子規句碑 堀江港                      

朗善です。もう順不同でまいります。v( ̄∇ ̄)v

その前に!

句碑めぐり。ばんぐみ裏話~ (=゚ω゚)人(゚ω゚=)ぃょぅ!
そーいやー句碑めぐりっていう幻の名番組がございましたね。( -д-)ノこれこれ。
まぼろしではないよ、まだ続いてまする。ユーストリーム という中の、
大街道ラジオというラジオのようでラジオでない、べんべん。
ま、テレビっすね。そのテレビ番組の中の、色々豪華多彩なゲストが続く中の、
ところどころに、ちらばって、映りこんでます。
最近はですね、朗善、しんじゅ、しんじゅ、しんじゅ、しんじゅ、朗善、しんじゅ、しんじゅ・・・てなぐあいに、
ふたりで力をあわして、かわりべったんに働いております。( ´∀`)つ
そゆうことで今回は、いきなりですが、7月6日に行いました回の、句碑解説をやりまーす。

まず、感動さしてもらったのが、道後村めぐり!
大街道ラジオのまん中、悟空さんが、なんとご夫婦で、道後村めぐりをやって、
名誉村民の証を手に入れられました!!
おめでとうございます。
私はこれ、歩いてぜんぶ回ったんだとまるで思い込んで、おう、と思った。
でもあとで、他の人が、車で回ったんだよね、といったんで、あ?と思った。
でもえらい。なかなかできんよ。 二人でドライブして村めぐりなんて、いい週末の過ごし方だよ!
なんか同じ中年として、はげまされるね。
私らも、今度の休みは、どっか、めぐりたいなあ、みたいな。
 
そして、続いて、るん。るん。ちゃんが、初めての俳句をシェアした!!!

発表します。

椿の実弾け耐えてる山の道 るん。るん。

中7の、弾け耐えてる、がよいですね~。
椿の実は、真っ黒な強い種の育つ力で、ぜんまいみたいに、ぐわわーん、とはじけて、殻が裂けちゃう。
そのはじけを、はじけないで、じっと耐えてる椿の実。
その姿をふと見たよ、山の道で、という句意です。
1、俳句の基本「写生」もよくできてるし、
2、はじけたえてる、という表現に「自分らしさ」も出てるし、
3、読んだときの「リズム」もいい、特に最後の、るん。るん。がいい。

ということで、絶賛いたしました。

最後に、いよいよ、本日の句碑登場!  川 ̄_ゝ ̄)ノ

堀江港

句碑の立つ場所は、ここです。

きれいな海でしょー???

これは堀江港。

堀江の港の近くの 浄福寺に、子規さんの句碑があります。

堀江子規句碑

ものヽふの河豚にくはるヽ悲しさよ 正岡子規

子規句碑解説

明治25年の11月に、瀬戸内海の愛媛沖で、「千島艦」(750トン)と、イギリスの会社の汽船ラヴェンナ号が衝突沈没する悲惨な事故が起こり、堀江港からは手漕ぎ船の救助隊が出たそうです。
子規さんは、そのもようを新聞「日本」に、俳句時評「海の藻屑」という記事を書いて、この句を添え追悼の意を表しました。

追悼の意なんだけど、どこか、子規さんの句には、おかしさがある。
くすっと笑うことで、悲しさがちょっとましになるっていうか、希望がわくよ。

沈没して溺れて亡くなった水兵さんたち。恐ろしい悲しい事だが、鮫に食はるる惨めさよ、でなくて、河豚にくはるる悲しさよ、と慰める。
河豚の口につんつんされる楽しさ。
その身の行く末は、人々を楽します「てっちり」になるんだよー!がんばれ! 
がんばって食われろよ! みたいな、励ましがある。

糸瓜の絶筆三句にも、救いがあり、励ましがある。
俳句は人をはげまし、はげまされる、ってことを、番組中言ったかどうかは覚えてない。
俳句甲子園見てると、それがほんとうだって、実感できるよね。うん。

あと、堀江にはこんな街角アートもあった。

まちかどアート

探してみてねー!!!!

GO TO HORIE!( ̄∠  ̄ )ノ 






 





河東壁梧桐の句碑 しんじゅ

今日は河東壁梧桐(かわひがしへきごとう)の句碑です!

  しんじゅがおおくりします

正岡子規は、碧梧桐と虚子について、

「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し

      と評したそうです。
 

碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧 」といわれました。

虚子には碧梧桐を悼んで詠んだ

「たとふれば独楽のはじける如くなり」

という弔句がありますね。


守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していたそうです。

昭和初期に風間直得が漢語にフリガナ(ルビ)を振るルビ俳句を試作して、賛同した

碧梧桐もやっていましたが、あまり支持を得られなかったようです。

晩年には季語や五七調に捕らわれない新傾向俳句を開拓した。

さて、壁梧桐は
河東静渓の五男です。

河東静渓の家は現在の千舟町にありました。

家は300坪ばかりもあり、十二畳の座敷から三畳の玄関まで10室くらい横長く続き、

その南側には大きな池があったそうです。お坊ちゃんだったんですね。

父の 静渓は、江戸「昌平学」に学び、帰松後「明教館」教授となり、

廃藩後明治13年私塾「千舟学舎」を開いて、子弟の教育にあたっていました。

正岡子規もここで漢学の教えを受けていました。

 
明治22年の夏と1230日、

子規はここの門前に当時
17の碧梧桐を連れ出して

素手でキャッチボールの要領を教えました。

これが、子規と碧梧桐の交わりの発端であり、

虚子
もまた、碧梧桐にならって子規に近づいたのです。

さて、ここがどこだかわかるでしょうか?


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そうです。松山市役所前からお堀の方をみたところです。

横断歩道の向こう側の句碑の看板が見えますね!

その横に句碑がひっそりと立っています。


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さくら活けた花屑はなくずの中から一枝拾ふ
 

昭和6年、松山刑務所内(現在の県立中央病院)に入所者の

情操教育のために建てららたそうです。

(受刑者にも俳句をすることで心に良い影響をとのことでしょう。)

昭和2881日、壁梧桐の17回忌を記念して

市役所前の堀端(二番町四丁目)に移されたそうです。

さらに平成
8年に工事のため現在地に移されているそうです。

この句は、句碑の建つ
8年前の大正13年、52
歳のときの句らしいです。

これが碧梧桐最初の句碑です

を活けていて、いらないと思って除けていた花屑の中から一枝拾って、ひょいと活け足した。

お花を生ける人ならあるある!って感じの風景です。

沢山の桜の枝を置いてある机や床の間の景がくっきり見えて好きだなと思います。

たくさんもらったりして、あそこにもここにもと花瓶もたくさん用意したりしてね!

他の人が「これもらうわよ!」って拾っていったのかもしれない。春先の桜が匂うようです。

 明治29年に、碧梧桐と虚子は神田の高田屋という下宿屋に下宿します。

その下宿屋には主人の長女夫婦と次女が一緒に住んでいて、

長女が食事のお世話をして、次女が下宿生の世話を担当しておりました。

次女の名前が糸子さんだったそうです。

この糸子を碧梧桐は好きになったんです

糸子の方も碧梧桐を「カワさん」、虚子を「キヨさん」と呼んで

家人同様に二人に親しく接していたそうです。

ところが翌明治30年に碧梧桐は軽い天然痘に罹っていることが判明し

一ヶ月ほど入院をしたのですね。

病気が治って下宿に戻ると、糸子の様子がおかしい。

あれほど親しかったのに、急によそよそしくなっている。!

なんと自分の留守中、虚子との間に縁談が進んでいたのです。


虚子と糸子が夫婦となり生まれた長男が高浜年尾。さらにその娘が稲畑汀子先生!!

すごいでしょう!!

今月「(3月)の子規記念博物館の俳句

「二番目の娘みめよし雛祭」

この二番目ってひょっとして糸子さんのことだったのかも!!って思いました。

子規も彼女の事を聞いていたのかもしれませんね。

私も二人姉妹の長女なので、次女の方が美人???な~んて思いました。 

長女はもう結婚していて、次女しか見えていなかったのかもね!!

さあつぎは、

温泉()めぐりして戻りし部屋に桃の活けてある

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ルビ俳句ですね! 

温泉と書いて、ゆと読ませています。

宿のおかみさんが、お客さんの温泉に入っている間に、桃の花を活けてくれたんですね。

お家かもしれませんね。

桃の花が色を添えていています。この句碑は「俳句の道」にあります。まるまるとした石に

面白い書体の俳句が良くあっています。

さて、彼の字!!特徴的ですね。


碧梧桐の書は,六朝書といわれ独特の書体であり,当時は風変わりな絵のようだともいわれました。

新傾向俳句が全国を風靡して,自由律俳人たちが競って傾倒するようになりました。


最初,碧梧桐は子規の書をお手本としていましたが,

明治401月,友人の中村不折より中国の六朝時代の石碑と拓本を送られて,

その力強い書体に感動して,

今までの筆法と違った六朝風のゴツイ字を書くようになったそうです。

碧梧桐の墓の文字はその代表的六朝書
(りくちょうかいしょ)
です。

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碧梧桐自筆の墓銘について,昭和
152月,大阪の俳人亀田小蛄は,次のように語っています。

「この墓銘はこの(松山)地の先生の侍者だった故藤田杉晩君が生前,来松中の先生に

『先生,私の墓銘を書いてください』というのを引き取って

『イヤ君は若い,僕のを書いておこう』と即座に揮毫されたものの是であった。」と。

このことを知って、私はすぐに
西山宝塔寺墓地に
撮影に走りました。

隣にはお父さまの静渓のお墓もありました。

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 当初壁梧桐は、印象的、絵画的な句を作っていたそうですが、

後に「新傾向」に走り、季題や定型にこだわらない句を作っています。

 



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「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくことごとくぶっしょうもあり)」

この句碑は松山市
東方町にある大蓮寺と言うお寺にあります。

自然界すべてに仏が宿っているということでしょうか。

 明治43年(1910)8月に一週間当寺に滞在俳夏行を営みその様子を

「日本及日本人」に発表した。度が好きで自然に親しみ山川草木のことごとくに仏性を見出した

壁梧桐の意をくんで地元有志が昭和53年にこの碑を建てた。

俳夏行とは一室にこもって句作に励むこと。

と看板にはこう書かれてありました。





さて最後の句碑です。


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銀杏寺をたよるやお船納涼の日

神田町にある定秀寺にある句碑です。

三津には大きな銀杏が植えてあって

その銀杏を頼りにして船を付けていたのらしい。

明治43年8月11日に三津浜にまねかれて、この句を残したそうです。

自由律の俳人らしいですね。中7の「や」が効いています。


やれやれ少し長くなりましたが

またね~



第3回 山頭火 

『朗善しんじゅの句碑めぐり)の

第3回目は 種田山頭火です~

山頭火は幼いころお母さんの自殺ということによって

心を痛めてしまいました。

しかも、その無残な姿を見てしまいます。それはショックだったでしょうね。

その後の人生に大きな影響を及ぼす出来事でした。


彼は放浪の俳人とも、自由律の俳人ともいわれ、

心の隙間を埋めるように俳句を詠みました。

山頭火の終の棲家である『一草庵』の庭には、山頭火を偲んで4基の句碑があります。
 

鉄鉢の中へも霰          山頭火
(てっぱつのなかへもあられ)


昭和7〈1932〉1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢(たくはつ)に出たときの句。 

『行乞記(ぎょうこつき)』にと記し、この句がある。

「今日はだいぶ寒かった。一作六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、

雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは
行脚(あんぎゃ)らしすぎる。」



この日、6里(約24Km)を歩いたそうです。

没後、初めて建てられた(山頭火にとって2番目の)句碑で、

山頭火の鬚(あごひげ)が納められています。

鉄鉢というのは托鉢に出るときに、お金やお米などを入れてもらうための鉢の事です。

この句のように、厳しい辛い時には、鉄鉢と言い、気持ちの良い時には鉢の子と使い分けています。       

昭和16年3月21日建立

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拓本禁止と写真にあります。これは、句碑が古くて、

壊れかかっているので危ないからだそうです。

気を付けて下さいね!!。


春風の鉢の子一つ(はるかぜのはちのこひとつ) 



昭和8(1933)年3月19日、山口市小郡町での句。

『其中日記』に、句友3人が来庵、

「其中庵稀有の饗宴がはじまった。よい気持で草原に寝転んで話した、

雲のない青空、そして芽ぐつつある枯草。道に遊ぶ者の親しさを見よ。

夕方、それぞれに別れた、

私は元の一人となった、さみしかった。」と記し、この句がある。

       


 昭和48年3月21日建立

 
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濁れる水のなかれつゝ澄む
  

(にごれるみずのながれつつすむ)


 

死の1か月前、『山頭火句帳』の昭和15(1940)年9月8日の項に、

「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されている。
 

一草庵の前を流れる大川を詠んだ句ですが、

自分の人生を表した句でもあるようです。



20年近い流転孤独の生活の悩みと寂しさに、

濁れる水のようだと心の辛さを表現し、

自分の情けなさにをむち打ち続け、それでも、本来の自分を

取り戻そうと努めた山頭火の境涯が重なりますね。

少し小さな石の方に傾いている句碑が心を表現しているようでもあります。                                                                


平成2年10月10日建立


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一洵君に
 

おちついて死ねさうな草枯るる(おちついてしねそうなくさかるる)

 

 昭和14(1939)年12月15日、

高橋一洵が奔走して見つけたこの草庵に入った山頭火は、

日記に「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、

その苦労に感謝し一洵にこの句を呈した。

「死ぬことは生まれることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じ」た山頭火が、

一草庵を終の住処としたのは何かわかる気がする。

 

翌年3月には、改めて「おちついて死ねさうな草萌ゆる」と詠んでいる。      

 

平成6年10月10日建立





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このほかの山頭火の句です。


さて、どちらへ行かう風がふく

・また見ることもない山が遠ざかる 

・うしろすがたのしぐれてゆくか

・あるがまま雑草として芽を吹く

・捨てきれない荷物のおもさまへうしろ

・わかれてきた道がまつすぐ

・旅の法衣がかわくまで雑草の風

・どうしょうもない私が歩いてゐる

・なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく

・からす啼いてわたしも一人

・分け入つても分け入つても青い山

・死ねない手がふる鈴をふる

・ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる

・もりもりもりあがる雲へあゆむ (辞世の句)



自由にリズムをとりつつ俳句というとても短い句に自分の気持ちを託したんですね。


どうしようもない人間・・・ みんなどうしようもない部分をもっています。
 

どうしようもない部分と向き合った人が山頭火です。
 

生きているということはどういうことですか?
 

生まれて、死んで、好きになって、子供が出来て、怒り、苦しむ、

そんな人間としての悲しみに真っ向から向き合った山頭火。

その人生はマネできないし、ほめれるものではないけれど、

人間の悲しい部分をわかってくれる俳人のような気がします。

みんな辛いときがあるんだよ!悲しいときがあるんだよ!

 


 

俳句で楽になれることもあるんですね。

ではまた次回!!
 
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