8bb8e9cb.jpg近年、漫画家の水木しげるが非常に注目されて、その半生がドラマ化され、私も映画版「ゲゲゲの女房」を劇場に観に行ったりしたが、そんなとき・なぜかいつも・つい思い出してしまうのは、寺田ヒロオのことだった。

水木しげるというのは、貸本漫画から始めて・しばらく売れない不遇の時代が続いて、だが自分の妖怪マンガを信じて・ずっと描き続けて、自身から世間に迎合するのではなく、ついに周りに自分の画風や作品を認めさせた偉大な漫画家であった。☆彼は本当に、幸運な運と本物の実力とを兼ね備えた極めて希(まれ)な例だと思う。

マンガ業界、おそらく貸本あたりから始まって、児童雑誌の別冊ふろくで漫画の特集が組まれるようになり、やがて漫画のみの月刊誌ができ、さらには週刊になり、すると非常に短い連載スパンなため漫画家一人の作業ではなく、多くのアシスタントを使ったプロダクション形式で作品を量産するようになる。☆このように漫画の掲載形式や創作過程を見ても、その都度・大きな変化があるわけで、さらに読み手の子どもたちの好みも変わるし、社会の風潮や、その時々での流行もある。☆人気・実力ともに申し分なく、文字通り「成功した」一握りの漫画家がいる一方で、そういった流れに乗れず、もしくは自分から・あえて乗らずに脱落して筆を折った漫画家も多くいたはずだ。

そんなマンガの一線から退いた、膨大な「かつて漫画家だった」一人として、私は寺田ヒロオを思い出す。☆貧困の・どん底から自分の漫画を信じて、社会の流れに乗って成功した水木しげるに対する関心注目といった近年の世間の動きを見ていると、いつも反射的に寺田のことが頭に浮かぶ。☆だから、ここ・しばらくは寺田ヒロオ=「テラさん」のことなどを。

繰り返しになるが、社会的に成功した一握りの人気漫画家がいる一方で、そういった流れに乗れず、もしくは自分から・あえて乗らずに脱落して筆を折った漫画家など、たくさんいる。☆夢破れた「かつて漫画家だった人」というのは、それこそ無数にいるはずだ。☆寺田ヒロオも、そんな無数の漫画家のうちの単なる一人のはずなに、その中で時に彼が注目され脚光を浴びてしまうのは、寺田ヒロオがトキワ荘で一緒だった後輩たち、トキワ荘出身の漫画家らが、かなり売れて成功し、後に彼らが「自分たちの青春」としてトキワ荘の時代を大いに語って、そこに、いつも先輩のテラさんの話が出てくる、そのことに他ならない。

藤子不二雄の二人、安孫子は富山から東京のトキワ荘に手塚治虫を訪ねに行って、そのまま手塚の向かいの寺田の部屋に一週間滞在し・世話になっているし、いよいよ二人が漫画家を目指して上京し、トキワ荘の・かつての手塚先生の部屋に引っ越して来たとき、寺田からの手紙(東京での暮らし方や、アパート入居の際のご近所への挨拶の仕方などを詳しく書き記したもの)の非常に丁寧で細かな文面に、二人ともエラク感動している。☆また安孫子は、「まんが道」で自分たちの青春を振り返り、トキワ荘での先輩テラさんのことを直接に作品に描いている。

石ノ森章太郎も、当時はまだ高価だったステレオを購入したら金がなくなって、「寺田バンク(銀行)」のテラさんにお金を貸してもらったりする。☆赤塚不二夫に至っては、漫画家を続けても芽が出ないから、マンガを諦めてキャバレーのボーイになろうと決心してテラさんに相談に行ったら、かなりの生活費を貸してくれて、「この金が続くあいだは漫画家やめるな!」。☆それで、しばらくして・たまたま描いたギャグ漫画が編集者の目に止まり、連載が決まって一気にギャグ漫画家として開眼する。☆「あのときテラさんに金を借りずに漫画家をやめていたら、赤塚はキャバレー王になっていた。テラさんは漫画家・赤塚不二夫の恩人」といった話である。

寺田ヒロオは彼ら現在売れっ子のトキワ荘出身漫画家たちの青春回想に・よく出てくるので、本業の漫画作品以外で例外的に広く人々が知るところとなる。☆私も藤子不二雄の安孫子による「まんが道」が決定的だった。☆「まんが道」を読んで寺田ヒロオのこと最初に知ったと思う。☆そして、そこからの「トキワ荘での面倒見のよい頼りになる兄貴分」たる寺田ヒロオのイメージが強い。☆しかし、実際の話は多少ニュアンスが違う。

確かに生活費に困ってお金を貸すとか、漫画のアドバイスをするなど、物心両面でテラさんが「新人漫画家たちの兄貴分」であったことには相違ないが、後日、寺田本人に話を聞いて当時、親しかった漫画家を尋ねると、トキワ荘の仲間ではない。☆「藤子不二雄の安孫子さんあたりを普通に答えるのかな」と思っていると、全然違う。☆以前、会社勤めをしていた寺田を漫画家に誘った棚下照生だという。

棚下照生というのはチャンバラ漫画などを描いていた人で、売れっ子になって当時なかなかの原稿料を手にして、それで芸者を呼んで騒ぎまくって血を吐くまで酒を飲むような無頼派な人であった。☆真面目な寺田とは、いわば正反対の性格だった。☆しかし、なぜか二人は気が合った。☆寺田は、比較的自然に何でも棚下には楽に話せた。☆トキワ荘の当時を振り返り、安孫子は言っている。

「テラさんがトキワ荘時代に自分たちとの交遊以外に、棚下さんのとこに・よく行っていたっていうの後に聞きましたけど、テラさんは、いつも自分たちの前では面倒見のよい頼りになる兄貴分で、みんなも『テラさん、テラさん』って慕って、自分の悩みとか話すことはなかった。一切そんな素振りは見せなかった」。「テラさんは普段歩くときも常に・しっかり手を握りしめてね、『あーこの人は片時も気を抜かない人なんだなぁ』って思いましたよ」。

実際に一人の漫画家として、マンガ作品の勝負で寺田ヒロオはトキワ荘の後輩らに対し正直ツラいところがあったと思う。☆いくら先輩として慕われ、彼らから頼りにされていたとはいっても。

「自分が筆が遅いということは痛感させられました。…トキワ荘時代にも、仲間たちに手伝ってもらうことはあったのですが、たとえば別冊付録を石森はじめ何人かに頼んだんですが、皆けっこう速いんですね。練馬時代に、安孫子素雄が来宅したおりに、なにか手伝いますよといわれて、色を付けるのやってもらったことがあるんです。かれがやり始めるのを横目で見ていると、すぐに手を休めて紙面をじっと見ているんです、なにをしているんだろうと、よく見るともうすんでいるんですね。とても自分にはまねができないと思いました」。

石ノ森章太郎、藤子不二雄らは手塚治虫の「漫画家になりたいのなら、一流の映画を見て、一流の音楽を聴いて、一流の本を読んで、そこから自分の世界を見つけなさい」の教えを守って、「映画や音楽などの他のジャンル以上の世界をマンガで表現して、マンガで凌駕してやろう」くらいの野心と勢いで、練りに練ったストーリー展開、斬新な構図や個性的なキャラクターを漫画に持ち込む。☆だが、テラさんは全くそんなタイプの漫画家ではない。

映画や音楽や流行など、新たに何かを外部から自分の中に仕入れて仕込んで消化して吐き出して、新しい漫画を描くというのではなくて、自分の中にある変わらない大切なものを漫画として地道に出す人だった。☆そういうタイプの漫画家であった。

「トキワ荘でのことも、…ぼくが偉そうなことをいったことなんてないんです。ぼくはそんなに頭もよくありませんし、他の連中のほうがずっとインテリで、なにも知らないぼくのほうが赤恥ばかりかいていたんです」。「ぼくはあまり興味がなかったが、他の連中は映画も好きだし、買物なんかも好きでしたね。しょっちゅう出かけていました。皆の話題が映画の『第三の男』だったりしても、ぼくだけ観ていないわけです。それを観ないと勉強にならないかなと思って行ってみるんですが、すぐに頭が痛くなってだめなんです。食事をしてから行ってみたり、食事をしないで行ってみたり、朝一番の空気のいいときに観ようと思って行ったりしてもだめでした」。☆テラさんは、映画を観て刺激を受けて、その手法を漫画に取り込む手塚治虫らとは違って、映画を観ると途端に頭が痛くなってしまう人だった。

ここにきて、例えば手塚治虫「ジャングル大帝」最終回での、自分を犠牲にして吹雪の雪山でレオが死ぬ最後の場面の背景の筆入れを藤子不二雄の安孫子が手伝ったとき、ずっと手塚先生の仕事場にクラシックのレコードが流れていて、スゴく感動しながら高ぶる気持ちでペンを入れたという例の有名な話があるが、そういう漫画の描き方とテラさんのは全く違い、極めて対照的だった。☆それでは、寺田ヒロオの描く漫画はどういうものであったかというと、

「描いているうちに、わかってきたんです。自分には、派手なものは描けないし、だいいち楽しくないんですね。あまりゲラゲラ笑わせたり、興奮させたりするんじゃなくて、なにかふんわりとした、笑いだとしても微笑するくらいのマンガが、ぼくのいちばん好きな世界なんだということがわかってきたんです」。

まさに・そうだと思う。☆寺田の漫画は、ともすれば地道で真面目すぎる、だが基本の・ほのぼのとした折り目正しい健康な漫画であった。☆しかし、トキワ荘の後輩漫画家たちは、どんどん新しい斬新でインパクトあるマンガを発明して描いていき、人気が出て一躍売れっ子漫画家になる。☆加えて、マンガそのものの世間での認知や社会的地位向上にも貢献する(例えば、石ノ森章太郎による「萬画」の提唱など)。

しかしながら、寺田ヒロオは自身の「派手じゃない何かふんわりと・ほのぼのとした漫画」を貫き通し、「派手でインパクトがあって面白くて、扇情的であれ何であれ、とにかく売れればよい」の雑誌編集の方針や世間の風潮と対立し、だんだん寡作になっていく。☆そして、ついに筆を折って漫画を描くことをやめてしまう。☆ここに「テラさんとトキワ荘の仲間たちとの重大な悲しい最初の別れ」があると、私には思える。

(※以上、寺田ヒロオ本人の発言引用は、梶井純「トキワ荘の時代・寺田ヒロオのまんが道」、加藤丈夫「漫画少年物語」などによります。)