栗原幸夫のホイのホイ

書き散らしたものへの補遺、 喋り散らしたことへの補遺、 そしてもちろん、わが人生への補遺の補遺

鶴見俊輔さんのこと

 ベ平連でよく顔を合わせる人のなかには二人の鶴見がいた。一人は鶴見俊輔、もう一人は鶴見良行、それで私たちは前者をシュンスケさん、後者をヨシユキさんと呼んでいた。良行さんは後に、『バナナと日本人』という歴史に残る名著を書き、学問の世界に新しい流れを作り出したが早世した。年長の鶴見さんは天寿をまっとうしたが、ここでは昔通りに俊輔さんと呼んでおこう。
 ベ平連のアメリカ脱走兵援助の組織、ジャテックの責任者を仰せつかった私は、三日にあげず関西方面の「元締め」だった俊輔さんと連絡をとっていた。在所不定の私と違って、決まった曜日の決まった時間にはかならず研究室にいる俊輔さんには、こちらから電話をする。まだ携帯電話などというものはなかった。電話にはかならず若いきれいな声の女性が出て取り次ぐ。彼女も私の声を覚えて名前など聞かずにすぐに取り次いだ。どのような事柄か飲み込みのはやい聡明の感じがした。
 それから十年もたったある日、ふと思い出して彼女はどうしましたと聞いた。俊輔さんは、お医者さんと結婚して幸せに暮らしているよと、とても嬉しそうに答え、つづけて、彼女はね、あなたのことを声を聞いただけで、とても清潔な青年だと信じていたよ、「こういう誤解は大事にしないといけない」とつけ加えた。おいおい、誤解かよ、と内心思ったが、あの頃、私はもう30歳の半ばを過ぎていたからなと、思い返した。
 俊輔さんが側にいると不思議に気持ちがゆったりとしてくるのだった。彼も東京に出てくると必ず連絡してゆっくりと会う時間を作ってくれた。スパイをめぐる話はずいぶん書いたので、ここでは詳しいことは書かないが、左翼の組織にはスパイ問題がよく起こった。それを俊輔さんはものすごく嫌った。仲間を疑い始めるのは、その運動が崩壊するときだと。さいわいなことにベ平連ではスパイ問題は一度も起こらなかった。しかし脱走兵となると話が違う。ジョンソンと名乗るニセ脱走兵を脱出させると決めたのは私だった。そして見事に敗北した。私たちの海外への脱出ルートは崩壊した。だが、平謝りに謝る私を責めるものは一人もいなかった。ただ、俊輔さんの言葉はきつかったな。彼はこう言った。「いつも成功したいとおもうのは、成金根性だよ。」
 しかし俊輔さんの考えは一貫していた。脱走ルートは破壊された、もう一人の本当の脱走兵は逮捕された、しかし、脱走ルートはもう一度さがせば良い、逮捕された本物の脱走兵は救援活動をすればいい、それよりも、運動のなかに疑心暗鬼の雰囲気を持ち込んだり、仲間同士がお互いを傷つけ合うような批判合戦をはじめるほうが、はるかに不幸だ。それは運動を崩壊させるだけでなく、人間関係を破壊してしまう。
 俊輔さんのほんの数語が、私の運動論を決定的に変えた。彼はこう語っていた。
「われわれが日常生活の中から出発しているということは、どうしてもそこにいろんな種類の自己欺瞞を含んでそこから出発せざるをえないということで、それをまじめに見据えていけば、やがてはそのなかで本格的なものにぶつかる。(中略)真実というものはわれわれの後から追っかけてくるものなんだな。敵は出て来るんだな。」(「われわれにとっての”ベトナム”とは」、三一新書『ベ平連』所収)
 まず敵を明らかにせよ、というところから運動を始めてはならない、という俊輔さんの運動論は、私にはとても新鮮に思えた。ベ平連がその出発時にもっていた「戦後民主主義」的な限界や「平和主義」的自己欺瞞性を抜け出していくのに役割を果たしたのは、「イデオロギー論争」ではなく決定的に「行動」であった。このことはしかし、ベ平連のなかに、なんらかの先見性をもった人間が一人もいなかったということではない。それは少なからずいた。というよりもほとんどの人間が、それぞれの人生、それぞれの生活の経験にもとづく先見性をもっていた。ベ平連はそのような個人的な経験を尊重した。それらが一つの行動のなかでのもうひとつの経験を共有することで、運動は分裂せずに前進する。それには「ベ平連は組織ではなく運動である」という自己規定が決定的に重要だった。
 これらのすべては俊輔さんの哲学に裏付けられているが、彼はそれを理論的に語ることは一度もなかった。まして指導的論説として語ったこともなかった。ああだ、こうだ、という議論は日常茶飯にくりかえされたが、俊輔さんが議論をリードする姿を私は見たことがなかった。しかし議論の行き着くところは、おそらく俊輔さんにとっても首肯できるところだっただろう。それは皆が運動のなかで経験を共有していたからだ。
 一度だけ、私は俊輔さんをこっぴどく批判したことがある。もう二十五年以上も前のことだ。その頃、俊輔さんは自分史について、やたらと喋り始め、そこでは左翼、とくにマルクス主義者に対するほとんど怨念とでもいえるような、批判が語られていた。そのあげく、ベ平連が大きくなったのは宮沢喜一のお陰だというなんとも奇怪なことまで言い出した。私はそれに我慢ができなかったので、率直な批判を書いた。(「『自由主義』以後の思想的境界」、拙著『世紀を越える』社会評論社刊、あるいはわたしのホームページ、http://www.shonan.ne.jp/~kuri の「クロニクル・1」に収めてあるので興味のある方はどうぞ。)
 これで俊輔さんとのお付き合いも終りかなと思っていたところ、それからさらに十年以上たった2009年になって、とつぜん鶴見さんが私の前に現れたのである。その年の4月に開かれた思想の科学研究会のシンポジウムに報告者として招かれた私の前に、両脇を抱えられるようにして現れたのである。そして会場で出を待っている私のところにつかつかと近づき、今日はこのビラを皆さんに読んでもらおうと思って来ましたと、その一枚を渡されたのである。その内容は、スパイ・ジョンソンをめぐる事件に対する彼の思いが書かれていたのだ。
 A4判一枚の紙いっぱいの、ビラとは言えない文章をここに書き写すことはすまい。内容には思い違いが沢山ある。しかしその最後の一節は記録として残しておきたい。そこにはこう書かれていた。
 「私にはジョンソンと名乗る人間を受け入れたということについて、責任があります。そして当時の最高責任者だった栗原さんに大きな迷惑をかけました。その責任が追及され、私がこの行動全体からすぐ追放されるということはありませんでした。なぜ、そういうことが起こったのか。戦前の左翼の運動、また、我々と同時代の左翼の運動では、その責任追及が内部で行われることが普通であり、内部でリンチ、私刑の原因となってきています。なぜ、我々の中でそれが起こらなかったのか、私はそれを確実に推定することはできません。ただ、私が仲間に迷惑をかけ、自分の中で明らかに突き刺さっているこの記憶について、ここにご報告します。」
 どうして? というのが私の最初の思いだった。スパイ問題についての俊輔さんの考えに私たちはみんな賛成していた。それは思想の科学研究会から出版されたジャテックの記録『隣に脱走兵がいた頃』にも明確に書かれている。それなのに、と思った。しかし彼は私のシンポジウムでの戦後文学についての報告、それは当然、脱走兵とはなんの関係もないものだったのだが、それが終わった後で発言を求め、「私は栗原さんに感謝している」とまで言ったのである。それを聞いて私は、俊輔さんはオレの理解を絶すると思いながら、おもわず泣きそうになったのである。
 俊輔さん、ありがとう、さようなら。

  高橋源一郎×SEALDs『民主主義ってなんだ?』を読む

 高橋源一郎さんとSEALDsの四人の中心メンバーによる座談会である。『民主主義ってなんだ?』と問われている。予告を見てすぐに予約した。やっと出た。すぐに読み始めた。普通の老人並みに目の弱った私のそばで、幼い頃、ベ平連のデモに連れていったことのある娘が、はやく読んで貸せと責め立てる。娘といっても今年還暦。熱烈なSEALDsの支持者である。私がちょっと批判めいたことを言うと、十倍ぐらい反論が帰ってくる。夫と一緒にせっせとデモにかよう。電車で東京に出るのも難儀な足萎えの老人には、現場をよく知る彼女になかなか太刀打ちできない。それでこの本を熟読した。メチャおもしろかった。以下は読みながらの私の呟きである。老人妄語、書評などという高尚なものではない。

 <TAZについて>
 なにに驚いたといっても、出発の時に彼らがTAZと名乗っていたと知ったことである。TAZ、Temporary Autonomous Zone、「一時的自律ゾーン」、ハキム・ベイの著書の題名である。20年前の本である。サイバー空間の様相もすっかり変わった。当時は、スマホなんていうものもなかった。だから彼らがこの本から直接発想を得たとはおもえないが。興味のある方は、その後インパクト出版会から刊行されたベイの本を参照されるか、当時、この本を紹介した拙稿(http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_4/hakimbey.html)を参照してください。
 TAZは、世界的な左翼の敗退のなかからやっと姿を現わし始めた非党的、非権力奪取的、文化革命的、etc.な運動の、世界同時的な出現の一部であった。それらの萌芽は70年代に生まれていたのである。しかしSEALDsはそんなところから生まれてきたのではない。彼らの出現は、2010年代のサイバー空間、ヒップホップ文化、権威主義的イデオロギーの消滅等々という環境が可能にしたのである。祝祭的な自律空間を作り出すというスタイルの運動を始めた彼らが、その出発の時にTAZなどという古い名前を名乗ったことに、老人の私は単純にびっくりし、喜んだのである。

 <個人的な言葉が大事だよ>
 この高橋源一郎さんのひと言が、SEALDsの活動の原点だと言っていい。この部分、面白いので書き写しておく。
「奥田 「個人的な言葉が大事だよ」って言ってもらって、それでコールも日常的におもしろいと思っている言葉じゃないとって。
牛田 すごい影響受けたよね。
奥田 で、コールだけじゃなくて、半分はスピーチだったらいいかもってなって、そのときからみんなiPhoneでスピーチを読むようになった。
高橋 すごくびっくりしたんだよ。みんなiPhoneでスピーチの原稿を読んでるでしょ。あれ、いいよね。
奥田 めちゃどうでもいい話ですけど、その段階でまだiPhone5sだったんですけど、iPhone6が発売されてから、みんなすらすら読めるようになった(笑)。画面がでかくなったから。」
 いまだにiPhon5sどまりの私には、なんでこいつらそんなにお金を持ってるんだよ、とヒガミ言のひとつも言いたくなるが、それはさておき、この話題はさらに、言葉をいかにラップに乗せるか、どこで韻を踏むか、というような技術的な話にまでつながるのだ。それは個人的な言葉をいかに人びとに伝わるものにしていくかという、とても大切な問題におよぶのである。なに、そんな技術より中身のほうが大事だろうという批判は当然出て来るだろう。しかしここは重要なんだ。いままでの進歩派の言説は圧倒的に啓蒙的であり、扇動的であり、一方交通だった。そしてそれらはほとんどが党派的な言葉の繰り返しだった。SEALDsの諸君はそれを相互主体的な関係にするにはどうしたらいいかと考える。ジャズのインプロヴィゼーションで言うコール・アンド・レスポンスだね。すばらしい。
 日本の、いや恐らく世界の、急進的な運動は、この個人的な言葉を圧殺して一枚岩の団結を至上の価値としてきた。個人的な言葉を発する者は、鉄の団結を乱す敵の手先として査問され追放された。オレは三回追放された。……余計なことだけど。そんな組織が国家権力を掌握したら、どんな社会が生まれるか。20世紀の歴史はその実例に満ちている。

 <「僕も九条は変えたほうがいいと思ってる」>
 高橋源一郎さんの発言である。おそらくぎょっとした人もいるだろう。この問題は、後のほうで、つまり「民主主義ってなんだ?」の部でさらに深く討論される。そこで問題になるのは成文憲法と憲法制定権力のどちらを重視するかという問題である。九条があったから日本は七十年間戦争をしないで済んだと考えるのか、反戦平和の運動が絶えなかったからこそ九条がたもたれ平和が維持されたと考えるか。もちろん簡単にどっちがどっちと片付けられる問題ではない。けれどこれは、けっこう重要な問題なのだ。それは現在の憲法をどう考えるかという問題に直接つながるからだ。
 この問題については、保守派の代表的な論客である佐伯啓思さんが鋭い提起をしている。彼はこう言っている。近代憲法は絶対王政を打倒した市民革命の産物だ。革命とは、旧体制を破壊した市民による権力の奪取である。一時的な無政府状態が生じ、この無秩序の中から市民は新たな政府を構成する。その新たな権力の正当化が近代憲法なのだ。主権とは、「何よりも『憲法制定権力』にほかならないのである。」そして次のようにつづける。「これが近代憲法の構造だとすれば、戦後日本の憲法が正当性をもたないことは明らかである。」「45年から52年まで日本は占領されており、主権国家ではなかった。主権をもたない国が憲法を創出するということは、ほとんど『憲法違反』である。」
 これに対して私は、たしかに占領直後の民主化政策は占領軍によってその端緒がひらかれたが、それに呼応して起こった農地解放運動、女性解放運動、労働組合運動、そして言論・出版の自由獲得などなどの澎湃と起こった大衆運動を佐伯さんは無視している。これこそが新憲法を支えた憲法制定権力だったのだと批判した。( 佐伯啓思の憲法論を読む : 栗原幸夫のホイのホイ )お暇な方はどうぞ。
 ところで、高橋さんの九条廃止論は、私には、一種の警告でありアジテーションであるような気がする。九条を読んでみよう。
「第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持し
ない。国の交戦権は、これを認めない。」
 いうまでもなく、第二項は自衛隊の存在によって明らかに現実から乖離している。しかも憲法制定の主体である国民の大多数は、自衛隊の存在を支持ないし容認している。この憲法九条成文と実態の乖離に目をつぶり、九条を守れというスローガンに安住するのは自己欺瞞ではないか。自衛隊の性格を軍事的なものから非軍事的な救援隊に変え、そのうえで住民の安全保障はいかにあるべきかを検討し、国民的合意を形成することは、九条擁護の立場に立つ者の責任ではないか――と、高橋さんは言っていると、私は勝手に想像している。これは改憲論あるいは憲法擁護論のキモの部分だ。冷静に討論したい。

 ラディカルということ
 SEALDsは世間で「過激派」と呼ばれている集団からさかんに攻撃されているようだ。私に言わせれば、彼らは60年代の亡霊のようなものだ。60年代の可能性をぶっつぶした責任を負う者たちだ。なにが「過激」だ。過激って、ラディカルということでしょう。マルクスはこう言っています。――「ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。ところで、人間にとっての根本は、人間そのものである。」(「ヘーゲル法哲学批判・序説」、『マルクス・エンゲルス全集』鬼422頁)。ははは、ちょっと格好つけて引用などしちゃったけど、私が一番好きなマルクスの言葉です。ついでにもう一つ。私の師匠(勝手にそう呼ぶ)の埴谷雄高から。「敵は制度、味方はすべての人間、味方のなかの味方は認識力」。

 ベ平連について
 高橋さんのベ平連についての発言はとても正確です。ベ平連は自分とは違う考えや行動をする運動を批判しなかった。ベ平連のなかでも違う考えを許容した。違う考えの人は自分の気に入るような運動を自分で作れば良い。それを批判したりはしない。「ベトナムに平和を」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本政府はアメリカのベトナム戦争に協力するな」という三つのスローガンを支持する人は、だれでもベ平連を名乗ることができたし、その行動形態を規制したりはしなかった。ただ、全体として、非暴力という点で共通していた。こうして地域、大学、高校に多種多彩なベ平連が続々と生まれた。その数は三百をこえたと言われている。
 ベ平連は個人参加の運動である。労組単位や自治会単位の動員とは違い、はじめはおたがい知らない人だ。それがどうして一つの運動にまとまったのか。それを可能にしたのは経験の共有だった。違う意見の人たちも、毎月一回おこなわれる定例デモで顔を合わせるうちに、お互いを理解するようになる。いろいろな催しをやる。どこからか司令が来るわけではない。企画も準備も実行も、すべて参加者のイニシアチブである。だからそれは経験として記憶される。ベ平連は経験論的運動だった。
 運動は継続することで豊かになる。ベ平連は「ベトナムに平和を」という今風に言えばシングルイッシュウの運動である。はじめは、アレも足りない、コレも足りないと、注文をつける批評家も多かった。しかし、ああそうですか、じゃあそれも取り入れて、などと間口を広げたとして、そんなものは役に立たない。運動は継続することで豊かになる。無理をして目標を増やしても、内輪もめの種になるだけだ。経験を共有するなかで、イッシュウの内実が、付け足しではなく豊かになる。私が拳々服膺する鶴見俊輔の名言がある。――敵は誰かということから運動を始めてはいけない。やっているうちに、敵は出て来るんだ。
 最後にひとこと。SEALDsは学生の運動だ。デモへの参加者は圧倒的にオバサンとオジサンが多い。この状態を大切にすることもまた、SEALDsの一つの仕事だろう。SEALDsは大きな経験をした。Sealに保護されるなんてことはもう必要ないよね。(河出書房新社刊、198頁、1200円+税)

過渡期の群像――竹中労『黒旗水滸伝』解説


1975年10月号から80年7月号の『現代の眼』に連載された夢野京太郎(竹中労)著・かわぐちかいじ画『黒旗水滸伝』が、このほどはじめて単行本化され、皓星社から出版された。上下いずれも600ページに近い大冊。定価・各2,500円+税。以下はわたくしが付した「解説」である。

「大正とはいかなる時代であったのかというテーマを、すでに四年にわたるこの大河連載劇画で、作者は追及してきたが、結論はゆきつくところ『その人を見よ!』/大杉栄と、彼をめぐる無政府主義者たち、テロリスト難波大助、さらには彼らがこよなく愛した浅草一二階下の娼婦&やくざ・芸人。国賊と呼ばれ、あるいは世の塵芥のごとく差別された窮民・下層社会の中に、われらがですぺら先生・辻潤を置いてみると、諸相はおのずから立体的に浮び上がってくるのでアリマス」と、連載も終りに近づいたところで作者は言っている。
 当初、第一部「大正地獄篇」、第二部「昭和煉獄篇」、第三部「戦後浄罪篇」という三部構成で構想されたこの作品は、結局、第一部を完成しただけで終わったが、しかしこの「大正地獄篇」だけでもこの国の「過渡期」の世情とそこに生きる人びとの雰囲気をなまなましく今日に伝えることに成功したと言えるだろう。
「大正」(一九一二年〜二六年)とはどういう時代であったか。それは一口で言って「現代」という時代の始まりであった。「戦争と革命の時代」としての現代、資本の増大に比例してますます進行する貧困と抑圧と人間疎外、同時にそのまっただ中から噴き出す反逆と自由と解放への希求、――第一次世界大戦(一九一四から一八年)とロシア十月革命(一九一七年)は、このような絶望と希望がそのなかで激しく渦巻く大過渡期としての「現代」の幕開きだった。
 過渡期はそれにふさわしい〈場所〉をもつ。つまり、「黒旗水滸伝」という物語に即して言えば、その梁山泊は隅田川を挟んだ山谷ドヤ街、浅草十二階下の私娼窟、江東の日雇労働者の居住区……ということになる。資本主義の浸透によって農村を追われ、都市の大工場からも閉め出された男や女たちが、吸い寄せられるように流れ着く〈場所〉、それがここだった。
 幸徳秋水はその「東京の木賃宿」のなかで、「去る明治二十二年の末、時の警視総監三島通庸は、市街の体面を保つが為にと、そが営業の区域を限りて一定の場所に移らしめぬ。現在営業の場所と数とは、浅草区浅草……二十余戸、 本所区花町、業平町……七十余戸、 深川区富川町……六十三戸、 四谷区永住町……十八戸、〔中略〕にて、そのお客様をいえば歯代借の車夫、土方人足、植木人夫、そのほか種々の工夫人夫、荷車引き、縁日商人、立ン坊、下駄の歯入れ、雪駄直し、見世物師、料理の下流しなど、いずれもその日稼ぎの貧民ならぬはなし。昨年末の調べにてはこれらの客人九千七百四十六人に及べりとぞ」と書いている。これは「明治」末期の状態だが、それが第一次大戦の後になると、大戦を契機に飛躍的に発展した資本主義が戦後の不景気に直面して吐き出した大量の失業者が、新顔としてここに流れ着く。
 この過渡期を象徴する〈場所〉は、当然のことながらいままでの都市にない闇をもっていた。それは一種の迷宮にほかならなかった。追われるものはそこに逃げ込み、そこで出会ったものは陰謀を練る。その具体相は竹中労によってこの作品のなかに活写されている。
 しかしこの〈場所〉は、政治的陰謀家たちだけのものではなかった。どれほど多くの作家たちが、失業者が野宿する隅田公園の夜に魅せられ、その〈場所〉を作品のなかにとどめることになったことか、江戸川乱歩から埴谷雄高にいたるまで、数えればきりがない。乱歩の「屋根裏の散歩者」の主人公は、「おもちゃの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地」に通い、「映画館と映画館のあいだの、人ひとり漸く通れるくらいの細い暗い路地や、共同便所のうしろなどにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われるような、妙にがらんとした空き地を、好んでさ迷」うのである。乱歩自身、戦後になって「青年時代、私は群衆の中のロビンソン・クルーソーとなるために浅草へ行った」(「浅草のロビンソン」)と回想している。
 浅草の歓楽街に登場した「群衆」、それを取り囲むように存在する極貧の日雇労働者や娼婦のドヤ街。ここにあるのはもはや幸徳秋水が描き出した「東京の木賃宿」とはことなった、近代末期の姿である。この群衆と貧困者のエネルギーを、誰がどのように組織するのか? すでに時代はこのような問いをつきつけているのである。
          ※
 現状への激しい拒否と未来へのさまざまな夢は、過渡期を過渡期たらしめる不可欠の要因である。その拒否は徹底してラディカルでなければならず、その夢は空中にますます高く飛翔しますます多様でなければならない。それらの混沌を一つの政治党派や一つのイデオロギーが統制し管理するようになるとき、本来の意味での過渡期は幕を閉じる。しかしそれは終りではない。そのような政治や思想の独占が崩壊し後景に退くとまた過渡期が姿をあらわす。
 このように見れば、アナーキズムこそがこのような過渡期の感覚的、思想的、そして美的表現であることがわかるだろう。過渡期にはかならずアナーキズムが主役を演じる。この国の「大正時代」がそうであったし、それから五十年後に世界を巻き込んだ過渡期としての「一九六八年」もまたアナーキズム・リバイバルで彩られた。
 一九一〇年(明治四三年)、天皇暗殺計画の首謀者として宮下大吉が五月二五日に検挙されたのをかわきりに、六月二日には幸徳秋水も拘引され、逮捕者は数百名に及んだ。そして翌一一年一月二四日から二五日に、幸徳ら一二名にたいする死刑が執行された。いわゆる「大逆事件」である。社会運動はきびしい冬の時代にはいる。権力の弾圧・統制は過酷を極めたが、運動の側の萎縮はそれをうわまわった。そのなかで、あたらしい一つの炬火を掲げたのが、大杉栄と彼の編集・発行にかかわる『近代思想』の創刊であった。それが一九一二年、大正元年。「大正」という大過渡期の序幕がこうして大杉栄と『近代思想』によって切って落とされる。しかし周囲はまだ闇に閉ざされている。
 この『近代思想』は、毎号わずか三、四十ページの片々たる雑誌にもかかわらず、その一年の中断を含めた五年間にわたる刊行のあいだに、大過渡期を迎えるにふさわしい新しい思想の創造の場となった。そこで主役を演じたのは言うまでもなく大杉栄である。彼は同誌上に発表した「奴隷根性論」(一九一三年二月号)で、「主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する、これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であった」と主張し、「奴隷根性のお名残である」「服従を基礎とする今日のいっさいの道徳」にたいする反逆を呼びかけるのである。
 大杉栄の思想がもつきわだった特徴は、このような「支配」から人間を解放するためには、その支配のカラクリを「科学」的に解明しそれによって人びとを「啓蒙」するだけではだめで、なによりもまず、一人ひとりの民衆がその支配に反逆する自分の自我に目覚めなければならないとする。彼の思想は狭い政治論ではなく、人間の生き方全般にかかわり、したがって文化の変革をつよく意識したものであった。「新生活の要求」「人の上に人の権威を戴かない、自我が自我を主宰する、自由生活の要求」、この〈生の拡充〉のなかにこそ、新しい美も存在する。つまり「美は乱調に在る」と彼は主張した。
 ここには、〈歴史の法則〉に人類の未来を託すのではなく、目前の現実にはげしく反逆することを通して、人間それ自体が変わるのでなければ自由な社会は到来しないという確信がある。そしてこの反逆のなかでだけ人は社会を認識できると彼は主張するのである。だから大杉栄にとって、労働者の解放は、他の何者かによってもたらされるものではなく、労働者自身の事業にほかならなかった。
「かくしていわゆる新社会主義は、『労働者の解放は労働者みずからの仕事で在らねばならぬ』という共産党宣言の結語を、まったく文字通りの意味に復活せしめようとした。/そしてこの『労働者みずからの仕事』というところに、センディカリスト等は自由と創造とを見出したのである。過去とは絶縁した、すなわち紳士閥(ブルジョワ)社会の産んだ民主的思想や制度とは独立した、またそれらの模倣でもない、まったく異なった思想と制度とを、まず彼ら自身の中に、彼ら自身の団体の中に、彼ら自身の努力によって、発育成長せしめようとした。」
「運動には方向はある。しかしいわゆる最後の目的はない。一運動の理想は、そのいわゆる最後の目的の中にみずからを見出すものではない。理想は常にその運動と伴い、その運動とともに進んでゆく。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中に在るのだ。運動そのものの中にその型を刻んでゆくのだ。/自由と創造とはこれを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々はまずこれを現実の中に捕捉しなければならぬ。我々自身の中に獲得しなければならぬ。」(「生の創造」)
 大杉たちはこのような新しい社会運動の可能性をサンジカリズムのうちに見出した。彼は『近代思想』を刊行するかたわら「センヂカリスム」研究会を組織し、労働者にたいする働きかけを強めていった。そして一九一七年も押し迫った一二月に、ロシア一〇月革命の報道を聞きながら、家族を引き連れて亀戸の労働者街へ住居を移すのである。
          ※
 この作品自体がこの時代のパノラマになっているし、適時に簡略な年表も挿入されているので、あらためてこの時代を概括する必要もないように思える。しかしディテールにこだわる竹中労の叙述からは読みとりにくいかもしれない時代の流れを、一筆書きふうにまとめておくのも必要かもしれない。
 この作品のなかで作者が繰り返し使用する言葉がある。そのひとつは「左右を弁別すべからざる」であり、もうひとつは「窮民大連合」である。社会思想と社会運動の「大正」時代は、いわばこの二つの言葉にあらわされるような「混沌」ないし「始源のエネルギー」が、マルクス主義の流入とロシア革命の影響によって、相互に融和できない対立物へと分離し凝固していく過程であった。竹内好は日本の革命思想が近代主義に堕してしまった原因を、社会革命とナショナリズムの分裂にもとめたが、このような分裂はなにも日本にだけ特有のものではない。そしてそのような分裂が拡大し固定したのは「大正」時代であった。
 また、後の労働運動が実態はともかく目標としては近代的な大工場を中心に構想されたのに対し、この時代の労働運動の中心は江東地域の中小町工場で働く職人的労働者であった。最初のサンジカリズムによる労働組合、日本印刷工組合信友会が結成されたのは一九一八年である。会員千名、その中心は名人気質の欧文工であった。そしてこの年はまた、米騒動の年である。そのおもな担い手は「お神さん」連であった。
 自由民権運動のなかでおこった国権主義と民権主義の分裂は、「大正」にはいるとデモクラシーと社会主義との分裂にすすみ、さらに社会主義のなかのアナーキズムとボルシェヴィズム(マルクス主義)に分裂し、そのマルクス主義もさらに共産党派と社会民主主義派に分裂し、時代が「昭和」にはいると、この分裂は凝固して今日にまで至る。
「窮民大連合」のほうも、「大正」にはいるとまず「民衆」があらわれ、つぎに「労働者」「第四階級」とすすみ末期には「プロレタリアート」へと純化し、その他の貧民はルンペン・プロレタリアートあるいは雑階級とおとしめられる。
 われわれはこのような分裂を、昨日まで、あるいは今日もなお、思想の進歩だと教えられてきたのである。しかし本当にこれは進歩なのだろうか。思想は進化論ふうに進歩するものなのだろうか。私は否と答えたい。
 なるほど大杉栄の思想は体系的でない。彼はクロポトキンを翻訳し、バクーニンを深く研究した。しかし彼のアナーキズムはけっしてそれらの直輸入でも祖述でもなかった。そしてなによりも彼は、オオスギ・イズムのようなものをつくろうとは夢にもおもわなかった。人間が思想を使うのであって人間が思想に使われてはならないのである。役に立つものはなんでも取り入れるという彼の思想的な営為は、だから多分に折衷であり、悪く言えば雑炊的である。ではなぜそのような彼が当時も大きな影響を若者にあたえ、今日もなお、読むものの思考を刺激してやまないのか。それは前に引用したような社会運動にたいする彼の考えが、ほとんど「現代的」である、つまり今日の問題意識にぴったりと重なっているというだけではない。彼の思想には彼の精神がまぎれもなく実在しているという事実にもとづくのである。「僕は精神が好きだ」と彼は言う。少し長いが引用する。
「僕は精神が好きだ。しかし其の精神が理論化されると大がいは厭やになる。理論化と云う行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。/精神そのままの思想は稀れだ。精神そのままの行為は猶更稀れだ。生れたままの精神そのものすら稀れだ。
 この意味から、僕は、文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし、法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。/社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭やになる。/僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。/思想に自由あれ。しかし又行為にも自由あれ。そして更には又動機にも自由あれ。」(『文明批評』一九一八年二月号)
 これで全文だ。大杉栄の面目が躍如としている。人びとは、大杉栄の書いたもののなかに彼の精神を発見し、その同時代に生きている精神を愛したのである。関東大震災のなかで大杉栄が妻の伊藤野枝、甥の橘宗一とともに憲兵によって虐殺されたとき、肉体だけでなくこの精神が殺されたのだった。何人もの青年が復讐のためにその生命をなげうつことになるその経緯については、この作品が微細に描いている。この作品は、こうして生命を復讐に捧げた青年たちの鎮魂のために書かれたと言ってもいいほどだ。
 しかし話をもどそう。
「大正」とはどういう時代であったか。一口で言えば混沌から秩序へ、精神から物質へと激流のように流れていった時代である。混沌の精神を一身に体現した大杉栄が殺されたとき、もはやこの時代の潮流のなかで混沌を呼び戻すすべは失われたのである。大震災は混沌を焼き払い、ある意味でその象徴であった浅草十二階を崩壊させた。
 さて、ところで、混沌から秩序へという場合のその秩序も、精神から物質へという場合のその物質も、そんなに簡単なものではない。この移行が全面化するのは「昭和」にはいってからだが、震災後の社会にすでにその大きな動きがあった。「秩序」とはこの場合、組織化であり、「物質」とは消費文明あるいは大衆社会化ということである。多くのアナーキストがボル〔共産主義)派に転じたのにはそれなりの時代的な背景があった。とくに労働運動の場面では、あくまでも個人に依拠してそれぞれの個性が自由に連合することを理想とするサンディカリズム系の組合に比べ、科学的な戦略・戦術によって武装し民主集中制を組織原則とするボル系の組合の党派闘争における優位は明らかであった。
 しかし事態はそれほど直線的に進んだわけではない。一面の焼け野原と化した東京の街に、ひとときのアナーキーが出現する。大震災の年の一月に、「詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!」と宣言して詩雑誌『赤と黒』が創刊される。同年七月には、「私達は先端に立っている。そして永久に先端に立つであろう。私達は縛られていない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し、否定する。私達は言葉のあらゆる意味において生きている」と宣言して前衛芸術グループ「マヴォ」が誕生する。いずれもアナーキストあるいはダダイストを自称しつつ、古い道徳、古い芸術の破壊を課題とする。『赤と黒』同人のひとり岡本潤は戦後の回想のなかで、「こういうマニフェストを書いたぼくらのなかには、当時ヨーロッパから流入された未来派、ダダ、表現派、立体派、構成派、など新興芸術の交錯した刺激と、思想的には大杉栄などを通じて接したバクーニン、クロポトキンなどの断片、辻潤の訳出したマクス・スティルナーの『唯一者とその所有』などが、体系的でなくゴチャゴチャと混在していた」と語っているが、大震災を挟むごくわずかの期間に、この国の知的世界におこった地殻変動をよく示していると言えよう。作者・竹中労の父、画家・竹中榮太郎もそのなかから生まれる。しかしこの前衛芸術派の中心メンバーの多く、たとえば詩人の壺井繁治、美術家の村山知義、画家の柳瀬正夢らは、数年後にはボルに転じ、プロレタリア芸術運動の指導者として活躍するのである。
          ※
 混沌は夢を呼ぶ。「大正」という過渡期が過渡期であったゆえんは、それが科学的と称する新思想に毒される前の、自由な夢を無数に産んだところにある。しかし自然主義という軛を脱して空想をはばたかせ、貧民と被差別部落民が活躍する泉鏡花の世界、武者小路実篤の「新しい村」、有島武郎の農民解放、民衆芸術などだけが夢であったわけではない。震災の後にもなお夢の残欠は随所にある。「世界のはずれで爆発したんか/おれの腑ぬけた頭/神経がロココ式になめっこく/思考力がけぶっている/どしん! と電車にひかれたが/ころころっと痛感が転ってゆき/ふらふらっと起ちあがって/桜がさいたんかな!」というような詩をダダイスト詩人・陀田勘助として書きながら、江東自由労働者組合の活動家として活動し、ボルに転じて共産党東京市委員長として獄死した山本忠平。東海道をリャクをやりながら上京し、この江東自由という梁山泊に流れ着いた黒色青年連盟の神山茂夫。かれもまたボルに転じるが、江東自由から発展したわが国自由労働者の砦、関東自由労働者組合を牙城に全協刷新同盟を結成して全協指導部の官僚主義と戦い、最後まで反逆の心を忘れなかった。
 これらの、第二部「昭和煉獄篇」が書かれれば当然主役として登場したであろう人びとのなかになお夢つまり自由は残響をとどめるのである。
 竹中労のこの作品は、「大正」という時代をそのロマンの相においてとらえ返す試みである。当然そこには竹中じしんの強烈な浪漫主義が投影されている。だから彼はくりかえし口を酸っぱくして言う。「あたしゃ、どうでもいいの。そんな詮索にかかずらわぬ――、くりかえし記述しておるが、本篇はノン・フィクション・フィクション。筋立ての都合よろしきよう、百も承知で話しをつくり変えているンであるからして、気楽に読んで下さりゃ結構、何をいったってムダである。」「聞くならく、夢野京太郎のホラ話し、実以て信用が、できない、ありやまともに評価すべきシロモノじゃなくって、小説・巷談のたぐいであるという悪口を、しばしば耳にいたします。/小説・巷談でどこが悪い? あたくしまさに、稗史を書いているんで、既成の左翼文献なんぞにはハナもひっかけぬ心意気。」
 ではここに書かれていることはすべて嘘っぱちかと言えばとんでもない。すべてというか、まあ、ほとんどが事実である。個々のディテールの真実には作者はおどろくほどの努力をはらっている。しかしそれらをぶつけ合わせ組み合わせて一つの物語を創る作者のモチーフは、公認の正史にたいする徹底した異議の申し立てに他ならない。それはもう一つの歴史を書くことではない。正史が押しつぶしてしまったあの時代の夢と精神を「いま」に向かって復権することである。竹中労は事実よりも精神を愛する。
 と言っても竹中的ハッタリは随所に顔を出す。しかしハッタリこそ講釈師・竹中労の張り扇、それなくしてどうして読者は、この作品のなかで彼と出会うことができようか。この作品のなかで彼はテロリズムを称揚していると勘違いする読者がいるかもしれないので一言付け加えると、テロリストというのは不言実行の人であって、彼らがものを書くのは死刑を待つ牢獄のなかと相場が決まっている。お喋りのテロリストなどいないのである。竹中もそこはよくわかっていたようだ。こんなことを言っている。
「無責任なことをいうな、お前やってみろって、夢野京太郎すでに中年、運動神経鈍磨しておる。かわぐちかいじは、非力で頼りにならない、〔人間、誠意だけで革命家になれるものではないのだが〕と大杉も留保している。やんぬるかな黒旗水滸伝、残念ながら言うだけ描くだけ、せめても威勢よく口演なあいつとめまする。」
(夢野京太郎作・かわぐちかいじ画『黒旗水滸伝』上巻、2000年9月1日刊)

 小山弘健著『日本資本主義論争史』解題

 「小山弘健(一九一二〜八五)が論争史家として登場したのは、敗戦から一年半後の一九四七年三月のことだった。『日本民主革命論争史』『日本資本主義論争史』さらに『近代日本労働者運動史』と、ほぼ半年の間にあいついで刊行された彼(と彼の協働者)の著作は、戦中に抹殺されてしまった戦前の日本、とくに社会運動や社会科学の分野でなにがあったのか知りたいと熱望していた、敗戦を十八歳で迎えた私のような者にとって、まさに干天の慈雨とでもよぶべきものであった。
 この時期の小山弘健の仕事の進め方にはひとつの特徴があった。それは共同研究へのつよい志向である。彼を中心に大阪で組織された社会経済労働研究所には、渡部徹や山崎隆三のような大学に籍をおく者だけでなく、在野の研究者もおおく加わっていた。その点で言えば、小山弘健自身が大阪天王寺商業学校を卒業後、十七歳から二十四歳までの七年間を、海運労働者として船上で暮らしている。後に彼が語ったところによれば、それは特高刑事の目を気にしながら国禁の書を読む陸上の生活とは違って、自由でおおらかな「私の大学」であった。そして上海などの寄港地では、日本国内よりも自由に入手できたマルクス主義関連の書籍や雑誌を、帰国時に自宅に秘蔵した。彼の実家は豊かで父は会社の重役だった。その頃に収集した文献が共同研究の基礎となり、上記の著書となった。
 このような彼が陸に上がり、研究者への道を歩みはじめるにあたって、おおきな機会を提供したのが末期の唯物論研究会と戸坂潤だった。彼の処女作は、戸坂の推挽により三笠全書(唯物論全書の後身)の一冊として刊行された『近代兵学』である。これは本郷弘作のペンネームで発表されたが、日本におけるマルクス主義的な軍事科学研究の嚆矢に属する。戦時中の彼の仕事でもうひとつ特筆すべきものは、上林貞治郎、北原道貫との共著になる『日本産業機構研究』である。戦争末期の一九四三年の刊になる日本資本主義分析の労作である。
 共同研究にたいする小山弘健の強い志向は、戸坂潤から学んだものであった。在野研究者の共同研究運動という理念を、弾圧の前に断念しなければならなかった時期の戸坂をはじめて識り、深く人間的にも傾倒した小山弘健にとって、戦後の出発はその理念の継承を措いてはありえなかったのであろう。前記の三冊だけでなく、彼の著作には研究所名義のもの、共著のものが多い。論争史の記述においても、それは敗戦直後の状況のなかで、信じられないほどの資料の博捜と緻密で公平な分析・評価を可能にした大きな条件であったと言えよう。
 しかし論争史自体が論争の対象になってしまうその後のマルクス主義をめぐる状況のなかで、小山弘健の立場も党派性を帯びざるを得なくなる。そのこともふくめて、論争の歴史は私たちにたくさんのことを語りかける。その声に耳を傾けることは、今日でもけっして無駄なことではない。」(『こぶし文庫・場』二〇〇八年五月刊、再録にあたり若干加筆した。)
 右の小文を書いてから六年がたった。そしていま、小山弘健の主著『日本資本主義論争史』が復刻されることになったのは、彼と因縁浅からぬ歳月をともに過ごした者として、よろこびに耐えない。ごく限られた紙数ではあるが、以下、一筆書きふうに、この書をめぐるいくつかの問題を記して読者の参考に供したい。
 今日では、この日本資本主義の性格をめぐる論争に関心をもつ者は、経済史学を専攻する少数の研究者に限られているようだが、かつては一九三〇年代のほとんど全期間をつうじて、初期には大衆的なジャーナリズムをも舞台にした、いわゆる「論壇」の流行のテーマであり、日中戦争以後、マルクス主義の禁圧と論争当事者の治安維持法による検挙の後でも、むしろその影響する領域を広め、それはたとえば大塚久雄の比較経済史学、丸山真男の日本思想史、片岡良一の日本近代文学史などなどに方法的なモチーフをあたえて、いわば戦争下の最後の作品を生み出す助産婦となり、それらはまた敗戦後の思想的再建の出発点ともなったのである。
 このような広がりをもった研究領域ではあったが、その最初の論点は、日本が当面する革命の性格をめぐるマルクス主義内部のきわめて党派的な対立なのであった。「コミンテルン綱領」が金科玉条とされていた当時、革命戦略の中心問題は国家権力の性格をどう規定するかという問題であり、その性格如何によって、当面する革命はプロレタリア社会主義革命、ブルジョワ民主主義の課題を広汎に含むプロレタリア革命、プロレタリア革命に急速に転化するブルジョワ民主主義革命、植民地革命などに分類され、日本革命はそのどれに該当するのかが争われたのである。この論争のそもそもの出発点が、日本国家の支配権力つまり天皇制が、ブルジョワ的権力なのか、あるいは前近代的な絶対王政的な権力なのか、という対立なのだった。
 ところが、明治憲法下のこの国では、支配権力である天皇制を論じることは厳しく禁止されていた。天皇は、明治憲法によって「神聖にして犯すべからず」とされ、憲法起草の中心人物である伊藤博文はその著『憲法義解』で、「法律は君主を責問するの力を有せず。独り不敬をもって其の身体を干涜すべからざるのみならず、併せて指斥言議の外に在る者とす」と書いた。天皇を名指しであれこれ議論することは許さない、というのである。敗戦まで、不敬罪、治安維持法、出版法、新聞紙法などの弾圧法規により、天皇制を公然と論じることはできなかった。また論争当事者のなかにも、幸徳秋水らの「大逆事件」の記憶はまだ生々しく残っていたのである。
 これが、論争全体を通じて、農業問題とくに土地所有制度の性格をめぐる論争が過度にヒートアップした原因なのである。なぜなら、機械的な下部構造決定論の傾向を強くもった当時の「史的唯物論」によれば、土地所有制度の半封建的性格が実証されれば、それを固有の「物質的基礎」とする上部構造の天皇制の性格は前近代的な絶対王政であり、その場合の革命の型は、「急速にプロレタリア革命に転化する傾向」をもつが本質的には「ブルジョワ民主主義革命」であるとされ、もし土地所有制度が近代的な性格をもつとすれば、天皇制もブルジョワ化した近代的な君主制と評価され、当面する革命はブルジョワ民主主義的な課題を多く含みながらも本質的にはプロレタリア社会主義革命だとされたのである。
 このようなきわめて党派的な革命運動内部の論争が、なぜ運動圏外の非マルクス主義的な多くの知識人にまで影響を及ぼしたのか。それは彼らがこの論争によって、日本の「近代」というものに眼を開かされたからだと、私は思う。この国は暗かった。その暗さはたんに時代が悪いというようなものではなく、宿命的なものと思われた。この暗さにぶつかったものだけが、明治以来の近代文学のなかですぐれた作品たり得た。つまりこの暗さは、近代日本の本質をなす構造の表現なのだった。文学的自然主義はそれの暗さを描くことによって、それを対象化する契機をつくったが、まだそれを構造的に解明する理論的装置はもっていなかった。マルクス主義がはじめてそれを可能にしたのである。その解答の一つの典型的な例は、つぎのようなものだった。
「日本資本主義は、厖大なる半農奴制的零細耕作の地盤の上に巨大なる軍事機構=鍵鑰<ルビ→キイ>産業の体制を公力的に構築する必至性に規定せられて、自己を機構づけ、また自己の再生産過程を軌道づけた。即ち、この場合、軍事的半農奴制的型制は日本資本主義の原型を構成し、所謂る『農奴制度の野蛮的』至酷の上に『過度労働の文明的』至酷を累加する場合の一典型を形づくる。この当該型制こそが、所謂る自由競争の祖国として現われた英国資本主義に対して、又、集中独占の本場として現われた独米資本主義に対して、又、稍々構成を異にする舊露資本主義に対して、純粋日本型なる型を打ち出す所の原型として現われる。(⋯⋯)二重の至酷を意味する所のこの型制は生産力の発達に対して桎梏化した。それは生産力の内の規定的な要素によって照明せられる。それがプロレタリアートである。」(山田盛太郎『日本資本主義分析』一七三頁)
 こちらには闇があるのにあちらには光があるという感覚は、この国の知識人に共通したものであった。ここでいう「あちら」とはブルジョワ革命を経た西欧のことである。かつて中村真一郎は「生きる上で、西洋というものが眼のまえに立ちふさがっていて、その西洋を自分のものにするということが、つまり生きるということである、というのが私たちの年代の生き方であった。〔⋯⋯〕そして、私たちの兄の年代の人々にとって、西洋がマルクス主義であり、革命であったとすれば、私たちの年代の連中にとっては、それが美であったわけである。」(『堀田善衞全集』九巻解説)と書いた。
 日本の近代が、マルクス主義という近代を超える思想によってはじめて自覚されるという逆説的な光景、しかもそれは「近代の超克」という対立者と伴走することによって、はじめてアクチュアルでありうるというこの光景は、一九二〇年代から三〇年代へかけての、この国のいわゆる「思想問題」の中心をなしていた。科学の領域においても、社会科学という言葉がマルクス主義のシノニムであったことに端的に示されているように、日本では社会に関する科学の多くの分野が、マルクス主義を知ることによってはじめて個別科学として成立したのであった。
 近代を超える思想であるマルクス主義によって、この国の未熟な近代が自覚され、同時にそれが近代化の思想として機能したという事実は、講座派理論の明と暗をあらわしている。同時にそれが、多くの大学生を中心とする若者たちがこぞってマルクス主義に傾倒し、そのほとんどが労農派ではなく、講座派を支持した原因の一つでもあった。
 しかし、「二重の桎梏」によってかろうじて成立した日本資本主義は、もはやその「型制」のもとでは発展の道を閉ざされており、しかもこの「型制」は日本資本主義の不可欠な存立条件である以上、その打破は同時に日本資本主義の否定を意味するという講座派の「革命理論」は、皮肉なことにマルクス主義とすべての左翼運動が一掃された日中戦争下の「総力戦」体制のなかで、はじめて実践的なかたちをとることになった。それがいわゆる「生産力理論」である。戦争遂行のための戦力増強という要請を逆手にとって、生産力増強の阻害要因である「二重の桎梏」を打破しようという、いわばトロイの馬戦略とでも名付けられるような戦略によって、一例をあげれば、発達史講座の執筆者の一人でこの「生産力理論」の代表的な理論家であった風早八十二はその著書『労働の理論と政策』(一九三八年刊)で、「木に依って魚を求むる」ために産業報国会への積極的参加をよびかけたのである。
 たしかにこの「戦力増強のための合理化」の主張は、若干の成果とそれに共鳴するいわゆる革新官僚を生みはしたが、それが力を発揮するのはその革新官僚に主導された敗戦後の経済再建においてだった。占領軍の政策に呼応した二次にわたる農地改革や経済の民主化は実現したが、日本資本主義は崩壊するどころか成長軌道に入っていった。そしてこの「生産力理論」――正確には「生産力主義」と呼ぶべきだと私はおもう――は、正当に批判・克服されることなく、戦後のマルクス主義に生き続けたのである。
 講座派の理論家たちが戦時中にたどったもう一つの道は、アジアへの関心である。彼らはかつて日本の後進性を実証した方法を中国社会の分析に適用し、その停滞性を論じながら中国にたいする日本の侵略戦争をアジアの解放と強弁する御用学者にまで転落した。いま、その転落の過程をくわしく書くスペースはないが、『分析』と並んで講座派を代表する『日本資本主義社会の機構』の著者・平野義太郎の著作をざっと挙げるだけで、その変遷が想像されよう。ウィットフォーゲル著『東洋的社会の理論』(翻訳、一九三九年)、『太平洋の民族=政治学』(共著、一九四二年)、『民族政治学の理論』(一九四三年)、『民族政治の基本問題』(一九四四年)、『大アジア主義の歴史的基礎』(一九四五年六月)。最後の著書の巻頭に彼は書く。――「アジアにおける植民地体制打破の先駆者はわが日本であり、アングロサクソンの世界旧秩序打開の創始者も亦わが日本であった。東洋におけるこのわが日本の発展交流そのことが、直ちにアングロサクソンのアジア支配から隷属アジアを解放し、アジア人の手で東洋における平和秩序を建設し、大東亜諸民族における共存共栄の生活圏を設定せんとしつつある。従って、この大日本という主体なくしては、アジアの自覚はありえず、アジアはもっとみじめな隷従的地位にあまんじていたであろう。」「軍事的・半封建的」と形容された日本資本主義はいったいどこに行ってしまったのだろうか。
 戦後、ふたたびマルクス主義のイデオローグとして復活した平野は、一九四八年二月に刊行された彼の著作集第一巻の序文に「わたくしなども昭和十一年六月『コム・アカデミー事件』なる名を冠せられて検挙された。しかも『学界』『思想界』なるものはブルジョア・アカデミズムを含めて、それらの立場に立って、真理の探究を抛った。――ついに、わたくしも余儀なく筆を折った。」と書いた。彼が筆を折ったと称する時期が、彼のもっとも多産な時期であったことは、あらためて言うまでもない。このような戦時中の所行の隠蔽は、いたるところでおこなわれた。日本のマルクス主義は戦争によって試されたのである。ところがこの隠蔽は、戦後の再出発に当たって中心に置かれるべきこの理論と経験の検討を不可能にしてしまったのである。「生産力理論」批判というかたちで、この仕事に先駆的に手をつけた小山弘健の協働者であった浅田光輝の仕事は、その端緒の段階で権威主義的な再転向イデオローグたちによって、禁圧されてしまった。
 本書の最終章「補論」にあるように、はじめて公表される神山茂夫の戦争中の地下文書をふくむ講座派批判に、小山弘健は衝撃を受けた。それからの小山の仕事の大きな部分が、神山の主張の擁護にあてられた。『日本資本主義論争史』は、このような彼の立場の変遷を加味して若干の加筆と簡略化のうえ、一九五三年二月に青木文庫の一冊として刊行され、同年七月には書き下ろしで「戦後編」が刊行された。この上・下二冊についてはその後、著者の意に染まぬものとして、一九七〇年代に著者の希望で絶版に付された。したがって今回の復刻には、一九四七年八月刊の初版(伊藤書店刊)を底本とした。ただ、付録として、青木文庫版上巻(一九五三年)より第一章第一節と「戦前論争の関係文献」を、同下巻(一九五三年)より「戦後論争の関係文献」と「日本資本主義論争史年表」を、再録した。(小山弘健・山崎隆三著、社会経済労働研究所編『日本資本主義論争史』二〇一四年五月、こぶし書房刊、「解題」) 

地獄めぐりへの招待状
池田浩士編・訳「ドイツ・ナチズム文学集成」に寄せて

 9・11の出来事について池田浩士は「聖戦によって殺されたすべての人びとに」(『インパクション』二〇〇一年一〇月号)という文章を書いている。「いまこそアメリカ帝国主義の破滅の始まり、地獄の一丁目!」という短いフレーズを百三十三回くり返した後に、「いまこそアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅の始まり、地獄の一丁目!」と三回くりかえし、「明日こそはアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅の進行、地獄の二丁目! 明日こそはアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅の進行、地獄の二丁目! この歩みを阻止するのではなく退路を断つのが私たちの仕事だ」という呼びかけで閉じられた三段組三頁の文章は、挑発者・池田浩士の思惑どおり、われわれの仲間のなかでも多少の物議をかもしたようだ。わたしに解説を要求した者、「池田さんはテロを支持しているんですか」と問いかけた者……。
 もちろんわたしは池田センセイのように高邁な思想家ではないから、この単純な文章の奥にどんな崇高な思想が鎮座しているかなどと解説する資格はまったくない。ただわたしのように単純なアタマの人間が言えるのは、単純な文章はその単純さにおいて読み理解すればいい、ということだ。池田浩士が言っていることは9・11の出来事によってアメリカ帝国主義とその従僕たちの破滅が始まったという、まことに当を得た認識にほかならない。そんなことは福田和也でさえ言っている。(「『覇権国アメリカ』その終焉の始まり」、『正論』二〇〇一年一一月号) それを池田浩士がいささか挑発的に表現したのは、その認識を他からあたえられた言葉としてすんなりと受け取るのではなく、反撥・疑問・格闘をとおして読者自身が発見するようにと挑発したのである。さすがに教育者である。
 ではテロはどうか。アメリカ帝国主義を消滅させることなしにテロをなくすことができるという考えはほとんど空想にひとしい。テロはアメリカ帝国主義のドッペルゲンガーだということぐらい、わたしのような怪奇・幻想小説好きでなくても、ちょっと想像力をはたらかせればすぐに分かることではないか。ここでも池田センセイは、「テロにも報復戦争にも反対」というまことにもっともなスローガンにとどまって、9・11以後の世界がどこへ向かっているのかという探究を放棄してはならないと教えているのである。
 しかし、とは言っても、池田浩士の想像力はいささかショート・レンジにとどまっているというのが、わたしの不満である。地獄に堕ちるのはアメリカ帝国主義とその従僕たちだけなのか。わたしたちはどうなのか。わたしたちは彼らの地獄堕ちに手を貸し、水に落ちた犬を打つように蹴落とせばいいのか。どうもそれは甘すぎるようにわたしは思う。かれらが強大だからではない。わたしたちもじつは地獄に堕ちるのだ(堕ちたのだ)という思いを否定しきれないからである。もちろんこれは倫理的な意味で言っているのではない。わたしの地獄堕ちの予感はもっと他の所から来ている。それをわかってもらうには、わたしと例の世界貿易センターのツイン・タワーとの出会いから語らなければならない。
 わたしがはじめてニューヨークに行ったのは一九七三年のことだった。それまでつねに拒否されてきた米国の入国ヴィザが、ものは試しとパリの米国領事館で申請したところすんなりと出たのである。「米帝」のメトロポリスを徹底的に見てこようというのが旅の目的だった。五〇年代反米闘争と六〇年代ベトナム反戦闘争の総決算としての旅と自分では位置づけたが、なんのことはない田舎者の観光旅行とかわりはなかった。そして観光旅行である以上、その年に完成したばかりのツイン・タワーは、もちろん最大のスポットだったのである。エンパイアステートビルには、禁酒法とギャングとジャズの一九三〇年代という、わたしの秘められた嗜好にうったえるなにかがあったが、ツイン・タワーにはそんなものはなにもなかった。下から見上げるツイン・タワーのショットは、9・11の夜のテレビでいやと言うほどくりかえし見ることになったが、事件がおこっていない平常のタワーは、ただノペっとした馬鹿でかく馬鹿高い白い壁のようなものだった。こんなものの下で、住民はどんな気持ちで生きているのだろう、オレだったら一日もいやだね、とわたしは思った。
 数日後にわたしは対岸のブルックリンへ足をのばした。あらためて言う必要もないことだが、ニューヨークの中心部分はマンハッタン島にあり、世界貿易センターはその突端にある。その対岸のブルックリン側からわたしはあらためてツイン・タワーを見ることになったのである。ところが、そこから見るそれは文句なく美しかった。わたしは金縛りにあったようにそれを眺めた。その後、WTCが完成するにつれて、ツイン・タワーの周辺には見るも無惨な高層ビルが林立してこの景観は失われたが、その頃はまだツイン・タワーだけがひとり立つという感じだった。それを見るわたしのなかに「頂点」という言葉が自然に浮かんできた。それからしばらくのあいだ、わたしはこの「頂点」という言葉を反芻しその意味を考えることになる。
 ニューヨークは古い街である。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけての建築がたくさんある。むしろそのような建物が街の骨格を構成していると言っていいのかもしれない。だから街なかを歩くとアールヌーヴォー風やアールデコ風の装飾がけっこう目につく。ところがツイン・タワーは、いっさいの装飾をそぎ落とし、建造物そのものという感じで屹立しているのである。しかもまったく同じもののツインとして。それはモダニズム様式の極限のようにわたしには思えた。「頂点」である。なぜそれが「頂点」かといえば、もうその先はないからだ。しかもそれは「ツイン」だ。お互いがお互いを映し出すような関係での「ツイン」である。そこには他者はもはや存在しない。高さの競い合いなどもはやなんの関心もひかない。……
 いかに自分の体験を語るのだと言っても、建築について無知な人間があまり長広舌を弄しては顰蹙を買うからやめるが、わたしがこんな思い出話をはじめたのは、9・11の夜にブルックリン側から映された映像――くりかえし、くりかえし放映された、厚い煙におおわれたマンハッタン島の、もはやツイン・タワーの影もない映像が、どれほどの衝撃をわたしにあたえたかを知ってもらいたいからである。わたしにとってツイン・タワーは、近代そのものの象徴であった。それをわたしは美しいと感じた。それはわたしのなかのモダニズムを徹底的に照らし出した。しかしここで、そうだ、どうせオレはモダニストだよ、と居直らなかったところが、まあ、許されるといえば許されるところかもしれない。わたしがそこに幻視したのは、ツイン・タワーの崩落でも、アメリカ帝国主義の瓦解でもなく、わたしがいま生きているこの世界の崩壊であった。コロンブス以後の近代世界の崩壊である。わたしは一四八四年、セビリヤ生まれの修道士ラス・カサスの『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(現代企画室刊)にしばし読みふけった。終りの時期に生きているわたしたちは、なによりもその始めを知らなければならない。
 世界は地獄となった。そこに住むわれわれすべての地獄めぐりがはじまるのである。
   
  我を通りて嘆きの街へ
  我を通りて永遠〔2字ルビ→とわ〕の罰
  我を過ぎれば罪多き、地獄の民の集う街
  何も我より先に無く
  何も我より後に無く
  一切の希望を捨てよ
  我が門を過ぎる者           (ダンテ『神曲』)

ダンテにはヴィルギリウスという先導者がいたが、二一世紀の地獄めぐりにはそのような先導者はいない。前衛はとうに失格を暴露してしまったのだ。われわれはただ、いたずらに希望ももたず、またいたずらに絶望もせず、自分たちの目と自分たちの足に頼るほかないのだ。いや、ただひとつ、ダンテになくわれわれにある大きな援軍があった。それは歴史である。われわれの経験と言ってもいいかもしれない。あるいはわれわれの死者たち。失敗の、あるいは敗北の、つまり「地獄の民」である。
 さて、えんえんと遠回りをしてわたしはやっとこの小論の主題である池田浩士編・訳「ドイツ・ナチズム文学集成」について論じる地点にたどりついた。あらためて言う必要もないだろう。この「集成」は、現にこれからはじまるわれわれの〔→5字傍点〕地獄めぐりに欠くことのできない経験の一部分なのである。それは地獄において、人はどのような錯誤を犯すかという体験的な報告である。池田浩士はこの「集成」の「刊行にあたって」つぎのように書いている。
「ナチズムと、ひいてはまたファシズム総体と真に対決するためには、それが誤りであったという確認のいわば手前まで引き返し、事後の結論以前の生きた現場で、その現時点での人びとの感性や心性を追体験することが、不可欠だろう。いったいナチズムの何が人びとの心情をとらえたのかを探ることが、必要だろう。この作業のための重要な手がかりを与えてくれるのが、いわばナチズムのメガフォンでありまた琴線でもあった文学表現である。現在の目から見れば否定的にしか受け取られないような信念や価値観や感情が、そこには息づいているかもしれない。いわゆる芸術的水準が劣ると見なされる表現も、少なくないかもしれない。しかし、それら文学表現のなかにあるのは、まさしくファシズムの現場であり、その現場に生きた人間の姿である。そして、これを直視することなしには、ファシズムにたいする現実的な批判も、ナチズムを真に過去たらしめる方途も、見出しがたいのではあるまいか。」
 歴史をただの断罪の対象に終わらせてはならない。それがどのように極悪非道なものであれ、人の経験に有罪を宣告するだけで弊履の如く捨て去ってはならない。あまりにくりかえしたので気がひけるが、あえてもう一度言えば、「なぜ」と問いつづけなければならないのである。
 池田浩士は第一回配本『ドイツの運命』の「解説」のなかで、「ナチズムという歴史的なテーマと向きあうとき、それが主観的には革命を目指す社会運動だったという事実を、看過することはできない。そして、この革命というのが、破壊と殺戮と抑圧支配との代名詞などでは決してなく、抑圧からの解放と豊かさの実現を、新しい秩序と新しい倫理との建設を、目標として掲げるものだったことを、まず直視する必要があるだろう。そしてまた、この運動の担い手たちの姿を、もっぱら嗜虐的な人格破綻者や殺人狂やゴロツキや暴漢たちとしてのみ思い描くとすれば、それは実像とはほど遠いと言うべきだろう。権力の座にあった十二年半のあいだにかれらが行なった所行のおぞましさを、あらかじめ多くの有権者が予測しえたわけではまったくなかった。それどころかむしろ、ヒトラーとその運動は、ヴァイマル共和国末期のナチ党のポスターのキャッチフレーズ、「われらの最後の希望、ヒトラー」という文句そのままに、あらゆる幻滅と政治不信のあとの唯一の希望とさえ考えられたのだった」と言っている。
 この指摘の正当さは、この巻に収められたヨーゼフ・ゲッベルスの『ミヒャエル――日記が語るあるドイツ的運命』とハンス・ハインツ・エーヴェルスの『ホルスト・ヴェッセル――あるドイツ的運命』の二篇の長篇をみれば即座に納得できる。
 ナチス政権の宣伝相として、あの時代を生きた世代の日本人にもなお鮮明にその名を記憶されているゲッベルスが、ヒトラー政権成立以前の一九二八年に発表したのが『ミヒャエル』である。虚構の書き手として、若くして炭鉱事故で死んだゲッベルスの親友リヒャルト・フリスゲスをおもわせるミヒャエルを創造し、それにゲッベルス自身の思想と生活を重ねてつくられたこの日記体小説は、作者がそのときナチ党宣伝局長という地位にあったにもかかわらず、ナチ党の公式的な宣伝はほとんど見られない。池田浩士の緻密な考証によれば、この日記のはじまる五月二日とは一九一九年であり、日記はそれから足かけ三年のドイツを舞台にしているのである。作者は「現在」の思想的な到達点からではなく、敗戦直後の混沌のなかで理想をもとめ、ほとんどドイツ浪漫派の心情と呼べるような憧憬に身を焼く青年の彷徨を、その内面から描いたのである。
 浪漫派的心情という点では、幻想作家エーヴェルスの描くホルスト・ヴェッセルの像も共通している。「ミヒャエル」の時代から十年後、ナチ党は組織的にも拡大し、その突撃隊(SA)と共産党の赤色戦線との街頭闘争の時代にはいっている。ゲッベルスはすでにヴェッセルの深く崇拝する指導者である。ホルスト・ヴェッセルもまた、あの時代を生きた世代の日本人にとって、いまなおどこかにその残響をとどめている「ホルスト・ヴェッセル」あの「旗を高く掲げよ」の作詞作曲者である。彼もまた理想・義務・献身という観念に憑かれた彷徨する青年だった。彼が赤色戦線の襲撃をうけて死んだとき、ゲッベルスは「まるでドストエーフスキーの小説のようだ。白痴、労働者たち、娼婦、ブルジョワ家庭、絶えまない良心の苦しみ、絶えまない苦悩。これがこの二十二歳の理想主義的な夢想家の生涯だ」、「第三帝国のための新たな殉教者。二つの世界の間をさすらう旅人」と日記に書いた。
 作品評をするのがこの小論の目的ではないので深入りはさけるが、この二篇の小説は、ナチス揺籃期に誠実に生きようとした青年たちが、どのような心情をもってナチスに吸引されていったかを如実に描きだしているのだ。彼らの危機意識を義務と献身という行動の倫理にまで誘導したものは、何だったのだろうか。彼らは反動ではない。社会主義者なのだ。その社会主義についてミヒャエルは、「社会主義者であること、それは、私をお前に従属させること、個人を全体の犠牲にすることである。社会主義は、もっとも深い意味においては奉仕なのだ。個々人にとっての断念、全体のための要求なのだ」とその日記の一節に書く。しかしこのような倫理的な社会主義は彼らに特有のものではなかった。その源流はロシアのナロードニキであり、ロシアの初期ボリシェヴィキに共通した心情でもあった。シャボワロフの『マルクス主義への道』やピアトニツキーの『革命の陣頭に起ちて』などにわれわれはその活きいきとした形象をみることができる。だから彼らと共産主義者とを分かつ分岐点は、ここにはない。分岐点はミヒャエルの言う奉仕すべき対象としての「全体」にあった。彼らにとって「全体」とは国家であり民族なのだった。国家と民族を超えた国際プロレタリアートの解放という理念において、たとえ反資本主義とブルジョワ的世界の否定という点で共通していたにせよ、この二つの潮流はするどく対立したのである。
 ミヒャエルの日記にはミュンヒェン大学の哲学科に留学しているイヴァン・ヴィエヌロフスキーというロシア人が登場する。ミヒャエルは彼が貸したドストエーフスキーの『白痴』に魂をゆさぶられる体験をする。彼ら二人の交友と討論はゲルマン的なものとスラブ的なものの対立とともに、ロシア的社会主義とドイツ的社会主義との対立としてくりかえし日記のなかにあらわれる。やがてイヴァンは「あなたの世界とぼくの世界は、もう一度、究極の存在形式をめぐって闘わなければなりません。はたして綜合〔2字ルビ→ジンテーゼ〕は見つかるでしょうか? ぼくはそれを希望しますが、ほとんど信じてはいません」と手紙に書いてロシアに帰り、腐敗した官僚とたたかう秘密組織を結成して革命のなかの革命を意図するが暗殺される。――日記のなかのこのエピソードは、第一次大戦直後の、つまりロシア革命の成功とドイツ革命の失敗の直後の、青年の内面における共通するものと対立するものを、あざやかに描き出している。
 しかし『ホルスト・ヴェッセル』の時代になると、もはやそのような友情も討論も彼らの間には存在しえなくなっている。一国社会主義以後の共産主義もまた、その国際主義から社会主義国家防衛に転じ、相似形をなすナチスのライヴァルになってしまう。彼らもまた献身の対象として「党」という「全体」を浮上させるとともに「唯一の指導者」としてスターリンをいただくことになった。その相似形はほとんど言葉を失うほどだ。だから、そもそもは第一次世界大戦という大量死の時代の始まりを告げる出来事に震撼された人びとが、そのような時代にまで到った近代を地獄と感じ、その地獄からの脱出に望みを託した二つの運動――共産主義とファシズムの全経験を、われわれはわれわれの地獄めぐりの糧としなければならないのである。それは、地獄にはどのような陥穽があるかをしめすだけでなく、人びとはその陥穽にどのようにして呑みこまれるかを示唆深く語っているのだ。
 政治的な理念や思想や理論というかたちで表現されたものだけでなく、それをささえた人びとの内面や感性に、あらためて照明があてられなければならない。そういう意味でも、この時代の文学的表現の数々は汲みつくせぬ宝庫である。そして相似形をなすもう一つの極であるボリシェヴィズムの運動についても、同時並行の比較史的な研究がなされることが不可欠である。そのとき、当時はプロレタリア文学と呼ばれたボリシェヴィズム文学の再評価はその重要な一部になるだろう。
 池田浩士のファシズム文学の研究が、他のファシズム研究と根本的にことなり、現在のわれわれの地獄めぐりに不可欠の糧となりうるのは、それがもうひとつの極としての共産主義的革命運動の思想と実践を、明示的にであれ暗示的にであれ、つねに参照しているからである。一方に「旗を高く掲げよ」〔7字ルビ→ディ・ファーネ・ホッホ〕(ホルスト・ヴェッセル)がひびけば、他方は「高く立て赤旗を」(赤旗の歌)と応じ、旗はベルリンに、モスクワに林立し、そして今日も旗はニューヨークを埋め尽くしている。「旗を立てよ」〔5字ルビ→ショウ・ザ・フラッグ〕と言われれば汲々として派兵するこの国も例外ではない。地獄は旗におおわれているのだ。
 池田浩士は彼のファシズム文学研究の最初の成果である『ファシズムと文学――ヒトラーを支えた作家たち』(一九七八年、白水社刊)のなかで、つぎのように言っている。
「新しいファシズムを、われわれもまた、見誤るのかもしれない。あるいは、すでに見誤っているのかもしれない。そのいま、過去のドイツの文学現象を、しかも限られた視点から見なおすことが、この誤りに歯止めをかける一助になりうるなどとは、およそ望むべくもないかもしれない。だが、矛盾が深ければ深いほど、対立が激しければ激しいほど、現実はさまざまな反対派を生む。ナチズムもまた、それらの反対派のひとつであったことは、いまさら言うまでもない。われわれにとっての問題は、いかなる反対〔2字→傍点〕をわれわれのものにしていくか、ということにある。〔……〕現実にたいする反対〔2字→傍点〕がどのようなかたちでなされ、どのようにヒトラーを支える基盤と行動とに変質していったか――これを見なおすことは、われわれの《いま》とわれわれの《反対》とにとって、無縁な作業ではないだろう。いずれにせよ、反対派がつねに敗北を喫し、つねに体制に順応していった歴史を、ただ単に《ドイツ的みじめさ》として片づけているわけには、もはやいかないのだ。」
 わたしたちは池田浩士の解説や論に学ぶだけではなく、彼がこれからも続々と送りだしてくれる作品そのものを読むことをとおして、自分自身で「なぜ」を発見しなければならない。なぜなら人びとの人生が多様であり、その人生はひとつの「全体」をなしているように、小説もそのような人生を創り出すからである。わたしたちはそれを読むことによって、あの地獄を生きた先人たちの人生を批判的に追体験することができる。そのときはじめてわたしたちは、わたしたち自身の地獄めぐりのためのたしかな目と足を獲得することになるだろう。
(『運動〈経験〉』4号、2002年冬号)