スタジオ・アルバムのザ・ベースメント・テープス(地下室)ですが、ボブ・ディランにとっても、色々とピークに達しているというのがわかる、そんな逸話、問題がひしめいているレコーディングのスタジオ・アルバムです。

そもそも、ザ・ベースメント・テープスがリリースされたのは1975年のことです。ザ・ベースメント・テープスは「ザ・バンド」も含めてレコーディングされたのですが、レコーディングまでに波乱なども生じたため、今でもその話が語り継がれているという背景が存在します。

ただ、そのような問題がありつつも、ボブ・ディランの名声に陰りが見えません。というのも、ザ・ベースメント・テープスは、ビルボード・トップLPsテープ・チャートでは7位、全英アルバム・チャートでは8位を記録しているからです。ザ・ベースメント・テープスは、RIAAからゴールド・ディスクの認定を受けておりますので、段々と世間からボブ・ディランという存在が認知されていくのを感じます。

ボブ・ディランは有名人であることは確かです。しかし、ザ・ベースメント・テープスでは問題も多かったため、世間的にもボブ・ディランを批評する人物が増えていきました。

というのも、オートバイ事故を起こし、音楽活動では今までの音楽性を捨てたのでは?という疑念が巻き起こったからです。

オートバイ事故についてですが、ボブ・ディランは1966年7月29日にオートバイ事故を起こしています。ボブ・ディランは、ニューヨーク州ウッドストックの自宅近くで、トライアンフ(オートバイ)で事故を起こし、そのため、大きな怪我(脳震盪、脊椎損傷)を負ってしまいます。

これにより、コンサート予定についてもスケジュールはすべてキャンセルとなってしまうのです。このような問題の影響を受けて、ホークスの仕事も無くなってしまいます。

1969年に受けたインタビューでは、ボブ・ディラン自身が「悲惨なオートバイ事故に遭って、その、しばらくおとなしくする羽目になって。でも、その事故の重大さに気づいたのは、少なくともそれから1年も経ってからだった。(※インタビューが長いため省略)」と答えています。

ボブ・ディランにとっても、痛ましい事故であったのは確かなようです。ただ、これだけでなく、ボブ・ディランは創作面、ビジネス面でもピークに達しています。

そのためか、1965年9月から1966年5月にかけ、ボブ・ディランはザ・ホークスをバック・バンドに入れてアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパと広い範囲でツアーライブを開催するのですが、そこでフォークの貴公子として知られていた
ボブ・ディランが、ロック・バンドをバックに演奏していたことに、ファンが怒りを露わにする・・・という問題まで発生したのです。

そして、メンバーの中ではヘルムが、このような否定的なファンの対応に耐え切れず、1965年11月にホークスから脱退してしまうという問題まで起きました。ボブ・ディランというと、フォーク・ロックでも知られている人物であり、順風満帆な人生を送った人物・・・と思われることも多いのですが、実際は山あり谷ありの人生を超えていった人物でもあったのです。