2015年09月14日

曽野綾子「人間の分際」

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曽野綾子さんの「人間の分際」に興味を持ち、書店で買い求め、あっという間に読んでしまいました。
彼女の死生観や、哲学については、異論もあろうけれど、私はおおむね、共感できました。
というよりも、私と同じようなことを考えている人が、他にもいたんだなあ、という、不思議な気持ちがわいてきたほど。

彼女はどうやら、敬虔なクリスチャンのようだけど(この方についてはほとんど存じ上げておりません)私は、基本的に宗教に頼らない人間で、それでも、彼女の言う「神」にちかい感覚というのは、なぜだかとっても理解ができて、いちいち納得してしまったのでした。

彼女の母親は、明治生まれの方で、その母親の語ったセリフというのも、私の祖母が幼いころ、よく聞かせてくれた話に共通するものも含まれており、人間が最後にたどり着く境地というものは、案外普遍的なものなのかもしれないな、なんてことも考えました。


この本の最後に書かれているのは「死んで芽を出す道」というもの。

麦は一粒のまま生きれば、一粒のままでいられるが、死んで芽を出せば、豊かな実りを得られるという趣旨の書き出しから始まるこの節は、ある話を思い出させ、自分は果たしてどうだろうかと、思わず振り返ることとなりました。


刑事裁判において、刑事弁護の仕事をする若い実務家が、必ずと言っていいほど悩むことがあるそうです。
それが「自分はなぜこんな仕事をするんだろう?」ということ。

どんな人間であれ、適正手続きにおいて、裁かれるというのは近代以降、貫かれてきたことですが、彼らの手続き的正義を守ったところで、やはり同じことを繰り返す人は、何度も法廷で裁かれます。

自分たちのしている仕事のむなしさを感じた時、若い弁護士は悩みます。
こんなことに意味があるのか、と。


私のよく知る人物も同じようなことを感じた時期があったようですが、今では、いい意味での「諦念」を得ているように見えます。
そして、若手の実務家にこう話すそうです。

「この仕事をしていなければ、おそらく、一生関わることのなかったはずの人と、たった二人だけの秘密を共有できる関係になる、何十年か先、この人が、ああ、そういえば俺の話を馬鹿正直に信じてた、間抜けな弁護士がいたなあ、そうやって思い出してくれれば、それだけでも意味のある仕事だと思うし、自分たちの仕事はしょせん、そんなものなんだよ」


この本に書かれている文章は「一粒のままを保って生きるのではなく、死んでも誰かに何かを残すことで、自分の存在が生き続けるを望む」人の話がかかれています。

「人は他人を変えることはできないが、他人のためにすべきことを考え、それに従って生きていくことはできる」


生涯において、あの時、ほんの一時だけ、時間を共有できた、そのことを思い出してもらえる存在であるということは、いかに貴重であるかということなのでしょう。


野村克也氏も「人間何が大事って、どれだけ後継者を育てることができたかってことが大事なんだよ」と言っていたように、「後に何かを残す」ことがどれだけ、偉大なことか。


人は他人に対し、自分の生き方、行動を人に示すことで、何かしら感じ取ってもらうことしかできないのです。
感じ取ってもらえたとしても、同じように行動してくれるとも限らない。

だからこそ、自分をほんのわずかでも理解してくれる存在、自分のためにわずかでも助力をしてくれる存在に、感謝の気持ちを持てるのだと思います。




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