文房具マニア

万年筆! 文房具をひたすら愛する極私的記録


『壁際のモーツァルト』

遺体が上がったのは翌5月13日の早朝だった。

県警の茶木 喜朗が第一報を聞いたのは出署してからだったが、白浜の海難事故に関しては県警の捜査課の範疇ではない。
担当事件の定例会議中に茶木は呼び出された。

異例のことだった。
すでに時計は11時を回っていた。

ありふれた心中事件と聞いていた。

いや、ありふれたというのは正確ではない。
自殺者のほとんどは単独の犯行であり、情死というのは絶えて久しい。
ましてや、白浜の三段壁から飛び込みの心中は、平成二年に一度あったきり。
実に20年ぶりということになる。
三段壁からの飛び込み自殺そのものは減少するどころか増加している。
公表されていないだけで、年間二十数名もの犠牲者が出ているのだ。
この数は飛び込み自殺としては、福井県の東尋坊に次いで全国第二位。

実際、三段壁に立つとあまりの恐怖に引きずりこまれるような錯覚に陥る。

かつて、三段壁の自殺事件で県警捜査課警部である茶木が呼び出されたことは一度もなかった。

(何かある)

と茶木が感ずるのも無理はない。

茶木が呼び出されたのは白浜署の検死室だった。
すでに死体は検死室に運びこまれた後のようだ。

部屋の前、渡り廊下には古いソファーが置かれ、公安の赤川が腰かけていた。

『これは赤川管理官。ご無沙汰しております』

赤川はシニカルな笑みを浮かべゆっくりと立ち上がった。

『敬語はなしにしていただきましょう。
おたがい警視官で肩書きは同じだ。それに』

赤川はそれがクセで、首を右に傾げながら茶木を見上げるような表情をした。

『私の方が年下だ』

茶木は赤川を無視して、検死室を示した。

『何か新しい発見でも…?』

『まずは見てもらおう。その方が話が早い』

茶木と赤川は連れだって検死室に入った。
検死室といっても、コンクリートパネルに覆われ、小さな窓のついた部屋は他の事務室と変わりはない。
唯一違うのは床に排水設備があり、水が常に流しっ放しにしている点だろう。
浅く水の溜まった床の上にパイプベッドがの足が垂直に伸びている。
無機質なベッドの上に男女の死体が安置されていた。
死体はまだ着衣のままで本格的な検死は、これからのようだった。

男はありふれた白いポロシャツにチノパンツ。
女の方はひざまでの長さの青っぽいワンピース。腰に巻かれた太いデザインベルトは、茶木ですら知っている超高級ブランドのものだ。
二人とも裸足で靴はない。

ひと目で心中と分かるのは、男の右手と女の左手がしっかりと、細い紐のようなものでグルグルと結ばれている点だ。
紐の結び目はしっかりしており、かなりの力で皮膚に食い込んでいる。
それは勿論、死後結ばれたものではなく、生前に結んだことを意味する。

女の顔は美しい。
飛び込み自殺にしては、どこにも引っかからず海中に没したのだろう。
傷はほとんどなく、水死体特有の糜爛もなく、きれいなものだ。

ただ一点。
白く、細く、なめらかな首すじにつけられた禍々しい指のあと以外は。

扼殺痕…

女の首には素手で絞めたであろう指のあとが黒々と残っていた。
指の数はきっちり10本。
両手で絞めたものと思われた。

これは何を意味するか?
飛び込み自殺で、事前に首を絞めることは考えにくい。
ガス自殺などで、死に切れなかった場合は別だ。

茶木は女の顔を子細に観察した。

見覚えがある…

そんな気がした。

『女の身元は氏名、三ツ矢 郁美。39歳。高名なピアニストだ。昔、テレビのCMにも出たことがある。今は京都市在住。
夫は柿本 幸吉。39歳。二人の間に子供はなし。そして』

赤川は無表情のまま言った。

『三ツ矢郁美の父親は民有党の代議士、三ツ矢 誠順』

『三ツ矢……あの三ツ矢 誠順か?』

茶木は顔をあげた。

『男のほうは?』

『それが問題…』

『ご主人じゃないのか』

『そんなことはあんただってとうに気がついてるだろう。夫の柿本氏は我々の連絡を受け、こちらへ向かってる。おお事だな。知らぬは亭主ばかりなりってな』

『男の身元は?』

『目下捜査中だ』

『民有党の三ツ矢 誠順。大物だな。娘が心中となると大スキャンダルだ。それで公安のあんたが呼ばれたって訳だ』

『勘違いしてもらっては困る。茶木さん。あんた、紀州のコロンボと呼ばれるほどの切れ者らしいな。早々に事件を解決出来なければ、あんたの立場も危うくなる』

『事件…これは自殺ではなく事件なのか? 公安はそう思っているのか?』

『茶木さん。甘くみないでいただきたい。あなたも。これはただの心中ではないと思ってるんだろう?』

茶木は男の顔を凝視した。

『コレは…一体誰だ?』

心中死体の男の顔。

その顔は飛び込みの際、岩に激突したのか。

それとも故意にやったのか。

男の顔はなかった。

判別不可能なほど、徹底的に破壊されていたのである。


続く。

『壁際のモーツァルト』 創族了魁殺意の旅、偽装心中のトリックを暴け。死のメロディーは波間に消えた〜

その車の存在には、しばらく前から気がついていた。
恩田幾造が2時間ほど前、午後3時頃見回りに出た時には、その車はなかった。

和歌山の白浜町は夏ともなれば、観光客でごったがえすのだが、ここ三段壁は観光ルートから少し外れる。
雄大な太平洋を見下ろす断崖絶壁はあまりに雄大だが、同時に自殺の名所というありがたくないレッテルを貼られている。

自殺を思いとどまらせる看板がいたるところに立てられているのが、却って自殺願望者がこぞってこの地を訪れるようになったのは皮肉だ。
海岸までは36メートル地下を貫く高速エレベーターが設置されている。
このエレベーターも午後5時に営業を終了する。

恩田は時計を見た。
もう午後5時になる。
三段壁の観光センターに勤務する恩田にとって、5時は勤務終了を意味する。

(声をかけた方が良いだろうか?)

恩田は目を細めて車を見た。
茜色を帯びた強烈な夕日は太平洋の銀色の波を照りつけ、壮大な夕景を作り出していた。
センターに永年勤務している恩田でさえ、それはそれは見事な景色だった。

恩田はゆっくりと駐車してある銀色のセダンに歩を進めた。

(そうだった。このあたりは車の乗り入れを禁止している)

陽のあるうちは良いが、日没になると、三段壁は本来の凶暴な表情をむき出しにする。
一切の光を飲み込む断崖は、見る者を引きずりこむ地獄の口を開けている。
うっかり足を滑らせるとたちまちに死の深縁に吸い込まれる。

(早く出ていってもらおう。車ごと崖から落ちたら大事件だ)

車はありふれたセダンだった。
きっと若いカップルが侵入禁止を無視して崖ギリギリまで車を乗り入れたのだろう。
残念ながら三段壁はそれほどロマンチックなところではない。
永くとどまると死者に魂を引きずられる。

恩田は車の中をのぞき込んだ。
うっかりのぞき込んでカップルが抱き合ってるのを目の当たりにするのはよくある。
そういう時はたいてい、のぞいた方がバカを見るのだ。

しかし。

車には誰も乗ってなかった。
恩田は周囲を見回した。
その辺を歩いているのだろうか?
まさか車だけ乗り捨てたわけではあるまい。

恩田は気がついた。

音楽が聞こえる。

車の中から…

恩田は車のドアノブに手をかけた。
鍵はかけられていない。
音楽は車載のCDプレイヤーからだった。
キーがつけっぱなしになっているらしい。
ドアを開けたことでかなりの音量が漏れてきた。

(半ドアだったか?)

恩田はしばらくぼんやりして流れる音楽を聞いていた。

ピアノを中心にすえたオーケストラ。
クラシックだな。

恩田の知識にない曲だった。

数分だったろうか…

恩田はハッとした。

(まさか…!)

胸騒ぎがする。

恩田は崖の方へ…

海のほうへ駆け出した。

(俺としたことが…)

迂闊!

空の色が茜から藍色に変わりつつあった。
激しい波の音が聞こえる。
波は垂直の壁に激突し、岩間に吸い込まれる。
その音は爆発音ににている。

恩田は何かを蹴飛ばしていた。
何かにつまずき、足に当たってしまったというのが正しい。

それは女モノのパンプスだった。
ラメを散らし、金糸をあしらったパンプスはかなりの高級品のようだった。

恩田はパンプスを拾いあげた。
恩田の足元には男モノの革靴と女モノのパンプスのもう片っぽうが行儀よく寄り添うように並べられていた。

『…やられた!』

恩田は歯噛みした。

背後からピアノ曲が悲しい音色を奏でていた。
メロディーの一部は寄せては返す激しい波音にかき消された。


続く。
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