2016年11月05日

一歌談欒Vol.2に向けた短歌鑑賞

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

読み終えた瞬間、胸を突かれる歌だ。結句のそれも末尾、「下がって」の箇所で、急転直下する。
初句から三句までの日常で無意識に聞き流すフレーズ、その言葉の群を侮ったままに後半へうっかり流れていくと、手痛い目に遭う。
四句から結句は、私の脳内では前半のフレーズとは別のトーンの肉声で再生される。
たとえるならば、淡々とお決まりのアナウンスを告げた後、急に制帽をかなぐり捨て、こちらを睨みつけながら放たれた感情の刺、とでもいおうか。この豹変ぶりに、まずおののく。
そして次に意識が向くのは、「理解できない人は下がって」という表現が一見矛盾を孕んでいることである。
電車が止まらずに通過するのなら、ともあれ誰もが安全の為に下がらなくてはいけない。それを「理解できない人『は』」と限定していることの意味を探ると、内蔵がずるりと抜け落ちるような恐怖に見舞われた。
私は、この歌は飛び込み自殺を目論む者が、その内なる苦痛を知らぬ人間たちに下がれと命じるものだと解した。この電車は、己の苦痛を断つ為に今、ホームにすべり込んでくるのだ。
他に解しようもあるだろうし、或いはもっと抽象の次元で詠われたものかもしれない。私がこう解したのは、東京に住む知人から、毎日のように線路への飛び込み自殺があると聞かされていたからだろう。
この歌に感じる絶望は、魂が既にあちら側にいってしまった者を引き戻すことの難しさ、不可能に近いその感触からも来る。そう決めてしまった者には、下がらねばならぬ危険な電車が「救いの手」になってしまっている。
そして、それを知りながら何もできぬ無力、何もしようとしない卑小さまでもが、ジンジンと痛んでくる。おそらく、私は言われるままに後ずさるのだろう。
この歌には、小難しい言葉や抽象的な表現は、何一つない。けれど、マンホールのすぐ下の底なしの闇のような、不可視の恐ろしい「あちら側」を殷々と湛えていて、その把手にかけた手を思わず離したくなってしまう。


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