九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

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研究倫理不正の論文は取り下げるのが妥当だろう

 昨年12月27日の毎日新聞が、福島第1原発事故後に測定された福島県伊達市の住民の個人被ばく線量のデータを基に、早野龍五・東京大名誉教授らが英科学誌に発表した2本の論文について、本人の同意のないデータが使われた疑いがあるとして東大が予備調査を開始したというニュースを報じました。(参照:毎日新聞)
 同記事では、調査のきっかけとなった住民からの申し立てで、“図の一部に不自然な点があり、「線量を過小評価するための捏造(ねつぞう)が疑われる」”と指摘されたと報じ、それに対して早野氏が、同紙の取材に対し“「適切なデータを伊達市から受け取ったという認識で対応していた」とメールで回答。「計算ミスがあり、線量を3分の1に過小評価していた」として出版社に修正を要請した”と応じたとしています。
(中略)
 毎日新聞の記事によると、指摘された問題点は
a) 論文では、約5万9000人分のデータを解析しているが、約2万7000人分について本人の同意を得ていない
b) 論文の著者の一人が所属する福島県立医大の倫理委員会に研究計画書の承認申請を行う前の15年9月に早野氏が解析結果を公表している
c) 図の一部に不自然な点があり、「線量を過小評価するための捏造が疑われる」
 の3点であり、早野氏は、 (a) については「適切なデータを伊達市から受け取ったという認識で対応していた」(c)については「計算ミスがあり、線量を3分の1に過小評価していたとして出版社に修正を要請した」としているとのことで、(b) についてはノーコメントであるようです。
 念のため、それぞれの点について、原資料ないしはなるべくそれに近いものをみてみます。まず、(a) です。
(中略)
 “さらに高橋議員は、研究計画書に「同意した住民のみを対象とする」と記載されているにも関わらず、同意しなかった住民データ約3万人分も含まれていると指摘。解析結果は、海外の科学雑誌に掲載され、ICRP(放射線防護委員会)の防護基準見直しや国の避難基準の緩和に活用される恐れがあるとして、市に対応を求めた。田中直轄理事は「論文の中身については執筆者の二人が対応すべき。依頼文書に基づいた論文に変更があれば、お知らせがあるはずだ」と理解を求めた。
 市によると、測定に参加した住民5万8481人のうち、同意したのは約半数の3万1151人。97人が「不同意」を表明し、残りの2万7233人は同意書を未提出だった。”
 と、この件についてまとめられています。しかし、同じページにある伊達市議会の公式動画からの髙橋一由議員の質問の部分を見ると、極めて信じ難い答弁がなされています。
 それは、「GIS化したデータは早野教授に依頼して作成した」「GIS化したデータは(早野教授から)納品してもらっていない。伊達市はもっていない]「GIS化したデータは(宮崎氏に)伊達市から提供したものではない」というものです。
 データ不正提供疑惑・計算ミス発覚の個人被曝線量論文。早野教授は研究者として真摯な対応を-ハーパー・ビジネス・オンライン
 この件です。
 私は原発、放射能問題を詳しく追ってきたわけではありませんが、早野氏やその支持者、取り巻きの放射能楽観を超えた、放射能を不安視する人々への誹謗中傷ともとれる発言の数々には嫌気がさしているところでした。そこへ、この報道が持ち上がったというわけです。
 私は放射能について詳しくないため、計算云々の部分はよくわかりません。なので今回は心理学でも重要視される研究倫理について述べておきたいと思います。

 研究参加者の同意をとるのは基本中の基本
 まず、研究に参加する人から、そのデータを研究に使用し、場合によっては分析して公表することに関して同意をとるのは基本中の基本です。これは研究参加者の権利を擁護し、研究それ自体の正当性を担保するために必要なことです。
 古来より、科学の発展は往々にして研究参加者をないがしろにすることで成り立っていました。極北に位置する例を挙げるとすれば、参加者の同意していない物質を投与したり処理したり、墓所から遺骨を盗掘したりとやりたい放題です。後者はいまも問題になってますね。

 本件の報道などを参照する限り、論文が参照したデータは伊達市が全世帯(少なくともそれに近い数)配布したガラスバッチで記録されたもののようです。全世帯に配布という手法をとっている以上、バッチを装着した全員から研究利用への同意をとっているはずもなく、現に半数近くが同意していないことが指摘されています。
 この件に関して、早野氏は伊達市から適切なデータを受け取ったと主張していますが、一方で伊達市側は住所を座標に変換する作業は早野氏側が行っており、市はデータを受け取っていないと主張、言い分が真っ向から対立しています。

 どちらにせよ、同意のないデータに基づいた分析を行った研究を公表することは、研究倫理上大きな問題があります。上掲記事でも指摘があるように、座標データは図表の如何によっては個人を特定できかねない状態で掲載されており、プライバシーを大きく侵害しています。同意のない利用でこのような侵害が発生するのは著しい問題です。参加者にとっては、自分の知らないところで自分にかかわるデータが、よりによって個人を特定されかねないかたちで公表されているということになるのですから。

 このような場合、どのような対処が考えられるでしょうか。
 倫理上の問題であるという性質を考えれば、論文の取り下げが妥当であろうと思われます。もし仮に、本論文を軽微な修正だけでそのまま掲載し続けるのであれば、大規模なサンプルサイズのうち半数に同意がない状況だったとしても、論文として成立させられるという悪しき前例となりかねません。そうなれば、大真面目に参加者から同意をとる研究者はいなくなり、参加者の権利が脅かされることとなります。

 強いて言えば、同意のある参加者のデータのみを用いて再分析したうえで修正するという手もあります。しかしサンプルサイズの半数もが脱落する変化を経てもなお、それが修正前と同じ研究であるといえるかは疑問があります。

 この件はデータの信頼性にもかかわる
 ついでながらという話になりますが、この件はデータそのものの信頼性にもかかわってきます。というのも、本件に関して、配布されたガラスバッチをきちんと身に着けていなかった住民が相当数いたのではないかという指摘が存在しているからです。
 確かに、ガラスバッチが全世帯に機械的に配布されたとすれば、それをきちんと身に着けるという保証はどこにもありません。この場合、研究の目的を説明して同意をとることは、ガラスバッチをきちんと装着するように周知することにもなるので、これがきちんと行われていれば「参加者はガラスバッチをきちんと身に着けて過ごしていました」と主張することができます。

 一方、同意が取れていないということは、ガラスバッチの必要性を理解していない住民がいたということを示唆しています。研究に必要だということを知らなければ、住民もガラスバッチをそこらへんに放置して終わり、ということにもなるでしょう。
 そうなれば、ガラスバッチを基にした放射能被曝のデータは実際よりもかなり過小評価されていると考えるべきでしょう。ガラスバッチが家に放置され、外出する時も身に着けられていなかったらそうなります。そのようなデータを基にして「被曝は大したことない」という結論を導いても信頼はできません。

 早野氏は論文の取り下げを
 ともあれ、この論文は倫理的な問題が大きく、早野氏はこの疑惑を払拭できない限り論文を取り下げるべきです。
 研究倫理を順守することは、実は研究者にとって大して利益があるわけではありません。面倒な申請書を出し、無駄に時間を待ち、立場によってはその申請書を読んで門外漢の研究について評価せねばならず……と、コストばかりが多く論文の生産それ自体にはさほど役立ちません。

 しかし一方で、参加者の権利を擁護し科学の発展を正当化するには欠かせないプロセスでもあります。これがなくなってしまえば、科学の発展を人々に受け入れてもらうこともできず、その発展の意義が失われます。

 このような重大な倫理的な問題をはらむ論文をそのままにしておけば、研究倫理を順守するのもばからしくなり、誰も守らなくなるでしょう。今後の科学の発展のためこそ、この論文は取り下げられてしかるべきです。

「橋下的なもの」=専門知の軽視はどこからやってくるのか

 1日に放送されたAbemaTV『NewsBAR橋下』「“橋下新党”立ち上げ!?スペシャル」で、東京都教育委員や公立小学校の教諭を務めた経験もある作家の乙武洋匡氏が教育問題について提言。「戦争に負けて復興していく中では同じことを効率的にこなしてくことが必要だった。だからベルトコンベア式に、なるべく同じように育てていくのが正解だった。でも、もうそんな時代は何十年前に終わっているし、"個性を伸ばそう"とさんざん言ってきたのに、実際に現場でやっていることはそんなに変わっていない」と指摘。さらに、自身が教員免許を取得した経験から、次のように問題提起した。
 「教員免許を取るためには、大学で相当な数の授業を取らなければいけない。その時点で、何かにのめり込んだり、旅に行きまくったような人たちは厳しいし、免許を取る人はめちゃくちゃ真面目な人ばかり。だから親や社会、先生が引いてきたレースの上を歩くような人しか教員になれない。そうすると、ちょっと既存の枠に収まりきらないような子に対して"あんた、そんなことじゃ将来大変だよと"と心配するあまり、違う方向に引っ張っていってしまう。でも、その先生が見えていない社会で貢献したり、輝いたりできる子がいるはず。そういう型破りな子を伸ばせる人材が必要だ。でも今はそういう人たちが入って来られないシステムになっている。そこでまず、教員免許に手を付けるべきだと考えた。全部廃止するということではなく、3分の2は今までどおりで、残りの3分の1は別の枠で、ということで良い。全く違う分野で働いていた人や外国に住んでいた人など、いろんなバックグラウンドを持った人が働くようになれば、現場は変わると思う」。
(中略)
 橋下氏は乙武氏の提案を受け「大いにありだ。今の教員免許が必要な技量を測っているものなのかを問い直すことが必要だ。加えて、そのための教育や試験の中身はどうなんだということを見なければいけない。たとえば英語の先生の免許だっておかしいと思う。"This is a pen"なんて、日常生活で絶対使わない。最低限、学ばなきゃいけないことは見えてきていると思うので、それ意外のことは選択制でいいと思う。だって元素記号やサイン・コサイン・タンジェント、どこで使うの?使ったためしがない。勉強のできる人たちは"そういうのも教養だ"というが、今はインターネットで色々なことは調べられる」と指摘。
 乙武洋匡氏「教育改革のためには教員免許の”廃止”を!」橋下氏「大いにありだ」-AmebaTIMES
 これの件です。
 元々、橋下徹元大阪府知事をはじめとする「大阪維新」の系譜というのは専門知を軽視するという姿勢が一貫しています。 実際に、大阪市は公募で民間から学校長を集め、その結果逮捕者、不祥事を続出という陰惨な結果となっていました。

 実際には乙武氏は「廃止」まで強いことは言っておらず、橋下氏もこの記事を読むだけでは「廃止」とは言っていません。ただ橋下氏の発言が「専門知の軽視」に根付いているものであることは、その発言内容から明白であろうと思います。
 これらの主張の是非に関しては、すでに教育の専門家も論じていることでしょうからそれはさておいて、私はもっと根本にある、専門知の軽視という「橋下的なもの」がどこからやってきたのかを論じてみようと思います。

 出発点は「田舎の親戚」にある?
 なぜ橋下的なもの、専門知の軽視が生まれるのでしょうか。日本の伝統工芸を守る職人たちは「スゴイ!」と褒めそやされているのだから、同じように専門的な仕事をしている専門家だって「スゴイ!」と言われてもよさそうなのに、そうなっていないのはなぜでしょうか。

 そもそも私がこのことを考え出した端緒は、正月恒例行事である田舎の親戚との集まりでした。田舎の親戚は当たり前のように昔の人間なので、私の仕事を説明しても1ミリくらいしか理解してくれません。「犯罪心理学とは?」という状態ですらなく、そもそも「心理学とは?」が理解されていない有様です。その場で懇切丁寧に説明しても半年後には0にリセットされている状態ですから、徒労感も半端ではない。
 というわけで親戚の中では私は「何やっているかわからない人」になっているのですが、この「何やっているのかわからない人」という状態は彼らの中でほとんど「仕事していない人」と同義になっているようです。せめて「大学の先生」だったらまだ違いそうなんですが、大学院生だとそうでもないので結局「仕事していない人」という、間違っていないけど限りなく誤りに近い認識が生まれるわけです。

 そういう経験から何となく予想していることなのですが、こういう人というのは「職業・仕事」として想定している範疇が極めて狭いのではなかろうかと思います。少なくとも大学の先生はあまり職業として認識されていないのでは。そう考えると、橋下的なものの過剰なまでの大学教員憎しは「フリーターが偉そうなことを!」みたいな反応なのかもしれません。「現場を知らない」ってやつですね。「現場を知らない」とみなされる職業は職業じゃない、というほどではなくとも、「半職業」くらいの認識なのでは。

 「進路教育」の弊害
 しかし上掲の議論では、昔の田舎の人という極めて狭い人たちの思考回路しか説明できていません。これは若者から労働者年齢の人たちが維新や橋下的なものを支持する理由にはならないでしょう。これらの年齢層の支持を説明するには、別の理論を考えねばなりません。

 さて、これも個人的な経験なのですが、こういう進路を選ぶと時折「就職から逃げた」かのような物言いをされることがあります。実際を言えば、大学院進学は別に逃げではありませんし、就職率を考えれば大卒で就職することこそむしろ安きに流れている、逃げているということすらできるでしょう。

 それはともかく、橋下的な専門知の軽視を支える大きな要因の1つとして「専門的職業へのやっかみ」のようなものがあると考えるのはさほど的外れではないでしょう。
 なぜこのようなやっかみが生じるのかといえば、これは小中学校で行われるような進路教育がおおむね「将来どんな仕事に就きたい?」という形式で将来の夢を尋ね、いまの好きなことを将来の職業にしようという方向へ誘導するような形式になっていることが遠因になっているからでしょう。
 いつかのYouTubeの広告のごとく「好きなことで生きていく」のは困難であり、また別にそうしなければならない理由もありません。サッカーが好きだからと言ってサッカー選手になる必要もなく「適当な仕事について休日に趣味でサッカーできる生活がいいな」だっていいはずです。しかし現状の進路教育はこのような形の生き方を想定せず、「サッカーが好き?じゃあ将来サッカー選手だよね夢はあきらめなければかなうよ!」くらいのことしか言いません。

 周りの環境の変化も拍車をかけているでしょう。現在はちょっと動画をアップしただけで有名人になったり、ちょっとネットで小説を発表しただけで小説家になったりと、簡単なことで特別な人になったように「見える」(実際はそうでもない)人が山ほどいます。このような状況では、特別な職業に就きたい、特別な人間になりたいという欲望ばかりが加速する結果となります。
 しかし人間というのは、突き詰めれば「その他大勢」でしかありません。ノーベル賞受賞者だって、見方を変えれば今までにいた幾人もの受賞者のone of themでしかないわけですから、そうではない我々は言うまでもありません。故に「その他大勢である私の価値」をいかに保持するかが大事であるはずなのですが、現状そのようなスキルを育てる教育はありません。

 もちろん、好きなことで生きていくというような「特別な職に就く」ことのできる特別な人間は限られており、ざっくり9割は夢をかなえられない「負け組」になることは必定です。もっと多いかもしれません。そして「その他大勢の私」に価値を見出せない彼らが取ることのできる手段は2つ。1つは不適応な方法で特別感を演出すること。もう1つが目立つ価値を否定することです。

 橋下的なものを支える過剰な現場主義と専門知の軽視は、それぞれこの手段と対応しています。つまり「自分は現場を知っている」という、それ自体はあまりにも些細であったり虚偽ですらある価値に縋りつくことで自分の価値を不適当な方法で持ち上げる一方で、専門知を「大したことがない」と貶めることでその落差を利用し自分自身の価値を高めようと試みるのです。

 実際には、橋下氏自身がこのような状態に陥っているというわけではないでしょう。TVで活躍し、地方自治体の首長にもなった人物が自分に価値を感じれないとすればあまりにも倒錯的ですから。なので橋下氏はわかってて市民を煽る扇動者であり、それはそれで厄介な存在ということになるのですが。

まず、あの問題は「不適切入試」ではなく「差別」入試だというところから始めよう

 東京医科大(東京)による不正入試問題で、同大は7日、今年と昨年の医学部入試で不利益を受けた追加合格対象者101人の中で入学を希望した49人について、44人(男子15人、女子29人)の追加合格を認める一方、定員を理由に5人(いずれも女子)の入学は認めないと発表した。受験生の支援団体は「希望者は全員合格させるべきだ」と反発している。
 東京医大、女子5人の入学認めず…支援団体反発-読売新聞
 北里大は10日、医学部一般入試の繰り上げ合格で補欠者に連絡する際、男子や現役生、1浪生を優先する不適切な取り扱いをしていたと発表した。文部科学省から4日付で指摘を受けた。
 大学によると、2018年度入試の繰り上げ合格で、成績順ではなく、男子らに優先的に電話連絡していた。文科省の指摘は男子の入学辞退が多かった18年度入試だけで「辞退者の埋め合わせのためだった。男女や現役、浪人の比率を決めて合格を出しているわけではない」と説明している。
 北里大、男子ら優先で合格連絡-共同通信
 大学医学部の不正入試問題を受けた文部科学省の緊急全国調査で、同省が岩手医科大など3校の入試を「不適切」と指摘していることが7日、関係者への取材で分かった。
 岩手医大では最終的に合格者を決定する段階で、不適切な事例があったという。
 関係者によると、同省は岩手医大のほか、金沢医科大と福岡大にも不適切な事案があったと指摘したという。3校は8日に記者会見を開いて説明するとみられる。
 岩手医大など入試「不適切」=文科省が指摘-時事通信社
 順天堂大(東京都)は10日、医学部入試をめぐって設置した第三者委員会から「合理的な理由なく、女子や浪人回数の多い受験生を不利に扱っていた」と指摘されたと公表した。特に面接などが行われる2次試験では「女子はコミュニケーション能力が高いため、補正する必要がある」として点数を一律に下げていた。大学によるとこの結果、2017、18年春の入試では計165人が不当に不合格となった。大学はこのうち、2次試験で不合格となった48人(うち女子47人)を追加合格にする方針という。
 第三者委の報告書によると、女子を不利に扱っていた理由を順大の教職員らに聞き取り調査をしたところ、(1)女子が男子よりも精神的な成熟が早く、受験時はコミュニケーション能力も高い傾向にあるが、入学後はその差が解消されるため補正を行う必要があった(2)医学部1年生全員が入る千葉県印西市のキャンパスの女子寮の収容人数が少ない――と説明があったという。
 順大入試、女子を一律に減点「コミュ力が高いため補正」-朝日新聞
 医学部の不正入試を巡る問題で、福岡大は8日に記者会見し、一般入試の2次選考とA方式推薦入試で、高校が作成した調査書の評価について、高校卒業後の年数によって減点していたと発表した。既に不正入試が判明している東京医科大や昭和大と同様に、受験回数によって浪人生を不利に扱っていた。2019年度入試以降、これらの措置は取りやめるという。
 福岡大「多浪生」ほど減点 高校調査書2浪以上0点 医大入試不正、地方に拡大-西日本新聞
 ※太字は引用者による。
 など、医学部の「差別」入試問題の話題です。問題が発覚した当初、ブログでは『東京医大の点数操作は厳正に調査・処罰すべき あるいは「試験一発勝負」という希望』という記事を書いていました。

 なぜ「不正」「不適切」入試というのか
 さて、様々な大学の問題に対する様々なメディアによる報道記事を引用しましたが、太字で強調したように「不正」「不適切」という文字が踊っています。
 確かに、多浪生や女子に対する取り扱いは「不正」「不適切」に違いありませんが、それ以前に「差別」であるはずです。しかし大多数の記事では「差別」であるという点はあまり重視されおらず、文科省や大学側が使ったであろう「不適切入試」というワードばかりが使われています。

 いうまでもなく、今回明らかになった数々の特定の受験生に対する取り扱いは、その根底に「差別」があります。このような取り扱いがなされた理由はこれまでもおそらく今後も出続けるでしょうが、そのすべてに正当な理由がありません。大学生を選考するのであればその基準は学力においてほかなく、それ以外の理由を選考に用いれば差別になります。

 尻ぬぐいもままならない医大の右往左往
 引用記事の1つ目で示したように、差別をしたはずの医大側がその対応を全うできない事態も起こっています。
 自身の差別が原因で招いた事態であれば、せめて責任をもってその収集に努めるべきです。不正の結果不合格になったというのであれば、つまりその不合格者よりも点数の低かった人たちは普通に入学しているわけで、定員を理由に再度不合格という結果はどう考えてもあり得ません。本来合格できる点数だったことを考えても、遡れる範囲の希望者には入学を認めるのは「最低限」必要なことでしょう。

 もう1つ気になっていたのは、文科省が行った医学部入試の調査結果の公表が随分遅かったという点です。大学入試を経験している人間なら多かれ少なかれわかっていることでしょうが、志望校の決定は早ければ早いほどよく、土壇場になればなるほど変更が効きにくいものです。
 もし仮に、11月や12月のタイミングで志望校に差別入試があったとなればどうでしょう。これまでずと差別を繰り返し、判明した後も意味不明な弁明に終始している始末ですから、判明した時点で是正するだろうと楽観的に考えられないのは当然です。明確な差別であるにもかかわらず認識出来ない人たちが運営していることも考えれば、判明した後も平然と手を変え品を変え差別を続ける可能性は残ります。そうでなくとも、どのみち今まで差別を続けてきた人の下で学ぶ気にはなれないでしょう。
 そうなれば志望校を変える必要がありますが、しかし直前に変えると教科や試験の傾向ががらりと変わることになり、それはそれでリスクがあります。

 受験生の利益を考えれば、差別入試を行った大学の公表は迅速に行うべきでした。もちろん、確定しないと公表しにくいといった事情はあったでしょうが、それなら疑いの段階であるなどと保留をつけて公表するといった手もありました。自身の入試が不正でないことを示す義務があるのはそれぞれの大学側ですし、受験生にはその情報を踏まえて志望校を選ぶ権利があるはずです。

 しいてこの話題でいいことがあるとすれば、来年のジェンダーギャップ順位がえらいことになりそうでもう一周回って楽しみってことくらいですかね。

カクヨムで『空想心理読本』の公開を始めました

 ということです。
 この話題は九段新報文化面で書くべきかなとも思ったのですが、あっちはあっちで『カクヨムで新作『車椅子探偵とデスゲームな高校生活』の公開を始めました』という似たような告知をしてますし、心理学の話題に近いのでこっちでと思いました。
 まぁあとは、カクヨムコン応募作品である『車椅子探偵とデスゲームな高校』のPRをこっちでもしたかったので、話題を割り振ったという姑息な策略でもあります。

 本作『空想心理学読本』は、とりあえず『空想科学読本』みたいなやつの心理学版だと思ってください。内容自体はそこらへんに生えている有象無象の心理学雑学本よりも妥当性にこだわりました。

 いまは『ゴールデンカムイ』を扱った第1話しか投稿されていませんが、予定では『名探偵コナン』『掟上今日子の備忘録』『メンタリスト』『美味しんぼ』『ジョジョの奇妙な冒険』などを扱う予定ですのでお楽しみに。

ファクトチェックのファクトチェック 「日本報道検証機構」は信頼に値するか

 「女子受験者を一律減点 東京医大、恣意的操作」ー 今朝の読売新聞が衝撃的なスクープを放った。女子であるという理由だけで減点とはいかがなものか、と反応したくなる。だが、待てよ。この報道を「事実」と鵜呑みにするのは早い。紙面上、事実と信じるに足るエビデンスは何も示されていないからだ。大学側も事実関係を認めるコメントは出していない(8月2日午後6時現在)。
(中略)
 もちろん「把握していない」というコメントは「そのような事実はない」という明確な否定とは異なる。だが、「そのような事実がある」と取材に対して証言した人物が、いったい何人いるのか。「女子一律減点」に直接関わった人物なのか、伝聞で知った人物なのか、その証言の裏付けとなる客観的証拠もあるのか、証言だけなのか。
 どこを読んでも、読者には、記事の信憑性を判断する手がかりが何ら与えられていない。この記事のリードには「大学の一般入試で性別を対象とした恣意的な操作が明らかになるのは極めて異例で、議論を呼びそうだ」と書かれている。裏を返せば、メディア(読売新聞)は、読者に記事の信憑性を判断する手がかりを与えずとも、これを事実として受け入れ議論してくれると考えている。そして、実際にその思惑どおりになっているのだ。
 東京医大「女子受験者を一律減点」報道 まだ鵜呑みにできない理由-ヤフーニュース
 これらの件です。
 すでにツイートで語ったように、このファクトチェックからは検証機構、および代表である楊井人文氏の姿勢がにじみ出ていると考えられます。

 なぜ今更、この話題で?
 ヤフーニュースにおける、楊井氏執筆記事を確認すると、直近の記事は昨年5月に書かれた『拉致問題「なぜ日本は直接言ってこないのか」 金正恩氏発言は事実か?』が最後であり、東京医大の記事は一年以上ぶりに書かれたものでした。また同機構の公式サイトを閲覧した限り、ほぼすべての検証は昨年秋までで止まっているようです。17年に立ち上げたとする新団体ファクトチェック・イニシアティブにおいても検証は同様であり、東京医大の件が久々の仕事です。

 しかしその「検証」は、引用部分を読めばわかるようにとても検証と表現するに堪えうるものではなく、せいぜいが「証拠がはっきり書かれていないからまだわからない」という程度のものでした。記事が書かれた時点では既に半ば自爆めいた「こんなの常識」という擁護も出そろっていたという状況です。
 活動をしていなかった一年間の間に、誤報が皆無だったとは考えられません。通常、人の行いには何らかの意図があると考えれば、なぜ、いま、この話題で、この程度の記事で再び書こうと思ったのでしょうか。

 検証機構は不偏不党ではない
 日本報道検証機構、などというワードを聞くと、いかにも中立っぽい立ち位置に立って検証をしているという印象を受けますが、実際にはそうではありません。一般論として、人はイデオロギー的に中立でいられないというのもありますが、それ以上に、楊井氏が元々産経新聞の記者であることが影響しているでしょう。当然の前提として産経新聞のイデオロギーに氏も親和的であるとするならば、わざわざ今回の件に関していちゃもんをつけたいと思ったのだろうと考えるのはいささか露悪的な解釈とはいえあり得ることでしょう。

 その氏の思想性を思わせるのが、公式サイトに掲示された「誤報レベル7」のリストです。機構では誤報の危険性をレベル0から6で表しているのですが、レベル7は「確実かつ深刻な誤報のうち、悪質性が際立っているもの」と、確率だけでなく深刻性の評価が含まれています。つまり、このレベル7だけは(レベル評価にあくまで氏のイニシアチブが強く取られていると仮定して)氏の比較的主観に近い評価が入り込む余地があり、どのようなニュースが「悪質性が際立っている」と評されるかで氏の内面にあるイデオロギーを推察することができます。
 で、レベル7に分類されているニュースは現在5つのみなのですが、その内訳をみると放射能関連が1件、オスプレイ関連2件、慰安婦関連1件、あとは中日新聞の『貧乏物語』に関するものが1件でした。中日新聞に関しては誤報指摘の隠ぺいを含むため、放射能関連に関しては誤報箇所が多数にわたるため悪質という評価はわかりますが、ほかの3件については少々その理由がわかりません。オスプレイ関連に関しては事故評価を「海兵隊が」引き上げたという主語が違うというもので、間違いには違いないが報道の大筋に影響があるかというと首をかしげざるを得ず、悪質といえるかは微妙に思えます。また慰安婦の記事に至っては「吉田証言の取り消し」であり、これを「韓国で大きな反響を呼び、長期間放置された大誤報」とするのはどこかで見たことのある姿勢といえるでしょう。

 ちなみに、レベル6を見てみると、「茨木のシールズを標榜していると誤報されたが謝罪も訂正もされていない」という市民団体の評価にかかわる記事や、福島県内のモニタリングポストが停止されているという市民の健康に関わる記事があり、これこそ悪質と呼べるのではないかと思うのですが、機構はそうは考えていないようです。

 なお、これはあくまで機構が活動を止めている期間の報道ですが、本ブログが過去に取り上げた例では、いずれも産経記事ですが、法務省の総合法務研究所の報告を思いっきり誤読した例(【新潟・岡山女児殺害】メーガン法は「誰の人権を守る」か以前の問題だ)、また正論というコラム欄での記述ですがカンジャール族に関する記述に誤りの疑いが濃厚な事例があり(『『正論』によるとリベラルはモテない男がなるものらしいぞ!』そう、例の睾丸の人です)これらは放置されています。また厳密にいえば誤報というわけではないのですが、沖縄における基地建設反対派が外国人で占められているかのように報じた事例(「逮捕者のうち4人は韓国籍」だったらどうした)、靖国神社のトイレを爆破した事件に外国人が関わっているかのように容疑者逮捕前から報じた事例((特定の)外国人排斥を煽る産経の靖国神社報道の異常さ)、相模原事件の犯人が生活保護受給者であると報じ関連があるかのように書いた事例があり(相模原の犯人が○○であることは事件と関係ないよ?)、人権の面から重大な問題がありますがこれに関しても沈黙を貫いています。

 自分のミスには甘い検証機構
  一方、他者の誤報に厳しい機構が自身の誤りにはいささか甘い面も見られています。
【追記】
 読売新聞は8月6日付朝刊の続報で、2次試験の小論文が「100点満点」だったという情報も明らかにした。この読売の続報を前提にすると、小論文の得点に男女一律「0.8」を掛ける操作により、最大20点の減点となる(例えば、得点が80点だった場合はマイナス16点で64点)。その後、現役と1、2浪の男子に20点、3浪の男子には10点をそれぞれ加点し、女子と4浪以上の男子は加点なしとする操作を行っていた、とされる(当初80点だった場合、現役~2浪の男子はプラス4点、3浪男子はマイナス6点、女子と4浪以上の男子はマイナス20点)。そうすると、最終的に男子は加点されるケースと減点されるケースの両方があり得るが、女子が加点されるケースはなく全員減点のままとなる。
 いずれにせよ、この続報を前提とすると、女子のみが減点対象になるわけではないが、女子は全員減点しか行われていないことに変わりなく、性差別の本質は変わらない。得点操作の段階が1次か2次かの違いはあるにせよ、操作の効果に着目すれば「女子の一律減点」という表現も間違いではないとの見方もできる。(2018/8/6 9:50)
 「女子の一律減点」はなかった? 読売が「3浪以下の男子に加点」と修正【追記あり】-ヤフーニュース
 結局は読売新聞の記事が大筋で正しかったという話なのですが、氏は追記というかたちでごまかし正面からの謝罪と訂正を避けています。「間違いではないとの見方もできる」どころかばっちり正しかったわけですが、そうとすら書けない「ファクトチェック」に信頼性はあるのでしょうか。


 ファクトチェックにすら眉に唾をつけて
 ここまで見てきた日本報道検証機構の仕事と姿勢を勘案すると、彼らの「ファクトチェック」なるものは大筋では間違っていないといえるものの、要所要所で無理のある、あるいは言葉尻をとらえたり報道が更新される過程を無視して誤報だと一方的に断定する場合があるといえるでしょう。このようなファクトチェックは、そのファクトチェック自体にある程度の留保をつけて読む必要があります。そもそも報道というのは多かれ少なかれそういうものですが、少なくとも全国三紙を読むときよりは慎重になる必要がありそうです。

 日本報道検証機構の信頼性を減じる最大の理由は、実際はそうではないのに不偏不党を装っているという点にあります。人間多かれ少なかれイデオロギー的に偏ることを考えれば、不偏不党を装われるよりは予めどういう思想を持っているかを明言された方が信頼できるというものです。
 そのため、やはりファクトチェックはこうした実績の薄い外部機関よりも、すでに活動して長い各社報道が相互監視と権力監視の意味を込めて行うべきでしょう。特に朝日のような左派新聞は同業者を批判するのは下品だと思っているのか、産経が言いたい放題という現状もありますが、報道全体の質の格上げのためには相互批判も重要な役割を負うでしょう。

 もう1つ、信頼性に影響している姿勢は機構が報道の検証をあくまで「あっているか、間違っているか」に拘泥しているという点が挙げられます。つまりさほど重要ではなさそうな部分でも「誤報だ!」と大騒ぎしてみたり、一方明らかに人権上重大と思える報道も明確な誤りがなければ無視というスタイルが貫かれており、今回の記事もその姿勢の一部といえるでしょう。
 誤った報道による被害を問題視するのであれば、単に外形上の正答不正答だけでなく、その報道そのものが与える影響も加味する必要があるはずです。例えば東京医大の件では、多少勇み足な面があったとしても、受験生の人権にかかわる問題であれば報じ、不正があるかどうかを明確に調査するべきであると考えられます。一方、公人ではない個人が関わる件はより注意深く検証し確証が取れてから報じるということも必要になるはずです。
 報道問題を論ずるのであれば、外形上の誤報にこだわらず大局を見据えて検証を進めていくべきでしょう。

東京医大の点数操作は厳正に調査・処罰すべき あるいは「試験一発勝負」という希望

 東京医科大(東京)が今年2月に行った医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話でわかった。女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていた。大学の一般入試で性別を対象とした恣意的な操作が明らかになるのは極めて異例で、議論を呼びそうだ。
 東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制-読売新聞
 この件で非常に怒っています。 昨今、頭にくることばかりですが、ここまでの事例はないと思います。

 本件は明確な性差別だ
 まず、すでに指摘されていることですが、改めて明らかにしておかなければいけないのは、本件が性差別であることは論を待たないということです。受験者に開示されていない条件において、性別を理由に著しい点数操作を加えることが差別でなければ何なのでしょうか。女性は医師になってもやめるから云々、というのはまったく理由になっていません。
 なぜ本件が性差別であるという自明の事実を強調するかというと、読売新聞の記事に見られるようにマスメディアの一部に本件を性差別だと明言することを避ける風潮が見られるからです。読売記事では見出しに「合格者数抑制」などという"中立"な表現を用い、記事中で「議論を呼びそうだ」などと不必要に濁す言葉を選んでいます。このような、男女平等をわざわざ男女共同参画と言い換えるがごときおためごかしが、本件の遠因になっていることは指摘されるべきでしょう。

 ほかの大学、学部も調査すべき
 本件を受けて、どのような対応がされるべきでしょうか。もちろん、不正を始めた年度から東京医大を受験していた女子受験生への追加合格や進転学のための費用の補填は最低限なされるべきでしょう。もしそれすらしないのであれば東京医大を大学として存続させるべきではありません。場合によっては被害者への精神的苦痛等々へ損害賠償ということにもなってくると思います。阪大などの採点ミスのように、業務上ある程度やむを得ず発生する失態による被害ではなく、完全に意図的に与えられた損害ですから。
 またほかの大学や学部においても、同様の事例がなかったかは調査されるべきです。特に同じ医学部やそれに連なる理系学部はその精神性においても同根である可能性が高いので丁寧に検証しなければなりません。一般的に女子学生が多い文系学部に関しても、「点数を操作してわざわざ男女半々にしている」という事例は十分に考えられるので油断すべきではありません。いったんこのような事例が登場し、しかも長年にわたって行われてきたことを考えると、受験生からの信頼を取り戻すためにも今年の受験に間に合わせるかたちで動くべきでしょう。

 試験一発勝負という希望
 本件に関連して考えてしまうのは、昨今の「試験一発勝負忌避」ともとれる教育政策界隈の迷走ぶりです。AO入試まではまだしも、センター試験に記述を加えてみたり、留学経験その他を加味するようにいじくってみたりと余計なことばかりしています。
 このような改革ごっこの背景には、試験一発勝負で大学が決まるのはミスをした人が可哀想という思考があるようです。つまり運不運に左右されずに、真に能力の高い人を選びたいということでしょうか。確かに、入試一発勝負ではある程度その場の運に左右される側面があることは否定できません。
 しかしその解消のために、やれボランティアだやれ部活動だのという学業と一切かかわりのない要素を加味しようとするのはいただけません。本来大学入試は学業を修めるのにふさわしい人間を選抜すべき試験であり、グローバル人材がどうのという話は企業にでも食わせておけばよいはずです。

 また試験一発勝負という仕組みをないがしろにするのは、受験生の希望を奪うことにもなります。
 試験の一点は誰にとっても公平です。裕福な家に生まれ留学経験豊富なボンボンでも、片親家庭だったり非行の経験があったりしても、一点は一点で、高い得点を得たものが合格するという仕組みは非常に公平です。恵まれない環境にあっても、一発の試験で高得点さえとれば金持ちを蹴落として大学に入れるというのは受験生にとってまさに希望であったはずです。
 現状、学力にも経済格差があり、全く平等とも言い難いのは事実ですが、少なくともそこそこ平等で生活環境といった学業にかかわりない要素が入り込む余地が少ないのは事実です。ここへ様々な経験を加味しますなどと言い出せば、ボランティアや留学に精を出す金銭的、時間的余裕のある富裕層ばかりが有利になり、勉強に注力するのが手一杯という貧困層は不利になる一方でしょう。そうなれば必然、得点では勝っていたのにもろもろの経験を加味されて負けたという状況が生まれ、貧困層がその社会階層から脱する機会を得る確率は著しく下がります。うがった見方をすれば、富裕層をあの手この手で優遇しようとする政府の一連の政策の延長線上に、これらの改革があると考えることもできるでしょう。

 話を東京医大に戻すと、この性別による点数操作は試験一発勝負という希望を打ち崩すものであり、同時に社会経験が加味されるようになった未来の受験の様相を予言するものであるといえるでしょう。
 記事中やその他の証言にあるように、普通に得点で取ると女子受験生が圧倒的に多くなるようです。その背景には、単に女子の方が学力が高いというよりも、女子は確実な合格を必要としたり挑戦的な受験を男子に比べて抑制されるという背景があり、その結果安全に合格できる大学を求め男子よりもレベルの高い受験生が集まるというような現象があるのではないかと推測しています。
 すでに多くの指摘があるように、女子高校生は男子に比べそもそも理系への進学を否定的に受け取られることが多く、また遠方への進学も否定的にみられるというバイアスがあります。そのような困難を乗り越えて受験までこぎつけても、公平であると思っていた入試で最悪の性差別に晒されるとなれば、誰も医者など目指さなくなるでしょう。

誰かさんに小説をボロクソに言われた話(再構成版)

 このブログは犯罪学ブログであってそれに関係のないことはあまり書かない……わけでもないんですが、創作関係のことはあまり書かないでいました。私の利用しているカクヨムには近況ノートという仕組みがありますし、これで棲み分けできるからです。
 しかし今日、カクヨムの運営からノートの内容が不適切であると断定され一方的に削除されてしまいました。その辺の事情は私が直後に運営へ送った要望でおおむね説明されています。
 本日不適切な利用という名目で近況ノートの記事を削除されました。しかし記事の内容は他者の小説への評価への反論でありカクヨムのガイドラインが不適切な利用として例示している「誹謗中傷」、「メールアドレスなど連絡先の記載」、「小説の執筆活動と関係のない営業、宣伝、勧誘、募集行為」、「相互評価の打診など、読者へ不当な評価を要望する内容」、「不適切なリンク先」、「他ユーザーの近況ノートで、過剰に自作を宣伝する行為」のいずれにも当てはまらないものであると考えています。一方的に消去するのであれば具体的にどの部分がどのように違反しているのかを明示ししていただきたいです。これではこちらで再発防止策を講ずることもままなりません。
 また一方的に近況ノートの記事を削除され、内容を確認できない状態に追い込まれましたが、近況ノートとはいえそこに書かれた内容といただいたコメント(特に応援の意図があるもの)は作者にとって重要な意味のある記録です。これを一切確認できないような措置を取られるのは作品そのものを削除されるのと似たような衝撃を生ずるものです。一方的にノートを不適切であると断ずるのであればせめて記事を非公開とし記事そのものを残すという措置を講ずることで記録としては作者に残るようにしていただきたいです。記事が不要だと判断すればこちらで削除すればよいことです。
 以上、ご検討をよろしくお願いします。
 近況ノートにそもそも非公開というシステムがないというせいでもあるのでしょうが、この対応はどうなのかなという気がします。
 さて、ここで別に枕に涙を濡らして終わりにしてもいいのですが、削除された近況ノートは内容が内容ので削除されたままで引き下がるわけにはいきません。また近況ノートに書いたらアカウント利用停止などもあり得るということでやむを得ずこちらのブログに同様の内容を再構成して記事とすることにしました。

 元々の内容
 さて元々の近況ノートの内容というのは、あくる日に三沢文也を名乗る誰かさんに私が書いた小説『ギャンブル学園 確定少年と薄幸少女』をボロクソに言われたことに対する反応です。なお氏はブログで飯を食っているらしく、私が趣味で書いて無償で公開している小説をその飯のタネにされるのはシンプルに不愉快なので当該ブログへのリンクは張りません。時間をどぶに捨てたい各人は調べたらいいんじゃないでしょうか。
 氏の評は「驚くほど文章の下手な人がいる」という一文から始まります。まぁ氏が引っ張り出している冒頭シーンは個人的にもあまりうまくいっているとは思っていませんでしたし、文章表現に関して敵対的な人間と議論を深めようとすると泥沼に陥るのが関の山なのでこれは置いておきましょう。しかし氏のブログの記載に関しては4点(近況ノートのときに+1)このまま放置でない、反論しなければならない点があります。

 1.別に「選ばれないのはおかしい」なんて言ってない
 どうも氏は文章表現に自信ニキらしいのですが(ブログの添削で飯を食ってるらしいですよ!)、読解力には問題があるようです。私の近況ノート『MJ文庫ライトノベル新人賞の結果が返ってきた』を読んで「自分の小説が選ばれないのはおかしいと言っている!」と解釈したようなのですが、本文を読むとわかるようにそんなことは一言も言っていません。リアリティに関する言及において「えーでもなぁ」程度の愚痴を言っているにすぎません。

 2.拙い作品を新人賞に出していけないのか
 氏のブログでは私が本作を新人賞に出したこともボロクソに書いていますが、そんなことを言われる筋合いもありません。私の創作に関するスタンスは、評価を得られる機会があるならとりあえずぶち込めなので本作に拙い点があったとしても新人賞に送ることに別に問題があるようには思えません。こちらとしてはノーリスクですし。
 作品の完成度は自身による推敲で上げていくことができますが、しかし個人で行う分には限度があり結局は他人の目が必要です。また完璧に固執すれば結局完成には到達できないでしょう。

 3.受験国語の読解力と創作能力は別物
 氏は私が塾講師として国語を教えていることにもぶつくさ文句をつけてきています。あまり頻繁にアピールしているわけではない情報を偶然友達に教えられた小説を読んでいる体の氏が知っているのはシンプルにキモイんですが、それはさておくとしてもこの指摘は氏が読解力に関してまともな定見を持っていないことの証左でまぁ余計な部分でしたね。氏としては叩ける要素は全部入れちまえくらいの感覚だったかもしれませんけど。
 言うまでもないことですが読む能力と書く能力は大きく異なるものです。それは文章表現に自信ニキであるはずの氏が前後で指摘しているようにシンプルな誤読(おそらく文章の解釈が余談に引きずられるという初歩的なミス)を犯していることからもわかります。
 とりわけ受験国語に求められる能力はさほど小難しいものでもなく、しかし知らなければ出来ないという類のものなので私が教えているというわけです。仮に国語の試験の点数がいい人が全員文学的な文章が上手に書けるならどんな文化レベルだよここは古代ギリシャかという話にもなります。

 4.自分の作品に自信があっちゃ悪いのか(追加分)
 氏はブログでもTwitterでも私がこの作品に自信を持っていてそれが悪いかのように書いています。実際は私がこの作品に自信を示していると明確にわかる文章などどこにもないので完全な誤読なのですけど。しいて言うならあとがきに書いた「数多の反省点を残しつつ、初めてにしてはまぁ形になったほうなのではないかと自画自賛しています」という部分がそうとられる可能性のあるところですが、これが自信満々であると解釈できるのであればやはり氏は文章批評に最低限必要な読解力に欠いていると言わざるを得ません。
 私としては別段この作品に自信を抱いているわけではありませんが、不必要に卑屈にならないようにしています。どれだけこの作品が拙かろうとこの作品を評価してくれる人が一人でもいて、通読してくれた人が一人でもいるならば自分でその作品を否定するのはそれらの人々に失礼だろうと思うからです。悪い点は修正していきますが、別に卑屈になる必要はないでしょう。
 また仮に彼らの言う通り、私がこの作品へ自信を持っていたとしてだからそれがどうしたのだろうという話です。自分が時間を削って書いた作品なのだからそれなりに思い入れもあるでしょうし、自信があることそれ自体は悪いことではない、少なくとも他人にとやかく言われるような話ではありません。

 さて、これは近況ノートが削除される前にコメントで教えられたことですが、三沢文也なる人物ははてなブログで活動していたころから結構敵を作っていたらしいのです。今やせっかく教えられた当該エントリのURLも消失してしまい、ブクマでもすればよかったかなと思っているところですが。そのエントリによると人気のあったブロガーとブログの文章勝負をしてぼろ負けした挙句に延々言い訳したり、人の小説にケチをつけている割には自分の書いた小説がそれ以上にヘボかったりと話題に事欠かない人物であるようです。まあでも、そんな人物でもいまや文章表現に自信ニキとなりブログで飯を食うレベルになっているのでその点は勇気をもらえる話ですね。
 皮肉ですよもちろん。

プリキュア最新作のモチーフが「子育て」なのはさすがにやばくないか


 この件です。 
 プリキュアは見ていないのでつまびらかには知らないのですが、どうなるのでしょうか。

 児童労働礼賛?
 まずこの問題を考える背景として、女児の児童労働としてベビーシッターがかなり典型的にみられるという話をおさえておきましょう。もっともこの場合、児童労働の一般的なイメージであるところの「炭鉱で石を掘っている」とか「工場で服を作っている」みたいな賃労働というよりも、家で小さな兄弟姉妹の面倒を見ているといったように家事労働を担う無償の労働力として利用されている場合が多いのですが。途上国で女児が学校へ通う割合が少ないのはこのような背景があったりするからです。
 これも見ていないのではっきりしたことは言えないのですが、昨年の(今もやってるのかな?)プリキュアもパティシエで働いている描写がありました。確か中学生の勤労なのでこれも児童労働に該当するっちゃぁするのですが、パティシエという職業は児童労働のイメージがほとんどないので非現実性のほうが強くさほど問題にならないでしょう。
 しかし子育てというと話が違ってきます。前述のように子育ては女児の児童労働としてかなりポピュラーであり、どうしてもその色が出てしまいます。また家事や育児を子供が担わされるというシチュエーション自体はパティシエで働くということよりは現代日本でもあり得るものであり、視聴者である女児にダイレクトな影響を与えかねません。

 女の子なら子育てをしないといけないのか

 このような反応も見かけましたが、その通りであろうと思います。
 仮面ライダーでは主人公の職業は警官や医師、科学者から寺の住職まで多種多様でした。一方のプリキュアのモチーフといえば近年はずっと「お菓子!お歌!かわいい!」くらいの範囲で収まっている印象です。まぁ仮面ライダーと違って年齢が低いのでどうしても職業的なモチーフは薄くなりがちですが。
 元来、プリキュアシリーズの初めは「女の子だって暴れたい」というコンセプトがあったはずで、アクションシーンにかなり力が入っていたというのが未視聴者の私にも知られるくらいには有名でした。しかし今やその傾向はなりを納めすっかりかわいい路線に集約されてしまったというのはなかなか興味深い現象に思えます。
 それはさておくにせよ、女児の大半が見るといっても過言ではないアニメで描かれる価値観というのは、それ自体が視聴者にとって大きな意味を持ちます。あえて単純化すればテレビでプリキュアが肯定する価値はいいもので、否定するものは悪いものという図式が成り立つでしょう。視聴者はその全てを受け入れるわけではありませんが、子供の身でテレビの誘導する価値観に抗うのは困難を極めます。
 そのような背景がある中で、子供に「女性(女児)の子育て」を礼賛するようなストーリーを映し出すことにどのような意味があるでしょうか。日本は現状、子育てをしにくい国としてはトップランカーです。犯罪の分野に限ってみても、乳児を遺棄した事件でその責任を問われるのは母親であり、彼女と同程度には責任を負っているはずの父親の責任は意識的にも非意識的にも免責されているのが現状です。また過去の記事『埼玉ベビーシッター事件に思う』『産経は「新聞」の看板を降ろすべき』で書いたように、ベビーシッターが子供を虐待したらその責任を母親へ求める人間が国会議員にもわらわら出てくる国なのです、ここは。そのような背景のある中で女性の子育てを礼賛するアニメを流すことにどのような意味があるのでしょうか。


 公平な視点を持つならば、上掲のように世間一般の常識を打ち破る視点をプリキュアが提供する可能性はあるのでしょう。しかし現状、私はそれを期待できるほど楽観的にはなれません。

日本人の読解力がないのは現代文の試験問題の文章が悪いせいだという戯言を本気で考えてみる

 新橋です。最近のバイトは塾講師です。
 さて、仕事柄あまり大きな声で言えないことではあるのですが、塾に来る子供たちの読解力というのは時に凄まじいものがあります。具体的に説明しにくいのですが、「いやこれは簡単だろう」と思った問題をほいほいと落としていきます。
 高校入試くらい問題が難しくなってくると解説のしようもあるのですが、中学の国語だと「まぁ、普通に考えればこれだよね」としか言いようがないことも多いので説明に難儀します。小学校にいたっては文章が簡単すぎるゆえに多義的な解釈を許しまくるので悲惨なもんです。
 一般的にセンター入試現代文の平均点は6割程度らしいです。裏を返せばあんなロジカルな入試問題をみんなは4割も落とす、それ以上に落とす人も相当数いるということでもありこれは非常に恐ろしいことです。例えば私が日々せっせと書いているこの文章も大半の人には半分ちょっとしか伝わっていないということになるのです。読み落とされた4割が些末な部分であればまだしも、その部分を読めなかったせいでYESとNOがひっくり返って理解される場合もあるのです。そのような事例はTwitterでわんさか見ますね。
 なぜこのような悲劇的な状況であるのか。私はその一因が現代文教育で利用される問題文の劣悪さにあるのではないかと思い始めています。なので今回はこの点をちょっと考えてみようと思うのです。
 なおアリバイ的に申しておけば、私が入試を受けたときは現代文の点数は100点満点中92点でした。小説の最後の問題を落としました。受験業界では大問1をノーミスで通過するのが定石ですので。

 現代文は何を求めているか
 その前に、入試における現代文が何を求めているかをはっきりさせておきましょう。
 現代文の問題が求めているのは「書いてあることを書いてあるように読む」ことです。よく現代文は答えが書いてあるといわれますが、まさに書いてあることを読めば解けるようにできているのです。
 なぜこのような設計になっているかといえば、1つは大学教育上の要請でしょう。テキストに書いてある内容を十分に理解できる人間でなければ大学教育にはついてこれません。もう1つは入試上の都合でしょう。独創的な読みを求めればその模範解答に文句が出ます。私立の入試ならまだしも、60万が受験するセンター試験でそのような事態になれば入試が成立しません。書いてあることを書いてあるように読む入試であれば答えはおのずと明白であり、そのため文句も出ないというわけです。
 書いてあることを書いてあるように読むというのは、言い換えれば文中からその選択肢が正解である根拠、あるいは不正解である根拠を見つけるということでもあります。文章に書いてあるからこれが正解、書いてないからこれは不正解と判別できれば解ける問題こそが入試として出題されるのです。

 現代文のドリルは悪文だらけ
 このようなことを念頭において、問題集などに登場する文章を読むとそのでたらめな記述に驚くことでしょう。上述のように現代文の問題はいかにその解答の根拠を見つけるかという点に重きを置いています。根拠を見つけ主張するという一連の流れこそが求められているはずなのです。
 しかし現代文の問題集に出てくるような文章は、その一連の流れをぶっ飛ばしてしまっている場合が多々あります。根拠もなく「日本人はこれこれこういう民族だ……」などと語ってみたり、「最近の若者にはこういう傾向がある……」と言ってみたり。質の悪いことに現代文で重宝される著者の著作にはこのような雑な論理展開の文章が豊富にあります。
 教科書や問題集に登場する文章というのは、生徒にとって正しいものとして受容されます。問題集に出てくるのだから変な文章ではないだろうという権威主義的な判断が働くのです。そのように判断される文章が根拠レスで主張を垂れ流すという営みを繰り返していれば、主張というのはつまりそのようにして作るべきなのだと誤認されるのは必然でしょう。

 小学生用のドリルはもっと酷い
 小学生に向けて作られたドリルはさらに酷いものがあります。小学生向けなので文章の内容は少なく、そのため「この時のこの人の気持ちを答えろ」と言われても考えようがありすぎて答えられないのです。また答えも本当に答えが書いてあるだけで、これでは誤答をした児童がなぜ自分の解答が誤りで答えの解答が正答なのか判断できません。

 「読解に間違いはない」なんて嘘
 小学校の頃の国語の授業を思い返せば、「読んだ感想は人それぞれでみんないい」みたいなノリでした。しかし間違っている読解というのは確実にあるのです。書いてあることを書いてあるように読む、論理的に読むということを徹底しなければ「行間を読む」などということは到底不可能で、コミュニケーションに必要な最低限の読解力すら養成できません。

犯罪心理学とミステリー 『犯罪心理捜査官セバスチャン』感想に添えて

 少し間が空いてしまったのですが、上掲の欲しいものリストにあげていて、実際に送っていただいた『犯罪心理捜査官セバスチャン』を読み終わりました。前に「犯罪や心理学に関連する本を送ってもらった場合には必ずレビューする」といった一方、フィクションがそれに該当するのか悩ましいところでした。しかしせっかく頂いた本を読んで何もなしは寂しいし、一度はまとめておきたいトピックだったこともあるので、今回は犯罪心理学とフィクション、とりわけミステリーに関して徒然と書いていきたいと思います。

 M・ヨート&H・ローセンフェルト (2014). 犯罪心理捜査官セバスチャン 東京創元社
 まずはこちらの感想を。
 本作はスウェーデンで奇妙な死体が発見されたことに端を発します。その死体からは心臓が持ち去られていたのでした。死体発見に至るまでの担当刑事のへまもあり、これ以上の失点をしたくない地元の刑事部長は国際刑事警察の専門チームを呼び寄せます。
 こうして主人公のセバスチャンが現地入り……というのが普通の流れですが、本作は違います。セバスチャンはかつてはチームの一員でしたが、今は引退しふらふらするばかりのアルコール依存症&セックス依存症患者。彼は事件は一切関係なく、母親の死後の遺産整理のために現地を訪れます。そして実家で自分に未知の子供がいるかもしれないという情報を手に入れ、その捜査のためにチームを利用しようと近づくのです。
 これは北欧ミステリのお決まりらしいのですが、この小説はとにかく人間関係に問題を抱えすぎています。その程度には松本清張も仰天するでしょう。先述のようにセバスチャンはセックス依存症なので事件の関係者とも平気で寝る、チームのリーダーとNo2は不倫する、もう1人も父親がガンでてんやわんやとお前ら事件解決どころの騒ぎではないだろうという状態です。唯一安定しているビリー君が本作での良心になりますが、この分だと次回作はどうなっているのやら。
 事件は捜査を進めるごとに謎を深め、下巻のラスト3分の1では真相があちらへこちらへと転げまわります。長い溜めによって爆発するどんでん返しの奔流は見もので、これだけこんがらがらった人間模様だから可能な着地点へとたどり着きます。

 ミステリでは心理学はどう描かれてきたか
 そして本題。本作の主人公セバスチャンは心理捜査官という肩書で動きます。が、別段技術的に心理学でどうするというシーンは少なく、多くの場合洞察の補強に心理学を使うということが多いです。
 これはセバスチャンが特別というわけでもないでしょう。確かに彼は下巻の後半になってようやく探偵役らしい働きをしますが、そうでなくともミステリに登場する「心理学者」というのは大半の場合精神分析家であり、エビデンスベースドな行動主義者という科学者然とした人物はあまりいない印象です。
 私は別に心理学者の登場する作品を網羅しているわけではありませんが(登場する作品を知っているならぜひ教えてほしいくらいですが)、例をあげるなら臨床心理学者によって書かれた『臨床心理医アレックス・デラウェアシリーズ』がまず思い起こされます。この作品の主人公アレックスの専門分野は精神分析や催眠療法であり、初期の作品は古いこともあって精神分析の視点が色濃く見られます。
 また『羊たちの沈黙』に代表されるようにFBIのプロファイラーが登場する作品も同様の傾向があります。FBI式のプロファイルが分析官の洞察と経験を頼みにしている以上、当然の傾向でしょう。
 日本の作品へ目を向けてみれば、ドラマ作品として北川景子主演の日テレ『LADY〜最後の犯罪プロファイル〜』、松下奈緒主演で藤木直人が犯罪心理学者を演じたフジテレビ『CONTROL〜犯罪心理捜査〜』、船越英一郎主演の『ホンボシ〜心理特捜事件簿〜』が挙げられます。ちなみに『LADY』のプロファイル監修は関西国際大の桐生正幸氏、『CONTROL』の心理学監修は法政大の越智啓太氏であり、『CONTROL』のED映像では藤木演じる南雲が顔に被せている本が越智氏の編著『朝倉心理学講座 犯罪心理学』という小ネタ付きです。青いカバーですぐにわかりました。
 『ホンボシ』は見ていないので評価しがたいものがありますが、『LADY』はFBI方式に近いプロファイリングを描いていました(統計的なプロファイリングをするメンバーも出ていましたが)。一方『CONTROL』はそもそも犯罪心理学ではない普通の心理学も多く登場し、正直犯罪心理学ドラマという色は薄かったように思えます。ちなみに『犯罪臨床学者 火村英生の推理』も観ていませんが、十中八九関係ないと思います。作者の有栖川有栖は本格ミステリが専門らしいですし。
 以上の作品の傾向を踏まえると、犯罪心理学がミステリに登場する場合は精神分析チックな側面を強調されるか、日本においてはさもなくばハウツー本みたいなレベルの心理学知識で終わる場合が多いことがわかります。

 アラフォー刑事と犯罪学者
 ここから先は半ば手前味噌なのですが、そういう犯罪心理学の描かれ方に私は不満を抱いていました。『セバスチャンシリーズ』や『アレックスシリーズ』のように深みのある描写から繰り出される精神分析を交えた主人公の洞察も確かに読んでいて面白みがありますが、しかし犯罪学というのはそれだけではないはずです。むしろ今や、科学としての犯罪学が主流であり、犯罪捜査にも取り入れられている以上フィクションでもその辺を掘り下げ、読者に興味をもって貰おうとしてもいいのではないかと思います。
 そこで、ないなら自分で書いちまえとばかりに作り上げたのが拙作『アラフォー刑事と犯罪学者』でした。第1話『地上の星』では統計的なプロファイリングを、第2話『左側の死体』では見えているはずなのに見えていないという不可解な目撃証言を認知心理学の視点から暴きます。まぁ第2話は全然犯罪心理学じゃないんですけど。
 今は別の作品にかかりきりですが、新しい話のアイデアもあります。しかし書いてみるとやはり、こういうエビデンスベースドの犯罪心理学をメインに据えるのはなかなか難しいこともわかります。小説にして面白い知見というのは存外少ないものです。精神分析ならいろいろこねくり回していくらでも話を作れそうなんですけどね。
 その辺はマイペースに頑張りますが。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家、動画投稿者。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』ニコニコ動画『えーき様の3分犯罪解説』犯罪学ブログ『九段新報』など。TRPGシナリオなどにも手を出す。
E-mailアドレス
kudan9newbridge@gmail.com
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