2007年07月26日

14.中華のスープ碗

1e2b1ca9.jpg スープ碗。中華食堂や大衆食堂でよく見かける小ぶりの器。

 白い無地の器というだけでもはやお腹いっぱい気味かもしれない。誰もが一度はお世話になっているであろう器だ。手取りはちょっと重く、頑丈で日常使いの頼りになる道具だ。形もバランスがとれていてきれいだと思う。実に安い。これが、現場でガチャガチャとあわただしく使われ、たいして大事に扱われていない。かざりっけのない姿は、住まいを選ばぬ働き者だ。絶賛される物でこそないが、今ある日々はこうした物によって作られてきた。えてしてこういう存在に限って、正当な評価を受けていないことが多い気がする。とはいえ、多くの場で実際に使われ続けていることが、何よりの賛辞だろう。そうした器なのだが、見ても見ても何事もなく見所もなく、実に素っ気ない。

 物には作られた背景がある。器であれば、その原型はすでにどこかにあったものだ。今回は、器の昔々に遡る話ではないが、この器の向こうには「昭和」という年号が見えてくる気がしている。裏づけも根拠もないのだがそんな匂いがする。あながち外れてはいないだろう。

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 昭和といえば、父母がまだ若く、祖父母がまだまだ元気で、実に色々なことのあったあの昭和だ。なぜかその響きから思い起こされるイメージは、真夏の照りつける太陽だったり、宙に抜けていくような青い空といった、暑い暑い夏の日々だ。その昭和というものが、それ自体一つの大きなかたまりのように感じられる。たしかに今住まいとするところ、目に入り、手に触れる多くは昭和期に作られたものも多い。たとえ、年号を越えて作られた物でも、その根は昭和に根ざしていることが多いだろう。それは物にかぎってのことではない。今あるこの日々それ自体が、あの過ぎし日があったからこそと感じられてならない。

 かつて、野に焼けたところから今日が築かれてきたことを思うと、自分が作ったわけでもないのに感慨を感じる。さらに、汗と涙と心身の労苦によって作られてきた今日なお、厳然とした巌のごとくに屹立し続け、姿を変えつつある中で、かつて生きていた魂が大きなかたまりとなって息づき、この現実を支え続けてくれている気がしてならない。逆に言えば「おちおち安心して見ちゃおれない」からなのかもしれない。そうした産みの親を背景に、押し出されるようにして生まれた一つがこの器だと感じる。かつての、額に汗する中から生まれ、そうした日々をまちがいなく支え、こうして涼しげな顔で立っている。

 今や国宝とあがめられる茶碗だって、時代を違えこそすれ、かつて同じように生まれてきたのではなかっただろうか。生活の中での普段使いという点で見れば同じはずだ。名もない陶工によって、生活に根付き、生活のために作られ、そうしたものがあったからこそ、人は今日に至るまで、時をつないで来れている。名も功もなく、純粋にくらしのためにあれと作られたものは、手仕事のぬくもりといったやさしげな言葉をとうに超えている。今やガラスケースの中とはいえ、収まるべきところに収まったまでの話なのだろう。

 この器の肌はうすい水色を帯びている。焼き物の白磁や青磁は、何にも色づけされていない無垢なるものへの憧れとして、未完の完成とも言われている。往々にして、人は原初への回帰を、誕生から遠ざかるほどに憧れを募らせているようだ。やがて、それは浄土への信仰へと結びついていくのだ。結局、望まれるのは、この世を悔いなく渉り終え、きれいさっぱりと去り行くことなのだろう。焼け野を通じ、新たな時を築く中で、そうした祈りとも似たものが、作られる物に込められていたとしておかしくないと思う。そして、そうした想いというのがいまだ脈々と息づいているように感じられるのだ。

 かつて、極が極を生み、焼け野から再生しながら次へ次へと歩みを進ませている。暦日を俯瞰しても、いまだ枠組みを作り出せないのが現実だ。何をどう作るかという答えが求められるが、問いの答えは答えそのものにはない。違和のない営みが、違和のない現実を自ずと導き作り出すだけだ。正直な営みから生まれたものならば、命を健やかにあらしめ、形を作り、やがて街をつくる。いっそのことリセットしたいという気持ちは理解できるにしても、起きたことが在りえることだからとしても、避けて通りたい道もある。できることならば今をスムーズにつないで行くに越したことはない。

 器にその役目があると言っては大げさだろうか? 器といえば、その物自体は空っぽでただそれだけの物だが、その存在と意義は大きい。命は宿る器を必要とし、器は日々の食を支える。互いなくしては用をなせない。双方が結ばれたところからくらしは形作られる。命が活かされ継がれる中で、器は今日を明日へとつなぎ、橋渡しをし、そうして世界は、日々食す命と、食を活ける器から生まれてくる。器を手にするのは一人だが、その一つ一つの手から世界も明日も生まれる。器もまた、今日も明日も作るといって過言ではない。

 そして、くらしを橋渡しとして、心や魂といった見えざるものが形となり運ばれ、諍いや平安が内面の延長線上に形作られる。いつしか人の手によって、自然と人為とが違和なく結ばれるのだろう。器も物も、そうしたところにまで影響を及ぼすと思う。世界を一足とびには作れないにしても、一歩一歩を確実に支えている。人が彼岸に向かう中で、物はまた偶像として、天国行きのキップのように、行く道を支え示唆している。

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 器の中には、名を持つものもある。それはそれとして、無名であろうとも、無垢な物、必然を背景にして生まれた物の向こうには健やかな風景が広がっている。その風景から押し出されるようにして生まれた物が作る現実は信じてもいい気がする。向かうのは喜怒哀楽のドラマを越えたところだ。本来、当たり前にあって然るべきものがなかなかに有り難しなのが現実だ。それでも、それがあることで場が和らぐものもある。心の落ち着きを得られる物がある。そうした物というのは本当に何事もなかったりするが、道しるべは意外なところにあったりもする。ニュートラルな心が世界を全き姿に描き出す。決してそれは向かう先にあるものではないはずだ。この器も、いつの日か役目を終える時がくるのだろう。いや、ぜひとも来なければならない。

  
Posted by kurashinosora at 23:13Comments(0)TrackBack(0)

2007年07月19日

13.煙突のタイル・16〜17Cオランダ

a534ec7b.jpg オランダの煙突に貼られていたタイル(16〜17世紀頃。10×10×1,5cm)。

 オランダのタイルというと、デルフトの、白地に青絵が描かれたものが有名だが、これはそれよりも前の物らしい。そのためか、素焼きは枯れたような風合いだが、素朴でほかほかとした滋味がある。そして、煙突の煙で燻されたような、干からびたような肌に可愛げな図柄が「顔」として彫られている。

 馬に乗った人が、路上にいる人(おもらいさんか)にほどこしを与えているその図柄は、描かれたというよりは、型でおこされたような印象だ。彫りが浅くなっているので陰影をつけにくく、分かりにくいかもしれないが、実際は、あげるもらうというやりとりが分かりやすく描かれていると思う。ギブアンドテイクという行為は古今東西同じ姿になるんだなあと納得し、簡潔に描かれていることに感心してしまった。

 こうしたタイルが、一枚ごとに図柄を変えられて寓話化され、いくつもあるそうだ。何でこの内容だったのか、他のタイルではどのような図柄なのかと興味もあるが、この一枚にとどめおいた方がいい気もする。どうせ、フタを開けてみれば説教くさいお話なのだろう。もはやイソップ物語のブドウを見上げたキツネのようだが、楽しみは忘れるほどに取って置くのも華だ。

 しかし、煙突に貼るためにこうしたタイルをぺったんこぺったんこと作っていたことを考えると、何でこんなに手間のかかることをしたのかと思う。たしかに、手仕事でしか作れなかったとはいえ、また、全てに図柄がつけられたわけではないにしても、数は沢山あったことだろう。時間があったのか、同型の無地レンガを作る手なぐさめだったのか、煙突の鬼瓦か、暖炉に貼って子供に語り聞かせるためかと勝手に考えてしまう。日常で必要に迫られ、程よく手を抜かず、気負わずに作られているだけに、作られた背景や量産された作業の流れが見えてくるようだ。

 一度貼ったタイルを割れないように剥がすのだって骨が折れる作業だろう。その家に住まう家族が記念に取り置いたか、骨董屋さんが剥がしにやってきたのか、いずれにせよ、そのおかげでこうして見ることが出来たのだからありがたい。

 こうした一片一片で組まれ、守られた煙突があり、その先では世界が何事もない物の集積で組み上げられている。逆に言えば、世界はこうした一つ一つに切り分けられ、別れ別れの切なさをもとに作られているのだ。

 地域から、生活から、押し出され湧き出るように生じた物は素朴で一途だ。営みへの信仰も感じられる。飾りっ気なく、作った人の心や精神というものがそのまま鋳抜かれるように形になっていて、時に胸を打たれる。そうして作られた物というのは作為とは対局に位置する。そういえば、宗教美術の残欠にも見えてこないだろうか。ただし、人に色々な表情があるように、時としてぞっとするような怖い物や事があるのもたしかだ。それでもいずれにしても、やがては成り行くものであることもたしかだ。

 作った人も使った(?)人も、今やとうにいないがこれはここにある。この物の向こうには彼岸の景色が広がっている。人も物も、彼岸と此岸を行き来し、別れと邂逅をくり返すなかで、こうした物は双方を橋渡しするように、何事かの名残りをその姿にとどめている。

 さまざまな風に吹かれてここまでやって来て、からからに干涸び、煤にまみれたような顔でいったい何を語ろうというのか。あっちの世界もなかなかにいいところだよ、こうしたギブアンドテイクで世界を作ったのだと、酸いも甘いもかみわけた上で屈託もなく語っているのだろうか。用を終えた今、日向でその身をほころばせながらそんな声が聞こえてくるようだ。何を語るにせよ、何だか懐かしいことである気がする。

 切れ切れの悲しみを埋めるのは、ほかほかとした太陽のようなぬくもりや、何でもないような物事なのだ。たとえそこが枯れ野であろうとも、その果てで世界は始まる。始まらざるを得ないのだ。
  
Posted by kurashinosora at 18:15Comments(0)TrackBack(0)