遺伝と因縁を究める美ビルド・ネット

遺伝と因縁を究める美ビルド・ネットは今まで過ごした人生の過程において生じたさまざまな疑問の内で精神世界を主として取りあげて綴ったものです。

2011年02月

業と因縁について(2)生まれ変わりはあるか?

業とは一般的には、
「どうにもならない」という宿命観による意味に使われているようですが、

ここで考えなければいけないのは、
仏教の中には生まれ変わるという輪廻の根本原理を主軸とした
考え方が強いようです。

つまり過去世において、
Aが生まれて、その世渡りの為の色々の所作をして命を終ったのですが、
長い時間と空間の後に再びこの世に生まれる。

そして前世の所作の結果を受けてこの人生を渡り生活をしていく内に、
来世の因を作っていくのです。
このように流転して流れていくものと考えているようです。

過去世において因をつくり、
今世において果を受け、
また今世の所作は未来世の果の原因となっているような解釈をしています。

ただ、ここで考えてみたいことは、
これが同一人物であるか否かです。

霊の世界である為に、
このことについてはその証明は不可能と思いますが、
因縁をもった霊のエネルギーが子孫に頼っていく、
ということは充分納得ができます。

日本の神の道の観念からみれば、
生まれ変わるということはないようです。

死んだ後はその徳、またはその生前の精神を永く伝え感謝し、
その徳の力を借りるといった考え方にたっているようです。

しかし、
仏教が入ってからは少し考え方が変わっているように思われますが、
人間というものの追究については、
やはり仏教の考え方が強く流れているようです。

つまり、
神といい、仏というも、人間以上の何らかの力があり、
これを信じることによってその利益という考え方、

または、そのまします世界に生まれ変わるという考え方は、
人間の心の弱さから考えられたものと思われますが、

現在においてはその理論、観念の如何を問わず、
大なり小なりそれによって救われていることをみる時、
そこに何らかの働きがあることが考えられます。



業と因縁について(1)業という言葉は?

あなたもご存知と思いますが、
世間には「業」という言葉がありますね。

この言葉は幸せな時はほとんど使いませんが、
不幸が続く時はあきらめの言葉として使われているようです。
因縁ということもよく言われます。

要するに原因不明のものから生じているものとして解釈されているようです。
つまり運命論の終結の言葉とも解釈されますね。

この言葉が考えられるのは中年頃からで、
その理由は、
それまでに努力から努力をして、自分の考えた通りの人生を渡っても、
それが逆の結果に出て思ったようにならず、

行き詰まりを感じてくると、
世の中には自分の力以外に何らかの動きや作用が
あるのではないかと考えてきます。

それが運命とか業とか言う考え方になるんでしょうね。

しかし、
この問題については昔も今もこれだと言う決め手はなく、
これではなかろうかという考えで色々な説が出ているのです。

だが部分的には当てはまっているようですが、
絶対というにはまだまだ遠いものがあるようです。

物質の学問は次々と謎を解いているので、
科学はどんどん前進を続けていますけど、
この人間の謎は未だに古代のままで進んでいないのが
真の姿ではないでしょうか?

「業」というものについて文献から拾ってみると、
業因・・・・果報を引き起こす原因となるもの、
      現世未来における一切事相の因縁
業縁・・・・果報を引き起こす原因となるもの
共に仏教から出ていると漢和辞典にはあります。

業・・・・(一)作るはたらき
     
     (二)身体の動作、口でいう言葉、
        心に意思する考えのすべてを総称する。
        意思に基づく身心の活動
     
     (三)行為の残す潜在的な余力(業力)
        身口意によってなす善悪の行為が後からなんらかの
        報いを招くという。
        身口意の行い及びその行いの結果をもたらす潜在的能力、
        特に前世の善悪の所業によって現世に受ける報い。
        ある結果を生じる原因としての行為。
        過去から未来へ存続して働く一種の力とみなされた。


業の本来の意味は単に行為といいますが、
因果関係と結合して前々から存続して働く一種の力とみなされています。

つまり一つの行為は必ず善悪苦楽の果報をもたらすということで、
ここに業による輪廻思想が生まれ、
業が前世から末世にまで引き伸ばされて説かれるに至ったようです。

身口意の三業や不共業(個人業)、共業(社会的広がりをもつ業)など
色々な説がたてられました。

インド一般の社会通念として、
インド諸思想に大きな影響を与え仏教にも採用されたようです。

願いの念は死後でもある?

仏教ではこの世を十界に分けています。

人間界を中心にして下は地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、の4つの世界、
上は天人界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の5つの世界に分けています。

これをよく考えてみる時は、
上五界も下四界も霊の世界です。
そして、人の死後赴くところとなっていて、

人の心の働きによって
下にも行けば上にも行ける一番大事な分岐点の鍵を握っているのが
人間であるということがいえます。

この霊の世界の言葉を感じ受けて人の言葉で教えているのが
祈祷師です。

この祈祷師は現代に始まったものでなく、
人類が始まった当初から存在しています。

世界を眺めてみてもどこの国にも存在しているのであって
文化の進化の程度の如何は関係ないのであることを考えると、
決して偶然とは言えないようです。

つまり人の死後でも、
その人の願いの念があることが考えられます。

この念は人間の念が多く、
次に高等動物の念もあることがわかりますし、
この動物は十二支の中の一部分に多くあるように思います。

その他にさわりとして考えられるものとして、
人との関係がある物、

たとえば、
祀られた物、使用された物等があります。



先祖の願いを満足させるのは人間だけだ!

人が死んで不成仏にある時は、
「成仏させて欲しい」と願うと思います。

この願いを全うする為には、
自分の力ではどうすることもできないので、
自分の子孫があれば子孫の誰かに、

もし子孫が絶えていない時は、
信仰の流れがある人、
または肉体の中の血の流れにその素質のある者に
よりすがって頼む像をとるのです。

これがよく言います。
「すがられた」「たよられた」という言葉になります。

霊には言葉がありません。
ですから言葉を表現する為に霊感者を通すか、
または頼った人に病気、災難、苦労、不運、不幸と
色々の像で表してきます。

先祖の霊が成仏をしている時は、
そのたよりを受けた人は加護を受けて不思議と幸せを追うことになります。
この現象が言葉なんです。

このように不幸不運が多い時は、
不成仏の人を見つけ出す努力とその人の願いを探求して、

その願いのように満足させて成仏させることができるのは
人間だけです。

人間をおいて、
これをなし得るものはないのです。

つづく。


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