2026年06月09日
土に還る

牛達は
毎日たくさん食べて
毎日たくさん糞をする。
酪農家には日常で当たり前の事。
けれど、人社会の中では糞は不浄なものとして扱われ、
廃棄物と言われ、
利益を生まず、
嫌われ、
存在を無視されている。
けれど、自然界で糞は循環の重要な位置を占める。
草を食べ、
体を維持しながら、
子供を産み育てるために乳を出し、
消化出来ない部分は糞として体外に排出される。
糞は昆虫やミミズたちの餌や繁殖場所になり、
細菌やカビを介してさらに分解され、
腐植へと変わり、
植物の根から吸収され草を育む。
その草を牛が食べる。
そうして循環は続いていく。
化学肥料が普及する以前、
農業はもっとこの循環に近かったのだと思う。
牛は牛乳を作るだけではない。
気付かないうちに、
多くの生き物の暮らしも支えている。
風の吹く牧場で、
今日も牛たちは
食べ、
乳を出し、
糞をし、
また草を食べる。
それは
土を育て、
草を育て、
命を繋いでいるということ。
毎日見ている当たり前の景色の中に、
ふと小さな奇跡を感じることがある。
2026年06月08日
種を蒔く
梅雨の晴れ間に、梅を収穫した。収穫までは手伝うけれど、そこから先の手間ひま、いわゆる「梅仕事」は妻の領域だ。
今朝は、とろりと熟した実で梅ジャムを煮てくれている。甘酸っぱい匂いが部屋に満ちていく。
桑の実の深い赤と、梅の爽やかな青。
このふたつが並ぶと、今年も夏への入り口をひっそりと潜ったような心地がする。
それは、けっして諦めや妥協の言葉ではない。
本当に、どうしようもなく「しょうがない」のだ。
容赦ない日照りも、激しい強風も、人間の都合でストップさせることなんて不可能だ。
そんな、自分の力ではどうにもできないあらゆる事象を、まるごと引き受けて生きていく。
どれだけ頭をひねり、万全の準備をしてその日を迎えたとしても、上手くいくこともあれば、呆気なく失敗することもある。
それを「タイパが悪い」とか「バカバカしい」なんて切り捨てたくはない。
ただ上手くいくことだけを、まっすぐに念じ、信じ、祈る。
そして静かに、来年のための種を蒔く。ただ、それだけ。
それはある意味、何千年も前の先祖たちと、ほとんど変わらない想いや思想の中で暮らしているということだ。
「今の時代に、わざわざそんなことしなくても」
そんな声も聞こえてきそうだけれど、私にはどうしてもそうは思えない。
というか、地球上で人間だけがうぬぼれるのかもしれない。
野生の動物たちは、油断することはあっても、自分を過信するようなうぬぼれ方はきっとしない。
だけど、同時に人間だけが、まだ見ぬ未来に期待を寄せて、諦めないで、夢を見る。
けれど未来への希望は捨てずに、しなやかに生きていたい。
不完全で、愛おしい、人間だからこそ。
2026年06月02日
草を食べる
牛たちは毎日草を食べている
朝も、
昼も、
夕方も。
反芻し、
休み、
また草を食べる。
彼女たちの暮らしは、
当たり前で、淡々としているように見える。
確かに特別なことはない。
けれど、
草を主食にするということは、
よく考えると不思議な能力だ。
田畑の畦や、
牧草地に生える草。
人はそれを食べることができない。
けれど牛は食べる。
草を反芻し、
お腹の中で微生物を育て、
その力を借りながら栄養に変えていく。
そして草は、
やがて乳になる。
他の動物が利用できないものを、
食べ物へと変える。
それは牛という生き物が持つ、
とても特別な力なのだと思う。
草を育て、
牛が食べ、
乳になる。
当たり前のことだけれど、
それは自然の循環の上に成り立っている。
彼女たちの暮らしそのものが、
循環の中に組み込まれている。
草を食べ、
乳を出し、
糞は土へ還る。
その繰り返しの中で、
農地は維持され、
人の暮らしも支えられている。
そんな営みを毎日見ていると、
牛は自然の循環の中で生きるために生まれてきた動物なのではないかと、
ふと思うことがある。
風の吹く牧場で、
今日も牛たちは草を食べている。
