2009年08月05日

48.ステンレスの洗濯物干し

洗濯物干しステンレスの洗濯物干し。
現代の工業製品。

洗濯物を干すとき、以前はよくあるプラスチック製のものを使っていた。
しかし、かさばる上に寿命は短く、どうにも馴染めなかった。
太陽光に脆いからか、使っているうちに洗濯ばさみが次々と割れ、いつのまにか葉をまばらに残す榊のようになってしまっていた。
榊は葉が落ちきる前に新しいものと交換しなくてはならない。
取替えのサイクルが短いのはさておきとしても、プラスチッキーでよそよそしい付き合いと腑に落ちない別れには割り切れないものを感じていた。
日々接する相手とは心を通わせていたい。
地面はしっかりと踏みしめて歩きたい。
というわけで、このステンレスの登場にいたった。

ミニマムで頑丈な造りは、割れることなく、曲がりもしない。
汚れやホコリ知らずでいつもすっきり顔でいてくれる。
見た目涼やかで場所とらず、実質的にも風通しがよくなった。
日々接する時間は短いけれど、以前より体温の通う付き合いができるようにもなった。
今のところ僕たちの関係にヒビの入る余地はない。

こうした、普段はさほど目を留められないものによってくらしは形作られている。
いわば屋台骨だ。
骨組みだけに目立たない。
しかし、屋台を組む部材一つが変わるだけでも空間の表情は変わる。
表情が変われば心持も変わる。
くらしは心のあらわれだ。

心をかたちにするのは簡単のようでむずかしい。
目に前に透けて見えているのに、意外なほどピントが合いにくかったりする。
ピントが合ったと思いきや、次の瞬間には薄布が揺れるように的は移動していたりする。
そうして人と物は追いかけ追いかけられ、掴まえすり抜けのイタチごっこを繰り返しながら二人三脚でやってきた。
ときに成功し失敗を繰り返しながら、物は人とともに生まれては消えしながら歩んできた。

そんな道具は、ときに抽象芸術、コンセプトアートのようだったりする。
これはいわば“ワイヤーアート”だろうか。
しかし、ここにこじつけの説明はなく、語るべきは身をもってあらわされている。
コンセプトが材料を選び、構造となり、構造はそのまま意匠となっている。
無駄を排し、必然を積み重ねたらこうなった、という面持ちだ。
面にピントが合えば、心が通い、息づきリアルに感じもする。

そうした物ではあるけれど、くらし全体から見れば小さな物だ。
それでも、くらしに血を通わせて生かしてくれる寸鉄でもある。
多くの物がある中で、しっかりとしたくらしの屋台骨となる物ははたしてどれだけあるだろう。
日々はその骨組に肉捲かれた生き姿だ。
骨は頑健に、身は軽くに歩んだ方がいいだろう。
心は指先にまで通っていた方が体はポカポカと温かいだろう。
道々は楽しく、後々に後ろ髪ひかれないために、風通しのよい気持ちをはりめぐらせていきたい。
洗濯物干しは、今日も光と風の海にそよいでいる。
季節の息吹を衣にはらみ、身にまとわせてくれるために。


Posted by kurashinosora at 18:57│Comments(0)TrackBack(0)

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