2012年05月
2012年05月12日
11日(金)、市議会の正副議長改選があった。副議長についてはギリギリまでモメていたため、ゴタゴタが収まらないならいっそ私もネタで立候補すべく準備していた。結局とりやめたが、ボツになった演説原稿がもったいないのでここにアップしておきます。
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副議長選挙に立候補するにあたり、私の信ずるところを表明いたします。
日本で最も権威ある政治学者の故・丸山真男は、大衆への迎合や既成事実への屈服をするだけであるなら政治家という存在そのものが必要ないと言い切っています。
しかり。たしかにいまや政治家は要らないのかも知れません。
なぜならば、世論調査やアンケート、住民投票といった手段でその時その時の世論を把握することはできるわけですし、情報技術が進展した現代では国民や市民の瞬間的な意向すら、知ることも不可能ではなくなりました。直接民主主義的な手段は、これからますます取り入れられていくことでしょう。
では、改めて考えるに議会議員、なかんずく私達のような地方議員の役割はどんなことなのでしょうか。
私の信ずる議員の姿とは二つの側面を持っています。
第一には、討論の文化を市民のなかに根付かせる役割であります。
議員とは、この議場における主要な発言者でありますが、議会基本条例施行以後にあってはもう一つ役割をいただきました。
つまり市民の中に討論の文化を創っていく、いわば「討論の組織者」をも兼ねる必要があるのです。
つい一昨日も行われたような市民との意見交換会や議会報告会などを超積極的に活用することは言うまでもありません。
むしろいままで2年余り、そういった広聴活動を市長にお任せし、議論を組織してもらっていた点は恥とせねばならないほどであり、この遅れを取り戻すために議会を挙げ、開かれた場における市民からの意見聴取に努めます。
そうして、一般の市民と議員とが同じ高さで話し合えるよう力を尽くします。
では、私の信ずる議員の姿の二つめの側面とは何でしょうか。
少し挑発的ですが、市民のそのときそのときの世論に媚びないことです。
世論とは、マスメディアや噂、風評や時代背景によって作られるものでもありますから、
議員ないし政治家というものは、むしろ自分の理念・信念をねばり強く訴え、根気強い説得をもって世論を作るのだという覚悟が必要であります。
たとえば私が居住し勤務している地域には、以前から屎尿処理の会社があり、バキュームカーが停まっていたり、タンクを掃除していたりする風景は日常的なものです。ごくたまに、ニオイも漂うことがあります。しかし、住宅の価値が低くなる等の現象は起きず、むしろ逆に、自分達が生活の中で排出した物を意識して暮らす上では、この会社が存在することによる教育的な意義は、とても大きいと感じている次第です。
私のこうした信念は、決して市民の中で多数派ではないし、これからもそうなることはないでしょう。
しかし、廃棄物とある程度近いところで暮らすことが結局はおおやけの利益、公益を実現することになると信じていますから、私はこの信念を手放さず、市民に口説き続けることでしょう。
冒頭申し上げた通り、そのときそのときの世論に迎合することはむしろ議員の役割を自己否定し議会不要論につながるのではないでしょうか。事実、そのような議員が多くなったと見えて、近年、名古屋市では議会にリコールが突きつけられ、さらに、橋下徹大阪市長のような独断専行にはむしろ多くの住民の支持が集まるという、自由社会にとっては危険な兆候もまさに進行中です。
いま議会がしっかりと存在意義を再確認しなければ、例えばこの士別市でも「議員が多すぎる」とか「何も決められないからじれったい」という市民世論を醸し出すことになってしまいます。
今こそ討論の文化を根付かせ、なおかつ議員がときどきの市民世論に媚びず信念をつらぬき丁々発止の議論をリードするのであれば、たとえいかなる議決結果が出ようとも、それは次元の高いものになると信じるものです。
議会基本条例づくりに最前線で傾注してきた神田寿明議長とともに、最高の布陣でこの先2年間、市民のもとに
届けましょう!議会の底力を。どうぞよろしくお願いいたします。

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副議長選挙に立候補するにあたり、私の信ずるところを表明いたします。
日本で最も権威ある政治学者の故・丸山真男は、大衆への迎合や既成事実への屈服をするだけであるなら政治家という存在そのものが必要ないと言い切っています。
しかり。たしかにいまや政治家は要らないのかも知れません。
なぜならば、世論調査やアンケート、住民投票といった手段でその時その時の世論を把握することはできるわけですし、情報技術が進展した現代では国民や市民の瞬間的な意向すら、知ることも不可能ではなくなりました。直接民主主義的な手段は、これからますます取り入れられていくことでしょう。
では、改めて考えるに議会議員、なかんずく私達のような地方議員の役割はどんなことなのでしょうか。
私の信ずる議員の姿とは二つの側面を持っています。
第一には、討論の文化を市民のなかに根付かせる役割であります。
議員とは、この議場における主要な発言者でありますが、議会基本条例施行以後にあってはもう一つ役割をいただきました。
つまり市民の中に討論の文化を創っていく、いわば「討論の組織者」をも兼ねる必要があるのです。
つい一昨日も行われたような市民との意見交換会や議会報告会などを超積極的に活用することは言うまでもありません。
むしろいままで2年余り、そういった広聴活動を市長にお任せし、議論を組織してもらっていた点は恥とせねばならないほどであり、この遅れを取り戻すために議会を挙げ、開かれた場における市民からの意見聴取に努めます。
そうして、一般の市民と議員とが同じ高さで話し合えるよう力を尽くします。
では、私の信ずる議員の姿の二つめの側面とは何でしょうか。
少し挑発的ですが、市民のそのときそのときの世論に媚びないことです。
世論とは、マスメディアや噂、風評や時代背景によって作られるものでもありますから、
議員ないし政治家というものは、むしろ自分の理念・信念をねばり強く訴え、根気強い説得をもって世論を作るのだという覚悟が必要であります。
たとえば私が居住し勤務している地域には、以前から屎尿処理の会社があり、バキュームカーが停まっていたり、タンクを掃除していたりする風景は日常的なものです。ごくたまに、ニオイも漂うことがあります。しかし、住宅の価値が低くなる等の現象は起きず、むしろ逆に、自分達が生活の中で排出した物を意識して暮らす上では、この会社が存在することによる教育的な意義は、とても大きいと感じている次第です。
私のこうした信念は、決して市民の中で多数派ではないし、これからもそうなることはないでしょう。
しかし、廃棄物とある程度近いところで暮らすことが結局はおおやけの利益、公益を実現することになると信じていますから、私はこの信念を手放さず、市民に口説き続けることでしょう。
冒頭申し上げた通り、そのときそのときの世論に迎合することはむしろ議員の役割を自己否定し議会不要論につながるのではないでしょうか。事実、そのような議員が多くなったと見えて、近年、名古屋市では議会にリコールが突きつけられ、さらに、橋下徹大阪市長のような独断専行にはむしろ多くの住民の支持が集まるという、自由社会にとっては危険な兆候もまさに進行中です。
いま議会がしっかりと存在意義を再確認しなければ、例えばこの士別市でも「議員が多すぎる」とか「何も決められないからじれったい」という市民世論を醸し出すことになってしまいます。
今こそ討論の文化を根付かせ、なおかつ議員がときどきの市民世論に媚びず信念をつらぬき丁々発止の議論をリードするのであれば、たとえいかなる議決結果が出ようとも、それは次元の高いものになると信じるものです。
議会基本条例づくりに最前線で傾注してきた神田寿明議長とともに、最高の布陣でこの先2年間、市民のもとに
届けましょう!議会の底力を。どうぞよろしくお願いいたします。

(09:56)
2012年05月09日
誰かに宛てて夜中に書いた手紙を、翌朝に読み直すとエラくこっぱずかしい事が書いてあって赤面した経験は、たいていの人は持っていますよね。しかし今、メールだけが交信手段の若者たちはどうなんでしょうか。
と言うか、そもそも私たち大人も、改まって誰かに手紙なり郵便なりを書き、相手への依頼や気持ちなど思いのたけを届ける機会は、ほとんどなくなったようです。
手紙や日記の形式を取る物語や小説は昔からたくさん存在するし、誰か読む人を想定して物を書くほうが、書きやすい時もあります。このおたよりも漠然と書いてるのでなく「保育園の保護者の皆さん」が主な対象であり、顔の見える範囲を想定しているので楽な時もあります。しかし、ここで通り一遍(いっぺん)なことを書いて済ませるのでなく、ホントは一人一人面談してじっくりと子育て等に関する持論をお伝えしたり、お聞きしたりすべきなのではないかと、ハタと考え込む時があります。なぜなら業界誌等で他の保育園・幼稚園の様子を見ると、やはり園の側からの「ウチのやり方」を前面に出すものが圧倒的で、保護者一人一人の考え方をまず聞き出し、それを考慮した方針を掲げる園はごく少数派だからです。
言い換えると「お子さんを預けている以上は当園の方針に従ってもらいます!」で果たしていいのだろうかと、しばし考えるわけです。
教育でも保育の世界でも、妙に自信たっぷりと「Aという育て方をすればBという結果が出る!」と豪語するような人はいますし、なかなか自信が持てない親がカリスマに頼りたくなる気持ちも分かります。また私は政治の世界にも関わっているので、教育分野でやたら大きなことを言う政治家が増えているのを肌で感じています。しかし、地道なコミュニケーションや自分の中での問い直しを経ずに断言(だんげん)口調(くちょう)で言われるような「教育論」など、しょせん「夜中に書いた手紙」であり、目が覚めたらこっぱずかしいだけです。
戦いに負けたらいきなり教育方針が180度変わったことのある国に住んでいる私たちは、特に気をつけたいものですね。 園長敬白
*これは「こぶたの家保育園」園長として、私が毎月書いているものです。太字部分は、もちろん「大阪維新の会議員団」が用意したアホな条例案を当てこすっています。
PDF版はこちら
と言うか、そもそも私たち大人も、改まって誰かに手紙なり郵便なりを書き、相手への依頼や気持ちなど思いのたけを届ける機会は、ほとんどなくなったようです。
手紙や日記の形式を取る物語や小説は昔からたくさん存在するし、誰か読む人を想定して物を書くほうが、書きやすい時もあります。このおたよりも漠然と書いてるのでなく「保育園の保護者の皆さん」が主な対象であり、顔の見える範囲を想定しているので楽な時もあります。しかし、ここで通り一遍(いっぺん)なことを書いて済ませるのでなく、ホントは一人一人面談してじっくりと子育て等に関する持論をお伝えしたり、お聞きしたりすべきなのではないかと、ハタと考え込む時があります。なぜなら業界誌等で他の保育園・幼稚園の様子を見ると、やはり園の側からの「ウチのやり方」を前面に出すものが圧倒的で、保護者一人一人の考え方をまず聞き出し、それを考慮した方針を掲げる園はごく少数派だからです。
言い換えると「お子さんを預けている以上は当園の方針に従ってもらいます!」で果たしていいのだろうかと、しばし考えるわけです。
教育でも保育の世界でも、妙に自信たっぷりと「Aという育て方をすればBという結果が出る!」と豪語するような人はいますし、なかなか自信が持てない親がカリスマに頼りたくなる気持ちも分かります。また私は政治の世界にも関わっているので、教育分野でやたら大きなことを言う政治家が増えているのを肌で感じています。しかし、地道なコミュニケーションや自分の中での問い直しを経ずに断言(だんげん)口調(くちょう)で言われるような「教育論」など、しょせん「夜中に書いた手紙」であり、目が覚めたらこっぱずかしいだけです。
戦いに負けたらいきなり教育方針が180度変わったことのある国に住んでいる私たちは、特に気をつけたいものですね。 園長敬白
*これは「こぶたの家保育園」園長として、私が毎月書いているものです。太字部分は、もちろん「大阪維新の会議員団」が用意したアホな条例案を当てこすっています。
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