◆七福神の信仰の歴史◆
平安時代から、個別的に福の神信仰は広く行われていたようです。仏法守護のインドの神である「大黒天」は、日本の大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合され、福神信仰は定着していったようです。
中世鎌倉時代以降、水墨画の発達に伴って、禅画の画題で親しまれる「布袋和尚」[契此(かいし)]や「福禄寿」・「寿老人」も福の神に加えられました。
室町中期には、「恵比寿」と「大黒」が一対の神として併せ祀られ、福の神の中心となり、次第に幾つかの福の神が合祀されるようになりました。そして禅宗の僧侶が中国の「竹林の七賢」に倣い、半分冗談?で作ったのが七福神という説があります。別の説では、同じく室町時代に「仁王般若経」や「薬師経」にある「七難即滅、七福即生」という言葉に基づき考え出されたとも言われています。中世室町後期までに福なる神々が組み合わされて固定されてきたのが、今の七福神です。

中世室町時代に至って、町人生活の中にも余剰生産の余裕が出てきて、蓄財観念が萌芽し、貨幣経済も普及し始め、福徳という現世利益を求める町人意識とあいまって普及していったのです。
近世江戸時代になって、商業資本主義の発達をみ、福徳授与の神としてますます七福神信仰は高まっていきました。さらに、七福神を乗せ、金銀財宝を満載した宝船の図も生まれました。七福神詣、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いたり、床の間に飾ったり、商売繁盛の縁起物としてどんどん庶民に喜ばれ、もてはやされていきました。 → 【七福神(part‐1)】
photo: 掛軸 85×193cm・ 二代古青画/七福宝船
(新湊/姫野様 所有)
平安時代から、個別的に福の神信仰は広く行われていたようです。仏法守護のインドの神である「大黒天」は、日本の大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合され、福神信仰は定着していったようです。
中世鎌倉時代以降、水墨画の発達に伴って、禅画の画題で親しまれる「布袋和尚」[契此(かいし)]や「福禄寿」・「寿老人」も福の神に加えられました。
室町中期には、「恵比寿」と「大黒」が一対の神として併せ祀られ、福の神の中心となり、次第に幾つかの福の神が合祀されるようになりました。そして禅宗の僧侶が中国の「竹林の七賢」に倣い、半分冗談?で作ったのが七福神という説があります。別の説では、同じく室町時代に「仁王般若経」や「薬師経」にある「七難即滅、七福即生」という言葉に基づき考え出されたとも言われています。中世室町後期までに福なる神々が組み合わされて固定されてきたのが、今の七福神です。

中世室町時代に至って、町人生活の中にも余剰生産の余裕が出てきて、蓄財観念が萌芽し、貨幣経済も普及し始め、福徳という現世利益を求める町人意識とあいまって普及していったのです。
近世江戸時代になって、商業資本主義の発達をみ、福徳授与の神としてますます七福神信仰は高まっていきました。さらに、七福神を乗せ、金銀財宝を満載した宝船の図も生まれました。七福神詣、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いたり、床の間に飾ったり、商売繁盛の縁起物としてどんどん庶民に喜ばれ、もてはやされていきました。 → 【七福神(part‐1)】
photo: 掛軸 85×193cm・ 二代古青画/七福宝船
(新湊/姫野様 所有)









