2009年10月07日

50.紙の米袋

紙の米袋紙製の米袋。

厚手のビニール製が主流となっている今でもまだまだ現役だ。
昔々はわらを編んだものだったらしいけど、じっさいのところ現物を見たことはない。
我が家にはこの紙の米袋が着々と増えていっている。

以前、我が家でのご飯は無洗米だった。
“要”洗米に比べて、お米の栄養素が削り取られていない上に、研ぐ際も軽くすすぐだけでいい。
だから環境・経済面でいいことずくめだった。
だった、というのもここしばらくは白米から五分づきに切り替えているからだ。

五分づきには米屋で精米してもらっている。
ストックがなくなっては精米に行き、なくなっては精米に行くたびにお米はいつも新しい袋に入れられて運ばれてくる。
家にやってきたお米は虫がつかないよう、すぐに大きなタッパーウェアに移し替えられる。
いわば米袋は米屋と我が家とを結ぶパイプラインだ。

五分づきのお米米袋は、他の物と同じく、必要のない時には見向きもされない。
しかし必要とされるシーンでは、これなくして成り立たない。
水に強く丈夫なクラフト紙の二枚重ね、口のところには丈夫な紙製の平紐がついている。
紐を結わいておけば米粒はまずこぼれない。
他に換えられないものの一つだ。
だからなのか空き袋はなぜか取っておかれる。
しかし使われたためしはなく、米粒をこぼすかわりに自らがここにあふれ出してきた。
活躍の場がなく、体をもてあましているのだ。

米袋は今日に至るまで素材と造作を変え、代を重ねてきた。
移り行く命を受け継ぐために、あくまでも“素々”として自らの分を代々貫いてきた。
そのときどきの「今」をあらわしながら、産地と人、命とふるさととをつなぎ、袋の底で歴史の小さな一端を受けとめてきたのだ。
こうした実直な姿に正対できる物は本物だと思う。
ひとときの眼福となる贅沢な物も虚飾の美も、その根ではこうした実直な骨格に支えられているのだろう。

季節の色彩は豊穣の輝きに、輝きは様々な色に置き換わり、器に収められていく。
稲穂と米袋、輝きの輝度を落とした黄土色に一つの落ちつき所があるのだろうか。
最近引っ越した先の米屋では、米袋は使いきりではなく使い回しとなった。
しばらくのあいだ米袋が増えることはなさそうだ。


Posted by kurashinosora at 21:41│Comments(0)TrackBack(0)

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