呉平安教会は広島家庭裁判所呉支部の近くにあります。
この写真はその近くから撮影したものです。
呉市テニス場の向こう側に十字架の塔のある呉平安教会が見えます。
ここから行くと少しばかり坂を登った所に教会の入り口があります。
教会があるのは丘の上という程高台ではないのですが、ここで「丘の上の教会へ」という題の讃美歌を紹介します。1番だけ記載します。
讃美歌第2編189番1
丘の上の教会へ
のぼる石だたみ、
春は桜のはなびら、
手のひらにうけてのぼる。
(ほら ディン ドン、 ディン ドン ...)
さやかにやさしく
ベルは鳴りわたる。
あぁ、なつかしい教会へ
きょうこそみんなで帰ろう。
この讃美歌はリズミカルな曲です。
リズミカルに教会へ
いらしてはいかがですか。
(ホサナ)

今日は桜の花びらで少し工作してみました。
さて次の日曜日はイースター(復活祭)です。
イエス・キリストが十字架についてから3日目に墓より甦られた記念の日です。
クリスマス、ペンテコステと並ぶキリスト教のイベントの一つです。
十字架について死に至らされたイエス・キリストが復活されたと知って弟子達は喜びました。(中には実際に証拠を見ないと信じない、と疑った弟子もいましたが。その弟子も後に実際に見て信じたと聖書に書いてあります。)
復活の象徴である百合の花のこんな讃美歌があります。
讃美歌496番の1番だけ書きます。
うるわしの白百合 ささやきぬ昔を、
イエスきみの墓より いでましし昔を。
うるわしの白百合 ささやきぬ昔を、
百合の花、ゆりの花、ささやきぬ昔を。
共にイエス・キリストのご復活をお祝いしましょう。
(ホサナ)
![DSC_0592[2]](https://livedoor.blogimg.jp/kurehei/imgs/c/2/c2c5f2ba-s.jpg)
呉平安教会の入り口にある花壇に色とりどりの花が咲いています。
花をお世話する奉仕係の方が、端正込めて作られたものです。水やり、肥料やり どれを欠いても花は咲きません。
花は生かされています。
私達もそうかもしれません。
私達も神様に生かされているように思います。
喉が乾けば水を与えられ、神様の愛という肥料をもらい、そうやって何とか生かされているのではないでしょうか。
マタイによる福音書/ 6章 28~29節
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
私達が日曜日礼拝に来る時に「お帰りなさい。」そして帰る時に「行ってらっしゃい。」と私達に言わんばかりに咲いている花達。
花を見ながらそんなことを考えました。
(ホサナ)
2019年3月24日(日)に呉平安教会でオルガンコンサートが開かれました。
玉里照子先生が演奏されました。
これで当教会での2回目のコンサートとなります。
私達に分かりやすく解説されながらの演奏となりました。
荘厳なパイプオルガンにも比毛をとらないような調べで、
聞いていて心が落ち着くメロディーでした。
約300年前に作られた曲が今の私達を当時と同じように、
神様の御前に連れていってくれているように思いました。
又玉里先生が作られたこども讃美歌の演奏もありました。
途中で小林克哉牧師のメッセージがありました。
災害ボランティアをした時に、讃美の歌に励まされた被害を受けた方のお話が印象に残ってます。
玉里先生は午前中にあった教会の礼拝でもオルガンの奏楽の奉仕をされました。
礼拝の前奏と後奏のオルガンの音色を心が踊るようにして聞きました。
コンサートを聞きに来た沢山の聴衆者も心が安らいだでしょう。
玉里先生は呉平安教会の奏楽の奉仕をされている方々のオルガン指導もされています。
引き続きよろしくお願いします。
久しぶりの更新です!!
12月に入って、急に寒くなってきましたね。
12月2日(日)に降誕節第一主日を過ごし、
今週は早くも降誕節第二主日。
アドヴェントのロウソクを
二本灯しました。
12月9日日曜日
午後からの、呉市民クリスマスにも、
たくさんの方が来られました^_^
聖歌隊によるハレルヤコーラス!!
心躍るメロディ♫
ゲストの本田路津子さんの透き通る声
メッセージでは、日本アライアンス教会の政所牧師によるメッセージ
羊飼いたちの
イエスさまに出会えた喜びを
私たちも想像し、ともに喜びました。
今年は夏の豪雨災害の為に、開催すら
危ぶまれていたそう。
それでも、神さまの導きによって
呉市内の人々が集められ
イエスさまのもとに、楽しい時間を
過ごすことができました。
感謝!!
私たちの教会では、11日火曜日には、
12時から歌の集いのクリスマス会
30名近い方々が集まって、
賛美歌を賛美して
ご飯を食べて、
ケーキとお茶をいただく
楽しいひと時。
楽しい交わりが




続きます!!
『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』
〝霊も〟言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。
その行いが報われたからである。』」(14:13)
ローマ帝国の迫害により殉教する者が出ていた教会に向かって、
ヨハネを通して天から語りかける言葉が与えられました。
知り合いのキリスト者が殉教したという知らせは、
いつ自分の身にも危険が及ぶのか分からないということでした。
信仰を捨てた方がいいのか、主イエスへの信仰を守り忍耐し続けるのか。
時に、人は死と真正面から向き合わねばならないことがあるのです。
日本の文化は死の話しをすることを縁起が悪いと嫌う傾向があります。
死は災いであり遠ざけたいものですが、また回避できないことでも
あります。
どう死ぬかということは、どう生きるかということと関係しているのでは
ないでしょうか。
「主に結ばれて」は元の言葉を単純に訳せば「主の中で」です。
主に結ばれて生きる(主の中で生きる)とき、主に結ばれて(主の中で)
死ぬことができるのだと言えるでしょう。
牧師として病床を訪ね何度も経験したことの一つが、
痛み苦しんでいる方が、「イエスさまは十字架の苦しみは
どんなにか大きなものであったかを思わされています」
と言われることです。
その時、その方の痛みや苦しみは単なる痛みや苦しみではなく、
主と結ばれた、主の中での出来事になってます。
死ぬ時は誰でも一人であると言いますが、死においても
主イエスはわたしたちと共におられると聖書は約束します。
死は、主に結ばれた死、主の中での死となるのです。
宗教改革時代に生まれ今日も愛されている
ハイデルベルク信仰問答の最初は有名です。
問 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。
死もまた幸いとされるとは、何と驚くべき慰めでしょうか。アーメン
[主日礼拝説教より「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」
ヨハネの黙示録第14章6~13節](牧師 小林克哉)