著者の梅本弘はソ連とフィンランドとの冬戦争を描いた「雪中の奇跡」でデビュー。私がその名前を知ったのはビルマ方面における陸軍戦闘機隊について描いた「ビルマ航空戦」だと思います。後で気づいたのですが、「大西画報 烈風が吹くとき」の巻末の対談にもその名前が見られますから、私が彼の名前を見たのはそれが最初になります。

それまでの太平洋戦争の空戦記録と呼ばれるものは、日本側の撃墜記録を主体に描かれたいたものがほとんどで、実際は「相当に盛っている」事が多かったのです。有名な例では、紫電改を揃えた松山の343空はその初陣で、戦力差では3倍近くのアメリカ艦載機と戦って圧勝したとされていたのですが、戦後に双方の被害記録をつき合わせたら、損害自体は互角だったのが判明しています。戦力差が1:3でしたから損害互角でも大健闘なのは事実なのですが、ロマン度が下がってしまったの仕方がない事なのでしょう、、、。

梅本は同じ手法で対戦国の空戦記録も調べ上げ、真実に近い数字を導き出しています。彼の功績は太平洋方面の戦いよりは地味とされていたビルマ方面での空戦記録を調べ上げ、海軍の「零戦」に比べて「劣る」とされていた陸軍の「隼」が実は優秀な戦闘機であり、大戦末期には連合軍の新鋭機の前にほとんど役立たずとなっていた零戦とは違って最後までしぶとく戦い、連合軍パイロットからは零戦よりも警戒されていたのを詳らかにしたことでしょう。最近発売されるミリタリー関連本でも「隼は零戦に劣る」ような記述がされている事が少なくないのですが、真実が事実として定着するまでは長い時間を要するのでしょうね。

その彼がガダルカナル島での航空戦について書いた作品がこの作品です。けっこうなお値段なのですが、この手の資料を集めてしまうのはミリタリーマニアの習性。そして私が知りたかったのは、以前に感想文を書いたこの作品に書かれていた

「零戦隊がガダルカナルに進出したけど米軍侵攻の前日にラバウルへ帰った」

という衝撃的な事実に関する真偽であり、アメリカ側の記録が欲しかったのです。ちなみに先ほど確認したところ、この件に関してWikiにはこれといった記述は追加されていないようです。「戦艦『大和』副砲長が語る真実」と史実では、

1941年8月5日、零戦隊12機がガダルカナル島基地へ進出
1942年8月6日、宿舎が貧弱という理由でラバウルへ帰投。
1942年8月7日、早朝米軍が上陸

となっています。今までの「史実」ではガダルカナルに零戦隊が進出した記録はなく、当時近辺にいたのは近くのツラギ島へ展開していた横浜海軍航空隊(浜空)二式水戦(フロート付き零戦)の部隊だけです。これに対して「ガ島航空戦 上」」における日米両軍の戦闘記録では、

1941年8月5日、B−17が5機の戦闘機(機種不明)の邀撃を受ける。
1941年8月6日、B−17が零戦の邀撃を受ける。

いきなり証拠がみつかりました(笑)。6日の空戦記録に対して梅本は、「浜空の水戦と思われる」と書いているのですが、それは「戦艦『大和』副砲長が語る真実」の内容を知らないせいかもしれません。

1941年8月7日、早朝にB−17が複数の零戦の攻撃を受けて撃墜される。

零戦隊がガダルカナル島へ進出していたとしても8月6日には帰投した事になっているので、この記録は真偽も不明なのですが、6日の深夜(7日の早朝?」)に出発した直後に哨戒飛行中のB−17を撃墜したのでしょうか?

米軍では、二式水戦を「フロート付き零戦」と記録していたようです。ですから部隊やパイロットの中には両機を区別しない人もいたかもしれませんし、「水上機に墜とされたってのはカッコ悪いから零戦って報告しておこう」なんて人もいたかもしれませんから、本書の記録だけで零戦隊のガダルカナル島進出が証明されたわけではないのでしょうが、真実度は少し上昇したと私は思っているのです。