2007年04月

打ち合わせ!

昨日は打ち合わせに参加された皆様、おつかれさまでした。
仕事などでこれなかった監督もいますので、再度、メールにて、映画祭フォーマットをお送り致します。
ご確認下さい。

29日

いよいよ監督女優の初顔合わせ!

あたらしく実行委員会ブログができました。

今年の映画祭の実行委員吉田氏の評論です。いままで、フリーページにあったのですが、こちらへも掲載いたします。
尚、これはあくまでも氏の個人的感想、評なので、これが映画祭実行委員会、および、みにきていただいた一人一人のお客様のご意見、ご感想ではありません。ご参考までに。
               かわさきひろゆき



おかしな監督映画祭4 作品批評 (評論:吉田剛也)
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「手の鳴るほうへ」今村洋平監督作品
都電を貸し切り、地方ロケを敢行。美しい風景の中で繰り広げられる物語だが、作品の主題そのものは暗く主観的である。その主観性がドラマを画面んという枠の中に閉じ込めてしまい、あらゆる空間に広がりが感じられないのは何故だろうか。画を創る.画にあてはめるという作業と創作.演出行為とは、別次元の問題だ。画面に見えない物語の広がりが欲しいところである。構成力としては10分の枠に収められるセンスがあるだけに惜しまれる。

「もぐら」マイト監督作品
冒頭の酒場のシーンから楽屋オチ的な雰囲気が漂い、始終その印象は拭えない。『焦燥感→彷徨=答え探し』という主題を、監督や主演女優など本人達のリアルな日常の中で描いたのだとしたら、どれだけの観客がその意味を理解してくれただろうか?日常に題材を求めた場合、日常を切り取るだけではドラマは生まれず、また、主題を表現するための手段として創り手の日常にドラマを求めたのだとしたら、筆者にはそれを、素材選びの失敗としか評価できない。観客は映画を見に来たのであって、映画の裏舞台を見に来たのではないのだから。

「とらわれの華」高橋美希監督作品
高橋美希作品は彼女の私的告白である。ただし、そのエネルギーは決して他方に向けて放出されない。劇中の納豆のように粘着し『解放』という主題自体が作家によって『とらわれの華』と化す。結果『昇華』する事を封じた『華』は、この10分の中にのみ閉じ込められてしまい、ドラマとしての広がりをみせない。といって、これが彼女の個性である。彼女にとって映像作品を創る行為そのものが自らのイメージにとらわれる事であり、彼女自身が『華』なのだから。

「東京Days」前田万吉監督作品
『純』である。ストレートに創り手の想いを画面に打ち出した事に好感が持て、10分という枠にドラマを凝縮させたセンスは評価されよう。絞り込まれた登場人物による会話劇は、決してその舞台となる狭いアパートの中だけに物語を閉じ込めていない。『それまで/それから』を想像させるに充分な情報が空間に存在するからだ。ただし、だからといって筆者はこの作品を『良し』とはしない。目まぐるしくカットバックされる画面構成が登場人物たちの距離の表現を遮り、さらに『時間』の流れを殺してしまっている。テロップ構成など、創り手の想いを伝えようとする意志が強くなる程に、技術的な『作為』が目立ち、『純』が『不純』に見えてくるからだ。

「crisper」今泉力哉監督作品
TVバラエティー番組の、ちょっと脚色された『再現ドラマ』の様である。筆者の私見だが、この作品を評価する観客に問いたい。『劇場にまで来て再現ドラマに共感するアナタ方は、映画に何を求めているのですか?』と。また、この作品の作者に問いたい。『劇場で上映する作品を再現ドラマで終始させる意図は何なのですか?』と。筆者はこれをコントのライブでみせられた方が共感出来ると思う。その方が説得力があるだろう。以下の文章は“トシヨリ”の冷や水として、『若人よ、大人になれ。20歳過ぎたら皆大人だ』と、エールを贈らせてもらう。なおかつ『その意味を熟考しなさい』と、蛇足までに。

「万屋エルちゃん」磯英弥監督作品
人様から『お金』を頂いている以上、出品者側が『なんでもアリ』という意識であってはならない。と、痛感させられる、衝撃作である。『この終わり方で良しとする勇気に拍手』とは、今回アイキャッチを担当した阿知波監督の、本作品のエンディングに対する談である。筆者には、作品自体をオミットする事も、勇気だと思うが。

「ラクエン」豊永伸一郎監督作品
エチュードで展開するという実験的手法にチャレンジした事は、大いに評価されてしかるべきだろう。しかしこの作品で、その手法が生かされているかといえば、疑問が感じられる。整然と時間軸にそって並べられた映像は、上手に編集されたがゆえに、本来の自由さを失ってしまっている。結果として素材は生かされず、そのエッセンスのみが、まるで『台本にそって』構成されたかの様な様相を呈してしまった。撮影する事=演出ではない。作業の工程で膨大な素材を使いドラマを一から構築する試みはなかったのだろうか?

「DOLL」RANKO 監督作品
今回の上映作品中、最も劇映画らしく、抜群の安定感を持つ作品である。ただし、安定感があるというのも善し悪しだ。技術面の熟練が、必ずしも監督の意志とリンクしているようには感じられない。監督映画祭という主旨からして16歳のRANKO監督の哲学が見えて来なければ、上映会の企画を反映しているとは言えず、また監督の作家性として評価が出来るものでもない。あまりにも稚拙な20代を露呈した「crisper」の方が、この点に於いては、趣旨の対象としての評価価値があると言えよう。『門前の小僧』からの脱却を求む。

「セイケン」前田広治監督作品
自分が『面白い』と思うものに遭遇し、それを創り上げた若いパワーに敬意を表したい。マンガ好きなのだろうか、彼らの世代が愛読したであろう少年ジャンプの中から飛び出したような(マイナーな題材なので少年ジャンプじゃなくて少年マガジンか?)ビジュアル重視のスタイル(これは撮影を担当した渡辺世紀の力量によるものではない)に、小粋にちりばめられた考証事。技術力は稚拙極まりないが、それを創作として観せられるだけのパワーがこの作品にはあるように思う。これはたいしたものである。

「回転実験」荒木憲司監督作品
独自のイメージを表現豊かに、かつ的確に構築したセンスに拍手。プロの手腕を提示しつつも、それを誇示(業界において筆者の知る限り、プロである事が自己顕示欲である監督の多い中)する事もなく、映像作品としてのアート性を満喫させて頂いた。技術的な熟練が、決して作品のあり様を邪魔する事なく、チープである事(陳腐の意ではない)が小粋に見る者の目に映る。これはいわゆる劇映画ではないが、映像作品と劇映画の境界線がどんどん壊れて行く中、参加監督の劇作家である映画祭で、この作品を出品した意義は大きいと思う。

「暴霊の橋」若林立夫監督作品
バイレンスホラー作品として、10分という枠組みにキッチリと構成された良品である。感覚的かつ抽象性を一切排除して、エンターテーメント作品に仕上げた手腕は、さすが、アクションの雄である。ただし、この作品にはキッチリしようと努めた点に大きな落とし穴が待ち受けていた。説明過多な台詞が、時間の流れを止めてしまい、観る者の集中力を逸らしてしまうきらいがある。幽霊は待ってくれません。

「Blue」世志男監督作品
高いテンションの芝居、的確なカメラワーク、舞台演出家らしい停滞する事のない時間の流れ。かつこの作品にはクリアーな、聡明さがあり、小気味良い洒脱なセンスが観る者に好印象を与える。それなのに作品の持つパワーは、その事に反比例するかの様にラストに向けて盛り上がらない。始終インテンポな印象が拭えず、そのテンポ感がドラマに広がりを与えないのだ。それ以上に、熱い男.世志男の熱さが見当たらない。創り手が常に冷静かつ客観的に構えている様な印象が強く、あらゆる出来事が絵空事に見えてしまうのだ。これはどうした事か?

「あいのえいが」宮野真一監督作品
極めて内向的、かつ私的な感情をストレートに表現している。しかし、その表現は『大人』らしい技法で、劇映画としての存在感を脅かさない。あくまでフィクションとして構築しきれる手腕は、長年自主映画の雄として作家活動をしていた氏の面目躍如であろう。ただし、ここまでの自虐的個人映画になると、その反面に隠れているディアボリックな姿勢が浮き彫りになり、創り手の加虐性が、観る者によっては拒絶感を生じかねない。この作品における『あい』とは、作品に対する『あい』でも、映画に対する『あい』でも、女優に対する『あい』でもなく、自分自身に対する『あい』にほかならない、と感じられるからだ。

「エンザイ」福島拓哉監督作品
里見瑶子は『気違い』が良く似合う。これは役者として大した事である。気違いを演じる俳優のほとんどが気違いには見えず、上面だけの『お馬鹿』に見える事が多いからだ。でも作品はというと、センスの良い映像にカブる読めないテロップと、作為的極まりないOFF台詞の女二人の芝居が、著しく作品を低下させている。OFF台詞はキャストの力量に問題があるだろうが、これでは里見の存在のリアルさを、殺す結果にしかならない。テロップから上映状況の問題では片付けられない、創り手の観客に対する『冷淡さ』が感じられたのは、筆者だけだろうか?

「Old Friends」森山茂雄監督作品
『自然体』である。この自然体という事が、いかに難しい事なのかという事を、筆者も含め、監督業でメシを食っている人間はイヤという程思い知らされている。では、自然体とは何か?それは俳優の演技だけではなく、撮る側にも求められる事である。すべてがそこに『本当』に『有る』かのごとく『時間』が流れ、受け手にもその事が『共有』される事である。しかもそこに『作為』が感じられてはならない。そうした意味で、この作品はプロの仕事である。我々職業監督の中からこうした佳作が生まれた事を嬉しく思う反面、10分という枠を呪わしくも思う。あと数分枠があったとしたらこの作品はもっと『よい映画』になっていただろう。さらに60〜80分といった、我々が通常に下請けをして作品と同じ時間枠が...と、ここで私は思うのだ。では、この作品を森山監督が長編枠で演出した場合、果たして『自然体』である事が許されるだろうか...?この作品が10分枠で発表される場に於いてしか上映の機会が持たれない事にこそ、我々が架された宿命めいたものを感じるのだ、と言ったら、大袈裟だろうか?



テスト

テスト

超新星自由座「小鳥の水浴、片目のジャニー」

84d8fcbb.超新星自由座
小鳥
★「小鳥の水浴」作・レナードメルフィ 訳・池島ゆたか 演出・かわさきひろゆき
★同時上演
「片目のジャニー」作・デイモンラニアン 脚色・かわさきりぼん 演出・RANKO ★2007/7月26日〜29日 19時開演!
高円寺稲生座03−3336−4480
キャスト(小鳥の水浴) 水原香菜恵 しん 西入美咲 藤内正光
(片目のジャニー)
広正翔 前田広治 蘭子
★料金 前売り1500円当日1800円(ドリンク代別)
問い合せchousinseikawasaki@jcom.home.ne.jp
TEL08050829918
http://blog.livedoor.jp/chousinsei/
ご予約はお早めに!

劇団クラゲ荘第四回公演『Heaven's Door』

劇団クラゲ荘第四回公演
『Heaven's Door』

2007年 4/3(火)〜8(日)
◎4/3 火<19時>
◎4/4 水<19時>
◎4/5 木<19時>
◎4/6 金<19時>
◎4/7 土<14時/19時>
◎4/8 日<15時>
※開場は開演の30分前です

■会場:中野ザ・ポケット
■料金:前売・予約/3000円
    当日・3500円

脚本:水上竜士
演出:前田万吉

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