2015年08月28日

論理的思考に必要な力

Blogトップ
前の記事
次の記事
Comments(0)
TrackBack(0)
仕事の帰りに立ち寄った本屋で、最初の方だけ、めくって流し読みした本に書かれていたことです。
「論理的思考に必要な能力は、考える力ではなく、読む力だ」と。

読んだ部分はこれだけなので、中身はそれ以上わからないのですが、とっても納得がいったフレーズでした。

論理的思考というのは結局、「相手の立場に自分を置いて考えることができる」かどうかにつながるのだそうです。
この「読む力」というのは、物事を考えるにあたり、最初に「相手が何を伝えようとしているのか理解する」ことだと思います。

会話であれば、相手の話を聞くこと。
聞くだけではなく「何を言いたいのか、どういう理解に基づいて、こういう内容を話しているのか」を判断すること、これが、この本に言う「読む力」じゃないかと推察します。


なぜこんなことを書いたかといいますと、私が普段使用しているSNSで、安保関連法案に関して、ちょっとした議論がありました。

書いた私自身は、決して「安保の是非」を言いたかったわけではなく、例の「戦争に行きたくないは極端な利己主義、自分勝手」発言をした議員に対し、戦場で人を殺すことを拒否することのどこが利己的なのかという、疑問を提示したに過ぎなかったのですが、2,3人の方が食いついてきて、なぜだか安保の話が繰り広げられてしまいました。


正直、う〜ん困ったな、と思いつつも、全く関連のない話ではないし、ちょっと右寄りに偏ったコメントが続くのを、黙ってみているわけにもいかず、私個人の見解を明確に述べてみました。


私自身の理屈は、単純明快です。

1 いかなる理由があれ、誰かの都合によって、殺されていい命は、この地球上、誰一人としてあり得ない。

2 個人であれば殺人罪で「違法」である行為が、国家単位になると「合法」になるというというのは、全体主義以外の何物でもない。

3 国益のため、ある程度の犠牲はやむを得ないというが、その「やむを得ない事例に該当した」人間は人生そこで終わる、命は失われると取り返しがつかない、これは絶対に譲ることのできない真実である。

4 犠牲にされようとする「個」にどこまでも向き合い、守ろうとする姿勢が「個人主義」であり、国家の都合による犠牲を肯定するのが「全体主義」である、日本は少なくとも、全体主義の国ではない。

(SNSの書き込みはもうちょっと簡潔に書きましたが)


私としては、全体主義なら全体主義で構わないんですよ、こうした問題点があることを踏まえ、それでも「犠牲が出るのはやむを得ない」という価値判断であるとすれば、それは致し方ないかと。
(ただ、私自身は絶対にその立場は取りませんよと)

ところが、なぜだか、ご自身の考え方が、全体主義的な考察によるものと指摘されると、それはそれで否定されようとする感じが、さらに続くコメントから漂ってきます。

だったら素直に、ご自身の見解を撤回すればいいのですが、そこは譲らない。


そもそも、私の指摘した問題点とは、若干ずれたところで、次から次へといろいろな事例を提示され、この場合はどうなんだ、と、個別に聞いてくるので、かみ合った議論になりません。
(そうした各論ではなく、もっと総論的なところで、私は問題提起をしたかと思います、したがって個別事例を出されるたびに、同じ説明をしなければならず、正直めんどくさかったです)


コメントされた内容から、いくつか気づいたことがありました。

1 自分の経験した事柄、それに基づいて感じたことを、立論の前提にすえてしまっており、前提自体が正しいかどうかの検証がされておらず、その前提が誤りであるかもしれないという可能性を、感じていない。

2 自身の過去の経験は、全体から見れば一部分であるにもかかわらず、それを100%の事実としてとらえてしまう。

3 ご本人の感想は、他の人も「同様に感じているに違いない」という前提で、立論を進める、あるいは、他の人にとっても「利益である」と信じて、立論を進める。

4 自分の立論の弱いところを突かれたり、こちらが同意しない姿勢を見せると、感情的な反応をする。

5 客観的な資料から得られた事実から導いてくる結論は、決して論理必然ではない(したがって、結論に至るまでの媒介的な論理を間に挟む必要があるにもかかわらず、そこは省略、自己完結的)



冒頭の、本屋で見たフレーズに戻りますが、「論理的思考とは、相手の立場にたってものが考えられるということ」という文章、そして「読む力」

このSNSでのやり取りは、そもそも、私のコメントの意味するところを「曲解してしまった」人のコメントが発端となり、それに倣ってコメントする人が重なってしまったため、起こってしまった現象なのだろうと思います。

私自身も「曲解」されるようなコメントを出した以上は、コメントいただいた方に対し、正面からきちんと説明をし、ことをおさめる必要があると感じ、最後までお付き合いしましたが、相手が自分に同意してくれないことに対し、若干攻撃的なニュアンスで書き込みされるあたり、この手の議論をするに際して、まだまだ日本人は未熟な点があるのかもしれません。
(そういう意味では、真の意味の個人主義は、完全には浸透していないと思います)



それにしても、本当に存在するかどうかあいまいな「周辺諸国の脅威」
存在するとしても、果たして本当に将来、起こるかどうかもわからない「存立危機事態」

安倍総理には、そんな得体のしれないものにおびえて、国民の不安をあおり、挙句、妙な行動をするよりも、今現在、国内で存在している問題を解決することのほうが、優先順位が上でしょう、と、私自身は言いたいです。

(結局、被害妄想が強い方じゃないかと感じてます。前回総理をおやめになった時も、感じたことですが…)


追記

ちょっと前に、小林節先生が、ある番組で衆議院強行採決に関し「独裁国家の始まり」とおっしゃっていました。
「憲法に違反する疑いの強い法律を強行採決、しかも、危機事態を総理大臣が総合的に判断するというのは、制度的に見て北朝鮮と同じ」「これは法律学の常識である」というコメントに対し、その場にいた他のコメンテーター、司会者が思わず失笑していました。

実は私も、安倍総理の「総合的判断」答弁を聞いたとき、日本が法治国家でなくなってしまうことの恐怖を感じてしまった一人です。
(つまり、戦争をするか否かの判断を、内閣総理大臣一人の判断にゆだねるという意味になるからです)

「平和ボケ」という言葉は、周辺諸国の脅威に対して安穏としている市民に対してではなく、この「法律学の常識」に対して、失笑していた方々に対して贈られるべき称号なのではないかと、一応「法学を学んだもの」として、感じてしまった次第です。






トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 

Recent Comments
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ