音楽

2016年12月06日

感性

By kyan_ban2007
08:50
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ピアノ
音楽

ピアノをまた再び、やってみようと思うきっかけは、長女の存在だった。
ある日あるとき、どうしてもピアノをやりたいと言い出し、その後いろいろ経過を経たのち、二人そろって今の先生に、レッスンをお願いすることになった。

とにかく当時の私は、体が思うように動かせず、せめて音楽のイメージだけでも磨きたいと、やたらめったら、CDを聴きまくっていた。
これまでは弾いてみようとは全く思わなかった作曲家の曲まで、「耳だけは」研ぎ澄ませておきたいと思って、やたら聴いた。

子供の純粋な感性というのは、なかなか侮れないと感じたのはこの時期。
私の耳には当初受け付けない音楽も、目を輝かせて耳を傾けている様子に、ずいぶん私は刺激されてきたように思う。

気がつけば、絶対に受け付けられないと思っていた音楽も、自然と私の体になじみ始めた。
先入観というものは、何をするにも邪魔なのだ。
そんなことを、彼女から学んだ。


子供だから、言葉でうまく感じたことを表現できないけれど、折々出てくる片言の単語は、常に私の音楽のヒントになってきたように感じる。
いつか私は「彼女の感性」を頼りに、音楽を探る習慣がついていた。


今、彼女が中学生になり、いろいろな言葉を駆使して、自らの感性を表現しようとしている。
いや、彼女自身、本来は「さらさらって感じで、その後、ず〜んってなって…」という、どこまでも「感覚的な」言い回ししかできないのだけれど、それでもなんとか、自分の感じていることを「これ」という短い一言で見つけ出した時、聴いたほうも、それを口にしたほうも、我が意を得たりとばかり、嬉しそうな顔をして喜ぶ。


私の音楽性は、彼女によって刺激を受けてきた。
おそらく、彼女と一緒にピアノを再開していなかったなら、今の自分の演奏は、存在しないのだろう。

だから、自分の娘に、心から感謝をしている。






2013年11月14日

バイエル8番

By kyan_ban2007
01:06
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音楽
ピアノ
個人でレッスンをされている先生にピアノを習う利点といえば、やはり、一人ひとりの能力、好みに合わせて、楽譜を選んで、レッスンをしてもらえるというところでしょうか。

娘は、とにかくピアノが弾きたくて仕方のない子だったので、早めに曲をいろいろひかせたいということで、早い段階から、楽譜が教則本、テクニック、曲集という形になっていました。

息子は、リズムとソルフェージュが大好きで、歌が大好き。
ピアノに特化するよりも、「音楽に触れる」という形で、ピアノのレッスンを進めているので、楽譜は教則本一冊、それと、ワークブックを使って、習っています。


その教則本に、バイエル8番が、練習曲として、掲載されていました。
ちょっと、私にとって懐かしい曲でした。

構成自体は簡単ですが、息子にとっては、こんなに長い曲を弾くのは初めてで、でも、同じところが何度か出てくることに気が付いてからは、結構早く練習は進みました。


レッスンでは、まず、ドレミで歌ってみようね、とはじまったのですが、この曲は、私が子供のころ、旋律に歌詞をつけて、歌に編曲しているのを聞いたことがあって、だから私はこの曲が大好きで、よく弾いていたのですけれども。

今改めて聞くと、かわいらしい感じで、歌いやすい。
息子も楽しそうに歌った後、先生の前で弾いていました。


とはいえ、ゆっくり、のんびりタイプの息子ですから、なかなか、すんなりとは弾けません。
人生初ともいえる、両手の曲です(笑)

ただ、一つだけ、彼のすごいところは、自分の弾いている音を、確かに聞きながら弾いているところ。
音を間違えたら、すぐにそれに気づき、左手が遅れてしまうと、あ、間違えた、ここからやり直し、と自分で申告して弾きなおす。

弾くのに精いっぱいで、自分が出している音に意識が向かない、なんてことは、このぐらいの子供にはよくあることだし、実は、娘も苦労してました。


気づいてしまうだけ、止まらずに弾くということが、今の彼にはなかなかできないのですが、どこをどう間違えたのか、きちんとわかったうえでやり直しているところは、自信を持ってほしいなあと思います。


そして。

やっぱり、自分が好きで弾いていた曲と同じ曲を、子供が弾いているっていうのは、素直にうれしいと感じました。



2013年04月02日

言葉にするのが苦手ゆえに…

By kyan_ban2007
11:34
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ピアノ
音楽
来週には小学校に入学予定の息子ですが、一人目の時とはまた違った不安が、どうしても残ります。

男の子だからなのか、彼自身がそうだからなのかは分かりませんが、とにかく「口下手」

自分が人にしてほしいこと、やめてほしいこと、といったことになると、彼本来の人の良さもあってか、いいだしづらくなるのも手伝って、言葉にするのが本当に難しいらしいのです。

伝わらないことをそのまま、おしこめていくうちに、段々それが重なると、最後の一つで、一気に爆発。

こちらも必死で話を聞こうとするけれども、言葉に直せないことで、本人また、できないと、イライラ。

他のお母さんに聞くと、男の子はどうしても、女の子に比べて、口ごもることは多く、どこもみんな同じだよ、最初はどうしてもね、ということなので、あまり心配し過ぎるのも、却って彼にプレッシャーになりそうで、少しずつの歩みでいいか、と、思い直してはいます。


なぜか歌を歌うのは大好きで、幼稚園でも、バスの中で一番楽しそうにいつも歌うのが、息子だったそうです。
家にいるときも、歌っています。

ピアノは…、練習はしないけど、レッスンは楽しいらしく、実際、見ていると本当に楽しそうにしています。

音楽か〜。
そういえば、作曲家の多くは、内気で、なかなか自分の内面を、言葉に表すことが苦手な印象が強いなあ…。

(逆に言ってしまうと、言葉に直せる人は、作家になればいいわけなのだし)


そうなのだ。
おそらく、音楽に込められた「心」は、内面をうまく言葉で表せない人が、それでも、自分のうちにある感情、精神性、世界観を、どうにかして、外に伝えたい、その営みの結果なのだと、ふと気付く。

なぜその曲に魅かれるのかと言えば、言葉にできないその「繊細な思い」を、どこかしら、自分の体が受け止め、琴線に触れ、何かしらの感動に変っていくからなんじゃないだろうか、と。

作曲家だけでなく、他人の手による音楽の再現は、演奏する人間(指揮者も含まれると思うけど)の「思い」も複雑に絡まり合って、一つの「作品」になっていくから、こちらが受け止める「人の思い」は倍増し、受ける感動もその分、大きくなる。


「作曲家の意図を探る」というのは、結局、自分が好きな曲に対して、なぜ自分はそれが好きなのかを、一つ一つ探っていく作業にすぎないのじゃないかと。

「演奏したい」という思いは、聴いて感動するだけじゃなく、その感動を「作曲家の思い」に乗せて、さらに「自分の曲に対する思い」までをも、聴いている人に伝えたいからじゃないのかな、と。

それがうまく結合した時、幸福感を感じてしまうのは、「作曲家の思い」と、「自分の思い」が、バランスを保ちながら、一つの作品として完成できるから…。


楽譜を見るのが楽しい。
自分の愛する曲の中に込められた「作り手の思い」を探るのが、楽しい。
彼がなにを考え、何を伝えたかったのか、自分なりに理解し、それに沿って、自分もさらに「思いを伝えるために」どう演奏するか、考える。

曲を愛しているからできる。
そして、曲からえられる感動は、演奏家の誰ひとりとして、同じではあり得ない。

私が音楽をやっている意味は、そこにある。
そして、人の音楽を、大切にききたい気持ちも、そこに理由があるのだと。





2011年10月01日

作曲家との会話

By kyan_ban2007
23:22
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音楽
ピアノ
ピアノを弾くことは、とどのつまり、作曲家とのコミュニケーションをとることだと、常日頃感じている私です。

「作曲家の意図を探る」といえば、なんだか高尚なアナリーゼの世界を想起させますが、砕けて言ってしまえば「きっとこの人、こういうこと考えてたんじゃないかなあ」と、楽譜をヒントに「妄想すること」じゃないかと思うわけですが。

(楽譜を読み解いて、専門用語ふんだんに駆使して理論的に説明するか、読み解いたのち、世俗的な話にすり替えるかの違い???)
 ↑
真面目に勉強されている人には、とんでもないふざけた話だと、お叱りを受けそうですが。


シューベルトさんは、とにかく気難しい。
気難しさを感じるゆえんは、基本的に同じような旋律をしつこく繰り返しながらも、どこかしら、何かを変えているところ。
微妙に音を変えているから、一応「さりげなく変えていること」は、ピアノ弾きながら気付かなきゃいけないし、さりとて、たった一つ、さりげなく変えているから、そこを思いっきり強調してしまったのでは、やっぱりそりゃ不自然だし、その「さりげなさ」をそのままストレートに出さないと、おそらく気難しい彼のこと、ご機嫌損ねるに違いない。
(この場合のご機嫌損ねるとは、音楽がバランスを失って崩壊する、の意味)

繊細ゆえに傷つきやすく、閉じこもりがちな彼のマインドと、良好なコミュニケーションを維持するためには、とかく、一つ一つを大事に、丁寧に、そして、さりげなく彼が存在感を示そうとしていることを「おおげさじゃなく、きちんと気付いてあげる」のが、必要かと。

…、あ〜、めんどくさい相手だな。
(でも、こういう人、嫌いじゃないっす)

で、彼の曲が仕上がるたびに、げっそり疲れて、ある程度自分で納得できたら、しばらく彼とのお付き合いはお休みになります。
(神経すり減らして、つかれるから)


モーツァルトさんとのお付き合いは、もっとざっくばらんな感じ。
譜読み自体もそれほど難しくなく(しかし、さりげに細かく見ていくと、繊細なのは同じだが)なんといっても、その天真爛漫さ、素直に旋律の美しさにしたがって、音を探っていくがよろしかろう。

たとえ、モーツァルトさんが思っていたのとは、若干の方向性が異なってしまっても、天真爛漫な彼のこと、「ノープロブレム!僕の曲愛してくれてありがとう!」なんて、茶目っ気たっぷりに言ってくれそうな気がする。

だけど、その次に必ずこう言われると思うのだ。
「ま、僕以外が弾く僕の曲なんて、しょせんそのレベルだと思うからね!」

神様、天才モーツァルトさんは、自分の曲を他人が演奏するには、はなから「弾きこなせない」ことを百も承知で、だけど、彼なりの優しさ、明るさをもって、見守ってくれているわけだ。

だから、どんな絶望の淵にいても、彼の音楽は、弾いている人に安らぎと、前向きな気持ちを与えてくれる気がします。
(それでも、神様の領域に少しでも近付く努力をしたいと思うし、すればするほど、はは、頑張ってるね~~~、って、声かけてくれる気がするんだな)

非常にお付き合いしやすい。
しかし、絶対に本命彼女にはしてもらえそうもない。
(む、このあたり、妄想がひどくなってきたかしらん)


バッハ父さんは、一家の大黒柱、厳格で沈思黙考、あわてず騒がず、じっと構えてこちらを見守ってくれている感じがします。

フレーズ処理を丹念にこなしながら、弾き進めるこちらの様を、じ〜っとながめては、頭の中がパニック起こして音楽止まったとしても、「うむ」とかうなづきながら、何も言わない。

音楽が止まってしまうわけは、頭の中で分かれる声部を、独立して歌わせながら、弾いているその姿勢から産まれる現象だから、決してそのことは責めない。

最後まで見事弾き切れた時、彼は「よくやった」とばかりに満足げに深くうなづき、黙って立ち去る。
それが彼の最大の賛辞。
真面目に目の前の曲に向き合うその姿そのものに、好感を抱いてくれる、まさに「お父さん」

やればやるほど、こちらの誠意が伝わるから、どんなに難しくても、やめられないのだ。

だから、なんだかんだいいながら、バッハは年がら年中、お付き合いをしている。




2011年09月30日

弘法は筆を選ばず

By kyan_ban2007
13:45
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音楽
ピアノ
書の大家、弘法大師は、自分の書のまずさを、筆のせいにしなかった、つまり、本当に道を極めた人は、どんな道具を使っても、一流の作品を作ることができる、という意味になるのかな。

だけど、それって本当だろうか、といつも思う。
やっぱり、安い筆を使うよりは、高価な筆を使う方が、レベルの高い書がかけると思うし、それはどんな大家だって、事情は同じなんじゃないかと思う。

だから、多分「弘法筆を選ばず」とは、どんな筆であっても、筆の持つ能力を最大限引き出して、書を書き上げることができるのが、一流である、という意味に解釈する方が、正確だと思う。

私は習字がさっぱりな人なため、なんとなくの印象で語るとすれば、多分、高価ないい筆ほど、使いこなすのが難しいんじゃないかなあ…。
それなりの腕がなければ、多分、いい筆でいい字を書くことはできないんじゃないか、という気がします。


と考えたところで、ちょっと、ピアノに似ているな~と、感じたんですね。

電子ピアノ、アコースティックあっプライド、グランド。
それぞれにも、ピアノのレベルがピンキリあって。

初心者のうちは、音が出しやすく、安価な電子ピアノから始めるのが、今は一般的なのかなあ。
(私が子供のころは、オルガンから?)

だけど、それなりに上手になってくると、電子ピアノでは物足りなくなってくるから、次第に、アコースティックに移行する。

自宅で持つには、アップライトが手ごろだけど、それでもやっぱり、グランドピアノは欲しくなるし、小さいタイプのグランドではそのうち飽き足らなくなって、セミコン、フルコン、メーカーもヤマハ、カワイから徐々に、ベーゼンドルファーとかスタインウェイとかになっちゃうのかしら。

もっともこうなってくると、とてもじゃないけど、一般家庭で手の届くお値段じゃなくなってくるから、スタジオ借りたり、普段は家のヤマハを弾くけど、発表会などになると、もっといいピアノを弾くために、それなりのホールで弾きたいとか、そういう話になってくるのかも。

だけど、やっぱり、アコースティックになると、音の出し方はごまかしがきかなくなる。
ダンパーべダルからして、踏み方間違えると、音は一気に濁る。
脱力が不十分な音は、つぶれて、悲鳴を上げるような音になるし。

スタインウェイあたりになると、指一本で出すピアニッシモですら、ちょっと力が入ると、その音だけべしゃっとつぶれて、遠くに飛ばない、汚い音になってしまうし。

タッチも、アップライトよりは、グランドの方が、シビアになる気がする。
鍵盤をきっちりつかんだ音じゃないと、響きが深くならない。
打鍵の浅さはもろに、音に直結する。

だけど、きちんと弾ければ、本当に気持ちのいい音楽になっていく…。


普段練習するピアノと、発表会などの本番で弾くピアノは、まったく個性が違う。
家のピアノで練習する意味はいったいどこまであるのか、実は疑問に感じていたこともあったのだけど。

それでも、ピアノの持つ良さを最大限に引き出すための練習だと考えれば、初めまして、のピアノでも、それなりに対応できて、弾き始めて早い段階で、いい音を出してあげることもできるんじゃないか、なんてこと、最近思えるようになりました。
(だから、欲を言うと、普段の練習のピアノは、ちょっとさじ加減間違えると、へそを曲げてしまう、繊細な扱いづらいタイプの方が、多分いいんだろうなあ…、その点我が家のピアノは、いい子すぎる…)

もっとも、良さを最大限に引き出すための技術っていうのは、結局のところ、どこまでも基本に忠実、土台をしっかり作ること、なんじゃないかとも思います。


弘法筆を選ばずってのは、普段の練習で使う道具がいかなれども、道を究めるために必要な不断の努力、基礎固め、をしていれば、いつもと違う道具(楽器)に出会っても、自分の個性(作品、音楽)を表現することができる、って意味になるのかな。






2011年09月26日

ピアノレッスン 9月26日編

By kyan_ban2007
22:18
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ピアノ
音楽
訳あって、外出の機会を減らしてました、このところ。
(もちろん、仕事の日はちゃんといってましたけど)

レイアウト作成の仕事がそこそこ宿題のようにたまっていたので、片付けていたのですが、作品制作は行き詰ると、そこから先が時間ばかり過ぎ去る。

無駄に時間の経過を待つのももったいないため、勢いピアノを弾く時間が増えました。
怪我の功名…。

前回記事で、チャイコフスキーの「炉ばたで」が、いい感じになってきて、比較的、今譜読みが終わり、曲作りをじっくりやっているもの中心に、弾きこんでいるところ、と書きました。

今日のレッスンは、最初から、バッハ、湯山先生、そしてこのチャイコフスキーと決めてました。

バッハは、どうも先日、アルコールの入っている状態でゴールドベルグを弾くという妙な行動に出て以来、嫌われてしまっているみたいです。
家でできることが、なぜだか、他に行くと全くできなくなります。

今日も第4変奏で、絶対に家では間違えないはずのミスを、延々続けてしまい、あともう一回、さらってきてください、と言われる始末。
いい加減、この4声からは解放されたい気分です。

で、チャイコフスキーを見てもらったのですが。

私が譜面を置いて、姿勢を直し、鍵盤上にポジションをとるところで、先生が、椅子を後ろに弾いて、私の後ろ側に、位置をずらしました。

そうこれ、私のやっている曲が、仕上がる段階になって、先生が「曲を聴く体勢」にはいるときに、する動きなのですが。
この曲、しばらくぶりに見てもらっていなかったし、まだ音も出していない段階で、先生にはピンと来るものがあるらしいのです。
(そういえば、6月舟歌が劇的によくなった時のレッスンも、音を出す前から、今日は最後まで聴けるな、と、分かりました、と言われた記憶があります)
 ↑
ジャン・ファシナ先生の本にも、ピアノに座った時の様子で、その演奏者の音楽が推し量れる、といった趣旨のことが、書かれていた。

で、まあ、弾いてみたのですが。

先生、最後までじっと聴いていました。
自分的には、かなり、怪しいところもあったのだけど(音の出し方が果たしてこれでいいのかどうか、同じフレーズが前半、後半、何度も顔を出すのだけど、まだ平坦な弾き方になっているのは、自分でも承知しているし)

でも終わった時に「随分と雰囲気がよく出せています」と言われ、やはり、自分が音がきちんとそのフレーズに合ったものになっていない、と感じているところ、指摘されました。
(ひじの使い方、タッチの仕方を教えてもらいましたけど、これが難しいんです…、分かっているんだけど、いつもできないんだな)

それから、中間部…。
「次の小節を気にし過ぎて、最後の一音がもったいない」
最後の音をきちんと弾いて、自分で音の行き先を聞き届けてから、次に移っても、まったく問題のないところなので、丁寧に処理してくださいね、と。

あとは、やはり、冒頭からの2小節からなるフレーズ、何度も何度も出てくるので、同じことの繰り返しになるのだけは、避けましょう、と。

ウナコルダもうまく利用して、最後まで、きれいに流れるといいね、と。
(弾いている本人が、若干飽き飽きしながら弾いているので、言われても仕方ない)

あまり細かいところの突っ込みはなく、すでに全体の構成をどう考えていくかのアドバスがほとんどで、あともう少しの手ごたえを改めて感じました。
実際、先生にも、久しぶりに聴いたけど、これはあと少しだと思うし、今はこの曲を集中的に練習する時期でしょう、と…。

湯山先生のお菓子の世界、バームクーヘンは、全体的に場面の転換がうまくいくようになったけど、最後のコーダに入ってから、本当に惜しい、とのこと。

左手の音が下降していく音形の音の出し方、その後の左手でだす全音符の音、交差して出す高音部の和音の音の出し方の違い、最後の両手和音のユニゾン、きちんと鍵盤はつかめているけど、テヌートだから手は離さないほうがいいと思う…、と…。

これもあと、1,2回ほど、練習です。

で、懸案の柿の種を見てもらいましたけど。
これが前半は本当にいい感じで弾けました。
だけど、後半、一瞬わけがわからなくなって「あれ?」と考え始めたら、崩壊…。

しかし先生、前半部分の出来から、この曲をつかめたんじゃないか、とコメントくださいました。
「いや〜〜〜、この手の曲が自分のものにできるのは、ちょっとうらやましいかも」

うん、正直、この不思議な感じが、最近病みつきになっている気がします。






2011年09月24日

チャイコフスキー、四季、1月「炉ばたで」

By kyan_ban2007
01:03
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音楽
ピアノ
シューベルトに引き続き、行き詰ったまま、なかなかいい形になれなかった曲が、このところ、少しずついい手ごたえをつかめるようになってきています。

チャイコフスキーの四季から、1月「炉ばたで」は、久しく塩漬けになっていたのですが、ここ数日、取り出してみては、練習をしています。

バッハは通年、何かしらの形で練習してきていますけど、ここに最近、湯山先生のお菓子の世界が加わり、ちょっとだけ、自分の中で音楽の幅が広がってきている気がします。

受け入れが広くなったと言いますか…。

仕上がりに向けて、何かしらの曲が一気に上昇してくると、他の曲がお留守になってしまうのですが、その分、新しい曲の譜読みをたり次第に始めてしまう、という、暴挙にもでなくなるため、今の私はほぼ、練習する曲が固定されてきています。

良くも悪くも、こういうときは、抱えている曲で、譜読みも終わり、かなり弾きこんできている曲からどんどん良くなってくるので、いい感じです。


シューベルトの90-3のおかげで、内声部と旋律の弾きわけ、音色の違いを出すことが、楽になりました。
そのため、この「炉ばたで」の中間部から現れる、パッセージ、そして、右手で旋律を出しながら、左手+右手で内声部を弾くあたり、自分の耳に届く限りでは、いい形でフレーズが浮き上がってきています。

ある程度の曲想は固まってきてはいましたが、ここにきて、本当に「すっきりした」まとまりになっています。
シンプルな曲は、シンプルに聴こえてくると、やっぱり正しい気がします。
多分、弾き方もそれほど、間違っていないのだとも感じます。

これもまた、あと2,3回のレッスンで、なんとかなりそうな予感、大。




2011年09月21日

YUMIさんのシューベルトは幸福ではない

By kyan_ban2007
19:11
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音楽
ピアノ
先日、某所でシューベルトの即興曲、op90-3を弾きました。
残念ながら、普段通りの演奏とはいきませんでしたが、それでも、音が比較的イメージ通りに出せて、まあ、よかったのかなあ、と。

そのまま二次会の席で言われたのが、タイトルのセリフ。
「YUMIさんの90-3は幸せじゃない」


即興曲が作曲されたのは、シューベルト晩年の時期だから、多分、体調も悪く、そんなに元気ではつらつとしていた時期ではなかったろうと思う。

気難しくて、引っ込み思案、気の許せる仲間もたくさんいるわけじゃない彼。
そこに、ブレンデルの引退間際の90-3を弾いているイメージも重なって、美しい旋律があふれるように流れながらも、どこかに孤独感を感じてしまう私。

確かに、あまり幸福なイメージは、この曲にはなかったかもしれない。


そんなことを、私は答えてみたら。
「だから、これは幸せに弾かなきゃいけないんだよ」

…、そういうイメージの仕方もあるのか…。


ブレンデルの引退間際の演奏は、何か自分のピアニスト人生を回想するかのような、そういう演奏だと、改めて聞いてみて感じたりしました。

これまで歩んできた道を、記憶とともによみがえらせながら、演奏にのせていく、そんな世界観。
だから「終わらないでほしい…」と思う、シューベルトの音楽の世界が、私には切なく思えているのかも。


しばらくシューベルトとはお別れ、と言いながらも、台風で雨、風、外がすごい状態になっている中、なぜか、この曲を弾いてみた。

頭に一つ、像が浮かんだ。
手塚治虫先生の「火の鳥、乱世編」

平家の兵士に拉致されたおぶうは、葛藤しながらも、平清盛の側室(?)になるわけですが、後に平家が劣勢に陥った時、元の許嫁のもとに戻るように、ある武士から諭される場面。

彼女は、許嫁(後の武蔵坊弁慶)はいとしく思うものの、今となっては過ぎ去りし日の、幸せな思い出だと(今は平家を守るべき立場だと)その場にとどまるのです。

その、若かりし頃の追憶の場面が、この曲のイメージ…。

屋島の戦いだったか、壇の浦の戦いだったか、弁慶と一瞬だけ、戦場で再会するのもつかの間、彼女は安徳天皇を守るために、源氏の兵士に立ち向かい、そのまま打たれてしまうのですが、引き裂かれた理由も、最期の結末も、なんだか子ども心に胸が苦しくなったのを、今でも覚えておりまする。

(え〜、記憶が確かじゃないので、筋が間違っていたら、すみません!)


やっぱり、この曲は幸福な曲だけど、それでも、過ぎ去った日の思い出、なのです。
だから、私のシューベルトop90-3は、幸せじゃなくても、いいのかもしれません。





2011年08月31日

似合っている曲

By kyan_ban2007
21:29
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音楽
ピアノ
今日の午前中は、ピアノのレッスンでした。
持っていったのは、バッハとシューベルト、そしてドビュッシー。

ゴールドベルグの第3変奏は、いい加減長いおつきあいになっているので、そろそろ○もらいたいな、なんて思っていたのですが。

また、途中で派手に止まっちゃいました。
どうやら私は、並行カノンが苦手らしいです。
というか、頭の中でフレーズの進行が滞っちゃうと、あとが続けられなくなる感じがして、怖いです。

それでも無難にまとめましたが、この「無難」というのが、音に乗り移ってしまい、最後のあたりは鍵盤のつかみ方がいまいち、音がふわふわ浮ついてしまって、そのあたりを注意されました。
注意された個所を再度、確認してからのち、

「もう一回弾いてください」

と言われ、仕切り直して最初から。
今度は比較的上手に弾けました。

なので、OKということに。

第4変奏もいつもは絶対に止まらなかったところで、頭が一瞬「?」になってしまったら、何度弾き直してもうまくいかない。
レッスンになってから、あれ〜〜〜???と気付いてしまったときに、できていた(と自分で思いこんでいた)ところがまったく弾けなくなるっていうのは、まれにあることですが。

16分音符はレガート、8分音符はノンレガート。
左手で同時に二つの声部を弾くときに、混乱してしまっていることに気づいてしまいました。
(同時に、右手の和音も縦の線をきちんとそろえてくださいと…、前半できていることがなぜ、後半になるとできないのだ?)


そのため、部分的に運指も変更。
ちょっと通常使わない指の運びで、その場ですぐに直せなかったため、これは持ち帰り、長くかかってますな〜〜〜、これも。
まあ、第5変奏の譜読みが一向に進んでいないので、これはこれで、じっくりお付き合いするといたしましょう。


で、今日のメインのシューベルト。
私がシューベルトの楽譜を取り出すと、先生は私の後ろに回って、私の演奏を聞く体制になりました。

これは、私の曲が仕上がる時期に先生がよくやることで、いつもは私の右手に控えている先生が、背中に回るということは、完全に「曲を聴く」気持ちでいるということを意味するのだと、私も気づくようになりました。

ある意味プレッシャー。
だけど、先生がその曲を弾く私を、一人のピアノ弾きとして、認めてくれているとも感じられますから、ピアノを弾くこちら側も、必然的に姿勢をただし、最初から最後まで、きちんと演奏しようという気になります。

椅子の位置、弾く前のポジション、姿勢、頭の中で思い描く音、テンポ、呼吸。
すべて整ったのを確認してから、弾き始め、自然にブレスをしてから、第一音を出しました。

旋律、ベース音、内声部の音。
出だしの2ページぐらいは、自分でもほぼ、思い描いている音が出せるようになってきています。

場面転換、ここで一瞬、頭の中の音楽がとぎれ、止まってしまったのですが(そしてリカバリーも手間取った…、普段まったく止まらない場所だったため)それでもあとは、若干の音の間違い、とりこぼしはあったものの、最後のコーダも決して満足はできなかったけど、でも、やりたいことの7割から8割ぐらいはできたかな、という感じ。

終わった時に「はい、長かったですけど、よくできました」とコメント。

「すごくあっている曲だと思うので、大切にしてくださいね、本当にきれいに音が出せていて、聴いていて安心して聴けました」

先生曰く、やはりその人にあっている曲というのはあるそうです。
曲もやはり、めぐりあわせ。
弾きたいと思っても、どうしても向いていない曲というのはあって、弾きたい曲と、その人にあっている曲が相思相愛、合致するというのは、本当にラッキーなことらしいです。

「だから、これからも大切に弾き続けてほしい曲の一つ」

ブレンデルの引退直前のyoutubeでの映像が、私のこの曲のイメージだとお話ししました。
弾いている彼の表情、姿は、すでに彼と一心同体であるかのように、自然に流れで演奏しているように見えて、長い年月掛けて曲とお付き合いを続けていたであろう、彼の音楽は、聴いているこちらも本当に気持ちがいいのだ、と、私の感じているところをお伝えしました。

譜読みからすでに一年半を数えました。
あとは、細かいところにさらに磨きをかけていけるように、しばらくお付き合いをしていきたいです。

これだけの大きな曲を、ここまで仕上げたという経験は自分にとって初めてで、よどみなく流れるシューベルトの世界は、自分にも心地よく響きます。


最後、ドビュッシーを見てもらいました。
こちらは、まだまだ先がながそうです。

一つ、大きなヤマを越えた気がするから、これからは、少しこちらに力を入れて、練習続けたいと思います。




2011年08月23日

バッハに嫌われる日々

By kyan_ban2007
16:47
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音楽
ピアノ
お天気、その日の体調、気分によって、音楽ってころころ変わる。

今年の2月以降、バッハお父さんのご機嫌麗しく、練習していて行き詰って困り果てたことがあまりなかった。
練習しただけのことは積み上げられたし、家でてきていることは、大抵そのまま、レッスンでもきちんとできていた。

それが、8月に入って以降、どうも調子が悪いんだな。

ゴールドベルグは、第3変奏からして、なぜだかうまくいかない。
いまだ合格もらえず。
そして、第4変奏も…。

家ではそれなりにいい形で弾ける。
だけど、レッスンになると、バッハ父さん、そっぽを向く。
このところ、シューベルトさんとよりを戻してしまったのが、そっぽ向かれている原因かしら?
でも、普段から、バッハ父さんと誰かほかの作曲家、並行してずっと練習しているわけだから…。


今日のレッスン、第3変奏、あともう一回さらってくるように言われてしまいました。
音楽が前に進み、のっているのは分かるけど、あまりに入りこみすぎて、周りが見えてなくなっているのだそうな。

「のってくると、テンポが速くなる、急ぎ過ぎ、もっと各フレーズ感ゆったり弾いて、よく聞いて」
「音は上に飛ばす、だけど、体は広く、そして下にどっしり構えること、曲にはまっても全体眺めること」

…、う〜む、つまりカラオケで酔っぱらった親父さんが、拍子感も何もかも無視して、自分の世界に入っていい気分で歌っている、つまりは、そう言う演奏になっちゃってるってことですな、想像すると、ちと恥ずかしい。

第4変奏も、あと一息。
各フレーズは浮き上がってきているから、あとはやっぱり「ソプラノ部分をもっと音響かせて」欲しいのだとか。

高音部…。
やっぱり前のめりに弾いてしまうと、音がよく聴こえてないんだな。
いや、出しているつもりだけど、結局鍵盤付近で音が出ているだけで、遠くに飛んでいないんだな…。


シューベルトはop90-3を見てもらいました。
こちらは、このところ集中して練習していただけあって、先生から「かなり良くなってきた」とのコメント。

曲全体通しての構成の再チェック。
細かいフレーズ処理。
楽譜に書かれている強弱記号すべてに意味があり、それに従うか、少し変更を加えるか、いろいろ相談しながら曲作りの段階に入ってきました。

同じような動きが延々続く中、途中で集中力を欠いてぼけっと弾いてしまうと、途端に先生からチェックが入る。
そういうところは、内声部の音(親指で出す音)がいい加減だったり、ペダルの踏み方が甘くなったり。

シューベルトの即興曲op90の4曲は、主要なテーマがデーンと圧倒的な存在感で姿を現し、それを受けて、もう一つのテーマが現れる。
それが入れ替わり、立ち替わり、よどみなく曲全体を引っ張っていくから(その意味ではop90-4は、きっぱりした中間部があることで若干趣異なるかも?)実はさり気に「どうやって最後まで引っ張っていくか」が難しい。

ただ、どの曲も「もっとも感情的になる場面」が一か所あって、そこがおそらく音量的に「一番出すべき場所」と考えているのだけど(op90-4だけが、その場面が中間部だということで、見た目はっきりしている)90-3は、淡々と進む曲想を「つぶさないように」それを主張しなければならない気がして、いろいろ気を遣う。

「音の進行が、予想の範囲を超えているところは、聴いている人にその意外性を分かってもらうためにも、その音を出す前に少しためを作ってあげること」

それにしても、この曲、先生からは「これは出口が見えてきましたね、あと少しですね」のコメントが飛び出し、ど〜やら、この秋、長いことかかりましたけど、完成予定…、です。


湯山昭先生の「お菓子の世界」はシュークリームと、バームクーヘンを聞いてもらいました。

シュークリームは、いろいろ苦戦をしていましたが、今日で合格。
だけど、一発で合格もらえたわけじゃなく。

右手と左手の音の出し方のバランス。
タッチの仕方を改めて確認ののち、再度弾き直してから、合格をもらえました。

あまりにも長く続いているんで、ちょっとおまけ?

バームクーヘンは、前回見てもらったのとあまり進歩がないんですけど、と断ってから、弾いてみたのですが。
どうしてもきれいにできないフレーズでは、運指の修正をすることで解決の方法をもらい。
最後のコーダ部分、左手の旋律がつながっていることの指摘、それから左、右とも和音がユニゾンで続くところは「ショパンの装飾音の弾き方でもそうなんですが、入りはゆっくり、真中はかけぬけて、最後またゆっくり、が音楽の定石なんです」とのコメントをいただきました。

よくみると、楽譜上もフレーズ最初の2つの和音にテヌート、最後の2つにも、テヌート。
…、きちんと湯山先生は、そのことを楽譜上に指示しているじゃあないですか!

意識して弾いてみたら、隣で聴いている先生が「あ〜、これは一気によくなったから、多分、次回で合格だと思います、頑張ってね」だそうな。


フランスものを意識した曲想のシュークリームはてこずりまくり、ドイツものを意識した曲想のバームクーヘンは案外仕上がり早そうで、なんだか、自分の実力、好みを湯山先生に試されているみたいな感じがします。

「お菓子の世界」は、小さな曲の集まり、シンプルな構造の中にも、考えること、いろいろな要素がギュッと詰まって、今の自分の練習曲がわりに、ちょうどいいな、なんてこと、ふと感じてしまいました。





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