海を渡った近江門徒

日系カナダ移民のあゆみを主に浄土真宗の仏教会および日系キリスト教会を中心に記したブログです。そして、日系人の宗教を知る上で必要となる、たとえば数的にもっとも多かった滋賀県湖東地方の民俗など、周辺の事象についても述べています。

 ここから話がかわるというので、伝記20とこれから翻訳する部分との間に横線が引かれています。

 マツイ一家が経営するホテルに到着したとき、マツイ氏とユキの二人がトランクに持ち物を詰めていた。清水牧師がその場にいた最初の三分の間にユキは神経質そうに一度詰め込んだ荷物の三分の二を取り出した。清水牧師にはユキがなかば健康を害しているように見えたし、事実、そうであった。この女性はふだん快活かつ沈着な人柄で、教会付属の幼稚園のとてもよい教諭であった。そんなユキの様子が完全に変わってしまっていた。
 「私にやらせてみなさい」と言って、牧師は、ウールの下着、セーター、シャツ、靴下、そして本などをとても巧みにトランクに収めた。これは彼がハウスボーイをしていた頃に習得した技であった。
 「どうしてこんなことが起こってしまったんでしょう」と言い、悪夢なら醒めてくれないかとばかりにユキは沈み込んでいた。
 「私たち夫婦は大勢の他の連中よりはマシです。バンクーバー島から連れてこられた連中は気の毒に何も持ってこれなかった。その点、私たちはこのホテルを売ってお金に換えれば、農場が買えるでしょうし収益もでます。売買する際に大きな損失は出ますが」とマツイ氏は言った。
 ユキは力強く頷いた。夫に自分のことを心配させてはならなかったのだ。幸いにもマツイ氏は道路工事に行かなくて済んだ。官憲が「今日の夜遅くまでに内陸部に移動するのなら」と言った。しかし、どうやったらユキに日系人に敵意を抱いている商人たちとの売買交渉をし、細々した事々のすべてが処理できるだろう? しかし、ユキの心には先だっての日曜礼拝の折、清水牧師が説教のなかでお話になった「こうした事が起こりはじめたときには、……勇気を奮い起そう」という言葉に力づけられていた。あと内陸行きの特別列車が出るまで三時間しかなかく、ユキは先行きへの不安を感じていた。
 「家内を、翌朝、ここに来させましょう」と清水牧師はユキに約束した。さらに、「ドロシーも連れてこなければいけないのですが、きっと家内はお役に立てるでしょう」といい、脱いでいたコートを手に取った。「後で駅でお会いしましょう。私は患者さんたちの世話があるので病院に行きます」

 
訳文のなかで、「バンクーバー島」とした箇所の原文は、the islandです。単数で日系人が多くいたとなるとバンクーバー島だと考えました。実際には多くの島嶼に日系人が住んでいて、開戦後、バンクーバー市内のへースティング公園に集められました。だから、複数のislandsなのですが、原文が単数となっているので上記のように訳しています。

 また、マツイ夫妻はこの夜の遅くに列車に乗るのですから、朝、つまり次の朝にはホテルにはおいでにならないので、清水夫人は終わっていない煩瑣な事後処理やホテルそのもの及び備品の販売に当たられたということでしょう。立ち退きを余儀なくされた日系人の足元を見て考えられないほどの安値でユダヤ人などに買いたたかれたという証言がいくつも残っています。

 ある闇の深い1942年2月の夜、清水牧師はみずからが認めた6通の手紙に封をした。彼は日記に、「戦勝国債を買った」、「羊飼いの呼び声の今週号分を書きおえた」等と記した。そして、つねにそうしているようにバスのなかで読むための小さな本をポケットにしまいこんだ。彼は日記をパラパラとめくり最後のページに達したとき、すこし顔をゆがめて動きを止めた。彼はこれから自分はカナダに着いたばかりのときよりもずっと激しい人生の一時期を迎えようとしているのだと感じた。日系人にとって、この時代は歴史上のほかの何に比することのできないほど苦々しいものであった。とても理解しがたい疑問もあった。日本は枢軸国のうちの一つであった。信者の一人が、「ドイツ系やイタリア系のなかに誰か自分の農場や仕事場に近づけなくなった奴がいますか。運転免許を取り上げられたのなんていないでしょ、清水先生」と言い、目に怒りを湛えたその二世が、「そうですよね、答えは(ドイツ系、イタリア系は何の制限や法的差別も受けていませんよね)」と自答した。

 日系人たちは何故自分たちが不当な扱いを受けなければならないのかを知っていた。それはHill氏がかつて言っていたことであった。キリスト教徒の白人たちが自分たちの暮らしを勤勉な日本人によって脅かされている、と。清水牧師はため息をついた。彼や彼の仲間たちはよほど嫌いな仕事でもないかぎり何とかこなした。解雇よりずっとよかったからだ。今夜は、しかし、そうしたことを考えているときではない。清水牧師にはやらなければならないことが数多くあった。意を決していすから立ち執務室の灯りを消した。駆け足で階段を牧師の住居となっている階上に向かった。

 階段を半分上ったところで、「気を付けて、お父ちゃん」と叫ぶテディの声が聞こえ、すぐさま手すりを滑り台にして9歳の我が子が滑り降りてきた。そして「お母さんは夕食の作って待ってるよ。はやく食べようよ」と言った。

 こころ優しいみずえと夕食の席につくと家族は安心感に包まれた。たとえ、内心、みずえが日本にいる身内のことを気にかけていてもその素振りもみせない。また自分たちの今後に不安を感じていても彼女はそうとは気づかせない。茶わんにご飯を盛りつけながら、まだ三歳のドロシーが上手に食べ物を口に運べるように手助けしながら、家族全員が必要なことがないか目配りしながら、子供たちのテーブルマナーが間違っていないか確認しながら、みずえは取り巻かれている脅威を忘れられるように努めていた。それはテディがこらえきれずに話し始めるまで続いた。
 「夜は外に出ちゃいけないって命令(夜間外出禁止令、curfew)が出てるんだろ、お父ちゃん。ビクターは、お医者さんの下高原先生とお父さんは特別に夜に出かけてもいいってことになるだろうけど、他の人は無理だろうって言ってるよ」
 ビクターは、「もし警察がお父ちゃんは特例だと知らなかったらどうするの? 霧のある夜にお父ちゃんが撃たれて、その後でお父ちゃんだと分かっても……」
  清水牧師は、父親らしい威厳を込めて「そんなことは起こらない」といい、みなを安心させた。「警察官はたぶん私に行動許可証を見せよというだけだよ。そんなことよりバンクーバーを離れて他の場所に移るために身辺の整理をしなきゃいけない他の日系人たちの方がずっと辛いだろう。多くの人たちがそのために仕事が出来なくなるだろう。私たちも教会の在り方を変えていかなければならなくなるだろう。週末に団体全部が集まってミーティングをしなければ……。ここに残っている人がいる限りはその人と会わなければ」と続けた。そして、特に妻に向けて、「道路工事作業のために移動する男性たちの最初の一団が、明日の夜、出発する。数日のうちにさらに何百人かが後に続く。商店やその他の事業を続けている人たちも警察が執拗に取り調べられることになるだろう。話すだけでも嫌になるけど」と言った。
 「私たち、道路工事の仕事に行けるの?」、グレーシィが唐突に言った。男の子たちはその発言をなじったので、彼女は傷ついたようにだった。
 「どこへ行こうと私たちにはやらなければならないことがある」、そう言って清水牧師はグレーシィに眼鏡越しに父親らしい温かい眼差しを送った。
 テディが直立した姿勢で問うた。「それって、僕たちもバンクーバーを離れるということ?」
 「春が終わる前になるだろう」と牧師は答えた。


 文中にある道路工事作業は、18歳から45歳までの男性のみが対象となり、ブリティッシュコロンビア州奥地(一部、アルバータ州)へ道路の敷設作業のために送り込まれました。これについて、私のブログでは安部美丸の項で紹介しています。
http://blog.livedoor.jp/kuniga1959/archives/12149304.html


 とある街の薬局で二人の男が処方箋をもらうのまでの間、話していた。

 「何年か前に奴らをみんな日本に帰しちまえばよかったんだ」とほおを赤らめた男が言った。

 「何か起こったらすぐに奴らはブリティッシュコロンビア州と俺たち一人ひとりの財産を守ってくれるだろうよ」ともう一人が皮肉っぽくいった。そして、「だけど実際のところ、奴らずいぶんたくさん帰っつまったじゃないか。ここにいた連中はよいカナダ市民になったのね。いや住民と言った方がいいんだろうか。ブリティッシュコロンビア州は奴らに選挙権を与えるのを拒んじまったんだからな。だれか奴らのなかの一人でもよく知っている奴がいるのかい?」と続けた。

 「奴らのことなんて知るかよ。俺はアルダーマン・ウィルソンの奴らはずっとゲットーに閉じ籠っていたらいいんだという考えに賛成だな」
 「奴らはいい連中だよ。礼儀正しいし、俺たちのよりずっと法律を守っているし、一生懸命真面目に働くし、子供たちに教育をつけさせようとするし、……」
 「お前が言うことは全部、奴らの危険なとこなんだ」
 「そうかもしれない。だけど俺はひと月分の給料を賭けてもいい。詳しく調査しても、たとえ日本の会社の支店で働いている日本人でさえも、彼らがカナダに忠誠ではないという結論は絶対に出ないだろう」
 「おい、こら。この戦争で、お前はどっちの味方なんだ!」、と喚き散らし、さっきよりもいっそう顔を紅潮させた。
 そう、真珠湾攻撃はくすぶり続けていた西海岸の人々の東洋系に対する敵意に火を注ぎ、ついにこの国に充満していた戦時ヒステリーを爆発させた。日本の参戦はこうした敵意に愛国的な色彩を加えることになった。夜間外出禁止令、収容所送り、戦時移動など日系人に課せられた命令は戦争遂行のための営為とみなされたのだろう。
 

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