アメジローの超硬派的書評ブログ

アメリカン・ショートヘアーのアメジローです。☆書評が中心。その他、音楽や映画のレビュー・感想なども。

いつもコメントありがとうございます。☆頂いたコメントは全て読んでいますが、基本的に個々のコメントに対し返答はしていません。

岩波新書の世界(128)石母田正「平家物語」

72e875bd.jpg歴史上の古典文学は、主に文芸批評と歴史学研究との二つの論者から読んで評せられる。☆これまでの個人的な読書経験からして、軍配があがるのは歴史研究者の方である場合が多い。☆かたや文芸批評家の古典読解は、しばしば残念な結果になりがちである。

例えば本居宣長について、小林秀雄「本居宣長」(1976年)を以前に読んだとき、私はあり得ないと思った。☆周知のように小林秀雄は抽象的な理論考察ができないから小林の文芸批評は、だいたいいつも・つまらないものに終わる。☆本居宣長に関しては、永田広志や松本三之介ら歴史学の思想史研究からする国学研究の方が優れており、読んで学ぶべきものがある、と私には思えた。

「平家物語」にしても、そうだ。☆文芸批評の小林秀雄の一連のものよりは、歴史学者の石母田正(いしもだ・しょう)の仕事の方が優れている。☆そのことは岩波新書の青、石母田正「平家物語」(1957年)を一読すれば明白だ。☆念のため、ここで「平家物語」の概要を確認しておくと、

「平家物語は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱・平治の乱勝利後の平氏と敗れた源氏の対照、源平の戦いから平氏の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文で知られ、盲目の琵琶法師が平曲として語り継ぎ民間に普及した。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている」

そして、岩波新書の石母田「平家物語」の構成といえば、「第一章・運命について、第二章・平家物語の人々、第三章・平家物語の形式、第四章・合戦記と物語、むすび・平家物語とその時代」となる。

本書「平家物語」を含めて、一般に石母田正の著作は難しい。☆それは石母田が、冒頭の序説より全体を見渡せない、先の読めない細かな細部の実証記述から入ることによる。☆例えば、石母田「中世的世界の形成」(1946年)など典型だ。☆この人の書籍は読み始めて、序盤からの細かな部分詳説の議論に圧倒され、読者は早くも心が折れそうになる。☆しかし、そこを我慢して辛抱強く読み進めると序盤の精密な細部の実証の伏線がどんどん回収されていき、石母田の著作はやがて視界が開けて、その全体像が明瞭になってくる。☆結果、学ぶべきものが多くあるのだから、「とりあえず石母田正の本は読み始めの最初から分からなくても、我慢し辛抱して読みつづけろ」といったところか。

そういうわけで、岩波新書の石母田正「平家物語」も、冒頭最初の章から硬質な文章にて、なかなか細かな全体の見えない内容記述に圧倒させられる。☆なかには、「本新書を読むには、そもそも『平家物語』全十二巻の原典を読んでいなければ理解できないのでは」と読み始めの中途で思う読者もいるかもしれない。☆しかし、そこは安易に・あきらめず断念せず根をあげずに、とりあえず石母田「平家物語」の最後の「むすび・平家物語とその時代」が本書の全体像を示す・まとめ記述になっているのだから、律儀に最初から順番通りに読まず、この際、まず最後の「むすび」の章から読み始めることを、お薦めする。

最終の「むすび・平家物語とその時代」にて、石母田は「平家物語」に関し、主に三つの対立評価の見方を挙げる。

(1)治承・寿永の乱の叙事詩たる「平家物語」は、中央での源氏と平氏の棟梁間の、いわゆる武士エリート同士の源平の争乱を物語的に描いている。☆と同時に、中央以外の地方でも国衙の権力や荘園の領家や在地の領主間でも利害をめぐる争いがあり、地方勢力の武士層からの中央権力への叛乱もあって国々は乱れており、時代全体の混乱を反映して、ゆえに歴史学的な古代末期の時代の内乱を「平家物語」は語りの基礎背景にもしている。

(2)源氏の興隆を主題とせずに、平氏の滅亡の方をあえて主題に選択する「平家物語」は、人間の力ではどうすることも出来ない、運命の支配に必然的にともなう悲哀の情を主題としている。☆そこには人力では如何ともしがたい、振り払っても避けられない人間の宿命甘受の一種の厳しさ、深刻さ、厳粛さの悲しみの暗さがある。☆また生あるものは、すべて滅びる、すべてのものは移り変わる(諸行無常、盛者必衰)無常観、詠嘆の感傷主義もある。☆しかしながら、それと同時に、どんな巨大な力も運命が来れば死ぬしかないのだから、むしろ運命の前で人間の無力さを笑い飛ばす無邪気な現世の明るさと人間の生の面白さの描写、また来世への期待や賛美、そこへの逃避による現世における運命の厳しさの中和・弱化の側面もある。

(3)日本の古典文学である「平家物語」の歴史的位置づけについて、「平家物語」は、政権中枢に属する武家の近親や側近間の人的関係を描き、それまで以前の王朝の主情的な物語文学の世界と直接に連続している古代文学の特徴がある。☆と同時に、この時代の地方の諸階層や新たに登場してきた人間達の凄まじさを描き出し、単なる記録にとどまらない有機的で物語的な年代記的叙述の工夫などは古代文学のそれではなく、中世文学の第二次的な叙事詩としての特徴を様々に備えている。

そして、ここが石母田の優れている所、岩波新書「平家物語」にて、まさに読まれるべき所であるのだが、それら主な三つの対立を列挙しながら、あえて択一し片方のみを肯定して他方を否定したり無理矢理に統一や止揚させたりすることなく、対立の矛盾のまま放置しておく。☆そうして、それら列挙され放置されたままの対立矛盾が、そのまま古典文学たる「平家物語」を通しての人間生のはかなさや人間存在の無力さ、人智を超えたものの・はからい、ゆえに人力ではどうすることも出来ない人の世の・わびしさと現世における人間の生の開き直りの積極性の明るさ、悲劇と安心の運命・宿命の甘受、古代文学からの継承と中世文学としての革新といった物事の両側面を複雑に多面的に照らし出して読む者に強く感じさせる。☆そういった仕組みの仕掛けである。

古典文学の「平家物語」の成立と形式と内容記述にこだわって、ここまで・いちいち細部に引っかかり深く掘り下げて一冊を書き上げる石母田正に私は感服する。☆岩波新書「平家物語」を始めとして、石母田の著作を読むたび、「常に手強い相手と取り組むことを通じて自らが鍛えられ結果、向上できる」人生の真理を私は実感する。☆石母田正の著作は、精読して正確に理解するには時間がかかるし労力も要る。☆しかし、読む者は確実に鍛えられる。

岩波新書の世界(127)小林丈広「京都の歴史を歩く」

72e875bd.jpg岩波新書の赤「京都の歴史を歩く」(2016年)を一読しての感想は、「岩波が京都の観光案内本を作ると、このような真面目で硬派な観光ガイド本になってしまう」の期待通りの良読後感である。

本書は三人の京都の歴史学者による共著であり、それぞれ、小林丈広(同志社大学文学部教授、専攻・日本近代史・地域史)、高木博志(京都大学人文科学研究所教授、専攻・日本近代史)、三枝暁子(立命館大学文学部准教授、専攻・日本中世史)の三人、京都の歴史と地理に造詣ある・こなれたプロの人達の仕事である。☆本書執筆にあたり、対象とする京都の「道」や「場」を実際に訪れ議論を積み重ねて完成までに、まる六年の歳月を要したという。

私は誠に幸運なことに、京都の大学に進学できて数年間、学生生活を京都で過ごすことがてきた。☆大げさにいって、それは自分の人生の宝となり得た。☆いまでも京都のことはよく思い出すし、町の様子も比較的よく知っている。☆岩波新書「京都の歴史を歩く」には、散策奨励のモデル地図が各章ごとにあり、京の町並み通路を題材に京都の歴史を語る体裁になっている。☆紙面の文字を読んでいても、以前に通った、その場所のことが想像でき分かってしまう。

「京都の歴史は、それぞれの時代で変容し、今日の観光言説や京都イメージも近代につくられた部分が多い。…中央、男性、天皇・貴族に対して地方史、女性史、部落史の視点が重要であり、特権化された京都論ではなく、日本史の全体像や『地域史』のなかでとらえるべきものであろう。そして史料に裏づけられ、辛口で批判的な、手に持って歩ける歴史散策の書をつくりたいと考えた。本書では、『道』と『場』という二つの視点にこだわった。大津から三条大橋にいたる東海道や、中世までの五条通であった清水坂、洛中洛外図屏風の中心軸となる室町通など、それぞれの主題を持った『道』と、京都御苑や北野、北山、嵯峨野、岩倉といった人々が生き、集った『場』を歴史的に位置づけたいと思う」(「はじめに」)

京都に限らず、どの地に行っても観光旅行というものは、だいたい二部構成である。☆少なくとも私の場合そうだ。☆まず最初は朝から夕方まで景勝地や神社・仏閣などを真面目に観光する。☆しかし日暮れが近づいて辺りが暗くなるにつれ、そうした観光の真面目さに耐えきれなくなって、繁華街に繰り出し買い物をし食事をして、その後さらに飲みに行き、知らない土地での解放感からか毎回はめを外して大いに飲んでしまう。

岩波新書の赤「京都の歴史を歩く」は、京都旅に関し、そういった二部構成のうちの最初の真面目な第一部の町歩き散策観光ガイド本として有用である。☆これなら新書を片手に京都観光をしながら京の歴史を追体験できる。☆「本新書を携帯し、ふらりと京都に遊びに行き町を散策してみたい」と読む者に思わせる。☆そして京都旅の第二部は、寺町通と木屋町と祇園の夜の京都の街を・はしごで私は飲み歩くだろう(笑)。

岩波新書の世界(126)石原真「AKB48、被災地へ行く」

72e875bd.jpg秋元康がプロデュースのアイドル・グループ「AKB48」について、私はCDを購入したりライヴに参加するようなファンではなく、またアイドル全般にも・それほど明るくないが、しかし世間並に知ってはいる。

AKB48のメンバーの指原莉乃の実家が近所にあり、以前に指原さんの親族と知り合い仲間のグループと飲み屋で隣のテーブルに鉢合(はちあ)わせたことがあった。☆こちらも普通に楽しく飲んでいて、店内の皆が酒が入ってよい頃合いに酔って気分よくなっており、個室でないので隣のテーブルの話し声の大声が、別に・こちらは聞く気はないのに通路を越えて自然に聞こえてしまう。☆とりあえず、親族や知り合い一同が指原さんを全力で応援していて、皆に妙に自信と勢いとがある(笑)。☆「身内から映画スターやアイドルなど、芸能人が出て社会的成功を収めるのはスゴいものだな」の感慨を率直に私は持った。

岩波ジュニア新書、石原真「AKB48、被災地へ行く」(2015年)の概要は以下である。

「アイドルとして自分たちの出来ることをやろう!AKB48グループの東日本大震災での東北の被災地訪問活動は2011年5月から、毎月1回一度も欠かすことなく続けられている。即席のステージで行われるミニライヴや握手会に参加したメンバーの数はのべ450人以上にのぼる。さまざまな形で続けられる被災地の人々との交流。メンバーたちは、どのような思いでこの活動に参加し何を感じているのか?メディアで取り上げられることの少ない、人気アイドルたちの知られざる活動をこれまで公開されていない多数の写真とともに紹介する。アイドルの知られざる活動の記録」

本書は、岩波新書であるにもかかわらず、カラー写真掲載が多い。☆新書ではなくて、まるで写真集のような鮮やかな紙面である。☆いつもの読み慣れている岩波新書とは少しばかり勝手が違う(笑)。☆アイドルのライヴ・ステージや被災地の人々との握手会や記念撮影などの交流写真が主で、とても華やかである。☆とりあえずAKB48のアイドル衣装が目を惹(ひ)く。☆本書だけでなく普段、テレビや雑誌などで見ていた時から個人的に密かに感心していたが、素人目にAKB48は衣装が良いと思う。☆一般の学生服のブレザーなどを派手に大胆に改変した若者風の衣装などだ。☆しかも一人だけでなく、大人数でそろえて着用すると一層インパクトが出て非常に映(は)える。☆被災地訪問にてもメンバーはアイドル衣装着用であるが、本書に掲載されている多くの写真を見ていて、私はなぜか衣装に目がいってしまう。☆衣装のバリエーションも多種多様、実に多い。☆アイドルAKB48の衣装担当の方は、きっと大変であるに違いない。

「AKB48、被災地へ行く」といった、アイドルの被災地訪問活動はボランティアに該当する。☆ボランティアの定義といえば、とりあえずは「自発的、無償性、社会的に役立つこと」の三点である。

まず何よりもボランティアは「自発的」でなければならない。☆無理矢理に強制的に動員参加させたり、ボランティア従事者から「実はノルマを課せられて嫌々来ました」とか、「ボランティアに参加することで単位認定されるので、本意ではないけど活動参加してます」などの申告があれば、それはもう失言以外の何物でもなく話にならない。☆またボランティアは「無償性」であるべきだ。☆直接に金銭を要求しなくても、活動の見返りとして何か物品寄与されたり、食事や寝床を外部からボランティアに入った人達が現地の人に暗に要求したり、結果的に現地の人がボランティア人員に提供せざるをえなくなる状況に至るのもよくない。☆そうならないようボランティア従事者は事前に考えて活動参加するべきだ。☆「ボランティア活動履歴があることで、後の自身の進学や就職や昇進に有利になるから」の下心を持ってやるのも、「ボランティアは無償性」の定義に反する。

さらにボランティアは「社会的に役立つこと」でなければならない。☆役に立たずに逆に迷惑をかけたり、作業を遅延させる行為につながることがあってはならない。☆最近の笑い話で、災害被災地への救援支援物資に・わざわざ千羽鶴や励ましの寄せ書き色紙を送るなど、さすがに・これは笑い話なので実際にはないらしいが、仮にそうしたことをするのは、現地の人達にとって全く社会的に役に立たず、ただ単に迷惑なだけなので(千羽鶴や寄せ書き色紙を送るくらいなら、むしろ水や食料や毛布など役に立つものを送るべき)、それは正しいボランティアとはいえない。

よく高校生への小論文指導でボランティアがテーマの課題の場合には、以上のようなボランティアの三定義「自発的、無償性、社会的に役立つこと」を必ず何らかの形で小論中に書き入れるよう促すのが、論文指導での常套(じょうとう)である。☆こうしたボランティアの三つの定義を述べずに、何となく漠然と「ボランティアはよいものだ。継続して参加活動することが大切」などと主張したり、はたまたボランティアに参加した際の自身の経験談を具体例として書き入れるだけでは、論点のぼやけた曖昧な論述になってしまう。☆そうしたボランティアの「自発的、無償性、社会的に役立つこと」の三つの要素を押さえて記述していない小論文は事実、採点評価は低くなる。

岩波ジュニア新書「AKB48、被災地へ行く」の著者は、石原真という人である。☆本書の奥付(おくづけ)を見ると、著者はNHK番組制作の人で、過去にAKB48グループのドキュメンタリーの映像作品を手がけた人であるらしい。☆本書は東日本大震災直後の2011年5月から始めた、毎月1回のAKB48グループの被災地訪問の詳細を2011年5月22日の第1回から2015年8月20日の第52回まで、訪問地やその時の参加メンバーなどを事細かに記録し書いている。☆その際、当日のライヴや握手会やステージ裏の写真、参加メンバーの発言や言葉に出来ない思い、彼女たちの涙と被災地の人々との交流や歓迎の様子を収めている。☆特に目立つのはアイドルの彼女らとアイドルを慕(した)って応援する子どもたちとの交流の姿で、文章を読んで写真を見て、さすがに心を打つものがある。

ただ震災被災地訪問に関し、前述のようなボランティアの三定義「自発的、無償性、社会的に役立つこと」に明確に触れていない点が、個人的に少し残念な思いもする。☆中高生ら若い人達が読むことを想定している岩波ジュニア新書として正直、物足りない思いがする。☆「メディアで取り上げられることの少ない,人気アイドルAKB48の彼女たちの知られざる活動を、これまで公開されていない多数の写真とともに紹介する」というように、著者の石原真は、派手で華やかに思われがちな人気アイドルの、定期的な被災地訪問という実は地道で継続的な活動の大切さの意味を強く読み手に訴えかける内容にしている。☆「そうしたボランティア的活動は継続して続けることが大切」以外の、「自発的、無償性、社会的に役立つこと」に絡めたボランティアの話の広げかたも論述の工夫次第で、いくらでも出来るはずだ。

本書には被災地訪問を通して、「自分たちはアイドルとして何かできることがあるのだろうか?」、「彼女たちは、どのような思いでこの活動に参加し何を感じているのか?」、著者の石原真以外の、AKB48メンバー自身の直接の声や手記も掲載されている。☆なかでも、HKT48メンバー宮脇咲良による一連記述の長い文章が心に残る。☆被災地訪問でのライヴ終わりに、津波で中学生だった息子を亡くした女性から「息子の為に1本でもいいので、お線香をあげてもらえますか?」と声をかけられ、そのまま仮設住宅にあるAKB48ファンであった息子さんの仏壇に宮脇らメンバーが焼香に行く話、宮脇咲良の手記がある(64―69ページ)。☆心のこもった、気持ちの入った非常によい文章だと私は思った。

岩波新書の世界(125)熊野純彦「西洋哲学史」

72e875bd.jpg古代から近現代まで書く抜く全時代の哲学史概説は、通常は数人で分筆してやる。☆特に現代にて、もう生粋(きっすい)の「哲学者」など・どこにも存在しないのだから、みな大学の文学部哲学科あたりに入学して必ず時代専攻と研究対象の過去の哲学者ないしは学派を選択し、そこで「哲学(研究)者」のキャリアから始めるからだ。☆今日、哲学史を書く人は誰もが自身の専門研究の時代や人物テーマを持って、そこを拠点に研究する専門分化の分業の様相である。

ところが、そうした状況の中でも哲学史を分筆でなくして、古代から近現代まで全て一人で果敢に書き抜く人が時にいるのだから、誠に恐れ入る。

岩波新書の赤、熊野純彦「西洋哲学史」(2006年)は全二巻で「古代から中世へ」と「近代から現代へ」の二冊よりなる。☆熊野が「西洋哲学史」を古代から近現代まで全時代を分筆ではなく、全て一人で書き抜いている。☆通常、「西洋哲学史」の全史を一人で著すのは当人にそれ相当な力量があると見なされなければ、そもそも出版社から企画の執筆依頼は来ないし、本人にもそれなりの自信の勝算がなければ、そういう大仕事は引き受けないものだ。☆ゆえに熊野の「西洋哲学史」全二巻は掛け値なしに面白い。

その面白さの源泉は、やはり熊野が一人独力で西洋の哲学の歴史をすべて執筆していることによる。☆同じ西洋哲学史にて今回の熊野純彦同様、全時代を一人で執筆した人は過去にいた。☆例えば、ラッセル「西洋哲学史」全三巻(1954―56年)や波多野精一「西洋哲学史要」(1901年)などだ。☆熊野の「西洋哲学史」の中でもラッセルと波多野の二人の名はよく出てくる。☆熊野は本書を執筆するにあたり、古代から近現代までの西洋哲学史を独力で書き抜いたラッセルと波多野の両著を相当に参考にし、また彼らをかなり意識していたに違いない。☆そのことは、熊野の書きぶりから察せられる。

本書の全体の印象読み味は、各章を主な哲学者ないしは学派別に分けて各巻15章ずつで全二巻の全30章が、従来哲学史のように哲学者の生涯紹介、主要著作の概要、中核思想の解説の定番ありきたりな通り一辺倒な解説では終わらない。☆あえて丁寧に易しく分かりやすい哲学史を記述しない。☆全てを分かりやすく解説し尽くさず、どこか含みを持たせた高踏的な論じ方にて不十分に、時に各人哲学者の哲学史のパートを終わらせる。☆昨今は、親切で丁寧な誰にでも分かりやすい解説説明の本ばかり・もてはやされ増えて、こういった不親切だが、読み手の機転や前知識の総動員を要請して自(おの)ずと知らしめる、「いかにも」な雰囲気のある間接叙述の粋(いき)な書籍が滅多に見られなくなった。☆そうした点も熊野「西洋哲学史」は今日貴重であり、読まれるべき長所といえる。☆全部を親切丁寧に言葉を尽くして誰にでも分かりやすく子細説明してしまっては野暮(やぼ)ということも、実はある。

かつ、各哲学者や学派各章を連続して読むにあたり、論述が単調繰り返しのマンネリにならないよう読み手を飽きさせないように各章の展開、頭の入り方記述などを毎章変える工夫が見られる。☆この点は再三繰り返しているように、古代から近現代までの「西洋哲学史」を数人の分筆ではなく、熊野が一人で書き抜いているからこそできる効用に他ならない。

本書の執筆に当たり、著者の熊野純彦は三つの方針を立てている。

「この本は、三つのことに気をつけて書かれています。ひとつは、それぞれの哲学者の思考がおそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能なしかたで再構成すること、もうひとつは、ただたんに思考の結果だけをならべるのを避けて、哲学者の思考のすじみちをできるだけ論理的に跡づけること、第三に、個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと、です」(「まえがき」)

第一の「哲学者の思考が・おそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能な・しかたで再構成すること」は、今日の哲学傾向や現代思想の潮流に関連づけて「西洋哲学史」の過去の歴史的思想を新たに捉え直すということだ。☆この点で本書にて象徴的なのは、例えば第二巻「近代から現代へ」の「第7章・言語論の展開」でコンディヤック、ルソー、ヘルダーの三人を一つの章にまとめて「言語論」の観点から扱っていることだ。☆特にルソーに関して一つの独立した章を設けず比較的軽く論じている所に、私は衝撃を受けた。

ルソーは偉大である。☆ルソーは歴史的に過去に遡(さかのぼ)り、「文明」による人間の疎外状況を摘出した
(「人間不平等起源論」)、マルクスに先駆けてある種の実践的哲学をなしたほぼ最初の人である。☆社会主義者も共産主義者も無政府主義者も左派の理論運動家は、最初にルソーを読まなければならない。☆ルソーから抽出できる思考は、まず理念があって(古代ギリシアのポリスの共和政とか中世自然法思想の伝統など)、その理念よりする現実の政治や社会状況の至らなさの不足(近代のフランス革命や啓蒙思想家らの現状)を徹底的に叩くというものだった。☆これはマルクスら、後の左派改革思想家に共通する基調の思考である。☆ゆえにルソーは偉大なのであった。

熊野「西洋哲学史」にてルソーが他の哲学者と三人まとめにされて言語論の視点から一括論述されるのは、熊野純彦が廣松渉の弟子であり、廣松渉その人が実体理念を先天的に想定して、そこから理念と現実との乖離(かいり)や理念実現の不足を批判する従来的な左派理論の思考を物象化的錯認として厳しく戒(いまし)める、実体論の立場を批判する関係論的立場に立つ廣松の哲学を熊野が正統に継承する人であるからに他ならない。☆ルソーに関する記述を始め、本書には先験的理念や規範の実在を批判する関係論からの、従来の実体論的な過去の哲学史を書き換えるような熊野の新しい哲学解説が目立つ。☆それが本書の魅力であると、まずは言える。☆まさに2000年代以降の新しい「西洋哲学史」の魅力が、そこにある。

第二の「ただたんに思考の結果だけを・ならべるのを避けて、哲学者の思考の・すじみちをできるだけ論理的に跡づけること」は、文字通り「ただたんに思考の結果」だけでなく、なぜそのような発想や思考に至ったのか、「哲学者の思考の・すじみち」を世界史の時代状況や他の哲学者や文学者らとの人的交流などに着目して哲学思想を総体的に論ずるということだ。☆これは「西洋哲学史」において以前にラッセルが積極的にやった。☆ラッセルの「西洋哲学史」は、副題が「古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との問題における哲学史」である。☆すでにラッセルの時点で、多くの哲学者たちは過去の哲学史を記述するにあたり、単に哲学の歴史だけを専門に視野狭窄(しやきょうさく)的に解説するだけでは不十分であり、「政治的・社会的諸条件との問題」の世界史的状況と関連づけて哲学史を立体的に考察しなければならないことに気づいていた。☆従来のように哲学の専門歴史のみを追跡するだけの哲学史は、その限界を知らされていたのである。☆ただ哲学を専門に個別に述べるだけでなく、哲学思想も時代の歴史に影響を受けたものであるから、その時代の政治体制や社会的事件と結びつけて考察されねばならない。☆それをラッセルは、やったのであった。

一読して即わかるが、熊野の「西洋哲学史」は、ラッセルの「西洋哲学史」を相当に意識し参考にして執筆されている。☆この意味で、熊野「西洋哲学史」とラッセル「西洋哲学史」との読み比べをやってみるのも、また一興(いっきょう)、味読の読書の楽しみではないか。

熊野「西洋哲学史」は歴史上の哲学者や学派、主な人物別に全30章からなる構成である。☆第三の「個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと」については、各章の扉ページに原典テクストから任意の一文が引用され掲載されている。☆過去に「哲学史」と名のつく概説書を読んで、「この著者は自分の専門以外の時代や人物や学派について実際に原著を読んでいないのではないか!?もしかしたら他の哲学史書籍から引き写して適当にまとめているのでは!?」との不信感を抱かせる、専門プロの哲学(研究)者として・あるまじき怪しい記述の「哲学史」を私は過去に何冊か読んだことがある。☆各章の扉にその哲学者の思想を象徴凝縮したような資料テクストからの一文引用がある熊野の「西洋哲学史」は、そういった世間に出回っている、直接に原書も読んだことがないのに、あたかも分かったふりをして、それとなく概説的に語る怪しい哲学史と自身の「西洋哲学史」とが違うことを予防的に表明している点でも優れている。

また具体的なテクスト引用にて、著者の熊野純彦の選択判断が実に冴(さ)えている。☆例えば「近代から現代へ」の第二巻における、「第4章・モナド論の夢」では、「すべての述語は、主語のうちにすでにふくまれている・ライプニッツ」、「第11章・批判知の起源」では、「かれらは、それを知らないが、それをおこなっている・ヘーゲル左派・マルクス・ニーチェ」の一文引用となっている。☆ライプニッツの哲学が、アリストテレス以来のヨーロッパ哲学の伝統たる「主語と述語」の文法に則(のっと)って存在論を考察展開させることを継承した、そのことが明確に伝わる一文を適切に引用している点、他方、ヘーゲル左派やマルクスの哲学の一つの柱の目玉が、いわゆる「イデオロギー暴露」であり、イデオロギーとは虚偽意識のことであって、まさに皆が「それを知らないが、それをおこなっている」ことがイデオロギー作用であることを鮮やかに指し示す短くも的確な一文を鋭く選択して引用している点が、それぞれに非常に印象深く、「熊野純彦は相当にデキる人だな」の好印象が読後の余韻として後々まで残る。

岩波新書の世界(124)山折哲雄「『教行信証』を読む」

72e875bd.jpg親鸞評伝や研究に対し、私は論者の名前を頭に置いて「××親鸞」という呼び方をしている。☆例えば、「親鸞」(2010年)にて鎌倉時代の相次ぐ戦乱や疫病や天災で荒廃した末法の世を、同様に自然災害や不景気で先の見通しが立たない今の混迷不安の時代に重ね合わせ、新たに親鸞を読み返すことで現代社会の人々の生き方の心の処方箋とする、作家の五木寛之による親鸞に関する一連記述を「五木親鸞」と呼称するというように。

そうした五木親鸞とおそらくは昨今、世間の人気を二分する評論家の山折哲雄による「山折親鸞」たる、岩波新書の赤「『教行信証』を読む」(2010年)である。☆本書は副題が「親鸞の世界へ」であり、親鸞「教行信証」(1224年)についての精読解説となっている。☆本書以前に同じ岩波新書で、山折「親鸞をよむ」(2007年)がある。☆山折哲雄「『教行信証』を読む」は、「親鸞をよむ」の続編といってよい。

「人殺しの大罪を犯したような極悪人は宗教的に救われるのか。救われるための条件は何か。親鸞自身の苦しみと思索の展開をたどりつつ、引用経典の丁寧な読み解きとともに親鸞宗教思想の核心を浮彫りに、歴史的洞察や史料論的解釈、比較論的考察を交えながら、宗教思想史に屹立(こりつ)する親鸞をその自然な思想的相貌において捉え、平易に叙述する」(表紙カバー裏解説)

一読した印象は、「この本は親鸞の初心者の初学者ではなく、すでに親鸞の『教行信証』を何回か読んで基本概念や内容要旨をすでに把握している親鸞中級者か上級者へ向けての、いわゆる親鸞二周目か三周目の本だ」という思いがする。☆いわば、玄人好みな親鸞精読の書籍である。☆何しろ、親鸞自身が「教行信証」を書き継ぐにつれて新たな難問にぶち当たり、軌道修正して再び中途に「序」を書き足して仕切り直したり経典の大量引用を余儀なくされたり、従来見過ごされてきた用紙裏の親鸞の反古落書きに着目したりで、書き手である親鸞の心中の内的事情を推察して親鸞の「教行信証」を内在的に読み解こうとする、実際の「教行信証」には書かれざることまで推し測って深く精読する著者・山折哲雄の試みなのだから。

山折哲雄「『教行信証』を読む」に対する書評にて、山折を痛切批判して酷評するものも時に見かけるが、それは本書が中級ないしは上級者向けの「教行信証」の精読本であることを踏まえていないからだと思われる。☆親鸞「教行信証」を読んだことがない人や一通りの概説内容を知らない読者には、おそらくは本書は難しいであろうし、本書の良書たる良さは伝わりづらいのではないだろうか。

書評や論争などを介して、「他人が親鸞をどれだけ正確に適切に読めていないか」、ないしは「自分が親鸞をどれだけ正確に適切に読めているか」を、あからさまに競ったり暗に誇ったりすることは殊に親鸞書物に関しては無効であり、非常に虚しい思いがする。☆親鸞に言わせれば、そういうのは「聖道門の自力」の人間の思い上がりでしかないからだ。☆各自で自分なりに親鸞を読めばよいのではないか。☆そもそも読まれる親鸞その人が、議論を通して正統な親鸞(真宗)理解を人々が互いに競うことを全否定し一気に無効の白紙にさせる、それほどまでの力量がある破格な人だと私は思う。

ところで、親鸞研究に関しては真宗系の大学での学科設置の編制からして、真宗学と日本仏教史学の二つの方向からの近接が、昔から伝統的にあると思われる。☆岩波書店「日本思想体系11・親鸞」(1971年)の巻末解説に家永三郎「歴史上の人物としての親鸞」と、星野元豊「『教行信証』の思想と内容」の二つの論文が掲載されてある。☆家永のものは聖徳太子信仰との関わりや念仏弾圧、親鸞以後の真宗教団の形成発展など歴史総体からのマクロな日本仏教史学の考察となっており、他方、星野のものは「教行信証」の構成や主要概念、仏教用語の仔細な説明の、まさに真宗学ともいうべきミクロな細かい文献解説となっている。☆こうしたタイプの全く異なるアプローチの二論文の巻末掲載形式からしても親鸞研究には、真宗学と日本仏教史学の二つの系があるといえる。

山折哲雄による山折親鸞、岩波新書の親鸞関連書籍は現在のところ二冊である。☆「親鸞をよむ」が、親鸞の生涯や念仏弾圧や弟子らによる後の教団形成など日本仏教史学からのものになっている。☆これとは対照的に、「『教行信証』を読む」は、親鸞「教行信証」を厳密に読み解く真宗学に属する内容に上手い具合に分かれている。

そして、前著「親鸞をよむ」にて山折により提言された「頭で『読む』のではなく、からだで『よむ』」親鸞の読み方方針の実践編として、後著「『教行信証』を読む」はあるのであった。☆山折「『教行信証』を読む」では、氏の持論である親鸞を「頭で『読む』のではなく、からだで『よむ』」ことが「教行信証」の具体的な読みを介して見事に実践されている。☆親鸞の実生活の原風景を想像したり、離れた記述同士の太い繋(つな)がりや、文章を書き継ぐにつれて自然と生じてくる親鸞の筆のリズムを押さえて味読するということだ。☆そうした山折親鸞の両著の関連まで見越して、本書「『教行信証』を読む」は読まれるべきだろう。☆そういった意味では順序として、まず山折の岩波新書「親鸞をよむ」を読み、その上で同じく山折の岩波新書「『教行信証』を読む」に当たるのが順当な読みであると思われる。

最後に付け加えておくと、岩波新書の赤、山折哲雄「『教行信証』を読む」は好著であり良書である。☆山折が親鸞の内心を推し測って「教行信証」を内在的に読んでいく手際(てぎわ)が非常に優れている。☆少なくとも私は本書を読んで、存分に楽しめた。☆ただ、それだけであり、本書に親鸞理解の読みの問題があったとしても、今回は批判の書評はしない。

岩波新書の世界(123)藤木久志「刀狩り」

72e875bd.jpg岩波新書の赤、藤木久志「刀狩り」(2005年)は副題が「武器を封印した民衆」である。☆本書の、およその概要は以下だ。

「秀吉の刀狩りによって民衆は武装解除されたという『常識』がつくられてきたが、それは本当だろうか。調べていくと、それに反する興味ぶかい史実が次々と浮かび上がってくる。秀吉からマッカーサーまで、刀狩りの実態を検証して、武装解除された『丸腰』の民衆像から、武器を封印する新たな日本民衆像への転換を提言する」(表紙カバー裏解説)

本書は豊臣秀吉の刀狩りによって、それまで武器を持っていた戦国時代の農民は武器を没収され「丸腰」になってしまった、秀吉の刀狩令は人民の武装解除であったとする俗説に疑義を呈するものである。☆著者はいう、「だが、史実の世界はおのずから別であった」と。☆史料から確認できる史実として、秀吉の刀狩令以後も民衆の間で帯刀習俗は残っていたし、農村には刀(時には鉄砲まで)の武器が相当数あったことを指摘する。

秀吉の刀狩り政策を継承したとされる徳川幕藩体制下にても同様であり、農民の傍らには常に刀などの武器が大量にあった。☆例えば1632年、肥後(熊本)藩の加藤忠正(清正の子)が改易され、その後に豊前(福岡)小倉から細川忠利が移ってくる。☆その翌年に忠利は、庄屋はみな帯刀し百姓はすべて脇指を指すよう指令した。☆これは義務である。☆忠利は脇指を指さない庄屋を見て、ことのほか立腹したという。☆それには入国したばかりの肥後の国内で百姓たちの刀に寄せる名誉の心情に訴えて、村々の秩序を安定させようとした細川忠利の政略の狙いがあったと推察される(139・140ページ)。☆百姓の武装解除という従来よりの刀狩りの通念とは、全く逆の事例も実際にあったのだ。

刀・脇指の武器は人々の身分表象であった。☆中世より刀は成人した村の男たちの人格と名誉の表象(シンボル)であった。☆秀吉の刀狩令は、その威厳に満ちた刀を百姓たちから奪うことで武士と百姓との差別を明確にする身分統制に他ならなかった。☆ここでは武力抵抗の実質的手段として刀を没収する武装解除ではなく、帯刀習俗が武士階級の表象であるという刀が持つ象徴的意味を踏まえた上での、農民からの名目的な、ゆえに刀狩り以後も村々には多くの武器が留保され農民は刀を所有してはいるが、ただ人前にて帯刀・脇指してはならないというレベルでの武器「没収」の刀狩りなのであった。

刀狩令は、すべての百姓の武器の没収を表明していた。☆しかし、現実には村の武器の根こそぎの廃絶というよりは百姓の帯刀権の規制として進行した。☆ただし、百姓が刀などの武器を所有していることは農民蜂起の村の武装につながる。☆そこで村の武装権の規制と百姓らの武力行使の封じ込め制御のための政策は秀吉において、刀狩令とは全く別のプログラムに委ねられた。☆村の武器を制御するプログラムは、村々に対し発せられた喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。☆つまりは、豊臣政権下にて農民を武装解除させる意図は確かにあったが、その政策は従来より目されてきた刀狩令ではなくて、むしろ喧嘩停止令の方で主に規制されていたのだ。

以上のことを踏まえ、著者は「刀狩り=百姓の武装解除」の俗説を排し、「刀狩令の歴史的意義」を次のように・まとめる。

「つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は、村に武器があるのを自明の前提として、その剥奪(はくだつ)ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元に武器はあるが、それを紛争処理の手段としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。百姓の武装解除という私たちの刀狩令の通念と、『村の戦争』を前提にした喧嘩停止令のあいだのギャップを、しっかり見定めておきたい」(124・125ページ)

さらに本書の後半では、「三つの刀狩り」として、近世初期の秀吉の刀狩令に加えて、明治維新の廃刀令と第二次大戦後の占領軍による民間の武装解除についても論じている。☆その際に著者は、「武装解除された『丸腰』の民衆像から、武器を封印する新たな日本民衆像への転換」の提言、「三つの刀狩り」によって一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回を執拗に熱心にやろうとする。☆例えば、

「(いわゆる『三つの刀狩り』を通して武器の保持や携行が国家権力により厳しく取り締まられ、民衆は、あらゆる武器を徹底的に没収され武装解除されて完全に無抵抗にされてしまったという歴史の見方の通念に関し)この見方は、いま、ほとんど国民の通念ともいえるほど根強く、『強大な国家、みじめな民衆』という通念は、…決定的な影響を与えてきた。…だが、この通念ははたして事実であったか。『みじめな民衆』像ははたして実像であったか。あらためて、日本の『三つの刀狩り』を、豊かな史実の中に、じっくりと追ってみなければならない」(17ページ)

なぜ著者は「三つの刀狩り」を通し形成された、一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回を、そこまで執拗に熱心にやろうとするのだろうか。☆その答えは本書を最後まで読むと分かる。☆最終章の「エピローグ・武装解除論から武器封印論へ」にて、冒頭から「日本国憲法」第九条「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」の文章を著者は引用し載せている。☆その上で以下のように続ける。

「(いわゆる『三つの刀狩り』における歴史上のの)民衆の非武装は、秀吉のせいでも、廃刀令の結果でもなかった。敗戦後の武装解除の後も、銃も刀も、害獣用の鉄砲として、猟銃として、美術刀として、登録して認められれば、もつことができた」。「時として起きる個々の悲惨な逸脱を別にすれば、私たちはこれだけ大量の武器の使用を自ら抑制し凍結しつづけて、今日にいたったわけである。その現実のなかに、武器を長く封印しつづけてきた私たちの、平和の歴史への強い共同意思(市民のコンセンサス)が込められている。そう断定したら、いい過ぎであろうか。少なくとも国内で、私たちが武器を封印しつづけてきたのは、銃刀法の圧力などではなく、私たちの主体的な共同意思であった。そのことをもっと積極的に認めてもいいのではないか。素肌の弱腰を秀吉(歴史)のせいにしないで自前の憲法九条へのコンセンサスにも、もっと自信をもつべきではないか。強大な国家権力による民衆の武装解除論(丸腰の民衆像)から、民衆の自律と合意による武器封印論(自立した民衆像)へ、『秀吉の刀狩り』をめぐる、歴史の見方を大きく転回することを、ここに提案しながら、私の『三つの刀狩りの物語』を閉じることにしよう」(230、223ページ)

「三つの刀狩り」を通し形成された、一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回に著者が執着し・こだわるのは、大量の武器の使用を自ら主体的に選択し武器の所有や使用を自発的に抑制し凍結しつづけて、そこに民衆の平和への強い共同意思(市民のコンセンサス)を歴史的に見出したい著者の半(なか)ば願望の思いからであった。☆刀狩令などを通し武器を封印してきたのは、国家権力の上からの強制による武器没収の武装解除ではなくして、私たち民衆の側からの強く平和を望む主体的な共同意思の選択結果であったのだ、と。

ここにおいて、強大な国家権力より実施される民衆の武装解除論にての強制的で一方的に武器を取り上げられる、無力で「丸腰」の「みじめな」民衆像から、自律と合意により武器「封印」を自発的に選択して平和を志向する武器封印論での、自立して主体的な誇らしい民衆像への転回が鮮やかになされる。

そうして、この「自律と合意により自ら武器の封印の平和を選択する武器封印論での自立して主体的な誇らしい民衆」は著者のなかで、憲法第九条の「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」の精神を支える今日の日本国民の精神に繋(つな)がるのであった。☆著者の藤木久志は憲法改正に反対な立場の、現行の日本国憲法、特に憲法第九条に関し相当に熱心な護憲論者であるに違いない。

岩波新書の「刀狩り」は最初の前半は、「刀狩り=百姓の武装解除」の俗説を疑って排する、史料の検証を絡めた精密な日本史研究の実証的考察になっているが、後半から秀吉の刀狩令を含めた「三つの刀狩り」論にて、民衆の武器封印についての歴史を概観する段階になると、急に政治的になる。☆なぜなら、現行の日本国憲法の第九条を主体的に支持し九条改正を標的にした改憲に反対する、著者の護憲の立場から、「三つの刀狩り」にて一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回が強力に要請されているからである。☆その代わりに、本書の副題でもある「武器を封印した民衆」という、自律と合意により武器「封印」を自発的に選択して平和を志向する、自立して主体的な誇らしい民衆像への転換の提言がなされる仕組みだ。

このような現在の憲法改正をめぐる著者の生々しい政治的立場に暗に強力に支えられて、「刀狩り」という民衆の武器封印に関する歴史的な検証議論が展開されている所が、岩波新書の赤、藤木久志「刀狩り」の大きな特徴である。☆それは本書の長所であるといえるし、同時に問題点であるともいえる。

岩波新書の世界(122)網野善彦「日本中世の民衆像」

72e875bd.jpg日本中世史研究専攻の網野善彦(あみの・よしひこ)による、いわゆる「網野史学」の代表著作といえば、「蒙古襲来」(1974年)か「無縁・公界・楽」(1978年)辺りになるのだろうか。☆この人は自身の研究キャリアにて割合、初期から代表作を著して網野史学は早くも完成の観があり、特に網野の「無縁・公界・楽」は氏の代表作と言ってよく、1970年代当時、学術書としては異例のヒットを記録し多くの人々に読まれたそうである。☆その後、1990年代にさらに大きな網野史学ブームの再来があったように思う。

すなわち、網野善彦「日本の歴史をよみなおす」正続二巻(1991・1996年)の異例のロングラン大ヒットである。☆本書は、後にも版を重ね書式を変えて読まれ続けた。☆90年代に学生だった私は今でも非常に印象深く覚えているのだが当時、高校の先生が網野の「日本の歴史をよみなおす」を読んで相当に感激したらしく、授業中に「お薦めの本」として熱心に語っていた。☆その当時から熱烈な網野史学ファンの網野の読者は多くいたのだった。

網野善彦による網野史学の特徴はこうだ。☆氏は日本中世専攻の研究者であり、日本中世の職能民や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにして、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究の新たな可能性を切り拓(ひら)いた。☆それまで日本中世史といえば、日本史でもヨーロッパ史の影響を受けて、封建的抑圧を強いられた前近代の暗い時代、「暗黒の中世」といったステレオタイプな中世史理解が強かったように思う。☆網野善彦は、前近代の中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者たちが決して農民だけではなく、漁業や林業や手工業や芸能など多様な生業の従事者であり、彼らには自由も平和もあったことを史料を交えて指摘した。☆また中央集権的な政治支配から逸脱する地方の無秩序で自由な、あり様も示した。☆日本史学に民俗学からのアプローチを行い、新たな研究視角を導入したといえる。

網野善彦の戦後歴史学研究や回顧のエッセイ、インタビューなどを読んでいると、網野の発言に出てくる氏に強い影響を与えた日本史研究の研究者が、主に以下の三人であったことに気づく。☆網野史学は、彼らの先行研究に少なからず拠(よ)っている。

まず石母田正 (いしもだ・しょう)である。☆石母田は戦後の歴史学に多大な影響を与えた。☆戦後、日本史学、特に古代史や中世史を志した人の多くが石母田正「中世的世界の形成」(1946年)を読んだことにより、歴史学を専攻する道を選んだという。☆確かに石母田「中世世界の形成」は、一読して非常に優れた日本史研究である。☆こうした実証的かつ系統理論的な日本中世史研究の業績が終戦直後の1946年に早くも出されていたことに、個人的に驚きを禁じ得ない。☆本書は、東大寺庄園(荘園)の歴史を、いわば「定点観測」的に綿密にたどり、古代から中世世界への大きな歴史の動きを描き出すことに見事、成功している。☆石母田の「中世的世界の形成」を読む度に感心するのは、日本史における「中世的なもの」を摘出することが自(おの)ずと日本の古代世界や近世世界との相違を際立たせ、石母田の考察が単なる中世史研究にとどまらない、実は日本史の大きな時代区分論になり得ていることだ。

網野の歴史研究エッセイなどを読んでいると、安良城盛昭(あらき・もりあき)の話もよく出てくる。☆安良城は沖縄出身の学者であり、沖縄のような抑圧された地域や人々への共感の立場から、天皇制や被差別部落の構造に関する研究を彼は精力的に進めた。☆また安良城はマルクス主義歴史学の影響を強く受けて、古代律令制と中世荘園制と近世幕藩制との相違を押さえる時代区分論を熱心にやっていた、の個人的印象が強い。☆石母田の土地制度史からの「中世的世界の形成」もそうだが、石母田や安良城が古代史ないしは中世史研究専攻にも関わらず、古代・中世の一時代のみに終始せず、幅広い視野で歴史の時代区分論を展開して古代・中世も含めた日本史全体を射程にできたのは当時、彼らが歴史の段階的発展理論を追究するマルクス主義の歴史学に傾倒していたことによる。☆良くも悪くも、日本の戦後歴史学の一時期は、特に敗戦後からある時代にまでかけてマルクス主義が一つの大きな潮流であり、時代の影響力を持っていたのだった。

網野史学を考える上で民俗学の宮本常一(みやもと・つねいち)との、つながりも看過できない。☆宮本が所属していた日本常民文化研究所は、後に神奈川大学に招致された。☆その後、神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科が開設され、研究指導者として網野が招かれたのであった。☆神奈川大学は宮本の民俗学と網野の日本史学とをつなぐ場となった。☆宮本常一の学問は・もとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者として離島や漂泊民や被差別民や性など「個」の問題を宮本は重視したため、普遍的な日本人の来歴や民族性を見つけようとする主に「種」の問題解明の柳田國男の学閥からは無視され冷遇されていたという。

私が網野の仕事の中で特に好きなものの一つに、宮本常一「忘れられた日本人」(1960年)の後の岩波文庫版に収められた巻末解説がある。☆あの巻末解説での宮本民俗学に共感する網野の力の入りようは、筆の迫力があって実に見事だと思った。☆宮本の「忘れられた日本人」は、日本各地の民間伝承を調査することを通して、地方にて黙々と生きる無名の人々、つまりは「忘れられた日本人」の日常生活と人間存在を掘り起こそうとするものだ。☆その際に日本の地方の村落共同体は封建的であり、人間関係は陰湿で村の掟の因襲や差別も未だあり、といった前近代的な昔の暗い村落の紋切り型イメージを故意に排するような、どちらかといえば肯定的な良イメージの「忘れられた日本人」を描き出す記述を宮本常一はあえて、わざとやっている。☆そうして網野も、宮本「忘れられた日本人」の記述戦略に賛同し接木していた。☆前述のように、それまで日本中世史といえば、封建的抑圧を強いられた前近代の暗い時代、「暗黒の中世」といったステレオタイプな中世史理解が強かったように思う。☆網野史学には宮本民俗学に乗っかる形で、そうした一面的な日本中世史像を打ち破ろうとする志向もあった。

思えば、網野善彦による網野史学は、石母田正や安良城盛昭の戦後のマルクス主義歴史学の問題意識を引き継いで、中世史研究にとどまらない、時代区分論や日本歴史の総体を見据えた全体的な議論や考察、まさに「日本の歴史をよみなおす」ような新たな歴史の見方の提言をやってきた。☆網野は、日本中世の職能民や芸能民など農民以外の非定住の人々である漂泊民や被差別民の世界を明らかにすることを通して、安良城のように王権(天皇制)と被差別民との関係の構造問題にも触れ得た。☆また、いわゆる「農業中心史観」への批判を通し農民百姓のみの農奴的存在ではなくて、漁業や林業や手工業や芸能など多様な生業を持つ民衆の歴史的存在を見つめることで、中世史や近世史における土地支配を介した画一的な封建体制論を相対化することもできた。☆マルクス主義的な、土地に緊縛され・ひたすら収奪され抑圧される民衆理解に疑問を呈し、「無縁」に「日本中世の自由と平和」も見出せた。☆さらには農業中心史観に対する批判、漁業への注目により、「海民」の「海から見た歴史」の列島文化の日本文化論を展開させ、以前の日本が孤立した島国ではなく東アジアの近隣諸国の他地域の人々との往来交流があった史実を指して、日本人だけによる日本国といった伝統的な単一民族国家論の一国史観を否定し、ある程度・解体することもできた。

以上のように網野善彦の網野史学は多様な歴史の諸相を指摘して、読む者に新たな歴史学の可能性を示し得た所にその魅力があるように思う。☆網野の著作は何を読んでも、だいたい面白い。☆なかでも「網野善彦この一冊」として完成度が高く個人的に推(お)すとすれば、「蒙古襲来」上下(1974年)になるか。

岩波新書の世界(121)大貫隆「聖書の読み方」

72e875bd.jpg私は洗礼を受けたり教会に定期的に通ったりするキリスト者ではないのだが、それでも聖書は好きで昔から繰り返し読んでいた。☆また、より深く聖書を読んで味わいたいから「聖書入門」や「聖書講話」などの解説書籍もよく読む。☆先日も岩波新書の赤、大貫隆「聖書の読み方」(2010年)を読んでみた。

大貫隆は、新約聖書学者の荒井献の弟子である。☆岩波新書の荒井献「イエスとその時代」(1974年)は、コンパクトな新書ながら新約に関し精密丁寧に記述された名著の良書と言ってよく、荒井の以前よりの好印象が個人的にあったし大貫の旧著も知っていたので、同じく岩波新書の大貫隆「聖書の読み方」も相当に期待して読んだ。

正直、これは参った。☆大貫の「聖書の読み方」は、そのタイトル通り、聖書の即物的な「読み方」アドバイスに終始する空疎な内容なのであった。☆つまりは「聖書の読み方」として、旧約と新約に収録の各編の内容、時代状況や重要語句や基本概念の解説、模範的な読みの解釈の仕方、聖書の根底に共通してあるキリスト教精神の抽出などを初学の人にも分かりやすく教授する内在的な「聖書の読み方」の聖書入門では、ない。☆大貫の「聖書の読み方」は、そのタイトル通り、本当に外的で即物的な聖書の「読み方」の形式的な姿勢や心構えのアドバイスに終始する内容であったのだ。

本書の詳しい内容は、こうだ。☆まず非キリスト者の聖書初読者や何度か聖書を読もうとしたが中途で挫折した一般読者にとっての聖書を読んでみた際の難しさや不思議さの疑問や戸惑いなど、当人らの悩み文章を直接に掲載する。☆これら聖書に関する疑問や戸惑いの声は、著者が出講している大学講義にて学生にアンケートをやって集めたものだ。☆そうして著者の大貫隆は、それら生の声から「聖書の読みづらさ・青年たちの声と私の経験」とし、自身の経験も加味して「読みあぐねる聖書」の「聖書の読みづらさ」の原因を一般化し、以下の4点を挙げる。

「1・『正典』と『古典』であるがゆえの宿命、2・聖書そのものの文書配列の不自然、3・異質な古代的世界像、4・神の行動の不可解」

その上で続く内容は、「聖書をどう読むか・私の提案」たる処方箋の提示である。☆これも一般化し箇条書きにして「提案1」から「提案5」まである。

「提案1・キリスト教という名の電車・降りる勇気と乗る勇気、提案2・目次を無視して、文書ごとに読む、提案3・異質なものを尊重し、その『心』を読む、提案4・当事者の労苦と経験に肉薄する、提案5・即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる」

途中まで律儀に真面目に読んでいて私は失笑を禁じえず、あまりに馬鹿馬鹿しくて思わず笑ってしまった。☆「聖書の読み方」とあるから、キリスト教の聖書の基礎知識など内容の読み方の基本や模範を教えてくれるのかと思えば、「読み方」の提案、例えば「提案2・目次を無視して、文書ごとに読む」だとか、「提案3・異質なものを尊重し、その『心』を読む」だとか。☆確かに厳密にいえば、それら「提案」も「聖書の読み方」といえなくもないが(笑)、そういうのは聖書という書物に直接に向き合う以前の、あまりに初歩的すぎる最初の形式的な心構えの読みの姿勢といった程度のものでしかない。☆聖書が読めずに理解できない聖書初心者や非キリスト者に対して、「異質なものでも毛嫌いせずに尊重して、その『心』を読んでみろ」などの「読み方」提案集で、わざわざ新書一冊を上梓するのは実に・くだらない。☆「聖書の読み方」といえば、そうした表層次元での読みの姿勢や心構え提案のアドバイスではなくて、聖書記述の内容に即して突っ込んだ分かりやすい聖書解説を誠実に施すべきではないか。

また「読みあぐねる聖書」の「聖書の読みづらさ」の原因分析にしても、「聖書そのものの文書配列の不自然」や「神の行動の不可解」などの聖書記事の配列や記述印象の表面的なことではなく、例えば、私たち日本人は多くが民族宗教たる神道を無自覚に信仰しており(民族宗教とは、個人の内面にて自覚的な決断契機の信仰がなくても、その民族共同体に生まれ所属しているだけで、自然に伝統祭祀に参加し信仰したことになってしまう習俗習慣と混同されやすい特色の宗教のこと)、ゆえに民族宗教とは異質な、世界宗教たるキリスト教における聖書記述内での神からキリスト者に課せられる、個人の自覚的で厳しい決断信仰の内実を多くの日本人は肌身に強く実感して理解することができない、など「(日本人にとっての)聖書の読みづらさ」に関する、キリスト教を理解し難いことへの・より踏み込んだ内的考察も、本来であれは展開できるはずだ。

「大貫は、このような実質的に内容のない駄本で一冊上梓のカウントを無駄に稼いではいけない」。☆岩波新書の大貫隆「聖書の読み方」を一読して、そうした思いが私には去来する。☆もう本書は・さっさと飛ばして、大貫の「イエスという経験」(2003年)と「イエスの時」(2006年)を読者は早々に読むべきだろう。☆本書「聖書の読み方」よりも深い内容があり読みごたえがあって、いくらかマシである。

最後に念のため、大貫隆「聖書の読み方」の概要を記した紹介文を載せておく。

「聖書は信仰をもつ人だけが読むものなのか?本書は聖書を、広く人びとに開かれた書物として読むための入門書である。特定の教派によらず、自主独立で読む。聖書学者の著者が、自身の経験と思索をもとに提案する『わかる読み方』。キリスト教に関心がある人はもちろん、西洋思想を学ぶ人にも格好の手引きとなる」

岩波新書の世界(120)平岡昇「平等に憑かれた人々」

72e875bd.jpg岩波新書の青、平岡昇「平等に憑(つ)かれた人々」(1973年)は副題が「バブーフとその仲間たち」であり、表紙カバー裏解説には以下のようにある。

「フランス革命末期に泡沫(ほうまつ)のように消えた『平等派の陰謀』とは何だったのか。十八世紀フランスのいかなる歴史状況のなかで、何がバブーフ、ブオナロティ、マレシャルらを結束させ、『陰謀』へと駆りたてたのか。彼ら自身の著作や手紙、また同時代および後世の史家、文学者の発言を手がかりに、その思想的内面に光を当てる」

さらに「はじめに」にて、著者は本書執筆の意図を次のように述べている。

「この本は、フランス革命の末期、総裁政府時代におこった、というよりおこらないうちに潰滅(かいめつ)させられたある政治的陰謀事件の意味を、おもだった当事者の生涯や思想を通じて私なりに問おうとするくわだてである。それは『バブーフの陰謀事件』とよばれ、事件当時では、政府側によって極悪な暴徒、当時のことばでは無政府主義者たちの破壊運動だと宣伝され、一般にもっとも悪質の社会秩序破壊のくわだてとして印象づけられたため、当時の歴史家にも、それは大革命の大きな波のうねりの一角にかろうじて浮かび出て、束の間に消えうせた泡沫のようなものにみえていた。それが事件後約三十年を経て、七月革命の前夜、おもだった当事者の一人、ブオナロティによって事件の意義の宣揚のために書かれた『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』(1828年)が現れて以来、社会運動家、革命家はもとより一般の人々、文学者や歴史家の注目をもひくようになった」

本書は、フランス革命時の平等派の人達、思想家であり革命家でもある三人の、いわゆる「平等に憑かれた人々」の評伝である。☆すなわち、「バブーフ・『人民の護民官』」と「ブオナロティ・永遠の革命家」と「マレシャル・『神なき人』のユートピア」である。☆これら三人に関する三つの章は、以前に岩波書店の雑誌「世界」にて「平等派の人びと」と題して三回にわたり連載されたもので、それら連載に序論と結論をつけて、岩波新書「平等に憑かれた人々」の一冊にして後に刊行したものだ。

以下、「人民の護民官」たるバブーフについて。

バブーフは1760年12月24日、北フランスの貧しい農民の家に生まれた。☆父クロード・バブーフは初め塩税関係の小役人を勤めていたが、反抗的で頭を下げるのが嫌いなクロードは、それが原因でまもなく職を失い、土工にまで身を落としてしまう。☆そうした闘志の激しい父親の気性をバブーフは受け継いだ。☆少年バブーフは、失業した父親を助けるために十四歳から働き家計を助けた。☆そして働きながらバブーフは独学をなした。☆若いバブーフの知的形成にとって、もっとも重要な意味を持つのは父親ゆずりの強い自負心、権威に対する反抗心、熱情的な気質、それに頑固なほど素朴な農民魂ともいうべきものであった。☆バブーフは若い頃から「人間不平等起源論」を著したルソーに傾倒していた。☆時代はフランス革命の最中である。☆バブーフは土地台帳管理人の仕事に就いて主に農村問題に取り組み、農民一揆の反封建闘争(ジャックリーの乱)の伝統精神をも自身の内に取り込みながら、封建領主たる地主貴族に対する不信と対抗思想を深めていった。

1795年11月30日付「人民の護民官」第35号にバブーフは「平民派宣言」と題する一文を掲載した。☆彼は、「土地は万人のものである」との認識に立ち、個人が必要以上の土地を私有する行為を「社会的窃盗」と指弾。☆同時に、個人の財産譲渡権や相続権も否定した。☆これに代わる制度として彼が提示したのは、物品の共同管理に基づく配給行政であった。☆すなわち、全ての人間、及び生産品に関する情報の登録を義務付け、現物生産品を国庫に納めさせたのち、改めて平等に分配するというものである。☆フランス革命に際し、ブルジョア市民階級が百科事典的に主張する漠然と抽象的に人間の権利の平等を謳(うた)う無難な啓蒙思想ではなくて、早くも人民の私有財産のあり様にまで、物質的・経済的格差にまで踏み込んで是正を要求する徹底した平等主義の思想であった。☆この点、バブーフが後のマルクスら共産主義者から初期社会主義の先駆として一目置かれるのも故(ゆえ)あることである。

ここに至って、フランス革命はナポレオン前夜の総裁政府の時代を迎えていた。☆バブーフは苛烈な急進派の平等主義の思想ゆえ、反革命の反動的な王党派とも、穏健でやや保守的なブルジョア共和派の総裁政府とも原理的に鋭く対立し、容赦のない批判議論を展開できた。☆王党派と総裁政府、どちらの陣営にもバブーフら平等派は日和見(ひよりみ)することはなかった。

バブーフは1795年11月、パンテオン・クラブを組織し、共産主義とその基底にある平等を主張。☆パンテオン・クラブのうち過激派は、反乱委員会と秘密の執行部を設置。☆前者は軍や警察など行政の内部に工作員を送り込み、後者は総裁政府が打倒された後に新たな議会が開催されるまでの間、一時的に独裁執行権を行使する予定であった。☆翌12月総裁政府はバブーフ逮捕を布告したが、バブーフは地下に潜行。☆1796年3月、地下で総裁政府の転覆、共産主義体制樹立のための蜂起委員会を組織。☆バラスの資金援助を受け、ジャコバン派の1793年憲法(男子普通選挙や抵抗権を規定した民主憲法)実現のための決起を企図したが、総裁政府のカルノーは会員の一人、ジョルジュ・グリゼルをスパイとして買収していた。☆計画はグリゼルによる密告で事前に発覚。☆決行前日の1796年5月10日にバブーフは逮捕された。☆この事件を「バブーフの陰謀」、ないしは「平等派の陰謀」と呼ぶ。

バブーフの他、ブオナロティ、ダルテ、ドルエなど首謀者が逮捕拘束された。☆裁判はヴァンドームの法廷で1796年10月5日に開始され、翌97年 5月26日にバブーフはダルテと共に死刑を宣告された。☆彼らは、バブーフの息子から渡された短刀で刺し違えて死のうと図(はか)ったが果たせず、5月27日、ヴァンドームでギロチンにかけられ処刑された。☆遺体は、ヴァンドーム旧墓地に埋葬されている。

バブーフは享年36歳。☆バブーフの家族は、妻のアンヌ・ヴィクトワール・ラングレ、当時11歳の長男エミール(元はロベールの名であったが、バブーフがルソーにあやかって後に「エミール」と改名させた)を頭に、次男カミーユと生まれたばかりの三男カイユスの三人の息子がいた。☆そのうち妻と長男は、パリのアベイの牢獄から二百キロ離れたヴァンドームのトリニテ修道院内に設けられた高等法廷へ移されたバブーフの後を徒歩でついていった。☆刑死の前夜、獄中にて家族にあてて書き残した手紙の抜粋、バブーフの家族へ向けた哀切な別れの絶筆が岩波新書「平等に憑かれた人々」に掲載されてある。

「バブーフの陰謀」事件にてバブーフは処刑されたが、同志ブオナロティはバブーフと共に拘束され死刑を宣告されたにもかかわらず、ナポレオンの尽力で死刑を免れた。☆ブオナロティは1828年に「バブーフの、いわゆる平等のための陰謀」を上梓し、事件の意義を喧伝した。☆出版当初はさしたる反響を呼ばなかったが、蓋(ふた)を開けてみればブルジョア革命でしかなかった七月革命の結果に失望した社会主義者らの関心を集め、以後バブーフの名は広く知れ渡ることとなる。☆バブーフの思想と行動は後のフランス革命、二月革命やパリ・コミューンへの原動力となった。

「バブーフの陰謀」という事件の呼び名は、当時の総裁政府側からする、敵対勢力のクーデターの政府転覆計画に批判的意味の重点を置いたがゆえの呼称、「陰謀」でもある。☆私有制否定の「共同の幸福」を志向するバブーフの徹底平等の思想は、後のマルクスら共産主義者のみならず、社会主義者や無政府主義者や労働運動のシンパ、総じて人民の貧困廃絶と階級格差の是正を目する左派運動理論の先駆となった。☆また前衛分子による武装クーデターおよびプロレタリアの一時的独裁の観念を樹立した点において、フランス革命時におけるバブーフら平等派の人々の行動は、レーニンやトロツキーら後の革命運動家から実践手本として高く評価されている。

岩波新書の世界(119)西堀栄三郎「南極越冬記」

72e875bd.jpg私が小学生の時に映画「南極物語」(1983年)が興行大ヒットし当時、私も劇場に観に行った。☆「文部省特選作品」の推薦も付いて、「南極物語」にて第一次南極越冬隊から南極に置き去りにされた樺太犬、タロとジロの大ブームに1980年代の日本中が沸いたのだった。

それから長い年月が過ぎて2000年代に入った近年、映画「南極物語」を再鑑賞してみた。☆もう私自身が映画をそこそこの本数は観るようになっており、特に東映のヤクザ映画は任侠と実録の両路線ともに相当に好きで一時期のめり込んでいたので再度、映画「南極物語」を見返して、「過酷な南極の自然の中での人間と犬の友情と信頼を描く」文部省特選の東宝の作品であるはずなのに、主演が高倉健で助演が渡瀬恒彦であり、むしろ東映ヤクザ映画のキャスティングだ。☆東宝の映画なのに東映の作品「三代目襲名」(1974年)での高倉健と渡瀬恒彦、山口組三代目の田岡(一雄)の兄貴と若衆のコンビそのままで、劇中で南極越冬隊に参加した高倉と渡瀬が私にはどうしてもカタギの輩に見えず、元ヤクザとしか思えなくて(笑)、映画「南極物語」の感動話に集中できなかった。

そうした個人的に苦い思いがある映画「南極物語」の中で描かれた第一次南極越冬隊の実際の隊長、西堀栄三郎が越冬の南極から帰国後に執筆したのが、岩波新書の青「南極越冬記」(1958年)である。☆西堀らは、すぐに第二次南極越冬隊が派遣されて基地を引き継ぐと思っていたから、南極昭和基地を離れる際に犬ぞり牽引用の犬たち15頭を施錠拘束して無人の基地に置き去りにしており、しかし第二次越冬隊は長期の悪天候のため南極大陸に上陸できず、その年は越冬を断念。☆タロとジロを始めとする日本の昭和基地に残された犬たちに対する悔恨の思いを、越冬隊長の西堀は本書の中に書いている。☆映画「南極物語」にて描かれたタロとジロの犬たちの物語は実話であった。

岩波新書、西堀栄三郎「南極越冬記」の概要は以下だ。

「1956年、文部省の南極地域観測隊第1次越冬隊が、海上保安庁の運航する南極観測船・宗谷に乗り南極大陸へ赴いた。南極リュツォ・ホルム湾の東岸に位置する昭和基地にて、十人の同志と共に過ごした1957年2月15日から翌58年2月24日までの1年間の生活記録である。本書は日本南極地域観測隊、第一次越冬隊の隊長としての立場で書かれた公式記録ではない。ただ南極の大自然の中で1年間、何をなし何を感じたかをプライベートな立場から、ありのままに書いたものに過ぎない」

著者の西堀栄三郎は、第一次南極越冬隊の隊長であった。☆その西堀は友人の桑原武夫(フランス文学専攻の文学者)から南極へ旅立つにあたり、「帰国後に南極越冬の体験記を公刊することは、お前の義務である」、越冬中から「原稿は書いているだろうね」と再三に渡り念を押されてきた。☆そうした友人の桑原の前々からの催促に応(こた)えて、メモやノートの断片と越冬個人日誌とにあった原稿を帰国後にまとめ書き加えて一冊に上梓したものが本書である。

帰国後の断片メモなどからの再構成の日誌の体(てい)であるから、南極越冬の体験者である著者・西堀の重要度、関心度順に書物がまとめられるのが自然である。☆私は以前から西堀の「南極越冬記」を知って何度か読んでいた。☆実は本書は、南極の極寒自然の過酷さや人間と自然との触れあい、時に人間を圧倒する南極の大自然の強さや美しさなどが優先の記述ではない。☆むしろ、昭和基地内での越冬隊長・西堀英三郎の人間関係の悩みを最初に中心に読まされる構成だ。☆それは著者の西堀栄三郎にとり南極での越冬生活にて、外部の南極自然よりは基地内部の人間関係の方が心身に響いて強く印象に残ったからに相違ない。☆だから、そうした越冬隊長の部下の隊員らとの人的関係の話が主に最初に優先的に書き込まれる内容記述となっている。☆西堀の「南極越冬記」にて、南極の壮大な自然ではなくて、基地内部でのとるに足らない、つまらない人間関係の摩擦や軋轢(あつれき)をまず読まされて、何ともいえない複雑な感慨を私は本書から毎度、呼び起こされるのであった。

人間は一人で孤独にいるときは案外に問題ないが、二人では互いに気があった者同士でも、同じ空間に長時間ずっと一緒にいると時に気詰まりになり不和を起こすことはよくある(友人、恋人、夫婦など)。☆ましてや三人以上になると、「三人以上は人間社会の始まり」とはよく言ったもので、必ず「二対一」の党派の対立ができて複雑で面倒な人間社会になる。☆南極越冬隊長の西堀栄三郎も、はるか南極にまで行って、壮大な南極自然の中の小さな南極昭和基地の中でとるに足りない、つまらない人間社会に苦労させられていた。☆何が悲しくて、わざわざ遠く大自然の南極にまで行って、ちっぽけな人間同士の対人関係に今さらながら悩まされなければならないのか(笑)。☆ここが西堀栄三郎「南極越冬記」の読み所であり、シニカルな笑い所だ。

当時の西堀栄三郎の正式な役職は「第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長」である。☆南極越冬隊は、南極地域観測隊のうち1年間に渡って長期滞在して南極で観測を続ける隊のことである。☆混同されがちであるが、観測隊員全員が越冬するわけではない。☆観測隊の中には、越冬せずに夏期の短期間のみ観察研究をやって帰国する者もいる。

西堀は第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長であるので、彼は「越冬」を遂げることはもちろん、南極滞在中に積極的に「観測」の研究をやって成果を上げたい。☆南極滞在の期間を最大限に有効に使いたいと考えていた。☆ところが、同志の隊員の中には文字通り南極越冬隊は「越冬」目的のみで、南極で1年間無事に生活することだけが越冬隊の任務であると認識する者もいる。☆そういう隊員は基地を離れたがらず、基地から遠くへの冒険旅行にも出たがらない。☆また若い隊員らは基地内でレクリエーションの楽しみにマージャンを許可してほしいとか、南極の基地生活でも当然カレンダーはあるので、日曜日の休みに当たる日は朝寝を認めてほしいなどと越冬隊長の西堀に要望する。☆西堀は自身が「マージャン嫌い」であり、南極基地生活で娯楽を率先して求める一部の隊員らを内心、よく思っていない。☆「屋外には未知のものがいくらでもあるのに、探求もせずマージャンにうつつを抜かすとは・けしからん」と西堀は思っている。☆国の事業で公費を使って、いわば「日本人の代表」として南極調査に我々は仕事で来ているのに、マージャンなどのレクリエーションに興じ冒険旅行や観測調査を怠る、「越冬」目的だけの一部隊員に西堀は怒りすら感じている。

だが、そこは南極観測隊の副隊長兼越冬隊長である西堀の組織の管理者、上司としてツラい所だ。☆皆の心が離れないよう、越冬隊のグループが不和になりバラバラにならないように組織の長としての配慮で、例えば基地から離れた冒険旅行を西堀が提案する際にも一方的な「命令」ではなくて、後々皆の間に遺恨が残らないように全員一致を目指して年上の隊長・西堀が若い隊員に粘り強く事前に説得してまわる。☆一部隊員が要望のマージャンの娯楽も、西堀は渋々許可する。☆それで結果、西堀栄三郎は「楽しい」自由時間に皆がマージャン台を囲むのを横目に、彼は独り研究室か自室に戻る。☆消灯前、「一日のすべてがすんで寝る前の一杯のウイスキーは、感謝と喜びのための一杯である」。☆そうして、「皆がマージャンに遊びほうけていることや、もっと南極へ来ているという意識をもってもらいたいなどと思ったため、考えつめて、ゆうべはよくねむれなかった」など、隊長・西堀の管理職的憂鬱(ゆううつ)な記述が続く。

今さらながら何が悲しくて、この人は・わざわざ遠く壮大な大自然の南極にまで行って、とるに足りない、つまらない人間同士の対人関係に悩まされなければならないのか。☆西堀栄三郎「南極越冬記」は読んでシニカルな可笑しさ、悲しみの笑いを大いに誘う。☆ただ誤解しないでもらいたいのは、本書にて中盤や後半には著者の西堀栄三郎が、南極自然への観測・実験や自然科学現象について専門的に語る場面も多く出てくる。☆例えばオーロラの観測、宇宙塵(ちり)の季節的変化の解析、氷の塩分調査、皇帝ペンギンの観察などだ。☆岩波新書「南極越冬記」が南極のことを真面目に知りたい、将来は科学を学んで自然科学の道に進みたい若い読者を惹(ひ)きつけ、満足させる名著であることも付け加えておきたい。

私達が西堀の著作や彼の生涯から積極的に学ぶべきことは、いわゆる「科学(者)と国家の関係」だ。☆それは「科学(者)と国家の共犯関係」とより厳密に言い換えてもよい。☆西堀栄三郎が科学者として優れていることはいうまでもないが、他方で西堀は自分らが進める科学研究や事業プロジェクトに関し、政府に掛け合って国費(つまりは税金)から研究費や活動費用を調達できる社会的外交の交渉の手腕に非常に優れた科学者であった。☆西堀栄三郎は、京都帝国大学理学部化学科を卒業し東京電気(東芝)に入る。 ☆それから後に京大に教授として復帰してからも精力的に活動し、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務める。☆日本人初の八千メートル級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役として活躍した。☆日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた。

本書「南極越冬記」を執筆時の西堀の現職肩書は、日本原子力研究所理事である。☆2011年、東日本大震災にて福島第一原発で放射能漏れ事故が起こる。☆福島原発の苛酷事故の報に接し、「科学(者)と国家の関係」の問題とともに、かつて「南極越冬記」を執筆した日本原子力研究所理事であった西堀栄三郎のことを私は反射的に思い出していた。☆西堀栄三郎は1989年に亡くなっている。☆西堀にとっては幸いなことに(?)、彼が原子力研究所理事の現職であった時には日本の国内原発にて苛酷事故は起こらなかった。☆「西堀は無責任で運がよかったな」と皮肉混じりに私は思った。