九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

雑記

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詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

三浦瑠麗プレゼンツの価値観診断テストがツッコミどころ有りすぎる:二次元プロット編


 これです。
 この診断を作成した山猫総合研究所の代表を務めている三浦瑠麗氏は、数々の差別発言で著名な御仁です。韓国人や在日コリアンをスパイ・テロリスト扱いしたスリーパーセル発言が著名ですね(『度重なる在日コリアンへのヘイトクライムに政府は対処すべき』参照)。

 ほかにも、本ブログでは時折氏の寄稿を取り上げて批判を加えています(『【記事評・上】「家族という病」を治す<七人の提言>(文藝春秋2019年8月号)』『保守論壇はなぜ、性犯罪判決批判のときに突如として正気に戻ったのか』参照)。

 国際政治学者を名乗っていますが、サイニーで検索してもその分野での業績が一切出てきません。まぁ、そういうことでしょう。

 二次元に配置すればいいってわけじゃないぞ
 さて、この診断テストは個々の項目にもツッコミどころが多いのですが、最大のポイントは二次元プロットの左右に配置されたネーミングです。
スクリーンショット (78)

 例えば、右側のプロットは上と右が「リアリズム」となっています。それに対置されているのが「リベラル」と「ポピュリズム」です。
 二次元のプロットである以上、対置される概念は一定以上「相互排他」である必要があります。この図で言えば、例えば縦軸の「リアリズム」と「リベラル」は両立しえないことが前提となっています。

 しかし、「リアリズム」と「リベラル」は本当に相互排他なのでしょうか。
 というか、そもそも、ここでいう「リアリズム」とは何なのでしょうか。

 内部の処理が明確ではないので推測を含みますが、私は「リベラル」かつ「ポピュリズム」的だという判定を下されているので、その逆だとみなせばいいはずです。

 つまり、経済に関して言えば、所得税の増税に反対で法人税の減税に賛成、株価上昇と公共事業拡大万歳な人が「リアリズム」ということになります。
 外交安保に関しては日米安保を強化すべきで防衛予算を増やすべき、中国は領土的野心を持っていて韓国とは歴史問題で妥協すべきではないというのが「リアリズム」です。

 しかし、それは本当に「リアリズム」なのでしょうか。単に自民党的価値観に賛同することを「リアリズム」と命名しているだけではないでしょうか。このテストには「核兵器保有」の是非を尋ねる項目もありますが、これを肯定するとおそらく「リアリズム」に傾きます。本当か?

 ここでいう「リアリズム」とはなんなのか
 国際関係における現実主義は、世界は無政府状態であるという考えを基礎に置き、国際関係の行為主体は国家以外になく、無政府世界における国家の至上目標は生き残りであるために安全保障が最優先となり、そのためにパワーが用いられ、国際的な様々な事象が発生する、という考え方である。あらゆる価値観を排除して国際関係を客観的に分析しようとする点に特徴があり、国際協調や国際法を重視する理想主義に対して批判的である。軍事力や国益を重視するが、好戦的であることを意味しない。
 現実主義-Wikipedia
 Wikipediaによれば、国際政治におけるリアリズムは上のように説明されます。通俗的に言えば性悪説ということでしょうか。しかし、この定義では、経済に対して「リアリズム」の語を使う理路が説明できません。

 安保外交分野での項目は、おおむね国際政治学における現実主義をなぞっているように見えます。とはいえ、隣国との友好関係や外交関係を一切合切無視するという考え方というわけでもないでしょう。外交が保有する戦艦とミサイルの数だけで決まるという想定は明らかに非現実的ですから、近隣諸国と友好関係を築くことまで現実主義に反するという考え方は妙です。

 そもそも、この「リアリズム」が国際政治学における現実主義であるならば、その反対に来るべきなのは「リベラル」ではなく、学術的な対義語の理想主義であるべきです。

 また、リベラルは多義的な用法を含む言葉ですが、辞書的には自由主義と定義できるでしょう。自由主義が現実主義と相互排他的だという結論も考えにくいものがあります。軍備を拡大するには「自由」であるほうが好都合でしょう。ゆえに、ここでいう「リアリズム」は国際政治学における現実主義と似て非なるものだと理解するほうが妥当だと思われます。

 では、ここでいう「リアリズム」は何なのでしょうか。考える手掛かりは「どう答えたらリアリズムになるのか」という点にあります。先ほど見たように、「リアリズム」となる回答はおおむね「自民党的価値観」に沿った、経済的には新自由主義、外交的にはタカ派の軍事力拡張路線を指しています。

 自民党的価値観を「リアリズム」と命名する意味
 素直に考えれば、このプロットで「リアリズム」となっている部分を、経済ではネオリベや小さな政府、外交では現実主義やタカ派と命名すれば済む話です。なぜわざわざ、誤った用法で「リアリズム」と命名する必要があったのでしょうか。

 おそらくここには、2つの前提が隠れています。
 1つは、ここでいう「リアリズム」が、現実を「正しく」認識し、感情といった余計なものに惑わされずに「正しい」判断を下すことが出来る態度であるという前提です。ポイントは、「リアリズム」という用語が単なる態度をネーミングを超越し、現実認識とそこから導かれる判断において「正しい」という前提を自明視しているという点です。

 このような用法は、少しでもネットで「リアリスト」を名乗っている人たちの振る舞いを調べれば自明のものでしょう。

 もう1つの前提は、現在の自民党の考え方こそ「正しい」もの=「リアリズム」であるという考え方です。これは「リアリズム」の対比として「リベラル」を持ち出し、それを「ポピュリズム」と同じ枠で扱っていることからわかります。

 ポピュリズムは「大衆に迎合して人気を煽る政治手法」を指します。これもまた、本来はここで「経済リアリズム」とされる考え方と相互排他的ではない概念です。市民の多くが法人税増税を望んでいるときにそれを煽って推し進めることはまさしくポピュリズム「でもある」というべきです。
 そもそも、ポピュリズムの定義からして、何がポピュリズムに当たるかはそのときの市民の態度によるので、どのようなイデオロギーとも相互排他ではないというべきです。

 また、ここで「経済リアリズム」とされているものは、市場主義を推し進める考え方ですから、「経済(ネオ)リベラリズム」とでも呼称するほうが妥当なものです。にもかかわらず、この判定テストは総じて、「リアリズム」と「リベラル」や「ポピュリズム」を対応させています。

 最初の前提で、「リアリズム」は『余計なものに惑わされずに「正しい」判断を下すことが出来る態度』であると指摘しました。つまり、「リアリズム」と逆にある「ポピュリズム」や「リベラル」はそれとは対照的に、余計なものに惑わされて誤った判断を下す態度であると理解されていると考えるべきです。

 この考え方は、大衆迎合を「余計なもの」とみなせばポピュリズムについては間違っていません。しかし、リベラルに関しては妥当とは言えません。もちろんリベラルも余計なものに惑わされることはありますが、常ではありません。

 しかし、このテストを作った三浦氏をはじめとする自民支持者、極右論壇はそうは考えていません。それはリベラルに時折投げかけられる「人権派」という呼称が物語っています。近代社会において人権を考慮することは当然のことなのですが、彼らにとっては「余計なもの」なので、それを考慮すること自体が嘲笑の対象となるのです。

 こういうロジックで、リベラル=余計なもの(人権)に惑わされる=ポピュリズムという構図が出来上がります。そして、リベラルの反対にいる自分たちは余計なものに惑わされない=リアリズム=正しくてよいものとみなすのです。

 この診断テストの命名には、このような、おそらく三浦氏自身も深く考えていないであろう、非意識的な認識の偏りが存在しています。

 自民党的価値観は「リアリズム」か?
 ここまでで、このテストにおける「リアリズム」を『現実を「正しく」認識し、感情といった余計なものに惑わされずに「正しい」判断を下すことが出来る態度』であると指摘しました。
 このテストを作った人たちが、自民党的価値観を「リアリズム」であるとみなしていることは明白です。

 しかしながら、本当にそれは正しいのかという疑問が生じます。

 というのも、先ほども指摘したように、このテストには「日本は将来的に、核保有を目指すべきだ」が含まれているからです。本来爆発する設計ではない原発すら爆発させた政府が、しかるべきところでとはいえ爆発する核兵器の保有を目指すというのは、本当に「正しい認識」で「正しい判断」なのでしょうか?

 IH調理器具で火事を起こした人間がガスバーナーの所有を考えているときに、それを「正しい」とみなす人間はいないでしょう。

 また、そもそも「正しさ」というのはそれぞれの前提で異なってくることも忘れてはいけません。
 例えば、このテストには「これ以上高額所得者の所得税の税率を上げるべきではない」という項目がありますが、自分が大金持ちならばこれに賛成するのはまぁ正しいということになりましょう。しかし、自分が貧乏で貧弱な社会保障に苦しんでいるときに賛成するのは、妥当とは到底言えそうにもありません。

 ここで前提となっているのは「正しさ」ですが、それすらあまりにもナイーブで、首をかしげたくなるような精度です。政治学者の仕事とは思えません。

 思いのほか長くなってしまったので、次回で尺度としての不備を突いておこうと思います。

「政府の裏事情」を市民が気に掛ける理由はこれっぽっちもない

 新型コロナウイルス対策について、政府は無能をさらし続けています。
 このような状況になると、どこからともなく「政府の真意を説明してあげなくちゃ」「政府の事情が分かっていない人がいる!」というお節介もといアホが現れます。いつもいますが、こういう時にはさらに出現率が増しますね。
 こんなのです。

 ちなみに、この黒瀬深なる人物は、焼夷弾で親族を亡くした高齢者だったのにいつの間にか20代の若者に転生した筋金入りのネトウヨデマアカウントです。

 「真意」は政府が説明すること
 しかしながら、このように市民が自ら「政府の真意」なるものを考えてやる必要はそもそもありません。
 自らが行う行政の正当性を説明する義務は、ほかならぬ政府にあるからです。

 もし、布マスク2枚を配ることに「使い捨てマスクを買い控えてほしい」という意図があるならば、はっきりと政府がそういうべきです。しかし、政府は特にそのようなことは言っていません。
問1 布製マスクを全戸配布する理由はどのようなものですか。なぜ2枚なのですか。
 布製マスクは、使い捨てではなく、洗剤を使って洗うことで再利用可能なマスクです。店頭でのマスク品薄が続く現状を踏まえて、確保の目途が立った布製マスクを、国民の皆様に幅広く、速やかに配布するために、日本郵便の配送網を活用し、全国の世帯に向けて、1住所当たり2枚ずつ配布することとしたものです。
 布マスクの全戸配布に関するQ&A-厚生労働省
 厚生労働省の説明も上のような感じで、特に使い捨てマスクの買い控えと関連付けていません。

 なぜ政府が自ら説明すべきなのか
 政府は自らの行政の真意や正当性を、必ず自らの口で説明すべきです。強い権力とリソースをもって様々なことを強権的に行える行政には、その行為についての説明責任が生じるからです。

 明確な説明は、市民がその行政が正当なものなのか、もっと良い方法はないのかを判断するための材料になります。この材料がはっきりと開示されていないのであれば、判断以前に行政のことを信頼することができなくなってしまいます。

 また、行政が己の正当性を曖昧にし、「裏事情」を仄めかすことには悪影響もあります。それが、うえで引用したような「真意説明臣民」の登場です。

 真意の説明はしないがとにかく従えという曖昧な状況では、市民は曖昧なままその行政を批判しなければならなくなります。そこに「真意説明臣民」が登場してくれれば、行政は一切責任を負うことなく、その説明がデマであれ真実であれ、市民を納得させることを試みれます。

 そして、その説明がデマでも「自分が言ったことではない」としらばっくれることができるのです。これでは到底、行政としての責任を果たしたことになりません。

 ゆえに、我々は行政がその口で説明しない「真意」や「事情」は存在しないものとして扱い、それを説明しない行政は信用できないと一蹴すべきなのです。

 「マスコミが伝えない」も同義

 新型コロナウイルス関連の補償について、特に与党議員が「補償があるのにマスコミが報じない」と泣き言を垂れる始末です。
 そもそもこれらの補償は「本当に支給されるか極めて怪しい」ものであり、実際に休校に伴う補償はたった12件しか支給されていない事実もあります。
 新型コロナウイルス感染症対策としての「一律休校」で休業した保護者に給料を支払った企業に最大で日額8330円を助成する制度(小学校休業等対応助成金)が3月18日に受け付けを開始して以降、4月5日までに全国で申請件数が1000件にとどまり、交付件数はわずか6件しかないことが明らかになりました。日本共産党の畑野君枝衆院議員の問い合わせに、厚生労働省が答えたものです。
 業務委託を受けて働くフリーランスで一律休校に伴い仕事ができなくなった保護者に日額4100円(定額)を支給する制度(小学校休業等対応支援金)では、申請件数が全国で500件にとどまり、交付件数はわずか6件でした。
 交付 わずか6件 一律休校 企業への助成金 フリーランス支援金も6件-しんぶん赤旗
 ゆえに、「伝わっていないのが問題」というフレームワーク自体が悪質なデマなのですが、それを置いておくとしても、伝わっていない責任を政治家や行政が他者に押し付けることは許されません。

 そもそも政府は周知徹底のためのリソースを十分に持っています。一時期、マイナンバーカードでポイントが付くというCMが方々で垂れ流されたことからも明らかです。あまりテレビを見ない私でも知っているほどですから、相当流されたと推測できます。

 そのような制度の周知徹底を怠けておきながら、制度が知られていないなどと口にすることは許されません。

 行政はとにかく、自分の口を動かして市民に情報を伝える義務があります。それをせずに曖昧な態度に終始するのは、それ自体が批判されるべき状態です。

残念ながら、表現の自由を守りたいなら山田太郎に投票すべきではない

 現在、参議院選挙の候補者が続々と開示されていますが、個人的に注目しているのは「表現の自由戦士たちの英雄」山田太郎氏の動向です。

 Twitterを見る限り、山田太郎に投票するぞ!と盛り上がっている人々は相当数見受けられます。彼らは純粋に、氏に投票することが表現の自由を守ることにつながると考えているようです。
 しかしながら、私の考えでは、氏に、というよりは氏に投票することを介して自民党へ投票することは、表現の自由の防衛戦線をむしろ後退させることになると危惧しています。

 自民党から出馬する山田太郎氏へ投票することは、
・山田太郎は表現の自由を守るうえで信頼できる
・山田太郎を自民党の議員にすれば、ほかの自民党議員も説得できるだろう
・自民党議員の多くが表現の自由の重要性を理解すれば、表現の自由は守られる
 という前提と期待に基づいています。

 氏のこれまでの言動を考えると、果たして彼に表現の自由を守るだけの力があるのか、第一の前提で既に疑問符が付きますが、ここではさておきましょう。この記事で指摘したいのは、仮に第一の前提、つまり山田太郎氏が表現の自由を守るために非常に信頼できる、それこそ英雄的な人物であることを事実であると仮定してもなお、氏への投票を通じて自民党へ投票することは表現の自由にとって危険であるということです。

 自民党は権利の敵
 まず考えるべきは、自民党が表現の自由、ひいては市民が有する種々の権利について極めて敵対的な立場をとっているということです。

 その最たる例が、自民党の憲法草案です。この草案では、権利を公共の福祉ではなく、公の福祉に反した場合に制限できると述べています。つまり他者の権利を侵害しなくとも、公の秩序を乱したと権力者や多くの国民が考えるような場合に、表現を規制できるということです。社会からあまり好意的にみられないことも多いオタク的な表現にとって、このような規定は大きな問題となるはずです。

 また、緊急事態条項も無視できません。政府が「緊急事態だ」と宣言すればそれだけで、そんなことやってる場合じゃないからとアニメや漫画を潰される可能性すらあるのです。

 重要なのは、実際にこの草案が現実になるかどうかというよりは、自民党がこのような草案を大真面目に作ってしまう程度の権利理解であるということです。

 東京都健全育成条例の戦犯は自民党
 表現の自由の問題でよく引き合いに出される、東京都の健全育成条例の改正を主導したのが自民党であったことも忘れてはいけません。例えば2010年に試みられ、非実在青少年というタームを大々的に広めた改正では、いったん否決されたものの、そのときに賛成起立したのは自民党と公明党でした。

 そもそも、当時の都知事であった石原慎太郎氏は元々自民党の国会議員であった経歴があり、その言動からも思想が自民党に近いことがはっきりとうかがえます。

 このような背景がありつつも、自民党がなぜが表現規制に反対しているかのような認識をされているのは、おそらく麻生太郎氏がマンガ好きであるという風説によるところが大きいでしょう。
 マンガ好きで知られ、オタクから強い支持を得ている麻生太郎副総理に、ネットで失望の声が上がっている。
 みんなの党の山田太郎参議院議員(45)が2013年5月8日の参議院予算委員会で、児童ポルノ規制法の改正について質問。実施されると、幼児の入浴シーンがある野球漫画「ドカベン」すら発禁になりかねない、として意見を求めたところ、副総理はマンガを擁護するどころか規制強化に賛成かのような回答をしたからだ。
   山田議員は昨今の児童ポルノの取締り強化について言及し、法律は児童を児童ポルノの写真や映像から守ろうという趣旨で、本来関係のないはずのマンガやアニメにまで解釈が拡大してしまった、と指摘。漫画やアニメの登場人物は全て非実在の空想の創造物だから誰も被害を受けないはずなのに、登場人物の肌が少しでも見えていたら問題視されるのは、クールジャパンとして世界に打ち出している日本の漫画やアニメが面白くなくなり、また廃れてしまう、と力説した。そして、2009年の国会に提出された児童ポルノ禁止法の改正案は廃案になったが、自民党内でまた提出の動きが出ていることについて、日本のマンガやアニメに詳しい副総理はどういう考えを持っているのか、と質問した。
   副総理は、児童ポルノ規制に手を付けたのは自分が一番最初だろうと記憶している、と答弁し、成人向けだとする表記を強化したり、子供の手に届かない高さの棚に置くようにしたり、出版社ともやりあった結果、
 「表現はかなり昔に比べれば良くなったんではないかとは思っております」
 と自画自賛した。
 「ローゼン閣下」麻生太郎副総理に失望の声 日本のマンガ、アニメを児童ポルノ禁止法から守ってくれそうにない!-J-CASTニュース
 しかしながら、かつての国会答弁で麻生氏は、規制を肯定するような発言をしています。まぁ、国際的に注目されている女性の権利ですら頓珍漢なことしか言えない人が(『麻生太郎のセクハラ擁護発言は「ネットの議論」の本質をついている』参照)、もっと些細に思われがちなオタク表現を擁護する発言をするわけがないですよね。
 ちなみに、この答弁を引き出したのはほかでもない山田太郎氏です。

 自民党を説得できるか
 このように、自民党は表現の自由について擁護するどころか積極的に規制しかねない立場であることは明白です。
 いやしかし、山田太郎はその自民党を説得するのだという反論が考えられます。しかし、山田太郎氏の説得能力に目をつむり、彼に「外交99」レベルの能力があったとしても、やはり自民党議員を説得することは不可能だろうと考えます。

 というのは、「縁なき衆生は度し難し」という言葉があるように、基本的に説得というのは聞く耳を持つ相手にしか通用しないものだからです。

 自民党議員が、人の話を聞く気がなさそうだということは種々の事例から明らかです。議論の土台となる記録を破棄し、統計を改ざんし、予算委員会は100日以上開かないという事態が常態化しています。

 国会における答弁の酷さは、安倍首相がよく引き合いに出されますが、ほかの議員も相当酷いものです。例えば『根本厚労相はパンプスパワハラを容認したのか、否定したのか #KuToo』で根本厚労相の答弁を取り上げましたが、簡単な質問にも原稿を読み上げるだけで正面から回答しないという有様です。

 国会という公式の場で、事前に通告されていることも多い質問に回答できないような人が、立場の異なる人の説得を多少なりとも聞くでしょうか。耳を傾けるだろうという想定は明らかに楽観的過ぎるといえます。

 説得できたとしても大問題
 しかし、いやいや、山田太郎はすごいからそういう困難も乗り越えられるだと頑張る支持者もいるでしょう。そこまで頑張られると呆れるほかありませんが、もういっそのことその主張を受け入れ、山田太郎大先生のおかげで自民党議員全員が表現の自由を守ってくれるようになったとしても、やはり表現の自由は脅かされると結論しなければいけません。

 というのも、仮に表現の自由を守るように自民党議員が翻意したとしても、人権を軽視するような態度が変容するわけではないからです。つまり極端な話、山田太郎の活躍によって表現の自由は守られたが、山田太郎と彼が引き寄せた票によって当選した自民党議員が頭数となって改憲が達成され、結局遠回りに表現の自由が木端微塵になるという笑うに笑えない事態が起こりえるというわけです。

 まぁ、改憲が達成されるというのは最悪のシナリオであってどこまで実現可能性があるかは不明ですが、少なくともその他の人権を締めつけるような政策を可決するための鉄砲玉として山田太郎氏がいいように利用されることは明白でしょう。
 それはまるで、冷蔵庫の中身が腐らないようにちまちまと管理した後でコンセントを盛大に引き抜くような間抜けな惨状を引き起こすことでしょう。

 じゃあどうすればいいのか
 では、表現の自由を守ることができるでしょうか。
 まず、今回は自民党から出馬するという決断がまずかったということで、山田太郎氏には涙を呑んでもらいましょう。だいたい、表現の自由の天敵から出馬ってどうしたらそうなるのかさっぱり。

 そして、素直に野党のどこかに投票し、自民党の勢力を削りましょう。
 山田太郎氏を応援する人々の中には、野党が気に食わないという人も多いでしょう。しかしよく考えてほしいのですが、「明らかに表現の自由を抑圧しそうだし、人の話を聞く気もない」政党と「気に食わないが、少なくとも人の話は聞きそう」な政党のどちらがましでしょうか。

 とりわけリベラル政党は、権利を守るという方向でなら比較的聞く耳を持ちやすい性質があります。先ほど例に挙げた東京都健全育成条例の改正の際に、反対の立場に立ったのは民主党や共産党のような左派政党であったことは忘れてはいけません。

 表現の自由を守るという目的があるのであれば、応援する人を間違えてはいけません。


文化の盗用の三側面

 アメリカのタレント、キム・カーダシアンさんが矯正下着ブランドに『KIMONO(キモノ)』と名付けた問題で、京都市は6月28日、カーダシアンさんが関わるアパレル会社にブランド名の再考を求める文書を送付したことを発表した。
 問題をめぐっては、ブランド名が日本の民族衣装の「着物」を意味することから、「日本文化の盗用ではないか」との批判がネット上に続出。ブランド名に異を唱える声が多数寄せられており、「Change.org」では反対署名のプロジェクトも立ち上がった。
 カーダシアンさんは、現地時間27日時点でブランド名を変更する意向がないことを米メディアに明らかにしているが、批判が止む気配はない。
 京都市、キム・カーダシアンの『KIMONO』に抗議。「着物はすべての人の共有財産。私的に独占すべきものではない」-ハフィントンポスト
 この件です。

 前々から「文化の盗用」について話題になることがありましたが、アメリカでも用語の使用に混乱が見られるときがあり、どういう風に認識していいかわかりにくいものでした。
 ただ今回の事例は、文化の盗用について非常にわかりやすく典型的な事例であると思うので、これを機にまとめておこうと思います。

 これは個人的な理解ですが、文化の盗用には
①ポジティブイメージへのフリーライド
②文化の誤った認識の流布
③経済的搾取
 の3つの側面があるのだとみています。

 ①ポジティブイメージへのフリーライド
 たいていの場合、盗用される文化はポジティブなイメージを持っているものです(でなければ盗用されないんだけど)。無関係なブランドへその名称を付けることは、そのイメージにフリーライドして自社の製品に流用する行為です。

 通常、ブランドのイメージをよくするために、企業は多額のPR費用を投資します。もちろん盗用される側の文化もそれは同じで、アメリカで着物が市民権を得るまでに相当の苦労があったことは想像に難くありません。それを無関係な矯正下着の名前へ利用することは、そのような苦労に乗っかり自身が本来支払うべきコストを免れる行為です。

 そのようなフリーライドの背景に、ライドする側がされる側よりも資本などの立場で優っているというう非対称性があることも見逃せません。資本力の弱い側が強い側のイメージに乗ることは、ほめられた行為でなかったとしてもある種の戦略として成り立つことではあるでしょう。しかし強い側が弱い側にフリーライドするというのは、倫理的に認めるべきではありません。

 資本力で優るのであれば、そうした企業は自社ブランドのイメージアップのためにそれ相応の負担を負うべきなのです。

 ②文化の誤った認識の流布
 もう1つの側面は、盗用された文化が誤った認識で広まってしまうことです。

 着物が日本産の衣服ではなく、キム・カーダシアンの矯正下着のことであるという認識が広まってしまえば、着物を日本の衣服として広めたい人々にとって高いハードルになるでしょう。盗用がなければ「着物というのは日本の衣服なんですよ」と言えば済んだところを、盗用があったためにまず矯正下着ではないという誤解を解くところから始めなければならず、そのためのコストは盗用された側が負担しなければなりません。

 もちろん、ある国の文化が別の国で翻案されて広まること自体はよくありますし、それを妨げるものではありません。しかしそれは、本来の文化に対するリスペクトを前提するべきものです。完全に誤った、というか全く無関係なものにその名前をつけることを擁護するものではありません。

 ③経済的搾取
 文化的盗用の最大の側面は、それが経済的な搾取を含むということです。キム・カーダシアンは衣服について「KIMONO」という商標を使うことを妨げるものではないと言っているようですが、そもそもキム・カーダシアンに許可されるようなことではありませんし、気が変わらないという保証もありません。

 もし最悪の場合として、「KIMONO」という商標がアメリカ国内で使用できなくなったら、アメリカでの着物普及はおろか、今まで行われていた通常の商品展開すら難しくなるでしょう。結果として、キム・カーダシアンは着物のポジティブイメージにフリーライドした挙句、誤った認識をばらまきながら本来の着物を市場から排除するという暴挙にすら出ることができるのです。
 このような経済的搾取は着物以外の例でも問題となっています。上に引用したツイートも典型例ですが、ほかにも途上国の民族が使用していた薬草の成分を利用して新薬を作り大儲けしたとか、民族音楽をサンプリングして大流行したけどその音楽を演奏した演者には碌にギャラが入っていないとか、そういう事例もよくあるものです。

 この点で重要なのは、富める者が貧しい者を利用したますます富むという構図が出来上がっていることです。このような非対称性に乗じる構図こそが搾取というべきなのでしょう。

 裏を返せば、この3点を回避すれば文化的盗用になりにくいということでもあるでしょう。共通するのは、本来の文化に対するリスペクトが不可欠ということです。
 結局名前は変更するようですが、だったら最初からつけるなよと……。

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「犯罪オタク」と「犯罪学オタク」の決定的な違い ある意味での「犯罪学オタク」あるある

 さて、前回の記事で私は、
 ちなみに、中学時代から犯罪学に傾倒していた私ですが、不勉強ながらこのサイトの存在は知りませんでした。その理由は次回以降の記事で書くつもりですが、ともかく。ちなみにここで述べられているマルク・レピンはカナダはモントリオール理工科大学で女性を中心に殺害した大量殺人犯です。
 「殺人犯の名前を呼ばない」NZ首相と、殺人鬼に深遠な何かを見出そうとする風潮-九段新報
 と言っていました。

 今回はなんでこういうことになるのかという話と、そこに起因する「犯罪学オタク」あるあるのようなものです。

 連続殺人犯に興味なし
 私の犯罪学への傾倒は実に、中学時代から始まっていました。『FBI心理分析官』という本に出会ったことをきっかけに様々な本を読みましたが、内容としては重大事件の犯人を扱ったノンフィクションよりも、犯罪心理学の専門書に手を出すことのほうが多かったです。

 というのも、そもそもの私の興味関心は「人はなぜルールを破るのか」というところにあり、そのため重大事件の犯人の成育歴のような、一般化の難しい話にはあまり好奇心が向かなかったのです。

 一方で、こういうマニアックな趣味を抱えていると典型的に出会う人物が2種類います。1つは「俺も犯罪に興味ある!」というタイプ、もう1つは「犯罪に興味あるの?だったら~は知ってる?」というタイプです。
 犯罪学趣味というのは案外裾野が広く、ゆえに『FBI心理分析官』はベストセラーになるし、前回の記事で示したようなウェブサイトが成立するのでしょう。

 しかし彼らと私の決定的な違いがありました。彼らは連続殺人犯のような個人の、伝記的な要素へ興味関心がある一方、私はより一般的な犯罪現象のメカニズムなどに興味があり、ここに大きなずれがあります。だから「こういう事件あったよね」と言われても「まぁ、あったような気もする」くらいの薄い反応しかできませんでした。

 そういう反応をするとたいてい、なんだそんなことも知らないのかという反応が返ってくるわけですが、彼らは彼らで「ダーティオールドマン仮説」とか知らないわけです。せいぜい「秩序型無秩序型」で止まっているので。

 「飛行機に興味がある」と一口に言っても、「機種に興味がある」のと「鉄の塊が飛ぶメカニズムに興味がある」のでは大違い、というようなものでしょう。前者は「飛行機オタク」で後者は「航空学オタク」とでも言いましょうか。
 これを犯罪へ置き換えるならば、前者は「犯罪オタク」で後者は私のような「犯罪学オタク」であるといえます。

 そういう背景事情もあり、私は『殺人博物館』というサイトの存在を知らず、探そうともしませんでした。調べてみればこの手のサイトはありふれていて、九段新報がその1つになるという可能性も無きにしも非ずだったのでしょうが、やはり興味関心の断絶は大きく、このような形になったわけです。

 一口に言っても
 この過去話から得られる教訓は、一口に「○○オタク」といってもその内実はさまざまであり、ジャンルが共通するからと言って自分の知っている内容を相手が知っているとは限らないということです。とりわけそこに、強い断絶がある場合には。

 あとこういう断絶がある場合、とりわけ後者は前者と一緒にされたくないと思っていることも往々にしてあるのです。飛行機が飛ぶメカニズムを追っている人が「飛行機の外面だけみて盛り上がっている連中と一緒にされたくない」と思っているように、「犯罪学オタク」は連続殺人犯の残虐さで盛り上がっている人々と一緒にされたくないと思っていたりします。
 それは何も、我々の狭量さに起因するのではなく、前者のありようは後者のありようにとって、あまりにも表面的過ぎ、かつその表面的な部分にこちらは気づいているにも関わらず世間一般や当のオタクたちに、我々にもその表面的な要素があるかのように扱われるのにいい加減嫌気がさしているからでもあります。

【記事評】アウティングなき社会へ(東京新聞2019年2月17・18・19日朝刊)

 「LGBT」という言葉とともに性的少数者の存在は広く知られるようになってきた。一方で差別や偏見も根強く残り、性的指向などを他人が暴露する「アウティング」と呼ばれる行為で深く傷つけられる人々もいる。二〇一五年に一橋大(東京都国立市)のキャンパスで転落死した男子大学院生=当時(25)=もアウティングの被害を受けていた。遺族は大学を訴えており、二十七日に東京地裁の判決を迎える。言葉を凶器としないため、互いに何を理解するべきかを考える。
 男子学生が愛用したチェロが、実家の部屋の納戸にひっそりとしまわれていた。「自分は愛を語れないけれど、今からチェロで演奏します」。大学の集まりで学生はそう言って、自己紹介代わりに英国の作曲家エルガーの「愛の挨拶(あいさつ)」を披露したという。五歳から習い始め、中高ともオーケストラ部で活躍した。愛知県内に住む両親は、チェロを大事そうに出して懐かしんだ。
  一五年八月二十四日、弁護士を目指し一橋大法科大学院で学んでいた学生は、授業中に校舎から転落して亡くなった。二カ月前、告白した男子同級生にゲイ(男性同性愛者)であることを仲間内で暴露され、吐き気や不眠など心身に不調をきたし、心療内科にも通院していた。
(中略)
 学生は当時、クラス替えなどを求めて担当教授や大学のハラスメント相談室に相談し、内容をパソコンに残していた。それを読んだ妹(26)は法廷で「兄は同性愛を苦にはしていなかった。アウティングをされて以降、目がうつろになり、理解を欠いた大学の対応で悪化した」と訴えた。
 <アウティングなき社会へ>(上)同性愛暴露され心に傷 転落死の男子学生「友人関係、苦しい」-東京新聞
 今回はこちらの連載。連載は裁判の判決直前に掲載され、いまは判決が出ていますのでそこにも触れていきましょう。 
 連載は引用した上のほか、セクシャルマイノリティ支援の運動を行っている人へのインタビューと、事件以降に起こった権利擁護の動きを伝えた中『「彼は昔の自分」命守る制度を 退職し活動に専念「社会を変える」』、ほかのアウティング被害者へのインタビューと、カミングアウトの受け止め方を報じた下『善かれと思っても「暴露」 「打ち明けられたら対話を」』からなります。

 もしもカミングアウトされたらどうすべきか
 本人の同意なく性的指向を暴露するアウティングが問題なのは言うまでもありません。しかし一方で、一般的に人間にとって「絶対に行ってはいけない」という秘密が重荷になりがちであることもまた事実です。ではカミングアウトされたらどうすればいいのでしょうか。
 恋愛話は男女間のことというのがまだまだ前提で、つい最近までLGBTなど性的少数者は笑いの定番のネタにもされていた。そんな空気の中では、意図的に傷つけようとするアウティングだけでなく、想定外だった同性愛をカミングアウトされて(打ち明けられて)戸惑い、誰かに話してしまうことも起こりがちだという。
 「打ち明けられたら、まず、信頼して話してくれたことに感謝を示してほしい。恋愛感情を告白されたら、遠慮せずに自分の好みや恋の対象になるかどうかをはっきり伝えていい」。一人で抱えきれない場合は、守秘義務のある専門窓口に相談することもできる。
 記事の下では以上のように指摘しています。カミングアウトされたことが重荷に感じたら、守秘義務のある専門機関への相談がよいでしょう。軽々に暴露してはならないということは、絶対に誰にも言ってはいけないということではありません。

 大学に責任はないのか
 一橋大法科大学院の男子学生=当時(25)=が校舎から転落死したのは、同性愛者であることを同級生が暴露(アウティング)したことに対して大学が適切な対応を取らなかったためだなどとして、両親が大学に約八千五百万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は二十七日、「大学が適切な対応を怠ったとは認められない」として請求を棄却した。 (蜘手美鶴)
 訴状によると、男子学生は二〇一五年四月、同級生に恋愛感情を告白した。同級生は六月、無料通信アプリLINE(ライン)のグループに「お前がゲイであることを隠しておくのムリだ」と実名を挙げて投稿。男子学生は精神不安定となって担当教授やハラスメント相談室の相談員らに相談したが、大学はクラス替えなどの対策をせず、同年八月、授業中にパニック発作を起こし転落死したとしている。
 両親は同級生にも損害賠償を求めていたが、一八年一月に和解した。
 判決理由で鈴木正紀裁判長は、大学のセクハラ対策について「講義やガイダンスをしていればアウティングが発生しなかったとはいえない」と指摘した。
 その上で、被害を相談した教授について「クラス替えをしなかったことが安全配慮義務に違反するとはいえない」とし、相談員についても「クラス替えの必要性を教授らに進言する義務はなかった」と認定した。
(中略)
 実際、原告側は「アウティングは性的指向というデリケートな問題に関わり、人間関係を壊すものだ」として大学の対応を問題視していたが、判決はアウティングがなぜ危険なのかやどう対処すべきなのかに言及しなかった。
 司法が明確な警鐘を鳴らさない中、最近ではアウティングを防ぐ取り組みを始める大学もある。筑波大では昨年、LGBT対応のガイドラインにアウティングの項目を新たに加えた。一橋大の地元、東京都国立市も昨年四月、「公表の自由は個人の権利として保障される」とうたった全国初の「アウティング禁止条例」を施行した。
 大学側の責任認めず 一橋大同性愛暴露訴訟 東京地裁、遺族の請求を棄却-東京新聞
 一方、この事件の訴訟の判決はかなり冷淡なものでした。大学はセクシャルマイノリティの人権擁護について、アウティングに関する知識や対応も含めて学生に周知する程度の義務はあったでしょうし、問題が発生した後にクラス替えをするという対応をする余地もあったであろうと思います。今回の判決はアウティングが不法行為であるかどうかの判断すらしていないようですし、弁護士の言うように「表面的」という批判もその通りでしょう。

 「カミングアウトする必要のない社会」って何?
 ところで、この件と関係して少し話を変えますが、前々から気になっていることがありました。それが自民党をはじめとする保守派の人々が唱えている「カミングアウトする必要のない社会」というものです。これはもともと自民党のLGBTの方針から来ており、「セクシャルマイノリティが特別視されなければカミングアウトする必要ないでしょ?」という考え方に基づいています。

 なるほど、確かに最終的には、カミングアウトなんかしなくても気にせず生きていける社会が理想かもしれません。しかしこの考え方は、そもそもなぜカミングアウトを「したくない人」が存在するのかという根本原因を全く理解できていません。カミングアウトできない社会となっている原因を排さないまま「カミングアウトする必要のない社会」を目指せば、それは「カミングアウトさせない社会」になりかねないことを理解していないのです。

 カミングアウトは、相手が軽々にそのことを暴露しないだろうという信頼の元なされています。アウティングはその信頼を裏切る行為であり、記事が指摘するようにその影響は性犯罪のような、知人が加害者となる犯罪に似るでしょう。今回の件は、まさしくセクシャルマイノリティがなぜ「アウティングしたがらないのか」を可視化した事件であるともいえます。

『中学の女子生徒会長1割だけ』でふと思い出した、中学時代のこと

 小学校の児童会長は男女のバランスがとれているのに、中学校の生徒会長に女子が少ないのはなぜ――。大津市は市内の小中学校の子どもや教諭にアンケートなどを実施し、背景を探る方針を固めた。「社会のリーダー役に男性が多い現状に何らかの影響を及ぼしているのではないか」と越直美市長が問題提起した。
スクリーンショット (25)

 越市長や教育長、教育委員らが教育政策について議論する会議が7日に開かれ、合意した。会議では、大津市立小中学校の児童・生徒会長の男女別データなどが示された。
 2018年度の全37小学校の児童会長は、男女とも13人(会長不在11校)だったが、全18中学校の生徒会長は男子16人、女子2人。17年度も小学校は女子18人、男子14人(会長不在5校)で、中学校は男子13人、女子5人だった。抽出調査の14~16年度も、15年度を除いて中学校になると男子の比率が増えていた。
 会議で教育委員の女性は「年齢が上がるにつれて、(男性のリーダーが多い)社会全体の意識に影響を受けるためではないか」「PTAの役員は女性が多いが、会長は男性が多いことも関係しているかもしれない」。会議の男性メンバーは「学校だけで意識を変えるのは難しい。まずは社会の環境を変えるべきだ」などと述べた。
 中学の女子生徒会長1割だけ…背景調査へ 小学校は均等-朝日新聞
 この件です。
 元記事ではやりたがらない女子に一因があるような書き方になってますが、しかし個人的な経験を思い返せば、仕組みうえで役員の数を男女同数にしても偏るので選ぶ有権者側の問題ではないかと思います。

 中学時代、学級委員だった
 この記事を読んだとき、ふと私は自分の中学時代を思い出しました。
 意外と思われるかイメージ通りと思われるかはわかりませんが、私は中学三年生のころ前期の学級委員についていました。30人くらいのクラスから男女一人ずつ選ばれる役職です。
 といっても別にみんなからの推薦があったわけでもなければ、僕だって本当はやりたかったわけではありません。三年生の前期には文化祭(私の中学は文化祭と体育祭が合体したようなものになっていました)の取りまとめで忙しく動かなければならず、面倒この上ない役職でしたから誰もやりたがりませんでした。同じ面倒なら後期の委員になって有終の美を飾ったほうがいいという思惑もあるのでしょう。

 皆さんの中学がどういう仕組みになっているかわかりませんが、私の時代は「立候補が出るまで待ち続ける」という地獄のようなシステムが採用されていました。なので私は、真っ先にその空気に耐えかねて立候補「させられた」というわけです。一方、女子の委員は複数の立候補がいてすんなり決まりました。
 担任の先生がどういう決め方を想定していたのかはわかりませんが、しかしそういう背景があったため女子のほうが学級委員長、私が副委員長というかたちに自然と落ち着きました。これは順当な結果といえるでしょう。

 そしてさらに面倒なことに、私の中学では学級委員は自動的に「自治委員会」という、学級委員だけが集められた死ぬほどつまらない委員会に配属される仕組みになっていて、委員会の時間にここへ集められることになりました。全3学年9学級の学級委員が揃い踏みです。

 さてここで本題です。この委員会では実に奇妙なことが起こっていました。
 そう、私の所属していた3年3組以外の全ての学級で「男子が委員長、女子が副委員長」という構成になっていたのです。統計的仮説検定をするまでもなく確率に偏りが生じています。
 記憶によれば、たいていのクラスでは学級委員選出の際何らかの多数決的手続きを経て委員長と副委員長を決定していたはずで、この偏りは純粋に当時の中学生の意識の偏りを示しているものであると解釈すべきでしょう。

 実は生徒会役員でもあった
 そして実は、学級委員になる前年、二年生に私は生徒会役員でもありました。なんか経歴だけ見ると仕切りたがりみたいになってますけど、これも学級委員のときと似たような状況があって、役員が男女3名ずつのところ男子の立候補が3人しかいないという有様でした。正確に言えば、あの地獄が学年単位で顕現しないように予め手を打ったのが私だったわけで、同学年の男子には私と私の無茶ぶりに答えて立候補締め切りの直前に推薦者になってくれた友人に全力で感謝してほしいところです。

 それはともかく、これも記憶によればなので不確かな点も多いのですが、私の代は男子が生徒会長だったと思います。私の代の前後一代ずつもそうだったと記憶しています。つまり朝日新聞の記事にあるような状況が、生徒会でも学級委員でもあったというわけですね。生徒会長も得票数で決まるわけですから、その点も学級委員と同じです。

 さて、こうしてみると当時はあまり気にならなかったのですが、やはり男子が長となって女子が副になるという状況が非常に多く、偏っているという印象です。多数決で決まったのだから男子のほうが頼りになるんじゃないの?という意見もあるでしょうが、しかし中学生という年代を客観的に考えれば頼りになるのは明らかに女子のほうで(っていうか、生徒会になるようなこの年代の男子って小学生と大差ないので。私は例外だったと信じたいが)、このような投票行動が純粋に役員としての能力を反映したものと考えるのは楽観的に過ぎるでしょう。
 個人的な経験を振り返っても、女子のほうがリーダーとしての資質に劣るということはないだろうと思っています。何せ私が学級委員だったとき、体育祭のパフォーマンス合戦の仕切りをなぜかやる気満々だった女子に投げた結果優勝しましたから。性別に限らず適材適所が重要といえましょう。そう思えば、そうやって適当な人に仕事を投げられる人間だった、当時唯一だった女子学級委員長(と私)も実にリーダー向きだったわけです。

 振り返れば、当時のみんなは、そしていまも彼らは、男子がリーダーになって女子が補佐につくというジェンダー規範を無批判に受け入れていたのでしょう。それこそ私のような人間が成り行きでリーダーになってしまうような状況でも来ない限りは崩れないほど強固に。
 そしてそういう経験をした人たちが親になって子供を育てれば、そのジェンダー規範もまた無批判に受け継がれていくことになるでしょう……と、当時の学級委員長の結婚報告をFacebookで眺めて思うのでした。

 学校は日本民主主義のゴミ溜めだ
 しかし思い返すに、中学時代の生徒会・学級委員関連の思い出は嫌なもののほうが大半を占めます。大げさでなく、私の大衆不信というか、一般市民不信のようなものがあのころ形作られていまに至るといっても過言ではないのではないかと思うほどです。

 誰の言か忘れてしまいましたが、かつて日本の民主主義を「当事者意識がなく、お客様のようになっている」と指摘した人がいたはずです。私の中学時代の経験はまさしくその「消費者的な民主主義」を体現していると言えましょう。
 その最たる例が、全然立候補者がいなかったというあれです。自ら動こうという人間の欠如。代議士であれば供託金もあるしいまの職業もあるのでハードルが高いのも頷けますが、学級委員や生徒会はそうではありません。
 それでも、心理的にハードルがあるのは確かで、やりたがらないのもやむを得ないのではとは思います。事実、私だって本当はやりたくなかったわけですし。問題はやりたがらなかった人間がその後、どういう態度をとるのかというのかというところです。それが誰も立候補したがらない原因にもなっているのですから。

 自分が立候補しないのであれば、せめて学級委員なり生徒会役員なりに協力をするのが筋というものでしょう。協力といってもそう難しいことではなく、行事の練習のときの静かにスムーズに指示に従う程度のことで十分ですし、それだけでも仕事量はずいぶん違います。
 しかし彼らはそれをしない。くっちゃべるわ人の言うことは聞かないわ、挙句自分は何もしないくせに文句は言うわで当事者意識の欠片もない、それこそ「消費者としての主権者」の姿がそこにありました。何度ぶん殴ったろうかこいつらと思ったことか。まぁ暴力に訴えれるほど屈強ではなかったんですけど。ともかく、このことを初めて指摘した某氏も、きっと生徒会役員とかの経験があったんじゃないかなと思います、たぶん。

 学校にはそのほかにも、生徒の民意を無視する教員やとりあえず多数決で決める学級会といった、民主主義のクソ側面が大量に存在しています。その根元にはこうした(金を払っているわけでもないのに)消費者のごとき態度をとる主権者の存在がいるということなのでしょう。そしてそれを是正することもない教員もまた、国政選挙や自治体の選挙ではお客様なのでしょう。

 会長の男女差に話を戻せば、こういう主権者としての意識のなさも偏りの一因ではなかろうかと思います。いくら女性のローモデルが一般化し、女子生徒が私もリーダーになりたいと思ったところで、選ばれなければ意味がありません。
 というかそもそも、少なくとも私の学校では役員は男女同数という、ある意味究極の男女平等が仕組みの上で担保されていたのですから、この偏りを女子生徒側の意識に帰することは不適当です。男子のリーダーが選ばれるのはあくまで、自身の内面にあるステレオタイプに向き合うことをしないお客様のような主権者によるところが大きいのですから。

「ふるさと納税で100億円キャッシュバック」は典型的な社会的ジレンマ状況だ

 ふるさと納税の返礼品をめぐり、大阪府泉佐野市は5日、返礼品に加えてアマゾンのギフト券100億円分をプレゼントするキャンペーンを始めたと発表した。現行法上問題ないとしているが、総務省はギフト券による還元を問題視しており、真っ向から反旗を翻した格好だ。
 同省は、返礼品の調達費は寄付額の30%以下などとする基準を設け、守らない自治体は6月以降、制度の対象外とする法改正を目指している。泉佐野市は規制強化に反対しており、法改正されればこれまでのような取り組みはできなくなるとして今回のキャンペーンを決めたという。
 期限は来月末だが、ギフト券発行が100億円分に達すれば終了するとしている。泉佐野市の担当者は、法改正されれば基準は順守すると説明。ギフト券については「返礼品ではなく、あくまでキャンペーンのプレゼント」と強調した。
 平成29年度に寄付受け入れ額が全国トップの135億円となった同市は、これまで総務省の規制強化に「地方自治の精神にそぐわない」などと反発。一方、ギフト券は、静岡県小山町が昨年末まで返礼品として贈り、多額の寄付を獲得したことで、石田真敏総務相が先月「良識ある行動とは思えない」と不快感を示したばかりだった。
 ふるさと納税、Amazonギフト券で「100億円還元」 泉佐野市、総務省に反旗-ITmedia
 この件です。昨日ニュースで見たんですが、泉佐野市の認識があんまりにも酷すぎて記事にすることにしました。 

 そもそもふるさと納税とは
 そもそもふるさと納税とはなんでしょうか。
 ふるさと納税(ふるさとのうぜい)とは、日本に於ける寄附金税制の一つ。”納税”という名称だが制度上の実態は「寄付」であり、現に居住する地方自治体への納税に代えて、任意の自治体に寄付を通じて”納税”するというものである。「ふるさと寄附金」とも呼称される。
 ふるさと納税-Wikipedia
 ウキペディアの解説はこんな感じです。ざっくりとイメージすると、本来自身の自治体へ納める税金の代わりにほかの自治体へ納税して、返礼品を受け取れてお得というシステムでしょう。
 そもそもこのシステムには様々な批判が付きまとっています。例えば、ふるさと納税分の金額だけ住民税が控除されれば、居住地の公共サービスをふるさと納税非利用者よりも低額で受けられることとなり、公平性が損なわれます。また多額の寄付をできる金持ちは税金の控除と返礼品を受け取ることができ、金持ちほど得をする合法的な脱税であるとも言えます。
 一方で、このシステムをうまく利用して活性化した自治体があるのも事実です。

 返礼率と社会的ジレンマ
 泉佐野市のいう「Amazoギフト券は返礼品ではなくプレゼント」というのがただの詭弁であることは火を見るよりも明らかで、自治体としての見識を疑います。しかしここで問題したいのは、そこではなく泉佐野市の「地方自治の精神にそぐわない」という主張のほうです。
 なるほど、確かに上からルールを押し付けられる格好になれば、地方自治とは程遠いでしょう。
 ですが、この事例に関しては押しつけと言われようがトップダウン的にルールを決定しなければならないと思います。なぜなら、この事例は典型的な社会的ジレンマ状況だからです。

 社会的ジレンマとは、社会心理学の用語で「個人が最も合理的な行動をとったら集団として不利益を被る」という状況を指します。典型例はゲーム理論です。あるいは有名な例には共有地の悲劇というものがあり、これは牧草の生えた共有地にできる限り多くの羊を放牧するのが個人の利益にかなう一方で、羊の数が際限なく増えれば共有地がはげ山となり利用不能となり、集団としては不利益を被るという状況を説明しています。

 ふるさと納税の仕組みも、典型例な社会的ジレンマ状況です。ふるさと納税を募集する自治体としては、極端な話返還率が9割でも得をします。本来自分のところに入らなかったお金が入ってくるわけですから、返還率にかかわらず得をすることになります。
 しかしふるさと納税をした人が住んでいるほかの自治体は、本来入ってくるはずだった税収が控除されてしまうので損をします。なのでほかの自治体も高い返還率でなんとかふるさと納税を集めようとします。これが「個人として最も合理的な行動をとる」部分です。
 ですが、日本の地方自治体という集団で見ると、この状況は損をする一方ということになります。ふるさと納税がなければ100%入ったはずの税金が、返礼品によってどんどん目減りしていくわけですから。しかもそれぞれの自治体が損をしまいと返礼品を豪華にしていくために、この損失は際限なく膨らんでいきます。

 このような状況を解決するためには、不満があってもトップダウン式にルールを定めるしかありません。もちろん、泉佐野市のような無謀な行動で集団の利益を損なうアクターは反発するのですが、このようなアクターの意見を聞いてルールの導入を躊躇えば、損失は広がる一方です。

 っていうかそもそも、こんな事態はあまりにも簡単に予想できたわけで、加えて返還率がいくら少なくてもやはり損失は損失なわけで、ふるさと納税なんかやらなきゃよかったのにと思いますが。

研究倫理不正の論文は取り下げるのが妥当だろう

 昨年12月27日の毎日新聞が、福島第1原発事故後に測定された福島県伊達市の住民の個人被ばく線量のデータを基に、早野龍五・東京大名誉教授らが英科学誌に発表した2本の論文について、本人の同意のないデータが使われた疑いがあるとして東大が予備調査を開始したというニュースを報じました。(参照:毎日新聞)
 同記事では、調査のきっかけとなった住民からの申し立てで、“図の一部に不自然な点があり、「線量を過小評価するための捏造(ねつぞう)が疑われる」”と指摘されたと報じ、それに対して早野氏が、同紙の取材に対し“「適切なデータを伊達市から受け取ったという認識で対応していた」とメールで回答。「計算ミスがあり、線量を3分の1に過小評価していた」として出版社に修正を要請した”と応じたとしています。
(中略)
 毎日新聞の記事によると、指摘された問題点は
a) 論文では、約5万9000人分のデータを解析しているが、約2万7000人分について本人の同意を得ていない
b) 論文の著者の一人が所属する福島県立医大の倫理委員会に研究計画書の承認申請を行う前の15年9月に早野氏が解析結果を公表している
c) 図の一部に不自然な点があり、「線量を過小評価するための捏造が疑われる」
 の3点であり、早野氏は、 (a) については「適切なデータを伊達市から受け取ったという認識で対応していた」(c)については「計算ミスがあり、線量を3分の1に過小評価していたとして出版社に修正を要請した」としているとのことで、(b) についてはノーコメントであるようです。
 念のため、それぞれの点について、原資料ないしはなるべくそれに近いものをみてみます。まず、(a) です。
(中略)
 “さらに高橋議員は、研究計画書に「同意した住民のみを対象とする」と記載されているにも関わらず、同意しなかった住民データ約3万人分も含まれていると指摘。解析結果は、海外の科学雑誌に掲載され、ICRP(放射線防護委員会)の防護基準見直しや国の避難基準の緩和に活用される恐れがあるとして、市に対応を求めた。田中直轄理事は「論文の中身については執筆者の二人が対応すべき。依頼文書に基づいた論文に変更があれば、お知らせがあるはずだ」と理解を求めた。
 市によると、測定に参加した住民5万8481人のうち、同意したのは約半数の3万1151人。97人が「不同意」を表明し、残りの2万7233人は同意書を未提出だった。”
 と、この件についてまとめられています。しかし、同じページにある伊達市議会の公式動画からの髙橋一由議員の質問の部分を見ると、極めて信じ難い答弁がなされています。
 それは、「GIS化したデータは早野教授に依頼して作成した」「GIS化したデータは(早野教授から)納品してもらっていない。伊達市はもっていない]「GIS化したデータは(宮崎氏に)伊達市から提供したものではない」というものです。
 データ不正提供疑惑・計算ミス発覚の個人被曝線量論文。早野教授は研究者として真摯な対応を-ハーパー・ビジネス・オンライン
 この件です。
 私は原発、放射能問題を詳しく追ってきたわけではありませんが、早野氏やその支持者、取り巻きの放射能楽観を超えた、放射能を不安視する人々への誹謗中傷ともとれる発言の数々には嫌気がさしているところでした。そこへ、この報道が持ち上がったというわけです。
 私は放射能について詳しくないため、計算云々の部分はよくわかりません。なので今回は心理学でも重要視される研究倫理について述べておきたいと思います。

 研究参加者の同意をとるのは基本中の基本
 まず、研究に参加する人から、そのデータを研究に使用し、場合によっては分析して公表することに関して同意をとるのは基本中の基本です。これは研究参加者の権利を擁護し、研究それ自体の正当性を担保するために必要なことです。
 古来より、科学の発展は往々にして研究参加者をないがしろにすることで成り立っていました。極北に位置する例を挙げるとすれば、参加者の同意していない物質を投与したり処理したり、墓所から遺骨を盗掘したりとやりたい放題です。後者はいまも問題になってますね。

 本件の報道などを参照する限り、論文が参照したデータは伊達市が全世帯(少なくともそれに近い数)配布したガラスバッチで記録されたもののようです。全世帯に配布という手法をとっている以上、バッチを装着した全員から研究利用への同意をとっているはずもなく、現に半数近くが同意していないことが指摘されています。
 この件に関して、早野氏は伊達市から適切なデータを受け取ったと主張していますが、一方で伊達市側は住所を座標に変換する作業は早野氏側が行っており、市はデータを受け取っていないと主張、言い分が真っ向から対立しています。

 どちらにせよ、同意のないデータに基づいた分析を行った研究を公表することは、研究倫理上大きな問題があります。上掲記事でも指摘があるように、座標データは図表の如何によっては個人を特定できかねない状態で掲載されており、プライバシーを大きく侵害しています。同意のない利用でこのような侵害が発生するのは著しい問題です。参加者にとっては、自分の知らないところで自分にかかわるデータが、よりによって個人を特定されかねないかたちで公表されているということになるのですから。

 このような場合、どのような対処が考えられるでしょうか。
 倫理上の問題であるという性質を考えれば、論文の取り下げが妥当であろうと思われます。もし仮に、本論文を軽微な修正だけでそのまま掲載し続けるのであれば、大規模なサンプルサイズのうち半数に同意がない状況だったとしても、論文として成立させられるという悪しき前例となりかねません。そうなれば、大真面目に参加者から同意をとる研究者はいなくなり、参加者の権利が脅かされることとなります。

 強いて言えば、同意のある参加者のデータのみを用いて再分析したうえで修正するという手もあります。しかしサンプルサイズの半数もが脱落する変化を経てもなお、それが修正前と同じ研究であるといえるかは疑問があります。

 この件はデータの信頼性にもかかわる
 ついでながらという話になりますが、この件はデータそのものの信頼性にもかかわってきます。というのも、本件に関して、配布されたガラスバッチをきちんと身に着けていなかった住民が相当数いたのではないかという指摘が存在しているからです。
 確かに、ガラスバッチが全世帯に機械的に配布されたとすれば、それをきちんと身に着けるという保証はどこにもありません。この場合、研究の目的を説明して同意をとることは、ガラスバッチをきちんと装着するように周知することにもなるので、これがきちんと行われていれば「参加者はガラスバッチをきちんと身に着けて過ごしていました」と主張することができます。

 一方、同意が取れていないということは、ガラスバッチの必要性を理解していない住民がいたということを示唆しています。研究に必要だということを知らなければ、住民もガラスバッチをそこらへんに放置して終わり、ということにもなるでしょう。
 そうなれば、ガラスバッチを基にした放射能被曝のデータは実際よりもかなり過小評価されていると考えるべきでしょう。ガラスバッチが家に放置され、外出する時も身に着けられていなかったらそうなります。そのようなデータを基にして「被曝は大したことない」という結論を導いても信頼はできません。

 早野氏は論文の取り下げを
 ともあれ、この論文は倫理的な問題が大きく、早野氏はこの疑惑を払拭できない限り論文を取り下げるべきです。
 研究倫理を順守することは、実は研究者にとって大して利益があるわけではありません。面倒な申請書を出し、無駄に時間を待ち、立場によってはその申請書を読んで門外漢の研究について評価せねばならず……と、コストばかりが多く論文の生産それ自体にはさほど役立ちません。

 しかし一方で、参加者の権利を擁護し科学の発展を正当化するには欠かせないプロセスでもあります。これがなくなってしまえば、科学の発展を人々に受け入れてもらうこともできず、その発展の意義が失われます。

 このような重大な倫理的な問題をはらむ論文をそのままにしておけば、研究倫理を順守するのもばからしくなり、誰も守らなくなるでしょう。今後の科学の発展のためこそ、この論文は取り下げられてしかるべきです。

「橋下的なもの」=専門知の軽視はどこからやってくるのか

 1日に放送されたAbemaTV『NewsBAR橋下』「“橋下新党”立ち上げ!?スペシャル」で、東京都教育委員や公立小学校の教諭を務めた経験もある作家の乙武洋匡氏が教育問題について提言。「戦争に負けて復興していく中では同じことを効率的にこなしてくことが必要だった。だからベルトコンベア式に、なるべく同じように育てていくのが正解だった。でも、もうそんな時代は何十年前に終わっているし、"個性を伸ばそう"とさんざん言ってきたのに、実際に現場でやっていることはそんなに変わっていない」と指摘。さらに、自身が教員免許を取得した経験から、次のように問題提起した。
 「教員免許を取るためには、大学で相当な数の授業を取らなければいけない。その時点で、何かにのめり込んだり、旅に行きまくったような人たちは厳しいし、免許を取る人はめちゃくちゃ真面目な人ばかり。だから親や社会、先生が引いてきたレースの上を歩くような人しか教員になれない。そうすると、ちょっと既存の枠に収まりきらないような子に対して"あんた、そんなことじゃ将来大変だよと"と心配するあまり、違う方向に引っ張っていってしまう。でも、その先生が見えていない社会で貢献したり、輝いたりできる子がいるはず。そういう型破りな子を伸ばせる人材が必要だ。でも今はそういう人たちが入って来られないシステムになっている。そこでまず、教員免許に手を付けるべきだと考えた。全部廃止するということではなく、3分の2は今までどおりで、残りの3分の1は別の枠で、ということで良い。全く違う分野で働いていた人や外国に住んでいた人など、いろんなバックグラウンドを持った人が働くようになれば、現場は変わると思う」。
(中略)
 橋下氏は乙武氏の提案を受け「大いにありだ。今の教員免許が必要な技量を測っているものなのかを問い直すことが必要だ。加えて、そのための教育や試験の中身はどうなんだということを見なければいけない。たとえば英語の先生の免許だっておかしいと思う。"This is a pen"なんて、日常生活で絶対使わない。最低限、学ばなきゃいけないことは見えてきていると思うので、それ意外のことは選択制でいいと思う。だって元素記号やサイン・コサイン・タンジェント、どこで使うの?使ったためしがない。勉強のできる人たちは"そういうのも教養だ"というが、今はインターネットで色々なことは調べられる」と指摘。
 乙武洋匡氏「教育改革のためには教員免許の”廃止”を!」橋下氏「大いにありだ」-AmebaTIMES
 これの件です。
 元々、橋下徹元大阪府知事をはじめとする「大阪維新」の系譜というのは専門知を軽視するという姿勢が一貫しています。 実際に、大阪市は公募で民間から学校長を集め、その結果逮捕者、不祥事を続出という陰惨な結果となっていました。

 実際には乙武氏は「廃止」まで強いことは言っておらず、橋下氏もこの記事を読むだけでは「廃止」とは言っていません。ただ橋下氏の発言が「専門知の軽視」に根付いているものであることは、その発言内容から明白であろうと思います。
 これらの主張の是非に関しては、すでに教育の専門家も論じていることでしょうからそれはさておいて、私はもっと根本にある、専門知の軽視という「橋下的なもの」がどこからやってきたのかを論じてみようと思います。

 出発点は「田舎の親戚」にある?
 なぜ橋下的なもの、専門知の軽視が生まれるのでしょうか。日本の伝統工芸を守る職人たちは「スゴイ!」と褒めそやされているのだから、同じように専門的な仕事をしている専門家だって「スゴイ!」と言われてもよさそうなのに、そうなっていないのはなぜでしょうか。

 そもそも私がこのことを考え出した端緒は、正月恒例行事である田舎の親戚との集まりでした。田舎の親戚は当たり前のように昔の人間なので、私の仕事を説明しても1ミリくらいしか理解してくれません。「犯罪心理学とは?」という状態ですらなく、そもそも「心理学とは?」が理解されていない有様です。その場で懇切丁寧に説明しても半年後には0にリセットされている状態ですから、徒労感も半端ではない。
 というわけで親戚の中では私は「何やっているかわからない人」になっているのですが、この「何やっているのかわからない人」という状態は彼らの中でほとんど「仕事していない人」と同義になっているようです。せめて「大学の先生」だったらまだ違いそうなんですが、大学院生だとそうでもないので結局「仕事していない人」という、間違っていないけど限りなく誤りに近い認識が生まれるわけです。

 そういう経験から何となく予想していることなのですが、こういう人というのは「職業・仕事」として想定している範疇が極めて狭いのではなかろうかと思います。少なくとも大学の先生はあまり職業として認識されていないのでは。そう考えると、橋下的なものの過剰なまでの大学教員憎しは「フリーターが偉そうなことを!」みたいな反応なのかもしれません。「現場を知らない」ってやつですね。「現場を知らない」とみなされる職業は職業じゃない、というほどではなくとも、「半職業」くらいの認識なのでは。

 「進路教育」の弊害
 しかし上掲の議論では、昔の田舎の人という極めて狭い人たちの思考回路しか説明できていません。これは若者から労働者年齢の人たちが維新や橋下的なものを支持する理由にはならないでしょう。これらの年齢層の支持を説明するには、別の理論を考えねばなりません。

 さて、これも個人的な経験なのですが、こういう進路を選ぶと時折「就職から逃げた」かのような物言いをされることがあります。実際を言えば、大学院進学は別に逃げではありませんし、就職率を考えれば大卒で就職することこそむしろ安きに流れている、逃げているということすらできるでしょう。

 それはともかく、橋下的な専門知の軽視を支える大きな要因の1つとして「専門的職業へのやっかみ」のようなものがあると考えるのはさほど的外れではないでしょう。
 なぜこのようなやっかみが生じるのかといえば、これは小中学校で行われるような進路教育がおおむね「将来どんな仕事に就きたい?」という形式で将来の夢を尋ね、いまの好きなことを将来の職業にしようという方向へ誘導するような形式になっていることが遠因になっているからでしょう。
 いつかのYouTubeの広告のごとく「好きなことで生きていく」のは困難であり、また別にそうしなければならない理由もありません。サッカーが好きだからと言ってサッカー選手になる必要もなく「適当な仕事について休日に趣味でサッカーできる生活がいいな」だっていいはずです。しかし現状の進路教育はこのような形の生き方を想定せず、「サッカーが好き?じゃあ将来サッカー選手だよね夢はあきらめなければかなうよ!」くらいのことしか言いません。

 周りの環境の変化も拍車をかけているでしょう。現在はちょっと動画をアップしただけで有名人になったり、ちょっとネットで小説を発表しただけで小説家になったりと、簡単なことで特別な人になったように「見える」(実際はそうでもない)人が山ほどいます。このような状況では、特別な職業に就きたい、特別な人間になりたいという欲望ばかりが加速する結果となります。
 しかし人間というのは、突き詰めれば「その他大勢」でしかありません。ノーベル賞受賞者だって、見方を変えれば今までにいた幾人もの受賞者のone of themでしかないわけですから、そうではない我々は言うまでもありません。故に「その他大勢である私の価値」をいかに保持するかが大事であるはずなのですが、現状そのようなスキルを育てる教育はありません。

 もちろん、好きなことで生きていくというような「特別な職に就く」ことのできる特別な人間は限られており、ざっくり9割は夢をかなえられない「負け組」になることは必定です。もっと多いかもしれません。そして「その他大勢の私」に価値を見出せない彼らが取ることのできる手段は2つ。1つは不適応な方法で特別感を演出すること。もう1つが目立つ価値を否定することです。

 橋下的なものを支える過剰な現場主義と専門知の軽視は、それぞれこの手段と対応しています。つまり「自分は現場を知っている」という、それ自体はあまりにも些細であったり虚偽ですらある価値に縋りつくことで自分の価値を不適当な方法で持ち上げる一方で、専門知を「大したことがない」と貶めることでその落差を利用し自分自身の価値を高めようと試みるのです。

 実際には、橋下氏自身がこのような状態に陥っているというわけではないでしょう。TVで活躍し、地方自治体の首長にもなった人物が自分に価値を感じれないとすればあまりにも倒錯的ですから。なので橋下氏はわかってて市民を煽る扇動者であり、それはそれで厄介な存在ということになるのですが。
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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