アメジローの超硬派的書評ブログ

アメリカン・ショートヘアーのアメジローです。☆書評が中心。その他、音楽や映画のレビュー・感想なども。

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岩波新書の世界(98)若松英輔「内村鑑三・悲しみの使徒」

72e875bd.jpg岩波新書で内村鑑三といえば、以前に黄版で鈴木範久「内村鑑三」(1984年)があった。☆これが誠に清々(すがすが)しい、読んでいて思わず客席から半畳を入れたくなるような新書で、つまりは著者の鈴木範久が「内村鑑三」の生涯を事実に即し時系列で客観的に淡々と述べるのみである。☆近代日本のキリスト者であり、無教会主義である内村鑑三の読まれるべき良さや限界性の難点を指摘し、主体的に考察する内村鑑三研究の体を全く成していないのである。

だが、他の内村鑑三研究、例えば「二つのJ」(1926年)の日本とイエスへの献身に、キリスト者の本懐を内村のうちに見出だし高く評したり、さらには「不敬事件」や日露戦争への非戦論などから、近代天皇制国家との対決において当時の日本の社会にてなした、内村の先進的な画期性を認めたり、逆にキリスト者の良心的兵役拒否を諌(いさ)め、戦地に行くよう信徒を説得した内村を批判したり、後期の、いわゆる「精神主義」の内面信仰への傾斜から状況への没交渉的態度を見て、状況追認的な内村のキリスト教信仰のうちに日本の「近代」思想の限界を指摘したりするような、近代日本のキリスト者たる内村鑑三の思想的内実を見極め、熱心に評価づけようとする、従来よりの、それら内村鑑三研究を読むにつけ、岩波新書の鈴木範久「内村鑑三」に対し、一読して無味乾燥にも思える内村に関する客観記述のみの評伝が、極めて単純明快で逆に清々しいように思え、何とも言えない愛着好意のようなものを私は抱くようになっていた。

そうした個人的前史(?)がある、岩波新書にての「内村鑑三」である。☆そして、近年の岩波新書における内村に関する新たな書籍、赤版の若松英輔「内村鑑三・悲しみの使徒」(2018年)となるわけだ。☆本書の概要について、まずは著者の若松英輔に直接・語ってもらおう。

「およそ七0年にわたる内村の生涯には、いくつかの分水嶺がある。その折々に内村は、回心を経験し、変貌した。内村の一生とは回心の生涯だといえるほど、最晩年まで彼は回心を続けた。本書では彼の生涯を緩やかに追いながら、彼の『回心』と、そこからほとばしるように発せられた思想と霊性の態度を追っていく。それを概観すると次のようになる。一八七七年、札幌農学校におけるキリスト教との接触は、その始まりとなった。一八九一年に起こった『不敬事件』と妻かずの死、そして『基督信徒のなぐさめ』の執筆。一九0三年からは義戦論を捨て、非戦論、戦争廃止論へと立場を大きく変える。一九一二年の娘ルツの逝去と死者論の深化。一九一八年から始まる再臨運動。一九三0年、塚本虎二との訣別、逝去」(25・26ページ)

内村鑑三の生涯を概観するにあたり、以上のような著者による本書概要の総括的な語りは非常に特徴的である。☆先の概要は、「不敬事件」と義戦論と非戦論と戦争廃止論と再臨運動と、そして妻かずの死、娘ルツの逝去、弟子の塚本虎二との訣別というように、キリスト者内村鑑三の生涯にてキリスト信仰を貫くがゆえに当時の国家や社会からの抑圧・齟齬や社会への信仰的働きかけと、家族や弟子ら近接の者との悲しい別れの二つの要素から主になっているのだ。☆若松英輔「内村鑑三・悲しみの使徒」は、この二つの要素を軸に内村の生涯を語る評伝であるといえる。☆本書は、「回心、入信、死者、非戦、再降、訣別、宇宙」の序章と前六章からなる。☆そして著者が本書にて特に重きを置いているのは、後者の近接の者との悲しい別れの側面であり、それら「悲しみ」の別れが「回心」を促し、内村鑑三のキリスト教信仰を内面深化させるのである。☆家族や弟子、そうした近接の者らとの「悲しみ」の別れの試練を経て「回心」を重ね信仰を深化させる(「使徒」に近づく)内村鑑三を、「悲しみの使徒」と称する著者の意図だ。

「悲しみの使徒」たる内村鑑三は、例えば最愛の娘ルツの死に衝撃を受ける。☆著者によれば、「ルツの死は、内村における信仰表現の一つの極みである再臨運動を静かに準備する契機になっていく」(90ページ)。☆さらに内村は、「死は、別れの経験ではなく、逝った人とより近くなることへの道程である」(95ページ)とする。☆内村において「死者は、時と共に存在を純化し、その身を包む光は輝きを増し続ける」(101ページ)存在であった。☆このとき、内村鑑三の内面的信仰は、妻かずとの死別と同様、近親の者との辛い別れを経験する「愛別離苦」の悲しみに直面し、彼女を生かしてほしいと祈ったのに、しかし「(神が)自分の願いごとを聞き入れてくれたら信じ、聞き入れてくれなかったらそれを恨むというのは、偶像に願を掛けるのと同じで、キリスト者のなすべき祈りではない。…このとき内村は『願い』と『祈り』の根元的な違いを経験している。それは次元的差異といった方がよい」(81ページ)というような、神への祈りの深化の「回心」を経ている。

こうした何度かの祈りの変化の深化の内実が、本書にて著者のいう「およそ七0年にわたる内村の生涯には、いくつかの分水嶺がある。その折々に内村は、回心を経験し、変貌した。内村の一生とは回心の生涯だといえる」ということの意味だ。☆そして、内村鑑三の祈りは、「人は肉によって『物質的宇宙と繋(つな)がる』。…魂において『自己を自覚』し、『霊』によって『神と繋がる』。それが内村の霊的存在論だった」(222ページ)という霊的存在論の宇宙論、一種の「スピリチュアリズム」の「霊性主義」へと、やがては昇華していく。

内村の「回心」における、このような祈りの質的変化の指摘は、本書にて言及されてはいないが、「ヨブ記」おける「理不尽な」神からの試練を経てのヨブの祈りの深化の「回心」を連想させる。☆財産や家族の幸福、自身の健康に恵まれた、「信仰厚き」義人のヨブは、ある日、それら全てを失うことで苦難の中、今までの自分の神への祈りが、財産や家族や健康の欲望充足のための祈りであったことに気づく。☆その瞬間、ヨブの信仰は深められ、信仰の見返りに神からの恩恵を求める、未だ欲望充足の祈願のために信仰する妻や友人たちとは明らかに異なる次元の信仰に到達している。☆確かに妻や友人らから孤立して、ヨブは苦しみのなか孤独である。☆しかし、「願い」ではなくて「祈り」という打算の応報主義を断ち切った、より神に近づく「回心」をヨブは、このとき静かに経験していた。

本新書では塚本虎二、藤井武、矢内原忠雄、斎藤宗次郎といった弟子はもちろん、植村正久、海老名弾正、小山内薫、正宗白鳥、有島武郎、徳富蘆花、幸徳秋水、あるいは韓国の金教臣といった人たちと内村との、さまざまな邂逅(かいこう)が描かれているのも大きな特徴だ。☆その他、石牟礼道子や神谷美恵子も出てくる。☆本書には内村の多くの対人エピソードが収められている。☆例えば、内村が塚本虎二と共に植村正久を訪ねた際、植村から「金もうけはいい加減にして、少し聖書の勉強をしなさい」と言われたこと(219・220ページ)。☆弟子の藤井武に対し、「聖書之研究」に載せた論文に関して自宅に藤井を呼び、声を荒げてその非をただすも、内村の激高は容易に止(や)まず、火鉢の火が着物に引火しているのに議論に熱中している内村は、そのことに全く気が付かないエピソード(243ページ)などは、読んで非常に印象深い。☆私は、なぜか強く心に残る。☆内村鑑三は妻や娘との死別、弟子との決定的訣別以外にも、普段より世間の人から誤解され弟子には厳しく、総じて孤独な人であった。

ところで著者の若松英輔とは、どういった人なのだろうか。☆本書の奥付(おくづけ)を読むと、「批評家・随筆家、慶應義塾大学文学部仏文学卒」とある。☆内村鑑三の他に、これまでの氏の著作には岡倉天心や石牟礼道子や小林秀雄に関するものがある。☆どうやら、この人はキリスト者であるらしい。☆キリスト者であり、批評家・随筆家である。☆この人は宗教学や精神史・思想史研究専攻の専門家ではない。☆著者は、新約聖書学や精神史・思想史研究のこれまでの成果を踏まえて内村鑑三に接していない。☆割合この人は、批評家・随筆家のスタンスから奔放自由に内村鑑三評伝を著しているため、本書を読んでいての・いくつかの失策記述も実のところ、目立つ。

例えば、そのうちの一つを挙げてみると、内村による既存のプロテスタント教会批判、「普通の教会は死者に対してすこぶる冷淡である。普通の教会では死者のために祈ることは禁ぜられております」という内村の言説を著者は挙げ、肯定的に紹介している(93・94ページ)。☆「既存の教会が死者に対してすこぶる冷淡である」のは当たり前で、キリスト教においては本来、「普通の教会」が死者のために祈ることはしない。☆生まれて最初に受ける洗礼から結婚、死ぬ前の終油を受けるまで、特権的な儀式(秘蹟、礼典)の独占履行にて人間の死を含めた個人の全てを教会が押さえる、実質世俗的な封建支配権力にまで堕(お)ちてしまった中世キリスト教団ならともかく、死者への追善供養にコミットすることで、宗教が偶像(死者)崇拝の体制維持のイデオロギーになってしまうことは、聖書におけるイエスの言動(ローマ帝国やユダヤ祭司の神殿崇拝に対するイエスの痛烈な批判)を無心に読んで感得する者には、初期教団の意向として容易に理解できるはずだからである。

内村鑑三は、「キリスト者は死者のために祈るべき」と主張した。☆それは本書にて著者が指摘するように、内村において「死は、別れの経験ではなく、逝った人とより近くなることへの道程である」という彼の信仰の深化の「回心」を支える一つの支柱ではあるが、他方で死者への祈りが神権支配の体制イデオロギーになることも、新約聖書学や思想史研究の成果を踏まえた者ならば普通に知っていることだ。☆少なくともイエスと初期キリスト教団は、「生きている生者が死者に対し権威を感じて死者を信仰することの危うさ」を、その政治的な意味を見抜いていたし、知っていた。

また同様に、著者は後の内村の再臨運動の内に、ある種の「精神主義」的傾向を認め、内村の場合、それは「精神主義」であるよりも「霊性主義」というべきものとして、信仰深化の観点から専ら肯定的紹介に終始している(218―223ページ)。☆しかし、「精神主義」の内面信仰への傾斜から現実状況に没交渉の傍観的態度にて、国家や社会への矛盾問題は全て個人の内的な修養や信仰の「精神」のあり方の次元に解消せられ、結果「精神主義」は状況追認の政治的イデオロギーとして機能することも、精神史や思想史研究を踏まえている者ならば、普通に知っていることだ。☆そういった「精神主義」に対する批判的考察の視点は、精神史・思想史研究においては常套の手法である(例えば、近代の真宗教団・清沢満之の「精神主義」に対する批判など)。

もちろん、本書は内村鑑三についての評伝であり、自伝的紹介にて内村のキリスト教信仰の弱さ難点のマイナス面をわざわざ誇大に指摘して内村鑑三その人の生涯を不当におとしめ批判する必要は全くないのだから、特に触れなくてもよいが、どうも著者の書きぶりからして、氏は「生きている生者が死者を信仰することの危うさ」や「精神主義が発揮するイデオロギー的問題」を全く意識していないように思える。☆キリスト者であり、批評家・随筆家である著者は、新約聖書学や精神史・思想史研究の従来成果や常套手法を踏まえておらず、「批評家・随筆家の自由なスタンスから内村鑑三評伝を、自分が言いたいことの好みの型にはめて勝手気ままに著している」の悪印象が残る。☆本新書を読んでいて個人的に気になる所だ。

何しろ、本書「内村鑑三・悲しみの使徒」での内村に関する著者の結論、「内村鑑三とは誰かという根元的な問い」の総括が、後に詳しく引用するように、内村鑑三とは「遅れてきたイエスの直弟子である使徒のひとりだったのではないだろうか」である。☆確かに、内村鑑三が生きた時代にした仕事や後世に残した弟子の育成において、内村は近代日本のキリスト者として素晴らしい働きをした。☆特に内村が育てた弟子たち、塚本虎二や矢内原忠雄らのキリスト教関連の仕事には感嘆すべきものがある。☆そこから逆算しても、師の内村鑑三が時代に及ぼした影響の大きさは計り知れない。☆近代日本の同時代のキリスト者らと比べても内村は頭ひとつ抜けている。☆内村鑑三は実に偉大であった。☆しかしながら、内村鑑三を「遅れてきたイエスの直弟子である使徒のひとりだった」とするのは、あまりに誉(ほ)めすぎだ(笑)。☆内村鑑三全集や後の内村研究を読むにつけ、「内村鑑三は近代日本における優れたキリスト者の一人であった」とするのが、せいぜいの所であり、妥当な内村評価のように私には思える。

「ここまで来て、私たちはふたたび、内村鑑三とは誰かという根元的な問いに立ち返る。彼は学者でもなく、哲学者でもなく、いわゆる宗教者でもなかった。しかし、神学者としても、文学者としても、哲学者、思想家、事業家としても、さらに宗教者としての秀逸なはたらきをなしたのも、事実である。彼は、神への、あるいは彼がいう『宇宙』への扉をキリスト者以外の人々にも開こうとした。そうした姿を見て藤井(武)は『預言者』と呼んだのだろうが、それでもなお、彼の全貌を言い当てていない心持ちがする。彼はやはり、遅れてきたイエスの直弟子である使徒のひとりだったのではないだろうか」(250ページ)

岩波新書の世界(97)桑原武夫「一日一言」

72e875bd.jpg岩波新書の青、桑原武夫「一日一言」(1956年)は、普通に読む新書とは少し趣向の変わった面白い本だ。☆全ページが1年365日の日付に分割されており、1月1日から12月31日まで1日ごとに「一日一言」の古今東西、世界の偉人の名言が掲載されてある。

「一日一言」とはいうものの、短い一文の「一言」フレーズではなくて、それなりの適度な長さの・まとまった文章が引用されている。☆その「一言」の内容は誠に岩波新書らしく、いずれも世界の名言たるにふさわしい。☆ 人間の生命倫理や人格尊重を謳(うた)うもの、普遍的倫理や人間道徳の規範を指し示すもの、形而上哲学や宗教哲学の深遠を極めるもの、個人の個性の伸長や努力の奮闘を進めるもの、科学真理の探求を促すもの、人類社会の平和と進歩を求めるもの、人間や自然の芸術の美を掘り下げるものといった内容より主になる。☆他方から言って、特定の人種や民族や国家や宗教や文化、その他、性別や容姿や個人的嗜好などで社会的少数のマイノリティに属する人々を、あからさまに差別し侮辱・抑圧攻撃するような、今日問題にされているヘイトスピーチ的言辞の対極にある内容を、1956年発行の新書とはいえ、結果として編者の桑原武夫が確信犯的に連続して選択し本書「一日一言」を編(あ)んでいる、といった所だろうか。☆本書書評にて、「毛沢東や幸徳秋水など左翼の社会改革者の名言を桑原武夫は、偏(かたよ)って好んで取りあげる」云々の批判が昔からあるが、私はそこまで気にならない。

「一日一言」とはいいながら、日によって時に「一言」の文章はなく、モノクロではあるが割りと大判のきれいな絵画や彫刻や仏像の写真のみが掲載の場合もあり、例えば1月1日は、葛飾北斎「富嶽三十六景」錦絵の富士山の図版に万葉歌人・山部赤人の長歌と短歌、例えば8月13日は、フランス革命のドラクロア「民衆をひきいる自由の女神」の大判絵画だけの掲載など、ビジュアル面でも気を引くインパクトある紙面構成となっている。☆私は昔から本新書の作りに感心していた。☆また毎日ごとの「一言」の発言ないしは執筆をなした歴史的人物の顔写真や肖像イラストが漏(も)れなく各人、掲載されているのも魅力だ。☆とにかく、本を開いてページーをめくって、見た目が良い新書なのである。

昔から現代に至るまでの古今東西、様々な世界の歴史上の人物による「一日一言」が、今まで人間社会が積み重ねてきた人類の歴史の偉大さを「教養の重み」として感じさせてくれる、そうした心持ちだ。☆本書「一日一言」の副題は「人類の知恵」である。

特に最初から順番に熱心に読むわけではなく、パラパラとめくり、気に止まった日付の「一日一言」をよりぬきで所々を読み流すのが楽しい本だと思える。☆「人類の知恵」という「一日一言」の記載文章の内容が優れており、ページ内のレイアウトが・よく練られていて視覚的構成も印象良く、絵画写真図版もきれいで、書かれた文字を熱心に読む書物というよりは、楽しんで見る写真集やイラスト集といった感じに近い。☆所有し日々携帯して、出先で読んでも感じの良い本である。☆これだけの内容が文章と図版ともに実にコンパクトに一冊に・まとめられており、「紙で出来た書籍の良さ」を岩波新書の桑原武夫「一日一言」は改めて、しみじみと感じさせてくれる。

岩波新書の世界(96)川田稔「昭和陸軍全史」

72e875bd.jpg(今回は、講談社現代新書、川田稔「昭和陸軍全史」についての書評を特集「岩波新書の世界」ですが、例外的に載せます。☆念のため、川田稔「昭和陸軍全史」は岩波新書ではありません。)

毎年、夏の暑い盛りの八月になると、なぜか先の日本の戦争についての書籍を読みたくなる。☆これは私が紛(まぎ)れもない日本人であるからに相違ない。☆川田稔「昭和陸軍全史」全三巻(2014―15年)は、「昭和陸軍」の誕生と変遷を戦略構想と陸軍内部の派閥抗争の点から、満州事変、日中戦争、太平洋戦争までを時系列で各種史料を詳細に追跡することを通して「昭和陸軍(の)全史」を明らかにした力作だ。

新書にもかかわらず一巻が400ページほどあり、全三巻で約1200ページの膨大な量である。☆まず「昭和陸軍」内部での派閥グループの形成と、それら派閥同士の陸軍内でのポスト争奪、個人間の昇進と失脚の騒動、陸軍における指導権の掌握闘争、大陸前線の実働的な師団将校と東京の陸軍参謀本部の官僚的将校との間の戦闘戦略の温度差、軍部の周りで暗躍する政治ブローカーや民間右翼団体の働きかけなどがあった。☆さらには海軍や内閣や外務省、天皇と元老・重臣らに対する、陸軍全体での政治介入や予算獲得をめぐっての接触・懐柔と対立・暴走の勢力拡大誇示の運動もあった。☆そうした事柄を公式の政策、綱領、命令文書、電信、さらには当事者の談話、私的な回想手記や日記や書簡、関係者らの証言メモなどを駆使して具体的日時の会合や面会にて当日、何が語られ何が決定されたかまで追跡し、非常に事細かに明らかにしていく。

歴史の総体を明確にするために・より効果的な方法を自覚的に選択していく歴史研究の立場からして、川田稔「昭和陸軍全史」は、限定された狭い範囲の「昭和陸軍」内部での派閥抗争や粛清人事などの詳細を事細かに実証的に明らかにした、悪い意味での「政局史」でしかない。☆そうした「政局史」は、どこまでも政治権力内部の一部門(陸軍)の限定された内輪(うちわ)な話である。☆そこには、政治権力を掌握する治者が国民や民衆などの大多数の被治者を巻き込み働きかけ政治支配する治者と被治者との関係性への視点考察が欠落しているのだ。☆「歴史を動かす主な要因とは何か」を考え、そこに焦点を当てる歴史哲学的な理論的考察が「政局史」には欠けている。☆いつも政権内部の細かな政局闘争の実証的解明に終始するのみである。

だが、しかし本書「昭和陸軍全史」を読んで、そうした政治権力内部の、さらには「昭和陸軍」という一部門組織内での子細な事実の客観的解明にのみ終始する「政局史」の難点がありながらも、余りに圧倒的量の細かで厳密な客観的実証を重ねているために、いわば「量質転化」にて逆に、これは非常に意義ある歴史研究のように思えてくるのだから不思議だ。

本書を読んでいくと、「昭和陸軍」の中心首班の軍人(永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一ら)が、節目のその時々で「状況をどうあらせたいと思い、どういった判断・決断を現実にしたか」、史料を併せて実証具体的に追跡することで、例えば「日本は中国国民党と共産党の合作反日策略に・はまり日中戦争の泥沼に陥った」だとか、「アメリカの挑発に乗って日本はやむにやまれず対米戦に突入した」とか、「先の戦争は日本国の自衛戦争であり、これまた・やむにやまれずの正当な戦いであった」とか、「欧米列強からのアジアの解放のために日本は戦った」など、昨今の右翼や国家主義者や歴史修正主義者らが述べていることが全くの荒唐無稽な虚妄だと分かるはずだ。☆ましてや対米戦は、「満州を取った日本が南下し、フィリピンを取ったアメリカが北上して、中国にて市場争奪のための日米の帝国主義的衝突であった」というような、ある種の理性的な日米開戦ですらなかったのである。

詳しくは全三巻、約1200ページの「昭和陸軍全史」を読んでもらうしかないが、個人的な読後の印象書評を述べるなら、「昭和陸軍」創始者の一人で理論的支柱であった永田鉄山の「国家総力戦、国際的経済戦争のための資源と市場の確保」(第2巻、109・110ページ)という言葉に集約・象徴されるように、もちろん陸軍内部で人による表面的相違はあるが、全般に「昭和陸軍」は、来(きた)るべき将来の大戦に勝つために国家総力戦体制の構築と、次期総力戦を遂行できるだけの資源確保と市場獲得を目指して目下の戦争遂行勝利を目する、いわば「戦争により戦争を養う」ような「戦争のための戦争」に明け暮れるあり様であったといえる。☆諸外国からの巧みな挑発によってや、自衛のためやアジアの解放のために、「やむにやまれず」ではない。☆進んで積極的に「戦争のための戦争」をやりたがる。☆それは職業軍人は戦争遂行が本職の仕事であり、戦争遂行での戦勝が常に彼らの悲願の目標であるからだ。☆軍人たる彼らは好戦衝動にいつも駆られてしまう。☆戦争をやって勝利する以外にも真の国益が時にあることを、彼らは知らない。☆「昭和陸軍」は、やたらと「戦争のための戦争」をやりたがるのだ(苦笑)。☆ないしは平時でも、戦争遂行のための総力戦体制をやたら作りたがる。☆しかも、無謀な強硬作戦の完遂や途方もない戦線拡大や壮大な戦闘計画を絶えずしたがる。☆無駄な戦いを避ける協調外交の努力や中途での戦術変更や経費削減のための軍縮判断は、殆どやりたがらない。

よくよく考えてみれば、「日米持久戦から日米世界最終戦争へ」(石原莞爾)など、来るべき将来の大戦に勝つための資源自給体制確保を志向する「戦争により戦争を養う」方式の「戦争のための戦争」は、将来の次期大戦を成すためには緒戦にて絶対に負けられない、一度も敗北が許されない実に過酷な、いわば「勝ち抜きトーナメント戦」のようなものである。☆もしそれがあるとして、「日米世界最終戦争」の最後にたどり着くまで連戦連勝で各方面での諸外国との戦争(中国、ソ連など)に常に勝ち続けなければならないわけである。☆だから、目先の戦争にて絶対に負けられないから、敗北を認めたくないために無謀な作戦遂行や長期戦の泥沼突入への無理が各戦線にて生じる。☆来るべき将来の次期大戦に勝つために目下の戦争遂行勝利を目する、「戦争により戦争を養う」の「戦争のための戦争」の理論は、原理的に言って一国が常に連戦連勝で負け知らずの奇跡など起こせるわけがないのだから、現実的な実現可能性にて破綻していることは明白だ。☆いくら「当時の選(よ)りすぐりの秀才が集(つど)った陸軍」であるとはいえ、結局はその程度の思考水準の「昭和陸軍」でしかなかったという非常に残念な感慨を率直に私は持つ。☆この辺りのことは、詳しくは本書全三巻に実際に当たり、実証的な史料を踏まえて各自確認してもらいたい。

最後に川田稔「昭和陸軍全史」を読む上で絶対に外せない、必ず押さえておかなければならない、著者による「昭和陸軍」の概要と定義を示しておこう。☆本書は非常に細かく膨大な「政局史」の実証的研究であるが、詳細な歴史的事実の羅列に溺(おぼ)れず圧倒されず、「昭和陸軍」に対する基本の大きな枠組みの本質的理解は欠かせないと考えるからである。

「昭和初期、満州事変を契機に、陸軍は、それまで国際的な平和協調外交を進め国内的にも比較的安定していた政党政治を打倒した。その推進力は、陸軍中央の中堅幕僚グループ『一夕会』であり、彼らが、いわゆる昭和陸軍の中核を形成することとなる」(第3巻、410ページ)

「一般に、統帥権の独立が、昭和期陸軍の暴走の原因となったとされている。だが、彼らは統帥権の独立ではむしろ消極的だとし、陸軍が組織として国政に積極的に介入していく必要があると考えていたのである。陸軍が組織として国政に介入するとは、軍が政治を動かすこと、組織として政治化することを意味する。…陸軍が組織として政治を動かそうとするのは、まったく新しい志向といえた。そして、実際に、満州事変以降、陸軍は組織として政治化していく。そして、それが昭和陸軍の重要な一つの特徴だった」(第1巻、73・74ページ)

陸軍中央の中堅幕僚グループ「一夕会」を中核として形成された「昭和陸軍」においては、陸軍が組織として国政に介入し、軍が政治を動かしていく。☆こうした「陸軍が組織として政治化していくこと」を、著者の川田稔は「昭和陸軍の重要な一つの特徴」に挙げている。☆確かに、満州事変以前の明治・大正の陸軍時代から「統帥権の独立」があり、帷幄上奏(いあくじょうそう)にて倒閣をなしたことはあった。☆しかし陸軍は、あくまでも陸軍大臣参加の内閣の傘下にあり、天皇や元老・重臣、政治家や文民の制御(コントロール)支配下にあった。

「昭和陸軍」以前の陸軍において、「統帥権の独立とは、軍が政治から干渉を受けないと同時に、軍は軍事に関連すること以外は政治に介入しないことを意味した」(第1巻、74ページ)とも著者はいう。☆以前は「政治と軍事」は内閣と陸軍の間で互いに独立不干渉であり、その原則が守られていた。☆それまでの陸軍は軍事専門の、基本的には国政には不介入の立場を取る非政治的な組織であったのだ。☆しかし「昭和陸軍」においては、陸軍が組織として国政に積極的に介入し、現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝(どうかつ)をやり、時に二・二六事件のような軍事クーデターまで起こして軍みずからが政治を動かし、陸軍本体が組織として急速に政治化していった。☆それこそが「昭和陸軍」の「まったく新しい志向」といえた。☆こうした以前の陸軍との相違にて「昭和陸軍」の概要・定義を押さえた上で本書に臨むことが、川田稔「昭和陸軍全史」全三巻の適切な読みであるように思う。

岩波新書の世界(95)高橋源一郎「読んじゃいなよ!」

c550f4b8.jpg先日、岩波新書の赤、高橋源一郎「読んじゃいなよ!」(2016年)を読んでみた。☆読み味としては、近年の同じ岩波新書でいえば、斎藤美奈子「文庫解説ワンダーランド」(2017年)に似ている。

「明治学院大学国際学部・高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ」とあるように、本新書は高橋が出校している大学のゼミの学生たちと共同で過去の岩波新書の合評書評の形だが、普通に書評をすればよいものの、主催の高橋源一郎は、わざと面白く無駄に読者を笑わせようとして、長い前降り、時に大袈裟で冗長な説明、くだらない脱線、つまらない本音語り、感性的な話し言葉と擬態語の連発などを本書に盛り込んでやっている。☆無駄に読者を笑わせようとする。☆この辺り、高橋源一郎と斎藤美奈子とは相通ずるものがある。

高橋源一郎も斎藤美奈子も、なぜ手っ取り早く読者を笑わせにかかるのか。☆読み手からの笑いの手柄を、なぜそこまでして取りにいきたがるのか。☆それが、「どんなことでも面白おかしく語らなければ気がすまない」といった、個人の資質や嗜好から来るものならば仕方がない。☆世の中には誠に不思議なもので、落語家や漫才師やお笑いタレントでもないのに、なぜか日常会話で変に大袈裟に抑揚を付けたり、妙に新奇な言葉を使ったり、話の最後に必ずオチを付けてみせたりで面白おかしく、あたかもお笑い芸人やテレビタレントのような話し方をする一般人が、親戚や友人や職場の同僚の中に、だいたい一人か二人はいるものだ。

しかも、読み手を笑わせようとする、それら高橋の試みが、ことごとくスベっている。☆例えば本書のタイトル「読んじゃいなよ!」について、その設定意図を本新書にて最初に述べているが、高橋源一郎は始めから見事にスベる。

「ところで、『読んじゃいなよ!』という本のタイトルについては、どう思われるでしょうか。このタイトルの名づけ親としては、子どもの名前をつけるときと同じぐらい、真剣に考えて、つけたのですが。では、なぜ『読んじゃいなよ!』だったのか。それは、みなさんに読んでもらいたいからでした。もちろん、この本もだけれど、それ以外のすべての本を、です。『読め!』はイヤだ。なんだか、力ずくの感じがするから。『読んでみたら?』も、なんとなく押しつけがましい。『読まなきゃダメ!』だと怒られてるみたい。『読むべきだよ』も『読んでみれば?』もピンとこない。そして、たどり着いたのは『読んじゃいなよ!』だったのです」(2・3ページ)

また本書の冒頭書き出しにて、こういうのもある。

「こんにちは。この本を手にとっていただいてうれしいです。もし、あなたが本屋さんにいて、どうしようかと悩んでいるのなら、レジまでこの本を持って行っていただけると、もっとうれしいです」(2ページ)

高橋源一郎、この人は(おそらく)大して重要ではない、本当はどうでもよい事柄の判断や決定過程をわざと迂遠(うえん)に子細に事細かに力を入れて熱心に語ることや、人が常々、心の底で思っている本心を隠さず、あえて本音語りで正直に明かすのを文筆でやることが面白いと思っているに違いない。☆それで読み手からの笑いが取れると考えている。☆「そして、たどり着いたのは『読んじゃいなよ!』だったのです」や「レジまでこの本を持って行っていただけると、もっとうれしいです」など、いずれもそういった笑いの型の語りの話術だ。

「みなさんに読んでもらいたい」など、本を執筆する著者や書籍を出版する編集者なら皆が普通に願い考えていることであって、そうした「読んでもらいたい」思いの当たり前な願望を直接に本のタイトルに普通はしない。☆しかし、高橋源一郎は、そのまま書籍のタイトルにする。☆ここが、この人の・いい加減よい年齢をした大人であるのに駄目な所だ。☆同様に、一般的な大人な著者は自著を確かに購入してくれれば嬉しく、世間の人に対しそれを欲しているに違いないが、わざわざ著書の中で活字にしてまで「レジまでこの本を持って行っていただけると、もっとうれしいです」などと直接に頼んだりしない。☆だが、高橋源一郎は、あえて幼児的とも思える本音語りで、そうしたことを書くことが、この人は面白いと思っている。☆高橋源一郎は確実にスベっている。☆少なくとも、私はクスリともしなかった。☆むしろ笑うどころが、岩波新書「読んじゃいなよ!」を読んでいて、逆に私は段々深刻な真顔になっていく。

本書にての高橋源一郎の安易に狙いにいく笑いのスベり具合の内容もヒドいが、同様にこの人の口語的な感性語や擬態語連発の文章表現も相当にヒドい。☆例えば、「ドストエフスキーって、マジやばい!」とか「ピン!」(9ページ)など。☆読んでいて、かつて斎藤美奈子が岩波新書「文庫解説ワンダーランド」にて、小林秀雄を「コバヒデ」と連呼し紙面にて・はしゃいでいた悪夢がよみがえるかのようだ(苦笑)。☆だいいち高橋源一郎、この人は1951年生まれの、かなりのいい年をした大人である。☆それなのに「ドストエフスキーって、マジやばい!」とか「ピン!」など、「高橋源一郎、コイツは相当にイタい。こんな大人はイヤだ」といった思いが正直、私はする。☆「せめてもう少し真面目に書け」というのが、率直な思いだ。

文筆は「中味と形式」でいえば、「中味」の内容は深遠で高等なことや、別に新奇なことなど書かなくてもよいから、まずは「形式」の文章表現の適切さの型を守ることから入っていきたい。☆内容よりも外部の形式の適切な表現の型を厳密に律儀に丁寧に守ることが、とりあえずの読書技術と文章記述の上達基本と強く思える。☆そうした個人的感慨すら持つ。

本書は高橋ゼミの学生有志らによる岩波新書の合評書評である。☆これは岩波新書編集部への高橋源一郎の持ち込み企画だったらしい。☆高橋によれば、「最初にやったことは、岩波新書に企画を持ちこむことでした。…そのとき、わたしはこういったのでした。『岩波新書に関する岩波新書をつくりたいと思っています。それも、いままで出たどの岩波新書よりも面白く、ためになるものを!』」(15ページ)。☆その際に書評対象となる岩波新書は、鷲田清一「哲学の使い方」(2014年)、長谷部恭男「憲法とは何か」(2006年)、伊藤比呂美「女の一生」(2014年)の3冊である。☆そして執筆した著者を特別講師として実際に迎え、彼らに対する高橋と学生らによる質疑応答の形式で合評は進む。

近年では、「読む価値が全くない。読むだけ時間の無駄」など書籍そのものの存在や執筆した著者の人格を安易に全否定するような過酷な書評・ブックレビューや、最初に目次を羅列し、次に各章ごとの概要を要約して体裁よく紹介するだけの実際に書籍を読んでいないのに読んだ気にさせる、ある意味・便利な(?)、「書評もどき」が流行し人気である。☆しかし、書評や文芸批評というのは本来は、その本に託された著者の切実な思いを読み取ったり、その書籍が出された時代状況の考察を通して、その本の・まさに読まれるべき良さ、もしくは弱点の難点を具体的に読み手に示し、未読の読者には「読んでみたい」と、その書籍への触手が新たに伸びるように、また既読の読者にも別な読みの可能性や難点を指摘することで再確認を促し、再度その本を読ませる(再読させる)ような、そういった建設的な内容であるべきだ。☆書評や文芸批評の一つの達成目標は、読み手を本に向かわせ実際に書籍を手に取らせることにある。

高橋源一郎「読んじゃいなよ!」にて扱われている過去の岩波新書、鷲田清一「哲学の使い方」と長谷部恭男「憲法とは何か」は私は既読であった。☆例えば、鷲田「哲学の使い方」は、「哲学の意義は答えをすぐに出さないこと、答えが複数ありうること、場合によっては答えがあるかどうかも分からないことまで想定して、『哲学を使う』意味を私達が見据える大切さ」を論じている。☆「読んじゃいなよ!」本編にても高橋ゼミの学生らによる、書いた当人・鷲田清一への直接な質疑応答を通して、そうした著者・鷲田の執筆の思いを最終的には上手く引き出せてはいる。☆だが、なかには学生によっては明らかに笑いのウケを狙ったつまらない質問もあり、他方、当の鷲田清一も高橋ゼミの不真面目な・お笑い集団の雰囲気に呑まれているのか、冒頭から、つまらない冗長な世間話や昼食談義など、どうしても中途半端に・なぜか笑いを取りに行って、高橋源一郎や高橋ゼミの学生同様、「哲学の使い方」についての話そのものは良く、鷲田の岩波新書「哲学の使い方」は良書だとは思うけれど、やはり「皆が全員で壮大にスベっている」の悪印象が残る。☆その他、長谷部「憲法とは何か」と伊藤「女の一生」に関する書評議論でも、同様に残念な読み心地だ。

とりあえず私は、高橋「読んじゃいなよ!」を読んでみて、書評俎上(そじょう)にある鷲田らの過去の岩波新書を再読で読み返してみたり、伊藤の岩波新書を新たに読んでみたい気には全くならないのであった。

高橋ゼミの学生による、岩波新書に関する文章「私と岩波新書」が本編の各章前後に挿入されてあるが、内容はともかく、こうした文章を未だ「です・ます」調で書く大学生が多くいることも、いたたげないし正直、閉口した。☆小中学生の作文ではないのだから、大学生の書評や報告などのレポート・論文の正式文章では「です・ます」調の使用は避けよう。☆大学生の「です・ます」調のレポート・論文は、幼稚なマイナス印象を読み手に与えてしまう。

ゼミ主催の高橋源一郎が、書評や文芸批評にて特に笑いは必要ないのに、本当は無理に読み手を笑わせなくてもよいのにもかかわらず、あえて・つまらない笑いを取りに行って見事に面白くない高橋の醜態に似て、本新書の巻末「おまけのおまけ」にて高橋ゼミの学生も最後までスベっている。☆弟子たる学生は師匠である先生の悪い所まで学び共有して、学生は先生に似てしまうものなのか。☆「おまけのおまけ」は「高橋源一郎ゼミ・岩波新書で遊ぶ」とあり、これまでの数多くある岩波新書のバックナンバーより、面白い一言テーマにてタイトル響きの語感から連想で過去タイトルを、新書の内容には関係なく、任意にピックアップする趣向の「遊び」企画である。☆例えば、

「SFっぽい岩波新書『プルトニウムの未来・2041年からのメッセージ』。☆サバイバルに使えそうな岩波新書『川釣り』、『砂漠と闘う人々』、『クマに会ったらどうするか』。☆ラップっぽい岩波新書『森の力・育む、癒す、地域をつくる』。☆溜池ゴローっぽいタイトルの岩波新書『広島の村に働く女たち』」

最後の「溜池ゴローっぽいタイトルの岩波新書」など、普段から真面目に生活している一般の人は「溜池ゴロー」がどのような人物か知らないだろう。☆また知る必要もない。☆「溜池ゴロー」を活字にして掲載したのは岩波新書の長い歴史の中で本書が(おそらく)初めてであり、これは画期的な「事件」であって、高橋ゼミの学生は「それが面白い」と思ってウケを狙って・わざとやっているのだろうけれど、私は少しも面白くない。☆岩波新書に「溜池ゴロー」を組み合わせて述べる必然性もない。☆完全なおふざけの、いわゆる「内輪ノリ」の笑いである。

そもそも、「なぜ手っ取り早く読者を笑わせにかかるのか。読み手からの笑いの手柄を、なぜそこまでして取りにいきたがるのか」。☆高橋ゼミの学生は、指導教授たる高橋源一郎の悪癖を悲しいまでに踏襲している。☆「教えられる学生は教える先生に見事に似てしまう」真理を本書の最後の最後にまで、明確に確認させられて私は、いたたまれない気持ちになった。☆そういった岩波新書の赤、高橋源一郎「読んじゃいなよ!」読後の残念な個人的感想である。

岩波新書の世界(94)中村政則「象徴天皇制への道」

521b2ba3.jpg戦後の天皇制、いわゆる「象徴天皇制」において、天皇が「象徴」であることの意味内容は果てしなく広く、どこまでも深い。☆そのことは象徴天皇制の議論が、憲法論の法学や政治学や歴史学や民俗学や宗教学や文化人類学や現代思想の記号論など、様々な分野にて論じられていることからも理解できる。☆また柳田国男、津田左右吉、和辻哲郎など、各人による王権論、天皇論にて天皇が「象徴」であることの意味についての考察は誠に深い。☆戦後の象徴天皇制に対する議論は幅広く、かつ奥深い問題射程を持つ。

岩波新書の赤、中村政則「象徴天皇制への道」(1989年)も、そうした戦後の象徴天皇制に関する論考の一つである。☆また本新書が、戦後の「象徴」天皇たる昭和天皇逝去(崩御)の1989年に刊行されたことは、誠に意義深い。☆本書の概要は以下だ。

「一九三二年から日米開戦直後までの十年間、駐日米国大使を務めたグルーは、帰国後各地で『知日米派』として独自の天皇観・日本論を語った。GHQの占領政策、特に天皇制の存続に尽力した彼の膨大な手記と手紙をもとに、初めて吉田茂らとの秘められた関係、マッカーサーとの意外な接点、そして『象徴』という呼称の誕生に至る経過に光をあてる」

本書には「米国大使グルーとその周辺」という副題が付いている。☆一九三二年から日米開戦直後までの十年間、駐日米国大使を務めたグルーが本国へ帰国し終戦後、GHQの占領政策に多大な影響を及ぼし、日本の天皇制の存続を軸にしたアメリカによる間接統治に尽力した様を、彼の日記や手記や手紙など膨大な一次史料に直接あたって解読していく。☆グルーが策定した、戦後日本における「象徴天皇制への道」を明らかにするものだ。

私が読む限り、グルーが「象徴天皇制への道」を強く推す主な根拠は、コストが・かからずリスクも伴わず、米国による敗戦後の日本のズムーズな統治遂行の有用性の観点からする、政治的判断による天皇利用論である。☆よって、本書にて展開される、戦後の天皇が「象徴」である意味は、統治の効率性よりなる極めて合理的な政治判断からするタイプの象徴天皇制論であるといえる。☆そうした「戦後の日本においては、天皇制を存続させて再利用する選択が最良」とするようなグルーの天皇制に対する政治的判断は、本書掲載の、例えば次のような書簡文中にて端的に示されている。

「天皇制にかんしていえば、…現在の天皇個人と明白に区別されるべきものだが、…それは保持されるべきであると、私の心中ははっきりしている。なぜなら象徴として、天皇制はかつて軍国主義崇拝に役立ったと同時に、健全かつ平和的な内部的成長にとっての礎石としても役立つからである」(「国務省・ホーンベック宛」1943年9月30日付)

「将来、天皇に何が起ころうとも、天皇制は残すべきだというのが私の堅い信念です。日本に民主主義を接ぎ木しようとしても、混乱に終わるだけでしょう。天皇制が日本人の生活の礎石であり、最後の頼みであるかぎり、それは、われわれが日本から軍国主義を追放した暁には、健全な政治構造を打ち樹てるときの土台として利用できるものです。私はわれわれがこの事業をなしとげることができるし、必ずやりとげるであろうことにほとんど疑いをもっておりません」(「『サンフランシスコ・ニューズ』ジョン・S・パイパー宛」1943年11月30日付)

「礎石として役立つ」や「土台として利用できる」など、いずれも戦前の軍国主義の精神的支柱であった日本の天皇制を、今度は新たに民主化日本の「平和」の象徴、効率的な統治という観点から戦後に象徴天皇制として利用し尽くすべきという、日本の内情をよく知る「知日派」グルーによる提言である。☆日本に知悉していたグルーは、しばしば「西洋的思考の尺度で日本人の心理や性格をはかってはならない」といい、「既成の欧米的改革を日本に押しつけるのではなく、日本の伝統に即した発展と変革を助長する」ことを主張していた。

こうした日本をよく知るがゆえに、日本の内情に即し、あえて強硬策に出ない、しかし冷徹で合理的な天皇制の再利用という政治的判断がまず土台にあって、その上に「親日派」で日本の天皇に対し穏健であったグルーと、「ミカドは去るべし。天皇崇拝の思想は日本の侵略行為の真髄」とするような、中国サイドの反天皇キャンペーンの意向を汲むため、天皇制を含む日本の戦後処理に非常に厳しく強硬な「親中国派」グループとのアメリカ国務省内での激しい対立があった。☆また、戦後に報復の復讐心に駆られた「カルタゴ的懲罰」(ローマ帝国がフェニキア人のカルタゴを壊滅させたように、日本国を滅亡させるような苛酷な復讐的態度で日本の戦後処理に臨むべきこと)を唱えて、戦後世界における後の日本に対する米国の政治的影響力を何ら勘案しない、アメリカ国内の安易な激情型世論にもグルーは反発と抵抗を感じていた。☆そのためグルーは天皇制存続の再利用の線で、マッカーサーにも日本の占領改革人事に関する働きかけの工作をしていた。

その他、戦前から日米開戦直後までの十年間、駐日米国大使を務め日本に滞在したグルーの日本の友人たちへの思いや、牧野伸顕や樺山愛輔や吉田茂ら、いわゆる日本の「穏健派」(対米戦にて比較的慎重・消極的であった政治家や外交官)とされる人達との私的な交流もあった。☆そうした諸々の要素が、主に政治的有用性の判断からの天皇制の存続の主張と戦後の天皇制利用論を内実とする、グルーの「象徴天皇制への道」を背後にて支えていた。

それにしても、コストとリスクからする合理的な有用性観点の利用論からする政治的判断というのは、一般的にいっても誠に非情であり、味気ないものである。☆そこには効率的な「政略」上の判断が主であり、利用論の政治の前では理性的な倫理意識や文化の鑑賞享受や民族共同体の伝統尊重といった態度は二義的なものに追いやられてしまうからだ。

本書を読んでいると、著者がグルーの日記や手記や手紙を解読していく過程で著者もグルーの戦後の天皇制再利用の象徴天皇制の線に完全同意し、同調していっている点が非常に興味深い。☆歴史家が研究対象や史料に接しているうちに、それらにいつの間にか取り込まれ同調してしまい結果、自分を喪(うしな)ってしまうことは実際によくある。☆グルーないしは著者が強調する戦後の天皇制の存続理由は、「統治に使えて有用だから、利用に耐えうるから」というのが主な判断根拠になっている。☆本書「象徴天皇制への道」にて展開されている象徴天皇制論とは、そうしたタイプの天皇制論である。☆ここには、「戦前の軍国主義の象徴であり精神的支柱であった天皇制を、そのまま戦後に民主化の『平和』の象徴として再利用する節操のなさは、どうなのか」とか、「敗戦後に天皇制を存続させ政治的に再利用するにあたり、天皇個人の戦争責任問題や天皇制そのものが戦時中に果たした政治的役割の問題はどうするのか」といった議論は全くない。

岩波新書「象徴天皇制への道」を一読して、グルーも著者の中村政則も「天皇個人の戦争責任」は見事なまでに看過して、全く触れないのである。☆天皇制が戦前に日本の軍国主義にて果たし発揮した政治的役割についての主体的な考察も皆無である。☆この辺りが岩波新書の赤、中村政則「象徴天皇制への道」の難点であり、読後に残る味気なさ、物足りなさか。

岩波新書の世界(93)山本義隆「近代日本一五0年」

72e875bd.jpg岩波新書の赤「近代日本一五0年」(2018年)は、山本義隆、初の岩波新書である。☆山本義隆といえば、元東大全共闘代表であり、駿台予備学校の物理科講師であり、私は文系選択で物理を本格的に勉強したことがなかったが、それでも学生時代より山本の駿台文庫「物理入門」(1987年)が名著である噂はよく耳にし、山本義隆の名は昔から知っていた。

近年の科学史家としての氏の仕事、「磁力と重力の発見」全3巻(2003年)も素晴らしい。☆また、いわゆる3・11以後の福島第一原発での放射能漏れ過酷事故を受けての、原発ならびに国の原子力エネルギー政策に対する氏の発言や文章にも個人的に注目していた。☆読む以前から、いやがうえにも期待が高まらざるを得ない、岩波新書の山本義隆「近代日本一五0年」である。

「黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による『殖産興業・富国強兵』『高度国防国家建設』『経済成長・国際競争』と国民一丸となった総力戦体制として一五0年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る」(表紙カバー裏解説)

本新書の副題は「科学技術総力戦体制の破綻」である。☆このサブタイトルに引き付けて本書概要をより詳しく述べると、こうだ。☆「近代日本一五0年」は、明治期も戦前も戦後も、列強主義・大国主義ナショナリズムに付き動かされて、エネルギー革命と科学技術の進歩に支えられた経済成長を追求してきた。☆その意味で、日本の近代科学史は一貫している。☆しかも、そうした明治以降の日本の近代科学は、中央官庁と産業界と軍隊、そして国策大学としての帝国大学の協働により、生産力の増強による経済成長とそのための科学技術の振興を至上の価値として進められてきた。☆また戦後の復興も、その延長線上にあった。

明治の「殖産興業・富国強兵」の歩みは、「高度国防国家建設」をめざす戦時下の総力戦体制をへて、戦後の「経済成長・国際競争」へと引き継がれていった。☆そうした近代日本において一貫してあった国家主導の科学技術振興、つまりは官(中央官庁)・産(産業界)・軍(軍隊)・学(大学)の構造化された協働関係の仕組みと、それによって経済の成長・拡大と国力増進を第一とする「列強主義ナショナリズムに支えられた成長イデオロギー」の内的思想に依拠した体制こそが「科学技術総力戦体制」である。

そうした「科学技術総力戦体制」が「初めて公然と問われ、疑問符が投げかけられたのが、明治維新から百年をへた一九六0年代末であった」と著者はいう。☆1960年代末までに始まった四大公害訴訟や、60年代後半のベトナム戦争の激化による化学兵器の使用、それら科学技術の非人道性に加え、本書執筆時の今、科学技術総力戦体制の「破綻」たる福島の原発事故、さらには今後急速に見込まれる経済成長の終焉を象徴する人口現象である。☆以上のような「科学技術総力戦体制」の構造的仕組みと思想的内実、そしてその体制の「破綻」を本書では「近代日本一五0年」の近代科学史として概観しながら明らかにしていく。☆その上で明治以来の国家主導の「科学技術総力戦体制の破綻」を指摘する著者は、本書の執筆意図を次のように・まとめる。

「今、科学技術の破綻としての福島の原発事故、そして経済成長の終焉を象徴する人口減少という、明治以降初めての事態に日本は遭遇している。大国主義ナショナリズムに突き動かされて進められてきた日本の近代化をあらためて見直すべき決定的なときがきていると考えられる。本書は、そういう思いから捉え返した近代日本一五0年の歩みである」

本新書は日本の近代科学史を明治から現代まで概論の体裁だが、その時々の時代主流の日本の科学技術や、それら科学技術を支える時代潮流や科学理論の煩瑣(はんさ)で具体的な史実の指摘に溺れてはいけない、惑わされてはならない。☆そうした「近代日本一五0年」の科学史の歩みの背後に一貫してある問題や思想を読み取り、熟考すべきだ。

例えば、著者がいう「科学技術総力戦体制」とは明治の「殖産興業・富国強兵」から戦中の「高度国防国家建設」を経て、戦後の「経済成長・国際競争」まで、その体制は一貫し連続してあった。☆ここから、「総力戦体制」などというものは国家による露骨な目に見えた統制・検閲がなくても、特に戦時の非常時ではなくても、明治の建国時でも戦後の「平和な」民主主義を標榜の社会でも、「科学技術総力戦体制」の全体主義は存在し存続しうるということだ。

また、本書サブタイトルになっている「科学技術総力戦体制の破綻」の時期を著者は、前述引用のように「初めて公然と問われ、疑問符が投げかけられたのが、明治維新から百年をへた一九六0年代末であった」としているが、それは(おそらくは)1960年代の著者の全共闘の学生運動、自身の青春時代の経験に絡めた感傷的な言い方であって、確かに「六0年代末までに始まった四大公害訴訟や六0年代後半のベトナム戦争の激化による化学兵器の使用、それら科学技術の非人道性」があった。☆そして後に至り今現在、「科学技術総力戦体制の『破綻』たる福島の原発事故、さらには今後急速に見込まれる経済成長の終焉を象徴する人口現象」がある。☆だが、そうした「科学技術総力戦体制の破綻」の非人道性の問題は、本書を読むまでもなく、実のところ、足尾銅山鉱毒事件や、アジア・太平洋戦争にて強力な殺傷力を持つ近代兵器の登場により兵士のみならず民間人も戦闘に巻き込まれる総力戦体制下における戦時暴力の問題、広島と長崎への原子爆弾投下、第五福竜丸の水爆実験被曝事件など、日本の近代にて常に連続して存在したのであって、日本の近代をシニカルに見て、そういう「破綻」が各時代で連続してありながら、日本の国家や社会は単にわざと見過ごし、時に過小評価し隠蔽してやり過ごしてきただけのことである。☆あえて1960年代まで待つことなく、いつの時代でも「科学技術総力戦体制の破綻」は明確に認められ「公然」とあった。

例えば、本書の「原子力開発をめぐって」の章の中で著者が指摘するように、いわゆる3・11の福島第一原発の過酷事故にて、日本の「科学技術総力戦体制の破綻」はより一層明確になり世界に露呈した。☆しかしながら厳密に言って、それは「科学技術総力戦体制の破綻」には、なり得ないのである。☆現に原発技術の「綻び」が決定的に露呈した福島以後でも、かの「科学技術総力戦体制」下にて、国家も産業資本も大学も原発推進の立場は堅持で変更しないし、老朽化した国内原発施設は運転延長され未だ廃炉にならないし、国内新規の原発建設は計画進行されているし、海外に原発施設を売り込む官民一体の日本の国策プロジェクトは目下進行中である。☆福島の原発事故が起きても、国家主導の国策たる国の原子力エネルギー政策は変わらず、日本の「科学技術総力戦体制」は何ら実質的に「破綻」しない。☆今後も「破綻」せず、総力戦体制は延命し存続していくだろう。☆原発問題に関し、かつてのように「科学技術総力戦体制の破綻」が見えたとしても、その「綻び」を弥縫(びぼう)して、また今回もやり過ごすだけである。

以上のことから、本書のサブタイトルになっている「科学技術総力戦体制の破綻」の時期が、「初めて公然と問われ、疑問符が投げかけられたのが、明治維新から百年をへた一九六0年代末であった」云々というのは、おそらくは1960年代の著者の全共闘の学生運動、自身の青春時代の経験に半ば強引に引き付けて絡めた感傷的な言い方であって、この意味で表紙カバー裏解説の末文にあるように、本書は「近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ」といえるのかもしれない。☆これまでの近代科学史の著者の原理的な仕事と、現実状況批判の全共闘運動参加の自身の経歴や個々の科学技術問題に対する著者の発言・記述の時事論との間をつなぐ、架橋の仕事として本新書は読まれるべきとも言えそうだ。

何よりも本書は、「日本近代化の歩みに再考を迫る」著者の思想的立場からして、細かで具体的な科学史の史実に触れながら、「近代日本一五0年」を「科学技術総力戦体制の破綻」という点で総括し、それが実質的には「破綻」しているのに、実は・すでに「破綻」しているにもかかわらず今後も「科学技術総力戦体制」は存続するであろう一読者としての私の絶望感情の見通しはさておき、その「科学技術総力戦体制」を、近代日本において一貫してあった国家主導の科学技術振興、つまりは官(中央官庁)・産(産業界)・軍(軍隊)・学(大学)の構造化された協働関係の仕組みと、それによって経済の成長・拡大と国力増進を第一とする「列強主義ナショナリズムに支えられた成長イデオロギー」の内的思想に依拠した体制であると明確に定義し、この問題史的視点から、日本の近代科学史を概説できている所が非常に優れている。☆岩波新書の赤、山本義隆「近代日本一五0年」は、読前の期待を裏切らない良書であるといえる。

岩波新書の世界(92)岡義武「近衛文麿」

c550f4b8.jpgまずは近衛文麿(1891―1945年)の生涯の概観を記しておこう。

「近衛文麿が生まれたのは明治二四年、わが国に初めて立憲政が実施された翌年にあたる。五摂家筆頭の家柄に生まれた彼は、若き貴族政治家として政界に登場し、昭和に入ってやがてひらかれるわが国外交・政治の疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代を背景に前後三たびにわたって内閣を組織して、政局を担当した。当時の彼は、正に時代の脚光を浴びつつ世の衆望をその一身に集めた観があった。昭和一0年代のこの時期は、しかし、その後の歴史の激動の結果今日では実際よりもはるかに遠い昔のように感じられる。さて、太平洋戦争における敗戦後、人心は全く一変した。近衛の戦争責任を糾弾する論議が世上に喧(やかま)しい中で、彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし、極東軍事法廷に被告人として裁かれることを、この上なき屈辱とし、毒を仰いで自決した。彼は貴族としてのその誇りを死をもって守ろうとしたのであった」

私は昔から近衛文麿のことが気になっていた。☆率直に言って、「近衛はいかにも気の毒で可哀想」という同情からくる親近の思いが個人的にあった。☆「敗戦後、…近衛の戦争責任を糾弾する論議が世上に喧しい中で、彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし、極東軍事法廷に被告人として裁かれることを、この上なき屈辱とし、毒を仰いで自決した」。☆そうした近衛自決の最期を聞いて、昭和天皇は「近衛は弱いね」の旨の感慨を漏(も)らしたという。☆私は内心、昭和天皇に激怒した。

戦前の大日本帝国において、戦後社会と同様、天皇は物理的権力行使の権力主体ではなくて、どこまでも精神的権威の「神聖な」国体価値源泉の「象徴」であった。☆天皇みずから内閣を組閣して政局に乗り出したり、天皇みずから陣頭指揮をとって近衛師団以外の軍を直に動かすことは、まずない。☆実際に天皇を政治社会の政局や軍事の作戦指揮に関わらせることは、場合によっては天皇に政治的失策の責任を負わせる事態につながるからだ。☆天皇には政治的過失の誤謬(ごびゅう)があっては絶対にならない。☆だから、昭和天皇は内閣を組閣して政治に直接的に関与することはない。☆その代わり、五摂家筆頭という正統な家柄出自の近衛が実際に組閣して政局に当たった。☆貴族の正統な家柄を持つ近衛文麿の当時の国民的人気は、目を見張るものがあった。☆人々は天皇家近親の近衛文麿を昭和天皇と重ねて見ていたのであり、そこに当時の近衛人気の一因があった。☆近衛文麿は、その血筋のエリート性からいって、天皇と立場は近い、しかも天皇とは違って内閣組閣も出来るし、対国民宣伝にも直に気軽に利用しうる、国民一般からも軍部からも天皇側近の宮中グループからしても「誠に使い勝手がよい」、いわば昭和天皇のミニチュアのような存在であった。

敗戦後の連合国側の戦争責任追及の際も、アメリカを始めとする諸外国は。昭和天皇のミニチュア的存在たる近衛文麿の「使い勝手のよさ」を踏襲した。☆日本国の戦争責任に関し、昭和天皇への追及を回避して、天皇を呼び出す代わりに近衛に戦後裁判の出廷を迫った。☆戦中の国内政治の組閣において、昭和天皇と近しい皇族地位イメージにあって、その上で天皇の代わりに内閣人事にて組閣ができる「誠に使い勝手のよい」近衛は、終戦後の敗戦処理にあっても天皇の代わりに「誠に使い勝手よく」、最期まで便利に使い倒されたのであった。

戦前・戦中から昭和天皇は一貫して政局の矢面(やおもて)には立たず、終始大切に保護されて、同様に敗戦後の戦争責任追及でも自身は体(てい)よく免責された。☆その代わりに天皇のミニチュアたる近衛が天皇の身代わりとなり戦中実務政治の方々の調停や試練、敗戦後の戦犯問題の後始末までした。☆そうした常に忖度(そんたく)され、後生大事に保護されて全ての責任を回避されていた自身の状況に昭和天皇は全く気づいていない。☆自分のスケープゴート(身代わりの・いけにえ)であり、多大な被害を被る自身のミニチュア的存在たる近衛文麿への・すまなさ、後ろめたさ、配慮の気持ちも昭和天皇には皆無であった。☆ゆえに、近衛自決の最期を聞いて、「近衛は弱いね」の感慨を漏らした昭和天皇に内心、私は激怒した。☆昭和天皇の「近衛は弱いね」の一言が残酷に思えた。☆そして「近衛はいかにも気の毒で可哀想」という同情からくる親近の思いが、近衛文麿その人に対し個人的に強く残った。

岩波新書「近衛文麿」の評伝を読むと分かるが、確かに近衛は出自のしっかりした由緒ある正統高貴な家柄と貴族のプライドを兼ね備えたエリートであり、それゆえ得体の知れぬ世評の大衆人気があった。☆しかし当の近衛は、思いつき、悪物食い(異色の人物を好む)、目立ちたがり、移り気、八方美人、優柔不断、無責任、飽きっぽい、中途の投げ出しなど、政治家としての胆力とリーダーシップが決定的に欠けていた。☆これは近衛自身の悪癖や悪性でも何でもなく、単に近衛は人前に出て皆を指導したり、各所の要望を聞き調停して事態を前に進める対人的な交渉能力に欠けていただけのことである。☆彼の性格や資質からして、一国の首相を務めるリーダーの政治家に向いていなかった、本人気質と職種選択とのミスマッチの問題でしかない。

近衛文麿は若くして父を亡くし、すると父の生前には・あれほど近衛家に出入りしてチヤホヤし、父の世話の恩義を受けた人達が金銭問題などで掌(てのひら)を返すように一変して近衛家に冷たく当たる姿を目の当たりにし、社会に対する反抗心が培われた。☆また、「学校に行っていても(友人たちは)表面は当り前に付き合っていても、自分が公爵だというので、どうも隔てを置き、教授なども然り」といった深い孤独感、対人の不信の思いを終生抱いていた。☆だから、近衛は後に京都帝大に進学、将来は栄爵を辞し、哲学を専攻して学者になりたいと考えていた。☆若き日の近衛は、「其当時、世の中で一番俗悪なものは政治家、一番高尚なものは哲学者だと思い込んでいた」のでさえあった。☆やはり、この人は個人的資質や幼少時よりの成育環境からして元から政治家には向いていないのである。

しかし近衛文麿は、父・篤麿が日英同盟締結後に対露同志会の会長を務めて対露強硬の主戦論、日露戦争の開戦を煽(あお)った父親のナショナリスト気質を継承し、「米英本位の平和主義を排す」として第一次世界大戦後の米英による東アジア・太平洋地域の集団安全保障体制に、自国の日本の利益を憂慮する立場から不満を抱いていた。☆そういった「心情右翼」の側面から近衛は右派や軍部につけ込まれ、利用されていく。☆軍部は近衛の世上人気が高いのを利用して、彼を政権につけ、彼を傀儡(かいらい)にして軍の欲するところを得ようと考えていた。

他方、そうした右派や軍事の暴走を抑えたい天皇側近の宮中グループからも近衛は同様に、政界の「新星」として期待をかけられていた。☆かねてより近衛の政界進出を期待し、彼の大成を強く望んでいたものに元老の西園寺公望がいた。☆公家出身で立憲政友会総裁となり、明治末から・いわゆる「桂園時代」を牽引し度々組閣した西園寺公望は宮中グループに属し、大正後期以降はただ一人の元老として立憲政治の保持に尽力した。☆大正から昭和の時代にかけて、まず「最後の元老」たる西園寺からの後継首班の奏薦を受け、後に天皇より組閣の勅命が下るシステムにあって、軍部の暴走を抑えるための「切り札」として、血筋の点でも容姿の面でも知性の面でも、国民的人気の点でも優れている近衛を西園寺は首相に推さざるを得なくなっていた。☆もう近衛文麿以外に、軍部の政治介入を抑制しうる適当な人物がいなかったのである。☆この期に及んで軍部の暴走抑制の対抗として近衛を推す以外にないとは、明らかに政治的人材の枯渇であった。

ここでも近衛は担(かつ)がれる神輿(みこし)であった。☆自身は政治に向いていないし、政治など本気でやる気は当人にはないのに、政界に引っ張り出されて、右派・国粋主義の軍部と立憲リベラルの宮中グループの両陣営から「誠に使い勝手よく」利用されることになる。☆前者の右派・国粋主義の軍部では、2・26事件以前の凋落する前の陸軍内部の皇道派や枢密院の平沼騏一郎らと親交があった。☆後者の立憲リベラルの宮中グループでは元老の西園寺公望が近衛の後見人となり、彼に組閣を求めた。

内閣組閣後の近衛は、陸軍をほとんど抑制出来ず、軍内部の対外強硬論に同調・加担して不拡大方針は段々と崩れるに至り、大陸での日本軍の挑発姿勢は強まり、戦火の拡大は止まることを知らず、当の近衛自身も、「どうもまるで自分のような者はほとんどマネキンガールみたいなようなもので、軍部から何も知らされないで引張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、まことに申訳ない次第でごさいます」と天皇に奏上したり、「陸軍部内の意見というものは一体何処から生れて来るものであるかは余も判らず、正体無き統帥の影に内閣もまた操られ、…もうロボット稼業はホトホト嫌になりましたよ」と周囲に漏らす有り様であった。☆彼は、もはや自らを「マネキンガール」や「ロボット」と卑下する他なかった。☆首相の近衛は軍部の前で、全くのお手上げ状態であった。

近衛に軍部暴走の抑制の役割を期待し、組閣の奏薦をした元老の西園寺からも、近衛の軍部への弱腰同調に対し、「問題にならんじゃないか。とにかく困ったもんだ。一体近衛には相当な見識があると自分は思っておったが、何にも自分自身に考がないような風に見える。それは困る」だとか、「ああいう人物でああいう家柄に生れて実に惜しいことだと思う。なんとか近衛をもう少し地道に導く方法はないだろうか。…近衛のやり方をみると、なにか使用人みたような気持ちで働いているようだ。もう少し国政にみずから任ずる自信を持って欲しい。いかにも奉公人のような気でやっているようでは、とても駄目じゃないか」とか、「近衛公爵はこの際よくない。結局やっぱりロボットに終るようでは面白くない。当分誰が出ても結局ロボットかもしらんが、とにかく近衛はなお自重さした方がいい」。☆首相となった近衛は西園寺を失望させた。☆近衛は西園寺から散々な言われようであり、半ば匙(さじ)を投げられた形であった。

岩波新書「近衛文麿」を読むと、第5章「破局への道」にて、国内では近衛を始め駐米大使の野村吉三郎がアメリカ国務長官のハルとの日米交渉にて開戦阻止に必死に尽力しているのに、すでに国際連盟脱退の協調外交破棄の強硬策に出て陸軍から一目置かれ、さらに欧州外遊にて日ソ中立条約を締結し、ヨーロッパでのナチス・ドイツの勢いに感化されて、好戦衝動にて日米開戦にやる気満々の松岡洋右が帰国し、日本での日米開戦阻止の外交工作を前に松岡が、あからさまに不機嫌になる。☆そうした好戦的な松岡外相に内閣主催の近衛が非常に戸惑い、松岡に気遣って遠慮する場面記述がある。☆この一連の記述を読んで、戦時の非常の緊急時に・よりによって近衛文麿という男を一国の首相を選んでしまった日本国の不運、ならびに明らかに自身の能力を越えた一国指導者の首相の重責を強いられる近衛文麿の不幸な境遇を考えると、余りに滑稽(こっけい)すぎて逆に笑ってしまうほどだ。☆岩波新書「近衛文麿」を未読な方は、是非とも本新書を一度手にとって、近衛と松岡の間の微妙な空気が漂う、やり取り記述を実際に読んでもらいたい。

戦中の三度の組閣を経て、近衛文麿は敗戦の終戦を迎えた。☆近衛は対米戦争開戦後に、日本の敗北を確信していたため、被害拡大を食い止めるために早期の戦争終結を昭和天皇に上奏、いわゆる「近衛上奏文」を出していた。☆そのため終戦当初は連合国側も近衛に対し好意的であった。☆敗戦直後は近衛も新党結成を決意し、「マアいよいよやりますかなァ」とか、「サー、君にいよいよ引張られるか、誰に引張り出されるか、何れにしても出なければならん時期が来たねぇ」などと言ってニヤリと笑い、近衛は戦後政治への出馬に大変に乗り気であったという。☆ところが後にアメリカの連合国側の態度と世論が一気に変わり、近衛の戦犯問題が持ち上がってきた。☆世上での近衛の戦争責任を問う議論が活発になっていった。☆近衛は日中事変の責任者、日米戦争の参画者と見なされ、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団から呼び出しを受け喚問される。☆「取り調べは、ひどいものでしたよ。全く検事が犯罪人の調書を取るようなものだった。アメリカも愈々(いよいよ)腹を決めたらしい。私も戦犯で引張られますね」。☆当初の楽観的態度は消え、自身の戦犯問題について、近衛は全く悲観的になっていった。

近衛文麿は戦中に内閣を三度組閣した。☆しかし、その際の組閣は、いずれも自身の本意ではなかった。☆軍部や天皇や元老・重臣や国民一般の後押しにより、不本意ながら渋々の政界デビューであり、首相就任であった。☆自身の性格や資質からして、自分が人前に立ちリーダーシップを発揮する政治家の器(うつわ)でないことは近衛本人が一番よく分かっていたからだ。☆ところが、日本が敗戦を迎え、新たに戦後政治が始まる段になると、戦時には・あれほど政治家を嫌がっていた近衛が、今度は自ら進んで政治のやる気を前面に出すようになる。☆「マアいよいよやりますかなァ」、「サー、君にいよいよ引張られるか、誰に引張り出されるか、何れにしても出なければならん時期が来たねぇ」といった具合である。☆だが、近衛当人がそのように政治家の・やる気をやっと出した時には、彼は戦時の戦争責任追及の戦犯問題にて、戦後に政治家として活躍する道は断たれてしまうのである。☆すなわち、「彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし、極東軍事法廷に被告人として裁かれることを、この上なき屈辱とし、毒を仰いで自決した」。☆何と、ちぐはくな不運な人間の人生の残酷さ薄情さであることか。☆岩波新書の青、岡義武「近衛文麿」(1972年)を始めとして、近衛の評伝や研究を読むたび私は、そうした思いを禁じえない。

(※岩波新書の青、岡義武「近衛文麿」は近年、岩波新書評伝選(1994年)から改訂版が復刻・復刊されています。)

岩波新書の世界(91)稲葉峯雄「草の根に生きる」

c550f4b8.jpg岩波新書の青、稲葉峯雄「草の根に生きる」(1973年)は、何よりもまず題名が良いと思う。☆「草の根に生きる」である。☆私も自分の・これまでの人生を振り返り、地道に堅実に周りの人々と連帯しながら「草の根に生きる」、まっとうな人間としての生き方を実践できたら、といくばくか思わないことはなかった。

本新書は「愛媛の農村からの報告」という副題が付いている。☆保健所の一職員、衛生教育係たる著者が、福祉や保健衛生行政から事実上、取り残された1960年代当時よりの「愛媛の農村」の・ありのままの姿を記録し「報告」したものだ。

例えば、第Ⅰ章「衛生教育係として」にてあるように、当時の地方の男尊女卑の封建的風潮の残滓(ざんし)から、男性が女性の健康に配慮せず夫が妻の避妊の要請を聞き入れてくれない、受胎調節が実行されない、いわゆる「家族計画」不備の問題があった。☆また農村や離島にて、身体に不調があっても農繁期や漁の繁忙期には時間がないからと医者にかからず勝手に我慢してしまう。☆かといって農閑期や漁の閑散期になっても、今度は「医療費がもったいないから」と金銭を惜しんで病気や怪我を放置したままにする、ないしは自己流の民間療法で済ましてしまう人々の意識の問題があった。☆そのような農村や離島では当然、定期検診の定着率も低い。☆「予防医学」の概念が、地域医療に浸透していないのである。

当地の「衛生教育係」に赴任した著者にとって、まずは地域の人々のそうした「健康への意識の問題」があった。☆そのため、著者は各地区担当の保健師や医師と連携し、いわゆる「地区めぐり」の巡回訪問の履行、定期的な読書会の開催や会誌の発行を通じての「啓蒙」活動を重ねる。☆また人々のそうした健康意識の問題以外にも、第Ⅱ章「地区診断とともに」で浮き彫りとなった「へき地の健康破壊の実態」があった。☆そういった厳しい現実を踏まえての、部落の下水道完備や便所改善などの環境衛生を役所に訴えていく「地区診断の一0年」の運動仕事があった。

そこには行政の無理解、非協力という極めて困難な状況のもとで、同時に地域の人々の官尊民卑や従属惰性の心性をも戒(いまし)めながら、住民の健康と生活を危惧(きぐ)し、その衛生状態改善と健康増進のためにひたすら献身的に働き、現在から見ても多くの先駆的な仕事を残した著者を始めとして保健師、看護師、若い医師、地元青年団の人達の姿があった。☆すなわち、第Ⅲ章の「草の根に生きる」人々である。☆第Ⅲ章「草の根に生きる」は、さらに「W保健婦の死」や「M公民館主事と健康な町づくり」や「Tさんと農村健康問題懇親会」などの節からなる。☆特に私は「W保健婦の死」における、「W保健婦」こと和田さんの保健師として地域医療に献身しながら志半(こころざし・なかば)にして亡くなった彼女の無念についての一連の記述が初読の時から印象に残って、ずっと忘れられない。☆和田さんの「草の根に生きる」人間としての生き様は読後も強く深く心に残る。

そののち第Ⅳ章「闘いの日々のなかで」の最終章を経て、最後に「むすび」にての著者の言葉で本新書は終わる。☆著者の稲葉峯雄は愛媛の生まれである。☆小学校を卒業後、中国・九州地方を放浪し、後に大陸の大連に渡り、満州部隊に入隊。☆ソ連国境から沖縄に転戦し、宮古島で敗戦して捕虜となる。☆復員後は郷里で青年団運動に参加し、県下の山村や離島を行脚。☆その後、宇和島保健所勤務となり、後に県庁医務課勤務となって、一貫して地域の健康を守る活動に従事した。

愛媛生まれの著者には郷土への、同じ愛媛の中でも、とりわけ南予(愛媛県の南部)の地方と人々についての深い愛着の思いがあった。☆そうした著者の郷土に対する強い思いは、本新書を読んで至る箇所にて強く感じられる。☆しかしながら、その一方で「自分は中央から派遣の役人である。そのため地域の人達と本当の意味で・つながっていないのでは」というような葛藤の思いも正直あった。☆例えば、前述での「W保健婦の死」の節にて、地元密着の保健師の和田さんからの、「さあ、ここからは私のほうが稲葉さん(註―著者)より偉いんじゃけん。私のあとについてくるんですよ。今夜はどうしても私が稲葉さんを案内したくて」というような発言がある。☆結局のところ、自分は中央の役所に属する、地元の人に地域を「案内」される、中央から派遣された「偉い」役人である。☆地域の実情を本当はよく知らないし、部落の人達も自分には本音で接しない。☆明らかに住民との間に人間的距離があった。☆だから、著者は「むすび」にて自身の地域医療への取り組みを総括して、次のようにも述べる。

「私が一八年の衛生教育係のなかでもっとも闘った相手こそが、『役人であるもう一人の自分』であったわけです。このことについて身近な人たちからは『それほど自分を苦しめてまで役人がいやなのなら、なぜやめないのか』とも言われました。役人が悪人だというわけではありません。どんな役人であるべきかの迷いとの闘いが、私にはありました。しかし私の周囲には、医師と闘う医師や保健婦と闘う保健婦が、一人また一人とふえてきました。もちろん役人のなかにも、私のように役人と闘う役人ができてきました。つまり、自分と闘うことの勇気や試練こそが、みんなが生きることの正体であることを、少しずつ、農村の一角から、そこで働く人々によって、わからされてきたのです」

そして、本書の結びの結語が以下である。

「この本を読めばおわかりのように、この本の本当の著者は私ひとりではありません。この本に登場する人たち、そしてそのまわりにいる愛媛の農村や都市に生活するすべての人たちが、この本の著者だといってよいと思います。私は人一倍孤独であったから、みんなといっしょに生きるために、自分のなすべきことを夢中に探し求めてきただけなのです」

自分は役人である、「役人であるもう一人の自分」への内的葛藤を持ち、自身と孤独に闘いながらも地域医療に献身従事して、「私は人一倍孤独であったから、みんなといっしょに生きるために、自分のなすべきことを夢中に探し求めてきただけなのです」。☆これこそが、著者・稲葉峯雄にとっての「草の根に生きる」、人間としての欠けがえのない誇りの内実であるように私には思えた。

岩波新書の世界(90)池内了「科学者と戦争」

1394c9fd.jpg岩波新書の赤、池内了「科学者と戦争」(2016年)は著者が本文中にて直接的に述べているように、「本書は、いま日本において急進展しつつある軍(防衛省・自衛隊)と学(大学・研究機関)との間の共同研究(=軍学共同)の実態を描き、今後予想される展開に対して警告を発するために書いたものである」(197ページ)。

本書の論旨は非常に、はっきりしている。☆極めて明快である。☆軍(防衛省・自衛隊)と学(大学・研究機関)との間の共同研究、いわゆる「軍学共同」が推進される今日の日本の科学と科学者に対する著者の一貫した反対表明、容赦のない徹底批判である。☆それは、氏のなかに「科学者が戦争のために研究を行なうことへの批判」の意識が強くあるからに他ならない。

事実、著者の池内了が呼びかけ人の一人を務める「軍学共同反対アピール署名の会」を通して、2014年8月以来、署名活動とともにシンポジウムやマスコミ向けの働きかけを行った結果、多くの市民から軍学共同の進展に対し強い懸念と怒りが表明された。☆科学者が戦争のための研究を行うことに驚き、裏切られた感情を持った人が多いという。☆第二次世界大戦終了時からごく最近まで、日本では公然たる軍学共同は行われてこなかった。☆それは明治以来の富国強兵策の時代と、それに続く第二次世界大戦まで、日本の科学者は国家のため、あるいは戦争のために研究を行ってきた科学帝国主義の歴史への反省から、戦後は科学者は世界の平和のため、人類の幸福のため、そして正義のために研究を行うべきと考えられていたからだ。☆ところが、近年、日本の政治の保守化、右傾化、軍事化と軌を一にして戦争軍備に直結する軍事と科学の「軍学共同」が急進展してきた、と著者は警鐘を鳴らす。

本書は全四章よりなる。☆第1章「科学者はなぜ軍事研究に従うのか」では、世界の軍事研究の歴史をたどる。☆また日本の戦前・戦時中の科学動員を振り返るとともに、ナチス・ドイツ時代の著名な物理学者、三人の生き方を吟味して著者自ら痛切な批判を加えている。☆すなわち、プランクの「悪法も法」とする態度、ハイゼンベルグの科学至上主義、デバイの日和見主義的科学主義に対する、著者の批判である。

第2章「科学者の戦争放棄のその後」では、戦後における日本の科学者の平和路線とそのゆらぎを見ていく。☆現在、進行しつつある空(宇宙)と海(海洋)の軍事化路線を検証し、「軍学共同」への防衛省の戦略を著者は読み解き明らかにする。

第3章「デュアルユース問題を考える」では、軍学共同の口実あるいは積極的理由として時に使われるデュアルユースについて論じている。☆「デュアルユース」とは両義性、二面性という意味だ。☆「いかなる科学・技術の成果物も、使い方次第で生活の助け(平和のため)にも殺人(戦争のため)にも使うことができる。科学そのものは中立だが、科学技術となると善にも悪にも用いられる。…科学はデュアルユースだから、悪用されてもそれを作りだした科学者には罪はなく、そのように悪用した人間のみに罪がある」(114ページ)。☆こうした「科学はデュアルユース」の議論に便乗し社会的判断や社会的責任を放棄する科学者の姿勢(デュアルユース問題)を始めとして、「軍事研究に関する(日本の)研究者へのアンケート」回答のうち、軍事研究を容認・推進する立場の意見に対し、著者の反論・批判が具体的に展開されている。

第4章「軍事化した科学の末路」では、軍事研究にはまり込んだ科学者を待つ悲惨な結末について述べている。☆著者によれば、科学者が軍事研究にのめり込むのはそれなりの魅力があるためだが、それは研究者としての自由を失う空しさと裏腹であるという。☆さらに科学の発展が軍事研究によって促進されるどころか、逆に阻害される可能性まであり、軍との関わりは断固として拒絶すべきだとする。

本新書を読んで意義深く感じたのは、著者による「研究者版経済的徴兵制」の概念提示だ。

「今の自分には自由に使える研究費がなく、競争的資金に恵まれないため研究ができない状況に追い込まれており、背に腹はかえられないとする研究者たち…が研究機関や大学を問わず多数いるというのが実情である。…だから喉から手が出るほど研究費が欲しいから、軍からの金であろうとありがたくいただくということになってしまうのだ。私は、この状況を『研究者版経済的徴兵制』と呼んでいる。アメリカの多くの若者たちが、家庭が貧しいために大学へ進学できず、軍隊に入れば大学入学の資格が取れるとか金が貯められるとかの甘言で、やむをえず軍隊に行くのと状況が似ているからだ。研究者は、研究費という『経済的理由』で、軍事研究という『徴兵制』に応じようとしているのである」(139・140ページ)

こうした「研究者版経済的徴兵制」は、研究費不足に悩む研究者たちに研究資金を提供援助するが、その代わりに防衛装備品開発に応募し研究従事することで、支援者たる政府、防衛省、自衛隊の期待に応えるべく軍事にとらわれた発想開発がエスカレートし、科学が人間性を失う。☆研究の過程や結果に、いちいち政府や防衛省の「同意」や「確認」を得なければならなくなる。☆研究成果の発表についても国から科学者が「制限」を受ける。☆そうした「(科学者が)防衛省の意向をずっと斟酌(しんしゃく)しなければならない」(141ページ)状況に追い込まれる危険性がある。

このことは、本書にての以下のような考察記述に裏打ちされている。☆「軍事技術の展開から、思いもかけない民生品の発明につながることがある」(175ページ)。☆軍事技術の脱線から民生品技術への新しい応用の可能性を引き出す事例が、過去に多くあった。☆それは、本書記載の次のような公式記述にて簡潔に明瞭に示されている。☆「戦争―必要性―国家の投資―技術開発―さまざまな物品の発明―民生品へのスピンオフ」(176ページ)。☆この関係連鎖の公式を一目して明確なように、近代科学の「技術開発」は実は主要動機が「戦争(の)必要性」からであり、また科学研究には莫大な資金が要るため「国家の投資」の後ろ楯の援助があって近代科学が発展していった面は否定できない。☆近代の科学技術は「生活の利便性のため、世界の平和のため、人類の幸福のため」に開発され、科学者もその意図で研究に従事してきたわけでは決してない。☆先の関係公式を見れば、一番最初の科学技術開発の動機は「戦争―必要性―国家の投資―技術開発」の連鎖である。

近代科学を発明・発展させる最初の主要契機の主な動機は「戦争」であった。☆もともと近代の科学技術は国家との、戦争との、軍事との親和性が強くあることを近代科学史の歴史的概観から押さえ、私達は理解を深めておくべきだ。☆そうして科学者(「研究者」)が「経済的」援助により国家に取り込まれ結果、兵器開発に奉仕して戦争動員(「徴兵」)される「研究者版経済的徴兵制」に警戒を示し、慎重に処するべきであろう。

冷戦体制が終了し、市場原理に基づく新自由主義経済が世界を覆うようになり、1990年代から日本でも経済のグローバル化が強く喧伝され始めた。☆グローバル化に対応するために、政治や文化の各領域で国を挙げて動員することが当然とされるようになった。☆文化の学問・学術分野も例外ではなく、大学や研究機関にもグローバル経済に対応する名目で商業主義の論理が取り入れられ貫徹するようになり、いわゆる「役に立つ学問」が強く求められるようになった。☆有用性をアピールしたり、経済的利益に直結するような学問・学術へと必然的に傾斜してきた。☆学問・学術の世界にも商業の論理が行き渡りつつある大学や研究機関では、今や研究者たちも、何らかの「イノベーション」(新しいビジネスモデルの開拓を含む技術革新)をしなければならない強迫感を持つようになってきている。

本来、学問・学術は、すぐに役に立つ有用性や経済的利益に直結するものだけでは決してないはずだ。☆従来よりの本来的な正統な学問には、真理の探究や事物の解明や現状批判の働きもある。☆しかしながら、グローバル化に伴う大学や研究機関への商業主義の導入で、有用性や経済的利益を生み出す以外の本来的な正統な学問は、例えば国公立大学の場合、国による「選択と集中」の予算・人員の露骨な割当て配分にて、「国家の意に沿わない学術研究」と見なされ、今や容易に縮小・排除されてしまう。☆その一方で国家の意向に沿い、かつ有用性や経済的利益が見込める学術研究は、逆に異常なまでに国により優遇され企業の産業資本からも・もてはやされる傾向にある。☆より具体的に言って「産学共同」(産業資本たる企業と大学・研究機関との間の共同研究)が、それである。☆学問の内実が、有用性と経済的利益によってのみ見積もられてしまうのだ。☆より下世話に言えば、要は「即で使えて個人や社会の役に立つか否か」と「それを通して、どれほど金儲けができるか」の判断である。

近年、2010年代以降、特に国公立系の人文科学や社会科学専攻の一部の研究者らが、自身の著作にて「哲学や文学は歴史学は人生の役に立つ」など、本来直接的な有用性や利益を即に・もたらすはずのない伝統分野の学問でも、やたらと「役に立って使えること」をアピールするのは、グローバル化に伴う大学や研究機関への商業主義の導入の動きに悲しくも呼応している。☆しかしながら、繰り返しになるが、本来、学問・学術は、すぐに役に立つ有用性や経済利益に直結するか否かの、目先の損得のみで判断評価されるものでは決してない。☆従来よりの本来的な正統な学問には、じっくりと深く考え抜く、真理の探究や事物の解明や現状批判の働きもあるはずである。

本書にて指摘されている「軍学共同」の問題は、従前の「産学共同」の問題や伝統的な人文科学や社会科学の有用性アピール問題に加えて、いよいよの、いわゆる「二周目か三周目」の反復の問題であるといえる。☆いずれもグローバル化による新自由主義的政策たる商業主義至上の立場からする、国家による大学や研究機関への介入の問題に他ならない。

特に昨今、急進展しつつある「軍学共同」の先には、自国の安全保障のみならず、軍事化された科学技術の成果を軍需品の輸出に転嫁する国の武器輸出外交への意思があることは明白だ。☆「軍学共同」を通して、科学者や技術者が国家に総動員される体制への危惧は、どこまでも拭いきれずに残る。☆それは、国家による不当な介入を断固として拒否する、大学の自治や学問の自由の問題、従来よりの「大学論」の議論と見事に重なる。☆岩波新書の赤、池内了「科学者と戦争」は、それだけの問題提起の射程と重みを持つ本である。



岩波新書の世界(89)石川達三「生きている兵隊」

1ce1d908.jpg(今回は岩波新書ではない、石川達三「生きている兵隊」についての書評を特集「岩波新書の世界」ではあるが、例外的に載せます。☆念のため、石川「生きている兵隊」は岩波新書には入っていません。)

私は普段から人並み程度にしか読書をしないので、正確に的確には何とも言えないが、それでも「世界の文学」と比べて「日本近代文学はスゴい」と時に感嘆するときがある。☆特に戦争文学の「軍隊小説」と呼ばれるジャンルのレベルと蓄積が。

例えば、大西巨人「神聖喜劇」(1978―80年)である。☆あれは、さすがにスゴい。☆読んでいて思わず舌を巻く。☆日本の軍隊を「暴力的」や「非人間的」や「非合理的」と外部から安易に否定するのではなく、大西巨人の分身たる主人公・東堂太郎の目を通して軍隊組織を内部から内在的に批判し尽くしている。☆非常に精密に構想され、しかも硬質に書かれており、大西の「神聖喜劇」が出てから、どうしても「神聖喜劇」と比較されて、他の日本の戦争文学や軍隊小説は多少・分が悪くなった所が正直あると思う。

そうした事前に精密によく練られ考えられた、大西巨人「神聖喜劇」の正反対の対極にあるのが、戦中に石川達三が大陸に行って従軍取材して書いた「生きている兵隊」(1938年)であると、私には思えるわけだ。☆つまりは、石川の「生きている兵隊」は事前に、あまり深く考えられていない。☆本当に取材して、そのとき自分が見たことを小説にしてサラリと、そのまま素朴に書いてある。

「生きている兵隊」は、南京攻略戦に参加し、行軍を続けて南京に入るまでの部隊の話である。☆前線部隊には兵糧輸送がなく現地徴発主義だから、町や村に入ると・まず「徴発」をやる。☆食糧や生活物資調達の他に、なぜか「姑娘」(クーニャン)の若い女性も探しに行く、いわゆる「生肉の徴発」である。☆「やがて徴発は彼らの外出の口実になった。…殊(こと)に生肉の徴発という言葉は姑娘を探しに行くという意味に用いられた。彼らは若い女を見つけたかった」。☆また話の前半で、抵抗する老婆の襟首(えりくび)をつかんで力のかぎりに泥田の中に引き倒し、水牛を取り上げる日本兵の場面など、特に印象に残る。☆「おい、婆さん、俺達は日本の軍人だが、お前の所の牛が要り用だ。気の毒だが貰って行くよ」、「どけイ…じたばたすると命にかかわるぜ」。

当時の日本軍は、敵兵の捕虜は・その場で即に殺す。☆「こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。最も簡単に処理をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも骨が折れてならない。『捕虜は捕らえたらその場で殺せ』。それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された」。☆同様に行軍の過程で南京に近づくと、「支那軍の正規兵」のみならず、「女子供」の非戦闘員も日常的に殺す。☆「南京に近づくにつれて抗日思想はかなり行きわたっているものと見られ一層庶民に対する疑惑はふかめられることにもなった。『これから以西は民間にも抗日思想が強いから、女子供にも油断してはならぬ。抵抗する者は庶民と雖も射殺して宜(よろ)し』。軍の首脳部からこういう指令が伝達された」。

最後は南京陥落後、兵隊らが芸者屋に行って酒を飲む。☆疲労で張り詰めた気持ちのなか「生きている兵隊」が、「俺あ、また女を殺したくなって来た」と・つぶやく。☆すると芸者が、「女を殺すなんてよくないわ。…だって女は非戦闘員でしょう。それを殺すなんて日本の軍人らしくないわ」。☆芸者の正論に思わず・かっとなる「生きている兵隊」は、発作的に拳銃の引き金を引き、芸者を撃って怪我をさせてしまう。

確かに、作者の石川達三は末尾に「本稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものであり、従って部隊名、将兵の姓名なども多く仮想のものと承知されたい」という付記を置いている。☆結局これは、「どの部隊がモデルになってて、作中の将兵らは一体・誰なのか」具体的な追及や混乱を避けるための著者の石川達三の配慮であって、この作品に書かれてること、「生肉の徴発」と称して若い女性を探したり、捕虜や女性・子供の非戦闘員を容赦なく日常的に殺したりするのは、石川が従軍取材して実際に目にしたことだと思う。

ただこの人の場合、そういった前線部隊の「生きている兵隊」の実態を書きはするが、そこに「反戦意識」や「戦時暴力に対する倫理的糾弾」など、ない。☆本当に・あまり深く考えずに、現地での日本軍の見たままを、捕虜・非戦闘員の虐殺も別に悪びれず、殊更(ことさら)に隠すこともなく、そのまま素直に正直に素朴に書くだけである。

作中で、陥落後の南京の惨状を目の当たりにした日本兵らが、他人ごとのように語る。

「南京市として失われた富が幾十億あるだろうか。僕は戦争の勝敗は別としても、この戦争が日本の国内でなかったことを心から有難いと思うな。国富は失われ良民は衣食にも苦しみ女たちは散々な眼にあって、これがもし日本の国内だったとしたら君たちどう思う?」…「自分はもう南京は復興できんと思いますな。まあ三分の二は焼けて居ます。あの焼け跡はどうにもなりませんわ、実際戦争に負けたものはみじめですわ。何とも仕様がありませんからなあ。自分は思ったですな、戦争はむやみにやっちゃあかんが、やるからにはもう何ンとしても勝たにゃならんです。それは孫子の代まで借金を残しても勝たにゃならんです」

「戦争は・やっちゃいかん」と常識的に答えられはするが、しかし「ひとたび戦争をやったら、何としても勝たなくてはいけない。自分たちが負けた場合の被害の損失を考えたら、絶対に勝たなくてはならない」。☆実に愚劣な、損得のみに依拠した小市民的感情である。

ここで何度でも強調し確認しておきたいのは「戦争はよくない」といくら口で言えても、「敗戦の際、自国が被る被害の損害を考えたら戦争は嫌だ・よくない」といった常識的な「反戦平和」は、実は明確な反戦ではなくて、せいぜい「自国が負ける負け戦だけは嫌」程度の「厭戦」でしかないということだ。☆仮に自分たちに勝利の見込みが大いにあるなら、「自国が得する戦争は、本当はよくないけれど、最終的にやってもよい」の戦争支持の好戦衝動に最後は押し切られる。

相手に勝って、相手を負かして他国を食い物にして、その他国の犠牲の上で自分たちの国が得して繁栄して自国民だけの主観的「平和」の享受を望む、そうした程度のナショナリズムでは、見かけの常識的「反戦平和」なポーズと裏腹に戦争支持の戦争遂行に走る。☆他ならぬ自分らが直接に手を下した陥落後の南京の惨状を他人ごとのように眺め、「戦争はむやみにやっちゃあかんが、やるからにはもう何ンとしても勝たにゃならんです」と感想を述べる、「生きている兵隊」作中の日本兵のように。

だから、戦前の日本人が強力に、決して原理的に戦争そのものに反対できず、嫌々の・しぶしぶであれ、最後は戦争参加の協力の支持に結果的になってしまうのは、戦争による損害・被害の損失を損得勘定で考えて、「自分たちが負ける戦争は嫌だが、自国が勝つ戦争なら容認できる」判断が働くから。☆つまりは、「勝利する自分たちには関心・要求の興味が強いが、負ける相手の、被害を被る他国の国民のことなど何も考えてやしない。他国を食い物にして、その犠牲の上に自分らの国が栄えるのは構わないし、許されるエゴイズム発露のナショナリズム」が一貫してあるから。

以上のような、決して本当の意味での反戦平和にまで昇華しない、せいぜい自分らが負けて損する戦争だけに対する損得勘定の「厭戦」レベルで、自分の国が勝って得する戦争には強く反対しない結果、最後は戦争遂行に押し切られる、心貧しい自国中心主義のナショナリズムの心性を、私は石川達三の「生きている兵隊」を読むと、強く思い知らされて非常に・やるせない気持ちになる。☆加えて、現代の私達は、戦前の日本人と同じ、他国を食い物にして・その犠牲の上に繁栄を享受する損得の自国内「平和」ナショナリズムと一線を画し、果たして・そこから脱し切れているかどうか。

「確かに戦争はよくない。だが、とにかくやるなら負けた相手国民のことはどうでもよいから、とりあえず自分たちは負けたくない。何としても勝ちたい」、この素朴で愚劣な小市民感情を石川達三も当時の多くの日本人と同様、共有していた。☆だから、「生きている兵隊」のような、大陸前線での日本軍の反倫理的で日常的な戦時暴力を特に隠したり、別に悪びれたりすることなく、深く考えずに石川達三は・そのままサラリと書けてしまうのである。