よろず日記

趣味のラジコン飛行機や音楽その他日常の面白そうなこと等いろいろ取り上げます。

村上春樹の「騎士団長殺し」を読んで

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 遅まきながら村上春樹の「騎士団長殺し」を読みました。今までの村上ストーリー展開とはかなり違っていました。今までだと、はじめから二重構造になっていて、例えば一章では現実の世界を描き、続く二章ではもうひとつの世界、いわゆるメタファー・イデアの世界を。そして三章ではまた現実の世界になり交互に進んでいきます。どの章からかそれらが統合され、あの場面で言っていたことは実はこのことだったのか等の謎の部分が明らかになりやがて結末を迎えるという構造です。

  なのでそれほど違和感なく読めたのですが、「騎士団長殺し」はいろいろな事柄がひとつの世界でほとんど同時進行し、非常に複雑でややこしいのです。現実とイデアの世界が一緒に展開するのです。読んでいると今は夢かうつつか誰かの観念か、と考えながら読まないといけないので疲れます。

<村上作品お得意の超常現象・怪奇現象や心霊体験の数々>
  。僑娃磽蹐修海修海離ぅ妊△両人騎士団長。この小人は自身で自分のことをイデアと称しているが、私には見えて、免色・他の人には見えない。つまり私の心の投影なのか、私と私が求める物、例えば雨田具彦の観念との接点になるものなのか。

¬訝罎北弔詢襪梁減漾ΑΑμ弔蕕洪佑いないのに鳴っている。これは免色も聞いているので他の観念から私だけへの何かのメッセージではなく、二人に共通する求める物との接点と思われる。私は雨田具彦の観念、免色はまりえに対して?。

1田具彦の病室で騎士団長を刺し殺した後私が入って行った不思議な地下の世界。

<不明なこと>
ゝ鎧涼陳垢梁減澆修里發里何なのか不明・・・60cmそこそこのイデアの小人。この存在が私
には見えるが免色には見えない。

  ▲▲肇螢┐肪屬い討△辰仁襪呂匹海帽圓辰燭里。最終的には井戸の中にあったが、それまではどこにあったか。誰がどのようにして最終的に井戸の中に置いたのかが謎。
また政彦が持ってきた包丁が何故病院にあったのか。イデアの存在だったのか、メタファーだったのか。

1田具彦の病室で私が騎士団長を刺し殺しその際大量に血が流れた。しかし私には見えたが他の者には見えていないのも謎。
け田具彦(父)・・・突然夜中にアトリエに現れた雨田具彦
私にしか見えない存在なのか。
 セ笋ユズに想像妊娠?させ結果できた子ども「室」と免色が自分の子どもと思い込んでいる「まりえ」という、双方とも不確実な親子関係のまま終わっている。

Ρ田具彦の病室で騎士団長を刺し殺すが、非常にリアルな記述表現でありながら、
後に血も死体も残らないのは何故か。イデアだからというのであれば、どんな生物の身体を借りていて、それは最後どうなったのか。

Г泙蠅┐離撻鵐ンのキーホルダーが行方不明のまま。

┗田具彦の病室からどのようにして自分の家の敷地にある井戸までどのようにして戻ったのか。病室から入った地下の世界は何かの象徴的なものなのだろうか。

※まだまだあるのですが書き切れません。読み終わって思うことは、
  雨田具彦がヨーロッパ留学中に何かがあり、洋画家の道を絶ち、日本に帰ってから日本画家に変わった。留学中にあったことは誰にも言わなかったが、その思いは「騎士団長殺し」という日本画に表した。この作品は私に雨田具彦の過去をいろいろ調べるうちに、結局雨田具彦が死ぬ前に私が雨田具彦の思いを追体験し、自身が描いた日本画同様に騎士団長を殺すことによって雨田具彦の苦悩を解放するという筋だったのかも知れません。

  大作ではありますが、筋が複雑すぎること、不明な点が多すぎることなどが多く、今ひとつ共感できない作品でした。村上作品の中で一番面白かったのはいまだに「海辺のカフカ」ですね。

  「騎士団長殺し」作成のヒントはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」から得ているようです。私はオ ペラは大好きですが、その中心はロマン派のプッチーニ、ワーグナーです。モーツァルトのオペラは自分のレパートリーから少し外れていました。「ドン・ジョバンニ」をよく知っていればこの「騎士団長殺し」をもっと深く面白く読めたかもしれません。

池井戸潤「陸王」を読んで

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池井戸氏の新作「陸王」を読みました。それまで木内 昇の「光炎の人」を読んでいて二股掛けては読めないので「光炎の人」やっと読み終えた後楽しんで読みました。「光炎の人」は時代背景が明治、貧しい農家の三男坊の立身出世物語?でしたがやたら暗くジメジメした作品で楽しんで読めたかというと・・・?でした。でも池井戸作品「陸王」を読み始めたとたんに「パッ」と頭の中が明るくなり、スイスイと読むことができました。

あらすじは、「埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」。日々資金繰りに頭を抱える4代目宮沢は会社存続のためにある新規事業を思い立つ。これまで培った足袋製造の技術を生かして「裸足感覚」を追求したランニングシューズの開発はできないだろうか。
 世界的なスポーツブランドとの熾烈な競争、資金難、素材探し、開発不足・・・。従業員20名の地方零細企業が伝統と情熱、そして仲間との強い結びつきで一世一代の大勝負に打って出る。」・・・とありました。

 ドラマの構成はまさに「下町ロケット」でした。魂、プライド、仲間、技術、挑戦、信頼等々の熱い語りが随所にちりばめられています。「下町ロケット」「ルーズベルトゲーム」の展開を知っていれば、この先の展開は「おそらくこうなるな・・」と思っているとやっぱし、という感じでした。でも「この次はこうなるのでは・・・わかっちゃいるけど(読むのを)やめられねぇ〜っ」という感じでした。次々に出てくる難題、それをやっとの思いで克服したかと思うとまた次の新たな難題が・・・その克服の仕方が巧妙でとても面白いのです。ドラマは休みなくどんどん前に進んでいくとてもアグレッシブな展開でつい時間を忘れて読んでしまいます。

  そして最後は水戸黄門よろしく勧善懲悪の終末・ハッピーエンドで終わります。零細企業が開発するシューズ「陸王」は実績がない、成功する保証がないということで融資を断られた銀行、ライバルの大手シューズメーカーを社長と共に社員のプライド・魂がそれらを見返したり、やりこめたりする部分は池井戸作品共通の痛快まるかじりで読めます。

ただ以下のことが気になりました。
1.社長の息子の大地の人物設定がしっくりきません。あまりに自分自身にうとすぎる設定に疑問
を感じます。今まで大地だったら不平・愚痴ばかりのはずですが、陸王開発に関わり始めて毎晩12時近くまで嫌な顔もせずひと月もふた月も残業する、というのはないはずです。でもそれは目的のために一心不乱に開発・製造に打ち込む飯山の背中を見ていて、自然に本当の仕事の面白さというのが身にしみて感じ取っていたからではないかと思います。それでも最期の最期まで自分の進む方向が分からず飯山に指摘されないと自分が何をしたいのか分からない・・・という設定はどうもしっくりきません。

2.飯山の人物設定もしっくりしません。まじめで誠実な人間といいながら「べらまっちゃ調」で社長に対しても辛辣な態度で接したり、人生酸いも甘いもかみ分けた人間のはずが、物分かりの悪い態度で接したり・・・等今ひとつしっくりしません。


3.飯山が高利貸しから借金した金(利子で膨らんだ額)は殴られて終わりなのでしょうか?やくざだったらとことん搾り取るのではと思いますが。

4.村野の宮沢社長への口の利き方が横柄でため口が多すぎます。これほどの誠実な人間であれば目上の人に対して、社長に対して丁寧できちんとした対応をするはずですが、かなり違和感を覚えました。
5.こはぜ屋の宮沢社長に奥さんはいないのでしょうか。苦境に立たされた場面で奥さんの一言とか、息子大地へのアドバイス等あってもいいとおもうのですが、奥さんの出番は一度もなかったと思います。
6.そして最も知りたいと思ったのは、ドラマのクライマックス、茂木が前年怪我をした因縁の大会で、こはぜ屋の新作シューズ「陸王」を履いて、因縁のライバル毛塚に勝ち優勝した後、今まで親身になってアドバイスしてくれた村野とどんな言葉を交わしたのか、茂木を最後まで信じて応援した「陸王」の生みの親の宮沢社長やその社員たちとどのように優勝の喜びを分かち合ったのか、負けた毛塚は復活した茂木のことをどう思ったのか等々、その部分を是非池井戸流の熱い表現で読んでみたかったというが一番残念なところでした。

エピローグはこはぜ屋が他企業から融資をうけ、新しい機械を工場に入れている場面です。メインバンクを変更したことを以前メインバンクだった銀行の課長に告げ、悔しがらせたところでドラマは終わります。

  ハッピーエンドはハッピーエンドですが、もっと茂木と宮沢社長とこはぜ屋の社員たち、茂木と毛塚、茂木と村野、この関係がどうなったのか知りたかったですね。自分としては、最後がちょっと物足りなく感じました。でもとても面白かったです。

「最後の晩ごはん」椹野 道流(ふしのみちる)を読んで

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  椹野道流氏の作品を読んだのはじめてです。「最後の晩ごはん」・・・変わったタイトルに興味が沸き読んでみました。「最後の晩ごはん」シリーズは6冊あります。全てに副題がついていて例えば第1話は「ふるさととだし巻きたまご」第2話は「小説家と冷やし中華」等々です。人物設定や展開の仕方、背景等はこじんまりとしており、また登場人物も家族、友人といった範囲で、まるでテレビドラマ、それもホームドラマの典型のような設定で分かりやすい展開です。

  ドラマは芦屋の定食屋で働く3人が中心になって進みます。マスターは訳あってやくざにまで身を落とさざる得なかった重い過去を背負いながらも、なんとか立ち直ってなんとか店を切り盛りしています。その定食屋の住み込み店員は元芸能界のイケメンタレント。今はイケメン店員、この話の主人公「五十嵐海里」です。眼鏡のロイドも含めてみんな「訳あり」の登場人物構成です。

  このドラマをより面白くしているのが、眼鏡のロイドです。ある時草むらに落ちていたのをイケメン店員に拾われて、この店の仲間になりました。眼鏡が人間の姿になってしゃべります。そのめがねが作られたのが英国なので英国人の姿で日本語をしゃべるのです。それも古風な昔ながらのはなしっぷりです。「なんだぁーオバケの馬鹿げた話」と思いがちですが、読み進めると彼らのやりとりがなかなか面白いんです。

  椹野流の面白い展開の仕方で、「科学で割り切れない不思議なことはこの世の中には一杯あるよ」と言っているようで、それもロイドの古風でユーモアたっぷりの語り口が話の絡みやドラマの展開を実にほほえましく面白くしています。

  「胸騒ぎを覚える」とか「第六感のひらめき」「テレパシー」などは、誰でも一度や二度くらいは経験したこと、あるいは誰かが経験したのを聞いたことがあると思います。実際に的中することもありますが、何故そう感じたのかを説明することはできません。「なんとなく」です。幽霊や付喪神(つくもがみ:物に宿る魂)は、特に親しい人、大切な人、大切にした物などがある形をとって自分だけにわかるように現れる感覚なのだと思います。それを感じる人達の精神的共通分母として「強い思い入れ・魂」「やさしさ」「大切に思う心」などがあると思います。この作品の底流にはそうした思いが強く流れています。


  眼鏡のロイド抜きでこのドラマの展開はありえません。付喪神のロイドそのものが「人の魂・やさしさ・思い入れ」等々の象徴的な存在なのです。ロイドがいなければものすごく薄っぺらなホームドラマになっています。

  第1話・2話は登場人物の紹介やら話の中心になる定食屋のこと等、身近なあるある話題を扱い、登場人物の人となり、舞台の定食屋のこと、ドラマの展開の仕方等々の紹介で、これから始まるドラマのいわば「序」の部分です。

  第3話から、登場人物のそれぞれが背負っている重い過去が表舞台で明かされ、その重い過去がみんなと絡み合い、分かり合うことで、より人間臭さ、やさしさが増大します。内容的にとても深く、読み応えのある・・・ホームドラマ仕立てになっています。

ますます世知辛いご時世になってきていますが、そんな時こそこのようなやさしさに包まれ、ほっこりした時間を過ごすことが貴重だとも思います。

 <付け足し>
  「最後のばんごはん」のタイトルの意味はまったく出てきません。イケメン店員は元の芸能界に戻る気配がありますし、マスターが昔亡くなった恋人の両親に会えるかどうかも未完状態なのでこの先続きそうではあります。今は6話までですが、この先もっと続いてドラマの最後にこのタイトルが完成するのかな、とも思っています。

ピース又吉の「火花」を読んで

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 「火花」を読み終わって芥川賞や直木賞とはいったい何ぞや!純文学とは何ぞや・・・と思ってしまいました。確かに作者の心中を表した作品ではあるけれど、起承転結や物語性もなく、ただだらだらと書きつづった自虐的私小説、という感じでした。以前読んだ「苦役列車」と大差ないと思います。苦役列車も芥川賞ですが・・・えげつなさが苦役列車よりましかな、という程度です。半分ほど読んであまり筋が進展しそうにもないので途中で止めようと思いましたが、なんせ芥川賞の作品だし、話題の本だったし、最後に何かあるのでは、ということで読んでみましたが・・・・結局何にもありませんでした。

 「火花」というタイトルは何を意味するのでしょうか。火花という文字は文中にあったのかなかったのか記憶にありません。物語は花火大会の場面で始まり、最後も花火大会の場面で終わります。特に花火の意味を感じなく読み進めましたが、読み終わって思うことは、2人が目指す漫才も花火のようにドカーンとド派手にひのき舞台で認められたい・・・・でも結局は花火のように一発屋で終わってしまうかも・・・という比喩なのか、と思いました。

 ・・・・で「火花」の意味することですが、確かにこの物語は主人公徳永と彼が師匠と慕う神谷の2人の会話で進みます。2人の会話は漫才のネタの話ばかりですが、それとて話の筋には何の脈絡もなくただシュールな会話がだらだら続くだけです。今時、一発芸を目指す人達にとっては、彼らの会話は「わかるわかる」なのかも知れませんが、それ以外の者には意味のない会話に思えます。

  ただ面白がって、噛み合わない会話をしているだけ・・・・と言うよりも、徳永が師匠神谷のいつまで経ったも変わらないハチャメチャな言動を、常に冷めた目で見ていて、彼らの会話が火花を散らした激論どころか、とても良好な師弟関係とも思えないところが気になりました。その会話を以て火花とするのは・・・ちょっと・・・という感じです。
 
終末、徳永が神谷を芸人としての立ち位置を諭すに至っては、気の毒、自虐的、・・・でこれからどうなるんだろう・・・とこちらまで滅入ってしまいます。

 徳永の神谷の見立ては、天才的な漫才資質を持っているけれど、未だ種の状態で発芽させるには、いつ、どこで、誰が、どのようにやるのか等々、商業ペースに乗せるやり方を知らないし、しない人間、自分が好きな時に好きなようにやっているだけなので永遠に芽がでないだろう、という見立てのようです。自分はちゃんとレールに乗ろうとしている・・・乗っている?。読み終えても何が言いたかったのかよく分かりません・・・。

余談です・・・・ショパンコンクール等音楽のコンクールでは1位なしの2位・・・3位・・・ということがたまにあります。過日芥川賞・直木賞の発表がありましたが・・・「該当者なし」・・・ということもあってもいいのではと思ったりします・・・・。

新田次郎の「孤高の人」を読んで

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新田次郎の作品を読むのははじめてです。上下2巻の長編です。昭和44年刊行ですので大戦まっただ中のことです。あらすじによると、「昭和初期、ヒマラヤ征服の夢を秘め、限られた裕福な人々だけのものであった登山界に、社会人登山家としての道を開拓しながら日本アルプスの山々をひとり疾風のように踏破していった”単独行の加藤文太郎”その強烈な意志と個性により、仕事においても独力で道を切り開き、高等小学校卒業の学歴で造船技師にまで昇格した加藤文太郎の、交錯する愛と孤独の青春を描く長編・・・・」とあります。そして最期は遭難死してしまいます。加藤文太郎は実在の登山家だったようです。

 はじめから主人公加藤文太郎は死んでしまう、と分かっていて読むのも何だか嫌なものです。あまり気が進みませんでしたが、「孤高の人」というタイトルに「凛とした気高さ」を感じたことや自分も山登りは嫌いではないので、一度登山の小説を読むのも面白いかなと思い読んでみることにしました。

 加藤文太郎は遭難した最後の登山を除いては、全て単独行を貫いていたので、物語は一人で黙々と山歩きをする描写ばかりです。でも夏山の澄み切った青空・もくもくとわき上がる雲・かわいい小動物・青々とした木々の美しさ、そして何よりも凄いのは野営をした時の星が手で掴めそうな満天の星空等々の描写がとても美しいです。

  ・加藤が天上にいただく星は暗黒の空に星が点在するのではなく、星の中に夜が点在   
   するかのように、おびただしい星が彼を取りまいた。それを美しいと表現できなか   
   った。荘厳という古めかしい言葉でもなかった。それは人間の表現感覚を超えたも   
   のだった。人には告げることのできない景観だった・・・・。

 新田氏自身が過去に富士山の測候所に勤めたこともある、ということで登山に関しては経験豊富なようです。文中自ら体験しないと分からない描写で埋め尽くされています。特に冬山の凍った稜線歩き、雪崩、天候の急変等々の描写はとてもリアルで臨場感・切迫感を持って読むことができます。

  昭和初期の時代感覚や文太郎の人物像・生活ぶりは本人が書き記したもの、登山界の資料等々が残っているのでそれらを元に新田氏が面白く脚色したと思われますが、遭難死については、単独行を貫いていた文太郎が何故・どのように死に至ったか、というのは誰も知りません。なので新田氏にとっては、文太郎の遭難死に対して如何に必然性を持ったドラマに仕立てているかが問われる部分だと思います。

  その点で言えば、下巻の後半部分はかなり無理があるように思います。愛する娘・妻花子がいるのに、何故宮村の無理な登山計画に賛同したのか、登山の途中でも文太郎が単独行をしているのであれば止めていた場合でも宮村の強行登山を黙認して、結局最期は遭難死してしまいます。読み手としては「どうして?」「何故強く反対しなかったのか」「かけがえのない家族がいながら」、今の宮村の置かれている立場、彼への負い目等々あったと思いますが、どうしても多くの疑問が残って後味がすっきりしません。

  それにしても遭難死というのはあまりに悲劇的すぎて読む意欲が萎えます。なので文太郎をモデルにした別人物で最期はこの困難を何とか耐え、死に体の中何とか家族の元に帰り着き、花子や娘と再会する場面にしてもいいのではと思ってしまいます。花子との結婚式当日、山で遭難しかけながらも、息も絶え絶え泥だらけになって式場にたどり着いたように・・・。

 まあ遭難死して悲劇に終わった方が物語としては面白いと思いますが、やっぱり後味は悪いですね。文太郎の「何故山に登るのか」という自身の問いかけに対して答えが曖昧なまま終わってしまいましたが、久々に骨太の大作を読んだ気がしました。

今野 敏の「任侠病院」を読んで

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任侠病院??何だろう?ヤクザの病院??? あらすじを見ると
 「主人公日村が代貸を務める阿岐本組は東京下町で長年ちっぽけな一家を構えている。堅気に迷惑をかけない正統派やくざであったが、地元新住民の間から暴力団追放運動が起こってきた。そんなおり組長阿岐本が潰れかかった病院の監事となって再建を引き受けることになった。
暗い雰囲気の院内、出入り業者のバックには関西大物組織の影もある。再建先と地元、難題を2つ抱え込んだ阿岐本組。病院の理事もさせられた日村は、組最大の危機を乗り切れるか」とあります。面白そうなので読んでみることにしました。

こんな話は現実的にはあり得ないことと思いながらも利権が絡むこういう話は実はそこにもここにも「あるある」というレベルの話かもしれません。しかしこの物語は利権絡みのドロドロした話は一切なく実に爽やかな話になっているので、今時その方があり得ない話のようにも思えました。

阿岐本組の存続を試された場面は大きくは3つありました。1つ目は新しい住民による暴力団追放運動、2つ目は病院をパンクさせようと悪徳業者が大人数の偽の患者を送り込んだ時(それを阿岐本組長は戦争と呼んだ)、3つ目は悪徳業者のバックの組長との話合いの場でした。

情に厚く、倫理観に富み、先見の明があり、肝っ玉が据わっているこの阿岐本組長が、この3つの場を中心に、次々とやり込めていく所は痛快丸かじりで気分爽快でした。どことなく池井戸作品に通じる部分がありました。でもその分話が出来すぎで物語りとしては少し平板になった感がありました。

阿岐本組長は病院の立て直しに関わってこんなことを言います。
・「病院の蛍光灯を取り替えるという作業は未来につながるんだよ。新しい明かりに換えるということは、そのまんま明るい未来を願うってことなんだ。」
・「病院の外壁から掃除をしてきれいにしていくのは、人の心はまず入れ物に左右されるんだよ」

主人公日村の阿岐本組長に対する思い、「ヤクザは交渉術の達人だ。一般には暴力をちらつかせて脅しをかけるだけだと思われがちだが、ひとつ話をまとめようとする時、ヤクザほど事前に下調べをする者はいない。綿密な調査の上で相手の弱みをついていく。大きな話をまとめるには情報の収集に加えて決断力が必要だ。そして人を動かすための人望、それらをひっくるめて人の器と言う。阿岐本組長は器の大きな人間だ・・・」とありました。

  今風に言えばディベートに優れて、人望がある人物。少し話が大きくなりますが竜馬や勝海舟のような人物?、そういう人物が対中、対ロ、対米の外交をやっていけばもう少し関係が良くなるのでは・・・と余計なことを思いました。

喜多川 泰の『「また、必ず会おう」と誰もが言った』を読みました。

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なんだかとても爽やかそうなタイトルだったので読んでみました。喜多川氏の作品を読むのははじめてです。
主人公は福岡に住む17才の高校生。友達に「ディズニーランドに行ったことがある」といううそを言ったばっかりに、うそを隠すためになけなしの小遣いをはたき、夏休みにディズニーランドに行って証拠の写真を撮ってくる羽目になります。おまけに帰りの飛行機に乗り損ないます。困り果てていたところを空港の売店のおばさんに声を掛けられるところからドラマは始まります。

  爽やかそうなタイトルの通り、とてもテンポよくスラスラ読め、アッと言う間に読み終えました、・・・と良く言えばそうなんですが・・・悪く言えば、話の内容がとても薄く・軽すぎます。話に変化・奥行きが乏しいです。まあ自分が字面通り読んで、作者が何を意図していたのか読み取れなかったのかもしれませんが・・・。

  思うに筋に起承転結の「転」の部分がないと思います。強いて言えばはじめのおばさんとの出会いの時、おばさんがお金を貸そうかと思ったけど止めて、自分の力で九州まで帰りなさい、昔の人は歩いて旅をしてたんだから・・・と言ったあたりでしょうか。後は全てどれも同じような「承」の場面が続きました。

九州にたどり着くまでにいろいろに人に助けてもらいます。主人公の17才の高校生が素直で、優しい人物であることから、どの人も優しく、そして厳しく接してくれます。そのお陰で「うそをつく」という自分の弱さを少しずつ克服できるようにもなります。

 それにしても出会う数人はいい人ばかりで、同じような熱い教育的指導?説教?を受けます。
 ・「あなたね、あなたが泊まった家では、食事の後かたづけ、布団の上げ下ろし、風呂  掃除から・・・・いいから座ってて、と言われても逆らってもやる勢いがなくちゃダメ、わかる?」・・空港売店のおばさん。
 ・「そうでしょ。居候は何かで誰かの役にたっているという実感がないと、楽しく過ご  すことなんかできないんだよ」・・おばさん
・「お袋さんには多少心配かけても大丈夫。この経験を通じて今までより一回りも二回りも大きくなって帰ってくれば、きっとお袋さん喜んでくれるさ。」・・理髪店店長
・「人間はね、いや人間だけがと言ってもいい、誰かの喜ぶ顔を見るために自分の全てを投げ出すことができるんだ」・・・派出所の警官
・「なあ兄弟。誰が何を言おうと、お前の人生はお前のもんや。誰かがやれと言うたからやる。やるなと言われたからやらん。そういう生き方をしてお前は自分の人生の責任をちゃんと自分でとる自信はあるのか?」・・長距離トラックの運ちゃん
・「自分が頑張った分しか幸せになれない」・・長距離トラックの運ちゃんの娘

 この本を読んで、学生の頃一人旅でユースホステル・・・今あるのかな〜、に泊まって、相部屋の人達と初対面にも関わらず臆せずいろいろなことを話したりして、大げさですがその頃少しずつ自分の世界観が広がっていったのをふと思い出しました。

上橋菜穂子の「獣の奏者」4巻を読みました

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  「獣の奏者」・・・この妙ななタイトルが気になって、幾度か手に取ってみるのですが、耳慣れない言葉、登場人物名が全てカタカナ表記で、どこの国の話?、時代は?等々、場面やストーリーのイメージが掴みにくく読むのをためらっていましたが、取りあえず1巻目を無理して読んでみると何だか面白そうです。2巻目の「王獣編」からは物語に入り込めました。

   面白かったです。アニメにもなっているようだし、読者対象は中学生ぐらいでしょうか。
  
    それにしても4巻のこんな長編ファンタジー?をよく書けたものです。感心してしまいます。国や時代等全て架空の話で、しかも闘蛇や王獣といった生き物も全て上橋氏による創作なのでしょうか。現実に存在するかのようで描写がとてもリアルで作り物とは思えません。上橋氏の専門は文化人類学それもアボリジニということなので、未開社会から文明社会までの流れの中でエリンが生きる架空の国や社会を作り出すことは楽しみながら生み出せたのではないかと想像します。

物語は闘蛇(兵士が乗って闘うトカゲの形の巨大生物)の戦闘力に勝る王獣(鷹を巨大にしたどう猛な空を飛ぶ生き物)を操れるようになる唯一の獣ノ医術師エリンの一代記と言えばことは簡単ですが、王獣を操れる唯一の人物ということで国策・国防の切り札として時代のすう勢に翻弄されるエリンの物語と言えます。

  次から次へと降りかかる試練や困難に勇気を持って立ち向かうエリンの姿はまるでインディージョーンズばりの大スペクタクル映像として目の前で繰り広げられます。どの場面を読んでいても映像が浮かび上がってきます。アニメにし易い題材、ストーリーです。本というより絵本を読んでいるような感覚もありました。

  生き物を慈しむ主人公エリンが王獣を自然の環境の中でのびのびと育てたいと思いながら、国策に翻弄されやがて戦争の道具として使われる王獣に育て上げなければならなかった主人公エリンの苦悩、そして繰り返される人間の欲望を満たす争いの行き着くところは破滅、といったところがこの作品のテーマでしょうか。

  どう猛な王獣を治療、飼育する場面で「王獣が今どうしてほしいのか、何に怒っているのか、どうして餌を食べないのか」等々、同じ生き物としてコミュニケーションを取って治療・成長させる姿にエリンの強い愛情を感じます。王獣を戦争の道具ではなく、ペットでもなく、治療が終われば今まで暮らしていた自然に帰すという生き物を慈しむ気持ちが全編にあふれています。

  このことは逆に人間同士で言葉が通じるのに真のコミュニケーションが取れず、やがて争いや大きな戦争に発展していく人間の醜さへの大きな皮肉があるようにも思います。

クライマックスはラーザ国の千頭の闘蛇軍とエリン率いる王獣の群れの対決の場面です。闘いの結果はエピローグのような形で余韻を持たせた書きっぷりですが、壮大なドラマ設定からすると少し呆気ない気もしまた。

4巻とは別に「刹那」という特別編があります。今までの物語で語っていなかった部分を詳しく書いたものですが、4巻読み終えると「ちょっと食傷気味」ということで読みませんでした。

池井戸 潤の「BT’63」

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またまた池井戸作品です。 タイトルの「BT’63」のBTはボンネットトラックです。昭和中期ごろまで走ってたフロントのエンジン部分が飛び出したトラックです。ドラマに出てくるのはBT21号車、でも63は何でしょうか。最後までわかりませんでした。このBTが活躍するこの物語が東京オリンピックの前年なので1963年の63のことかなと思います。

  主人公の大間木琢磨は精神的な病で仕事を辞め妻とも離婚し、全てに自信をなくし実家で母親と療養生活を送っています。ある切っ掛けで父親史郎が働いていた40年前の1960年代に夢の中でタイムスリップできることに気が付きます。そこからドラマは始まります。

  母親にそのことを話すと「まだ病気が直ってないようだね」と相手にしてくれないどころか余計な心配をかけそうなので、夢のことが真実かどうか、本当に自分の病気が治っていないのか、狂ったことを夢見ているだけなのか、夢の中の覚えている手がかりを元に自分で確かめようと思い立ちます。

  父親が働いていた相馬運送があった場所、取引のあった銀行、関わった人たち、そして何より父親が愛した竹中鏡子とその娘可奈子の行方を探し求めます。

  何度も夢で父親の世界を行き来し、当時を知っている人たちを尋ね歩いて、5年前に亡くなった父親が家族には決して語らなかった、その仕事場での竹中鏡子との出会いのこと、自分が中核になって働いていた運送会社が最後には倒産してしまったこと、、殺人など血生臭い事件にも巻き込まれたこと等々、そういう大変な中でも精一杯生き抜きそれらを乗り越えてきたこと等々、少しずつ父親の真実を知っていきます。

  父親史郎が愛した鏡子の愛娘、成人し結婚している可奈子との出会い、現在も解体されずに残っていたBT21号車との出会い、この出会いに至る場面では琢磨を引き寄せる見えない強い力、父親の強い愛を感じ、ググッと読み手に迫ってきます。

BT21号車の中で琢磨が可奈子に聞きます。「今は幸せですか?」可奈子は「幸せです。」と答えます。当時ヘルペス脳炎にかかり死の淵を彷徨った幼子可奈子がこうして幸せな結婚生活をしていることは、死ぬまで不幸な境遇だった母鏡子にとってこの上ない喜びだし、父史郎にとっても一番うれしいことに違いないと琢磨は確信します

琢磨の言った言葉「BT21号というトラックを使って琢磨を過去に呼んだのは、きっと父だ・・・病気をして自分を失い、妻と別れ、生き様を見失っていた琢磨を勇気づけるために父がBT21号を現代に送り込んだのだ・・・・よくわかったよ、父さん、俺は父さんの息子だ・・・」これがこの物語の全てを語っています。

  我々普段の生活の中でも、「ひょっとして・・・かな」と思ったら案の定その通りだったり、夢が正夢になったりと、それに対しての思い入れが強かったりすると予感が当たったり、ただ単に第六感がやたら冴えている時もありますが、この作品はそれらの予感をひとつの物語に凝縮したものになっていると思うほど、いろいろ運命的・宿命的な出会いを特に後半作っています。そのたびに「うまくできすぎーー」とか「またーー」と思いますが、そこは池井戸流お涙頂戴作戦にはまってしまい、ググッときながら、次の場面を期待して読み進めてしまいます。最後も妻亜美とやり直すことにことになるなど、池井戸流勧善懲悪のハッピーエンドですっきり終われました。メデタシです。

村上作品「スプートニクの恋人」を読んで

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 村上作品をひたすら読み続けています。最近読んだものは「ダンス・ダンス・ダンス」「国境の南・太陽の西」「羊をめぐる冒険」です。そして今回の「スプートニクの恋人」です。
  相変わらず氏が何を言いたいのかがはっきりしませんが、どの作品もストーリーは平均以上に面白いし、品がありしっとりとした文章表現が魅力的でついつられて読んでいました。

 氏の投影とも思える主人公。独身もしくは離婚歴のある・・・それも妻に愛想を尽かされ逃げられた30代の草食系男子。本が好きで、料理特にサンドイッチ、パスタが得意で洗濯、アイロンがけなど、こまごまとした家事をいとわず、出世欲や金銭欲もそれ程ある分けでもない、少し優柔不断で、少し頭が良く、常に2・3人のガールフレンドはいて、考え方・素行が少し変わった男が主人公・・・。作品の色に合わせて脚色され、どの作品にも同じような主人公が登場します。

  主人公のタイプが違ったのは「海辺のカフカ」だけでしょうか。ともあれそんな主人公が繰り広げるドラマなのでどれも似たり寄ったりになるのは当然と言えば当然でしょう。主人公の考え方・感じ方が少し変わっているので、普通ならなんでもなく終わるところが、思ってもみない方向にドラマは展開していくのです。作者も読者もそこを楽しんでいるのでないかと思います。

  「スプートニクの恋人」も同じような展開なので「またか・・」とも思いながら読み進めて行く内に、氏の言いたいことが少し分かりかけたように思いました。

  氏は主人公を通して、人間の意識や深層心理の面白さ・不可思議について言いたかったのではないかと思いました。心理面での共感・葛藤の面白さが意識や無意識の中で繰り広げられるのです。なので文章は必然的に、ひとつの現象・事象を多角的に捉え、比喩表現の多い曖昧で微妙な味わい深い表現になるのではないかと思います。

  「海辺のカフカ」の感想をネットで見るとユングの心理学との関わり云々があり、村上作品を読み始めた頃は、「なんて大げさな」と思っていましたが、ここまで読んで遅まきながら、どうもその辺りに村上作品の言いたいことはあるような気がしてきました。

  村上作品数は多いですが、人間に例えれば、「海辺カフカ」は頭の部位、「1Q84」は胸の部位、「ノルウェイの森」は足の部位というように全ての部位(作品)が集まって不完全・不可思議な一個の人間になり、ひとつの大きな作品になる・・・言い換えればそこに氏の言いたいこと、我々が持つ感覚の・・・意識・無意識、存在・喪失のといったテーマがあるのではないかと思います。その意味で作品通しのつながり、共通点が多いというのも納得できます。

 「ダンス・ダンス・ダンス」を読んで「羊を巡る冒険」を読みましたが、「いるかホテル」の成り立ちや「羊男」の正体は後から読んだ「羊を巡る冒険」の中に書かれてありました。読む順番が前後しました。同様のことが他の作品間でもあります。2回目読んでもいいと思っていますが、今度読む時は是非作品発表の年代順に読みたいものです。そうすれば更にスムーズに読めるし新しい発見があるかも知れませんから。
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