2008年10月31日

34.白磁・黒田泰蔵

黒田泰蔵1器を遍歴するなかで出会った現代の白磁。

はじめて作品が立ち並ぶ光景を目の当たりにした時、置かれた空間は実にすがすがしく感じられた。
あたかも、山に立ち並ぶ木々によって空気が洗い流されているようだった。
シンプルで、シャープで、ふくよかな姿は洗練されていて、現代の住まいに合う「モダン」なものだ。
しかし同時に、「モダン」というものが、本来いかに多くの意味を内包しているものかとも思った。

焼き物は、それを作る人にとっての、収まりのよい空間作りのようなものではないかと思う。
自らのあり方とその収まりどころ、つまりは命を活けるための器作りと言える気がする。
そして、人は命の収まりどころを求めて旅をしているようなものではないかと思う。
それは、作る人も作らない人も同じだ。
つまり、器を作る人とは、使い手を自らに置き換えて制作する人と言えるだろうか。


黒田泰蔵2暦日、器はくらしの中から押し出されるようにして作られてきた。
土器、陶器、磁器などの全ての焼き物と器は、その時々の営みに応じて作られたものだ。
様々な人に応じるためにも、焼き物もさまざまあるのだろう。
そして、器は営みを支え、器もまた営みによって支えられてきた。
それは物全般に言える。
「モダン」である物もまた、かつて作られた物に支えられた暦日の産物だ。
しかし、連綿とした流れから切り離されるようにして作られている物がとても多い気がする。

現在こうした物を作っている黒田さんは、かつてはポップな造形と色とりどりの色づけをした器を作っていたらしい。
経過はさておき、今は真っ白でシンプルな造形の磁器を制作している。
キメ細やかで柔らかく硬質な白は、ニュージーランドと日本の天草の石をブレンドしたもので、時に金属製のヘラを使用することがあるとはいえ、可能なかぎり道具を使わず、回転速度が極端に遅められたロクロを使って制作されているそうだ。
真っ白でミニマムな造形を得るためには、一つ一つの制作にとてもシビアな作業を要求されるのではないかと思う。

黒田泰蔵3そうして作られた焼き物の一つ一つは、空にたなびく雲のような幾筋もの線の中で、膨らまされ、絞り上げ、引き締められ、明確な形に取りまとめられている。
地肌が薄くのばされ、緩やかに、かつ緊張感を伴って立ち上がり、風船のように膨らませられ、端に向かうほどに更に薄く、やがて宙に溶け込むように切り離されている。
その線には、甘やぐ感情の断片を摘み取るような優美さと鋭さがある。
柔らかな白は、まっさらなキャンバスのようであり、色づけをはね返すような硬さがある。
造形は、作為を凝らしたデザインの産物のようであり、貝殻や、木の葉や木の実のような自然味がある。
ふくよかな身は、豊かに実るべく種を宿しながら、相対しあう様々を内に包みあらわしているようだ。
それは内側から湧き起こり膨らもうとする命と、外から内に向かって切り込む力との間で形作られているように見えるからだろうか。
そうして可視と不可視の間で形となって現れている物に見える。
内から湧き出でようとする力が読まれ、外から加減よく働きかけられ、そうして物が形と為され、作り手として、国の境界を越えていることにつながっている気もする。


黒田泰蔵4最近、活動のマネージメントをあるギャラリー一つに委ね、作品は壺や花器などの美術品に絞って制作されているそうだ。
とはいえ、「作るものは今までと同じで、変わったものでなく、とにかくいいものを作りたい」と言われていた。
そうした今に至れたのも、作品が生活の場を通して練り上げられていったからではないだろうか。

“ギャラリー”とは、“教会の入り口”が語源らしい。
教会とは、あちら側とこちら側、日常と非日常の境界線上にある場所だ。
作品は純粋美を愛でる空間にとても合うだろう。
個人的には中国の宋の磁器がお好きらしい。
しかし、そうした非日常的な鑑賞陶器もまた、日常と分断されたところにあるものではなく、日常の延長線上で練り上げられていったものだ。
食卓はその根の一つだろう。


黒田泰蔵5そうして、色々を辿った果てにたどり着いた白だからこその味わい深さなのだと思う。
奥深い白は、たどった時間の長さを内包しているように見える。
時間とは、焼き物の歴史であり、人の営みの歴史だ。
焼き物は人に寄り添い、人と同じ時間を辿りながら今日に至っている。
その道の一つがここで結実していると感じる。

※ 画像は、ボウル(径:約22cm×高:約7cm)と白磁盃(径:約7.5cm×高:約5cm)。


Posted by kurashinosora at 21:33│Comments(0)TrackBack(0)

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