橋下の馬脚が徐々に顕わになってきたようです。

 最近旗揚げした維新の会政治塾とやらですが、所詮橋下の子飼いの集団にすぎない、いわば烏合の衆です。なにしろ何かの理念に賛同して結集したというより、橋下個人の人気にあやかって政界進出をもくろもうという集団ですから、どちらかというと選挙互助会のような様相を呈しています。ま、民主党を更に質的に低下させたような集団だと思えばよろしい。

 その橋下が訴える改革ですが、「何かを変える」というよりは、ただ単に「やり方を変える」にすぎないものだといえます。
 実際問題として彼の主張を見れば、自民党が推進してこようとした箱物行政の継続(例えば大阪のベイエリア再開発や高速道路、リニアなど)と社会保障制度や教育行政での予算削減などで、掲げている政策そのものは旧態依然としか言いようがない。かつて自民党がそれを推進できず、行き詰ったのは国民の反対に直面したからで、政策そのものが国民から拒絶された。その反対を押し切れなくなって座礁したわけです。

 橋下がやろうとしているのは国民の反対を一挙に押し切れるような強権を作り上げようとしているに過ぎません。国の形を変えると橋下は言いますが、それはまさに権力のあり方を変えるということに他ならないわけです。
 
 橋下の目指すその権力の形が思わぬところから明らかになってきました。産経新聞ニュースが次のように伝えています。[以下引用]

 入庁式で橋下流訓示「公務員はルール守れ。君が代、気を付けで歌え」2012.4.2 14:13
大阪市の発令式で新入職員を激励する橋下徹大阪市長=2日午前、大阪市北区
 実質的な新年度のスタートとなった2日、多くの官公庁や企業で入庁式や入社式が行われ、フレッシュな新社会人が新しいスタートに身を引き締めた。
 大阪市北区の市中央公会堂では同市の新規採用者発令式が行われた。同市では3月に市立学校の教職員などを対象とした国歌起立斉唱条例が成立したが、式では約140人の新人全員が起立し、混乱はなかった。
 橋下徹市長は「公務員たる者、ルールを守ることを示さないと。皆さんは国民に対して命令する立場に立つ。学生のように甘い人生を送ることはできない」と訓示。退出間際には「君が代を歌うときは、手は横に、気を付け(の姿勢)で」とくぎを刺した。

 [引用ここまで。参照http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120402/lcl12040214140000-n1.htm]

 またとんでもない発言をしております。ちなみにその発言の生録がこちらにあります。
http://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=eCNIK2QhwYk

 で、何が問題かというと橋下は「公務員は全体の奉仕者である」という憲法の規定(15条)を無視して、国民に命令する存在であると言い放っている事です。 この発言と職員条例の中味を併せて考えれば、橋下の考えている権力のあり方というのが如実にわかります。
 つまり橋下は大阪市や大阪府の職員を自分の意に忠実に従う部下に変質させ、市民・府民を統制させる、そのような権力のあり方をひたすらに目指しているわけです。 これは民主主義や地方自治の考え方とは対極の上意下達、集権制の考え方でありまさに独裁者の発想です。
 さらに橋下の船中八策とやらにある首相公選制や参議院の廃止などと併せて考えれば、橋下はこれを日本の国全体に拡げて明治政府のような中央集権政府を作ろうと考えていることは自ずと明らかでしょう。

 先ほども指摘しましたが、橋下の政策の中身は古い自民党政治そのものです。新自由主義に基づいた野蛮な拝金主義をはびこらせ、日本という国を駄目にしてきた保守的政策を、国民に押し付ける事が出来なくなった自民党政治に代わって、強権を以って国民に押し付ける。これが橋下の本性です。
 
 橋下は政権をとるまでは国民の人気をなんとしても維持しなくてはなりません。そのために反原発のポーズをとったり消費税に反対して見せたりすることでしょう。しかしそれはあくまでも方便にすぎません。たとえば原発について大阪市民による住民投票を拒絶した事にも見られるように、民意を尊重する事は橋下の本意ではないのです。民意に縛られてしまうとここぞというタイミングで翻意して財界におもねる事が出来なくなってしまう。それが嫌なので住民投票などとんでもないと橋下は考えるのです。

 橋下はいずれ劇的に態度を豹変させるでしょう。それはヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党を名乗ってあたかも労働者のための政策を採っているように見せかけて、政権獲得前夜にあっさりと労働者を裏切った姿に似ています。

 橋下や維新の会が勢力を得る事で世の中がよくなると期待されている方には気の毒ですが、それは幻想に過ぎません。権力を握った橋下がもたらすのは、更なる国民生活の悪化と民主主義の破壊でしかありません。
 よく「目的は手段を正当化する」とマキャベリーの言葉を持ち出す方がおられます。しかし「手段は目的を義認する」というように、国民にとって本当に望ましい改革は国民自身の手によって獲得されなくてはなりません。民主的な手法を欠く改革は、本当の意味で国民のためになる事は決してないのだと言うことを申し述べたいと思います。