チンピラ☆馬鹿一代・読書ノート

アメリカン・ショートヘアーのアメジローです。☆明るいブログを日々心がけます。☆読書の書評・レビュー・感想が中心。その他、音楽や映画のレビュー・感想なども。☆「継続は力なり」で、出来る範囲で更新を目指します。

岩波新書の世界(6)大江健三郎「ヒロシマ・ノート」

27c31638.jpg大江健三郎「ヒロシマ・ノート」。☆岩波新書の青で、この本は、同・岩波新書・青の「沖縄ノート」と連続して、つながってます。☆すなわち、「日本人と核」について、大江氏が一貫して考え抜く内容。

福島第一原発での放射能漏れ事故が起きてしまって今さらですが(^^;)、「日本人と核の問題」を考えるにあたり、改めて「ヒロシマ・ノート」読んでみるの、いいんじゃないでしょうか。☆個人的感慨として、原子力発電であれ、、戦略的核武装における核の抑止力であれ、「戦後における日本人と核の問題」を、もう一度・反省的に総括しておく必要がある。☆ホント今まで無関心の問題放置で何なんですが(^^;)、やはり・ここで踏ん張って考えておかなければ…と痛感する日々。

「ヒロシマ・ノート」は、原水爆禁止運動への参加を通じ、著者が広島を訪れ、現地で様々な人と出会い語る、リアルなヒロシマ訪問記。☆例えば、広島にて開催の原水爆禁止世界大会での日共と総評と社会党の人員動員合戦…同じ反核平和運動でも、派閥や組織同士の対立あります。☆そういった反核運動の当時の時代の空気みたいなの、本書を読むと感じることできます。

私は、大江健三郎=「反核と想像力と、常に他者と向き合う文学者」だと勝手に思っているので(^^;)。☆息子の光さんから逃げずに向き合うこと、彼は・すぐさま作品に盛り込みます。☆瀕死の状態で生まれ、障がいをを持った息子の光さんは、大江氏にとって自分が試される偉大な他者。

彼は「明らかに自身とは異なる異質な他者」と向き合って、未知なものへの戸惑いや反発・葛藤があって、しかし自分なりに奮闘して消化して、最後はそんな自分とは異質な、時には脅威ですらある他者が自身の中に残す大きな爪跡の過程を確認する…そういう思考のたどり方というか、そういう姿勢が生来のものとして氏の中に身についてる。☆「自分とは明らか異なる異質な他者との向き合い」っていうことを自らのものにして、極めて自然に普通に出来る人なんです。

そのため、だいたい彼の小説では主人公は大江健三郎自身なので、例えば「万延元年のフットボール」では、主人公の「蜜三郎」である大江にとっての異質な他者は「鷹四」であるし、「懐かしい年の手紙」での、大江自身の「Kちゃん」に対する偉大な他者は「ギー兄さん」である。☆残念ながら二人とも作中で最後は死にますけど、異質な彼らの存在は主人公の中に大きな爪跡を残し、主人公は彼らのことを何度も反芻(はんすう)し、思い返しながら彼らの生と死の意味を考え、自分の中で消化し自身の血肉にして生きていく…そんな思考を大江氏は小説中の主人公にやらせます。

というのも、そういった「異質な他者との向き合い」の思考操作は、作者の大江健三郎自身が小説書くときだけではなく、日々の生活の中で体得して日常的に普通にやってるから。☆それで、彼が作品を書く際にも極めて自然に・にじみ出てしまうもなのだ…と私は思う。

大江さんは「ヒロシマ・ノート」で広島に行って、様々な他者と出会います。☆原水協の理事長、原水爆禁止世界大会に参加するために広島に集まった各国の代表、原爆病院の患者さんたち、彼らの治療にあたる病院院長や看護士…。☆さらには、原爆の被爆者で・すでに亡くなった人々、被爆して戦後も生き延びたが、後に放射能の後遺症で苦しんで亡くなった人々、結婚・就職で被爆者に向けられる社会の差別と自身の絶望に耐えかねて自ら命を絶ってしまった人たちとも「倫理的想像力」を使って、ある意味・出会い向き合っている。

そして、「反核と想像力と、常に他者と向き合う文学者」大江健三郎が書いた「ヒロシマ・ノート」を読む人も、倫理的な想像力を使って実際に広島に行った大江氏と同様、本を介して広島の人々に出会って、彼らの苦悩に向き合う構造になってる。☆だから「ヒロシマ・ノート」は、単なるルポや現地レポートではなくて、「非常に内容が重い…読む人にズシリと感触が伝わる文学作品」。☆ゆえに「必読だ!」といえます。

さて、今回も・ここで終わりたかったんですが(笑)、前回の「沖縄ノート」同様、「ヒロシマ・ノート」に関しても、昔から個人的に気になることがあるので、最後に触れときましょう(^^;)。

よく保守・右派の人達からなされる批判で、「戦後の日本の知識人は、アメリカや日本の核武装の動きに対しては大いに批判的であるが、中国やソ連の核について全くの無批判である、黙認してる」っていうのがあります。☆それで大江健三郎「ヒロシマ・ノート」に関しても、いつの間にか「大江は、アメリカや日本の核武装には批判的だが、中国が核実験やって核兵器を持つことに対しては賛成・支持してる」みたいなことになってる…。☆その根拠として、本書での以下の部分が昔から定番で引用されてます。

「中国の核実験にあたって、それを、革命後、自力更生の歩みをつづけてきた中国の発展の頂点とみなし、核爆弾を、新しい誇りにみちた中国人のナショナリズムのシムボルとみなす考え方がおこなわれている。僕もまたその観察と理論づけに組する。しかし、同様に、それはヒロシマを生き延びつづけているわれわれ日本人の名において、中国をふくむ、現在と将来の核兵器保有国すべてに否定的シムボルとしての、広島の原爆を提出する態度、すなわち原爆後二十年の新しい日本人のナショナリズムの態度の確立を、緊急に必要とさせるものであろう。したがって広島の正統的な人間は、そのまま僕にとって、日本の新しいナショナリズムの積極的シムボルのイメージをあらわすものなのである」(147ページ)

これは丁寧に読むと普通に分かると思いますけど、前半の「僕もまた…組する」っていうのは、「中国の核実験」に対して直接的に「組する」=支持する、と言っているのでは、ありません。☆大江健三郎は、「私は中国の核実験を支持する」なんてこと、まったく言ってません。☆「その観察と理論づけに組する」と述べているのであって、つまりは「中国での核実験や核保有が、中国人のナショナリズム高揚のシムボルとして利用され、現実に機能している」とみる観察と理論に「組する」(賛成・同意する)といっているのです。

そして、その「現に中国人がナショナリズムの高揚シンボルに核を利用している」という観察と理論に大江氏自身が賛成・同意を示した上で、後半で「現在と将来の核実験保有国すべてに、否定的シムボルとしての、広島の原爆を提示する態度」、それこそが「新しい日本人のナショナリズムの態度」と彼は述べているのです。

だから、最終的には「核実験やって核爆弾を保有して、自国のナショナリズムを高揚させようとする中国人の動き」を、「核兵器に否定的な広島から発する新たな日本人のナショナリズム」と対決させて、「核保有によって国を盛り上げようとする中国人のナショナリズム」を明確に否定してるわけ。☆つまり、彼は中国の核実験や核保有に対して、明らかに反対なんです。☆アメリカや日本の核武装に批判的であるのと同様に。

だいたい現代の国際政治の常識からして、実際の戦闘にて核兵器使ったら世界は終わりですから、外交戦略上の切り札の最終カードとして、各国ともに核保有したがるわけです。☆例えば、北朝鮮なんか軍事力なくても、核実験に成功して核保有できたら、圧倒的に軍事力が上回って凌駕されてる軍事大国、アメリカに対し、核の使用を・ちらつかせながら対等に自国に有利なやり取りができる。☆だから、北朝鮮なんて国は外交の切り札「自国のナショナリズム高揚のシンボル」として、本当は核を持ちたくてしょうがないはずです。

それで「ヒロシマ・ノート」の大江氏は、そんな「自国のナショナリズムを盛り立てる手段としての核実験や核保有」を以前から批判してるわけですから、核実験を行う中国を明確に否定してるし、核武装したがる現在の北朝鮮などに対しても適用できる、本質的な「核ナショナリズム批判」を、すでに・やっている。☆先の「ヒロシマ・ノート」の引用個所は、極めて・まともで正常な「反核」の記述です。

もう…ね、正確な読解力もなければ、本読みのセンスもない…そのくせ、やたらと人を批判したり、論争ふっかけたり、裁判を起こしたりしたがる頭空っぽな変な人たちから、大江健三郎氏は常に一方的にチョッカイ出されて、「本当に大江さんは気の毒だなぁ」って、私なんか・いつも思いますね(^^;)。

ヒロシマ・ノート (岩波新書)
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岩波新書の世界(5)大江健三郎「沖縄ノート」

27c31638.jpg岩波新書・青の大江健三郎「沖縄ノート」と「ヒロシマ・ノート」は、二冊でセットの本です。☆必ず二冊読んで、それらに共通して貫いてるエッセンスを読み取らなければ、実は「読んだことにはならない本」。☆個別に一冊ずつ近視的・部分的に読むのではなく、いわば「全体からの読み」が求められる本だと思います。

個人的には最近の時事問題から、以前に読んだ「沖縄ノート」、「ヒロシマ・ノート」を思い出すことが多かった。☆すなわち、民主党に政権交代になって沖縄基地問題がクローズアップされると、「沖縄ノート」を思い出し、東日本大震災にて福島第一原発の放射能漏れ事故が起こると、戦後日本の原子力政策、「日本人と核の問題」を反省的に総括する必要に迫られ、「ヒロシマ・ノート」のことを思い返す。

だから、「沖縄ノート」は「ヒロシマ・ノート」とセットでつながっているので、本書での問題は「米軍の核兵器をふくむ前線基地として、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場」であることを強いられる沖縄…つまりは、沖縄に米軍基地があることの批判根拠の中心に、「沖縄を覆う核戦略体制の問題」や「米軍による核持ち込みの問題」が大きくある。☆アメリカ原爆投下批判の「ヒロシマ・ノート」から一貫してブレない、「日本人と核の問題」に対する大江氏の問題意識↑↑。☆近年の沖縄基地問題は基地そのものの縮小・移転とか、滑走路増設の是非が主な話になってますけど、「沖縄ノート」の場合、「ヒロシマ・ノート」とつながってるから、やはり中心は「日本人と核」なんです。

例えば、「沖縄に核兵器が配属されているとの憶測は以前からなされていた…原子力潜水艦が那覇港に自由に出入りする。一次冷却水がふんだんに放出される…それにさきだって那覇港の泥からコバルト60が発見された…那覇軍港で働く潜水夫たちが躰の異常を訴える。…しかし、そこで行きどまりだ。米軍は潜水夫たちの異常が放射能に由来しないと言明し、本土の原爆病院へかれらを送り出そうとする全軍労のプランを押しつぶす」。

以上は48~50ページのくだりですけど、核の配備、それに伴う放射能汚染での被曝…しつこいですが(^^;)、「沖縄ノート」は「ヒロシマ・ノート」と核の話で連続して、つながっている。☆そして、この・かつての那覇軍港の泥のコバルト60の放射性物質による被曝・汚染の問題から、近年(2004年)の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し、放射性物質のストロンチウム90が周辺にバラまかれた事故を思い起こすことは、比較的容易でしょう。☆「沖縄をめぐる状況は、以前と何も変わっていない」って、改めて思い知らされる…。

本書は、大江氏が沖縄を訪れて平和運動の過程で現地で出会った人々のことなどを述べながら、戦略的核体制に・のみ込まれ米軍が占拠する沖縄、しかもその米軍占領を許している本土の日本政府という二つの「権力」に苦しむ沖縄を描いてます。☆そして、さらに大江健三郎氏・個人は本土の日本人であり、「僕自身における戦後民主主義について、また倫理的想像力について、自分のうちがわの暗く血の匂いのする深みにスクリューのようにも自分自身をねじこみつつ考え続けるための手がかりとして、沖縄ノート(沖縄に対する考察!)を強く必要とする」旨、最後にまとめてます。

つまりは、沖縄の基地問題に対峙すると必然的に「倫理的想像力」が働いて、「自分のうちがわ」にある本土の日本人のエゴイズムたる「本土エゴイズム」に気づき、ぶち当たってしまう…しかしながら安易な解決の答えはなくて、ともかくは自己の内面を見つめる、深化された人間意識に「沖縄ノート」を介して・たどり着く…みたいな結論。☆他者を通じての自己の再発見の・自己深化…「文学の本領」って、そんなもんでしょう。☆だから、大江健三郎、沖縄という他者と出会って、自身の内奥を見つめて新たに何かを発見する、超一級の破格な文学者です(^^)。

さて、ここで終わりたかったんですが(笑)、大江健三郎「沖縄ノート」に関しては、旧日本軍による集団自決強制の有無をめぐる裁判が近年あって、そのことに触れないわけにもいかないので、最後に述べときます。

「旧日本軍の指揮官が当時、島の住民に集団自決を命令して強いたことが『沖縄ノート』に書かれてるが、事実に反する。自決命令はなかった」として、当時の日本軍元大尉らが名誉毀損で大江氏を訴え、損害賠償と「沖縄ノート」の出版差し止めと、謝罪広告の掲載を求めた裁判。☆最高裁まで行って、原告敗訴、元軍人らの訴えは認められず…という結果になってます。

そのため以前と変わらず「沖縄ノート」は出版差し止めにもならず、普通に手に入れて読めます。☆裁判あって、集団自決命令有無の問題に関心持って初めて「沖縄ノート」を手にして読む人は、たぶんガッカリするんじゃないか…と思う。☆実は旧日本軍指導者が集団自決を強制指示・云々の話、本書では最後の第9章の中に、もちろん実名表記でなく、「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」として少し出てくるのみ…。

名誉毀損で裁判を起こすくらいだから、本の全体使って最初から、詳しく検証重ねて集団自決を強いた元大尉への糾弾記述が相当な分量あるのかと思えば、そうじゃない…この話が出てくるのは、最後の第9章の数行のみです。☆名誉毀損で出版差し止め請求するなら、もっと大々的に・しつこく書いてる家永三郎の著書とか、「人民の歴史」系の書物を多数出して、詳しく論じてる青木書店などを訴えて出版差し止め請求したほうが…とか個人的には思いますけど、なぜか岩波新書の大江健三郎「沖縄ノート」なんですね(^^;)。

結局、この裁判は背景に・かなりの政治的な意図・駆け引きがあって、純粋に「沖縄ノート」の内容記述が名誉毀損にあたるから、原告の元大尉らが大江氏を訴えたというのではない。☆原告の元大尉らの支援者見ると、当時の自由主義史観の「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーが名を連ね、裁判を支援・応援してます。☆「沖縄戦にて旧日本軍による集団自決命令があったかどうか」は、以前から教科書検定の場で合格か修正かの攻防が・ずっとあって、旧日本軍の関係者や「作る会」の面々は「強制自決の事実はなかった」検定結果に世論をリードし、そちらの方向に是非とも持っていきたいわけ。

それで、本書での・いわゆる「強制自決を強いた」云々に関する内容記述の分量・バランスはともかく、メジャーな出版社、つまりは「岩波書店」で、しかも世間一般に比較的名前が知られた人物、すなわち「大江健三郎」で、岩波新書の大江著「沖縄ノート」が標的にされて名誉毀損の出版差し止め裁判で訴えられる…。☆「作る会」の世論の巻き込みを意図した政治的キャンペーンのために狙われて、いきなり裁判で訴えてられた大江さんも、かなり気の毒というか(^^;)。

やはり保守・右派の人たちにとっては、「日本の近代を軍国主義の国家主義で批判され、悪く言われたくない」という素朴な反発に加えて、「今後の将来のための軍隊イメージ」みたいなのは非常に大切で、神経質になって気を使うわけです。

すなわち、将来的に「国民の生命と財産の保全」名目のための日本の軍備の補強・増強とか、憲法九条の改憲、さらには戦略的核武装を進めるにあたり、「過去に日本の軍隊は日本の国民を全然守らなかった…例えば沖縄戦では、軍人が現地住民に集団自決命令まで出していた」みたいな話が出てくると非常に困る。☆「軍隊は常に国民の生命と財産の安全を守るフィクション」がないと、今後の再軍備や改憲世論に差し障りが出るから。

ここでは・あえて「軍隊は常に国民の生命と財産の安全を守るフィクション」って言いましたが、やはり「フィクション」なんです(^^;)。☆普通に日本の近現代史、真面目に少しばかり勉強すれば分かりますが、近代日本において、日本の軍隊が非常に気を使い最優先して守って防衛してるのは、天皇の国体であり、日本の領土であり、大陸における日本の国益であって、国民の生命や財産ではないです。☆天皇の国体・国益と、国民の生命・財産の安全を天秤にかけたら、日本の軍隊は前者の国体の安寧・国益の確保を優先順位で取ってきた↓↓。

十五年戦争の末期、対アメリカの太平洋戦争にて、制空権を握られ連日連夜・日本本土に空襲あって、多くの国民の生命と財産が危機にさらされても、天皇制の国体護持に執着の最優先で、最後の最後まで終戦工作に・まごつく政府と軍部ですから…。☆そんな軍隊が幅を利かせた日本の近代です。☆このことは、今でも十分に強調されてよいし、繰り返し何度も確認されてよい。☆だから、保守・右派の連中は今後の再軍備に関わる軍隊イメージには非常に敏感になるし、その都度・修正を施したくなる。☆そして、その延長上に「沖縄ノート」の裁判がある。

あと、大江健三郎「沖縄ノート」が狙い打ちにされて裁判で訴えられたのは、曽野綾子「ある神話の背景」っていう「沖縄ノート」批判の本が以前からあって、それが・あるので原告側の元大尉らや「作る会」は、裁判に持ち込んで「勝てる」と見込んだフシがあった…と私は、思います。

しかし、冒頭の話に戻りますが、曽野綾子「ある神話の背景」は、沖縄現地に取材に行って関係者証言の信憑性を再度・確かめる実証作業からの異議・反論で、「沖縄ノート」を読む際には本書だけでなく、「ヒロシマ・ノート」とのつながりまで押さえた上で読む」、つまりは「全体からの読み」で、大江健三郎氏が一貫して論じ抜いてみせた「日本人と核の問題」に本質的に触れてないので、本の読み方としてイマイチで、読みが破綻してる…って私なんかは思う。

「沖縄ノート」に関しては、本読みのセンスもないのに、やたら執念深くて政治的キャンペーンに長けた人たちに、突然・裁判で訴えられる…「変な人たちから一方的にチョッカイ出されて、大江さんも気の毒だなぁ」という思い、個人的に禁じ得ません(^^;)。

沖縄ノート (岩波新書)
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岩波新書の世界(4)ウルフ「どうしたら幸福になれるか」(その2)

0acc1eef.jpg岩波新書の青、ウルフ「どうしたら幸福になれるか」に絡み、前回は「幸福論」というジャンルの読み物が成り立つ基盤そのものを、まずは疑う…ところから始めました(^^;)。☆つまりは、そもそも幸福論における「幸福」というのは、規範ではなくて、ある状態に対する個人的な極めて主観的な呼称である。

ゆえに、往々にして他者への配慮を徹底して欠く…。☆むしろ自分(たち)が「幸福」であるために、自分(たち)だけエゴイズム発露の欲望充足に走って他人を犠牲にしたり、他者を食い物にし、例えば金もうけしたりして、自分(たち)が「繁栄」し結果、私は「幸福」で「振り返ってみれば、他人はどうあれ、少なくとも私は幸せな良い人生を送れた」と勝手に回顧できる、他者の不幸の犠牲の上に成り立つ自分(たち)の「幸福」↓↓。☆そんな幸福論の陥穽(かんせい)なんてのは実は、いつの世でも・かなり幅広く、相当な頻度であるわけです。

「だから幸福になることを最初から断念しろ」などとは、さすがに私も言いませんけど(^^;)、自らが幸福を志向する場合、得てして「幸福」なんてのは規範がない、他者への配慮を決定的に欠いた主観的認識だから、逆に他者への視点を繰り込んで、ただ単に「自分自身や、せいぜい自分の家族や友人らが幸せであれば・それでよい幸福論に陥っていないか…」、「安楽に快適に自分たちだけが暮らすことが、果たして本当の幸せといえるのか!?」絶えず自身に問い続けながら、幸福を志向する必要がある。

極論でいえば、「自分(たち)が幸福であるのを望むことが、そのまま同時に見知らぬ他者を不幸に追い落とす」といった過酷な状況も、原理的にあり得るわけです。☆事実、現実の世界では残酷にも、そういった「自分の幸福か、さもなくば他者の不幸か」の二者択一な・どうにもならない避けられない極限状況が、往々にしてよくあります。

そして、「本当に自分が幸せになりたい」と心の底から願うとき、何の考えもなしに素朴にポロッと「とにかく幸せになりたい」と・ただただ言ってしまう人と、場合によっては他者に犠牲を強いて自身の欲望充足に終始するエゴイズム発露の「幸福」に陥る可能性があることも知った上で、それでも「幸せになりたい」と言う人とでは一見、同じような幸福志向の姿勢であっても、その精神的深まりの内実は、天と地ほどの差がある…もはや「似て非なるもの」なんですね(^^;)。

以上のことを踏まえ、そういった自己本位な「幸福」論の陥穽についての言及を期待しながら「幸福論」やら「人生論」の読み物を、私は読むわけですが(^^;)、この手のジャンルで古典の名著といわれる、アランの「幸福論」もヒルティの「幸福論」も、カーネギーの「道は開ける」も、武者小路実篤の「人生論」なども、そういった「幸福論」そのものが成り立つ基盤を・まずは疑う…他者への配慮を欠いた、自己の幸せ享受のみに終始する「幸福」の危険性に触れたものは残念ながら、ほぼ皆無…少なくとも私の知る限りでは(^^;)。

ウルフの「どうしたら幸福になれるか」も、やはり・その前のめりなタイトルが示す通り、他人のことは措いといて、「とりあえず・まずは自分。とにかく・どうしたら私が幸せになれるのか」、自己の「幸福」享受の具体的方法から・いきなり入ってます。☆そして、その獲得方法に終始し結局、上下二巻、そのまんま「どうしたら(私は)幸福になれるか」のみで終わる(^^;)。

しかしながら、ウルフの本には「幸福論」の幸福獲得のアプローチとして、大変・参考になる記述があることも確か。☆幸福追求の具体的方法で、他の類似な「幸福論」より優れてる部分もあると思う。☆すなわち、それはウルフという人が精神医学者で、心理学の知識があるため、その学術的立場から気づいて、幸せになるためのヒントを読者に的確に指南できる。☆その点が、ウルフの「どうやったら幸福になれるか」の読み所ではないかな…と私は思う。☆それは簡潔にまとめて、以下の二点。

「創造的な代償作用の必要性」と、「フロイト派精神分析の批判」。

幸福論の「基本原理」として「人生は芸術」であり、「幸福な人間になるという芸術は、創造的な自己彫刻(創造的に自分を彫刻していく)という過程に似たものだといえる」とするウルフにおいて、「創造的な代償作用」についての記述は、彼の「どうしたら幸福になれるか」上下巻の中で、かなり大きな割合を占めます。☆ウルフ流に言えば、「自分自身の劣等感とよい友だちになる」。☆つまりは、劣等感・コンプレックスや欠点は誰にでもあるもので、それらが皆無な完全な人間などいない。☆むしろ、「人間は自分自身の不足感を経験する唯一の生きもの」ですらある。☆そして、人間は「自分自身を社会的に適応した人間にすること」ができる。☆だから、身体的欠陥や社会的・経済的要因からくる不足に対し、「創造的な代償作用」という手法の提唱。

「欠陥のある身体器官または能力を鍛錬することで劣等をなくす」。☆「他の働きで劣等な働きを代行する」。☆「その欠陥が有利であるような状況をつくりだす」。☆「代償についての『心的な特別な機構』をつくることで、劣等な器官や能力の特殊な感受性が社会的に有用な行動に変わるよう働きかける」。

「創造的な代償作用」とは、およそ以上のようなこと。☆確かに・そうだ、と思いますね(^^)。☆こういった「創造的代償」のアプローチは、障がい者教育などでは、昔から普通に実践されてて、身体に不自由がある人なら、その欠損の埋め合わせをするような適応の鍛錬を自らに課したり、自分が適応できる分野を新たに探し出したりする。☆例えば、手足が不自由な人で、口で筆を・くわえて驚くほど巧みに絵を描く人がいます。☆例えば、視覚が不自由で目が見えない人は、往々にして聴覚が非常に発達してたりするものです。☆そして、時に音楽の才能を遺憾なく発揮したりする。

例えば、人見知りで人付き合いが苦手な人でも、下手に・たくさん友達なんか作らず、自分の家族や身の回りの人達を大切にし、密度の濃い人間関係を構築し、ゆっくり・じっくり育てていけばよいではないですか。☆欠損や劣等に対し悲観的にならず、自身を責めず、自分の人生に対する肯定の自尊、そういったスタンス(^^)。

ウルフによれば、「社会的適応が人間として幸福になるための、ただ一つの容易な最良の方法だ。…勇気を持って人生を肯定する。教育のただ一つの真の目標は、独立と勇気と社会的適応」。 ☆そして「ノイローゼ、神経症、犯罪、アルコール、熱狂的な信仰、不平不満の吐露、感受性肥大…それらは劣等感の誤った代償作用なのである」。

さて、次の「フロイト派精神分析の批判」とは、「ノイローゼに関してのフロイト派の分析の誤り」。☆「人間行動の静的な解釈ではなくて動的解釈だが、ノイローゼの機械的な因果関係を明らかにする」フロイトの方法は、ウルフによれば明らかな誤りである。☆「どんなノイローゼについても知らねばならぬ重要なことは、そのノイローゼの目標あるいは目的」であって、「フロイトのようなノイローゼの原因・起源ではない」。☆そして、ウルフは「フロイト派の精神分析」に対置させる形で、「アドラーと生命的な見方」を「反フロイト」として主張します。

結局は、以下のようなことです(^^;)。☆フロイト派の精神分析は、ノイローゼや神経症の原因・起源を探る方法だけど、その病根への原因・起源のアプローチは、機械的で因果律の「味気のない失敗の仕方」に過ぎない…。☆なぜなら、患者のノイローゼや神経症の原因・起源が解明しても、それは・ある意味「静的」な因果律の病状説明でしかないから。☆つまりは、ノイローゼや神経症が患者に対し、現に・どのように作用しているかの認識を欠く↓↓。

ノイローゼや神経症、または、それらの原因・起源に関するフロイト派精神分析の因果的説明が、自分の「失敗についての一時的な・いいわけ」として機能したり、自身の「自我価値の最終的な試練の無期延期」の口実になる。☆そういった目的で患者が現状を甘受し、病気に依存してノイローゼや神経症であり続けることの「目的因」を見逃す。☆だから、フロイトのような原因・起源の分析ではなく、むしろ逆の「アドラーによる目的因、内在的目的論でノイローゼや神経症を説明」の有用性をウルフは説く。

なるほど、これも確かに・そうだ、と思いますね(^^)。☆皆さんの周りにもいませんか!?☆やたらフロイトの精神分析の本なんか読んで、中途半端に心理学の知識があって、自身のノイローゼ気質や神経症的傾向に関し自分の過去を振り返り、「幼少期の家庭環境が良くなかった」、「母親の愛情が足りてなかった」、「現在・私が不幸なのは××のせい」など、原因追求の因果律でフロイト並み(?)に自己分析する困った人。

結局は、現在自分が苛まれてるノイローゼや神経症の原因・起源を説明づけることだけに終始して、親や家族に恨み事の八つ当たりばかり…逆に現在、自分がそのようなフロイト的原因・起源の精神分析に依存し熱中していること自体が、ノイローゼや神経症の治療に乗り出さず、「現状のままでよい安楽な自分」を心理的に保持してる…。

解決先延ばしの現状肯定の言い訳として、原因追求のフロイト派精神分析が機能する。☆その人が本当に知るべきは、自分がノイローゼや神経症になって自分を呪って、「私は本当に不幸だ!」と心行くまで嘆きたい自身の行為に秘められた内在的目的。☆「私は不幸」で、フロイト流に・その原因・起源を分析追求すればするほど、その人は決断引き延ばしの言い訳の現状肯定、ルサンチマンの恨み事の怨念の深みに・はまって、ますます「不幸」になっていく…絶対に「幸福」になれません。

以上、「創造的な代償作用の必要性」と「フロイト派精神分析の批判」が、ウルフの「どうしたら幸福になれるか」の読み所だと私は思う(^^)。

その他にも、様々な「幸福への処方箋」を多岐に渡ってウルフは述べてます。☆「お金・力のフィクション」(金銭は「目的」でなくて、生活のための「手段」という正しい認識)とか、「どうしたら上品に年をとることができるのか」(我執にとらわれないこと、ユーモアの大切さ)など。☆なるほど、だいたい他の人が執筆の「幸福論」の著作と重なる内容になってます。

そりゃあ、そうです(笑)。☆幸福論なんていっても、そんな普通の人が・なかなか気づかなくて、「一度読んだら目から鱗」で読んだその日から即効性があって誰にでも出来て効果抜群な、「必殺の幸せになれる方法のアドバイス」なんて、そうそうあるものではありません。☆違法な麻薬ドラッグじゃないんですから、人間は・めったなことで多幸感なんて味わったり、そう簡単に幸福になれたりはしません(^^;)。

幸福論も人生論も、試しに・あれこれ読み重ねていくと、「幸せになるためには、人生を充実させて生きるには、どうすればよいか!?」提言アドバイスの内容重複は、実に多いです。☆だいたい皆さん、いつも同じこと書いてる(^^;)。

幸福論や人生論に関する著書で、例えばアランの「幸福論」やカーネギーの「道は開ける」などは、最初に本格的に書いた、幸福論・人生論の分野開拓の古典として今後も版を重ね・ずっと売れ続けて、人々に読まれると思います。☆しかし、後続の新出の幸福論・人生論の本は、先に述べたように「人間が幸せになれる目から鱗の必殺の方法」なんて、そう簡単にあるわけもなく、何しろ幸福論・人生論の類はネタの重複で、話は相当に限られてると思うので(^^;)、これからは「どんな内容かよりも、誰が書いたか!?」で幸福論・人生論の分野の本は売っていくしかない…と個人的には思う。

事業に成功して高所得な世間一般の人が・うらやむ会社経営者が執筆した「幸福論」とか、どん底の境遇から、一念発起して短期間で難関の学校に合格したり、難しい資格習得したりした人が書いた逆転の「人生論」。☆芸能人の有名で皆に人気の方が記した「幸福論」や「人生論」など。☆でも、多分それら幸福論や人生論の記述内容は、過去の幸福論・人生論の著作とかなり重複すると思います。☆定番の「ポジティヴ・シンキングの重要性」やら、「自分がしてもらいたいことを相手にする黄金律のすすめ」だとか…。

だから結局は、話は冒頭の最初に戻って「幸福論」というジャンルの読み物は、非常に・あやしくて相当に胡散臭い…っていう個人的結論です(^^;)。

どうしたら幸福になれるか〈上〉 (1960年) (岩波新書)
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岩波新書の世界(3)ウルフ「どうしたら幸福になれるか」(その1)

0acc1eef.jpgウルフの「どうしたら幸福になれるか」。☆岩波新書の昔の青です。☆いわゆる「幸福論」、「人生論」に属する類のもの。

先日も、ある芸能人の方がアランの「幸福論」を挙げて、「私の人生を変えた・おすすめの一冊」とか言ってましたが、どうも私は昔から「幸福論」やら「人生論」には非常に違和感があって…(^^;)。

だいたい「幸福」って規範じゃないでしょう。☆どんな状態・状況下でも、その人が主観的に「自分は幸せで幸福」って思えは、「幸福」になるでしょう。☆そして、往々にして・そういった「幸福」追求の際には他者への配慮を決定的に欠くでしょう。

極端な話、他人を踏みつけにして自身や自分たち家族や仲間らが、エゴイズムの発露で欲望充足を満たして快適に過ごし、時に・えげつないこともやって、適当に金もうけして人生を謳歌して、それで幸せ=「幸福」論って線も成立するわけです。☆「幸福になりたい」、「幸せな人生を送りたい」と素朴に願う、幸福論の「幸福」っていうのは当為や規範ではなく、かなり幅広く・ゆるく特定の状態・状況を「幸福」って勝手に呼んで、他者のことは全く眼中になく、単に自己満足の自己充足してるだけの可能性が大いにある…。

加えて「繁栄」や「平和」なども「幸福」と同じく、規範ではない。☆単に状況を勝手に恣意的に、そう呼称してるだけでしょう。☆端から見てて、「ぜひとも幸せになりたい」、「幸福な人生を送りたい」とか素朴に言ってしまう、その無神経さに腹が立つのと同じくらい、あまりにも当事者本位な、他者の相手が見えていない、本当に勝手気ままな・おめでたい主観的思考↓↓。

毎年8月15日に「全国戦没者追悼式」が開かれますが、なぜか「世界の平和と繁栄を願います」の言葉を・だいたい毎回、天皇は素朴に言うでしょう。☆あれなんか…私は聞いてて、いつも不快に思う。

「繁栄」なんて、他者や他国や他民族がどうあれ、彼らを踏みつけにして支配して略取しても、同時に成り立つ状態です。☆いや!むしろ、歴史を学んでる人なら、他者の他国の他民族を支配して略取してこそ、初めて過去の大日本帝国の自国の「繁栄」はあったわけです。☆「繁栄」なんてのは、他人の犠牲の上の自分たちだけの安楽独占のケースが、かなりの確率を占めます。☆一般に多くは、そういった状態を「繁栄」と呼ぶわけ。☆そういうことを、何ら深く考えずにポロッと「世界の平和と繁栄を願います」とか言う。

同様に「平和」だって、規範じゃなくて極めて・ゆるく、いい加減に状態について勝手に言ってるだけでしょう。☆政治権力が・あまりにも強圧的で、力で凌駕して押さえつけることができている専制支配の場合には、反体制の内乱も起こりようがないから、抑圧されていると同時に・なるほど「平和」です(^^;)。☆例えば、現在の北朝鮮などは、かなりの独裁・強圧政治で監視体制の圧政敷いてますから、反乱やクーデターの内乱など起こりようがなく、本当に「平和」。

また、過去の十五年戦争時の前半、日本の大陸侵出で日本軍が連戦連勝で調子がよいときは、十五年「戦争」の最中であっても、当時の多くの日本人の意識・認識は「平和」。☆アジア・太平洋地域の人々を踏みつけにして現地支配してても、戦勝による好景気で日本国内の明るいムードで「繁栄」の「平和」なんです↓↓。

それで多くの日本人が「これは平和ではない」って危機感持って、身にしみて感じるようになるのは、いよいよ自分たちが今度は逆に被害をうけて、生命や財産の危機を初めて感じるようになってから、つまりは、日米開戦の太平洋戦争の末期、それも十五年戦争の本当に最後の最後の方で沖縄陥落、本土爆撃、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下があって、初めて「これは平和ではない。まぎれもなく戦争だ」と思い至る…。

だから戦後の反戦平和運動なんて、クローズアップして語られるのは、主に自分らが被害を被った、対アメリカ戦の・それもいよいよ日本の敗戦濃厚な、本土空襲などのケースに異常に偏って限定して、せいぜい被害者意識を丸出しの「多くの日本人が空襲で亡くなって、家も焼かれて…だから戦争はよくない」の「反戦」止まり。☆正確には、「自分たちが負けて被害者の犠牲になる形の戦争だけは嫌だ」の「厭戦」止まりです…。

十五年戦争の前半の大陸侵出で、日本が加害者で調子よかった時のことは「戦争」の戦時ではない…。☆普通に素朴に自分たちに実害の被害が出ない場合には、アジア・太平洋地域の他者を踏みつけにして、他人の犠牲の上で自国の「繁栄」を謳歌してても、救いようがないくらい、どこまでも日本人は主観的に「平和」です。

クドいですけど(^^;)、「繁栄」も「平和」も「幸福」も規範や当為じゃなくて、当人の恣意的勝手な主観の認識の思い込みで、他人に危害を加えても・犠牲を強いても、いくらでも「幸福」にもなれるし、「繁栄」も「平和」も手に入れられる…他者への視線や配慮が致命的に欠けている↓↓。

同様に「人生」だって、人それぞれが生まれた・置かれた、その人なりの環境条件、状況からの制約みたいなのがあって、「人生論」などで一概に大ざっぱに人の人生も語れないだろう…と思う。☆だから、「幸福論」とか「人生論」っていう冠のつく、用途の本は何か胡散臭くて非常に怪しいですよね(^^;)。☆規範と状態との区別・云々や他者に関しての考えが、そもそも浅いっていうか、考えなしで。☆正直、馬鹿らしくて最初から真面目に読む気になどならないのです、昔から定番とされているアランの「幸福論」などは。

しかしながら、ウルフの「どうしたら幸福になれるか」は先日・例外的に読んだので、その感想を書こうと思ったのですが、前提の「幸福論批判」の話が・はからずも長くなってしまったので(笑)、その内容は・また次回(^^;)。

どうしたら幸福になれるか〈上〉 (1960年) (岩波新書)
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岩波新書の世界(2)林健太郎「世界の歩み」

9a7c8fff.jpg結局、「社会科学やるなら、どんな分野でも世界史の知識が・かなり必要」ということを、ある時から痛感し、私は学生時代そんなに力を入れて世界史を勉強してなかったので(^^;)、割合と真面目に世界史の本を色々と探して、あれこれ読んでた時期がありました。

特にヨーロッパ史ですね。☆例えば、哲学でも政治学でも経済学でも教育学でも何でも、「××学史」というのがあって、理論形成や中核思想の変遷、重要人物やらを歴史的に遡るわけですが、そのとき専門の学説だけでなく、必ず当時の時代状況や歴史的出来事を絡めて、例えば哲学史でカント読むなら、カントの時代のフランス革命やドイツ領邦国家の絶対主義的状況の世界史を絡めて、彼の思想を立体的に読み込むことが欠かせない。

ゆえに、どんな分野をやるにしても「社会科学においては、世界史についての最低限度の基本的知識が必要」というわけで、個人的に世界史、特にヨーロッパ史あたりを中心に重点的に一時期、勉強し直したりしてた(^^;)。

日本史のような「一国史」ではない、世界史は幅広い世界の各地域の歴史を同時進行でやらなければいけないので、かなりの要領が要る。☆日本史みたいに、ずっと詳しく日本の歴史だけをやる場合、ただただ深く掘り下げて真面目に、ひたすら律儀にやればいいんでしょうけど、世界史は別に・そんなに詳しくやる必要はなくて、どちらかと言えば、各地域の歴史的特色のコントラストの濃淡や他地域との関係性が明確になるよう、手際よくやらなければいけないわけでしょう。

世界史で変に詳しく、一国史レベルで学習するまでに内容を掘り下げてやるのは、むしろ弊害で、要は世界の歴史を広く浅く、しかし本質的な歴史事項や基本的な歴史的理解の枠組みを絶対に落とさずに要領よくやり抜かなければならないので、日本史などの一国史と比べて世界史やるには「学習のセンス」が必要で案外、大変です(^^;)。

だから、高校などで歴史のセンスのない、教えるのが下手な社会の先生に世界史を教わったりすると後々、本当に苦労する…。☆世界史の重要用語を羅列し板書して、いきなり「覚えろ!暗記しろ!」とかね(^^;)。☆むやみに機械的に覚えさせて学生に相当な負担を強いる以前に、各地域の歴史的特色のコントラストとか他地域との関係性など、一国史的な突撃方式では到底・対応できない、世界史特有の手際の要領みたいなの・まずは教えてもらいたい(^^;)。

私は、人に世界史を教えたことがないので…っていうか、世界史だけではなく元々他人に勉強を教えた教師の先生の経験がないから分かりませんけど(^^;)、たぶん世界史に関しては「正解の教え方」というか、「正統な理解のさせ方」っていうのが必ずやあると思う。

例えば、近世以後のヨーロッパ史なら、まずは・ともかく「世界の覇権を握った覇権国家の変遷の流れ」を大きく押さえ理解させて、それから個別の単元の歴史的事象の説明に入る…とか。☆つまりは、大航海時代以後から現在までの世界の歴史で、いきなり詳しい解説から入らず、まずは国際覇権国家の変遷=「スペイン・ポルトガル→オランダ→イギリス→ドイツ→(第一次・第二次世界大戦)→アメリカ・ソ連→アメリカ」の全体的な図式を示した後、個々の国別の歴史的事柄を詳説する。

はたまた中世封建社会の分権的支配から、近世の絶対主義国家に至る一元的・統一支配の移行に関し、十字軍派遣前後での「国王と教皇と商人」の三者それぞれを絶頂の上昇と没落の下落の対比で分けて理解させる。☆これなどは昔からある割かしオーソドックスな世界史指導の理解のさせ方だとは思いますが(^^;)、やはり・ああいうのが世界史の「正解な教え方」であり、「正統な理解のさせ方」だと私は思う。☆そして、そういう「正解の正統で使える思考の枠組み」を、どれだけ数多く知ってるか…そういったことを・たくさん教えてくれる教師が「世界史の教え方が上手い親切な先生」であり、そういったことを豊富に書いてる概説書や参考書が「学生に親切な世界史の良書」と言えるのではないでしょうか。

さて、岩波新書の青、林健太郎「世界の歩み」上下巻。☆この二冊は、近世から近現代の世界史を概説する内容で、歴史の詳しい事項は・あまり書いていなくて、瑣末な歴史の知識に溺れず細かい解説に終始せず、その分・本質的な世界史の基本の流れ、おそらくは落としたら絶対にマズいであろう「正解で正統な」世界史の思考の枠組みみたいなの、漏れなくソツなく用いて要領よく書き抜いてて、「世界史の説明が上手いな…世界史の概説に非常に・こなれてる人だなぁ」。☆個人的に大変、重宝した(^^)。

ヨーロッパ史にて、どこまでもイギリスとフランスの相違の対比に・こだわり、その英仏対立の基本の歴史軸に、後にドイツ、イタリア、ロシアの各国史の解説を重ね、さらにアメリカの歴史を加える、著者の世界史記述の手際の良さ。

林健太郎「世界の歩み」上下巻。岩波新書の良い本です。☆ついで同書の姉妹書で、古代から中世までの世界史を概説した、林健太郎「歴史の流れ」も・これまた良書(^^)。

岩波新書の世界(1)ウェルズ「世界史概観」

9a7c8fff.jpg私が学生の時は、経済的に苦しくて本を・あまり買えなくて、お金はないけど、その代わり時間だけは・たくさんあったので(^^;)、よく古書店をハシゴで数件回って、ワンコインかツーコインで買える缶コーヒー1本分相当の古本の岩波新書ばかり、いつも狙って購入してました。

昔から読んでたから、岩波新書は現在でも好きで・よく読む。☆そういえば学生でなくなった今でも経済的な苦しさは、昔の学生時代と・あまり変わらず…だから今でも気がつくと、だいたい安価な古書の岩波新書を購入して読んでるのか(笑)。☆そんなわけで、特集「岩波新書の世界」(^^)。

ウェルズの「世界史概観」。岩波新書の青です。☆これは、岩波新書・創刊の時からある本です。

岩波新書の創刊は1938年で、すでに日中戦争が始まって、日本はもう超国家主義の軍国主義で大陸膨張路線の歯止めが効かなくなって、もはや後戻りもできず、拡大し続ける戦線は泥沼で長期化の様相の頃。☆そんな1938年の苦難の時代に創刊した岩波新書の最初期のラインナップである、ウェルズの「世界史概観」は、1939年に配本されました。☆「世界史概観」の冒頭に付されてる「訳者まえがき」を読むと、「この本を昭和十四年に岩波新書として出すということが、当時すでに強化されていた軍国主義にたいする抵抗の意義をもっていたのであり、そのこと自体が『文化の擁護』であった」。

しかしながら、「厳しくなった言論弾圧のもとで、このような民主的で思想的で国際的な史観の本を出すことは非常に危険でもあったから、これは文化の歴史の本であるという、いわば一種のカムフラージュとして、原題の『世界史概観』でなく、『世界文化史概観』いう名に・わざわざ改変して、岩波新書から出した」といった戦時下、出版当時の事情を訳者の方が書かれてます。☆大変だったんですね(^^;)。☆そのまま原題タイトルの「世界史概観」で出したら、言論弾圧で本が出版できない時代…。

以上のような日本で翻訳・紹介の出版当時の事情を知ると、また・ひときわ盛り上がって感慨深く、ウェルズの「世界史概観」は読めるのではないでしょうか(^^)。

さて「世界史概観」の内容に関して、最初に驚くのは「世界史」を「概観」するに当たり、「生物のはじまり」、「魚類時代」、「爬虫類時代」などの章立てに見られるような、地球上にて・まず単細胞な原始生物が発生し、それから魚類に進化して、さらに温暖化で大陸が出来て爬虫類が最強の時代となり…というように、あえて非常に古い生物進化の射程からウェルズの野郎(笑)、長々と世界の歴史を・わざわざ書き起こしてる所(^^;)。

普通、「世界史概観」の世界史記述なら、どんなに古くても、せいぜい「猿人・原人・旧人・新人」の人類の出現から書き始めて、さっさと古代オリエントの文明の話に、そのまま筆を進めます。☆「魚類時代」とか「爬虫類時代」などウェルズ、昔の「時代」から書きすぎ…。☆「魚類」の進化や、「爬虫類」の恐竜の隆盛は世界史の歴史学ではなくて、もはや科学の生物学の範疇(はんちゅう)です(^^;)。

なぜウェルズが、このように人類が出現以前の、生物の発生と進化から書き始めるのか…といえば、例えばウェルズはSF作家でもあるから、「SF」(サイエンス・フィクション)の「サイエンス」の科学への・こだわりから、あえて生物進化の過程から書き出すとか、「サイエンス」の科学主義の理性主義の立場からする、従来型の神話から始まる歴史記述に対するアンチの批判として、科学な生物学の記述を・まず入れる、といったことなどが考えられるでしょう。

しかし、ウェルズが人類発生以前の地球の歴史の生物進化の過程から、わざわざ書き起こすのは、やはり「現代の地球上の人間の文明を相対化したい…特に民族や階級や国家など、せいぜい・それらは地球が生成して生物が生まれて、やっと人類が出現し進化していく長い長い生物学的な歴史の過程に比べたら、ある特定民族の繁栄や、はたまた特定国家の隆盛は、本当に小さな小さな一時的な人間の歴史の事柄でしかない」。

そういうような「民族・階級・国家の相対化」を、ウェルズは「世界史概観」で・やりたかったからだと個人的には思う(^^)。☆つまりは「人類は一つ」の理念。

事実、ウェルズの「世界史概観」は1922年のイギリス本国出版で、第一次世界大戦と・その戦後処理における列強各国の愚劣さに業を煮やしたウェルズが、「人類の普遍の観念体系なくして世界平和は不可能」との見地に立ち、人間の営みを全体の一つに総括する意図で、生物学の「生命の科学」、経済学の「現代世界の文明の展望」と共に・まとめあげた三大啓蒙書のうちの史学の著作「世界史概観」だと聞いてます。☆そのため、「人類の普遍の観念体系」から近代の帝国主義の時代に関する記述でも、ヨーロッパのアジア・アフリカ侵略に関して、ウェルズは自国のイギリスの振る舞いを自己批判する比較的冷静でフェアな、脱ヨーロッパ中心主義の歴史記述になってる(^^)。

だから、ウェルズの「世界史に賭ける」心意気の意気込みが、半端でない。☆ウェルズ自身、実際に二度の世界大戦経験し、しかも国際連盟の失敗と、二回目の国際連合の成立に同時代人として立ち会ってます。 ☆ウェルズと同時代の人、例えば「危機の二十年」を書いたカーの一連の著作なども併せて読むと分かりますが、二度の世界大戦の時代をリアルタイムで生きた当時の、いわゆる「知識人」たちの今後の「世界史の行方」に対する危機意識が相当に深刻で。

第一次世界大戦後の国際連盟にて集団安全保障体制の戦争抑止に・まんまと失敗し、第二次世界大戦を経て再度、国際連合の立ち上げ。☆今度、三度目の愚で第三次の世界大戦勃発したら、「もはや人類に未来はない」ほどの痛烈な悔恨と反省の危機意識。☆ウェルズは1947年に亡くなりますけど、レーニンに会いに行きチャーチルと対談し、スターリンと会見してルーズベルトと対話する、世界を飛び回って人類の平和に尽力したウェルズ。☆第二次大戦後の米ソ冷戦の状況の中、再び三度目の世界大戦が勃発すれば、次は確実に全面的に核兵器も使用されて、「今度こそ人類は破滅を迎える」くらいの勢い(^^;)。

現実の世界の歴史の「世界史」では、米ソ冷戦下にて核兵器使用を伴う武力行使とか、第三次世界大戦にはなりませんでしたけど、また将来的に第三次世界大戦が勃発するとか、今後・全面的な核戦争に突入するなど、そんなことがあるとは到底・私には思えませんが、しかし・それはウェルズが期待したような、人類が過去二回の世界大戦の惨事から学習し、理性的になって叡智を持って「人類の世界平和」に決意を持って踏み出した、ということでは決してない…。

単に国際紛争や戦闘を局地の地域的に限定したり、大国がバックに付いて第三国に戦争を・やらせる、いわゆる「代理戦争」の形で、特定の大国だけが戦闘ダメージを受けない、しかし一部の国や地域は確実に戦火の被害を被る、巧妙な戦争コントロールの技術を一部の強国が会得しただけのことであって…(^^;)。☆第二次大戦以降、カタストロフな第三次世界大戦とか全面的核戦争が全くなくて、とりあえず何となく漠然と「世界平和」が守り通されてる印象ありますけど、もし「第二次世界大戦後から現在までの世界史は比較的穏やかで安定して平和」と思っている人がいるとしたら、それは紛れもない単なる錯覚です(^^;)。☆ただ単に戦闘の形態が変化して、戦争の規模や地域がコントロールでき、局地的に限定的に集約され、時に巧妙に隠されて継続して戦争がやられてるだけのことです。

だから、ウェルズの「世界史概観」読む場合、「現在、人類は発狂しており、精神的自制ほどわれわれに急を要するものはない」とズバリ言い切るウェルズの筆による、第68章「国際連盟の失敗」、第69章「第二次世界大戦」、そして最終章である第70章「『人類』についての現在の見通し」あたりが、まさに読み所だと思う。

もう…ね、現実の世界と、これからの人類の行く末を本気で理性的に心配する、「人類の普遍の観念体系なくして世界平和は不可能」とする、ウェルズの「世界史に賭ける」心意気の意気込みが半端でない。☆最近の私達のような、「学生時代に世界史を習ったけど、内容忘れたからもう一度、世界史の概説書を読んで勉強し直そう」なんていう、変に薄められて無難な「教養としての世界史」とは明らか異なりますから…ウェルズの「世界史」は。☆リアルでシリアスで実用的な、世界大戦後の当時の世界の危機に向き合って対応した「本気の世界史」(^^)。

その他、読み所は、ウェルズの理性主義、科学主義の立場に由来するであろうと思われる、各時代と地域の文明・宗教に対する評価基軸に「非合理な生贄(いけにえ)制度があるか否か」を必ず置いてその都度・判断し、呪術的で崇拝的な生贄制度がある「最初のアメリカ人」などに対し、ウェルズが露骨に否定的に書く所(^^;)。

あと、文字の発生と使用、特に紙の発明や印刷技術の発展、図書館の設立など、古今東西の書物関連の歴史的発展事項の文化史に異常に反応するウェルズ…。☆書物の文化発展の歴史記述に・かなりの力を注ぐ彼の、やや前のめりな書きっぷりも個人的には注目です(^^)。

最後の豊田有恒(3)「日本の原発技術が世界を変える」

737548b1.jpg豊田有恒氏については当ブログにて、これまで何度か書いてきたんですけど、文字通り今回が「最後」。☆「最後の豊田有恒・日本の原発技術が世界を変える」です。

SF作家の豊田有恒氏、2011年12月に「日本の原発技術が世界を変える」を上梓する。☆だが、年が明けての3月11日に東日本大震災が発生し、東京電力の福島第一原発が罹災して放射能漏れ事故を起こす…。☆そこで、あらためて豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」。☆本書にて豊田氏本人は、「私は・もともと原発には懐疑的な慎重の批判派」の趣旨発言してますが、あれは・なかなか強力な原発賛美の推進本です。☆その原発推進の理由は、以下の二つ。

まず、(1)海外での新規の原発建設に政府とメーカーが官民一体となって参入し、原発商戦で日本が・ひと儲けの論理。☆さらには、(2)不安定な東アジア情勢に鑑み、将来的な戦略的核武装のため、日本国として原子力発電を柱とする原子力エネルギー政策の堅持。

そして東日本大地震発生・以後。☆大震災後に「3・11の未来」という本が出され、豊田氏「原発災害と宇宙戦艦ヤマト」という文章を寄稿してます。☆福島第一原発の深刻な放射能漏れ事故を受けて、「日本製原発の海外輸出で・ひと儲けの論理」と「将来的な日本の核武装の国家的戦略」…ゆえに強力な原発推進論者であった豊田有恒氏、その後・何とコメントしてるのか!?☆とりあえず、読んでみました。

結論からいうと、「日本の原発技術が世界を変える」以降の「原発災害と宇宙戦艦ヤマト」において、福島の事故があっても、氏の原発賛成・推進の姿勢に何ら変わりはありません。☆いわゆる「転向」はなく、むしろ、以前よりも強硬に・より強力な原発推進の論調になってる(^^;)。

SF作家であり、また以前にSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の設定を担当したことから、「SF素材を通じての自身と原子力エネルギーや原発との関わり」を冒頭から主に述べたりしてますが、「3・11の未来」での福島以後の日本の原発のあり方に関する豊田氏の発言ポイントを、そのまま書き抜いて・まとめると、およそ以下のようになる。

(1)「貞観大地震ではマグニチュード8・5だったから…つまり、今回のマグニチュード9・0の大災厄は、『人智を超越した大災害』だということである。想定外も想定外、予想外も予想外、前代未聞の未曽有の大災厄なのである」。

(2)「原子力の平和利用というスローガンに、日本人すべてが酔いしれていたのである。恐るべき原子力を、平和利用することこそが、被爆国日本の責任であり、悲願である、という美しい言葉に日本人すべてが安住してしまい、核有事を想定しないまま、すごしてきた。しかし、これは世界の常識から見れば、きわめて非常識なことだという事実には、すべての日本人が目をつぶってきた」。

(3)「日本人は、非核三原則、平和利用という、いわばスローガンに溺れてしまい、ほんとうの核の危険性に気付いていない。非核三原則を唱えれば、世界から核兵器がなくなるのか。…非核三原則というのはお題目か、お経のようなものだから、一種の信仰でしかなく、理性に基づいたものではない」。

(4)「核の抑止力という考えかたが、日本人には、もっとも苦手である。…つまり、日本人は、中露という核大国に囲まれ、北朝鮮すら核武装する。地球上でいちばん危険な核をめぐる国際環境に置かれながら、能天気を決めこんでいるのである」。

(5)「国連安保理の常任理事国は、すべて核保有国である。かれらは、みな最悪の場合は、核戦争を想定しているのである。…ぼくは、『宇宙戦艦ヤマト』のSF設定を引き受けるに当たって、核有事の最たるケースとして、グローバルスケールの核汚染というフォーマットを作り上げた。核といえば平和利用という美名に酔いしれている日本に、警鐘を鳴らすためでもあった。核は、軍事とは切り離せないものなのだ」。

(6)「今、日本が、世界一の技術水準にある原子力を放棄することも、不可能ではないだろう。しかし、そのプラス・マイナスをよく考えてみるべきである。…イギリスの科学史家C・P・スノーは、『知的ラッダイト』というキーワードを用いて説明している。…いかにも科学めいた理屈付けで、新技術を葬ってしまう風潮を、スノーは、皮肉をこめて『知的ラッダイト』と呼んだのである」。

(7)「日本人の叡智を集めて、この国難を乗り切る日が来ることを、祈るしかない」。

以上(1)から(7)。☆要するに「今回の津波の大災害は歴史上稀にみる予想外の想定外で、そもそも日本は中露、北朝鮮の核保有国に囲まれているのだから、核抑止の考えを持ち従来からの原子力の平和利用なんていう・お題目の理想論は今すぐに捨てて、核は軍事とは切り離せないことを日本人は認識すべきである」。☆それで最後は、スノーの「知的ラッダイト」っていう概念を持ってきて、「世界一の技術水準にある日本の原発技術を、いかにも科学めいた理屈付けで簡単に葬ってしまうべきではない。叡智を集めて原発事故の国難を乗り切ることを祈る」と結んでいる。

結局、「この先の日本国の核抑止の戦略的核武装のために、福島の事故があっても、日本は最新の原発技術を放棄すべきでないし、脱原発の方向に決して向かうべきではない」の内容。☆何よりも、福島以後の原発議論のほとんどが核抑止の軍事核の問題に片寄っていることが、豊田氏いかにも矮小で異常↓↓。☆3・11以後も、従来と全く変わらず強力な原発賛成の推進論者の豊田有恒氏ってことです。

私は、この豊田氏の最新の文章読んで、実は・かなり驚き驚愕した…いや、正直にいうと、あきれて脱力しました(^^;)。☆というのも、豊田氏・震災前の「日本の原発技術が世界を変える」の時には、原発賛成の理由として、「中国・韓国・北朝鮮の脅威に対応するために、やがて将来的には日本も核保有を考えなくてはならないが、しかし、今現在・日本の原発技術を推進するのは、世界的な原子力ルネッサンスの波に乗った・原子力の平和利用のもと」という、「あくまでも原子力は平和利用」という自身の立場を明確に表明していたからです。

例えば、「日本の原発技術が世界を変える」の序章にて、「平和利用の道を拓いた、アイゼンハワー演説」という、1957年4月アメリカ初の商業炉稼働に際してのアイゼンハワーの演説を長く引用した節があります。☆また、同様に「核の平和利用には、相応の決意と覚悟が必要」という、そのものズバリのタイトルの節では、「日本としては、核の平和利用だけという人類最初の夢に挑戦していくべきなのだ」と、豊田氏みずから「核の平和利用」を明確に述べてます。

ところが、福島原発の事故後には「戦後の日本人は、原子力の平和利用という美名のスローガンに酔いしれ溺れてきた…核は、軍事とは切り離せないものなのだ」ですから(笑)。☆3・11以前と以後とで、大きく変わりすぎ…以前は「日本としては、核の平和利用だけという人類最初の夢に挑戦していくべき」と言ってた人が、福島を経ると「原子力の平和利用というのは美名のスローガン…核は、軍事とは切り離せないものなのだ」。☆これは、看過し見過ごすことのできない、あまりにも変節しすぎな180度の大転回。

以前は、「原子力の平和利用」の名のもとに原発賛成の推進で、日本製原発の海外輸出を積極的に進めて「日本の原発技術が世界を変える」と言ってた人が、やがて「原子力の平和利用なんて美名の・お題目のお経のようなもの、原子力の技術は軍事の核保有と切り離すことができない」と恥ずかしげもなく堂々と主張するようになる。☆みずからの言動の変化に、本人は気付かないのか!?☆この変節が大きな矛盾として、なぜ豊田氏自身に強く意識されないのか!?☆もしくは著しい自己言説の矛盾に気づいてはいるが、豊田氏は・そのままやり過ごす…それは、なぜなのか!?☆この点に関し、例えば以下のような妥当解釈が考えられるでしょう。

すなわち、SF作家ではあるが同時に「いい加減にしろ中国」や「北朝鮮とのケンカのしかた」などの本も執筆している排他的ナショナリストたる豊田氏は、最初から将来的な戦略的核武装の国家的念願を一貫して強く持ち、やがては日本の核保有に転用するために原発賛成で国の原子力エネルギー政策を支持してきた。☆そして、被爆国であり非核三原則に支えられた戦後日本の反核世論や、日本人に広くある原子力アレルギーの反発を考慮し、当面は「原子力の平和利用」という名目を前面に掲げた穏健路線で原発振興をやっていた。

ところが、東日本大震災による福島第一原発の事故が発生。☆原発反対の脱原発、原発に依存しない社会の方向に国内世論の大勢が動き出すと、将来的な日本の核武装リンクのために原発推進を唱え、国の原子力エネルギー政策を支持してきた豊田氏にとって、かなりの危機感。☆かつての「原子力の平和利用」なんていう、戦後日本人の反核意識や原子力アレルギーに配慮した表面上の「穏健な」原発推進路線は軽く吹き飛び、国の原子力政策そのものが否定されていく3・11以後の原発をめぐる否定的世論は、豊田氏には「深刻で緊急な」事態のため、いよいよ追い詰められて、彼が当初から一貫し保持してきた「原子力発電を転用し、日本の戦略核武装」達成死守のため、ついには悲しき本音の暴露↓↓。

日本の原子力発電所の原発技術は、「原子力の平和利用」などにあるわけはなく、「核や原子力エネルギーが軍事から切り離せないのは世界的常識」、「中露・北朝鮮が核保有の不安定な東アジア情勢を考えれば、日本の原発技術を活用して、将来的に日本が核武装を検討するのは当然のこと」、今や隠すことなく本音をバラす・なりふり構わぬ戦術転換。☆そんなところでは、ないでしょうか(^^;)。

福島の事故以降、今後の日本の原発のあり方をめぐって、豊田氏みたいな人は実際に多いです。☆「将来的な核抑止の外交カード保持のため、原発廃止すべきでない」とする、軍拡ナショナリストな立場からの原発擁護の意見。

例えば、櫻井よしこ氏。☆「脱原発論は、日本の安全保障の弱体化につながる。原発の廃止は核武装の可能性放棄を意味し、そうなれば中国や韓国・北朝鮮の思うつぼ」といった趣旨の発言、雑誌インタビュー(「サピオ」誌面)にて述べてた。☆櫻井さん、相変わらずな19世紀型の古いタイプの帝国主義的ナショナリストで、いつも彼女は非常に分かりやすい(笑)。

さて、散々長くなりましたので、そんな櫻井よしこ氏も含め、豊田有恒氏並びに豊田氏に共感・賛成の方々に、次の二つの素朴な疑問というか質問を・ぶつけて、この記事を終わらせることにしましょう。☆何しろ私、素人で無知な「チンピラ☆馬鹿」ですから(^^;)、どなたかに・ご回答ご教示いただけると、ありがたいです。

(1)福島での深刻な事故にもかかわらず、以後も原発の継続稼働や国の原子力エネルギー政策の堅持を強く求める主張の背景には、「当面は原発で原子力にリンクしておいて、やがては日本の核武装につなげる構想」が依然として根強くある。☆将来的な核武装への選択可能性を放棄させないために、今後とも原発維持を続ける…。☆廃炉や事故対応、核廃棄物処理、はたまた発電コストや二酸化炭素排出量でも、今や原発が、他の発電方法より優れていないことが明白になりつつあるのに、「発電」という原子力発電の本来の目的意味から大きく外れた所で、つまりは、将来的な核武装の選択カード温存のために原発存続の推進を訴える…これは非常に遠回しで屈折した・いびつな議論ではないのか!?

(2)そもそも戦略的核武装など国家が軍備増強に乗り出すのは、何のため!?☆国民の生命や財産の安全、国土を守るためではないのか。☆しかるに、将来的な核武装の可能性を放棄しないために原発稼働を続ける。☆そして、ひとたび地震・津波により深刻な放射能漏れ事故を起こしたら、原発周辺地域は強制避難の強制退去で、国民の生命・財産の安全は著しく脅かされて、国土も汚染され荒廃する…。☆原発推進が核武装で実を結び、核抑止で事前に他国の攻撃・侵略を防ぐ目的を達成する以前に、地震大国の日本で自然災害により原発が事故を起こし被曝・汚染したら、わざわざ諸外国が直接的に軍事圧力を加えなくとも、日本国民や日本の国土は他国から先制核攻撃を受けたのと同様な悲惨な状況に勝手に自業自得に自爆で陥る…それって日本という国、あまりにも愚かで滑稽すぎやしないか!?

3・11の未来――日本・SF・創造力
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その後の豊田有恒(2)「日本の原発技術が世界を変える」

4454c822.jpg豊田有恒氏、お元気なんでしょうか?☆豊田氏、2010年12月に原発肯定・推進の本である、「日本の原発技術が世界を変える」を上梓する。☆しかし、年が明けての2011年3月、東日本大震災で福島第一原発が放射能漏れ事故を起こす↓↓。

個人的には、かつての原発推進派たる豊田氏の・その後の考えを知りたいところですが、いまだ何ら聞かれず…。☆豊田有恒氏、この人は福島の事故後・どこかで公式に発言したり(インタビュー受けたり・対談したり)、何かに文章書いたりしてるんでしょうか!?

今さらながらに思うのは、「日本の原発技術が世界を変える」、スゴい本ですね(^^;)。☆一応、念のために言っとくと、別に私は福島の事故が起こったので、結果論から・かつての原発推進派を糾弾し吊し上げて彼らの反省や弁解を積極的に聞きたい…とかでは全然なくて、あの本には照らいなく・極めて無邪気に無防備に、原発推進派の精神的病理が現れ、凝縮されてる感じがするんです。

例えば、原子力発電の問題点の一つ、まさかの放射能漏れ事故という万一のカタストロフなクライシスを背負いながらも、そういったリスクに目をつぶる…あえて無視する…「想定外」として起こりえないことにする…その上で何としても強引に原子力発電を進めようとする、電力会社や原発推進派の姿勢など。

前回記事にて、「日本の原発技術が世界を変える」の軽い感想を書きましたが、だから繰り返しになりますけど(^^;)、この本のミソというかポイントは、ずばりタイトルです。☆すなわち、本書で豊田氏が「自分は原発推進派ではなく慎重な懐疑派、むしろ批判派」って趣旨の断りを・いくら入れても、実質は原発賛同の強力推進派なわけです。☆それは、彼のなかで「日本の原発技術」を「世界」に輸出し、国内不況打破の日本経済活性化の切り札にしたい、さらには国際的な原発利権の体制を日本主導に「変える」官民挙げての日本の原発技術の強力な海外売り込みの意図が一貫して強烈にあるからだと思います。☆だから、タイトルが「日本の原発技術が世界を変える」なんです。

本のなかで「日本の原発技術は、かなり高度である」とか、「原発技術を通して日本は世界に貢献できる」とか、「原子力ルネッサンスの世界的なトレンドに、日本が乗り遅れてはならない」など、いくらソフトな語り口で述べても、結局は「原発商戦で金もうけ」の論理なんです。

そういった「何はともあれ、日本の原発を海外に売り込みたい」強い意図があるから、例えば・原発そのものの安全性に関する議論も非常に恣意的な、いびつなものになる。☆本書で「世界一安全な日本の原発」=「日本の原発の非常停止は、運転7000時間あたり、0.07回という驚異的少なさだ。この数値は世界一低いのだ」とか述べてますが、こんなのは「故障の非常停止が少なく、持続して発電できるので日本製の原発は優秀」っていう日本の原発の発電効率のセールスポイントを・ただ単に言ってるだけ↓↓。☆「世界一安全な日本の原発」なんて到底・言えません。

そもそも日本製に限らず、放射能を閉じ込める原発施設そのものが構造的に地震や津波、その他・非常時の電源喪失のブラックアウトみたいな、まさかの「想定外」のカタストロフな危機のとき、本当に原子炉を安全に制御コントロールして停止できるのか…果てしなく怪しいわけです。

ここにおいて、原発推進派の精神的病理の一つは、「技術の確実性とか安全性への熟慮を抜きにして、目先の利益や金もうけなど、手っ取り早く自分たちの損得勘定に突っ走る軽薄さ」だと私は思います。

原発推進派の精神的病理、「技術の確実性とか安全性への熟慮を抜きにして、目先の利益や金もうけなど、手っ取り早く自分たちの損得勘定に突っ走る軽薄さ」っていうのは、(豊田氏のような)官民一体プロジェクトによる海外への原発のセールス売り込みで儲けの論理のみならず、日本国内での原発新規建設の地元説得の際にも、一貫して推進派の病理として感染拡大します。

地方での原発建設と引き換えの見返りに、国が交付金バラまいたり、電力会社が地元に豪華施作って贈呈したりで、住民らの「手っ取り早い自分たちの損得勘定」が働いて、人口密集の都市部では・まさかの危険性から絶対に建設できない原発関連施設を何なく受け入れてしまう、懐柔させられてしまう地元住民の悲劇なんて、それこそ日本全国・至る所でざらにある、よく聞く話です。

原子力発電そのものの問題点である、万一の放射能漏れ重大事故とか、原発労働従事者の健康問題とか、使用済み核燃料の最終処分の行方とか…あえて無視して、手っ取り早く自分たちの目先の利益や金もうけで、とにかく強引に推進する。☆豊田氏が「日本の原発技術が世界を変える」っていうのも、結局は原発商戦で日本が勝ち抜いて海外で契約結んで儲けを取りたい…国際的な原発利権の既存の構図を日本中心に塗り変えたい…っていう。

また、その際にはSF作家なのに、なぜか「嫌韓流まがい」の本も執筆し、執念深く出してる(「いい加減にしろ韓国」など)、感情的・排他的ナショナリストたる豊田有恒氏のもう一つの側面も見るべきでしょう。☆韓国や中国など、他の原発売り出しライバル国に対する豊田氏の子どもじみた対抗心が笑っちゃうくらいスゴいですから(^^;)。

豊田氏、本書の中でズバリ述べてます。☆「日本のような技術力もあり、経済力もある国が、核武装をまったく検討すらしないということは、国際常識からしても、ありえない」。☆こういった「今後・日本も核武装を検討するべき」という発言って、元々・自民党政権下で原発建設を始めて国のエネルギー政策として原子力の活用に乗り出す当初の考え、「発電」の平和利用だけでなく、「例え今すぐにではなくても将来的には日本も核兵器もって核武装したい」、かつての自民党保守政府の考えと見事に重なる。☆そういった戦略核転用のための布石として、「とりあえずは原子力にリンクしておきたい」自民党政権の政治的な動機から、もともと国の原子力事業は始まってるわけです。☆「原子力エネルギー政策」とか、表向きソフトな言い方になってますけど。

だから、本書における豊田氏の、原発を通して「抑止力として核武装するという選択肢をちらつかせながら」「日本は、その気になれば、いつでも原潜を配備したり、核武装したりできるという点を、大いにアピールする必要も生じる」とする、近隣諸国への熱烈な対抗心、彼のナショナリストな見識にも私は注目すべきだと思う。

以上のように、原発推進派の精神的病理というのは、「原発でひと儲けの目先の利益に突っ走る・損得勘定の軽薄さ」と、「やがては日本も核武装を!それへの転用を・にらんだ上での原子力事業の推し進め」なわけです。

ゆえに、万一の放射能漏れ事故のリスクがあって、いくら被曝や環境汚染の危険性を言われても、実は日常発電時のみならず、事故発生時の補償や廃炉によって他の発電方法よりも原子力の方が明らかにコスト高と指摘されても、さらには使用済み核燃料の最終処理方法が確定してなくて「原発はトイレのないマンションだ」と揶揄されようとも、政治家・官僚・企業・地元による、前者の「損得勘定ズブズブの利権群がり」があるから原発は止められないし、後者の「戦略核武装の国家的念願」もあるから、国のエネルギー政策としても原子力を簡単には放棄できない。

そして、豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」。☆この本は、原発推進派の推進派たる理由動機=「金もうけ」と「核武装」の二つを・あまりに無邪気に無防備に、隠すことなく天真爛漫にポロリと本音で語っている。☆やはり、ずる賢いわきまえ・ある(?)歴代自民党政府やら、原発製造売り出しメーカーなら、これら「日本の核武装」の念願と「金もうけ」の本意は、慎重に隠して・これまでもなかなか言わなかったですし、今後もおおっぴらに、「たとえ原発の放射能漏れの重大事故が起こっても、それでもなお原発を推進し続けたい理由」は、なかなか公言しないでしょう。☆どこまでも「原子力は国のエネルギー政策の一環だから簡単には放棄できない」みたいな、あいまいな言い方で逃げて、現在の国内原発の維持と原発の新規建設や海外への売り込みを・これからも懲りずにやるでしょう。

しかしながら、豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」。☆この本は、自民党政府や原発売り出しメーカーが従来から必死に隠したがる、原発推進派の推進派たる理由動機=「金もうけ」と「核武装」の二つを・あまりに無邪気に無防備に、隠すことなく天真爛漫にポロリと本音で語っている。☆冒頭で指摘したように、原発推進派の精神的病理が本書には遺憾なく現れ、見事に凝縮されてる…だから、ある意味・笑っちゃうくらいの「名著」だっていう(^^;)。

日本の原発技術が世界を変える(祥伝社新書225)
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豊田有恒(1)「日本の原発技術が世界を変える」

1ce1d908.jpg2011年3月11日、福島第一原発の事故が発生して、いわゆる「原発安全神話」が崩壊し、以前・各地域の電力会社の原発推進CMに出演してた「クリーンエネルギーでエコ、二酸化炭素を排出しない環境に優しい原子力発電」をテレビで呼びかけてたタレントさんたちの複雑な気持ちが非常に推し量られる昨今ですが(^^;)、「日本の原発技術が世界を変える」の著者、豊田有恒氏も、今現在・同様に複雑な心境でおられるのではないでしょうか。

この本は震災前(2010年12月)に出された、どちらかといえば「原発推進、原子力発電の効率性と環境負担の少なさ、安全性のメリット」を前面に押し出して述べた本。☆豊田有恒氏、本来はSF作家で本書を執筆時、「原子力振興財団」理事(非常勤)の役職にあります。☆本のなかで「またぞろ体制の走狗といった悪口が聞こえてきそうだが、実は無給である。まったくの名誉職でしかない」と言っており、だから・まず「原子力発電に賛成、原発推進すべき」という、この人個人の確固たる考えがあって、何としても原発推進したい特定政治家や電力会社の意向を汲んでとかではなく、自身の個人的立場から信念持って執筆してる感じ、本全体から受けます。

先日読んだので、以下・軽い感想など。☆あくまでも私個人の、いくぶん恣意的勝手な「印象批評」の感想で、正確に本書の内容要旨をバランスよく全て公平に・すくっているわけではないです。ご注意ください。☆もともと原発の話は、推進派と反対派のお互いに譲らない強い対立が昔からあって、非常にデリケートな問題なので、皆さん、各自で読まれたほうが良いですよ(^^;)。

震災後の福島第一原発の放射能漏れ事故を受けて読むわけですから、「これまで原発賛成で推進派の人が、原発の安全性や安全対策について、どのように述べていたのか!?」、個人的には、その点を気にしながら読み進めてしまうわけです。☆それで結論からいうと、日常的な稼働時ヒューマンエラー以外の、大規模地震や活断層の揺れ、津波などによる被害を想定し、それらに対して「大丈夫」とか「問題ない」とか「安全性は守られてる」みたいな記述は、ほとんどない…。☆せいぜい2007年、新潟中越沖地震での柏崎刈羽原発の事故トラブルに軽く触れる程度(129~131ページ)。

むしろ、この人の場合、「世界一安全な日本の原発」の節で「日本の原発の非常停止は、運転7000時間あたり、0.07回という驚異的少なさだ。この数値は世界一低いのだ。2位のドイツでも、0.12回、日本の倍近い頻度である」。☆結局、本書にて「原発は安全」と主張する際、日本他国と日本の原発技術を比較して、「日本の原発は格段に安全で、他国のものよりは優れてる」っていう言説に・だいたい帰着する。

すなわち、「機械の非常停止が何時間あたり何回で、日本の原発は故障が少ない、だから日本の原発は世界一安全」っていう安全性の主張は、「原子力発電において、リスクやコストが少なく効率的に発電を持続できる」っていう日本製原発の効率性能のセールスポイントを、ただ単に言ってるだけであって、今回の福島第一原発の事故のように、まさかのとき、まさに電力会社がいう「想定外」のときに、「どれだけ原子炉を安全に制御できて、原発を万全にコントロールできるか」といった、カタストロフなクライシスに関する考えが全くない。

というのも、本のタイトルから・すぐに想像できるように、豊田氏の本書を執筆する動機に「日本の原発技術を海外に輸出して、日本経済活性化の切り札にするべき」という考えが、かなり強くあるからだと思う。☆だから、タイトルが「日本の原発技術が世界を変える」なんです。☆とにかく、まずは「日本の原発技術を世界に売り込みたい」意図が強烈にある。☆そのため、本文中で著者はフランスや韓国の原発・売り出しライバル国にヤキモキするし、そうすると原発そのものの安全性とか問題点(まさかのときの安全への憂慮や、現場で働く原発作業員の健康被害など)は、軽くどこかに吹き飛んでしまう…。

とりあえず「日本の原発技術が世界を変える」で、官民一体で日本の原発技術の海外への輸出・売り込みのセールス戦略が主眼になるから、「原子力発電は二酸化炭素排出が少なく、環境に優しい」とか「核兵器ではない、原子力の安全利用を」とか「日本は、いまや世界最高水準の原発技術を持つ存在…日本は原発を通して世界に貢献できる」、「原子力ルネッサンスの世界的なトレンドに、日本が乗り遅れてはならない」など、非常に耳障りのよいソフトな言葉だけが紙面に残る。

ここにあるのは、原発を振興・推進して日本製の原発を海外に新規建設して、日本経済の貿易の稼ぎ頭の目玉にする「原発商戦で金もうけの論理」が主。☆これまでの危うい原発現場での事故の歴史や、電力会社に都合の悪いデータ改ざんや隠ぺいの事例とか、それこそ近年の茨城東海村での臨界被曝事故のことなど(新潮文庫「朽ちていった命」は必読)、本書では・ことごとく後景にかすみます…。☆日本の原発ビジネスを阻害するような、従来の日本の原発の問題、原子力発電そのもののマイナス要因な話は、意図的に矮小化されて・ほとんど出てこない↓↓。

個人的には、「ファッションとなった反原発 」、「反原発の教祖誕生」の節(46~50ページ)が読み所ではないか、と思う。☆原発反対派の「H・T氏」のことについて、原発推進派の著者が書いてます。なぜか本文では匿名イニシャル表記、「反原発の教祖」の「H・T氏」とは、ズバリ、広瀬隆氏のことなんですけど(笑)。

今やもう福島第一原発が・あんな惨事に見舞われて、「原発安全神話」が崩壊して、強力な結果論から従来よりの原発廃止の反対派の人達は、「それみろ、やっぱり」みたいなことになってます。最近の広瀬隆氏の注目のされ方・持ち上げられ方とか、ちょっとスゴいですよ。☆その一方で、東京電力を筆頭に、かつて原発を地元に誘致した政治家や原発推進を唱えてた人々は、今は「何を言っても悪」みたいになってます。

でも、本当は、そんな善悪二分の色分けで興奮して互いに相手を感情的に攻撃するのではなく、原発賛成・推進派と原発反対・廃止派の双方の主張に冷静に耳を傾けることが大切なのではないか。☆そんなわけで、この・豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」を読んだ後に、広瀬隆「原子炉時限爆弾」を同様に読むの、なかなか面白いと思います(^^)。

日本の原発技術が世界を変える(祥伝社新書225)
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土門拳(4)「るみえちゃんはお父さんが死んだ」

1ce1d908.jpg土門拳「筑豊のこどもたち」には、続編があります。☆「母のない姉妹」で筑豊・井之浦炭鉱で父親と妹さゆりちゃんと、三人で暮らしてた・るみえちゃんのその後の写真。☆タイトルは、「るみえちゃんはお父さんが死んだ」。

従前の持病に加え、普段からの安い焼酎の飲みすぎの不摂生からか、るみえちゃんの父親が脳溢血で倒れ、突然亡くなる。☆その知らせを聞き、土門拳は筑豊・井之浦炭鉱の炭住に再び、るみえちゃん姉妹を訪ねます。☆しかし、姉妹は田川市の児童相談所に引き取られた後だった…。

だから、「るみえちゃんのお父さんは死んだ」の写真集の内容は、田川児童相談所の子どもたちを撮った内容になってます。☆特に、るみえちゃん姉妹ばかりを撮影してるわけでなく、相談所の他の児童も・まんべんなく撮ってる。

でも児童相談所とはいえ、やはり・そこは厳しい現実の世界。☆入所の児童には、なるべく私物を与えない。☆子どもたちの中で知らず知らずに序列ができて、強い子や年上の子が年下や弱い子の持ち物とったりするから(^^;)。☆また履き物は、はかせない…基本・裸足。☆靴があると、そのまま脱走するから。☆一度脱走して児童相談所に連れ戻された年長女子が先生に怒られ、泣きながら説教くらってる写真、載ってます。

るみえちゃんと・さゆりちゃんも、井之浦から児童相談所へ連れて行かれる時、「ここにいるんだ」と泣き叫び、後に児童相談所を無断で出て、井之浦の炭住の自分たちの家に帰ろうと夜道の暗がりの峠を姉妹二人で歩いてるところを、地元のバス運転手に発見され、施設に連れ戻されてる…。

それから・しばらくして、出稼ぎに出たまま音信不通だった姉妹の母親を児童相談所で探し、るみえちゃんたちは無事・お母さんとの再会を果たします。☆母が出稼ぎに出てから実に六年ぶりの対面…。☆「笑顔で話しかける母親に対して、姉妹は・かたくなにおし黙っていた。三時間もおし黙っていた。しかし、母の記憶のない・さゆりちゃんがまず母親のひざへ近寄って行き、やがて、るみえちゃんも『母ちゃん』と・かすれた声でつぶやくようになった。母親は二人のこどもを抱きしめて泣いた」。

さらに後日、「きっと迎えにくるから」と約束した母親に向けて書いた、るみえちゃんの手紙の一部抜粋。

「おかあさん、お元気ですか。…はやく・むかえにきて下さい。るみえも・さゆりも・おかあさんが・むかえにくるまでまってます。おかあさん、からだに気をつけて・しごとにいって下さい。さむくなったり・あつくなったりするので・とくに気をつけて下さいね。…お母さん、お父さんが・しんだときのことをしっていますか。お父さんは、ぼんの十五日のあさ・たおれたのですよ。そして・いしゃにみてもらいました。ところが、しんぞうまひで、ばんの八時半ごろ、お父さんは・いきをひきとってしまいました」

るみえちゃんの手紙の後半、「お母さん、お父さんがしんだときのことをしっていますか」。☆父の最期の様子を・あえて詳しく、るみえちゃんが母親に説明するくだり…。☆筑豊の炭住で困窮極めた生活ながらも、一緒に暮らした父親への愛情と思慕。☆そして、出稼ぎに出たまま音信不通で、六年ぶりに名乗り出た母親に対する、少女の・かすかな無意識の復讐…。☆本当に申し訳ないんですけど(^^;)、私なんかは・それを、るみえちゃんの手紙から勝手に感じてしまって、非常に複雑な思いです…。

さて、「筑豊のこどもたち」と「るみえちゃんはお父さんが死んだ」の土門拳の一連の仕事に関し、桑原史成氏とのことに全く触れないわけにもいかないので、最後に書いておきましょう。

これは割と有名な話で、土門の全集刊行時に桑原氏が寄せた文章にて、当時・まだ学生だった桑原史成が土門と同時期に筑豊の井之浦炭鉱に入り、実は同様に・るみえちゃんの写真を撮っていた。☆土門拳は、どうも他の写真家が、すでに・るみえちゃんを見つけ、写真を撮ってること知って、その先取権を主張するために、筑豊での撮影から写真の雑誌発表までを異常に急いだフシがある。☆それで、土門が「筑豊のこどもたち」を急いで雑誌発表した後、桑原氏が・るみえちゃん姉妹の掲載写真を見て、「しまった!先を越された」。☆挫折と敗北感に打ちひしがれるわけです。☆彼はその後、水俣に旅立って、水俣病患者をずっと撮り続け、自身のライフワークの大きな仕事にしていきますけど。

同じ被写体を同様に他人が撮っているなら、自分が撮った写真を早く発表して既成事実を作り、被写体の先取権を主張する。☆例え相手が無名のアマチュア学生であっても、「若い芽は全力で摘み取り、容赦なく若手を潰す」大人げない、プロカメラマンの土門拳(笑)。

でも、もし仮に桑原史成が・るみえちゃん姉妹の写真を先に世に出し公表してたら、果たして土門拳のように、その写真集が多くの人に見られ、社会で話題となり、姉妹に対するカンパの援助が全国から集まったり、何しろ「るみえちゃんはお父さんが死んだ」は映画にまでなってますから、そこまで世間の人々の注目や関心を惹いたかどうか…非常に微妙で難しい問題だと思います(^^;)。

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筑豊のこどもたち〈続〉るみえちゃんはお父さんが死んだ―土門拳写真集 (1960年) [-]
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