濱口桂一郎「日本の雇用と労働法」、いい本です。筆者は行政官としての経験を踏まえ、日本型雇用システムの本質を「雇用契約が職務の限定がない企業のメンバーになるための契約、つまり『空白の石版』である」ことと捉え、これを欧米で一般的な個別の職務に対応した「ジョブ型契約」と対比して「メンバーシップ型契約」と呼んでいます。しかしながら、日本の労働法制について「基本的にはジョブ型であり、日本以外の社会と何ら変わりありません」と指摘し、ここに現実の日本型雇用システムと労働法制の間に隙間が生じているとしています。この隙間を埋めるのが「戦後裁判所の判決で確立してきた判例法理」であり、ここに「信義則や権利濫用法理といった法の一般原則を駆使することによって作られてきた『司法による事実上の立法』」が行われてきたわけで、その一部は行政府主導で(つまり官僚主導で)法制に取り入れられて、現在のような労働法制が出来上がっているというわけです。

 日本における経営者層の法律、特に労働法に対する関心の低さは、単に俗人的なモラルや順法意識の高低に関わる問題ではなく、単純にシステムと法律が乖離しているため、法律に即して行動することが現実の問題に対処する上で直接的なソリューションにならない、ということなのかな、と感じています。業績不振による整理解雇が判例上なかなか認められない高いハードルなのに対し、私生活での不祥事による懲戒解雇が割とあっさり認められるとか、個々の労働者の職務領域が曖昧であるため「自分の仕事」と「他人の仕事」が明確に区別されていないため、結果的に全員が仕事を終えるまで残業することが多くなる、という、本書で挙げられている欧米人から見ると意味不明の行動様式も「メンバーシップ型契約」に即して考えるとよく理解できます。

 筆者は2011年度後期から法政大学社会学部で「雇用と法」を講義することになり、そのためのテキストとして本書を執筆したそうですが、これから社会に出る学生たちが本書を読んで「メンバーシップ型社会では、死なない程度のギリギリまで長時間労働することが長期的には最も合理的な選択となるのです」などという一文に突き当たるわけで、一体どう思うだろうな、この冷静な筆致、などと想像すると苦笑を禁じえません。そうはいっても、新卒採用という門をくぐらなければ「メンバーシップ型社会」という仲間内にすら入れないわけで、司法は欧米型の法制下で『柔軟に』(←褒めてません)そういう社会を追認する判例を書き、政治は社会保障の根幹を企業に担わせて、いわば丸投げしてきたわけで、何だかなぁという気分にならざるを得ないわけで、不貞寝の一つもしたくなろうに、ってもんです。

 筆者はまえがきにおいて、本書が雇用システムと労働法制という「二つの文化」を橋渡しする副読本と位置づけた上で「法学系と社会科学系の間のディシプリンのずれは、労働問題というほとんど同じ社会現象領域を取り扱う場合であっても、なかなか埋まりにくいようです」と述べています。そうなんですよねぇ。現実の司法は時として『柔軟』(←だから褒めてませんってば)すぎるし、法律に明るい弁護士が要職に多い現与党・内閣の行政能力の拙さというのもその辺りに起因するのかなぁ、などと。法律を真面目に学んだ学生にとっては、企業で働くこと自体が不条理のカタマリであり、法に対する関心を文字通りのお題目、下手したらナンミョー以下、くらいにしか思っていない経営者層は、まさしくエイリアンであろうなぁ…と想像してみるわけです。

 でも、その戸惑いは「知れば役立つ・得する」「常識や慣習の上に位置する」「世の中の大抵のことは解決できる」という、法律に対する「素朴な誤解」をきちんと取り除いてあげないことにも起因するんじゃないかなぁ…、なんて、ちょっと嫌味なことも思ってしまうのでした。何が言いたいかっていうと、法務博士はつぶしが利かなさそうだね、うん。