くまぐす音楽館2

いきなりですが、皆さまは「ピカルディーの三度」という音楽用語をご存じでしょうか?

失礼ながら、音楽理論を専門に勉強している人以外はこの言葉をご存じの方は少ないのではないでしょうか。何を隠そう私もこの言葉を知ったのはごく最近の事です。ウィキペディア(インターネット上の百科事典)には、こう書かれています。

 

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「ピカルディーの三度とは、短調の楽曲の最後が、その調の主和音でなく、同主調の主和音で終わること。和音の第三音(三度音)を本来よりも半音上げることになる。通常、短調の暗い音響の中で最後だけがひときわ明るく豪華に響くことになる。例えば、イ短調の主和音はイ - - ホであるが、この内の第三音(ハ)を半音上げて嬰ハとすると、イ長調の主和音イ - 嬰ハ - ホに一致する。この和音を楽曲の最後に置くのである。しばしば、一旦終止した後に、さらに後付でアーメン終止を行い、この終止和音をピカルディーの三度とすることがある。」

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正直、何がなんやら判らないですよね。私も判りません(笑)。そうですね、もっと判りやすい具体例を挙げてみましょう。以前、テレビでネスカフェのインスタントコーヒーのCMで流れていた「ダバダー、ダバダー」というコーラスの最後の部分。それまでは、暗い感じの曲想であったのが、最後になって急に視界が開けたというか、ほのかな希望を見出したように明るい長調になって輝かしく終わります。これが、ピカルディーの三度です。(お判りになりました?) なんでこんな小難しい話をするのかと言いますと、本日演奏されますドヴォルザークの交響曲第7番の終わり方、つまり第4楽章の終わり方が、まさにこのピカルディーの三度なのです。第4楽章は、悲劇的な様相で始まります。まるで何かと戦っているような戦闘的な音楽が続いた後、ひと時の安らぎにも似た第2主題が出てきますが、音楽は、再び激流に飲み込まれていき、それが最後まで続きます。しかし、最後の最後に一筋の光明を見出したような、そんな長調の和音が高らかに響き渡って曲が終わります。

 

演奏会が終わってからのお話になるのですが、皆さんは、こうした終わり方をどう思われるでしょうか?もしかしたら、「とってつけたような終わり方」、「無理やり短調を長調に変えてしまって少々強引」、「いや、ほのかな余韻がむしろ心地よい」と様々なご意見が出てきそうですね。このピカルディーの三度が、一番よく使われているのは、バッハのオルガン曲やチェンバロ曲だと思います。バッハのオルガン曲には、聖書の内容に基づいたタイトルが付けられたコラール前奏曲という作品が数多くあり、そうした曲にはこのピカルディーの三度がよく使われていました。しかし、時代が古典派、ロマン派と下るにつれ、この技法はあまり使われなくなっていきました。ただ、何故かドヴォルザークは、この手法を好んだようです。彼の作品では、今回演奏する第7交響曲の他には、弦楽セレナード(第2楽章の最後の和音)や有名な新世界交響曲(終結部)もこの手法が使われています。また、奈良交響楽団が前回(201712)の定期演奏会で演奏したフランクの交響曲ニ短調の第1楽章の終わり方もピカルディーの三度だと思われます。

 

一体、ピカルディーの三度の意味するものとは、一体何でしょうか。

 

さきほども申しました通り、この手法はバッハのオルガン曲やチェンバロ曲ではかなり多用されています。ここからは、私自身の想像ですが、バッハのオルガン曲は、多分に聖書に深く関わった作品が多く、こうした最後を長調の、すなわち希望に満ちた和音で曲を終わらせる、つまり聴いている人に最後に希望の光を与えるというストーリーが必要だったのではないでしょうか。キリストの受難をはじめとして、悲劇的なお話が多い聖書をテーマにした音楽は、どうしても短調の暗い色調になってしまいますが、そうなると、人々は暗い気持ちで教会をあとにすることになります。お説教の最後は、矢張り将来に希望をもった気持ちを持ちたいに違いありません。あくまでも私の推測ですが、ピカルディーの三度は、こういうニーズから生まれた手法なのかもしれません。それと、やはり音楽はたとえ始まりや途中が暗い色調でも、最後にはきっちりと長調で曲を仕舞うというのが当時の作曲の作法だったのかもしれません。極端な事を言えば、短調のままで終わってしまうのは、下品な事と考えられていたかもしれません(ちょっと極論ですが)。

 

ドヴォルザークの9つの交響曲は、基本的には、全て最後は明るく締めくくられます。もしかしたら、ドヴォルザークも、「交響曲は、喜ばしく終わるべき」というポリシーを持っていたのかもしれません。第7交響曲は、ドヴォルザークの交響曲の中でも際立って暗い色調を持った作品ですが、矢張り最後はピカルディーの三度を使って短調から長調に転じて終わる法則は貫かれています。それが、この作品に一種バロック的な独特の深い陰影を与えているように思えるのです。ちょっと大げさでしょうか。

 

こうして、皆さまには今日のプログラムの最後にピカルディーの三度を聴いて頂ける訳なのですが、音楽は、聴く人によってその印象は全く異なるものですし、これが正解というのは無いのかもしれません。でも、この文章が少しでもご参考になればとても嬉しいです。という訳で、今日は最後まで注意して聴いて下さいませ。

 

(あとがき)

 

(1)ここまで書いてきて、交響曲には短調のまま終わる作品が意外と少ない事に気がつきました。ちょっと挙げてみますと、モーツァルトの第40番、チャイコフスキーの悲愴、シベリウスの第1番、マーラーの第6番くらいでしょうかね。でも結局、交響曲って、最後は大団円になるのが相応しいのかもしれません。(ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、よく判りません。)

 

(2)そもそも、ピカルディーってなんの名前なのでしょう?これもネットで検索したのですが、はっきり言ってこれだと言う答えは見つかりませんでした。フランス北部にかつてあった

地名らしいのですが、それと関係あるのかどうかまでは判りませんでした。ただ、音楽用語で「ナポリの六度」というのがあるのですから、もしかしたらこれも地名なのかもしれません。

知り合いが出演した演奏会。チケットを頂いたので、京都まで。ロームシアターは、30年以上前、京都会館だった頃、ヤマカズ&京都大学交響楽団の演奏会に行った事があります。改装して、なかなか斬新なホールに生まれ変わってました。どの席からも舞台が見やすいですしね。



演奏は、なかなかの力演。対向配置も吉です。



残念だったのは、最初のバスドラの「タンタンタン、タータータ、タン、タタタタン」という箇所。殆ど、きっちりと叩けて無かったように思います。聴こえなかっただけかな?こっちからだと、ドコドコ鳴ってるようにしか聴こえませんでした。初めてこの曲を聴くには、何が何だか判らないのでは?第1楽章が終わった時点で、よほど拍手しようかと思いましたが、ちょっと勇気が。でも、あの休憩時間のまったり感は良かったです。途中で、弦楽器の後ろのプルトだけで演奏する箇所は、ちょっとどきどき感がありました。



ポストホルンは、最上階の客席から。よく響き、演奏も完璧。気持ちよく聴けました。児童合唱も客席から。でも、こっちはあんまり聴こえない。3人ほどハンドベルを持って、それを振って音を出してます。初めて見ました。でも、聴こえない。。ソプラノは、終楽章の途中で退席。これはいいやり方だと思います。終楽章の最後は、珍しくディミヌエンドして終わります。これは一つの見識ですね。





という訳で、いい演奏会でした。皆様、お疲れ様でした。




 


 


 


 


 

すでに皆様が投稿されているようにトミタさんが亡くなられました。一言だけ。実は、私、「展覧会の絵」という作品を初めて聴いたのが、トミタさんのシンセサイザー版でした。中学生の頃でした。で、その後、私に何が起こったかと言うと、有名なラヴェル編曲のオーケストラ版を聴いても、「なに?このダサイ編曲!」としか思わなくなってしまい、今に至るまでその印象は変わりません。それだけ、トミタさんのシンセサイザー版が凄かったって事なんです。今のシンセは、たぶん、当時のトミタさんの機械よりも数段優れているはずですが、「感性」が機械を支配した幸福な例がトミタさんの一連のシリーズだったように思います。素晴らしい「音楽家」でした。

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