文です。この論文の要点は「ポルノ流通で性犯罪が減った理由はいろいろ考えられるけど、どれも違いそうだからやっぱポルノが性犯罪を抑制したんや!」ということです。しかし時代を考えると仕方がない面もあるとはいえ、いろいろ雑すぎていまの時代にエビデンスにするのは不適当でしょう。

 まずやはり大きな問題は性犯罪の認知件数を警察統計に頼り切りな点です。さすがにカチンスキーもその問題点をわかっているらしく、性犯罪の変化の可能性として「人々の性犯罪に対する認識が変わった」ことと「警察官の意識が変わった」ことをあげています。
 前者についてはインタビュー調査を通じて調べているようで、それ自体は興味深いのですが、4つの種類の性犯罪のうちいくつかに対しては、人々の意識の変化が被害の通報を減らしていると認めているにも関わらずそれを無視してその可能性を排しています。むしろ「人々の意識がリベラルになった」と肯定的な評価を下している節もみられるくらいです。
 カチンスキーの議論を借りてポルノと関連させるのであれば、ポルノの普及によって被害者が被害を被害と認識できなくなっている可能性を示唆するものと解釈することすらできるはずで、そのような可能性を無視する議論には疑問が残ります。

 また警察官の意識に関しては、当の警察官に直接質問紙調査を行っているようですが、この方法それ自体に疑問があります。いかに匿名の調査といえど、「あなたは性犯罪の捜査とかどうでもいいですよね?」とか聞かれてイエスと答えるバカな警察官がいるわけはありません。匿名の調査でも向社会的な回答をしたいという回答者の欲求は当然勘案されるべきであり、目的によってはこのような方法がそぐわない場合もあります。
 また「性犯罪を重要に思う」といっても、「でも大半でっち上げだしさー」などと思っていればお話になりません。要するにそもそも警官が性犯罪をきちんと認識しているかが保証されていないので、調査に表れた態度を鵜呑みにできないのです。警察官の態度を明らかにするのであれば、自己報告の調査ではなく実際にどのような捜査が行われているかの報告や統計を取るべきでしょう。

 このような方法論的な問題があるため、もちろんこの論文をエビデンスとして扱うことはできません。また性犯罪を警察統計に頼っている点からいっても、カチンスキーのほかの論文も期待できないんじゃないかなと思います。

 孫引きはエビデンスではない
 そもそもの話なのですが、「『Bにはこう書いてある』とAに書いてある」という孫引きはエビデンスにはなりません。本当にBにそう書いてあるのか確かめようがないからです。Aの著者が誤読している可能性もありますし、仮にそうでないとしてもBの研究方法に問題がないかどうかはやはり確認できません。
 もっとも、このような論文はオープンアクセスでもない限りそもそも専門家でないとなかなかアクセスしにくく、また内容を理解できないという背景もあります。なのでせめて、エビデンスの原文に当たれない場合には素直に読めなかったというべきでしょう。
 とりあえず、読んでもいない論文を読んだかのように扱って出鱈目をいうのは論外です。

「ポルノ利用と性犯罪発生件数には相関がある!」はなぜ無意味なのか

 さて、今回も例の問題。というかそれを語る前提としてのお話です。
 よく表現の自由戦士たちは、統計的な研究をエビデンスとして引き合いに出します。実際には原典を示すことすらままならないわけですが、ともかく、統計さえ示せば自分の主張を押し通せると思っている節があります。
 個々の研究の妥当性に関しては、その原文にあたりつつ検討する必要があるのでいまは一般論としての話をしましょう。

 たいていの場合、単にポルノの利用と性犯罪の件数を調べただけの研究はその妥当性に疑問が差しはさまれます。その理由を解説していきましょう。

 性犯罪の犯罪統計は信頼できるか
 まず、研究において重要な変数となる性犯罪の認知件数や検挙件数がどの程度信頼できるかという話です。
無題1

 この図が分かりやすいでしょう。通常、ゾーニングに関して議論される際に問題視されるのは狭義の意味での性犯罪ではなく、セクハラや、あるいはセクハラとしてすら処理されないほど小さな問題をも含んでいます。このような問題行動を計測した統計は当然ないので、ポルノの悪影響を統計で推し量るにも限界があります。

 そこまで細かい話でなくとも、統計の定義上、明らかに性犯罪に類似する行為であるのに研究では性犯罪としてカウントされないものが出てくるという問題もあります。典型例は痴漢で、これは落書きやビラ配りといったものと同じ迷惑防止条例違反として処理されることが多いので、性犯罪として統計上扱われないことになります。
 例えば、誰かがポルノを見て、「俺もここにあるようにしてみたい!」と思い実際に行動を起こしても、それが痴漢であれば性犯罪としてカウントされることは非常に少ないので、性犯罪の件数としては表に出てきません。その結果、極端な話痴漢の常習犯が仮に全員ポルノの影響で痴漢を始めていたとしても、性犯罪の統計だけを見るとポルノは性犯罪に影響しないという結果が得られてしまうのです。

 図の左上に書いてあるように、性犯罪の認知件数をというのはすべての問題のわずかな部分を表すにすぎません。性犯罪という最も大きな問題は単に目立つというだけで、本来の問題のごく一部でしかなく、この増減だけを扱ってポルノの悪影響を論じても説得力はないでしょう。

 なぜ認知件数は実数と乖離するのか
 認知件数が性犯罪の指標として信頼できないという話をもう少し掘り下げましょう。上では性犯罪という概念そのものが、ゾーニングを求める際に問題視されている行動の一部しか扱えていないという話でしたが、認知件数のような統計は狭義の性犯罪を扱うにしても問題があります。
 我々が普段目にする認知件数や検挙件数は行政統計と呼ばれるもので、あくまで警察活動の記録として残されているものです。ゆえにそれが示す数字は、性犯罪の実際の数から乖離します。日本の性犯罪の通報率は10%を少し超える程度なので、少なくとも認知件数の10倍近い性犯罪が実際には発生していると考えられます。
無題2

 ではなぜ性犯罪が認知されないのでしょうか。
 まず第一段階として、被害者が自分の身に降りかかった出来事を性犯罪として認識する必要があります。加害者が同意のない性行為をレイプとみなせないのと同様に、しばしば被害者もレイプの本来の定義を見誤ります。被害者はレイプがあったことをなかったことにしたいと思うことも往々にしてあり、そのような心理的傾向も手伝ってレイプをレイプであると認められないことが起こりえます。

 第二段階として、自分の身に起きた出来事をレイプと認識できても、たいていの場合警察に届け出ることが躊躇われます。これには警察に話しても信用してもらえないかもしれないといった懸念や、レイプ被害を思い出したくないという気持ち、あるいは加害者が知り合いなので大事にしたくないし、逮捕になったらどうしようという考えが影響しています。とりわけ最後の原因は、性犯罪の多くが知人間で発生することを考えると強い影響力を持っているでしょう。

 第三段階は、被害者が警察へ通報したとして、警察がそれを「認知」するかどうかという問題はあります。被害そのものを認知しないことで認知件数を下げ、相対的に検挙件数を引き上げるという「前さばき」戦術は桶川ストーカー事件以前にはよく行われていました。事件後問題視されたために表立って行われなくなりましたが、昨今では犯罪が減っていることが警察署の功績になるようで、あまり楽観視はできないでしょう。

 このように、大きく分けても3つの段階でその件数が左右される認知件数、あるいはそれに基づく検挙件数は性犯罪の指標としては甚だ不適当です。

 暗数調査を使う
 このような問題を解決するために、性犯罪とポルノの影響を統計的に調べようとする研究は最低でも暗数調査のデータを使う必要があります。
 ただし暗数調査のデータを使用しても、上で述べた性犯罪という概念そのものの狭さの問題は解決しません。また適切に尋ねられなければ、やはり自身の被害を性犯罪として認識出来ないといった問題は生じうるので、その調査でどのように性犯罪が尋ねられているかは検討する必要があるでしょう。

 ポルノ流通の指標に何を使うか
 今までは性犯罪の指標という「従属変数」の話でした。今度はポルノという「独立変数」の話をしましょう。
 まず、ポルノと性犯罪被害の関係を確かめるうえで、ポルノの流通量や使用頻度といった社会的状況をどのようにして数値化するかという問題が立ちはだかります。統計研究に依拠する彼らはこの点、それぞれの研究がきちんと指標として扱っていることを自明視していますが、それはやはり各々の研究を確かめてみないことにははじまりません。ここでは一般論として述べますが。

 さて、ポルノの流通を扱う方法はいくつか考えられます。話を聞く限りですが、おそらくこのような研究でもっとも使われている方法は、社会的状況の似通った国を複数選び、ポルノが解禁された国とされていない国でそれぞれどのように性犯罪が変化したかを確かめるという方法です。確かに、この方法ならポルノ流通という独立変数だけを操作していることになるので、影響を確かめられそうに見えます。
 しかしこの方法にも問題があります。例えば、ポルノが解禁される以前から秘密裏に流通していたらどうでしょう。秘密裏というか、半ば公然に流通していれば(そういう下地があったから解禁されたとも考えられる)解禁されたところでその影響は当然ないでしょう。逆に、これは極端な例ですが、流通が解禁されていても人々がろくに消費していないという事例も考えられます。その社会は直前までポルノが禁止されていたわけですから、つい最近まで犯罪になりうるものだったポルノを手に取る心理的抵抗感を考えればあながちありえない話ではありません。
 あるいは、単にポルノ解禁といってもその解禁の程度も考慮しなければいけません。すでにヌードくらいだったら流通している社会で、さらにポルノが解禁されてもその影響は限定的であろうと予想されます。
 つまり仕組みとしてポルノがどう扱われているかと、実際に人々がどのようにそれを消費しているかという実態には乖離が生じうるということです。この点を考慮せず、単にポルノ解禁だけを指標にしてしまうとポルノの影響を正確に論じることはできません。

 指標が完璧だったとしても
 では、このような問題を解決するための完璧な指標を用意できたとしましょう。この指標を用いれば、ポルノ使用の実態も性犯罪の実数も一切の抜けなく測定できるとします。この2つを使って調べれば、性犯罪とポルノとの間の関係を確かめることはできるでしょうか。

 残念ながらそうはなりません。
 なぜなら、性犯罪の実数に影響を及ぼすであろう変数を考慮できていないからです。つまり性犯罪とポルノの関係が疑似相関である可能性を排除できないのです。
無題3

 性犯罪の実数に影響を与えそうな要因は無数に存在します。私が思いつくだけでも貧困率、失業率、高等教育を受けた割合、女性の社会進出の程度、性教育の充実度合い、警察官の人数、道徳観などなどといったところでしょうか。ほかの人ならさらに上げられそうです。
 ともかく、性犯罪の実数を左右するものは無数にあります。ポルノとの関係を調べるのであれば、せめて貧困率といった主要な変数くらいは共変量に入れるなどして統制する必要があります。もちろんこれはその研究を実施するものの責任の1つの、自説に考えられるほかの解釈の可能性をつぶすという責務であり(批判者に示せという人が大勢いたがもちろん違う)、代表的な要因すら考慮していない研究ではお話になりません。

 ほかにも様々な問題はありますが、代表的な問題はこのくらいです。あとは個別の研究を見たときに気づけば指摘することとしましょう。

 だからこそ実験室実験
 さて、このような指摘をすると実際、「悪魔の証明じゃないか!」という反応が来ます。悪魔の証明に合致するかどうかはともかく、非常に困難な証明になることは間違いないでしょう。これは現在の研究の、技術的な限界であり、統計そのものの根源的な問題でもあることからこれを解決する手法が生み出される期待もあまり高くありません。

 ではどうやって、ポルノと性犯罪の関係を確かめましょうか?1つの方法は実験室実験を行うというものです。もちろん性犯罪をさせるわけにはいきませんから、実際にはポルノ視聴をさせて、性犯罪と関連すると頑健に確かめられた要素の変化を見るという方法が用いられます。
 この手段は当然、不自然な状況になるため現実世界への一般化可能性には保留が付きます。しかし端から結果が信頼できない研究を用いて議論するよりは、そのような保留が付くとしても結果それ自体は信頼できる研究に基づいて議論するほうが確実といえるでしょう。少なくとも、ポルノが性犯罪に影響するメカニズムははっきりとわかるので、そこから社会的影響を類推することは難しくありません。

 統計的研究にも実験室実験にも短所と長所があり、どちらがより議論に適するかはケースバイケースです。統計的研究は絶対に正しくて、実験室実験は常に疑わしいということではないのです。

犯罪学者、恋愛工学とやらを分析する 恋愛工学の思想編

 前回『犯罪学者、恋愛工学とやらを分析する 恋愛工学の技術編』からの続きです。今回は恋愛工学の思想編ということで、恋愛工学に通底する考え方を分析し、その問題点を指摘していく回です。なお前回記事で触れた用語に関しても、思想面から再度検討する場合があります。

 そもそも、恋愛工学は女性をどう考えているのか
 結論から言うと、恋愛工学は女性を人格のある人間として扱っていません。それは冒頭と後半に繰り返される以下の会話からはっきりとわかることです。
「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」
「ああ、無料のな」
 小説中では、モテたくてたまらない渡辺に対し永沢が「女性を喜ばせることが大事」とか、恋愛市場では男の方が売り物なのだと言ったりしていますが、これはあくまで表面上の取り繕いでしかありません。本心であれば引用したような会話が出てくるはずもないでしょうから。

 もちろん、それ以外にも恋愛工学が女性をモノのように扱っている証拠は多く出てきます。例えばプレイレンジとそれに伴う女性のランク分けが典型的です。プレイレンジはナンパで連絡先を交換した女性のうち、どの程度の範囲の人をデートに誘うかという区別のことで、この範囲の決定はほとんど外見で決定されます。永沢は上の中とか中の下といったクラスを、渡辺はCからSのランクを使っていました。このようなランク分けは以下のような状況を生み出します。
「うーん、どうしようかな……」
ふたり組のひとりのBクラスの女が迷っている素振りを見せた。
「わたしたち、あっちのお店に行こうとしてて……」
こっちの女は限りなくAに近いBだ。
 見ての通り、女性をクラスでしか認識できなくなります。非人間化の第一歩でしょう。
 また既存新規といった、女性を数やカテゴリで認識する考え方も同様に非人間化を促進します。既存はその月よりも前からセックスする間柄だった女性を、新規はその月から新しくセックスするようになった女性を指します。またピボットという言葉もあり、これはセックスはしないものの合コンなどのネットワーク構築に役立つ女性を指します。
 恋愛工学を実践しはじめる前は、27年間で2人としかセックスできなかったのに、いまでは1ヶ月も新しい女とセックスできないとひどく焦るようになった。1ヶ月の間に少なくとも2、3人の新規の女とセックスしなければいけない、と強迫観念のようなものを感じていた。厳しい月間ノルマを課せられたセールスマンみたいに。
 それができないと、負け犬になった気分だ。
 このように女性をスコアのように認識すると、上で引用したような考え方に陥り、焦燥感すら抱くようになってくるわけです。こうなると性犯罪者に近接してきた感じがします。

 ナンパ、女性の「ゲーム化」
 上述のような女性の非人間化と関係するのが、チラリとも触れましたがナンパのゲーム化であり、女性をスコアのように考える思想でしょう。恋愛工学はナンパをゲームとみなしているので、当然の帰結ですが。
 そのことを表すのがセックストライorストップロス戦略という考え方です。要するに無理そうならちゃっちゃと撤退しようという発想なだけですが、女性とセックスすることのみを目標にし、そうできないならば全く意味がないとばかりにストップロスだとばかりに交流を切ってしまう単調なあり方は、彼らが女性との交流をゲームとみなしている証左でしょう。
 このような、本来人間を人間とみなさなければならない場面における「ゲーム化」は、戦時中の「百人切り競争」に見られるように、人間を単なる数とみなすことで残虐な行為への歯止めを消し飛ばす機能があるのです。

 非モテコミットという便利な言葉
 非モテコミットとは、モテない男がちょっと優しくしてくれた女性を簡単に好きになり、その女性に必死にアプローチを仕掛けることと説明されています。しかし実際には、この概念は後述するように「非モテっぽい行動や思考」全般を指して使われるものでしょう。
 このような非モテコミットにおいて、男性がとるアプローチをフレンドシップ戦略と恋愛工学は表現しています。これはセックスのことをおくびにも出さずに友人として親密になり近づいていくことですが、これも恋愛工学に沿わない戦略全般を指すと考えてもいいでしょう。

 さて、この非モテコミットという言葉は便利である同時に、危険な言葉であると言えます。どういうことでしょうか。
「愛っていったい何ですか? 恋愛工学を学ぶ前、確かに、僕は女の人を心から愛していましたよ。ところが、そんな僕を待っていたのは残酷な仕打ちですよ」
「それが非モテコミットだよ」
引用者注:非モテコミットには傍点がつく
 非モテコミットという言葉は、小説内では大雑把に「恋愛工学に反する考え方、行動」を指すものとして使われています。引用にあるように小説終盤、やはり1人の女性を信じ愛するべきなのではないかと主張する渡辺に対し、恋愛工学の師匠に当たる永沢がその思考を非モテコミットだと主張しているのがいい例でしょう。
 そしてこのやり取りから明らかなように、非モテコミットという言葉は、恋愛工学に反すると考えられる思想、批判について、その内容に立ち入らずに全面的に排除する機能を持っています。かなり前になりますが、ライフスペースというカルト教団が自身への批判をすべて「定説です」で打ち切ったあの言葉と同じ機能です。今の例でいえばネトウヨが気に入らない人間全員に「反日左翼」と言い続けた結果天皇まで反日になってしまったみたいなのと同じです。
 このような言葉は、他者批判を封じることでコミュニティを閉鎖的にし、過激化を招くという機能を持ちます。その効果のほどは、昨今のネトウヨの運動やライフスペースの結末からわかります。

 ほぼ性犯罪といっても過言ではない恋愛工学の考え方
 さて、今まで恋愛工学のワードをさらいつつ、ゲーム化、非人間化、そして批判封殺のワードという観点で見てきました。このような考え方はとうぜん、恋愛工学を危険なものとしていますが、もっと直接的に性犯罪と関連する考え方が、恋愛工学のルーティーン、とりわけC→Sフェーズシフトルーティーンと呼ばれる、女性をデートからセックスへ持ち込む手段の中にあります。
 例えばフレグランスルーティーンがあります。これは女性の香りを誉め、シャンプーか何かだといい髪の香りを嗅ぐふりをして顔を近づけキスをするものです。似たようなものには初めてのキスルーティーンというものもあり、これはキスをしたいかと女性に尋ねて困ったような反応を示したとき、じゃあ試してみようなどといいすぐにキスをするものです。小説では結果オーライのように書かれていましたが、両方とも性的な接触に至るまでに同意を取っていないため、強制性交、わかりやすく昔風に言えば強制わいせつに当たる可能性が当然あります。
 また最終抵抗という考え方も存在しています。これはベッドまで持ち込んだ女性が最後に躊躇いを見せることで、恋愛工学ではこれを突破するために様々な技術が用意されているといいますが、結局のところ無理やり押し切るというのが基本姿勢であり、要するに強姦です。

 前回記事で紹介したワードの中にも、問題のあるものが多く存在します。
 例えばナンパに応じる可能性のあると言われる脈ありサインですが、もちろんそんなものはないという問題以上に、これは結局そのサインを受け取る側の解釈に左右されてしまうものであるという問題もあります。「相手の目が輝いてるな!これは脈があるぞ!」の判断はその人次第で、あくまで主観的なものでしかありません。ナンパする側は脈があってほしくて仕方ないので、そっちの方へ判断が引っ張られます。なので脈があると思っても、実際にはそうではない可能性は高いのです。
 しかもこの、脈があるという手前勝手な判断は、セクハラ加害者にありがちな思想なのです。一旦脈があるだろうと思い込むと、もう女性の反応すべてが脈ありサインに見えてきて、明示的な拒否の言葉さえ理解できなくなるというスパイラルに陥るのです。

 また前回、レイプ神話との類似性を指摘したセックストリガー理論も、性犯罪につながる思想です。セックスした相手を好きになるという理論は、だからとにかく1回セックスしてしまえと、強姦を肯定する理屈として利用されることになるでしょう。

 もちろん、これだけの(といっても十分すぎるけど)根拠で恋愛工学コミュニティを性犯罪予備軍と言いたいわけではありません。上述の考え方だけでなく、実際の挙動のまた性犯罪者そのものである証拠があります。
 コスプレイヤーのうしじまいい肉氏が連載している対談で、恋愛工学教祖の藤沢数希と食事をしたという経験が語られています(file:35 「金はあるけど彼女が出来ない」-うしじまいい肉にっこり人生相談参照)。連載は途中から有料なのですべて読むことはできませんが、その有料分にはあわや家へ押し入られそうになったことが書かれています。この挙動はもはや性犯罪犯のそれでしょう。

 恋愛工学は被害者意識を膨らませる
 さて、前回記事では、恋愛工学があくまで、恋愛工学の提供する技術に乗っかってくれる女性を探すに過ぎないものであることを指摘しました。モテ=ヒットレシオ×試行回数という考え方の下では、もちろんそれでもかまわないわけですが、一方でその理屈とは矛盾する、女性はこうすると必ずこうなるはずだという考え方も恋愛工学には広く見られます。上述のセックストリガー理論とか、女性は男に出会うと即座に友だちフォルダ男フォルダに分けるとか、女性は自分と相手の男性を比較することで自分の価値を見定めているからディスることでその評価を下げるとナンパしやすくなる(動学的価値モデル)とか、そんなもの人によるわけですが、なぜが恋愛工学は女性の反応をこうだと断言します。心理学的に明らかになっている人間の特徴だって、あくまで傾向であって例外はいくらでも存在するんですがね。
 あるいはボーイフレンドクラッシャーというものもあります。これはすでに彼氏や夫など決まった相手のいる女性に対して、その男性の不倫をちらつかせることで不安にさせたり、元カレのことを思い出させることで浮気の罪悪感を薄めつつ性的な考え方に誘導するものです。もちろん、そのような反応を示すかどうかは女性次第、あるいは女性と相手の男性の関係次第ですし、彼氏や夫の不倫を仄めかすという無礼な態度に不快感を覚える女性も一定数存在するだろうことから、かなり不確定な技術であろうことは想像に難くありません。こうなるとバス釣り用のルアーでイカを釣るみたいな話になるわけですが、しかし恋愛工学は自信満々で俺が女を選んでいるんだぞというフレームを持てと主張するのです。

 このような、女性を固定的に見る思想は小説の展開にもちりばめられています。本書に登場する女性のありようは基本的に一面的なのですが、とりわけ後半で発生する「セックスする間柄だった女性にセクハラで訴えられるが、その理由が彼女の保身のためだった」とか、「田舎出身の、恋愛工学から外れたような純朴な女性との出会い」は典型例でしょう。

 話は逸れますが、そもそも「恋愛工学」というネーミングにもそのような思想はみて取れます。工学というのは、昨今では対象が広がったため必ずしもそうとは限りませんが、機械工学に見られるように「こう入力したらこう出力する」という法則が明確なものです。もちろん工学の目的から照らせば当然そうでなくては困るわけですが、人の感情はまだまだ未知数で、あるいはよく知られている法則にしても影響する要因は無数にありしかも大半は目に見えないために、出力の予測はおよそ困難を極めます。恋愛も当然そうなのですが、「恋愛工学」というネーミングを冠することで、その技術を用いれば必ず成功が約束されると、明に暗に主張しているのです。

 さて、このように、本来は運任せでしかない恋愛工学において、女性の反応を固定的なものとして規定し、技術を用いれば必ず成功が約束されると保証する、あるいは仄めかすことは何を導くのでしょうか。
 それは、前回記事で引用したインセルのような、性的に充足されない男たちの被害者意識の増大です。
 そもそも性的欲求、とりわけ相手を要する方法による充足は特段保証されているものではありません。性的自由というのはあくまで「誰とどこまでの性的接触を行うかを決める権利」であり、この範疇を超えて保証されることはないので、彼らの言うような「女性とセックスする権利」などというものはそもそも存在しないのです。
 しかし恋愛工学は、その技術を用いれば女性と必ずセックスできると煽ることで、男性に仮初の希望を与え、後述するような「男性は女性とセックスしなければならない」という信念を強化します。もちろん恋愛工学は出鱈目な論理ですから成功は運次第なのですが、効果がないと詰められても「試行数が足りない」と逃げるので特に責任は取りません。
 かくして、このようにセックスへの希望だけを膨らまされた男性が行き着く先は「恋愛工学通りに動かない女はおかしい」とか「俺とセックスしない女はおかしい」という被害者意識です。この被害者意識は「女を独り占めする男がおかしい」「出鱈目を吹き込んだ恋愛工学をつぶしてやる」という方向にも本来向かい得るはずですが、復讐は自分より弱い相手にしか成功しないので結局恨みの行く先は女性だけです(この辺の議論は『なぜ無差別殺人犯は「誰でもよかった」と言いつつ弱い者しか狙わないのか』参照)。

 結論:だから恋愛工学コミュニティは反社会的勢力である
 今までの議論をまとめると以下のようになります。
・恋愛工学は女性や女性との交流をゲーム化し、非人間化するものである。このような考え方は女性を人として扱わず、結果として彼女たちの権利を侵害するものである。
・恋愛工学の考え方はセックスへの渇望を煽り被害者意識を高め、女性の反応を固定的であるはずとすることでそうではない女性への敵愾心を煽りうるものである。これは女性への犯罪行為の遠因となる。
・そもそも恋愛工学の技術、思想にはC→Sフェーズシフトルーティーンやセックストリガー理論など、性犯罪と直結するものがある。
・故に、このような考え方のフレームや技術を流布する恋愛工学やそのコミュニティには反社会的傾向があり、警戒しなければならない。

 男は二度、モテから解放される必要がある
 今までの議論はおおむね、恋愛工学による潜在的被害者である女性への注意喚起を目的としたものでしたが、最後は自分のことを性的弱者だと思っている男性へのメッセージです。
 男はモテから解放される必要があります。しかも二度。

 一度目はモテを女性とセックスすることとみなす思想からです。恋愛工学はセックスを最上位の生きる目標とみなしています。なるほど、確かにいろいろな女性とセックスするのは気持ちいいでしょうし、メディアや社会もそういう「恋多き」を煽るような傾向にあります。そうでなくとも素敵な恋を、半ば強要するようなものは社会にあふれています。
 しかし、女性との交流は、ひいては他者との交流はすべてが性愛に回収されるものではありません。小説の中で、渡辺は後輩の女性に慕われ、頼られるも彼女が彼氏持ちでセックスの見込みがないことに落胆しています。しかし後輩に頼られることはそれ自体が、対人関係における喜びじゃないでしょうか。そこを無視して、セックスへたどり着けないことを嘆くのはいいことなのでしょうか。
 そもそも、恋愛工学だって出会う女性のほとんどはセックスへ行き着きません。それどころか、両性愛者でなければ地球上の人間の半分は最初からセックスの対象外なのです。人間関係の帰着をセックスにのみおくことは正しいことなのでしょうか。あなたが感じている生きづらさ、対人関係の困難はセックスと関係あるのでしょうか。
 これは何も、女性とのセックスを諦めろというわけではありません。どうしてもセックスしたいならその欲望はひとまず持っておきつつ、そうではない人との関係の在り方を模索すれば、「頼られる先輩になれて嬉しい」「会うたびに仲良く話せる友達でよかった」と関係の到達地点は増える一方であり、失敗したと感じなければいけない状況も減るはずです。

 二度目は、モテなければいけないという思想からです。対人関係の幅を広げ、モテを「人から好かれること全般である」と定義しなおしてもなお困難は続くでしょう。たいていの場合、モテない人というのはそもそもの交流が苦手であることが多く、それはそのまま「人から好かれること」の難しさに繋がります。だいたい私もそんな感じなのでわかります。
 人間は社会的な生き物であり、1人でいると孤独を感じます。1人はさみしいし、仲間がいないとできないことだって多いです。しかし一方で、1人でなければできないことも無数にあります。どこかを自由に旅したり、読書をしたり、何かを作ったりすることは、1人でなければ困難です。
 そしてどれだけ周りに人がいて好かれていても、死ぬときは結局1人かもしれません。伴侶がいても先立たれれば1人だし、子供がいても病院とか老人ホームに放置されれば1人です。長生きすれば友人はみんな死んで1人だし、突然死ねば誰も間に合わずやっぱり1人で死ぬことになります。
 つまり、そもそも誰かと仲良くやらねば負け犬だという思想からも、我々は脱却する必要があるのです。友達がいないことに劣等感を抱く必要はありません。友達を多く作れることが長所となるように、1人で生きることができるのもまた長所です。あくまで一長一短であり、どっちがいいという問題ではありません。

 というわけで、女性とセックスができなくて悩んでいる人は、その考え方から振り返ってみるといいでしょう。そもそもの問題を、いや実は問題ではないのだとひっくり返すフレームワークは、恋愛工学よりも人生を生きていくのに役立つことでしょう。少なくとも犯罪者になる可能性はありませんから。

犯罪学者、恋愛工学とやらを分析する 恋愛工学の技術編

 先日の幻冬舎電子書籍セールで、ある本を購入しました。それは藤沢数希の『僕は愛を証明しようと思う。』。著者名かタイトルでピンと来た人もいるでしょう。いわゆる恋愛工学という、恋愛を科学的に解明したと自称するナンパテクニックのことです。工学と銘打たれていますが、別に科学的ではありません。
 「お腹がすいたら食べ物を食べる。好みの女がいたらナンパをする」そんなせりふを恥ずかしげも無く吐く男がお縄となった。
 9月10日、警視庁新宿署はナンパ講座「リアルナンパアカデミー(RNA)」の塾長で会社役員の渡部泰介容疑者(42才)を準強制性交等の容疑で逮捕した。昨年11月、ナンパした20代女性を酒に酔わせ抵抗できない状態にして、東京・歌舞伎町のホテルで塾生と2人がかりで乱暴した疑いだ。
 逮捕者続出ナンパ塾、マニュアルの荒唐無稽な中身を公開-ZAKZAK
 ここ数年、アメリカで話題になっている「インセル」と呼ばれる男性たちをご存じだろうか。
 インセルとは「インボランタリー・セリベイト」の略語で、「不本意な禁欲主義者」を意味する。自分の容貌を醜いと自覚している異性愛の男性たちで、女性達から蔑視されているせいで恋人ができないと信じている。
 女性への憎悪を募らせて、過激な行動に出るインセルも社会問題になっている。2014年5月にアメリカでは、インセル向けの掲示板で活動していたエリオット・ロジャーが、銃を乱射して6人を殺害し、自らの命を絶つ事件が起きた。
(中略)
 話題はセックスに関することとは限らないが、Lookism.netのような掲示板で、男性たちは羞恥心や憎しみ、そして権利を訴える声に共鳴する。そして、外見の欠点を自覚すると同時に、本来は自分とセックスすべきなのに、そうしようとしない女性に対する怒りを深めていく。
(中略)
 過激なインセルにとって、デートやセックスは不正で溢れている。全ての女性は(見た目に関係なく)、セックスする相手を見つけることができるのに、醜い男性はお金を払うか強制しない限り、セックスできないと考えているのだ。セックスできないと考えているのだ。彼らはまた、女性は見た目の良い男性にだけ惹かれると信じている。
 この歪んだ考え方は、暴力性を加速させる。より過激なインセルが集う掲示板「Incels.me」では、1年間に1万件以上の投稿がある。ここでは「魅力的でない男性がセックスする"権利"が否定された」という理由で、女性への暴力を正当化する投稿が定期的に見られる。
 4月には、下記のような文章が投稿された。
「女性と社会は、我々を落胆させ孤独とうつに追い込んでいる。外見に対する彼らの執着は、彼らの基準を満たさない我々の怒りに油を注ぎ、殺人へと向かわせる。これは、我々が心を病んでいるからではない。偏見に対するノーマルな反応なのだ」
(中略)
 ロジャーに影響を受けて、同じように殺人に走ったインセルもいる。
 2018年4月、カナダのトロントでワゴン車が歩道に突っ込み、8人の女性と2人の男性が殺された。運転していた25歳のアレク・ミナシアンは犯行の直前、Facebookに「インセルの抵抗はすでに始まった!我々は全てのチャドとステイシーを葬り去る!」と書き込んでいた。チャドは魅力的な男性、ステイシーは魅力的な女性を指す言葉だ。
 トロントでは、7月23日にも銃で武装した男が18歳の女性と10歳の女の子を殺害する事件が起きたが、事件後、インセルの掲示板では「これもインセル仲間の犯罪なのではないか」と盛り上がった。
 2011年7月にノルウェーで77人を殺害した、極右テロリストのアンネシュ・ブレイビクも、暴力的な女性蔑視主義を表現していた。自分の外見にも固執していて、額や鼻、あごなどをテロの前に整形していたと報じられている。
 インセルのコミュニティでは、他にもこんな男たちが"ヒーロー"として称えられている。
 2009年にペンシルバニア州でフィットネスクラブで3人を銃で殺害し、自殺したジョージ・ソディーニ容疑者。
 2007年にバージニア工科大学で32人を殺害したチョ・スンヒ容疑者。スンヒ容疑者は二人の女性をストーカーしていたと報じられている。
 マルク・レピーヌ容疑者は、1989年にカナダのモントリオール工科大学で男性学生と女性学生を分けた後、女性14人を殺害した。
 女性を憎悪する「インセル」とは? モテない男性の心の闇をネットが加速させる。-ハフィントンポスト
 なぜこの本を購入したか(しかもわざわざ読者にカンパしていただいた貴重なAmazonギフト券を使ってまで!)というと、ナンパ塾のようにナンパを目的とし集まる男たち、あるいは女性を性愛目的でしか見れないがためにテロまで起こしてしまう人たちの問題が深刻だからです。そのような問題の根源にあるであろう思想の1つ恋愛工学を分析し、批判の遡上へ乗せることがぜひとも必要ですが、権威のある人はこんな馬鹿げた俗説をいちいち相手している暇はありません。ならば本ブログの出番でしょう!

 というわけで、2回にわたって恋愛工学特集をお送りします。今回は技術編とし、恋愛工学が「恋愛に効く」と称する数々の技術を分析、それがナンパにおいてどのような意味を持つのか、なぜ彼らのコミュニティで効くと思われるようになったのかを解明します。また次回を思想編とし、彼らの女性や恋愛に関する考え方を整理することでそこに潜む危険性を暴きます。
 なお記事では、当該書籍『僕は愛を証明しようと思う。』に太字で登場する用語、技術は、あんまり心理学と関係ないかなと思うものも含めすべて取り上げます。著作権が云々といわれるかもしれませんが、私は思想編で記述する理由から恋愛工学コミュニティを女性にとって危険度の高い反社会的勢力と認識しており、そのような勢力を潜在的被害者が回避するための情報提供は彼女たちの生存権からくる要請であり、著作権に優越するからです。また仲間内で通用している用語を公開し、特別感を解体することは恋愛工学コミュニティの崩壊の一助を担うかもしれません。
 もちろん、本記事および次回の記事は『僕は愛を証明しようと思う。』の重大なネタバレを含みますが、まぁ誰も気にしませんよね。

 恋愛工学は「ソーシャルスキル・トレーニング」である
 書いてたらやたら長くなってしまったので、最初にこの記事の重要な論点を述べましょう。恋愛工学はこれから見ていくように、女性とのコミュニケーションに関して細部にわたるまで几帳面なマニュアルを提供しています。ACSモデルがとりわけいい例でしょう。これは女性と出会ってから初めてセックスするまでのコミュニケーションを魅了(Attraction)、なごみ(Comfort-Building)、性的誘惑(Seduction)の3つのフェーズに分けます。そしてAフェーズでは連絡先を交換し、Cでは仲良くなり安心してもらい、Sでは手をつないだりキスしたりしろ、Cに入ってから3時間から10時間以内に、CからSへの変遷は同じ日にしろ云々と、書きだすのが途中で面倒になるほど細かく書いています。
 なぜこのような細かい話をしているのかといえば、彼らが女性とのコミュニケーションで何を言っていいかわからないからです。というかコミュニケーションの困難の多くはこれに由来します。逆に、あらかじめ何をどうすべきか決めてしまえば不安を感じることなく交流できるというわけです。

 このようなプロセスは、実際に心理学でも研究・利用されているものです。その1つがソーシャルスキル・トレーニングです。これは「断らなければいけない場面でも断れない」「相手を怒らせたり、怖がらせたりするような言い方でしか要求できない」といったコミュニケーションにおける困難を解消するための練習、講習のようなものです。
 ソーシャルスキル・トレーニングはおおむね以下のような手順で進みます。まずまずい例を実践してもらい、どうやったらうまく伝わるかを話し合う。そして練習で試してみて、ホームワークでさらに深めていくという流れです。
 この流れを恋愛工学に当てはめると、うまく伝える方法の話し合いはコミュニティでのやり取りに当たりますし、練習は後述するような「とにかく大勢に話しかけろ」というモットーに繋がっています。つまり恋愛工学は何か特別なことをしているというわけではなく、コミュニケーションの練習をしているだけだったりします。練習台にされた女性はたまったものではありませんが。

 またこの技術の要点は、コミュニケーションの方法が細かく明文化されておりどのような場面でも困らなくて済むことにあり、それぞれの技術の妥当性はさほど問題ではありません。もちろん通常のソーシャルスキル・トレーニングではそれではまずいのですが、ナンパでは「失敗すれば別れられる」のでそれで構わないわけです。そのことが後述の試行回数の話と相まって、出鱈目なコミュニケーション技術・理論を乱舞させる結果となっています。

 では、その乱舞のさまを見てみましょうか。

 モテ=ヒットレシオ×試行回数
 この公式が恋愛工学の全てであり、唯一です。これは要するに「母数が多ければ確率上低いことでも起こりうるし、発生件数は増やせる」という話で、本書ではスタティステカル・アーピトラージ戦略などと舌を噛みそうな名前で統計的アプローチと言っていますが、統計でも数学でもなく、算数というべきレベルの話です。マシンガン戦略とかの方が分かりやすくてよさそうですが、「頭のいいコンサルっぽさ」がないとだめなのでしょうか。記事を読めばわかるように恋愛工学のネーミングは終始こんな感じです。
 この公式は便利なものです。なぜなら、この公式を活用すれば恋愛工学が提供するすべての技術に妥当性が不要になるからです。あくまで試行回数が重要であるという発想は、ナンパがうまくいかない理由をすべて試行回数で説明できるので、それぞれの技術の確度を検討する必要がなくなるのです。言い換えれば、恋愛工学を売りつけた相手がうまくいかないと怒鳴り込んできても、いやそれはお前の試行回数が足りないからだ、出会いエンジン(たぶんナンパする場所を指す概念)をふかして町へ繰り出せと逃げを打つことができるというわけです。
 技術の確度が不必要となると、もはや恋愛工学は工学ではありません。科学でもありません。科学というのは「こうすれば必ずこうなる」という法則を見つけるもので、「なんか知らんけど100回やったら1回はこういう結果が出るので、こういう法則があります」という主張は通りません。それは偶然です。恋愛工学はあくまで偶然発生する結果にラベルを張ることでそれらしく見せるものにすぎないのです。
 こう考えると、恋愛工学は女性を落とす技術ではなく、恋愛工学が提供する技術に乗っかってくれる女性を探しているだけとも言えます。

 友だちフォルダと男フォルダ
 恋愛工学は、女性が男性に出会うとすぐに、その男性を将来的にセックスしたり恋人にするかもしれない男か、ただの友だちにする男を仕分けると主張します。前者が男フォルダ、後者が友だちフォルダというわけです。そしていったん友だちフォルダに入ると、男フォルダに移動するのは至難の業といいます。もちろん、女性が男性の印象をそのように考えるというエビデンスは特にありません。

 脈ありサイン
 これは言葉の通り、女性が男性に対し脈があると思っていることを示すサインです。小説で登場した主なサインは「自分から会話を弾ませようとする」「声のトーンが明るくなった」「目が輝いた」あたりです。まぁ、好意的であることのサインとしては使えるでしょうが、ナンパの脈があるかどうかまではわかりません。
 この脈ありサイン、実は恋愛工学の危険性の最たる体現なのですが、その点は次回解説します。

 イエスセットとラポール・リーディング
 脈ありサインとともに解説されたのがこの2つの概念です。イエスセットはとにかく相手に「はい(イエス)」と回答させる質問をすることで、ラポールは心理学や社会学で広く使われる、カウンセリングや調査の相手との信頼関係を指す用語です。
 小説では非モテの渡辺が恋愛工学マスター(爆)の永沢から様々な技術を学ぶという展開です。永沢はこの技術を解説する際に、心理士が信頼関係の構築に使用していると言います。へぇ、私は聞いたことないですけど。
 リーディングはその後に紹介された概念で、要するに種々の技術を用い好ましい(といってもこの場合男の都合のいい)方向に誘導するものです。これもセラピストがどうのこうのという触れ込みで紹介されています。
 カウンセラーとクライアントの信頼関係は、こうした小手先の技術もあるでしょうが、基本的にはカウンセラーの実績や姿勢、あるいはカウンセラーとクライアントであるという役割によるところが大きいので、こういう技術をアピールするときに「カウンセラーも使っている!」と言われても真に受けない方がいいです。初学者には会話の方針として使われることがあっても、ベテランになるとみんな好き勝手話すということもありますし。
 イエスセットに関しては、認知の一貫性やプライミングで説明できそうです。人は考え方が一貫することを好むので、イエスと考える方向に誘導すればノーに転ぶ可能性は下がるでしょう。もっとも、そのような有効性はあくまで統制された実験状況によるものであり、現実場面で魔法のように効くとは考えにくいものがあります。端から嫌われていれば何をしても効果はないように。

 ディスる
 これはよく使われる用語なのでわかりやすいでしょう。相手をバカにすることでかえって気を引く技術ですが、効果があるかは不明です。まぁ上述のように、恋愛工学はあくまでその技術がワークする(うまくいくことをこういうらしい)女性を探すだけのものなので、失礼な態度を早々にとることで素早くスクリーニングするのはある意味では合理的かもしれません。
 ちなみに、よく使われる会話の流れのことをルーティーンといいます。恋と愛の違いを論じるなんてのはありがちなようです。あるいは男と女のありがちなセリフを入れ替えるロールリバーサルなんてものもあるらしいです(男が「自分は簡単に女の寝るような男じゃない」と言うとか)。
 なぜディスりが恋愛工学において中核的な位置を占めるかというと、これは動学的価値モデルという考え方に由来します。本書では詳しく説明されていませんが、要するに相手と自分を比較し、自分が優位だと考えているうちはナンパになびかず、アプローチはすべて自動迎撃システムに撃ち落されるというわけです。なので相手をディスることで価値を貶め、相対的に自分を上げることで優位を逆転させようという発想なのです。
 社会心理学的には間違った考え方です。社会心理学には自己価値保存理論のような自己の価値を守るためのメカニズムを明らかにした研究があり、そこでは自己の価値が危険に晒されると、そもそもその価値は自分にとってあまり重要ではないと思うようになったり、別の価値を強調したりすることで自分を守ると言われています(頭悪いと言われても勉強なんて重要じゃない、運動で活躍していると開き直るのが典型ですね)。なので自己価値はそう簡単に下がりません。まぁ、そもそもディスられたくらいで下がるとも思えませんが。

 タイムコンストレインメソッド
 これは時間制限法と言われるもので、あらかじめ時間を区切ることでいつまでも付きまとわれるのではないかという不安を相手から払拭するというものです。恋愛工学の技術の中で唯一これだけは無害かもしれません。向こうから去ってくれるわけですから。しかしもちろん、10分だろうが5秒だろうが、不愉快な相手と会話する理由はありませんけど。

 オープナー
 これは路上でのナンパ(通称ストナン)のときに、会話のきっかけとする話のことです。道を聞く、写真を撮ってあげるなどが主なオープナーになります。中にはただ挨拶するだけ(こんばんはオープナー)という身も蓋もないものも。
 ちなみに、これは恋愛工学とは直接関係ないことですが、ストレンジャーレイプのように見知らぬ人が加害者となる性犯罪では、被害者をおびき出すために道を尋ねたり何かお願いをするというのが常套手段となっていますので、とりわけ1人でいる女性は軽々に見知らぬ男性の依頼を受けるべきではありません。あくまで恋愛工学と関係ないことですがね。向こうは複数いる人とか、男性に聞けばいいだけなので(昨今はスマホで解決することも多いでしょうし)、依頼を断ることに罪悪感を抱く必要もありません。

 間接法と直接法
 前者は最初からナンパ目的を表に出さない方法、直接法はその逆です。ちなみに、永沢は間接法が善意につけこむものだからよくない、あくまで本当に困っているときに使うだけにするべきと論じますが、これがあくまで表面上の態度にすぎないことは次回の思想編で明らかになります。

 メタゲーム
 ナンパにおいて、1回1回のナンパではなく場全体を解釈するときに登場する用語です(小説ではなぜかここでポケモンカードゲームを例えに出していてすごく「非モテ」っぽさが出ているのが謎)。例えば有名なナンパスポットで、女性よりも男性の数が圧倒的に多いとうまくいく確率はがくっと下がる、みたいな考え方をすることで1回1回ではなく総体としてゲーム(紹介が遅れましたが、恋愛工学ではナンパをゲームと捉えます)を考察するわけです。
 物語冒頭で、永沢が渡辺に恋愛工学を他人に喋らないように言ったように、恋愛工学が秘匿されるのはこのメタゲームで優位に立ちたいという思惑があるためです。小説で書いているのはそれが金儲けになるから、メタゲームにおける有意性を多少失っても収入が欲しいからでしょう。なのでこのブログのように、技術を無料でばらまきつつ女性に注意喚起を促すとメタゲームをめちゃくちゃにできるわけです。

 返報性の原理・ダブルバインド・ペーシング・ミラーリング・バックトラック
 この辺は有名な技術をそのままパクってきたものです。順番に簡単に説明すると、それぞれ「恩を売ることでその後の要求をのまなければいけない気にさせる」「二択を提示することでどちらかを選ばなければいけない気にさせる」「話すペースを合わせる」「動作をまねる」「オウム返しする」です。
 このような技術の厄介なところは、それぞれが実験状況では確かに有効なものだったりするという点です。しかし先述のように、それが現実場面で魔法のように効くことはありません。現実の好感度の評価は数えきれないくらい様々な要因に左右されますから。効果はやらないよりまし、程度でしょうね。

 5つの質問ルーティーン
 「5問の質問で本当のことをいったら負けゲーム」というルーティーンです。いま何問目?というタイムショックみたいな質問で勝つというシーンでした。ちなみに、罰ゲームはテキーラのような強い酒の強要という、これまた性犯罪と密接に関連しそうなものでした。こういうゲームをしてくる男は恋愛工学信者というわけで、気を付けるべきです。

 利己的な遺伝子
 生物学者リチャード・ドーキンスの著作です。本書は引用されているもので、太字で書かれているものではありませんが、その解釈に重大な誤りがあるので指摘しておきましょう。
 『利己的な遺伝子』は、生物は遺伝子が増殖するための乗り物にすぎないと主張するものです。メスは子供を産み育てるために父親選びには慎重になり、強い子供を作れる「Good Genes」か子供を一緒に育ててくれる「Good Dad」を選ぶといいます。永沢はこれを解釈し、人間も同じであると主張します。
 しかしこの解釈には疑問点があります。まず生物の生態をそのまま人間に適用できるという証拠はありません。またこの考え方はあくまで配偶者選びに関するもので、仮に人間に適用できたとしても、恋愛工学が目指す「セックスを楽しむだけの関係」にまで一般化できるかは不明です。この関係ではその場が楽しければいいので、「Good Genes」や「Good Dad」である必要はないわけです。まぁ、配偶者選びとワンナイトラブの基準には重なるところもきっとあるでしょうけど。もっとも、次回指摘するように恋愛工学は女性の捉え方が一面的で、かつ恋愛をすべてセックスすることとこれまた一面的に捉えている節があるので、この2つの区別がつかないのは当然かもしれません。

 モテスパイラル
 モテる奴はモテる奴だからモテる、という理論です。永沢は交尾をしていたグッピーの方がモテるという実験結果を根拠にしますが、もちろんこれが人間にそのまま適用できるとは限りません。モテる→自信がつき態度も堂々とし、交換を得やすくなるor成功経験のために女性との接触が増える→さらにモテるという内的過程はありそうですけど。要するにモテる→さらにモテるという発想は、仮にぱっと見事実だったとしても典型的な疑似相関です。

 セックストリガー理論
 女性は好きな男性とセックスするのではなく、セックスした男性を好きになるという、それはもう男の妄想だろうという話です。「レイプしても最終的に女は快楽を覚えるのだ」というレイプ神話にも近いですね。恋愛工学の危険性を体現するもう1つの概念でしょうが、それは次回ということで。
 ちなみに、恋愛工学は1回目のセックス以前をプレセックスピリオド、後をポストセックスピリオドといい、戦略を分けるそうですよ。
 強いて心理学へ寄せるとするなら、認知的不協和理論で説明できそうです。セックスは好きな相手とするという社会通念は根強いので、「セックスしたんだからこの人のことが好きに違いない」と思い、好感度が上がる可能性はあります。もっともこの説明は合意の上のセックスを想定していますし、セックスまで行く好感度なら女性の解釈も的外れではないでしょう。レイプにもつながりかねないセックストリガー理論はやはり異質で危険なものです。

 ザオラルメール
 一度関係が断たれた相手から再度連絡がくるという話です。さっきのポケモンカードの例えしかり、なんでいちいちセンスがゲームなんでしょうね。恋愛工学ってモテないオタクが作ったんでしょうかね。まぁこういうネーミングはコミュニティから出てくることもあるようですし、モテようと必死な人たちが集まって作っていったものだと考えればあながち遠くない推測かもしれません。

 本書に登場する技術や理論はこれだけではありませんが、長くなりましたしひとまずここまでとしましょう。次回は恋愛工学の危険性に踏み込みます。

【書評】殺人論

 今回は古本屋で見つけた一冊。出版は91年ですが書かれたのは大正時代くらいのようで、かなり時代がかった記述になっています。
 いかんせん昔の本なので犯罪学の内容としては見るべきものはない(骨相学を大真面目に扱っていることから察して)のですが、やはり気になる点がいくつか。
 それは記述における女性蔑視と、事実と逸話の混同です。

 女性の犯罪は残忍?
 本書において、著者は女性の犯罪の残忍性をわざわざ節を立てて論じています。曰くその残忍性は男性の犯罪者を超えるとか。しかしこの評価には、当時の知見から見てもいささか疑問が生じるでしょう。というのも、本書がまさに触れているように、犯罪者それ自体は男性のほうが多いからです。多数の男性犯罪者の存在を無視して、女性が残忍であると論じるのはいささか不可解な論だてです。
 本書ではとりわけ残忍な逸話で知られる犯罪者の例として中国王朝の后まであげつつ、女性の残忍さを論じていますが、このような事例を一般に当てはめる議論が無謀であることは言うまでもありません。

 このような大雑把な議論は、著者の「ヒステリー観」の影響も強いのではないかと思われます。本書は女性の七割がヒステリーとするクレペリンの言葉を紹介していますが、ヒステリーが病気として扱われた当時であっても、少し考えればある集団の七割が何らかの異常を持つと解される診断基準には疑問があると分かったはずです。ヒステリーは現在では身体化障害として扱われていますが、女性の強い感情発露をそう呼ぶ用法が残っているように、当時は単なる興奮状態を雑にヒステリーと扱い治療の対象とみなしたのでしょう。

 逸話と事実の混乱
 本書を貫いてみられる特徴の1つは、様々な知見を論じる際に事実と思われる事件の情報と、歴史的あるいは創作における逸話が混同されてあげられている点です。
 もちろん著者は、創作があくまで創作であることは自覚したうえで、それらがあくまで犯罪の特性をよく反映した例になっていることを述べるために出しているのですが、学術的知見を述べるうえではやはり不適当でしょう。また歴史的な事例に関しては、例えば上述の中国王朝の后の例などがありますが、このように歴史的に遠い時代の出来事はその時々の人々の願望が入り混じったかたちで伝承されるのが常であり、これを現代で発生する犯罪と同じような事例としてみなし論じることは不可能です。

 大正時代当時の犯罪学が、日本においてどのような地位を確立していたかはこの本からは不明ですが、しかし少なくとも本書に関しては、医学博士であった著者の探偵趣味、犯罪趣味を超えるものではなかったのは確かなようです。実際に、本書の中には西洋の探偵に関する記述や、毒に関する記述をまとめた部分が存在し、犯罪学の知見からは離れています。

 本書の当時の評価もまた不明な点が多いのですが、カバーにあるように本書が「犯罪学研究の金字塔」であったとするならば、犯罪学の地位はそれほど高くなかったのかもしれません。

 小酒井不木 (1991). 殺人論 国書刊行会

【書評】オカルト化する日本の教育―江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム

今回読んだのはこちらです。内容的にまぁ別にいいかなぁとも思ったのですが、内容をパラ見したときに犯罪学ブログ的に避けては通れない内容もあったので読みました。
 親学については過去『都知事候補たちのトンデモ心理学』などで簡単に説明したので、内容の話は省略します。

 親学を推し進める脳科学者たち
 それは親学を推し進める脳科学者たちについての記述です。本書で挙げられているのは3人の科学者です。
 1人は澤口俊之氏。『ホンマでっか!TV』に出演したことで有名な脳科学者ですが、内実はかなり怪しく親学以外では「電車の中での化粧直しなど人目を気にしない行動は前頭前野の未熟さによるもの」「草食系男子の増加は電磁波によるホルモン分泌異常が原因」などと主張しているようです。脳科学的には、前頭前野は自己コントロールをつかさどる一面があるのでここが未熟なら周りを気にしない行動も増えるだろうと予想ができるわけですが、それだけが原因ではないだろうことは論を待ちません。まぁ、前頭前野の機能は多岐にわたるので、どのような現象の原因と強弁することもできますが。
 2人目は森昭雄氏。「ゲーム脳」で著名な方です。説明不要!でしょうか。

 問題は3人目です。3人目は福島章氏で、犯罪心理学では著名な方です。私も中公新書の『犯罪心理学入門』や『非行心理学入門』は私も持っていますし、ほかの著作も読んだことがあります。氏は脳科学者というよりは精神科医であり、足利事件の精神分析を担当し結果として冤罪に寄与したことでも有名です。
 本書によれば氏の主張には「凶悪犯の脳には形質上の異常がある」「若年層の犯罪の増加にはアニメの暴力シーンや環境ホルモンの影響がある」というものがあるようです。出典は示されておらず、参考文献にも福島の著作はないのでどこからなのかは不明ですが、見つければ細かく検証する必要はあるでしょう。脳の異常云々に関しては、『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』など犯罪神経学の知見を参照すればあながち間違いとも言い難いのですが、どのような文脈で登場しているかは気になるところです。経験上、精神科医由来の犯罪学者はおおざっぱなことを言いがちな印象がありますから。

 ほかにも江戸しぐさが親GHQ的な部分から発生したにもかかわらず反GHQ的な政権で受容されがちというイデオロギーのねじれや、誕生学や無謀な組体操など親や教師の感動を優先する価値観との関連など気になる部分も多いのですが、私の専門から遥かかなたなのですべてを解釈するのは難しそうです。ともかく、本ブログでは心理学的な知見を中心に検討することを続けようと思います。

乱造された心理資格/スピリチュアル系カウンセリング資格の何が問題か

 『「資格のキャリカレ」に新たな心理学系乱造資格が登場!』や『怪しげな資格をばらまく日本能力開発推進協会と日本生涯学習協議会』で論じたように、心理学にかかわりつつもその内実が怪しい資格が大量に存在します。また、『シードクリアリングって何だよ……』や『シードクリアリングを批判したら日本スピリチュアルカウンセリング協会に訴えられそうになっている』、あるいは『個性心理学は心理学ではない わかっているとは思うが』や『赤ちゃんともちに気をつけろ』で触れたようにそもそも心理学やカウンセリングと呼ぶにふさわしくないものもその仮面を利用し、資格として創出するというビジネスが横行しています。
 このブログでは、そのような資格をたびたび批判してきました。しかし全般的な問題として、なぜこのような資格を批判するのかという部分に関しては散発的に述べるのみであり、まとめて論点として提示することはあまりしてきませんでした。なので今回は、この点に関して概観できるようにまとめておこうと思います。

 大前提として:この手の資格は信頼できない
 まず本論の前提として、カウンセラーの資格としてここで挙げた資格は信頼性に欠けるという点を指摘しておきましょう。
 『インチキカウンセラーにご用心を』でも論じましたが、カウンセラーの資格として現在最も信頼できるのが臨床心理士です。将来的にはここに公認心理師も加わることになるでしょう。これらの資格がなぜ信頼できるかといえば、心理学の専門家による講義を経て、実務経験を積んでいることを担保しているからです。これらの資格を得るには大学院の修士課程を修了する必要があり、自力で修士論文をまとめる程度の知識を持ち研究手法を習得していることが絶対条件になります。故に、カウンセラーとしてでたらめな知識に基づいたり不用意な対応をまずしないだろうと一般的に安心することができるのです。

 一方、商業的に乱造された資格にはこれらの担保がありません。多くの通信講座は専門家が教材やカリキュラムを作成したと称していますが、具体的にどの程度のレベルの者が作成にかかわっているかは不明です。『「資格のキャリカレ」に新たな心理学系乱造資格が登場!』で検討したときにそうだったように、それっぽいだけの非専門家を連れてきて専門家ですと称している可能性は否定できません。あるいは学部卒レベルの人をそうだと言っている可能性も十分あります。そして、よしんばカリキュラム自体が信頼のおける専門家に担われていたとしても、受講者が本当にその内容を理解しているかは不確かです。キャリカレの場合、資格試験を在宅で受講できると案内していましたから、試験自体はどうとでもなるわけです。
 またこの手の講座はたいてい通信講座であり、カウンセリングの実務経験を受講者は経ていません。キャリカレの事例では経験を数回つめると案内されていましたが、回数は片手で数える程度であり、研修としてはあまりにも心もとないものです。これでは「クライアントとして境界性パーソナリティ障害の人が来たけど、経験がない」というようなことが日常的に起こるでしょう。

 カウンセラー選択の権利を阻害する
 さて、このような信頼性のない資格が跋扈すると、まず被害を被るのはカウンセラーを選ぼうとするクライアントです。クライアントは通常、カウンセラーの資格に詳しくないですし、誰かいいカウンセラーがいないかと探し、HPのプロフィールに「メンタル総合心理カウンセラー資格を持っている」などと書かれればそれがどの程度信頼できる資格なのかはわかりません。素人かもしれないがこの人に話を聞いてほしいとクライアントが思う分にはその人の自由でしょうが、カウンセラーとして信頼できると誤認して素人にかかるとなれば問題です。
 医療がそうであるように、精神医療においてもクライアントがカウンセラーを選択する権利は阻害されてはならないと考えるべきでしょう。信頼性の不透明な資格を乱造することにより、クライアントの選択を阻害する行いは許されるべきではありません。

 クライアントのリソースを空費させる
 いうまでもなく、カウンセリングはただではありません。よしんばただであったとしても、カウンセラーに会いに行くまでに時間や労力がかかります。また精神疾患を抱えるクライアントの多くは、外に出て人に会うという行為に大きな負担を感じます。
 そのような負担が問題解決につながればいいのですが、このような資格を持つカウンセラーがクライアントを問題解決に導ける確率は、正規の資格を持つカウンセラーに比べて著しく低いことが予想されます。その場合、本来効果のあるカウンセリングに割かれていたはずのリソースが空費され、クライアントは何もしなかったときと比べても問題解決から遠ざかってしまう恐れがあります。このような問題も、クライアントのメンタルヘルスを考えれば無視することはできません。

 問題解決を阻害する
 信頼性の不透明な資格にしても、スピリチュアル系の資格にしても共通する問題は、リソースの空費以外にも、クライアントが抱える問題の解決に役立たないばかりか、悪化させる可能性すらあるということです。
 スピリチュアルの多くは、現在存在している医療を否定し囲い込むかたちをとります。これはスピリチュアルの例ではありませんが、近藤誠が提唱している『がんもどき理論』では医者にかかるとかえって悪化するなどと患者を脅し、本来早期発見がなされなおる可能性も高かったがんが手遅れになるまで放置されるという問題が起きています。
 あるいは医療を否定せずとも、問題と無関係な部分ばかりに注目し本質に迫らないため、クライアントの問題解決を先延ばしにし不利益を被らせる場合があります。シードクリアリングでは、何らかのパワーを送りクライアントの痛みを和らげるという動画があります(『シードクリアリングって何だよ……』に掲載しています)。しかし体に痛みがあればまず医者の手で身体的な異常がないか確かめられるべきですし、その痛みが心理的な側面に由来するのであれば、そのクライアントの痛みに対する認識を検討し改めていく必要があります。シードクリアリングではそのような問題の本質的解決から目をそらし、謎のパワーによる根本的な解決を夢想するためにかえって解決が遅れるのです。

 もちろんこのような効果にはプラシーボ効果がつきものです。そしてプラシーボでもなんでも効果があるならいいではないかという粗雑な擁護もつきものです。しかしプラシーボ効果は効果があるかどうか安定するものではありませんし、効果がないことの責任を「治療を信じないからだ」などとクライアントに転嫁することにもつながります。クライアントはそのような有害な博打のような治療ではなく、効果があると確認された治療を受ける権利があるはずです。

 学ぶ者のリソースを空費させる
 クライアントに注目してきましたが、この手の資格は学ぶ者にも有害です。受講料や試験勉強にお金や時間をかけて、得られたものが信頼できない資格では悲劇でしょう。キャリカレでは受講料は3万から6万前後と、大学院へ入るよりはお得ですが、ただの紙切れに払う額としてはいささか高額です。
 この問題の最大のポイントは、善意で明後日の方向を向くカウンセラーを大量に生産することでしょう。どんな資格においても、資格を取る「消費者」はクライアントの問題を解決したいと考えています。悪辣な資格が悪人の手によって使われているのであれば問題はわりと簡単ですが、善意が絡むとたいてい面倒なことになります。

 信頼できる資格を
 臨床心理士や公認心理師資格に信頼を置く私ですが、一方でこのような乱造された資格が跋扈する背景もわからないではありません。臨床心理士のような大学院を経なければいけない資格は取るのが難しく、大半の、特に一度社会へ出た人にとっては高嶺の花です。そこへ通信講座で在宅で簡単に資格を取れますよと言われれば、ころっといってしまうのが人というものでしょう。
 昨今の需要の高まりを考えれば、臨床心理士のように全般的な資格だけでなく、部分部分で対応できる資格があってもいいかもしれません。要するに医者になるのは難しい人材も限られているから、看護師とか理学療法士とか、場面に合わせて対応できる専門家を増やそうということです。
 例えばカウンセリングはできなくても、子供の問題に詳しいと信頼できる人、職場の問題に対応できる人などがたくさんいれば便利でしょう。そのような人が教員や普通の職場で働く人の中にいれば、いい加減な精神論や親学のようなでたらめの流布の防止に効果があるかもしれません。

 しかしそのような資格を作るためには、その資格のカリキュラムが信頼できなければいけません。つまり、今のままの民間の商用資格ではとてもこの需要に応じることはできないのです。とはいえ公認心理師過程のドタバタを見るに、心理学界隈が対応できる余裕を持っているとも思えませんが……。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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