2010年08月

2010年08月19日

争そいと大人 その3

争そいと大人 その3

今から26年前に羽生市にジャスコができました。

埼玉県で初めてのジャスコSCでした。

そこにテナントとして地元12店が協同組合として

入店しました。

数年経ちテナント会長を罷免する会合が夜行われました。

会長とやくざぽいそばやを除いて10名の会合です。

罷免の連判状を作り拇印を押し、明日のテナント会議に

望みました。会議でそばやが「今日はなにを決めるのだ」

と全員に聞きました。「テナント会長交代の会議です」

そばやが・・・副会長にあんたはどうなのか、

副会長・・・わたしは副会長だからなんとも言えません。

テナントA・・・昨夜はおれは酒をのんでいたから詳しく

               わかりません。

テナントB・・・早めに帰ったからわからない。

テナントC・・・会長がえりを正てくれればよい。

以下6人みなうやむやにするのです。

そばやがマギーはどうなんだ、

おいら・・・昨夜全員で会長を罷免するよう連判状まで作り、

            意見は一致している。会長にはやめてもらう。

そばや・・・票決を採る・辞めてもらう人は手を挙げる。

おいら一人、あとはだれも挙手しない。

そばやが会長存続ということで会議は終了。

終了後通用口から出たとこでおいらはみんなに

「おまえらここにならべ、おれがぶんなぐってやるから」

みんなは「今日はマギーさんになぐられてもしかたない」

とならびました。

「それでも男か」と一人なぐりました。

あとは情けなくてなぐる気にもなれませんでした。

みなさん立派な商店主なのです。

こんなことが大人の世界にあるのです。

 

そのジャスコは20年の契約ですが9年で羽生市

撤退しました。

その9年間に6人の店長の交代がありました。

いかにダメSCだったのでしょう。



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争そいと子供 その2

争そいと子供 その2

おいらの小学校は北九州市の田舎

(今では住宅地)葛原小学校。

湯川地区、上葛原地区、葛原地区より

生徒が通学します。クラスは2クラス。

昔、昔のことで上葛原地区は部落の方が多く

多くの方が貧しく子供も長欠児童が多くいました。

小学6年生の時、湯川地区と上葛原地区で決闘を

するようになりました。

湯川地区のガキ大将のもとで武器を持ち

「今日は全員で戦い勝つのだ」峠の上で対峙しました、

そこえ下の方から上葛原の団体が近づいてきます。

湯川地区の一人が小便に行くといなくなります。

また一人いなくなり、最後はあれほど威張っていた

大将もいなくなり、おいら一人になりました。

あれほど皆で誓った、約束した同士なのに

みんな逃げてしまいました。

残ったおいらは袋だたきにあいました、

そこに田尾本家のおばちゃんが通りかかり

「あんた達なにやっちょるの先生に言うちゃるけね」

と助けてくれました。身体が大きくて喧嘩に強く

少しお金持ちの小学校のガキ大将は

その後おいらには面子がなかったようです。

 

その50年後、小学校の同窓会がなかなか行われない

ので遠い埼玉から同級生個々に「同窓会やりたいね」

のお手紙を出し、みんなから賛同を少しずついただいて

いました。小学校のガキ大将にはお前が大将だったし

地元なのだからリーダーとしてやってよと

お願いしていました。

ガキ大将から同窓会のまとまりができそうだから

帰ってこい、打ち合わせをするからと。

わざわざ帰り打ち合わせの会に出ました。

ガキ大将と男二人、女三人がいました。

ガキ大将が「田尾、お前が幹事やりたいから同窓会の

話を持ち出したんだろう」と言う。

他の男二人も「そうだそうだ田尾が幹事やりたいのだ」

と言う。

おいらは頭にきて「おまえらなにいってんだそんなことで

同窓会をやろうと一年も前から根回ししたのじゃない。

もう二度と同窓会などやらない」と席を蹴って帰りました。

小学校を卒業して50年以上経っても親分,

子分の関係が続いていることに本当にがっくりきました。

おいら不在の同窓会が無事終了しガキ大将から報告と

お詫びの手紙がきましたがもうおいらには

なんに関係もありません。

 



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戦争と人間 その1

戦争と人間 その1

マスコミなどで終戦特集が沢山報道されました。

一段落したのでおいらの戦争体験も一つ。

日本の終戦は昭和20年、おいらはちょうど5才。

住んでいたのは神戸須磨区太田町

親父が須磨電話局の役職をしていましたので

二階建ての家でした庭に防空壕があったので

ある程度の大きな家だったのでしょう。

空襲が激しくなりお腹の大きくなったおふくろと

妹と三人で押入れの中で避難していましたが

ドカンと家が持ち上がるような音と震動でもうだめだ

と家を出て避難するようにしました。

いつもの避難訓練のように大黒小学校に向かいます。

おふくろと向かいの奥さんの約束で私と妹は

向かいの奥さんに預け3人で逃げはじめました。

周りはすでに火の海,向かいの奥さんは途中から

足でまといの幼い二人の子供の手を振り切って

自分だけ逃げて行きました。

それでも幼い二人の子はいつもの避難訓練の道を

たどります。火のトンネルのなかです。

途中、警防団の人が防火用水の中に身体ごと沈めて

それゆけと送り出してくれました。

そして5才と4才の二人で大黒小学校まで着いたのです。

大黒小学校は鉄筋コンクリートでできており

焼けませんでした。沢山の人が避難していました。

その小学校にいて周りがすべて焼けてゆくのをみました。

その大黒小学校で母を待ちましたが夜になっても

母はきません、回りの人があそこでお腹の大きな人が

死んでいたとか話します、

ますます不安な一夜が明けて母がきました。

その嬉しかったこと、今でも一番嬉しいことです。

その後の母の話では母はフトンを被って避難していたら

男の人がフトンを取ったそうです。

そしたらその男の人に焼夷弾が直撃して死んだそうです。

私たち二人の子供を置き去りにした向かいの奥さんは

生きのびたのでしょうか。

 

庭の防空壕に逃げなくてよかった。

その防空壕には親父が日本刀の収集家だったので

多くの日本刀を入れていました。

焼け野原になった防空壕を掘り返ししたら日本刀はすべて

やけただれてぐにゃぐにゃだったそうです。



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