九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

DV

欲しいものリストを公開しています。
https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/1CJYO87ZW0UPM?&sort=default
詳しくは以下の記事をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/kudan9/archives/55214570.html

【書評】女性に対する暴力 被害者学的視点から

 今回はこの分厚い一冊を。かなり網羅的に書かれていて参考になりますが、内容が多すぎるという気も。「被害者学的視点から」と銘打たれていますが、その辺もあまりピンとこなかったような。

 ストーカー規制法のその後
 筆者は個人的に、このブログを始めた当初はストーカー規制法について追っていました。ですが時間が経つにつれ、ほかの様々な話題に触れていく一方でストーカーの話題は扱わなくなっていきました。

 本書を読んで、久々にストーカーに関して最新の動向を知ることができました。

 まず、ストーカー規制法は2度の改正を経ています。2013年の第一次改正でメールの連続した送信が規制の対象となり、2016年の第二次改正ではSNSでのやり取りも規制の対象となりました。

 はっきり言えば、少なくともメールの規制は規制法制定当初から盛り込むべき内容であり、SNS対策についても遅きに失したと言わざるを得ないでしょう。それでも、現在はSNSにまで規制は及んでいます。

 しかし、当然ですが、それですべてが解決するわけではありません。

 著者が指摘するように、ストーカー規制法最大の問題点は、恋愛感情に基づく行為のみを規制の対象にしていることです。例えば元夫が元妻に「子供に会わせろ!」と付きまとう行為は規制の対象とならない可能性があります。

 またストーカーには、恋愛感情とは関係なく一種の逆恨みを動機として犯行に及ぶ者がいることもよく知られています。海外では、一目見ただけの相手に恨みを募らせてストーキングを始めた事例もあるようですから。

 どのような動機であれ、被害者の負担に差異はありません。また、不明瞭な内心を根拠とする規制よりも、外形上の行動に基づいて規制を行う方が、恣意的な運用を防ぐことにもつながるでしょう。次回の改正では、この不合理な限定を排さなければなりません。

 もう1つ問題は、規制法における禁止命令を出す主体が、捜査を行う主体である警察行政と共通している点です。重大なストーカーの多くは、警察の怠慢から発生している状況がありますが、接近禁止命令などを言い渡すのが警察では、警察の怠業の歯止めとならず、かえって拍車をかける結果になるでしょう。諸外国と同様に、禁止命令は裁判所が出し、それに違反した場合警察が捜査するという形であるべきです。

 DVのサイクル
 もう1つ、これは昨年のDVに関連する裁判でも話題になりましたが、本書では「暴力のサイクル」や「権力と支配の車輪」も取り上げられています。

 DV理解において重要なのは、DVが単に配偶者間の暴力であるにとどまらず、配偶者に対する「支配」であるという点でしょう。

 近年は注目されてきましたが、夫婦間における、特に夫側から妻側への威圧、強制、命令がごとき「些細な」問題は、DVとは捉えられてこなかったでしょう。
 しかし、実際にはそうではなく、そうした配偶者を軽視するような言動もまた、DVの無視できない一側面なのです。

 このようなDVが発生する原因は、当然というべきでしょうが、加害者の中にある男性中心的な思考です。妻は夫の所有物であり、命令に従って当然という発想がある限り、加害者の加害がやむことはないでしょう。

 最近ではこのような考え方を改めるフェミニズムカウンセリングというものも行われているようです。

 本書の議論はとにかく多岐にわたり、日本の動向から国際的な動向まで最新の動きを踏まえている労作です。この一冊を得ておくだけでも性暴力に関する理解度が違ってくるでしょう。

 秋山千明 (2019). 女性に対する暴力 被害者学的視点から 尚学社

「心愛ちゃん」事件 子ども虐待死「母の罪」とは何か(サンデー毎日2019年9月1日号)

 久々の記事評。今回はサンデー毎日9月1日号の表紙にばっちり書いてあったので目を引いたこちらの記事です。

 扱われているのは、野田市で10歳の女児が虐待死した事件です。この事件は行政や学校が虐待を把握していたのに防げなかったという問題もあり世間で騒がれました。といっても、もう忘れられかけているような気もしますが。このタイミングで続報を打ったことには意義があるでしょう。

 記事では虐待ほう助罪に問われた母親について着目しています。なお、母親は千葉地裁での裁判で懲役2年6か月、保護観察付き執行猶予5年の判決を言い渡されています。

 裁判所の無理解
 地味に驚きなのが、求刑は懲役2年であるにもかかわらず、執行猶予付きとはいえ判決の懲役が半年も伸びているという点です。こういうのってたいていの場合、求刑よりも短く言い渡されるようなイメージがあるのですが。

 このような判決となった原因の1つが、裁判所によるDV被害への無理解でしょう。すでに報道でも、また法廷においても被告となった母親が夫から苛烈なDVを受けていたことは明白になっていましたが、判決ではDVという言葉は一度も使われませんでした。

 一般に、DVや虐待といった被害にあった人は、暴力から逃れるために加害者へ同調するような言動を見せることがあります。とりわけ命にかかわるほど激しい暴力にさらされていれば、生物としての生存本能から、このような行動をとる可能性は上がるでしょう。

 また、危機的な状況に晒され続けると、人の心理は「乖離」を起こして精神を守ろうとします。この状態になると、乖離を起こした人は自分がまるで別の生きているような感覚を覚えたり、幽体離脱のように体から精神が離れて自分自身を見下ろしているかのような感覚に襲われます。自分が自分ではないような感覚に陥れば、当然ながら正常な判断は損なわれます。

 今回事件となった虐待も、そのような通常ではない精神状態の下で引き起こされた可能性が高いというべきでしょう。被告となった母親に虐待の責任を問えるかは極めて怪しく、多かれ少なかれ情状酌量されてしかるべき状況であったと思われます。

 しかしながら、判決では「夫の支配的な言動の強い影響で逆らうのは難しかった」と言及しながらも、同時に「母としての非難は免れない」としました。

 DVにせよ性犯罪にせよ、最新の知見が蓄積されている分野において、裁判官の認識不足が目立つケースが増えているように感じられます。裁判官は法律の専門家でしょうが、しかしながら犯罪そのものの専門家ではありません。そのことを虚心に見つめ、最新の知見を積極的に取り入れる機会を設けてほしいものです。

 DV被害者の処罰と更生を
 日本では2001年にDV防止法が成立しましたが、被害者支援が中心で加害者の処罰や更生に無関心であるという問題があります。記事中にある、DV対策に取り組むNPO「アウェア」の代表山口のり子氏の指摘では、裁判所による保護命令すら身体的暴力や生命に対する脅迫を証明できないと出されない状況であり、DVの重要な要素の1つである精神的暴力は無視されています。

 また、仮にその場においてDVを解決したとしても、加害者が罰せられず更生もされない以上、十中八九再犯が起こります。DVは加害者の配偶者への蔑視的な認知や態度が原因であること考えれば、DVが発生している夫婦を首尾よく引き離すだけでは根本の解決には至りません。更生プログラムなどでDVへ至る考え方を改める必要があります。

 記事中では、判決直後に行われた「DV防止法と関連法を考える」集会について言及されています。刑法における性犯罪規定と同様に、DV関連の法制も見直す時期に来ているのでしょう。

東大教授が今度は虐待事件で適当なことを書いていた件

 こんな風に記事の筆者を強く批判しましたが、これは筆者が「東大教授」という立場だからです。教授というのは単に「偉い学者先生」ではなく、大学生を教導する立場にある人のことです。そのような立場の人間がこのような差別を公共に垂れ流すことは許されません。自身が担当する学生の中にトランスジェンダーが一定数いるだろうということを考慮しない思慮浅さもあります。
(中略)
 つまり最初から、公衆浴場に全く男性の体であるMtFが入ることを求めているわけではないのです。誤った前提からは誤った結論しか導かれません。
 当然、平均的な女性(男性だったとしても)からすれば、全く男性の体である人が浴場に入ってくるのは、いくらMtFだったとしても容認しがたいものでしょう。それはある種当たり前の感覚だと思います。しかし当のMtFはそもそもそんなことは求めておらず(元々は女子大への受け入れに始まり、せいぜい性自認に合うトイレを使えるようにという「程度」の話だった)、そういうルールにならなかったとしても合理的配慮の観点からはやむを得ないだろうという考え方をしています。
 そのような背景を無視し、『要望あろうがなかろうが、女性だったら当然女湯です』と「無謀な男女平等」を一方的に押し付け、それが不可能であろうからトランスジェンダーを擁護するのはおかしいと論じるのはただの詭弁です。
 トランスフォビアとの話がかみ合わない理由 東大教授とやらの記事を題材に-九段新報
 4月にこんなことを書いていて。
 まぁ、要するにあほでオリジナリティすらないトランス排除論を東大教授という立場でぶち上げていたのがこいつなのですが、批判にもめげずまたやらかしました。なので今回もきっちり、つぶしておきましょうね。
(中略)
 知恵袋やんけ。
 失礼。驚きのあまり文字が大きくなりました。ですが「根拠は知恵袋」って、今日日大学生のレポートでもなかなか見ないであろう文章を東大教授が書くわけですから、記事全体の信頼性も察するべきでしょうね。
 なお、知恵袋のページでは「某大学の調査」という体で紹介されていましたが、こういうのをエビデンスとは言わないのは教授なら知っているはずです。
 東大教授がまたセクシャルマイノリティについて適当なことを書いた-九段新報
 5月にもこういうことを書いたのですが、この東大教授氏、懲りないようです。

 ちなみに、後者の記事に関しては若手哲学者有志が抗議声明を出していましたが、これに関して三浦氏は「文体が悪かった」という本質的ではない弁明に終始し、しかもその後にもセクシャルマイノリティを侮辱する記事を執筆している始末です。手に負えません。

 その点はまた回を改めて批判するつもりですが、今回は同氏によって書かれた、一時期よく報じられた虐待事件についてのこちらの記事を取り上げます。記事が公開されたのは、批判を浴びたセクシャルマイノリティ侮蔑記事よりも前ですが、当時の私も含めいささか見過ごされている感じがあるので、ここでしっかりと誤りを指摘しておき必要があるでしょう。

 批判への基本的な誤読と無理解
 今年1月、千葉県野田市で10歳の少女が父親に虐待され殺された事件。今もって泣けて仕方ありませんよ、まったく。同じ小学4年生の少女が囲碁界最年少プロ入りを決めたニュースが重なったこともあり、同年齢の運命の明暗がしみじみ感じられ……。
 それにしても執拗な虐待だったようです。「天声人語」は、母親の「信じがたい保身」を非難しました(2月11日)。私も同感。父親のヒトデナシぶりは論外として、母親も親失格、いや人間失格だと思いましたね。人間失格なんて軽々しく口にしちゃいけませんが、ホント気持ち的には。
 ところが驚いたことに、母親を擁護する声って結構あるんですね。4日後の朝日新聞読者投稿欄にはさっそく、「天声人語を読んで絶句した」というのが載りました。
(中略)
 想像力、ですか……。投稿者は24歳の女性、大学院生。最近では、法学者の戒能民江がこう語っています。
 「長期間DVを受け続けると人は自ら考えることにも蓋をされ、正しい判断を下すことが難しくなる。相手の言うことが正しいと思い込み、反発せず、自分が生き延びることができる方を自然と優先する。一見、異常にも感じるが、当たり前の反応だといえる」「日本は家族幻想が強く、大人の女性がDVを受けても自己責任だと世間は冷たい風潮がある。……社会が理解し、家庭内暴力はノーだと世間がしっかり提示していかなければならない」(産経新聞4月10日付から抜粋)
 当たり前の反応。ふーむ。女性はそういう見方をしますか。私なんか、大人と子どもの格差に目を奪われて、父母は同格に評価するのが当たり前と思いましたが。女目線だと、男女間のDVを子どもの虐待と同列に置くもんなんですね。ちょっとついていけないかな。
 妻は、夫の暴力に対して無力である。社会が理解し、サポートしなきゃいけない。これって、妻をまるっきり子ども扱いしてませんか。女さんたち、それでいいの? 子ども同士のいじめ問題と男女問題をごっちゃにしてませんか?

 本件の母・栗原なぎさ被告は心愛さんに対する父・勇一郎被告の虐待を黙認どころか、積極的に加担してましたよね。DVによって廃人化していたから仕方がなかったと? でも娘を軟禁し隠蔽工作する判断力と自主性は保っていたわけですよね?
 それでもなお「女は弱いから仕方なかった」と女性自身が同情しますか。それだと女は永久に半人前ですね。おんなこどもいっしょですね。男女平等は撤回ですわ。
 【野田小4女児虐待事件】母親を擁護するな、夫のDVは妻の言い訳にならない! 天然SMプレイ(?)に子どもを巻き込むな!(東大教授寄稿)-TOCANA (以下、引用は同じ記事から。太文字は引用者)
 野田市の虐待事件では、虐待加害者とされた母親も夫からのDVを受けていたと報じられています。その点が母親への同情的な視点と、報道や警察の対応への批判に繋がったわけですが、氏はこの批判を「妻をまるっきり子ども扱い」と歪めて解釈します。

 まず、男女で身体能力、あるいは社会的立場に不均衡があることは既によく知られていることであり、その点はまさに三浦氏が引用した戒能民江氏の文章でも示されていることです。純然と存在するそのような不均衡を勘案することは「女性を子ども扱い」することにはなりません。

 女性がそのような不均衡のために不利益を被り、自己選択の権利を十全に発揮できないという状況を無視し、「一人前の大人なのだから、そのような周囲の制約に惑わされることはないor惑わされるのは個人の問題で社会の問題ではない」と論じることは、不均衡を温存するための議論にすぎません。不均衡を無視することこそ、女性を一人前の大人として扱わない立場でしょう。このような、不利な立場に置かれた人の不利を無視して自己決定能力を過大視する議論は、ペドフィリアが児童の自己決定能力を過大に見積もるのとよく似た、差別主義者にお決まりのスタイルです。

 女性の置かれた立場をさておくにしても、当該の虐待事件で母親がDV被害にあっていたのは明白な事実であり、このことをベースに議論を進めなければいけません。暴力的な支配にあっていた人が自己決定能力を十全に発揮できないのは自明であり、そのことを考慮することは決して「妻をまるっきり子ども扱い」することにはなりません。

 しかしながら、次に述べるように、氏のDV被害についての認識は、東大教授という肩書に似つかわしくないほど乏しく貧弱なものです。

 いまさらその認識?
 本件の母・栗原なぎさ被告は心愛さんに対する父・勇一郎被告の虐待を黙認どころか、積極的に加担してましたよね。DVによって廃人化していたから仕方がなかったと? でも娘を軟禁し隠蔽工作する判断力と自主性は保っていたわけですよね?
 それでもなお「女は弱いから仕方なかった」と女性自身が同情しますか。それだと女は永久に半人前ですね。おんなこどもいっしょですね。男女平等は撤回ですわ。
 そもそも「女は弱い」って、握力や背筋力のこと言ってますか。原始時代じゃないんです。ゲンコツで権力関係が決まるわけではない。男同士の序列を見てください。マッチョマンが頂点に立って青白いもやし男どもを支配してますか? 「あいつは腕っぷしが強いから」と、運動オンチたちが怖気づきますか? 逆ですよ。暴力的なDQNは軽蔑され、頭の切れるやつが職場も個人的人間関係も牛耳るんです。女同士だって同じでしょ?
 それが男女となった途端に、筋力が序列を決めるようになるんですか?
 それとも経済力? 違うでしょ。現代日本の結婚制度って、稼ぎの少ない側にやさしく作られてます。かりに別居となっても、法律を利用して権利主張すれば、生活は悪化しないはずですよ。もちろんしっかり請求しなきゃ、もらえるものももらえませんけどね。
 あの事件、妻であり母である女があそこまで堕落してしまったのはどうしてでしょう? ボイスレコーダーやカメラで証拠固めも簡単なこの時代。個人レベルでキッパリ対処すれば、DVなんてまともに成立しないはずなんですが。
 あえて繰り返し引用しましたが、氏は「娘を軟禁し隠蔽工作する判断力と自主性は保っていた」と述べ、それが母親の虐待についての責任を求める根拠であるかのように指摘しています。引用部後半でも「ボイスレコーダーやカメラで証拠固めも簡単」と述べ、まるで被害者が対策を怠ったためにDV被害を受け、虐待をするようになったかのように書いています。

 しかし、これらの記述はDV被害への無理解から生じるもの断ずることができます。
 まず、DV被害は、被害者が日常的に危機的な状況に立たされ、支配されることであると認識しなければいけません。ストックホルム症候群の例を持ち出すまでもなく、このような状況下では、人は保身のために加害者へ服従し、傍目から見ると奇怪に映るほど従順に行動することがあります。立てこもり犯と被害者が恋愛関係になり結婚までした事例も報告されているほどです。

 ましてやDVは、関係のスタートが恋愛感情である場合が多く、話はさらに複雑です。加害者とはいえ元々好きになった相手であり、加害者も常に暴力的というわけではないので、「今度こそ暴力をやめてくれる……」という淡い期待からずるずると関係が続いてしまうことも少なくありません。そして、そのような飴と鞭の繰り返しが、結果として被害者を加害者へ縛り付ける機能を果たしてしまうのです。

 このような、非日常的で危機的な状況に常に立たされれば、人は正常な判断が下せなくなります。平たく言えば、「ボイスレコーダーやカメラで証拠固め」という簡単なことができなくなってしまうのがDV被害の特徴というわけです。
 仮に、そこまで支配が進んでいなかったとしても、録音がばれたときの報復を考えて躊躇う被害者は少なくないでしょう。引用部分の文章は、そのような背景を無視した愚論です。三浦氏にはぜひ、文章を公にする前に基本的な入門書で実情を学んでほしいところですね。

 もう時代遅れのミソジニスト
 そう、「心理的に」男に従属してしまう女が多い、それが現実かもしれません。そもそも女コミュニティには価値観の構造的歪みがあるというか……たとえば「彼氏ができた」というのは無条件で「おめでとう案件」ですよね。「男の後ろ盾」が女社会の中で重んじられる度合って、男の想像を絶するものがありますよ。
 男同士だと、彼女なんぞ作らずにやりまくってるやつほど尊敬されるでしょ。それもどうかと思うけど、女は女で〈異性に依存できる身分〉にバカ高い評価を与え合う。そのせいで、いったん彼氏ができるとその地位を失いたくないあまり、無意識に彼氏に迎合し、従属してしまいがちなんです。
 デートDVはなぜなくならない? 不思議ですよね。さっさと別れりゃいいだろと。でも「同意のないセックス」は根絶しがたいみたいで。「断れない女」が多すぎる……。
 生殖行為なんて女にとって命がけなのだから、そう簡単に挿れさせてたまるかってのが本音でしょう、本来。だから男は我慢できなさそうとか、気を回す必要なんかないのに。
 でもラブホの代金を彼氏に払わせているうちに、男都合に順応し、強引な男、ゴムを嫌がる身勝手な男を「強い男」だと自らポジティブに意識改革してしまう。♂に守られて利益を得てきた哺乳類♀の進化論的本能のまま、デートレイプに身を任せてしまう……。
 従属するのが気持ちいい――の境地ですね。世の中、一見信じがたいほどのDV関係がまったく破綻せずに続いてる例が少なくないようですが、その理由の一つは、天然SMプレイを双方が楽しんでる、ってのが意外とあるんじゃないでしょうか。プロレス技と同じで、受け手の自発的な協力がないと続くわけありませんからね、大人同士のDVなんて。
 そう考えると、栗原なぎさ被告があまりに無策だった理由に「想像力」が働くような気がしてきます。勇一郎被告が心愛さんへの虐待行為を録画していたのは、あれがサディズム嗜好の産物だった証拠でしょう。夫婦間にも同じような、日常SMの快楽的相互了解が成立していたのかもしれません。
 なぎさ被告がドMだったか単なるDV被害者だったかはほとんど哲学的解釈の問題ですが――、子どもを巻き込んだ時点でSMプレイじゃ済まないんだよ、お楽しみは夫婦だけでやってろよって話。そうですよ、あの「母親を責めるな」って声、やっぱり私、共感できませんね。「女は弱いんで、許してください」って、女が言うな、って話ですよ。
 最後の部分は、もはやどこかで聞いたことのあるような駄文で占められています。氏の文章をかつて「あほでオリジナリティすらないトランス排除論」と評したことがありますが、ここにもやはりオリジナリティのかけらもありません。事実に反する上にクリエイティビティにも欠ける文章というのは救いようがないですね。

 それにしても、氏の男女観はあまりにも古く、悪い意味で老成しています。「男同士だと、彼女なんぞ作らずにやりまくってるやつほど尊敬されるでしょ」とか、集団によるでしょうが、明らかに事実と反します。氏が中高生のころはそうだったのかもしれませんけど。

 1985年に発表された文章の中で、田嶋陽子氏は、女性が女性に社会の規範や期待を語るとき、その中には男性社会の要請が含まれていることを、自身が母親から女性らしくあれと繰り返し言われたエピソードを介して明瞭に描き出しています。このことを踏まえると、三浦氏の「そもそも女コミュニティには価値観の構造的歪みがあるというか(中略)「男の後ろ盾」が女社会の中で重んじられる度合って、男の想像を絶するものがありますよ」という記述の時代遅れがよくわかるでしょう。

 「デートDVはなぜなくならない?」から始まる2つの段落は、上述した男女の不均衡やDV被害に関する知見を無視した駄論であり、個別に論じる価値もありません。

 最大の問題は、このような無知と偏見に基づき、DV被害者たる母親を「愚か」と断じ、かつ「夫婦間にも同じような、日常SMの快楽的相互了解が成立していたのかも」などと、まるで被害者が自ら望んで被害を受けたかのような書き方をしていることです。これは明白な侮辱、名誉毀損の類でしょう。

 レイプについて、被害者が望んだのではないかという見方は典型的な非難として知られていますが、今時そのことをはっきりと述べる人はそう滅多にいるものではありません。それが誤った見方であることは、被害者を非難しようとするような類の人でもわかるほどだからです。
 三浦氏は、そのような差別主義者ですら回避するような愚論を、意味不明な持論で補強して提示したという点において、何重にも愚劣極まりないというほかないでしょう。

なんで純烈メンバーのDVを梅沢富美夫が偉そうに批判できるの?

 男性歌謡グループ「純烈」の元メンバー友井雄亮(38)にDVを受けていたとされるA子さんが、15日放送の日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」の取材に応じた。
 友井は今月11日に行った会見で女性に対するDVについて「殴ったり蹴ったりした。けんかの延長だったり…。それを抑える強さがなかったのだと思う」。きっかけについては、過去のことでと、記憶が曖昧のような様子で「別れ話とか、たわいもないけんかだったか。浮気も多々あったと思う」と説明していた。16年に「誓約書」を書いたことで、いったんは2人の関係が絶たれたが、今回の報道で再びA子さんとあらためて事案を協議することになった。
 元純烈友井のDV「木製ハンガー壊れるまで」被害者-Niftyニュース
 この話題です。

 特撮オタを自認する私としては、友井雄亮ってどっかで聞いたことあるなと思って調べて仮面ライダーギルスだったときにびっくりしてしまったわけです。デューク役だった人もしかり、ヒーローを演じた人には後々の振る舞いにも気を付けていただきたいものです。

 しかし報道を見る限り、純烈のほかのメンバーは厳正に対処していますし、事務所も被害者が週刊誌に情報提供したわけではないことを明言するなど、被害者に非がないことを強調していますし、比較的適切に対処できているのではなかろうかなと思います。当たり前と言われればそれまでですが。
 メンバーが報道までDVを知らなかったというのも、おそらく本当なのでしょう。DV加害者の特性を一言で表すならば「内弁慶」であり、往々にして外面はいい傾向がありますから。

 私が気になったのは、むしろ本筋とは少し外れたところでした。

 お前が言える義理か?
 俳優・梅沢富美男(68)が16日、フジテレビ系「バイキング」(月~金曜前11・55)に出演し、激怒した。
 番組では、男性ムード歌謡グループ、純烈が、暴力や金銭使い込みなど複数の女性トラブルを起こした元メンバー、友井雄亮氏の芸能界引退を受けて行った会見の様子などを詳しく紹介した。
 意見を求められた梅沢は「俺も温泉センターで仕事やってたことあるから」と切り出し、「彼らがもらってるギャラなんて1万か2万だよ、5人で。そんな金でどうやって生活できる? それを一生懸命がんばって、やってきたわけじゃない」と自身の経験と重ねながら話し、「紅白出たときに、あぁ、俺と同じ道たどったな、良かったな、と思った矢先にこれでしょ?」と残念がった。
 さらに、「前から何回も言ってるけども、俺もギャンブルは好きだからやるよ? でも、てめぇの身の丈でやってんだ。そんな稼ぎもしねえうちに、人の金使ってバクチやるような、だから自分でケツふけねえから、こんなことになるんだ。もう、がっかりしたね!」と怒りを爆発させた。
 梅沢富美男、純烈に自身の経験とだぶり激怒「がっかりしたね!」-サンスポ
 ちょうど『バイキング』の報道を見ているときでした。この話題のときに聞き覚えのある声が聞こえてきました。梅沢富美夫です。
 彼は報道に際して、記事中にあるようなことを言っていました。主張それ自体は妥当なところでしょう。問題は、この発言が「梅沢富美夫から出てきた」ということです。

 なぜ梅沢富美夫だとだめなのか。それは彼が往々にして、体罰を肯定する発言を繰り返してきたからです。
 かつて体罰が容認されていた時代もあったが、今ではそれは許されない。もちろん、体罰が子供の心に深い傷を与える可能性がある以上、それを軽々しく肯定することはできない。 しかしそれでも、「体罰=絶対悪」ではないはずだと俳優の梅沢富美男は指摘する。
 「非常に難しい問題だけど、すべてを体罰として禁止してしまえば、マニュアル通りにしか動けない人間ばかりになります。“殴られるかも”という思いがあるから子供たちは頭を使って考えるようになり、“生きる知恵”が育まれるわけだから。体罰を辞さなかったうちの親父は『学校では1+1=2になるけど、世の中に出たら1+1が3や4になる。だから社会勉強をしろ』と教えてくれました。学校で教わった四角四面のきれい事は社会に出たら通用しない場合もあるんです」
 武田鉄矢と三原じゅん子、梅沢富美男が語る「暴力」-NEWSポストセブン
 梅沢富美男の著書『正論 人には守るべき真っ当なルールがある』では、たとえば、「しつけ」の問題について体罰をふるう場面を許容している。2017年11月30日放送『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ)にて、日馬富士の暴行事件についてコメントを求められた梅沢は「『そりゃあ、お前なんてこと言ったんだ!』って教育することは大切なことだと思います。それで、一発二発殴ることは当然あります」と発言し、体罰肯定論なのではないかと問題になったことがあるが、その傾向は著書のなかにもある。
 〈僕は暴力を好きではない。なぜなら子どもといえども、立派な人格を持って いるから話せばわかるのだ。ただしそれは、一生懸命頑張っている子がミスを した場合であって、わざと悪さするガキとなれば、話は別だ〉
 それに付随するように、この本のなかでは、車を運転しているときに蛇行運転をして挑発したうえドアを何度も蹴ってくるバイクに乗った少年たちを無理やり引き止め「この、バカ野郎!」と怒鳴りつけながら殴った話や、娘の父兄参観に出席した際に授業中騒いでいた子を怒鳴りつけて他の親から「二度と来ないでくれ」と言われた話なども書かれている。
 これらのケースを見ると、確かに、しかられる子どもの側にもそれなりの理由があるが、それを留保しても、「しつけ」や「教育」について論じる文章のなかに入れ込むのにふさわしい挿話なのかは疑問だ。
 梅沢富美男は「愛すべきおじさん」なのか? パワハラ・セクハラ・ブラック労働賛美を「スカッと痛快な本音」と喜ぶテレビ視聴者の罪-WEZZY
 引用した記事にあるように、氏は劇団を率いる立場、つまり後進の役者を育成する立場として体罰を肯定する言説を繰り返しています。
 しかしわざわざ言うまでもなく、どのような状況であれ体罰は許されるものではありません。『体罰肯定派はなぜこんなにも子供を殴りたくてたまらないのか』『体罰に効果がない心理学的理由』でも論じましたが、体罰には効果がなく、また仮に効果があったとしても人権主義的な観点から認めるべきではありません。

 体罰とDVの類似点
 しかも体罰とDVには、単に反社会的な行動である以上に類似点があります。
 1つは、双方ともが権力関係の中で発生するものであるということです。体罰はもちろんのこと、DVも妻は夫に尽くすべきだという旧来の考え方や単純な体格差による優位性といった権力関係を利用して行われるものです。上で「DV加害者は往々にして外面がいい」と書きましたが、これもDV加害者がDVをできる権力関係を見極めて実行しているが故です。

 もう1つは、DVも体罰もたいていの場合「相手のため」や「愛ゆえに」という表面上の理由を口実にするという点です。つまり反社会的な暴力行為をそうだと認めず、場合によっては「俺に殴らせるお前が悪い」という責任転嫁まで行います。

 DVと体罰はこのように、対象が異なるだけでその精神性には大きな共通点があります。故に梅沢富美夫が体罰を肯定する一方でDV加害者を非難するのは、詐欺師が泥棒を批判しているようなものと言えるでしょう。

 さらに言えば、梅沢富美夫はその旧態依然とした女性蔑視、セクハラ発言でも度々批判されています。セクハラも加害者の権力的優位性を盾に行われるものであると考えれば、先の例えは「強姦犯で詐欺師の男が泥棒を非難している」と修正すべきかもしれません。

法学セミナー2016年6月号 『ジェンダー法学入門』を読む

 今回の書評は番外編。たまたま図書館で目についた法学セミナーの6月号が面白い内容をやっていたので紹介します。
 本誌ではテーマを『ジェンダー法学入門』と銘打って、ジェンダーの視点から法律の問題を論じています。特に今回は島岡まな氏による『ジェンダー刑法学入門』を取り上げます。
 本稿では、刑法における問題点を取り上げており、大きく2つのパートに分かれます。後半は性犯罪の問題という、本ブログで散々論じた話題なので割愛するとして、前半部で取り上げられている「正当防衛」の問題点はなかなか興味深いものでした。

 関連記事
 【書評】性と法律――変わったこと、変えたいこと

 DV夫を殺した場合
 夫のDVに耐えかね、思い余って殺害、その後出頭。このような事例は多くはありませんが、一定数発生しています。このような場合、殺害した妻は通常通り殺人罪で裁かれることになります。これを、筆者はDV被害者にあまりにも不利な制度だと指摘しています。
 延々と繰り返されるDV被害から逃れるために相手を殺した場合、正当防衛が適用されそうですが実際にはそうはなりません。正当防衛はあくまで急迫不正の侵害から逃れるためのものであり、DV夫を殺すような事例では急迫ではないから適用されないというのが通説です。
 恐らく、これは急迫でなければしかるべき手段に訴え出ることが出来るため、反法的な行為を容認する必要もないという意味があるのでしょう。しかし、DV被害者は加害者と共依存の関係になっており、そのしかるべき手段に訴えるのが困難な場合が大半を占めます。
 このため、DV夫を殺した妻は正当防衛として免責されることはなく、殺人犯として精々情状酌量を受ける程度で裁かれます。
 これに対して、緊急回避や急迫の拡大解釈で対応しようとする意見もあるようですが、既存の法律との兼ね合いなどから、不可能であろうというのが筆者の見解のようです。

 DV対策のさらなる包括法を
 この問題に対して、筆者が提案するのが特別な立法による免責です。現状の法律でダメなら、新たに法律を作ろうという発想です。
 現に、盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律、いわゆる盗犯等防止法では家屋に侵入した窃盗犯と出くわしたとき、通常の正当防衛よりも広い範囲で正当防衛を認めることになっています。ならば、DV被害に対してもできない相談ではないでしょう。
 そもそも、現状のDV防止法が不十分であることは本誌の矢野恵美氏の記事『ジェンダーの視点から見た刑事政策』でも述べられていることです。その記事では、実際にはDVで検挙された加害者も、暴行や強姦など様々な罪状で刑務所に送られてくるため、彼らに包括的なDV防止教育を施すことが困難であり、また現状殆ど行われていないことが示されています。
 現状のDV防止法で満足せずに、より被害者保護にも再犯防止にも実効的な防止法の制定を目指すべきでしょう。

 ジェンダーと法学というと、性犯罪関連の問題が浮かびがちですが、実はもっと幅広い問題が隠れています。男である私にはなかなか気がつかない部分ではありますが、このような問題もできるだけ紹介して広めておきたいです。

【書評】男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン

 久々に図書館の、岩波ブックレットコーナーを見たら興味を引く本がいくつかあったので連続(つっても2回だけ)書評です。今回は「男性の」ジェンダー研究者によって書かれた、ホワイトリボン・キャンペーンを紹介するものです。

 ホワイトリボン・キャンペーンとは何か
 ホワイトリボン・キャンペーン(WRC)とは、簡単に言えば男性による女性への暴力をなくすために、男性が主体的になって活動する国際的啓発運動です。キャンペーンの発祥はカナダであり、本書で著者たちが訪れたオーストラリアなど全国に広がっている活動です。
 WRCの誕生には、ある事件が関係しています。それはカナダのモントリオール理工科大学で発生した銃乱射事件です。犯人は女性権利拡張論者のせいで自分の人生がうまくいかなくなったと逆恨み(大量殺人犯においてしばしばみられる責任転嫁です)し、大学で女子学生ばかり14名を殺害しました。
 この事件に責任を感じた、男性ジェンダー研究者マイケル・カウスマンを含む3名が声明を立ち上げ始まったのがWRCです。その名の通り、賛同者は白いリボンを身に付けます。
 この活動の要点は、主体が男性であるということです。従来から、女性に対する暴力問題は女性の問題として考えられており、特に女性に対して暴力を振るわない男性の関心はあまり高くありませんでした。しかし、社会の問題を解決する際に、人口の半分を占める男性を無視することはできません。また、暴力を振るう男性はえてして女性の忠告を軽視する傾向があるので、同じ男性の口から啓発することに意味があるとも考えられています。
 オーストラリアのWRCでは、スポーツ選手のような特に男性に人気のある著名人をアンバサダーに任命し、啓発に努めています。また、州警察やナショナル・ラグビー・リーグ、オーストラリア国軍のような極めて「男性的」な組織が積極的に参加したり、中にはバイク乗りたちが参加する「ホワイトリボン・ライド」という活動もあり、そこではスキンヘッドのバイク乗りがハーレーに乗って学校を訪れ、女性への暴力について啓発するという不思議な光景も見られるそうです。
 男性から女性への暴力には既存の男らしさの問い直しが必要であり、啓発運動にそれを用いるのは本末転倒であるという批判もありますが、利用できるものを利用し、社会をいい方向へ変えていこうという貪欲さは見習いたいものがあります。

 日本におけるWRC
 日本においては、まだまだWRCの知名度も高くなく、活動も活発ではありません。政府ですらこれらの問題解決にさほど積極的でなく、むしろ既存の伝統的(と思っている)家族観の固定化に躍起になっている有様ですからWRCの普及にはまだまだ時間がかかるでしょう。
 しかし、ホワイトリボン・キャンペーンKANSAIという運動は少しずつですが動き出しています。この運動がどれだけ主流化できるかはわかりませんが、男性がより積極的に女性への暴力問題に動き出すことになるよう祈っています。

 多賀 太・伊藤公雄・安藤哲也(2015).男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン 岩波書店
犯罪心理学者(途上)、アマ小説家。カクヨム『アラフォー刑事と犯罪学者』『生徒会の相談役』『車椅子探偵とデスゲームな高校』犯罪学ブログ『九段新報』など。質問はhttps://t.co/jBpEHGhrd9へ
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