2016年12月06日

感性

By kyan_ban2007
08:50
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ピアノ
音楽

ピアノをまた再び、やってみようと思うきっかけは、長女の存在だった。
ある日あるとき、どうしてもピアノをやりたいと言い出し、その後いろいろ経過を経たのち、二人そろって今の先生に、レッスンをお願いすることになった。

とにかく当時の私は、体が思うように動かせず、せめて音楽のイメージだけでも磨きたいと、やたらめったら、CDを聴きまくっていた。
これまでは弾いてみようとは全く思わなかった作曲家の曲まで、「耳だけは」研ぎ澄ませておきたいと思って、やたら聴いた。

子供の純粋な感性というのは、なかなか侮れないと感じたのはこの時期。
私の耳には当初受け付けない音楽も、目を輝かせて耳を傾けている様子に、ずいぶん私は刺激されてきたように思う。

気がつけば、絶対に受け付けられないと思っていた音楽も、自然と私の体になじみ始めた。
先入観というものは、何をするにも邪魔なのだ。
そんなことを、彼女から学んだ。


子供だから、言葉でうまく感じたことを表現できないけれど、折々出てくる片言の単語は、常に私の音楽のヒントになってきたように感じる。
いつか私は「彼女の感性」を頼りに、音楽を探る習慣がついていた。


今、彼女が中学生になり、いろいろな言葉を駆使して、自らの感性を表現しようとしている。
いや、彼女自身、本来は「さらさらって感じで、その後、ず〜んってなって…」という、どこまでも「感覚的な」言い回ししかできないのだけれど、それでもなんとか、自分の感じていることを「これ」という短い一言で見つけ出した時、聴いたほうも、それを口にしたほうも、我が意を得たりとばかり、嬉しそうな顔をして喜ぶ。


私の音楽性は、彼女によって刺激を受けてきた。
おそらく、彼女と一緒にピアノを再開していなかったなら、今の自分の演奏は、存在しないのだろう。

だから、自分の娘に、心から感謝をしている。






2016年06月13日

第25変奏はいかにもバッハ

By kyan_ban2007
23:46
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第24変奏合格後、次は第25変奏なのですが、もうこれは、いかにもバッハの曲って感じの、すんばらしい曲だなあ、と改めて思いました。

まだ、譜読みで一回だけ、ざっと音を出しただけですが、出だしの雰囲気がもう、存在感すごすぎます。
何とも言えない音の組み合わせのさなか、不協和音が時々混じるんですが、そのバランス感覚。

そして、後半は、楽譜見ながら弾いている自分ですら、どこに行ってしまうんだろうという、調の移り変わり。


たまたま、湯山明先生の「クッキー」も、現在練習中の曲で、調整浮遊の何とも言えない危うさと、楽しさの入り混じった曲なのですが、バッハのこの変奏には、すでにこの兆しが垣間見えているというところが、この人の偉大さを表しているな〜と。


一度ピアノから離れて、楽譜をきちんと見直す必要があると思い、譜読みは早々に終えて、あとは、別の曲を練習しましたけど、このところ、気持ちと音楽がうまくつながりあっているようで、弾いていて楽しかったり、面白かったり。


レッスンで見てもらったドビュッシーも、前半部分、いただいたアドバイスに従って、きちんと弾けるようになることを、次回までの目標に、じっくり取り組んでいます。





2016年06月11日

7年間のゴールドベルグ

By kyan_ban2007
15:59
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先日のレッスンで、第24変奏合格しました。
約7年近く、地道に練習を続けてきて、ここまでたどり着きました。

変奏の一つ一つが、弾きごたえがあり、時間をかけながらですが、確実に一つ一つ前に進んできたことは、感慨もひとしおといったところでしょうか。

一気に最後まで終わらせたい、という気持ちを抑えつつ、じっくりと、同じような心境で取り組んでいきたいです。


ゴールドベルグが終わったら、フランス組曲をやりたいです。
バッハの曲は、やっぱり心にしみわたって、気持ちがいいですね。


今年のピアノは、やりたいと思いつつ、譜読み途中で棚上げしてしまっているものを中心に、仕上げていくことを目指しています。

ということで、ドビュッシーをこっそり、再開していたりして…。



2015年09月21日

「不快にならない権利はない」

By kyan_ban2007
11:11
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妊娠した女性が、管理職の女性に「あなたがいると赴任の人が不快になるから、やめてもらいたい」と言われた記事を目にして、自分も「子供を連れてくると、不妊の人がかわいそうだから連れてこないでほしい」と言われたことを思い出しました。

その話題を振った時、知人の方が「誰にも不快にならない権利はないんだよ、そんなこともわからないのか」という趣旨の発言をされ、実は昨日来、この言葉の意味の深さを、いろいろ考えていました。


「誰にも不快にならない権利はない」
なるほどな、と。

「権利」という言葉は、英語に直すと「right」ですが、この「right」には「正しいこと」という意味が含まれている、のだそうです。
(浦部「憲法学教室」より)

つまり「権利を主張する」というのは「正しいことを正しいと主張する」という意味が本来含まれており、「人間に生まれた以上論理必然的に認められる」ものだというのが、「権利」の定義なのですね。
(だから細かいことを言いますと、権利ばかり主張して、義務を果たさないのはおかしいというのは、実は誤りで、権利が保障されているというのは、義務を果たすかどうかにかかわらず、保障されているという理解が正しい)

ちょいと横道にそれました。


不快にならない権利、という意味は、他人が自分と違うことを理由として、相手にその場から離れてもらいたいということになると思いますが、これを主張してしまうとどうなるか。

言われた相手は傷つきます。
そもそも、自分がどういう生き方をするかは、それこそ各人に与えられた「権利」なのですから、不快を理由としてその存在を排除しようとするのは、間違いなく、相手の権利を侵害しています。

当然相手は言いますよね、自分の権利が侵害されているわけですから、主張するわけです。
「そんなことは許せない」


当事者同士はこういう関係になりますが、私はふと、このやり取りを聞いている、第三者は、これをどう思うかと思ったとき、「この人の気に入らないことが何かあったら、自分も同じようなことされるんじゃないか」と、不安になると思うんですね。

言い方が辛辣であり、感情的であれば、不安以上に、不快に感じてしまうんじゃないか。
つまり、不快にならない権利を主張してしまうと、ほぼ例外なく、周囲の人間がそのことで不快に陥り、感情的な衝突が引き起こされる、およそ、穏やかな環境は保てない…。


こう考えると、前提となっている「不快にならない権利」そのものは、主張してしまうことで、確実に誰かの権利を侵害してしまうと思えば、権利のもともとの意味である「right」には、当たらないことになる…。


権利の主張と、それに伴う権利の衝突を、どう調整するかという問題は、実は憲法学の一大テーマで(というか、憲法の人権論の問題処理は、9割以上がそれだと言って間違いない)その線引きをどうするかについても、実は時代の移り変わり、社会通念の流動的な変容によって、変化をしていくのです。

10年前まで当たり前とされていた価値判断が、今では違うとされている場面など、いくらでもあります。
何が正しくて、何が間違いなのかということほど、不確かなものは、おそらくないのですね。

だから、どんな時代にあっても、どんな状況であっても「これだけは絶対に正しいとされなければなりませんよ」と保障されているのが「権利」(right)であり、それを定めた法規範が「憲法」なのです。




2015年09月14日

曽野綾子「人間の分際」

By kyan_ban2007
11:40
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曽野綾子さんの「人間の分際」に興味を持ち、書店で買い求め、あっという間に読んでしまいました。
彼女の死生観や、哲学については、異論もあろうけれど、私はおおむね、共感できました。
というよりも、私と同じようなことを考えている人が、他にもいたんだなあ、という、不思議な気持ちがわいてきたほど。

彼女はどうやら、敬虔なクリスチャンのようだけど(この方についてはほとんど存じ上げておりません)私は、基本的に宗教に頼らない人間で、それでも、彼女の言う「神」にちかい感覚というのは、なぜだかとっても理解ができて、いちいち納得してしまったのでした。

彼女の母親は、明治生まれの方で、その母親の語ったセリフというのも、私の祖母が幼いころ、よく聞かせてくれた話に共通するものも含まれており、人間が最後にたどり着く境地というものは、案外普遍的なものなのかもしれないな、なんてことも考えました。


この本の最後に書かれているのは「死んで芽を出す道」というもの。

麦は一粒のまま生きれば、一粒のままでいられるが、死んで芽を出せば、豊かな実りを得られるという趣旨の書き出しから始まるこの節は、ある話を思い出させ、自分は果たしてどうだろうかと、思わず振り返ることとなりました。


刑事裁判において、刑事弁護の仕事をする若い実務家が、必ずと言っていいほど悩むことがあるそうです。
それが「自分はなぜこんな仕事をするんだろう?」ということ。

どんな人間であれ、適正手続きにおいて、裁かれるというのは近代以降、貫かれてきたことですが、彼らの手続き的正義を守ったところで、やはり同じことを繰り返す人は、何度も法廷で裁かれます。

自分たちのしている仕事のむなしさを感じた時、若い弁護士は悩みます。
こんなことに意味があるのか、と。


私のよく知る人物も同じようなことを感じた時期があったようですが、今では、いい意味での「諦念」を得ているように見えます。
そして、若手の実務家にこう話すそうです。

「この仕事をしていなければ、おそらく、一生関わることのなかったはずの人と、たった二人だけの秘密を共有できる関係になる、何十年か先、この人が、ああ、そういえば俺の話を馬鹿正直に信じてた、間抜けな弁護士がいたなあ、そうやって思い出してくれれば、それだけでも意味のある仕事だと思うし、自分たちの仕事はしょせん、そんなものなんだよ」


この本に書かれている文章は「一粒のままを保って生きるのではなく、死んでも誰かに何かを残すことで、自分の存在が生き続けるを望む」人の話がかかれています。

「人は他人を変えることはできないが、他人のためにすべきことを考え、それに従って生きていくことはできる」


生涯において、あの時、ほんの一時だけ、時間を共有できた、そのことを思い出してもらえる存在であるということは、いかに貴重であるかということなのでしょう。


野村克也氏も「人間何が大事って、どれだけ後継者を育てることができたかってことが大事なんだよ」と言っていたように、「後に何かを残す」ことがどれだけ、偉大なことか。


人は他人に対し、自分の生き方、行動を人に示すことで、何かしら感じ取ってもらうことしかできないのです。
感じ取ってもらえたとしても、同じように行動してくれるとも限らない。

だからこそ、自分をほんのわずかでも理解してくれる存在、自分のためにわずかでも助力をしてくれる存在に、感謝の気持ちを持てるのだと思います。




2015年08月28日

論理的思考に必要な力

By kyan_ban2007
05:04
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仕事の帰りに立ち寄った本屋で、最初の方だけ、めくって流し読みした本に書かれていたことです。
「論理的思考に必要な能力は、考える力ではなく、読む力だ」と。

読んだ部分はこれだけなので、中身はそれ以上わからないのですが、とっても納得がいったフレーズでした。

論理的思考というのは結局、「相手の立場に自分を置いて考えることができる」かどうかにつながるのだそうです。
この「読む力」というのは、物事を考えるにあたり、最初に「相手が何を伝えようとしているのか理解する」ことだと思います。

会話であれば、相手の話を聞くこと。
聞くだけではなく「何を言いたいのか、どういう理解に基づいて、こういう内容を話しているのか」を判断すること、これが、この本に言う「読む力」じゃないかと推察します。


なぜこんなことを書いたかといいますと、私が普段使用しているSNSで、安保関連法案に関して、ちょっとした議論がありました。

書いた私自身は、決して「安保の是非」を言いたかったわけではなく、例の「戦争に行きたくないは極端な利己主義、自分勝手」発言をした議員に対し、戦場で人を殺すことを拒否することのどこが利己的なのかという、疑問を提示したに過ぎなかったのですが、2,3人の方が食いついてきて、なぜだか安保の話が繰り広げられてしまいました。


正直、う〜ん困ったな、と思いつつも、全く関連のない話ではないし、ちょっと右寄りに偏ったコメントが続くのを、黙ってみているわけにもいかず、私個人の見解を明確に述べてみました。


私自身の理屈は、単純明快です。

1 いかなる理由があれ、誰かの都合によって、殺されていい命は、この地球上、誰一人としてあり得ない。

2 個人であれば殺人罪で「違法」である行為が、国家単位になると「合法」になるというというのは、全体主義以外の何物でもない。

3 国益のため、ある程度の犠牲はやむを得ないというが、その「やむを得ない事例に該当した」人間は人生そこで終わる、命は失われると取り返しがつかない、これは絶対に譲ることのできない真実である。

4 犠牲にされようとする「個」にどこまでも向き合い、守ろうとする姿勢が「個人主義」であり、国家の都合による犠牲を肯定するのが「全体主義」である、日本は少なくとも、全体主義の国ではない。

(SNSの書き込みはもうちょっと簡潔に書きましたが)


私としては、全体主義なら全体主義で構わないんですよ、こうした問題点があることを踏まえ、それでも「犠牲が出るのはやむを得ない」という価値判断であるとすれば、それは致し方ないかと。
(ただ、私自身は絶対にその立場は取りませんよと)

ところが、なぜだか、ご自身の考え方が、全体主義的な考察によるものと指摘されると、それはそれで否定されようとする感じが、さらに続くコメントから漂ってきます。

だったら素直に、ご自身の見解を撤回すればいいのですが、そこは譲らない。


そもそも、私の指摘した問題点とは、若干ずれたところで、次から次へといろいろな事例を提示され、この場合はどうなんだ、と、個別に聞いてくるので、かみ合った議論になりません。
(そうした各論ではなく、もっと総論的なところで、私は問題提起をしたかと思います、したがって個別事例を出されるたびに、同じ説明をしなければならず、正直めんどくさかったです)


コメントされた内容から、いくつか気づいたことがありました。

1 自分の経験した事柄、それに基づいて感じたことを、立論の前提にすえてしまっており、前提自体が正しいかどうかの検証がされておらず、その前提が誤りであるかもしれないという可能性を、感じていない。

2 自身の過去の経験は、全体から見れば一部分であるにもかかわらず、それを100%の事実としてとらえてしまう。

3 ご本人の感想は、他の人も「同様に感じているに違いない」という前提で、立論を進める、あるいは、他の人にとっても「利益である」と信じて、立論を進める。

4 自分の立論の弱いところを突かれたり、こちらが同意しない姿勢を見せると、感情的な反応をする。

5 客観的な資料から得られた事実から導いてくる結論は、決して論理必然ではない(したがって、結論に至るまでの媒介的な論理を間に挟む必要があるにもかかわらず、そこは省略、自己完結的)



冒頭の、本屋で見たフレーズに戻りますが、「論理的思考とは、相手の立場にたってものが考えられるということ」という文章、そして「読む力」

このSNSでのやり取りは、そもそも、私のコメントの意味するところを「曲解してしまった」人のコメントが発端となり、それに倣ってコメントする人が重なってしまったため、起こってしまった現象なのだろうと思います。

私自身も「曲解」されるようなコメントを出した以上は、コメントいただいた方に対し、正面からきちんと説明をし、ことをおさめる必要があると感じ、最後までお付き合いしましたが、相手が自分に同意してくれないことに対し、若干攻撃的なニュアンスで書き込みされるあたり、この手の議論をするに際して、まだまだ日本人は未熟な点があるのかもしれません。
(そういう意味では、真の意味の個人主義は、完全には浸透していないと思います)



それにしても、本当に存在するかどうかあいまいな「周辺諸国の脅威」
存在するとしても、果たして本当に将来、起こるかどうかもわからない「存立危機事態」

安倍総理には、そんな得体のしれないものにおびえて、国民の不安をあおり、挙句、妙な行動をするよりも、今現在、国内で存在している問題を解決することのほうが、優先順位が上でしょう、と、私自身は言いたいです。

(結局、被害妄想が強い方じゃないかと感じてます。前回総理をおやめになった時も、感じたことですが…)


追記

ちょっと前に、小林節先生が、ある番組で衆議院強行採決に関し「独裁国家の始まり」とおっしゃっていました。
「憲法に違反する疑いの強い法律を強行採決、しかも、危機事態を総理大臣が総合的に判断するというのは、制度的に見て北朝鮮と同じ」「これは法律学の常識である」というコメントに対し、その場にいた他のコメンテーター、司会者が思わず失笑していました。

実は私も、安倍総理の「総合的判断」答弁を聞いたとき、日本が法治国家でなくなってしまうことの恐怖を感じてしまった一人です。
(つまり、戦争をするか否かの判断を、内閣総理大臣一人の判断にゆだねるという意味になるからです)

「平和ボケ」という言葉は、周辺諸国の脅威に対して安穏としている市民に対してではなく、この「法律学の常識」に対して、失笑していた方々に対して贈られるべき称号なのではないかと、一応「法学を学んだもの」として、感じてしまった次第です。






2015年08月06日

悲しい現実

By kyan_ban2007
09:52
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沖縄の人たちは、
戦後70年間
ずっとずっと「沖縄が戦場になるのは二度といやだ」
と思ってきたんじゃないのかな。

米軍基地がある限り
何事かあったら、沖縄は日本で
真っ先に戦場になってしまう

その脅威を抱えながら、
ずっとここまで来たんじゃないのかな


外国からの脅威のために
安保条約は必要だ
日本もリスクを負うべきだ

沖縄の人にとってはそれは
沖縄が再び戦場になることを
本土の人たちが認めてしまったということに
ならないのかな


沖縄が今
行動を起こしているのは
具体的な脅威を感じているから

彼らがそういう状況にあるのに
本土の人間はそれでも
自分たちの生活レベルを維持していくための「石油」の心配をしている


残念ながらこれが日本の現実
ただただ
悲しい

2015年8月6日



2015年06月11日

砂川事件最高裁判例の解釈

By kyan_ban2007
00:47
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日本の首相が、重要な判例について、自身の解釈を示しておられたのですが、また余計な突っ込みいれたくなってしまいました。

「集団自衛権をめぐる関連法案は、これまでの最高裁判例の立場に沿っているものだ」


…?
なんですって?
最高裁がそんな解釈、打ち出してましたっけ???


一瞬頭の中をそんな疑問がよぎりましたが、彼が持ち出したのが「安保条約の合憲性が争点となった、砂川事件判決」でした。

「憲法第9条は自衛権を否定していないという最高裁の立場と変わるところがない」

というのが、どうやら言いたいことらしいのですが、え〜と、それは勘違い…、というか、今回の集団的自衛権の話と、論点が違います。



国が国として存立するためには、国民の生命、安全に対する危急の事態に備えて、「自衛する権利」は、憲法9条があるからと言って、否定はされません、ってことを砂川事件判決では示しているだけで、その「自衛権行使が許される範囲はどこまでか」ってのは、全然別の話です。


つまり、これも大学入って間もなくのころ、先輩に注意されたことなんですが「議論のレベルを間違えてはいけない」ってことなんです。

砂川事件の最高裁判決は、大前提の「わが国には自衛権がある」ということと、それを前提として「安保条約に定められている米軍駐留は認められている自衛権の範囲を超えていない」ということしか言っていないのです。

自衛権の範囲の限界を解釈するうえで、避けて通れないのが憲法第9条。
集団的自衛権までが、日本に認められている自衛権の範囲かどうかは、最高裁は何も語っていません。



なんとか関連法案が憲法に反していないという理屈を、使えそうな材料をあちこちから拾い集めてきて、こじつけ的に利用しようとしていますが、こういう「つぎはぎだらけの理屈」っていうのは、もはや法解釈の世界においては、完全に破たんしています。


…、ま〜、重要判例引き合いに出して、自分の立場を肯定するのは別にいいんですが、すくなくとも、きちんと中身を読んで理解してから、引き合いに出してほしいです。
そうじゃないと、多くの人が勘違いしてしまうでしょ…。

公人としての首相の発言って、責任を伴うと思うんですが、こういうことが続くと、発言に重みがなくなるというか…。




2015年06月06日

面白い記事だったので

By kyan_ban2007
09:20
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http://www.asuno-jiyuu.com/2015/06/blog-post_5.html

ある方から頂いたブログの記事が、とっても興味深かったので、若干語ってみようかと思いました。


自分が大学1年生の時、まだ法解釈学ってなんなんだか、右も左もわからない時期に、研究室の先輩から口酸っぱく言われたことは

「自分たちが勉強するのは法解釈学だ、立法論を持ち出してはいけない」

というものでした。



つまり、法解釈学というのは、すでに制定された法律を解釈する学問だから、まずは「法文がどうなっているか」を立論の前提に持ってくること、書かれていないことを勝手に付け足すのは、立法論になるから、NGだと。

だから、憲法学者の方が、憲法9条第2項の文言に拘泥するのは、当たり前の話なのです。
否、仮に今回の関連法案、個人的には賛成の憲法学者さんであっても、法解釈のレベルでは、憲法第9条第2項の文言を無視することなんて、絶対にできないはずなのです。

自民党の方にとっては、背後から弾打たれた気分だったかもしれませんが、残念ながら法解釈の世界においては、違憲という結論になるのは、避けられないこと。
この事実は、正面から向き合わなきゃいけないんじゃないでしょうか。


民主党が呼んだ小林節先生なんて、私のイメージでは、憲法学者の中でもかなり「右寄り」じゃなかったかと思うんですが、簡潔な論理で「違憲」と、抵抗なく意見していたわけですし、これはもう、憲法改正を経たうえでなければ、関連法案を「合憲」とするのは、かなり無理があるということになります。



ちなみに、憲法学の世界では、文言をあまりにも杓子定規に解釈してしまうと、憲法に抵触する法は「無効」となるわけですから、法的安定性を著しく欠くことになります。

なので、可能な限り「合憲と解釈できるように」するというのが、(特に日本の場合)暗黙の了解になっていると思います。

これまでの自衛隊、安保条約についても、違憲とする学者の方は相当数おられますが、一方で「合憲論」を唱える方もいて、ここに言う「合憲論」はまだ、法解釈学のレベルとしては、【合理的な解釈の範囲】というとらえ方もできたかと思います。

(個人的にはかなり無理があると感じてますが)


しかし、集団的自衛権、それに関連する各種文言の定義づけ、これらは、こうした合理的な解釈をもってしても「合憲とするのは無理」

どう考えても、憲法第9条第2項の文言に抵触してしまいます。

となれば、これを合憲とするためには、法解釈のレベルではなく、立法論のレベル、つまり、法律家に頼るレベルではなく、政治家である彼ら自身が何とかしなければならないレベル、ということになるのです。



もっとも、憲法改正については、限界があるというが、圧倒的な多数説。
これは、「憲法制定権力」という、かなり根源的な基礎法学の話も絡むため、一般の方のみならず、法学部の学生さんも理解が進まない分野です。

思いっきり端折って説明するならば、「憲法制定権力によって作られた憲法は、制定権力の授権の範囲を超えることはできない、憲法改正権は、憲法制定権力を一部明文化したものであるから、授権した側の権限を越えて行使することはできない」というものです。

近代立憲主義を支える重要な部分を改正するのは、改正前後で法の本質を変容させるため、不可能(改正ではなく、新たな法の制定になる)

憲法9条がこの「本質的な部分」か否かについては争いがありますが、日本国憲法の最大の特徴は、やはり「平和憲法」であることを思えば、第9条を改正することはできない、という結論になるかと思います。
(ただし、国民主権や基本的人権の尊重に比べ、そこまで重要ではないと考え、改正できるという説も、有力です)




さて、改正権に限界があるとしても、それはあくまでも「法解釈学のレベル」の話です。
改正の限界を超えて、きちんとした手続きを経て改正された憲法は、「新たな憲法」として、命を吹き込まれることになります。

これは、立法論、政治のレベルの話です。
法解釈のレベルでは、この「新しい憲法」の文言に忠実に、解釈を施すことになります。



改正論議に関しては、護憲派も、改憲派も、ときに自分たちに自信がないのではないか、と感じることがあります。
総議員の3分の2の賛成というハードルは高いですが、実はそのあとの「国民投票、過半数」のほうが、はるかにハードルが高いと私は思っています。

改正論者の方も実は、国民投票で「憲法9条は今のままでいい」という現実を、もしかしたら突きつけられてしまう、そのことから逃げているように思えてしまうのですが、私の考えすぎでしょうか。

いずれにしても、法解釈のレベルでは、関連法案を「合憲」とするのは、無理があると申し上げておきましょう。
(合憲論を唱えている学者さんが、どういう理論を展開しているのか、興味あります)

しかし、人間というのは、どこまでも「満場一致」という現象とは無縁の生き物なのだな、と、逆に異論を唱える人の存在に、納得している自分もいたりします。




2015年05月17日

そして、次女

By kyan_ban2007
20:37
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今回のピティナは、家族総出で行きました。
次女に、お姉ちゃんとお兄ちゃんが弾いている姿を見せたかったのと、緊張している息子が、やっぱり行かないと言い出してしまうと困るので、全員で行くから、ということにしたかったというのが、その理由。

次女はピアノに興味を持っているものの、まだ先生の一対一でレッスン受けるのは難があり、もうちょっと待つか、というのが、ちょうど半年前ぐらいの話。

息子がやりたいといったのは、長女が弾いている姿やレッスンしている様子を見てのことだったので、次女にもその機会をあげたいというのも、あったかな。


連弾練習の頃から、次女はちょっとうらやましそうな顔をしていて、長女に「一緒に習おうよ〜」と言われたりしていたのだけど、実際にステージで演奏している二人の姿は、次女にはそれなりに刺激になったものらしい。

長女が買った楽譜に、妖怪をウオッチの「げらげらポーの歌」が入っているのがわかると、自分も弾きたいという気持ちが突如、わいてきたものらしい。

ピアノ弾きたい弾きたい、一緒に弾きたいというので、じゃ〜、レッスン行く?というと、う〜ん、行ってみようかなあという反応。

ということで、先生に相談してみることにしました。






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