引用元:https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1614695454/

これは、僕が大人になってからカルチャーショックを受けたときのエピソードだ。
早速だが、1つ質問がある。
「あなたの家には、エッグスタンドがありますか?」
ちなみにエッグスタンドとは、食卓のテーブルの上で「卵を置くため」だけにある器のことだ。
「エッグスタンドくらいあるでしょう」
「エッグスタンドって何? 見たことないんだけど~?」
反応は2つに分かれると思う。
あなたは「金持ち」をどう見る?
僕の考えは、こうだ。
卵を置くためだけに食器があるって、おかしくないか???
器なんて何でもいいし、普通の小皿であれば、卵に限らず、なんだって置くことができる。
けれど、エッグスタンドは「卵のためだけ」にしか使えない。
そんなものを買う「余裕」があること。しかもそれを「当たり前のように語る人」がいることに、僕はショックを受けたのだ。
それを知ってからというもの、雑貨屋に行くと、たしかにエッグスタンドは売っている。それまで目に入らなかったものが顕在化されてしまった。
さて、なぜ、こんな話をしたかというと、比較対象が現れたときに、どう受け止めるかで人生はけっこう変わる気がするからだ。
「ああ、私の家はエッグスタンドもない家なのか。恥ずかしい……」
そう受け取る人が一定数はいるのではないだろうか。
ここでいう「エッグスタンド」は、例のひとつにすぎない。
「幼稚園の頃にお受験をしたことがある」
「海外へは必ずファーストクラスに乗っている」
「家にはサッカーができるほど広くて大きな庭がある」
社会に出たり、SNSを開くと、比較する機会が増えていく。特に、上京して大学に進学したり、就職して都会に出てきたり、結婚などのライフイベントで人間関係が変われば、この問題に直面する。
生きていく限り、つねに「比較対象」に晒される。
でも、比較対象がないほうが、人は幸せなんじゃないか。
そう思うと、「自分はこうやって生きてきた」ということをちゃんと軸として持っておくことが必要だ。
人を羨んでしまいそうなときに、この言葉を思い出して立ち戻ってほしい。
「エッグスタンドなんて、いらなくない?」
すると、人生におけるさまざまなことを内省することができ、ぐっとラクになることだろう。
子どものお受験 = エッグスタンド
ファーストクラス = エッグスタンド
大きい庭付きの家 = エッグスタンド ……
瞬時にそう置き換えるようにすればいい。さもエッグスタンドを持っていることを当たり前のように語るやつに、劣等感を持つ必要はない。
この思考法は、僕が考える「1%の努力」の一例だ。
ぜひ、取り入れてみてほしい。
全文
https://diamond.jp/articles/-/262049
前半一瞬騙された
うまいな
なげえだけで中身からっぽやな
ぐっとラク
賠償金払え
エッグスタンド持ってるやつはバカ
ちょっと関心したけど大したこといってない
「ラテン語なんて、いらなくない?」
=エッグスタンド理論破綻してて草
用途が違うから=にならないぞ
>>12
例えやろ
ファーストクラスは必要ないにしてもビジネスクラスはガチで羨ましい
実家にあったわ
カリオストロの城の伯爵ごっこしてた
わいはペーパーナイフやな
エッグスタンド西村
ベジタブルロケット堀江
冷蔵庫にエッグスタンド標準装備されとるやろ