今日は河東壁梧桐(かわひがしへきごとう)の句碑です!

  しんじゅがおおくりします

正岡子規は、碧梧桐と虚子について、

「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し

      と評したそうです。
 

碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧 」といわれました。

虚子には碧梧桐を悼んで詠んだ

「たとふれば独楽のはじける如くなり」

という弔句がありますね。


守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していたそうです。

昭和初期に風間直得が漢語にフリガナ(ルビ)を振るルビ俳句を試作して、賛同した

碧梧桐もやっていましたが、あまり支持を得られなかったようです。

晩年には季語や五七調に捕らわれない新傾向俳句を開拓した。

さて、壁梧桐は
河東静渓の五男です。

河東静渓の家は現在の千舟町にありました。

家は300坪ばかりもあり、十二畳の座敷から三畳の玄関まで10室くらい横長く続き、

その南側には大きな池があったそうです。お坊ちゃんだったんですね。

父の 静渓は、江戸「昌平学」に学び、帰松後「明教館」教授となり、

廃藩後明治13年私塾「千舟学舎」を開いて、子弟の教育にあたっていました。

正岡子規もここで漢学の教えを受けていました。

 
明治22年の夏と1230日、

子規はここの門前に当時
17の碧梧桐を連れ出して

素手でキャッチボールの要領を教えました。

これが、子規と碧梧桐の交わりの発端であり、

虚子
もまた、碧梧桐にならって子規に近づいたのです。

さて、ここがどこだかわかるでしょうか?


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そうです。松山市役所前からお堀の方をみたところです。

横断歩道の向こう側の句碑の看板が見えますね!

その横に句碑がひっそりと立っています。


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さくら活けた花屑はなくずの中から一枝拾ふ
 

昭和6年、松山刑務所内(現在の県立中央病院)に入所者の

情操教育のために建てららたそうです。

(受刑者にも俳句をすることで心に良い影響をとのことでしょう。)

昭和2881日、壁梧桐の17回忌を記念して

市役所前の堀端(二番町四丁目)に移されたそうです。

さらに平成
8年に工事のため現在地に移されているそうです。

この句は、句碑の建つ
8年前の大正13年、52
歳のときの句らしいです。

これが碧梧桐最初の句碑です

を活けていて、いらないと思って除けていた花屑の中から一枝拾って、ひょいと活け足した。

お花を生ける人ならあるある!って感じの風景です。

沢山の桜の枝を置いてある机や床の間の景がくっきり見えて好きだなと思います。

たくさんもらったりして、あそこにもここにもと花瓶もたくさん用意したりしてね!

他の人が「これもらうわよ!」って拾っていったのかもしれない。春先の桜が匂うようです。

 明治29年に、碧梧桐と虚子は神田の高田屋という下宿屋に下宿します。

その下宿屋には主人の長女夫婦と次女が一緒に住んでいて、

長女が食事のお世話をして、次女が下宿生の世話を担当しておりました。

次女の名前が糸子さんだったそうです。

この糸子を碧梧桐は好きになったんです

糸子の方も碧梧桐を「カワさん」、虚子を「キヨさん」と呼んで

家人同様に二人に親しく接していたそうです。

ところが翌明治30年に碧梧桐は軽い天然痘に罹っていることが判明し

一ヶ月ほど入院をしたのですね。

病気が治って下宿に戻ると、糸子の様子がおかしい。

あれほど親しかったのに、急によそよそしくなっている。!

なんと自分の留守中、虚子との間に縁談が進んでいたのです。


虚子と糸子が夫婦となり生まれた長男が高浜年尾。さらにその娘が稲畑汀子先生!!

すごいでしょう!!

今月「(3月)の子規記念博物館の俳句

「二番目の娘みめよし雛祭」

この二番目ってひょっとして糸子さんのことだったのかも!!って思いました。

子規も彼女の事を聞いていたのかもしれませんね。

私も二人姉妹の長女なので、次女の方が美人???な~んて思いました。 

長女はもう結婚していて、次女しか見えていなかったのかもね!!

さあつぎは、

温泉()めぐりして戻りし部屋に桃の活けてある

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ルビ俳句ですね! 

温泉と書いて、ゆと読ませています。

宿のおかみさんが、お客さんの温泉に入っている間に、桃の花を活けてくれたんですね。

お家かもしれませんね。

桃の花が色を添えていています。この句碑は「俳句の道」にあります。まるまるとした石に

面白い書体の俳句が良くあっています。

さて、彼の字!!特徴的ですね。


碧梧桐の書は,六朝書といわれ独特の書体であり,当時は風変わりな絵のようだともいわれました。

新傾向俳句が全国を風靡して,自由律俳人たちが競って傾倒するようになりました。


最初,碧梧桐は子規の書をお手本としていましたが,

明治401月,友人の中村不折より中国の六朝時代の石碑と拓本を送られて,

その力強い書体に感動して,

今までの筆法と違った六朝風のゴツイ字を書くようになったそうです。

碧梧桐の墓の文字はその代表的六朝書
(りくちょうかいしょ)
です。

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碧梧桐自筆の墓銘について,昭和
152月,大阪の俳人亀田小蛄は,次のように語っています。

「この墓銘はこの(松山)地の先生の侍者だった故藤田杉晩君が生前,来松中の先生に

『先生,私の墓銘を書いてください』というのを引き取って

『イヤ君は若い,僕のを書いておこう』と即座に揮毫されたものの是であった。」と。

このことを知って、私はすぐに
西山宝塔寺墓地に
撮影に走りました。

隣にはお父さまの静渓のお墓もありました。

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 当初壁梧桐は、印象的、絵画的な句を作っていたそうですが、

後に「新傾向」に走り、季題や定型にこだわらない句を作っています。

 



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「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくことごとくぶっしょうもあり)」

この句碑は松山市
東方町にある大蓮寺と言うお寺にあります。

自然界すべてに仏が宿っているということでしょうか。

 明治43年(1910)8月に一週間当寺に滞在俳夏行を営みその様子を

「日本及日本人」に発表した。度が好きで自然に親しみ山川草木のことごとくに仏性を見出した

壁梧桐の意をくんで地元有志が昭和53年にこの碑を建てた。

俳夏行とは一室にこもって句作に励むこと。

と看板にはこう書かれてありました。





さて最後の句碑です。


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銀杏寺をたよるやお船納涼の日

神田町にある定秀寺にある句碑です。

三津には大きな銀杏が植えてあって

その銀杏を頼りにして船を付けていたのらしい。

明治43年8月11日に三津浜にまねかれて、この句を残したそうです。

自由律の俳人らしいですね。中7の「や」が効いています。


やれやれ少し長くなりましたが

またね~