太陽が真上へ昇りきる、ほんの少し前。
 とある農村で畑仕事を手伝っていた少年が、青空を染める一つのシミを見つけた。

「とーちゃん。あれ、何?」

 少年は、彼の隣で草刈りをしている父親に声をかける。父親は手の甲で汗を拭いながら、少年の指差す方向を目を向けた。そして、その先にあるシミを見つけ、疑問と不安に眉を歪める。

 少年が生んだ波紋は少しずつ広がり、一人、また一人と感染していく。周りの人々が作業の手を休め視線を空へ漂わせるようになるまで、だんだんと大きくなるシミが、"空を飛ぶ何か"の影であることに気づくまで、さほど時間はかからなかった。
 最初は珍しい鳥でもいたのかと思っていた。しかし、一度影を認識してしまえば、それが鳥ではないことは誰の目にも明白だった。鳥にしてはあまりにも大きすぎるし、胴も長い。そしてなにより、

そもそも鳥は、もたげるほど長い首など持ってない。

「お、おい! バケモンがこっち来てるぞ!?」

 迫り来るそれの迫力に耐えかね、誰かが大声で叫んだ。悲鳴を上げながら、子ども達が散り散りに逃げた。震える足を必死にとどめながら、大人達が手持ちの農具を武器代わりに構えた。
 影はすぐそこまで迫っていた。そのまま何事も無く通りすぎてくれ、と誰もが願っただろう。だが、その願いは叶わなかった。
 村の入口付近で旋回しながら高度を下げていく影。ややあって、影が重苦しい音を立てて着地した時、村人は影の正体をはっきりと目にした。

 人の倍はあろうかという体躯。灰褐色の肌。角のように尖った耳。皮膜によって翼状になった前肢。要約するなら、翼の生えたトカゲ――。

「……竜だ」

 一人の男から、意図せぬつぶやきがこぼれ落ちた。
 竜(ドラゴン)。この村の人にとって、その存在はお伽話と同義だった。どこか遠くの谷に住んでいるという噂は耳にしたことがあるし、絵や伝承だって聞いたことがある。しかし、実物を目にしたことがある者など誰一人いなかった。
 そんな存在が何故現れたのか。これは本当に竜なのか。疑念と恐れが辺りの空気を固まらせた時だった。

「間違ってはいないけど、正確にはワイバーン、っていうんだよ」

 場違いと呼ぶのもはばかられるほど脳天気な声が、村人達の視線の先――つまるところ、竜のいる方から響いた。

「おおっ、すっごいお出迎えの数!」

 声の主は、竜の背に乗っていた。耐寒仕様の茶色いコートとズボン。革製の分厚い手袋と靴。両目を覆う無駄に大きなゴーグル。耳あての付いた帽子から覗く、肩まで伸ばした白い髪。可能な限り露出を減らした、まさに完全防備といった出で立ちだ。
 その人物は慣れた様子で竜の背から飛び降り、ゴーグルを外した。あらわになった素顔はあどけない少女のそれで、澄んだ青の瞳が印象的だ。

「家探す手間が省けて助かるよ。この中に、えーと……オズさんって方、いらっしゃいます?」

 状況が飲み込めず、呆気にとられる人々。そこへ少女は、一切の遠慮も配慮もなく声をかける。その呼びかけに応じ、ざわめきの中から一人の老人が恐る恐る名乗り出た。
 尋ね人の存在を確認した少女は、竜の背に括りつけていた木箱を降ろし、笑顔をたたえながらこう言った。

「――お届け物です!」


 

***




 先ほどの村からやや離れた空の上。山岳地帯を眼下に収めながら、一人と一匹が口論を繰り広げていた。

『村人に余計な心配を与えおって。だから村に直接降りるのは止そうと言ったのだ』

 一匹は竜。専用の背負いもの――椅子や荷物置きが備え付けられた――を担いた、人が乗るための竜。
 人の使うそれとは異なる言語を用い、竜は自らの背へと不満を漏らす。

「いやー、今回は『ナマモノだからできるだけ素早く運んでくれ』って依頼だったじゃない? セツが待機できそうな場所に一端降りて、そこから私が運ぶと時間かかるかなーって」

 一人は少女。上空の寒さに耐えうる服装を身にまとった、10代そこそこの外見をした少女。
 彼女は、竜――セツの言葉を正確に聞き取り、人の言葉で返した。

 謝りもしなければ反省もしていない様子の少女。だが、セツは彼女を咎めることはしない。今回の行動に悪気がなかったことを、彼は重々承知しているから。

『メリュ。平地住みの人間が竜を見る機会など、一生に一度あるかどうかだ。噂でしか聞かない存在が突然目の前に現れれば、それはパニックにもなるだろう』
「私達も多少は有名になってきたし、大丈夫だと思ってたんだけどね。まだまだ知名度不足かー」

 セツの指摘を受け、少女――メリュは深い溜息をつく。そして、あーあー、と情けない声を上げ、そのまま黙りこんでしまった。
 軽く釘を刺すつもりだったが、思いのほか効き目があったのだろうか。居心地の悪さを感じたセツが、慌ててメリュをフォローしようと口を開――。

「ま、今度はもうちょっと上手くやろう。次の依頼は大きな国からだから、噂とかけっこう広まってるといいな!」

 ――開く必要は無かった。落ち込んで黙り込んだのではなく、どうやら今後の算段をつけていただけらしい。
ああ、こいつはそういう性格だったな――とセツは、一瞬でもメリュを心配した自分の甘さに呆れ果てた。

『……次は人前に絶対降りないからな』


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