2015年03月19日

 3/19(木)雨

 都合により、しばらく休止します。


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2015年03月08日

   3/6(金)晴 

3.6自家焙煎 三寒四温という言葉が正にピッタリな今日この頃です。暖かい日の次の日は冷たい氷雨になっていたりして、寒暖の繰り返しで徐々に春が近づいています。

 また三月は年度末で卒業や別れの月でもあります。ラジオやテレビからはそれに因んだ曲がよく聞こえてきます。

 連続テレビ小説「マッサン」を見ていて、日本でよく卒業式や別れの時に歌われる「蛍の光」は、原曲のスコットランドでは「オールド・ラング・ザイン」といって旧友との再会を喜んだ歌と知り、国が変われば意味も変わるものだと改めて感じました。

 上は我が家のコーヒーの自家焙煎、自家挽器です。生豆を茶器に入れてアルコール焜炉で10分ほど煎れば簡単にできます。

3.6手作珈琲 コーヒーの苦味が非常にまろやかで新鮮で、甘さに近いものを感じます。

 生豆は東ティモール産で薄緑色しています。通販で1Kg買ったのですが1ケ月は十分持ちます。次はブルーマウンテンを飲んでみようと思っています。

 前回に引き続き「竹島問題」における韓国側の主張を検証してみたいと思います。

 1696年(肅宗22年)春、またもや日本の船が来て鬱陵島で漁労をしているのを見た安龍福は直ちに彼らを追い払い、鬱陵島は朝鮮の領土であると抗議をするため日本(鳥取県)に渡った。伯耆州太守が安龍福に日本に来た理由を尋ねたところ、彼は「何年か前に自分がここに来た時、鬱陵・子(干)山などの島を朝鮮領の境界と定め、関白の書契を受けたが、またしてもそれが破られた。一体どういうことか」と言った。これに対し、伯耆州太守は「2つの島がそちらに属している以上、万一ふたたび国境を侵犯する者があれば、国書を作成し、通訳官を定めて厳重に処罰する」と約束した。(『肅宗実録』30巻)

 解説と私見

 前回と同じく、子(干)山が竹島(独島)という根拠がないので、上記の文は後世の捏造と思われます。


           ■     ■     ■     ■     ■     ■


           魏志倭人伝の記述の秘密(その31)


  旅程記事解明のキーワードは「郡より女王国に至る、万二千余里」だった(二)


 しかし、少し丁寧に読めばその矛盾に気がつくはずである。邪馬台国は会稽東冶の東にあると書いてあるのに、帯方郡からの距離が一万二千里もあるということは、邪馬台国はニューギニアあたりにあるってこと? と疑問に思うはずである。

 そしてその一万二千里という距離は、帯方郡から会稽東冶の東までの距離の五倍に相当することも地図上で計測すれば簡単に分かることなのだ。(当時の人々の感覚からいっても、帯方郡から会稽東冶の東までの距離が一万二千里とは到底信じられないだろう。黄河河口から会稽東冶までの距離を想像すればよいわけなのだから)。

 そう、魏志倭人伝の原本の作者は、旅程距離を実際の五倍にしたことを見つけ出すヒントをここに隠したのだ。

 魏の首脳の意向によって、旅程距離を五倍にして邪馬台国を会稽東冶の東に位置させた。しかし、虚偽の記述を残すことは史家としてのプライドが許さない。

 だが、命令はぜったいである。そこで史家としてのプライドを守るため、倭人伝の中にその虚偽を解く鍵を隠したのではないだろうか。

 「郡より女王国に至る、万二千余里」

 この魏志倭人伝の旅程記事の中で最も分かりやすく、最も明確に書いてある部分に謎を解く鍵を隠したのだ。

 「郡より女王国に至る、万二千余里」=「その道里を計るに、当に会稽東冶の東にあるべし」万二千余里とは、416メートル×12000=4992キロメートル=約5000キロメートル。

 帯方郡から会稽東冶の東までの距離=約1000キロメートル。

 この距離の矛盾を読者に気づかせ、旅程距離はすべて実際の五倍にしてあることを見つけ出してほしかったのではないだろうか。

 そして私はみごとにそのトリックに引っかかり、「旅程距離五倍の法則」を見つけ出し邪馬台国の所在地を解明できた、とさらに確信を深めたのである。
(渡部雅史著) 

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2015年03月02日

   2/28(土)晴

2.28山桜 左は帰宅途中に撮った、JR目黒駅近くの公園に咲いていた山桜です(9:30頃)。

 だいぶ春めいてきました。今年の冬は一部の地方ではかなり積雪量が多かったようですが、小生の住んでいる取手地方は幸いにも一度も雪掻きをせずに済みそうで、非常に助かっています。

 ところで、首都高速の中央環状線が3月7日に全線開通します。最後の渋谷〜品川間が完成するので渋谷、新宿、池袋方面から羽田、川崎、横浜方面に移動する際はかなりアクセスがよくなります。都心を通らなくてもいけるので時間の短縮、渋滞緩和には相当期待できそうです。

 前回、竹島問題について韓国側の主張について検証してみましたが今回もその続きをしてみたいと思います。

 『萬機要覧』(1808年)軍政編には、

 輿地志云鬱陵宇山皆宇山國地也. 倭所謂松島也

 「輿地志によれば、鬱陵島と宇山島はすべて宇山国の地。宇山島は倭人がいうところの松島(独島)である」とされている。独島が宇山国の領土であったことが文献によりはっきりと証明されているのである。〔『独島領有権の歴史』、慎埠(シン・ヨンハ)、2002年〕より

 解説と私見

 上記の内容は、韓国側は宇山島と独島は同じといっている。そして宇山国の中に鬱陵島と宇山島が入ると主張している。

 鬱陵島は直径10キロメートル程の火山島で昔から約1万人が漁業や林業で生活している島です。かたや宇山島は鬱陵島から海上で90キロメートル以上も離れた岩礁の昔からの無人島です。普通に考えてみて1万人も住んでいる島が無人島の島名・国名に入るなどということはありえません。

 ちなみに、韓国の12世紀の歴史書によると、宇山国は鬱陵島の別名であると書いてあるそうです。

 ですから、韓国側の宇山島と独島は同じで、宇山国の中に鬱陵島と宇山島が入ると主張していることは全く理屈にも史実にも合いません。

2.28一軒め

 上野界隈の大衆酒場にて(11:00頃)。


 酒はバクハイで(ウィスキーのビール割り)肴はコーン・ベーコン炒めとモヤシ・ニラ炒め。







           ■     ■     ■     ■     ■     ■



            魏志倭人伝の記述の秘密(その30)


  旅程記事解明のキーワードは「郡より女王国に至る、万二千余里」だった(一)


 今、最終チェックをしていて、今回の私の理論に重大な欠陥があることに気がついた。

 魏志倭人伝には帯方郡から邪馬台国までが「万二千余里」と記されていて、「邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置する規定」から地図上で帯方郡からトカラ列島〜沖縄付近までの距離は約一千キロメートルと測定し、一千キロメートルを一万二千里で割ることにより一里は約八十三メートルであることを導き出したのである。

 しかし、魏志倭人伝の作者は、当時の中国の人々に邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置する、と見せかけたかったのであるから、当時の一里=約四百十六メートルをあてはめて当時の人々に邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上にあると認識させるには、

 千キロメートル÷四百十六メートル=二千四百余里

 とその距離を記すはずではないのか?

 なぜ、このようにその距離にさらに五倍を掛けてしまっているのだろうか?

 これでは当時の中国の人々は、それこそ邪馬台国はニューギニアあたりにあると認識してしまう。それでは、邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置するとみせかけ、呉に圧力をかけるという目的を達成することができないではないか。

 これは一体、どういうことだろうか?

 しかし、謎は解けた。

 魏志倭人伝の文中に明解に「その道里を計るに、当に会稽東冶の東にあるべし」と記されているのだ。

 さらっと普通に読んだ人は、そのとおりに、邪馬台国は会稽東冶の東にあるんだなと認識するはずである。これにより、邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置すると見せかけ、呉に圧力をかけるという目的を達成することができる。
(渡部雅史著) 

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2015年02月23日

  2/22(日)くもり時々雨

2.22芝外 左は首都高速・芝公園(外)料金所から見た早朝5時頃の桜田通り方面の模様です。

 今日は東京マラソンの日であと数時間後には一つ先の日比谷通りをランナーが走ることになっています。

 朝の8:30〜9:00頃は業務の交代時で移動のワゴン車で日比谷通りを通過しましたが、何とか規制にかからず無事戻ってくることができました。

 ところで、2月22日は島根県の条例で「竹島の日」になっています。日韓関係がうまくいかない原点は竹島問題があるからと思えてなりません。 
 
 
 そこで今回は韓国側が何を根拠に竹島(独島)が自国の領土と言っているのか一部を抜粋してみます。

 独島が歴史的に明らかになったのは、512年に新羅が宇山国を征服したときである。(『三国志記』、1145年) この宇山国には、鬱陵島だけでなく独島も含まれている。その歴史的な根拠は次の通りである。

  『世宗実録地理志』(1432)

   蔚珍県条には、

  宇山武陵二島、在縣正東海中、二島相距不遠、風日清明、則可望見

  「宇山、武陵の2つの島は、蔚珍県の東の海にあり、それらはさほど遠く離れてはおらず、風が吹く晴れた日には望み見ることができる」と記録されており、鬱陵島の人々がすでに独島を認識していたことがわかる。今も天気の良い日には鬱陵島から独島が見える。

 私見では、

  。毅隠嫁に新羅が宇山国を征服したことが1145年の『三国史記』に載っているといっているが、 史実と記録が600年以上も離れており、一地方の歴史として真実かどうか疑わしい。

  ◆岷Щ街颪砲蓮⊥砧妖腓世韻任覆独島も含まれている」と言っているが、海上で90キロメートルも離れた岩礁の無人島に1500年も昔に新羅が征服に行くだろうか。また鬱陵島から天気のいい日には独島が見えたという記録だけで宇山国と断定できるだろうか。後世の創作と思える。

  4攅饌Δ亮臘イ正しいと思うなら国際司法裁判で白黒の決着をつければいいのになぜしないのか。

2.22上野かのや

 上野界隈の居酒屋にて(11:00頃)。



 生ビールとモツの煮込み。








           ■     ■     ■     ■     ■     ■



            魏志倭人伝の記述の秘密(その29)


      従来の邪馬台国研究との比較。新説は含まれているのか?(十一)


 「邪馬台国は大分県の宇佐市周辺であり、投馬国は福岡県の行橋市周辺である」

 邪馬台国は宇佐にあったと推定した方々が過去にもあり、久保泉氏、冨来隆氏、重松明久氏などの名前が挙げられている。

 残念ながら、それらの文献をつぶさに検討することはいまだにできていない。

 澤田洋太郎氏は「ニニギの尊」の一行が甘木(現、福岡県朝倉市)から日田(大分県)を経て行橋に定着した後、邪馬台国は宇佐に移ったと述べられている。

 これは魏志倭人伝の旅程記事から導かれたものではないが、私の説とみごとに一致している。

 さらに傍証として、「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」という記事を検討してみよう。

 「方位時計回りのずれの法則」と「旅程距離五倍の法則」を適用すると、上記の記事は「女王国の東北、海を渡る二百余里、また国あり、皆倭種なり」となり。

 宇佐の東北には周防灘がひろがり、200余里=約85キロメートル渡航すれば山口県周南市周辺にたどり着く。

 また仮に、原文どおりに東に四百数十キロ渡航すれば大阪周辺にたどり着く。

 その他の有力な邪馬台国比定地とされている筑後国山門郡や肥後国菊池郡山門郷、そして畿内大和にはいずれも、その東〜東北の方向には海はないのである。

 あってもそれは、何日も陸行した後にやっと海にたどりつくのであって、「女王国のひがし、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」という記事には到底あてはまらないだろう。
(渡部雅史著) 

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2015年02月17日

    2/15(日)晴 2.15霞内                              
 
左は首都高・霞ヶ関(内)料金所から見た午後1時頃の官庁街の風景で休日なので閑散としていました。

 午前中から強風が吹き出し首都高の一部では通行禁止の区間もありました。ひょっとして春一番かと思ったのですが北風で気温も低く寒い一日でした。

 ところで最近気になったことは、2月11日は建国記念の日で祝日でしたが、ある調査機関によると、日本が建国された日を知っている日本人は2割未満しかいないという結果が出たそうです。

 それに対して、日本在住の中国人は100%、米国人は90%以上が自国の建国・独立の日を正しく答えられたとのこと。

 それは当然といえば当然です。戦後の義務教育では建国記念日のことなど教えてこなかったからです。戦前は紀元節として国民的な祝日であったようですが、戦後はGHQの許可がおりず長らく中止になっていました。その後、昭和27年に復活運動がおき、与党と野党の間で議案提出・廃案が繰り返され昭和41年に与党の妥協案として「建国を偲び、国を愛する心を養う」という趣旨の「建国記念の日」の法律が成立しました。

 当時の自民党は本当は2月11日を建国記念日としたかったのですが、野党の反対でそれができず「の」を入れて建国を記念する日に変えたのです。要するにお茶を濁して野党と妥協したわけです。

 これでは当然、私たち一般国民が、そうした建国の意味を知ることはありません。なぜなら政府が明言を避けたことを一般の教育機関が教えることはまずあり得ないからです。

 なぜ15年近くも国会で論争が繰り返されたかというと、そもそも2月11日は日本書紀(720年)に初代神武天皇が紀元前660年に大和朝廷を橿原の地に建国したと書かれているのです。しかし現在の史学界では神武天皇そのものが架空の人物で史実ではないとされています。

 日本書紀は当時の権力者、藤原不比等が中心になり編纂し、それまでの文献・史料を廃棄したとされています。その内容は天皇の悠久・偉大性や藤原一族に都合のいいことばかり書かれていて客観性や史実性がなく架空物語が多いとされているのです。

 また明治政府も尊皇攘夷・富国強兵の政策を遂行するには天皇を絶対的な存在として君臨させる必要があったのです。だから2月11日を紀元節に定め全国津々浦々まで浸透させた。

 日本の歴史は、時の権力者に、天皇が利用されてきたと言っても過言ではありません。ですから、そういう権力者都合の架空の日をもって、国民の祝日にすることは正当性や民主的でないというのが戦後の野党の意見でした。

 今もってそういう古い因習が行われているということは(2月11日が使われていること)、ある意味で日本の近代民主化は欧米諸国より数百年も遅れてしまったと言わざるを得ません。

 建国記念日にはもっと適切な日があると思われます。日本が占領から開放されたサンフランシスコ平和条約調印の日(1951.9.8)とか新日本国憲法の施行日(1947.5.3)とか。

2.16一軒め 
 


 左は上野アメ横近くの居酒屋にて(2/16.11:00頃)

 日本酒の熱燗にモヤシ炒めとコーンバター。








            ■     ■     ■     ■     ■     ■


            魏志倭人伝の記述の秘密(その28)

        従来の邪馬台国研究との比較。新説は含まれているのか?(十)

  「不弥国は、宇美川河口〜香椎宮あたりである」

 奴国から不弥国への経路に「方位時計回りのずれの法則」「旅程距離五倍の法則」を適用すれば、不弥国は福岡市(中心部)から8.3〜8.7キロメートルの範囲内で東北に位置する所である。すなわち、福岡市中心部からみごとに東北の方位に延びた博多湾東岸のいずれかの位置におさまり、宇美川河口〜香椎宮あたりとして間違いないだろう。

 しかし、これまでの研究では不弥国は福岡市の東方の内陸にある宇美町付近だとするものがほとんどである。これは不弥と宇美の音韻が近いことから推定されているようだ。

 宇美町には宇美八幡宮がある。宇美町の宇美も宇美八幡宮がある地だから宇美と呼ばれることになったようだ。

 宇美八幡宮の社伝によると、神功皇后が三韓征伐の帰途に応神天皇をお生みになった地に、敏達天皇三年に応神天皇を祭ったとされ、「宇美」の地名も「産み」に由来するとされている。どんなに古く考えても、宇美という地名で呼ばれるようになった時期は神功皇后の三韓征伐以降、すなわち四世紀中頃以降である。

 魏から使者が来た三世紀半ば頃にはいまだ宇美という地名は存在しなかった可能性が高く、不弥と宇美の音韻が近いことから不弥国を宇美付近にあったとする説は無理があるのではないだろうか。不弥国は、宇美川河口〜香椎宮あたりとして間違いないだろう。

 新説であった。
(渡部雅史著) 

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kutanda135 at 12:25コメント(0)トラックバック(0) 

2015年02月08日

  2/3(火)晴

2.3天現寺 節分の2/3(火)は好天に恵まれ春のような暖かい一日になりました。

 2/3〜2/4は首都高2号線、天現寺料金所に入りました。左は深夜に見た上空の様子です(2/4.4:00頃)。お月様も満月に近い状態できれいでしたが照明灯の明るさに消されてちょっと寂しい感じです。

 道路の照明灯は従来、水銀灯が使われていましたが最近は環境配慮型の高圧ナトリウム灯に変更しています。従来型と比較して消費電力が少なく長寿命であることに加え高速道路外への光のもれを少なくするなど、省エネルギーと二酸化炭素の削減が実現されています。

 また、白色LED灯は高圧ナトリウム灯と比較してもさらに長寿命で、消費電力削減も可能となることから、より一層の二酸化炭素の削減が期待されています。

 写真の中央の黄色と黒の棒は遮断棒です。いろいろな状況により通行を中断するときに使います。遠隔操作でするのですが、焦ったりして操作の手順を間違えると思いどおり動かず予期しないときに動く場合があります。あるとき、高級外車のスポーツカーの新車が移動中にたまたま運が悪く遮断棒が下りてしまい屋根にキズをつけてしまったことがありました。

2.4ドトール
 左は上野駅構内のドトールにて昼食後の憩いのコーヒータイムです(2/4.12:30頃)。

 ここのコーヒーは安くて美味しいのですが、ぬるいのがタマにキズ!








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          魏志倭人伝の記述の秘密(その27)

      従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(九)

 「方位時計回りのずれの法則」

 魏志倭人伝での国々の方位は比定地の方位と比較して、時計回りに45度ずれていることは以前から指摘されている。

 邪馬台国九州説の奥野正男氏や北九州勢力の東遷仮説を展開した原田大六氏は、この方位のずれは夏の日の出の方向を東としたためという。

 中国古代の天文・暦法に詳しかった橋本増吉氏はなんら精密な地図もなく、とりあえず出発地点における道路の方向で方位を記したのだという。

 しかし私は、「長距離旅程は方位が南の法則」から、対馬〜壱岐〜末盧国は3000余里と距離が長いので、その方位は南と書かざるを得ないことを明らかにした。

 このため、この区間の本来の東南の方位を南と書いたために、これ以降、不弥国までは「方位時計回りのずれの法則」が適用された、とした。

 新説であった。

 狗奴韓国〜対馬国〜一大国(一支国)〜末盧国(唐津市周辺)〜伊都国(前原市東部付近)〜奴国(福岡市)までは従来の定説どおりにたどれるが、方位がすべて22.5〜67.5度の範囲で時計回りにずらされていた。

 これは、東南は南、東は東南、東北は東、と読み換えたために、22.5〜67.5度というずれになることを証明した。

 もともと報告された方位はとても正確だったことを窺わせる。ほぼ正確な地図があったのだろう。

 22.5〜67.5度のずれを証明したとの報告はなく、この部分は新設のようだ。

 対馬〜壱岐〜末盧国の方位は東南であるところを南とせざるを得なかったため、以降の末盧国〜伊都国〜奴国〜不弥国の方位もそれぞれ時計回りにずれた方位を記したのだ。

 末盧国〜伊都国〜奴国〜不弥国の位置関係を崩せば信憑性は疑われるし、距離も短いので方位をすべて南とはしなかったのだろう。

 このゆえに、狗奴韓国から対馬〜壱岐〜末盧国〜伊都国〜奴国〜不弥国までは「方位時計回りのずれの法則」が適用される。

 この部分も新設のようだ。
(渡部雅史著) 

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kutanda135 at 09:33コメント(0)トラックバック(0) 

2015年02月02日

   2/1(日)晴

 
2.1アメヨコ
 左は上野アメ横の商店街内部の様子です。(10:30頃)

 JR御徒町駅で下車し居酒屋へ行く途中、外は寒くて風が強かったので商店街の中の通路を通って行きます。

 外の通路の両側は魚や乾物などの食料品が主ですが、内部は革ジャンなどの革製品、ジーンズ、バッグ(リュック)、装飾品などの店がJRの軌道に沿ってうなぎの寝床のように軒を連ねていて、昭和の古き良き時代の雰囲気がここにはまだ残っています。

 光陰矢の如しと言いますが今年も今日から2月です。最近気になったニュースでは作家・宮尾登美子の訃報がありました。彼女の作品は大部分読んでいるので大変寂しく感じました。

2.1大統領 彼女は終戦前に17歳で高知平野の農村へ嫁いでいき、その後、夫と乳飲み子3人で満州に渡ります(代用教員として)。すぐに終戦になり何度も生死をさまよいながら、かろうじて夫の実家に帰還することができました。

 この時の異常な体験が作家になろうとした原点と言っています。

 その後10年くらい高知で農家の仕事や保母のようなことをやっていて同時に小説も書いていました。

 そして最初の夫と離婚し、高知新聞の記者と再婚し昭和41年に夫婦と娘二人の子連れで上京します。上京直後は何を書いても売れず貧困生活が続いたようです。しかし昭和47年に自費出版した自伝的小説「櫂」がベストセラーになり50歳近くになっていました。それから出す作品は次々に売れ、ほとんどが映画化される売れっ子作家になりました。

 彼女は自伝小説を出してブレイクしたのですが、若い頃は自分の出生のことや実家の稼業(芸妓紹介業)が嫌いで、なんとかその環境から抜け出そうと思い結婚したと言っています。隠していた自分の過去を恥を忍んで書いたものが売れたわけですから作家の宿業と言えそうです。

 また、いろいろな方面で個性ある女性の生き方も、時代小説を含めて多く出しています。彼女の作品は確かな取材に基づいているので迫力があるというか魂のようなものを感じます。いくら売れっ子作家になっても同時に何本も掛け持ちをせず、一つ々に時間をかけ丁寧にマイペースを貫いていたからどれもが読者に感動を与える作品になったと思います。

 上の写真はアメ横近くの居酒屋にて。(11:00頃)

 酒は焼酎のホッピー(黒)割りと肴はモツ焼きのタン、ハツ。


        ■      ■      ■      ■     ■     ■


            魏志倭人伝の記述の秘密(その26)

     従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(八)

 白鳥庫吉氏とともに、戦前の代表的東洋学者で邪馬台国畿内説の内藤湖南氏や、同じく畿内説の医師であり歴史家である白崎昭一郎氏などは、中国の古書の方位があいまいであることから魏志倭人伝にいう方位の「南」は「東」の誤りと見る。

 今回の私の説も、不弥国〜投馬国〜邪馬台国の「南」は「長距離旅程は方位が南の法則」から、「東」の誤りとした。

 しかし、今回明らかにした多くの規定・法則および仮説からは、邪馬台国畿内説は考えにくい。「旅程距離五倍の法則」を適用すれば、その距離は畿内までははるかに及ばない。さらに、邪馬台国は陸続きであり、九州島から出ることはない。

 関和彦氏は、帯方郡から船で出発した時のように、「海岸に循いて水行する」のが、本来の「水行」の意味であり、狗奴韓国から「始めて一海を度」って対馬国に至ったり、「又、一海を渡」って壱岐国に至るように、海を渡る「渡海」とは明確に区別されている。

 この点から、投馬国・邪馬台国への道すじは、九州島に沿って「水行」するのであって、本州島へ「渡海」するものでない。

 この「水行」の一条があるかぎり、邪馬台国は九州島から出ることはない、と述べられている。

(渡部雅史著) 

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kutanda135 at 11:27コメント(0)トラックバック(0) 

2015年01月27日

  1/25(日)くもり

1.25霞内 1/25〜1/26は首都高速・都心環状線(内回り)霞ヶ関料金所に入りました。左は午後7:00頃の入口から合流付近の様子です。休日でしたので交通量は少なめでした。

 25日の朝8:30頃、皇太子殿下がサウジアラビアの前アブドラ国王の死去に伴う弔問のため、ここから高速に入り羽田空港に向けて行かれました。(業界用語で「マル警閉鎖」と言い、通行前後20分くらいは一般車両の通行が禁止になります)

 雅子妃殿下も早くお元気になり同行されることを願わずにはいられません。


1.26一軒め 左は上野駅近くの大衆酒場にて昼食兼寛ぎの一時です。(26日午前11時頃)

 焼酎のオンザロックと豚肉とほうれん草炒め。

 ところで、阪神淡路大震災から1/17で20周年になるのですが、地震が起きる前年の夏、家族四人で六甲の保養所に宿泊しました。そこから見た神戸の夜景のすばらしさは今でも鮮明に記憶に残っています。そして半年後にあの大火災をテレビで見たときはただ呆然としていました。

 さらに阪神淡路大震災から遡ること約30年前の昭和41年、証券会社に入社した年の夏に会社のコーラス・サークル仲間10名くらいで避暑も兼ねて六甲の保養所にきました。その頃の保養所は木造・数奇屋造りで実に風情がありました。夕食は名物のすき焼きを腹いっぱい食べ、夜は皆で歌ったり踊ったりしていました。その頃はベトナム戦争の真只中でアメリカではフォークソングの大ブームが起こっていて、日本でもアメリカのフォークソングが多くの人に歌われていました。

 その時に歌った曲で印象に残っているのがピーター・ポール&マリーが歌った「500マイル」です。誰かがポータブルプレーヤーとソノシートを持ってきて、それを聞きながら何回も〃歌ったものです。非常に単純な歌詞と曲なのですが意味も分からず歌っていました。何となく遠距離恋愛の歌かと思っていました。

 アメリカの大不況時代(1920年代)各地に放浪者が大量にでてホーボーと呼ばれていました。彼らが職を求めて全国を汽車で無賃乗車で渡り歩いたときの望郷の気持ちや自分の心情を歌ったのが「500マイル」の歌詞の意味と知るのはずっと後年になってからでした。

            ♪ If you miss the train I'm on.

                                   You will know that I am gone ・・・


          ■     ■     ■     ■     ■     ■


          魏志倭人伝の記述の秘密(その25)

        
     従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(七)

 「長距離旅程は方位が南の法則」

 魏志倭人伝の種本の作者は、邪馬台国を会稽東冶の東方海上、すなわちトカラ列島〜沖縄付近に位置させたいのだ。

 狗邪韓国からトカラ列島〜沖縄周辺までの方位は真南にあたる。

 距離の長い区間の方向は南と記す以外はあり得ないのである。

 すなわち、狗邪韓国から対馬〜壱岐〜末盧国は3000余里と距離が長いので、その方位は南とかかざるを得ない。また、水行20日と距離の長い不弥国から投馬国への方位は南と書かざるを得ない。

 また、水行10日と距離の長い投馬国から邪馬台国への方位も南と書かざるを得ないのである。

 新説であった。

 狗邪韓国から、会稽東冶の東方海上にあたるトカラ列島〜沖縄周辺は真南の方位となる。

 よって実際の方位にかかわらず、長距離旅程である、狗邪韓国から対馬〜一大国(一支国)〜末盧国(唐津市周辺)への方位、さらに不弥国〜投馬国〜邪馬台国への方位は南と記されたのである。

 長距離旅程である、狗邪韓国から対馬〜一大国(一支国)〜末盧国への方位は実際は東南だが、まず、この区間を南と変えざるを得なかったため、以降の末盧国〜伊都国(福岡県前原市<現、糸島市>東部付近)〜奴国(福岡市西部〜中心部)〜不弥国(宇美川河口〜香椎宮)への方位も同様に東は東南、東北は東と変えたのであろう。

 しかし、不弥国〜投馬国〜邪馬台国は再び長距離区間であるため、必然的にその方位は南と記されたのだ。
(渡部雅史著) 

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2015年01月19日

 1/17(土)晴れ

1.17ジャノメエリカ 左は帰宅途中、恵比寿ガーデンプレイスを通り抜ける時に一角に咲いていたジャノメエリカです。(9:30頃) 南アフリカが原産で1920年頃に渡来したようです。

 1/16〜1/17は首都高、都心環状線(C1)の霞ヶ関・外回り料金所に入りました。朝の伝達事項で天皇・皇后両陛下や安倍総理大臣の羽田空港へのご通行のあることが連絡されていました。

 16日の日経平均株価は一時500円以上値下がりしていました。スイス中銀が為替介入をやめたためにスイスフランが急騰したことが要因のようです。今までスイスは自国の産業を守るためにスイスフランを売りユーロなど買って為替相場を調整してきたが、これ以上ユーロを持つことは危険と感じたからではないか。それほどユーロ圏内のギリシャ、スペイン、ポルトガル、アイルランド、イタリア、ハンガリー、ラトビアなどの国の財政が危険な状態で、それ以外の国のお荷物になっているからではないか。

 また原油安で産油国のロシアもウクライナ問題を抱えておりルーブルが不安視されています。そんなことで何がきっかけでいつ前回のリーマンショックのような世界の株安が発生するかわかりません。一寸先は闇ですね!

1.17大統領 
 左は上野駅近くの居酒屋にて。(11:00頃)

 日本酒の熱燗と特製塩辛です。

 仕事中や自宅でもNHKの深夜便はよく聞いていますが、1月から深夜便の歌が変わりました。作詞:阿木耀子、作曲:宇崎竜童、歌:宇崎竜童の「君の笑顔価千金」が何となく詩とメロディーがアンバランスな感じで気に入っています。(詩は哲学的でメロディーはブルース調)

               ♪ まだ時間があると思えば

                つい流され  無駄にしがちさ

                君と二人で一日に一生

                生きると決めれば  何もかも眩しい

                どんな時でも  ぼくに勇気をくれる

                君の笑顔  そう  価千金

                日々  新たに君に恋する

                今日  初めて出会ったように

                洗いざらしのデニムの着心地

                藍色掠れて  愛だけが残る

                いつもいつでも  ぼくを包んでくれる

                君の優しさ  そう  価千金

                君の笑顔  そう  価千金


              ■     ■     ■     ■     ■     ■


                魏志倭人伝の記述の秘密(その24)

             従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(六)

 邪馬台国九州説をとり、放射式読解を提唱される井上光貞氏や榎一雄氏、豊田伊三美氏、高橋善太郎氏、奥野正男氏などは、伊都国あるいは末盧国を起点として、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国のそれぞれに放射式に至る方位と距離・日程を示している、とした。

 そして、邪馬台国は伊都国より「水行10日陸行1月」(水行ならば10日、陸行ならば1月)の地点にあり、これなら帯方郡から邪馬台国までの距離1万2000余里とぴたり合う。

 「陸行1月」というのは「歩行1日50里」の規定で換算すると、1500里。

 つまり、

 帯方郡から伊都国間       =1万500里
 伊都国から邪馬台国 陸行1月=1500里 
 帯方郡から邪馬台国      =1万2000余里 

 となり、邪馬台国九州説は磐石になったとした。

 この説にあるように、伊都国〜奴国〜不弥国付近から直接陸行1月すれば1万500余里+1500里=1万2000余里となり、帯方郡から邪馬台国までの総旅程距離1万2000余里にぴたりと一致する(伊都国〜奴国〜不弥国間は距離が短く、いずれを起点にしても1万2000余里となる)。

 やはり陸行く1月とは投馬国からでなく、伊都国〜奴国〜不弥国付近からから、直接陸行1月ということで間違いないだろう。

 私の説は

 、「不弥国から水行20日で投馬国、さらに水行10日で邪馬台国。すなわち水行く30日で不弥国から邪馬台国に至るのだが、中国古代の1日の旅程は陸行50里、水行45里と定められているわけだから、水行30日×45里=1350里。陸行1月を30日とすれば、陸行30日×50里=1500里となり1350里にかなり近い数字になる。すなわち陸行30日とは、不弥国から邪馬台国まで陸行なら30日、という距離を表している」

 というものである。

 その導き方は右記の諸氏とはまったく異なり新設だが、はからずも異なった手法で「陸行1月とは投馬国からでなく伊都国〜奴国〜不弥国付近から直接邪馬台国まで陸行1月」という結論を導き出しており、極めて信頼性が高いといえる。(渡部雅史著) 

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2015年01月12日

  1/11(日)晴れ

 
1.11目黒花店
 左はJR目黒駅前の花店に咲いていたポリアンサです。一足早く春が来た感じでした。(am9:30頃)

 10日〜11日は首都高渋谷線の高樹町料金所に入りました。正月気分も抜けて高速道路は渋滞気味でした。

 首都圏の高速道路の一部の環状道路(中央環状線、外環道、圏央道など)は徐々に完成しつつあるのですが、都心環状線は平日ともなると相変わらず渋滞が続いています。 

 「首都高、本線料金所5か所廃止・・・東京五輪までに」の見出しが1/5の読売新聞に出ていました。国土交通省は、2020年の東京五輪・パラリンピック開催までに、首都高速道路の5か所の本線料金所を廃止する方針を固めた。阪神高速道路の6か所も撤去する。 首都高と阪神高速では現金払いの場合、原則的に入り口で料金を支払う。

 本線上の料金所は、複数の入り口から入った車から一括して徴収するために設置されている。例えば、首都高の大井本線料金所は、羽田空港方面から有明方面に向かって5か所の入り口から入った車を対象にしている。

 自動料金収受システム(ETC)搭載車は本線上の料金所を使う必要はないが、安全のために減速して通過することになっている。これが渋滞の原因にもなっている。

 ちなみに、中央環状線の渋谷〜品川間(3号線⇔湾岸道路)が今年の3月に開通するので首都高の渋滞緩和にかなり寄与するものと思われます。

1.11大統領 
 
 左は上野駅近くの居酒屋にて。(am11:00頃)

 酒は焼酎のホッピー割りと肴はモツ塩焼きと漬けニンニク。

 ホッピーはビール味のした炭酸飲料ですが口当たりは最高にグー!



               ■     ■     ■     ■     ■     ■


                 魏志倭人伝の記述の秘密(その23)

               従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(五)

 「投馬国から邪馬台国まで、水行なら10日、陸行なら1月の並列式読解ではない」

 なぜなら、中国古代の1日の旅程は陸行50里、水行45里と定められている。水行なら450里、陸行なら1500里と差がありすぎる。新説であった。

 「投馬国から邪馬台国まで、水行10日さらに陸行1月の直列式読解ではない」

 水行10日でさらに陸行1月の直列式なのだろうか。

 博多湾東岸の不弥国から投馬国まで水行20日で900里=約400キロメートル、投馬国から邪馬台国まで水行10日で450里=約200キロメートル、さらに陸行1月で1500里=600キロメートル以上、合計すると1200キロメートル以上となる。

 これでは目的地の呉(会稽東冶)の東方海上、すなわちトカラ列島〜沖縄付近をはるかに越え、台湾南端の東方海上に着いてしまう。投馬国から邪馬台国まで水行10日さらに陸行1月は考えにくい。新設であった。

 「陸行であれば不弥国から邪馬台国まで投馬国を経ずに1月(6日)」

 不弥国から水行20日で投馬国、さらに水行10日で邪馬台国。すなわち水行30日で不弥国から邪馬台国に至るのだが、中国古代の1日の旅程は陸行50里、水行45里と定められているわけだから、水行30日×45里=1350里。

 陸行1月を30日とすれば、陸行30日×50里=1500里となり、1350里にかなり近い数字になる。

 すなわち陸行30日とは、不弥国から邪馬台国まで陸行なら30日、という距離を表している。(渡部雅史著) 

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2015年01月06日

  1/2(金)晴れ

1.1黄梅 左は事務所の食堂に1日から飾られていた黄梅です。(別名、迎春花9:30頃)

 1日〜2日にかけて都心環状線の飯倉料金所に入りました。例年ながら盆・正月は帰省期間中なので首都高の交通量は少なくて超閑散としていました。特に深夜などは1時間に数台で睡魔との闘いでした。

 なにはともあれ、無事に新年を迎えられたことに感謝と共に喜びを感じています。3日には長女夫妻が孫(5ケ月)を連れてきて抱っこをしたり写真を撮ったりして充分にスキンシップをとることができました。

 また首都高に再就職してからちょうど7年になりますが、同じ仕事を7年続けてこられたことも幸運でした。じっくりと仕事に取り組むことができて仲間とも楽しくできました。前の会社では転勤ばかりで腰を落ち着ける暇もありませんでした。賃金は安くても自分のペースで働けることがいかに貴重であるかを痛感しています。

 今年は仕事もブログも酒もそこそこに楽しんでいきたいと思います。あまり頑張らずに!

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2014年12月31日

 12/30(火)晴れ

12.30アメ横 左は上野アメヤ横丁の食料品などの買出しで混雑する風景です(am11:00頃)。

 例年ですと押すな〃という感じですが、今年はそれほどではなかった感じで、やはりアベノミクスが庶民まで浸透していない所以だろうと思います。

 しかしアメ横は都内にあるパワースポットの一つで何時来ても活気に満ちていて、ここを通るだけで元気がもらえる気がします。酒(ウィスキー)のツマミのナッツを4種類(松の実、クルミ、マカデミアン、カシュー)ほど買いました。

 今年はノーベル賞受賞やスポーツ界ではテニスの錦織選手、大相撲の白鵬、スケートの羽生選手の活躍など明るいニュースがありましたが一方、豪雨土砂災害や御嶽山噴火や地震など自然災害も多く災害大国日本の代名詞は相変わらずでした。

 12.30平禄寿司
  
 左はアメ横にほど近い寿司店での昼食兼憩いの一時です(12:00頃)。

 日本酒の熱燗に肴はシメサバ、ウナギ、エンガワ、アワビです。

 来年も少しでも美味しい酒が飲めるよう仕事にブログにそこそこに無理をせず頑張ろうと思っています。一年間応援有難うございました。良いお年をお迎えください。



               ■     ■     ■     ■     ■     ■


                  魏志倭人伝の記述の秘密(その22)

             従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(四)

 「邪馬台国はけして当時の日本列島で最も大国で最も文化が進んでいたというわけではない」そう、当時の日本列島で最も大国で最も文化が進んでいたのは、呉と同盟を結んでいた失われた大国・古代出雲王国の中心地である、奈良盆地である。

 大和岩雄氏は、邪馬台国は倭国大乱の後に卑弥呼を共立してできた連合政体で、北部九州から畿内までを含み、卑弥呼のいた女王国は九州にあったとしている。

 そして、卑弥呼の跡を継いだとされる台与の時代(西暦250年代)に遷都して、首都が北部九州の女王国から奈良盆地の邪馬台国へ移ったが、『三国志』の著者である陳寿が女王国を邪馬台国と混同したため、「距離に混乱がおき、邪馬台国の所在について、決着がつかない論争が果てしなく続いているのである」とのべている。

 私の説とは相容れないものだ。

 私には次の仮説がある。

 「呉が晋に滅ぼされた西暦280年前後に、呉と冊封・同盟関係を結んでいた九州を除く北陸から濃尾平野以西の大部分を占め首都を奈良盆地に置いていた古代出雲王国は、晋と冊封・同盟関係を結んでいた北部九州の邪馬台国と合併し、邪馬台国の名を名乗ることにより晋に滅ぼされる脅威から開放された」

 この仮説を用いたことにより、西暦280年以前の邪馬台国の所在地が明確になったと確信している(正確に言えば西暦239<景初3>年の邪馬台国の所在地が宇佐であることを明らかとしたのである。神武天皇が東遷した折には日向から出発しているが、その時、西暦280年頃には邪馬台国の中心地は日向に移動した可能性も考えられる)。(渡部雅史著)                                                                                      

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2014年12月25日

 12/24(水)晴れ

12.24目黒通り 左は勤務明けでJR目黒駅に向かう途中に咲いていた山茶花です(am10:00頃)。やはり冬の花は春とは違ってなんとなく淋しい感じは否めません。

 23日は天皇誕生日で祝日でしたが、出番日で朝八時から25時間料金所に入りました。祝日にもかかわらず首都高では交通事故が多く発生していました。

 正午頃、首都高中央環状線・外回りの小菅Jctの手前の緩やかな左カーブで、大型トレーラーがハンドル操作のミスか横転して側壁に乗り上げ59歳の運転手が1時間後に亡くなっています。

 また前日の22日朝6時頃、首都高3号線下りの渋谷付近で25歳の男性が、高速の出口から自転車で誤進入・逆走してトラックに撥ねられ死亡しています。(なぜ逆走したか原因は不明)

 首都高は一般の高速に比べ道幅が狭くてカーブがきつく、そのうえジャンクションが多くあり、出口も左右にあり一定ではありません。そんなことで道を間違いやすくて通行量が多いので、ちょっとしたミスが大きな事故につながります。また一般道と高速が入り混じっていることから1年に300回以上の誤進入が発生しています。また近年の特徴として高齢者のバイク事故が増加しています。

 そんなことで初心者や標識の読めない外人や地方から来た不慣れな人は特に注意が必要です。スピードは控えめにし、余裕をもって車間距離をとり、脇見運転はせず運転に集中する。急ハンドル、急ブレーキは極力避けることが肝要です。また高齢者のリターン・ライダーは昔取った杵柄の体力・技量を過信せず現在を自覚するべきです。

12.24大統領 
 
 左はJR上野駅近くの居酒屋での昼食兼休憩の一時です(am11:30頃)。
 ビールにモツの塩焼きです。ここのモツ焼きは塩もタレも味は最高です。
 カウンターの隣に座った見知らぬ客と話しながら飲むのもいいもんです。

 
 

               ■     ■     ■     ■     ■     ■


                 魏志倭人伝の記述の秘密(その21)

               従来の邪馬台国研究との比較。 新説は含まれているのか?(三)

 「邪馬台国が会稽東冶の東方海上に位置する規定」に関しても、やはり白鳥氏らが私の説に近いものを提示している。

 それは、

 「魏志倭人伝の地理感では、邪馬台国は会稽東冶の東にあって、魏と倭が呉の腹背から挟撃する位置関係にある。これを喧伝して、呉政権を牽制しようとした」

 というものである。

 これは私のいう「邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位地する規定」に非常に近いが、似て非なるものである。

 私の説は、

 「魏が、敵対していた呉に対し圧力をかけるため、魏と同盟を結んでいた邪馬台国が呉と同盟を結んでいた古代出雲王国に匹敵する非常に大国であり、なおかつ邪馬台国が呉のすぐ東方海上に存在するかのように見せかけたかった。そのため、邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位地するように魏志倭人伝の種本の作者によって意図的に調整・改竄されている」

 というものだ。

 しかし、白鳥氏らの説は、

 「当時の日本人が邪馬台国に至る日程を誇張して魏使に教えたのは、魏の朝鮮半島南下ー侵入をおそれたためで、和国が遠く南方海上にあり、容易に進攻できないと魏に思い込ませるためであった。これが邪馬台国は会稽東冶の東にあるという魏志倭人伝の地理感を醸成した」

 というものであり、

 「邪馬台国が会稽東冶の東方海上に位置するように魏使倭人伝の種本の作者によって意図的に調整・改竄されている」

 とする私の説とは明らかに異なる。

 私のいう「邪馬台国が会稽東冶の東方海上に位置する規定」」は新説であった。

 また、三品彰英氏や室賀信夫氏、李家正文氏、海野一隆氏らは、

 「中国の古地図には日本列島は方位が倒錯し、九州を北に東国を南に置き、まさに会稽東冶の東に位置するように描かれており、この地理感をもとに倭人伝の旅程記事は記された」

 と述べている。

 しかし、現存するこのような日本を描いた中国最古の地図は宋代のものである。せいぜい唐代の地図の流れを汲んでいるとはいえるようだが、魏志倭人伝の書かれた晋代よりはるか後世の地図である。

 唐代・宋代の地図に示された地理感をもとに、それよりはるか以前である魏・晋代の倭人伝の旅程記事は記された、とするのは無理があるのではないか。

 中国の古地図で日本列島の方位が倒錯し、九州を北に東国を南に置き、会稽東冶の東に位置するように描かれたのは、まさに魏志倭人伝の旅程記事の影響であったと私は考える。(渡部雅史著)                                                                                      

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2014年12月18日

 12/15(月)晴れ
 
12.15教育園
 左は自然教育園にいたカワセミです(10:20頃)。

 港区のこの公園は都心にもかかわらず自然が豊富に残っているので以前は時々行っていたのですが約1年ぶりに立ち寄ってみました。(入場料:一般310円、65歳以上無料)

 たまたま運よく(私を歓迎するかのように?)、カワセミが現れてくれました。青い宝石やヒスイといわれるだけあり美しくて見事でした。

 それにしても、自宅で転倒して足首を複雑骨折してからちょうど1年になりますが、まだ少しの痛みと腫れとうっ血が残っています。近頃は年のせいか目や歯や肩も不調でだまし〃という状態です。年は取りたくないですね!

 昨日は衆議院の総選挙で昨晩から今朝にかけてラジオをききながら仕事をしていました。予想どおり投票率は最低で勢力図も解散前後を比較してほとんど変わっていませんでした。変化があったとすれば次世代の党の一人負けで、その分共産党が勝ったくらいではないでしょうか。次世代の党は自民党より右寄りというのですから暴走して自爆した形になりました。

 以前に石原代表が国会での質問で「こんなでたらめな会計制度、単式簿記でやっているのは、先進国では日本だけ、北朝鮮やパプアニューギニア、フィリピンくらいのもんだ」また「東京都は平成18年から複式簿記に変えて以前は赤字であったがその後は黒字に変わった」と言っていました。たしかに日本の国や地方自治体の会計処理は単式簿記のようで、早く言えば昔の大福帳や丼勘定の世界です。これではお金の配分を計画的・効率的で無駄が省けるとはとても言えなです。誰かが言っていましたが「増税する前にやることがある」と。こんな会計制度を使っていたのではいくら身を削る努力をしても追いつかないのではないでしょうか。

12.15鳥園 左は上野駅近くの大衆酒場にて(12:00頃)。

 酒はザクロサワーで肴はギョウザ。

 ザクロサワーは初めて飲んだのですが、懐かしい味が蘇ってきました。小学校の低学年の頃よくかじったアイスボンボンです。自然の味とは思えない人工甘味料的な味ですが、氷が解けて食べ終わったあとは残ったゴム袋に水道水を入れて遊んだものでした。


               ■     ■     ■     ■     ■     ■


                魏志倭人伝の記述の秘密(その20)

              従来の邪馬台国研究との比較。新説は含まれているのか?(二)

 これらから私は「旅程距離五倍の法則」も見つけ出した。

 「魏志倭人伝上の1里=83メートルの規定」「旅程距離五倍の法則」はすでに白鳥氏が発見していたが、その算出方法はまったく私と異なっていた。

 違う方法でまったく同じ答えが出たということは、この「魏志倭人伝上の1里=83メートルの規定」「旅程距離五倍の法則」は、まさに真理であるといえよう。邪馬台国を探索するうえで、動かしがたい真実だといえる。

 これが私の新説かどうかという些末なことはもう検討する必要はないだろう。真理が今、究明されたのだ。

 ところが、白鳥氏がたどり着いた邪馬台国は肥後国内だという。

 どこで間違いが起こったのだろうか。

 肥後国内は、私のいう「福岡市周辺から陸行六日」には合致している。ということは、不弥国から水行する際に私は東進すると判断したが、白鳥氏は西進を選んだのか。

 しかしそれでは、「旅程距離五倍の法則」を適用すると佐世保あたりまでしかたどり着けない。佐世保に上陸してさらあに陸行六日としたということか。しかしそれなら、陸行せずに水行くするはずだ。

 ならば、伊都国か末盧国から水行したことにしてしまったのか?しかし、それでも長崎あたりまでがせいぜいである。

 とすると、白鳥氏は長崎から陸行したと考えたのか?それともやはり、そのまま水行して邪馬台国へ行くべきだろう。

 しかも、佐世保・長崎あたりまで水行し、さらに陸行六日するくらいなら、そんな遠回りをせずに始めから福岡市周辺から陸行六日で行くはずであろう。

 白鳥氏がいうような、邪馬台国肥後説は、残念なことだが否定せざるを得ない。

 他にも、安本美典氏は1里=約93メートル、古田武彦氏は1里=約70メートル、加治木義博氏は1里=約55メートルという「短里説」を唱えている。

 これらは比定地が明らかな各国間の地図上の距離と、魏志倭人伝記載の距離を比較して求めたものだが、それぞれ慧眼といえる。(渡部雅史著)                                                                                      

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2014年12月10日

 12/6(土)晴

12.6目黒通り 左は目黒通りの紅葉した銀杏並木です(9:30頃)。例年ですともう少し鮮やかな黄金色に輝くのですが今年は緑とのまだら模様でイマイチという感じです(9:30頃)。

 今年も残りわずかになりましたが、北長野の地震や四国の大雪など相変わらず異常気象が続いていたり、また総選挙もありの慌ただしい師走で落ち着かない日々が続いています。

 総選挙の投票日の14日は出番日なので8日に期日前投票に妻と行ってきました。10:30頃、市役所の1室に設けられた会場には投票に来た人が5〜6名と選挙管理人が10名程いましたが、なんとなく白けムードで小選挙区、比例区、県議会、裁判所の四枚の用紙に記入したのですが、白熱感はまるでなくプロ野球の消化試合のような感じでした。

 この師走の慌しいときに、争点も大義名分もない選挙にどのくらいの国民が投票に行くか大いに疑問です。多分、投票率では過去最低になるだろうと予測します。前回の野田内閣のように「そのうち解散」もまずいですが、今回のように全く盛り上がりに欠ける選挙も税金の無駄使いの最たるもので、劇場型選挙でもいいから世論を盛り上げて欲しいものです。

12.6一軒め 
 左はJR御徒町駅近くの大衆酒場にて(11:00頃)。

 酒は酎ハイで肴はモヤシ炒め。

 野菜の炒め物は意外とビールや焼酎に合います。



               ■     ■     ■     ■     ■     ■


                魏志倭人伝の記述の秘密(その19)

            従来の邪馬台国研究との比較。新説は含まれているか?(一)

 これで邪馬台国の所在地は明白になった。

 そのために私は多くの規定と法則、仮定を導き出した。

 しかし、これまで膨大な数に上る邪馬台国研究がなされており、私が導き出した規定と法則、仮定がすべて新設であろうはずがない。

 これから、どの部分がすでに報告されたもので、どの部分が私の新設であるか、明らかにしようと思う。

 今回の報告全体をひとつの説とすれば、明らかに新設であるといえるとは思うのだが。さてここに、毎日新聞の岡本健一氏がまとめられた『邪馬台国論争』という本がある。「邪馬台国」に関するこれまでの研究が網羅されているので、この本に照らし合わせてみよう。

 まず、目に留まったのは、「1里=約83メートル」という数字がすでに割り出されていたことだ。

 これは戦前の東洋史学者、白鳥庫吉氏によるものだが、白鳥氏は、

 ・帯方郡から邪馬台国まで1万2000里
 ・帯方郡〜伊都国〜奴国〜不弥国の旅程距離の合計は1万700余里
 ・不弥国から邪馬台国まで残り1300余里 

 この1300里と、末盧〜伊都国間の500里、伊都〜奴国間および奴国〜不弥国間の各100里とを比べると、1300里はせいぜい100キロメートル余の範囲にとどまる。

 そこで、漢魏の1里は約414メートルだが、魏志倭人伝では五倍に誇張されているとして、「1里=約83メートル」と割り出した。

 まさに慧眼である。

 しかし、同じく「1里=約83メートル」としたにしても、その算出方法は私とはまったく異なる。

 私は、「邪馬台国が会稽東冶の東方海上に位置する規定」から考え、呉(会稽東冶)の東方海上、すなわちトカラ列島〜沖縄付近は、帯方郡地図上で計測すると約1000キロメートルであることから、

 1万2000里=1000キロメートル 
 1里=83.3333メートル

 と割り出した。

 そして、秦漢代の1里=415.8メートルを、ふと思いつきで、私が推定した1里=83.3333メートルで割ってみた。

 すると、

 415.8÷83.3333=4.9896 

 次に魏晋代の1里=435.6メートルを、1里=83.3333メートルで割ってみた。

 435.6÷83.3333=5.2272

 いずれも五に極めて近い数字だった。

 また、それぞれの旅程距離はすべて五の倍数だった。(渡部雅史著)                                                                                      

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kutanda135 at 10:44コメント(0)トラックバック(0) 
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茨城県取手市在住
首都高・料金所に週二回勤務
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古代の真相
11.2.16 東日本統一 その2
11.2.9 東日本統一 その1
11.2.2 大和統一 その4
11.1.28 大和統一 その3
11.1.19 大和統一 その2
11.1.11 大和統一 その1
10.12.30 ニギハヤヒの動向
10.12.24 日向国の台頭 その5
10.12.18 日向国の台頭 その4
10.12.9 日向国の台頭 その3
10.12.4 日向国の台頭 その2
10.11.29 日向国の台頭 その1
10.11.22 日向国の都の移動
10.11.18 狭野命について
10.11.9 漢委奴国王 その2
10.11.4 漢委奴国王 その1
10.10.29 スサノオ南九州進攻 その3
10.10.27 スサノオ南九州進攻 その2
10.10.19 スサノオ南九州進攻 その1
10.10.9 日向神話 その3
10.10.6 日向神話 その2
10.10.3 日向神話 その1
10.9.25 邇邇芸尊について
10.6.23 大物主の正体3
10.6.19 大物主の正体2
10.6.15 大物主の正体1
10.6.12 大物主について2
10.6.7 大物主について1
10.6.3 アマテラスについて
10.4.1 完・天孫降臨
10.3.23 続・天孫降臨
10.3.18 続・天孫降臨
10.3.12 続・天孫降臨
10.3.5 続・天孫降臨
10.3.1 続・天孫降臨
10.2.22 続・天孫降臨
10.2.16 続・天孫降臨
10.2.12 続・天孫降臨
10.1.26 続・天孫降臨
10.1.18 続・天孫降臨
09.12.15 完・スサノオ出雲建国
09.12.8 続・スサノオ出雲建国
09.11.18 続・スサノオ出雲建国
09.11.15 続・スサノオ出雲建国
09.11.8 続・スサノオ出雲建国
09.11.5 続・スサノオ出雲建国
09.11.1 続・スサノオ出雲建国
09.10.25 続・スサノオ出雲建国
09.10.21 続・スサノオ出雲建国
09.10.11 続・スサノオ出雲建国
神社巡り
10.8.15 向島・白髭神社
10.8.7 佃・住吉神社
10.8.4 大森・浅間神社
10.7.31 湯島天神
10.7.27 高田馬場・諏訪神社
10.7.24 碑文谷・厳島神社
10.7.14 深川・富岡八幡宮
10.7.5 王子稲荷
10.7.2 白金・氷川神社
10.6.25 根岸・元三島神社
10.6.7 虎ノ門・金刀比羅宮
10.6.3 芝大神宮
10.5.28 安房神社.洲崎神社
10.5.28 上総・玉前神社
10.5.25 小石川・白山神社
10.5.21 赤坂・日枝神社
10.5.15 筑波山神社
10.5.10 浅草・鳥越神社
10.5.4 芝・愛宕神社
10.5.1 品川神社
10.4.24 根津神社
10.4.20 神田明神
10.1.31 三嶋大社.箱根神社
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10.1.7 須坂・越智神社
10.1.5 信州・善光寺
09.12.31 信州・善光寺
09.12.24 信州・善光寺
09.11.28 大和・石上神宮
09.11.27 大神神社.桧原神社.橿原神宮
09.11.26 伊勢神宮.墨坂神社
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09.11.1 四谷・須賀神社
09.10.28 鹿島神宮
09.10.12 浜離宮
09.10.1 大宮・氷川神社
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09.9.12 神魂神社.八重垣神社
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09.9.6 神田明神
09.9.3 赤坂・氷川神社
ツーリング記録
11.2.28 九州ツーの回想 その2
11.2.23 九州ツーの回想 その1
10.8.28 九州4泊5日 その5
10.8.27 九州4泊5日 その4
10.8.26 九州4泊5日 その3
10.8.25 九州4泊5日 その2
10.8.24 九州4泊5日 その1
10.5.28 房総半島一周 その2
10.5.28 房総半島一周 その1
10.1.31 伊豆神社巡り1泊その2
10.1.30 伊豆神社巡り1泊その1
09.11.28 山辺の道2泊3日その3
09.11.27 山辺の道2泊3日その2
09.11.26 山辺の道2泊3日その1
09.9.14 松江・出雲3泊4日その4
09.9.13 松江・出雲3泊4日その3
09.9.12 松江・出雲3泊4日その2
09.9.11 松江・出雲3泊4日その1
09.7.16 真夏の西伊豆へNO2
09.7.15 真夏の西伊豆へNO1
09.6.24 愛車を引き取りに
09.5.16 事故に遭遇
09.5.15 善光寺と同窓会
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09.4.29 ロマンチック街道1泊No1
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09.2.2 西伊豆へ1泊温泉めぐり
08.12.26 西伊豆へ1泊
08.10.22 東伊豆へ1泊
08.10.13 袋田の滝へ/車
08.9.23 深大寺そば/車
08.8.25 紀伊半島一周、3泊4日
08.7.29 乗鞍高原温泉へ1泊
08.5.21 遠山郷へ2泊3日
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