山川旅人日記

富山県を中心に、歴史・読書・山川めぐりetcを書き込みます。

中欧「旅人日記」⑨宮本輝『ドナウの旅人』1985

太閤山の今の様子を一枚。
睡蓮の開花が今年はグッドです。

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宮本輝『ドナウの旅人』は朝日新聞連載(1983.11~1985.5)。
単行本は1985年6月発行。

連載中は時々読んでいました。母・絹子が17歳年下の男・長瀬と出奔・・・という始まりに、何だそれは、という違和感があった。
延々と連載が続き登場人物も「この人は何処から出てきたのだった?」ということが多くなり、気持も遠ざかって行った。
かくして、連載中はたまに見る程度となり、今になって、全体がどうなっていったのか、気掛りになりました。

映画サークルで宮本輝原作・映画『蛍川』上映(7/12、13)と聞き、ドナウ川を見てきたばかりだし、ここらが『ドナウの旅人』読む最後のチャンスだろう、ということで、読んでいました(安易な発想です)。

仏のマクロン大統領の夫人ブリジットが夫より24歳年上という現代、「17歳なんて大したことない」という人も多くなった?
夫の定年退職を機に、夫婦離婚も珍しくなくなった。
この小説は優れた先見性があったようです。

ドナウ川を下って黒海まで旅行する、娘の麻沙子と元恋人・シギー(ジークフリート)の再会・同棲までは想定内ですが、謎の人物・尾田の出現から、小説の行き先のい霧がかかってきました。

一行はウィーンではザッハトルテに行く・・・今回の旅行でも目的にしている人を多く見ました。お菓子目的だから、当然、主に女性でした。
男性陣はそれについて行くという様子。
年配者が多かったから、『ドナウの旅人』の読者がいた可能性もありますが、そのような雰囲気は会話の中ではなかったようでした(少し残念)。
「ザッハトルテ」という京都で活躍中のトリオはどうかな?

『ドナウの旅人』には、ブダペストではハンガリー動乱の生々しい記述もあり、未だその記憶が生きていた時代を髣髴させます。
今ではなくなったユーゴスラビアですが、そこからルーマニアまでの国境通過の難しさはストーリー展開の原因にもなっています。
小説の結末は、なぜか知っていましたから驚きません。
細かいいきさつ、行き違い、等々を経験して、人は成長していくことを宮本は描きます。「宮本小説に悪人は出てこない」。

中欧旅行を計画して、当ブログを読んでいる人なら、この長編小説を事前に読んでみるのもいいでしょう。現代との違いを実感し、旅行で目にすることが全てでないことを理解できるのでは。

1991年からのユーゴスラビアの内戦・解体、忌まわしい殲滅作戦・民族浄化を経た今日では、このような小説は書けないでしょう。
映画「サラエボの銃声」を先日「シネマカフェほとり座」(富山市中央通)で見ましたが、人々の間には未だ生傷があるようです。この悲惨な出来事を小説に取り入れるには、まだまだ早すぎるようです。

この悲惨なユーゴスラビア内戦・解体も、ドナウ川の長い歴史の一齣、「中欧10日間の旅」では、ほんのかけらですね。しかし、世界級の大河の歴史の複雑さは十分わかりました。
古代へさかのぼって、20世紀の二度の世界大戦・オスマン帝国・モンゴル戦、マジャール・フン族・ローマ帝国・・・という大規模で長期の悲惨な戦争を見ていたドナウ川。
旅人いわく、「それでもドナウは流れる」。

PRに協力して、『蛍川』はちょうど30年前の製作。蛍川のモデルは「いたち川」。
宮本輝は富山市を舞台にした小説で芥川賞受賞。三国連太郎主演(スーさんに合掌)。

北日本新聞ホールで。関心ある人はどうぞ。


6月研修会:mhtさん報告「石動山(後)」6/23

今日は全国的に雨、久しぶりの本格的な降雨で、畑の水やりに困っていた友人は喜んでいます。自動車が埃っぽくなっていたのを雨が流してくれると喜ぶ向きも。
梅雨・・・無ければ困るし多すぎても困る、大雨による被害が出ている地方もあり、人間の都合のいいようにはいきません。

先日の研修会の日は、会場の豊栄稲荷神社(富山市茶屋町)は、強い日照りでアジサイの花が輝いていました。

あじさい

その研修会を報告します。
2月研修会報告の後半部分の発表でした。

A.石動山を覆った二つの戦乱
1.南北朝:国司の中院中将定清は立てこもったが戦乱で絶命し、寺院ことごとく焼失した。寺院は後、再建された。

2.石動山合戦:戦国時代には加賀・前田氏と越後・上杉氏の争乱の舞台となった。前田利家は荒山峠の戦いで勝利し、石動山は2度目の全山焼失する。

(補)wikipedhiaより。
このときの焼き討ちは、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちに似ているともいわれ、数百人の法印のみならず児童子まで撫で斬りにしたとか、千六十の首を山門の左右に掛け並べたなど、凄惨な弾圧がなされた。
かなり無茶苦茶したようです。近世の前田氏支配下では保護を受け、大窪大工によって寺社は再建された。

B.知識米と知識田:加賀・能登・越中・越後・佐渡・信濃・飛騨の七か国を巡行し、戸毎に米を徴収して納経札をや箸を授けた。鹿島・羽咋では3升徴収し、うち1升は気多神社に納めた。砺波・射水では3升集め、1升は二上権現・養老寺に納めた。
勧進巡りは春の雪解けを待って開始、8月お盆過ぎに帰山し、3.5万石をかき集めたという。

C.石動の山伏
1.山伏(修験僧)のルーツ:役行者、泰澄、空海と発展してきた修行法は、中世の密教僧や俗僧ら山伏によって広められた。そのなかには山師(鉱山探索集団)もいた。

3.京都の仁和寺・勧修寺との関係を強めた。京都の鬼門に当たると称して、皇室の安泰と鬼門鎮護の祈祷を行い、各地で「験力」を誇示、分霊社を造った。

4.修験者の活動:僧兵、祈祷集団、「伊須流岐の一本薬」などの製薬(近年まで宝池院で製造)。
幕藩体制の定着に伴って幕府は無境界に往来するこのような集団を危険視し、天台・真言の二系統に統制していった。服装・スタイルはバラバラであったが、建武から天正以来、次第に不動明王・黒い頭巾・「しずかけ」・袈裟袋・錫杖・・・などの態様になっていった。

D.五社権現:本地垂迹説にもとづいて、次の権現を祀った。
本社大宮権現、本社客人権現、火の宮蔵王大権現、梅の宮鎮定大権現、剣の宮降摩大権現。

E.石動山の築山神事は3月24日に行う。丹後半島から近畿・北陸にかけて見られる民俗的風習である。
越後能生、高岡二上神社・放生津八幡社でも築山が行われる。

D.石動山(天平寺)の瓦解
一向宗など他宗の進出、前田家の保護下で安逸をむさぼった、「泣く児も黙る石動坊主」といわれた傲慢横柄ぶり、民衆から孤立・・・などから、明治維新後生き残るろことはできなかった。末期現象ですね。

という概要で、多岐にわたる内容を報告。
中国・朝鮮半島との関係、修験道の位置づけ、イスルギとイザナギ・イアザナミについて、山伏は暴力集団か・・・などなど、議論になりました。

石動山は加賀より富山湾で存在感があるはずですが、今では県民の関心は殆どないようです。
参考文献も数十年前までというのも、県民の関心低下の現れか。

古代から現代までという長期間にわたる石動山史(民俗含め)でした。
mhtさん、お疲れ様でした。

皆さん、梅雨時から夏場へ、暑さに負けずに、研究進展!と祈っています。

中欧「旅人日記」⑧ペスト記念塔(ウィーン他)

ペスト記念塔をいくつか見たので、まとめて記録します。
ペスト(黒死病)はヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきた。老若男女、貴賤美醜を問わず、感染すれば死神に襲われたようなものでした。

以下、村上陽一郎『ペスト大流行、ヨーロッパ中世の崩壊』岩波新書、1983)を参考に、概要を書き出してみます。

人間にペスト菌を感染させたのは、クマネズミを宿主とするノミである。
ヨーロッパにいたのはドブネズミだが、クマネズミとノミは(中国)元の世界帝国とそれに伴う戦乱、あるいは十字軍によるヨーロッパ世界の拡大、そして相継ぐ飢饉や天災も加わって、ヨーロッパ世界に侵入、拡散した。
最初のパンデミックは6世紀半ば、ついで十字軍遠征の行われた11世紀。

14世紀ペストの世界的流行(ヨーロッパでは1347年10月シチリア島に上陸した)では、古今未曾有の伝染力をもつペスト菌が襲った。低温、地震などの自然災害が多発したことも被害拡大に影響して、53年ころまで間欠的に繰り返された。
死亡率は都市や農村の人口割合など不明なことが多く一概に言えないが、全世界で7千万人。ボッカチォ『デカメロン』で有名。
黒死病がのこしたものとして、隔離政策、ユダヤ人迫害、キリスト教徒の間の鞭打ち運動があった。文藝宗教絵画では、「死を忘れるな」「死の勝利」がテーマとなった。

17世紀に再び大流行、イギリスでは大学が休講を繰り返した。
「ニュートンは大学を離れて故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質、重力の逆二乗法則、微積分計算の基本的アイディアを発見した」(この説はwikipediaが採用)と自分で書いているが、実際は違うようである。

最後の19世紀末からのパンデミックは中国発、アジアで激甚、カミュが『ペスト』で描いた。

【ウィーン】(オーストリア)路上ライブでジャズ演奏。ウィーン的風景でした。

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HP「ヨーロッパ写真紀行」よりコピー。
シュテファン寺院から出ているウィーン旧市街の中心的な通り・グラーベン通りにあるペスト記念柱。三位一体記念柱とも呼ばれている。ヨーロッパ各地に猛威をふるったペストが、ウィーンにも襲ってきた。1679年の事である。ウィーンでは10万人とも云われるほどの死者が出ている。
 皇帝レオポルド1世が、その恐ろしいペストが終結したことを記念し、また神のご加護に感謝の意を込めて献じた塔である。三位一体とは、記念柱の上に「父と子と聖霊」を象徴する三位一体像が輝いているからである。 
【プラハ】(チェコ)旧市街広場

プラハ・ペスト記念塔

【プラハ】追加して、webより、ペスト終焉祈念の三位一体像(マラーストラナ広場、1715年建設)




【センテンドレ】ペスト記念塔(ハンガリー、ドナウ川が直角に曲がるドナウベントに位置し、付近には藍染め、パプリカなどのお土産店が多い)

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【ブダペスト】三位一体の像

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マーチャーシュ広場の中心にある聖三位一体の像、18世紀にペストの終焉を記念して建てられたもの。

観光客が余り気にしないモニュメントです。多くの都市で建立されたペスト記念塔を探索するのも、少しディープな旅行の面白さということで紹介しました。
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