2024年06月18日

魂は細部に宿る

IMG_5083梅雨入り出来ないまま 6月21日は夏至

空梅雨になるのだろうか 雨の無い6月の日差しは強すぎる。


麦わら帽子を買った。先代のイグサの帽子は5年以上愛用したけれど

流石に型崩れして被れなくなってしまった。

ホームセンターの売り場に行くと サイズ・色・形・素材・価格

様々な商品が並ぶ 先代の帽子は淵に成型用の針金が入って居ないオーソドックスなものを

水に漬けて型を付けて好みの形にしていたので 愛着もひとしおだったが

今回は縁に針金の入った物を選んでみた。

素材は麦わら 先代とは違い永くは使えなさそう(多分今シーズンで壊れそう) 

型が呆気にとられるほど簡単に付く そして結構高かった(1,200円也 先代は多分400円位)


作業着は機能的であれば何でもいい。ジャージだろうがJAのキャップであろうが構う事は無い

相手は植物や牛や機械たち。汗みどろになるから機能性が優先されるのは当然。

けれど 何でもいいという気にどうしてもならない。

相手が人ではないと云う事と 身だしなみが関係ないとは思えないのだ。

つまり 敬意のような感情の表現としての 身支度・身だしなみが必要と捉えているのだと思う。

どうでも良い身支度でする仕事は どうでも良い結果を招く気がするし

植物や動物に対する覚悟やそれらに対する敬意 あるいはそれらの持つ尊厳の尊重を

身支度で表す必要があるとぼくは考えている気がする。

其れと仕事に対する 誇り 矜持 自信 を表現したいのだと思う。


新しい麦わら帽子を数年ぶりに更新して 気分が良い!

帽子1つで気分が高揚し 仕事に張りが出て楽しくなる。

そう云う ささやかな心の動きにフォーカスする事で 

日々を愉しんでいる。書き出しはそんなつもりだったのだけれど

農業の現場で身支度を整える必要は無いのに 何故それをするのか?を覗き込んだ結果

敬意と尊厳の維持と誇りが その背景にあることに気付く。


全てに 効率や機能性ばかりが優先される昨今の風潮が嫌なのだ。

尊厳や経緯や誇りに勝る 効率や機能は無い。それを忘れてはいけない。

麦わら帽子1つで大げさなと思うなかれ 多くの場合細部に魂は宿るのだから。

kurumiruku2009 at 04:23|PermalinkComments(0) 牛と生きるということ | 牧場よもやま話

2024年06月14日

蜂と牛と花と

IMG_5215梅の収穫をしたが 今年は記憶のある限り最低の収量。

ニュースでも紹介されていたが

全国的な傾向で 猛暑による影響らしい。

春の開花期に蜂たちが良い仕事をしてくれる筈と

期待していただけに 非常に残念。

今年の冬こそ来年に備えて剪定をして 万全の態勢で春を迎えたい。


その蜂たち

内検の結果 5箱全ての女王が産卵を始め 

蜂の子の数・蛹の数 共に良い状態を保っていることを 先日確認した。

先週は見学希望者の為に4枚だけ採蜜して 5キロほど収穫。初物を愉しんだ。

新鮮な蜂蜜は花の香り。初物のこれは菜の花ベースでほんのりバラやクローバーの香りも混じり

ちょっと複雑な エキゾチックな味。一期一会 その時の農場環境がもたらす味こそ

趣味の養蜂の楽しみであり 醍醐味。一度として同じ香り・味には巡り合わない。

これからクローバーの最盛期へと向かい 恐らく次の蜂蜜はクローバーベースの香りと軽い甘さ

菜の花の蜜も未だあるだろうから どんな甘さと香りになるか 今から楽しみ。


自然と人間の間を生きる農業の中でも 放牧や養蜂は自然や環境に寄り添う農法で

自然の力を生かし 自然と共に歩むシンボリックな農業でもある。

けれど逆に 農場環境や地域環境の多様性に左右される農法でもある。


この地は 農地として産声を上げて僅か70数年 まだ生物層は薄く 

周囲3キロは大穀倉地帯のコメ単作モノカルチャー地帯でもある。

しかし 周囲のモノカルチャーに対し 僅かながらこの地の多様性が増してきていることも感じる。

と同時に 周囲の使う薬品や肥料の影響に漠される 

非常に脆弱な環境にあるのではと思わさる状況でもある。


牛にせよ米にせよ モノカルチャー界は作業の効率化・集約化・労力低減の為に 

投入薬品は複雑になり 投資額も大きくなる傾向にある

周り全てをそれら体制に包囲された真ん中で 小舟のようなこの集落と牧場は

多様性を担保しながら厚みを増す事が出来るかどうかの際にいる事も感じ始めている。

これは 牧場生命を賭けた日本でも数少ない実証実験になる気がしている。

モノカルチャー界の圧に負けないだけの 多様性を付ける事が可能かどうか

小さな牧場の大いなる実験が 奇しくも此処で始まろうとしているのかもしれない。


kurumiruku2009 at 05:51|PermalinkComments(0) 牛と生きるということ | 社会と農業について

2024年06月10日

自然と人間

IMG_5014今日は雨 2番草の収穫がまた中断

刈り取りをし 乾かし ロールベールして フィルムでラッピングする。

機械は大型化し 時間当たりの作業量は増えた けれど

天候に左右される事 オペレーターが必要な事は昔と変わらない。

機械が複雑化したためのトラブルも増えたし 失敗した時の被害も大きくなった。

「 農業にとって 進歩とは何だったのか 」 そう思わない時は無い。


社会は 人の心を煽り 誰が優位なのかばかりを探り 成長し続ける事を強いている。

人心は疲弊し 富は偏在し 子供が飢えるて居ても 

社会がちっとも良くなっていない事には目を瞑り 勝ち抜ける事ばかりに夢中 

「 幸せとは 何なのか?」そう考えない日も また無い。


自然が求めることはただ一つ 『 調和 』

自然は全てを生み出し 全てを分解し 循環させ また生み出す。

その完璧さを目の当たりにするとき 

現代人の求める幸せとの乖離を感じる


自然と人間の間を生きる 農業を営む事の本質は思索にあると思わずにはいられない。

人の価値観に支配される部分と 支配されない部分が共存する此処には

自然と共にある事の安心感と緊張感が共存する。

生きる事の本質は何なのか その到達点はあるのか 思わない日は無い

と同時に

その境地を思索する事は ある種自分自身が社会と乖離してしまう事も 感じない訳にはいかない。

其れほど今の社会が自然と乖離し 況や無視した暴走を続けていると云う事でもある。

そんな気がする。


kurumiruku2009 at 07:07|PermalinkComments(0) 牛と生きるということ | 社会と農業について