2009年01月04日
6日ぶりに、スイム!スイム!
今日からスポーツクラブが開きました。待ち焦がれていたプールにでかけて、2時間近くも泳いできましたので、三が日に食べたご馳走のすべてが燃焼してしまったような、とても心地よい疲労感を感じています。
昨年の泳ぎ納めの日に、コーチからワンポイントアドヴァイスをいただいたクロールは、プールに行けなかった5日間も、夢の中で練習をしていたらしく、ひさしぶりに泳いだにもかかわらず、身体がポイントを忘れていなかったことに驚きました。クロールでの脱力が、他の三泳法にも効を奏し、とても気持よく泳ぐことが出来て嬉しかったです。
ひさしぶりの運動をしたことで、身体も心もエンジン全開となり、今年も元気で生きていこうという気持になりました。やっぱり水泳ってすばらしいと思いました。
2009年01月03日
見えるようで見えないものは
誰かとおしゃべりをしながらではなく、一人で黙ってテレビドラマを見ている時など、私は目の前に流れる物語と無意識に同一化して、その物語の主張するテーマについて、内なる自分の声とひたすら無言の対話を交わしていることがよくありますが、つい先日もやはり似たようなことを体験しました。
大勢側に在る時、私達には少数派に在る人の気持が、一見見えるようでいて、実はあまりよく見えていないということが多いものです。男性の集団の中にいる、ほんの一握りの女性や、夫婦同伴の出席者の中に、たった一人混じった寡夫や寡婦、それから大学卒業生達の群れに囲まれた中卒者や、子持ちの女性群の中に在る、子供のいない女性も、平穏無事な結婚生活を送っている人達の中の、ぽつんと一人加わった離婚経験者や、また少し雰囲気は異なりますが、水泳の達人ばかりの中で泳ぐことになった初心者とか、標準語を話す人達の中に混じった、関西弁、東北弁の人達など・・・。
悪い人というのは誰もいなくて、しかも最近よく言われるような、空気を読めない人でも、意図的に人の気持を傷つける無神経な人でもないのに、ただ自分が大勢側に在ったがために、少数派の人がどんなことを感じ、どんなことを考えているのか、そのことが見えなかった・・・そしてその結果、不本意にも相手の心を深く傷つけてしまっていたというようなことが、残念ながらしばしば起きてしまいます。
偶々、それが天の定めた運命であったのか、10年前に早々と夫を失ってしまって以来、それまでの人生のほとんどの場面を、いつも安穏と大勢側に在って生きてきた私は、自分の意思とは無関係に、さまざまな場面で少数派に属さざるを得ないということが多くなりました。自分が体験してみて初めて見えてきたもの、それはかつての自分が、全く悪意なく見過ごしてきた、人としての大切な心配りでした。少数派に属してみて初めて見えてきたものは、決して少なくありませんでした。
大きくは政治の世界から、小さくは子供達の友達づきあいに至るまで、見えているようで見えないものは、実はとてもたくさんあるのだと思い知らされました。
2009年01月02日
ゲームソフト
元日に引き続き、二日の今日も気持のよい冬晴れの空が広がりました。お雑煮やおせち料理も食べ飽きたので、運動を兼ねて外出することにしました。渋谷のデパ地下で老舗寿司店のお寿司と、彩も綺麗なサラダを数種類買った後、玩具売り場へ行って、DSとWiiのゲームソフトを一つずつ買いました。デパートのポイントがたくさんたまっていたので、ほとんど出費することなく、新しいソフトを入手することが出来ました。店員のお嬢さんに、「プレゼントでしょうか?お年玉用の包装も受けたまわれますが・・・。」と尋ねられ、いつものことながら、少し気恥ずかしく、「自宅用です。」と小声で答えました。
私のゲーム歴は結構長く、最初に買ったスーパーファミコンの時代から、プレイステーション1、プレイステーション2を経て、一番新しい現在のWiiに至るまで、ほぼ17、8年は下らないだろうと思います。最初のスーパーファミコンは、まだ学生だった息子が愛用していたものを譲り受けましたが、義母の闘病生活中に、家を離れることが出来なくなった私のために、当時としてはかなり大きなテレビを、義母の病室から一番遠い部屋に置き、息子がそこにゲーム機を接続してくれました。
あの頃、私は自宅で子供さん達のための英語教室をひらいていましたが、授業が終わった後で、「どこへ行けば宝の箱が見つかるの」と、よく生徒さん達に教えてもらったものでした。私にさまざまな特技を伝授してくれた小学生達も、今ではみんな立派に成人し、大学を卒業して社会人になりました。先日、道でその一人の男の子(もう立派な男性になっていましたが・・・)とばったり出くわし、もう教室はやめて、今は毎日プールに通って水泳三昧の日々を送っているのだと話すと、「先生、今もゲーム好きなの?」と聞かれ、「君は私のゲーム師匠だったよね。」と、懐かしい思い出話に花が咲きました。
よく私の周囲の人からは、パソコンを操ったり、テレビゲームに興じたりするようにはとても見えないと言われます。それが褒め言葉なのか、それとも反対の意味なのかを確かめたことはありませんが、デパートの店員さんから、「お孫さんへのプレゼントですか?」と聞かれるような年齢であることは間違いありません。いったい何歳までこんなことを楽しんでいられるのでしょうか。新しく買ったソフト、クリアした暁には、11歳と9歳の孫達に貸してあげたいと思っています。
古い年賀状
12月31日は、夕食をすませた後に突然思い立って、居間の隅に置いてある収納棚の整理をすることにしました。増える一方のアルバムや小物を整理する場所に窮し、きっと廃棄してもよいようなものが場所を占領しているに違いないと考えたからでした。そこは10年以上も手をふれていなかった場所で、中からはかつて夫が毎年交換していた大量の年賀状の束や、今ではもう絶対に使用しない、古い写真のネガフィルムなどがぞろぞろと出てきました。結局、処分するべきものを取り出したおかげで、大切なものをすべて綺麗に整頓することができました。
平成11年に夫が亡くなった翌年の夏に、私達家族は亡き人の在りし日の思い出を綴った追悼本を自費出版し、かつて夫が年賀状を交換していた方達や、葬儀に参列してくださった方達に贈らせていただきましたが、その際の送付先は、夫が亡くなる前年に受領していた年賀状を参照いたしました。ところがあの夜、それよりもっと以前の、ちょうど夫が会社を退職する直前から数年分の年賀状が、大きな束になっていくつも出てきたのには驚いてしまいました。
何でもやり始めると夢中になってしまう私は、大晦日のテレビ番組を何一つ見ることなく、近くのお寺から響く除夜の鐘の音に耳を傾けながら、何年分もの古い年賀状の一枚一枚を、差出人のお名前と、賀状に添えられた数行の書き込みを読ませていただいて、ゆっくりとシュレッダーにかけていきました。
夫は会社の人間関係や仕事の話を一切妻に聞かせない人でしたので、夫が亡くなるまでの年月、毎年彼が交換していた年賀状の送り主のお名前は、私にはまったくご縁のない、ただ見知らぬ人のものでしかありませんでした。追悼本を送らせていただいた時にも、私達家族にとって、ほとんどのお方は、そのお名前とお顔が繋がっていない状態でした。
夫が他界してかれこれ10年、これまで私は、夫の学校時代のお友達や、一緒に働いた会社のお仲間達からお誘いをうけて、数え切れないほど多くの会合に出席させていただきました。妻として夫から聞かされたものではなく、一人の女性として、私自身が直接交流し、自分の目で眺めてきた大勢の方達の性格やお人柄を、今ではすべて把握できるようになっていますが、あの夜は、古い年賀状の束の中に見出した大勢のお方のお名前とお顔とが、私の中で完全に繋がっていることに感動をおぼえました。そして年賀状に書き込まれていた数行のお言葉を通して、夫がどんな風にみなさんと心を通わせていただいたのかを知り、あらためて深い感謝の気持に満たされました。一人で生きてきた10年という歳月が、実は本当に実りのある年月であったことを、あらためて知らされたような気持になりました。
2009年01月01日
元日
今朝はすっきりと晴れあがった気持のよい元日になりました。薄化粧を終えてから、新しいブラウスとセーターで身支度を整え、昨夜のうちに綺麗にみがいておいた台所に立って、鶏、椎茸、三つ葉、ゆずに、白い焼き餅を入れた、我が家の関東風雑煮と気持ばかりのお節料理を支度して、元日の朝のお祝いを美味しくいただきました。
向田邦子さんのエッセイの中には、昭和初期の日本のお正月風景が、いつもほのぼのとあたたかくえがかれていますが、私の記憶にはっきりと残っている小学生時代のお正月もまた、今とは少し趣の異なる、とても清々しい美しさにあふれた光景であったような気がしています。終戦からまだ5、6年のあの頃は、京都の町に住む人達の生活は決して贅沢なものではなかったはずなのに、暮れからお正月にかけてだけ、何かが新しく生まれ変わる瞬間を待つ、華やかなときめきがありました。
大晦日の日までに、家の中は徹底的に磨きあげられ、31日の夕食の後かたづけが終わって、母が台所から玄関まで続く石畳を水で洗い流した頃には、あまりにも磨きあげすぎた家の中が、冷え冷えと冴えわたって見えたものでした。
元日の朝目を覚ますと、枕元には下着や靴下、セーターやスカートまで、すべて新しいものが揃えてありました。それは我が家だけのことであったのか、それともあの頃は、どちらのお家でもそんな風にお正月を迎えていたのか、ともかく何もかもまっさらにして新しい年を迎えるという気迫が漂っていました。頭の先から足の先まで新しいもので整えた私達は、学校の新年祝賀会に列席し、校長先生から新年の心がまえをうかがって、最後には紅白のお饅頭をいただいて帰りました。
今朝、お雑煮をいただいた後で、「あけましておめでとう!」の言葉を言ってあげたかったので、車で母のお見舞いにでかけました。暮に買っておいた新しい花柄フリースの上着も忘れずに持っていきました。部屋に入ると、ガラス越しの日差しをあびてすやすやと眠っていた母が、私の気配に気がついて目を覚ましました。今日は1月1日、かつて子供の頃に母が私にしてくれたように、私は母に新しい上着を着せてあげました。どこへ行くというわけでもなく、昼食をいただいた後は、またそのままベッドに入ってしまうかもしれない母にも、今日から新しい年になったけじめの、新しい装いをさせてあげたかったのです。
12月31日が終われば、また新しく1月1日からの日付を開始する、だたそれだけのことであったとしても、私には元日が、昔も今もとても特別の日に思えてなりません。
2008年12月31日
ピンクの自転車から7年
11歳の孫が、最近綺麗な色の洋服を敬遠するようになりました。この子は赤でも黄色でも、ぱあっと綺麗な色のものがとてもよく似合う男の子でしたのに、5年生になった今では、黒か紺か茶色など、暗闇の中にまぎれてしまうような暗い色の洋服でないと着てくれなくなりました。昔のように、散歩の途中でこの子の可愛い顔を思い浮かべ、こんなのが着せたいなあと、ばあばの趣味で購入した衣類をプレゼントするというわけにもいかなくなりました。
彼が4歳の時、初めて両親に買ってもらった自転車はピンク色でした。紫色の可愛いうさぎの絵が描かれたその自転車は、実は女の子用として売られていたものでしたが、自転車屋さんで見つけて一目惚れしてしまった彼が、「これは女の子用ですよ。」というお店の人の言葉も、「本当にピンクでいいの?」という両親の言葉も頑固に退けて、何が何でも欲しいと言いはって買った、大のお気に入りの自転車だったのです。「こんなに綺麗な自転車、僕すごく嬉しい!うさぎの模様、可愛いね!」と、毎日大好きな自転車を喜々として乗りまわしていたものでした。
あれから7年が過ぎて、身長160センチ、もう早々と声変わりの時期を迎えた彼の顔からは、かつてまるで女の子のように愛らしかった甘い表情は消え、うっすらと産毛が濃くなってきたその頬には、どことなく精悍な男らしさが漂うようになりました。「男の子の色」とか、「女の子の色」とか、周囲の人の決めた価値観に惑わされず、綺麗なピンク色の自転車を、迷わずまっすぐ選んだ4歳の彼が、あれから7年の年月を経て、綺麗な色の洋服を身につけることに抵抗を感じるようになったのは、彼の内面の成長なのか、それとも学校という集団が彼に感じさせるようになった、ある種の固定観念なのでしょうか。
スポーツウエアがよく似合い、とても男の子らしくなってきた11歳の孫に、私は先日それとなく聞いてみました。「4歳のお誕生日に、ピンクの自転車、買ってもらったこと覚えている?パパやママも、自転車屋さんのおじさんも、女の子の自転車だけど、本当にいいのって何度も聞いたのに、絶対にうさぎの模様がついたピンクのにするってきかなかったのよ。」「俺が?まじ〜?ピンクの自転車だなんて、だせ〜!信じられねえ!」「本当よ!だって、ちゃんと可愛いらしい写真が残っているもの。」「この俺が!ひやあ〜!頭おかしかったんじゃねえの!」
もちろん、こんなに男の子っぽくなった彼には、ピンクや赤の暖色よりも、ブルーやグリーンのような寒色の方が似合うようになったのは事実ですし、親からあてがわれた物を黙って着ていた昔を思えば、自分の着たいもの、自分の好きな色をはっきり主張するようになったことはすばらしい成長だと思います。自分の考えというものを強く持ちすぎているために、彼はこれまで学校生活の中で、しばしば友達と摩擦を重ねながら大きくなってきた子供でした。そしてそれが両親の一番の心配の種でもありましたが、私は是非彼に、「みなさんとご一緒に」ではなく、「僕がそれを望むから」の気持を大切にして生きていってほしいと思っているのです。そういう素地を身につけている彼のことを、私は心から誇りに感じ、かつて幼い頃、社会通念などにはびくともせず、まっすぐピンクの自転車を選んだ日のように、一番大好きなものを迷わず手に入れてほしいと願っているのです。
2008年12月29日
主婦業スイッチオン
今日は朝早くから、もりもりと主婦業に専念しました。車を洗い、玄関先を洗い、フェンスや石畳も洗い流して、お正月を迎える準備が完了しました。公園の落ち葉もほとんどすべて落ち尽くし、後二日のあいだに、我が家の庭に飛び散ることはないでしょう。お掃除っていいなあと、ひさしぶりに達成感をあじわいました。
明日は家族揃って亡夫のお墓まいりをします。帰宅後は、我が家で無礼講の大忘年会をすることになりました。娘と嫁と私と三人でお料理を分担し、持ち寄りパーティの形をとることにしましたので、午後は私の担当になった大鍋いっぱいの「豚汁」と、亡夫の大好物だった「はすのきんぴら」や「肉じゃが」を大皿に山盛り作りあげました。大人数のお客様のためにお料理をするのは何年ぶりのことでしょうか。
大人5人子供4人ではありますが、子供と言っても、小学校5年生と3年生の二人は身体も大きく、食欲も大人顔負けの食べっぷりですので、大人7人、子供二人の計算でちょうどよいくらいです。いつも一人分の煮炊きごとしかしない私には、見ているだけでくらくらしてしまうようなお鍋いっぱいの豚汁も、きっと明日はあっという間になくなってしまうことでしょう。
子供達がよろこぶ景品つきのゲームもたくさん用意しました。先日の土曜日は、娘と一緒に景品のお菓子を買いに行き、孫達の大歓声と満面の笑顔を想像しながら袋詰めの作業を楽しみました。英語教室をしていた頃に、クリスマス会のたびに使用したたくさんの手作りビンゴなど、何もかも大切に残してありますので、「ばあばのお家」は、孫達を遊んであげる種には不自由することがありません。
今年もあと二日、行く年来る年の狭間にあって、家族のぬくもりを満喫したいと思います。
2008年12月28日
泳ぎ納め
「1年の泳ぎ納めに」という気持は、誰も彼も同じだったようで、今夜のプールは、昨夜とはうって変って、大変な混雑になりました。1時間ほど練習した後、もう少し、もう少しと欲張る気持を断ち切って、「ホタルの光」のメロデイに見送られながらクラブを後にしました。明日から泳がない5日間が続きます。マイプールがあればいいのになあ!
昨夜開眼したクロールの技を、お正月休みのあいだに身体が忘れてしまわぬようにと、今夜はクロールばかりを一生懸命に泳いできました。自分の姿を見ることが出来ないのが残念ですが、身体の動きが精一杯大きく、ゆったりとなるように心がけて泳ぎました。不本意な想いはいっぱい残りましたが、また新年からの練習に希望を託してがんばろうと思います。
12月31日が過ぎれば、翌朝には1月1日になっているというだけのことなのに、今年のうちに何かを仕上げておきたいとか、今年のうちに何かを身につけておきたいとか、1年の終わりになると、私達は何故かけじめをつけたくなってしまうようです。明日は、今年最後の可燃ごみの回収日なので、今朝は庭の落ち葉の掃き納めをしました。12月29日、明日は車を洗い、玄関先も洗い清めて、松飾りを飾りたいと思います。あと3日で平成20年は終わりです。
重い扉が開いた夜
さすがに12月27日ともなると、夜のプールには人影がまばらでした。昨夜、今年最後のエアロビクスのレッスンを終え、7時半頃にプールに下りていくと、偶々私達のマスターズクラスのコーチが、監視員の席についておられたので、先日のビデオレッスンの際にうかがったクロールのご注意について、いくつかの質問をしてみました。
「小林さんのフォームはとても綺麗ですが、身体全体からもう少し力みがとれるとよいなと思います。」とおっしゃって、後ろに掻き切った手が前方へリカバリーする時の肩の使い方、脇の開き方、肘の上げ方などを、とても丁寧に教えてくださいました。プールにほとんど人がいなかったこともあって、ご注意通りに何度か泳ぎ、まるでプライヴェイトレッスンのようなご指導をうけることが出来ました。
25mプールを何度か往復し、水の中で格闘しているうちに、私の身体自身が何かを発見したようで、急にふわっと力がぬけてくるのを感じました。「そうです!そうです!すごくよくなりました!」と言うコーチの言葉に励まされて、結局、9時半頃まで2時間も泳いでしまいました。
これまで水泳の教則本でよく目にしながら、でも簡単には上級者の真似が出来なかった「ハイエルボー」のフォーム、そこにつながる重い扉が、ほんのちょっとしたコーチのアドヴァイスですうーっと開いていくのがわかりました。肩から大きくまわすことで、身体が綺麗にローリングし、次の動作への移動が楽になりました。一か所の力がぬけただけなのに、キックの力みまでぬけたことにびっくりしました。
「これまで四泳法の中でクロールが一番難しく感じられ、どちらかというと一番嫌いだったのに、とても楽に泳げるようになりました。たった一か所の力がぬけただけなのに、どうして身体全部の力がぬけてくるんでしょう。」と疑問を投げかけると、「人間の身体ってそういう風になっているんですよ。歯を食いしばっただけで、下半身まで力が入ってしまいます。腕の力が抜けたために、キックまで柔らかく打てるようになられたのだと思います。とても大きい進歩でしたね。」と言ってくださいました。「クロールを一番難しく感じる」という私に、「クロールは最も奥が深い泳法です。クロールに始まり、すべてはクロールにつながります。」とおっしゃいました。
新しい世界への扉は、ある日突然に開くものなのだと思いました。27日の土曜日を今年の泳ぎ収めにしようと思っていましたのに、クラブの最終日である日曜日の夜も、もう一度泳いでみたくなりました。少し開きはじめた重い扉を、さらにもう少し大きくあけてから新年を迎えたくなりました。
2008年12月27日
「砂の器」
ケーブルテレビで放映されていた古い松竹映画「砂の器」を見ました。松本清張の原作を、1974年に野村芳太郎監督の手で映画化したこの作品は、以前に一度見た記憶がありましたが、二度目は一度目をはるかに凌ぐ、あらたな感動がありました。
夫が会社を退職したばかりの頃、私達は散歩の途中でよく本屋さんに立ち寄り、読みたいと思う本を片っ端から買って帰っては、二人で交代で読むのを楽しみにしていました。夫は松本清張のファンで、彼の作品のほとんどすべてを読んでいましたが、若い頃に読んだことのある作品も、もう一度文庫本で買い直し、二人で一緒に読んでみることが、あらたな楽しみを与えてくれました。
夫はしばしば松本清張のことを、「実に頭の良い作家だと思う」と言っては、彼の作品を、単に推理小説の枠にとどまらない、純文学としても価値のある作品として、高い評価を与えました。私自身も、人間の心を深く追及した数々の作品に感銘をうけてきましたが、とりわけこの「砂の器」は、一つの映画作品としても、非常に高い評価が出来ると思いました。
全編に流れていた芥川也寸志作曲のピアノコンチェルトは、菅野光亮のピアノも、東京交響楽団のオーケストラもすばらしいもので、人生の運命に翻弄される主人公の内面の苦悩を、切ないまでに歌いあげていました。丹波哲郎、加藤剛、森田健作の他に、若い頃の緒形拳の顔もありました。今日は、あらためて日本映画の質の高さに感じ入りました。