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【1.「劇的で」「一回限り」ではなく「地味に」「じわじわと」】

使徒言行録を読み進めています。今日の聖書箇所には「サウロの回心」という小見出しが付いています。言うまでもなく、サウロとは後のパウロのことですから、今日の聖書の箇所は、要するに「パウロの回心」であるわけです。教会に続けて長く通っていらっしゃる方であれば、今日の聖書箇所はよくよく御存知のことでしょう。いずれにしましても、今日の聖書箇所は使徒言行録において、一つのハイライトと言えるのではないでしょうか。皆さんは今日のこの聖書箇所を読んで、何をどのようにお感じになるでしょうか。

まず、申し上げておきたいことは「回心」という言葉の意味です。「心が改まる」ではなくて、「心が回る」という漢字を使っています。「回心」を別の言葉で言い換えると「悔い改める」ということです。「悔い改め」と聞くと、誰か一人の人が「ああ、自分の行いは悪かった」と反省する光景が思い浮かびますが、聖書的な意味での「悔い改め」「回心」は、もっと根本的な変化のことを指しています。単に一つの行動や状況について反省するのではなくて、生き方の根本的な方向性をガラッと変えることです。生きる上で何を一番、大切な価値として受け止めるのかという順番を根本から変えることです。これが聖書で言われる「悔い改め」「回心」ということです。聖書において「回心」は一人の一が体験する場合もありますが、イスラエルの民全体など、一個人ではなくて集団やグループ全体が体験する場合もあります。今日の聖書箇所、使徒言行録9章の場合は、サウロ一人が「回心」「悔い改め」を経験しているわけです。

さて、改めて、皆さんにお尋ねします。皆さんは今日の聖書箇所を読んで、どのような印象を持たれるでしょうか。聖書だからってあんまり構える必要はないと思います。聖書だって一つの文章・記録ですから、どうぞ、皆さんの率直な気持ちを心の中で確かめてほしいと思います。

もしかしたら、皆さんの中には今日の聖書箇所「サウロの回心」を読んで、「自分には無理だ。自分とは縁の無い話だ」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。というのも、サウロが回心する今日の聖書箇所において、旅を続けるサウロの上に突然、天からの光が射し込みサウロの周りを照らし、そして、サウロは地面に倒れてしまうから。つまり、サウロの身の上に「突然、とても劇的な体験」が降りかかってきているからです。「私は洗礼を受けて、教会生活を送ってきたけれど、私はこんな劇的な体験をしていない」と感じる方もいるでしょうし、あるいは、教会に来始めたばかりの方は「こんなことは、到底、私には起こりそうにない」と感じられるかもしれません。大丈夫です。安心してください。私は、何の因果か牧師として働いていますが、私にもこんな劇的な体験は、これまで起こっていませんし、これからも起こる予定はありませんので(笑)。

実は、聖書学者によると、天から光が射し込んできたり、サウロが地面に倒れたりという表現は、聖書の書かれた古代世界においては珍しくない表現だったようです。人が神の働きに触れる時、人が思いがけず神の力に捉えられる時、古代世界では「天から光が射し込む」「地面に倒れる」などの表現が使われたようです(佐藤研、『はじまりのキリスト教』、岩波書店、2010年、p. 74-75 参照)。ですから、21世紀を生きる私たちが聖書を読む時、このような表現に必要以上に引っかからなくても良いと思います。

それよりは、実際のところ、サウロは何を経験したのかということを考えたいと思うのです。サウロはイエスの弟子たちを迫害する側の人間でした。それが後には、イエス・キリストの福音を伝える伝道者へと変わっていきます。これこそ「回心」です。生き方の方向性が根本的に変わっています。生き方の方向性が180度、変わったと言ってもいいかもしれません。このような聖書箇所、「サウロの回心」は、一体、私たちに何を問いかけるのでしょうか。私たちにどのようなメッセージを語りかけているのでしょうか。

私は考えます。それはやっぱり、「私たち自身も、自分の生き方の方向性をイエス・キリストの福音の方向に向けなさい」というメッセージなんだと思うのです。私たちが信仰者なのであるならば、私たちは自分自身を確かめながら生きなければなりません。「私たちは本当にイエス・キリストの福音の方に向かって生きているだろうか?」という問いです。「私たち自身は『回心』『悔い改め』『価値観の根本的な変化』を日々、体験しているだろうか?」という問いです。

同時に、今日の聖書を読んで私が思うことは、私たちが自分自身の心を省みる時、必要以上に「劇的で」「一回限り」な体験に囚われなくても良いのではないでしょうか。「劇的で」「一回限り」の回心体験は物語としてはかっこいい。けれども、私たちは「地味に」「じわじわと」私たち自身の回心を日々、経験していけばいいのではないでしょうか。「劇的で」「一回限り」のものより、「地味で」「じわじわと」経験する「回心」「悔い改め」の方が、実際には、私たちの生き方を支えてくれるのではないかと思うのです。


【2.サウロに何が起こったのか?】

<誰にでも起こる普遍的な体験>

もう少し、聖書に戻って考えてみます。「サウロの回心」という小見出しが付いている聖書箇所を、私たちは読んでいる。じゃあ、実際に、サウロに何が起こったのでしょうか?それを考えてみたい。もちろん、正確なことは分かりません。聖書の記述は短いし、簡潔すぎる。だから、私たちは想像力を交えながら聖書を読まなければならない。けれども、それでいいと思います。私たちが想像力を交え聖書を読むということは、私たちが神への信仰を願いながら自らの生き方・在り方を省みることです。大事なことは、そこにこの私の真摯な祈りがあるかどうかでしょう。

さて、サウロに何が起こったのか?佐藤研さんという聖書学者がいらっしゃいますが、その佐藤研さんの研究を手がかりにします。佐藤研さんは、この「サウロの回心」という体験は、キリスト教に独自のものではないと言います。もちろん、そもそも、この「サウロの回心」が起こったであろう紀元後33年頃は、まだ、キリスト教自体が成立していないわけです。けれども、佐藤研さんが指摘するのはそういう次元の話ではなくて、「使徒言行録9章『サウロの回心』という聖書箇所において、サウロが体験していることは、特定の宗教を超えている。一人の人が神と出会うときに起こりうる出来事だ」というのです。一人の人が自らの在り方を深く省みて、人間の限界を意識し、人間の力を超えた領域(「神さまの働き」と言ってもいいかもしれませんが)に目を向け始める時に、普遍的に起こりうる出来事だと言うのです。

自らの限界を謙虚に受け入れ、神様の働きに目を向けようとするなら、誰にでも起こりうる普遍的な出来事だけれども、しかし、それは見ようとしなければ見えない領域でもあるわけです。だから、これは同じ条件・手続きを踏めば、同じ結果が再現されなければならないという科学の世界の話ではありません。どうしても、言葉遣いも宗教的なものになるし、論文ではなくて物語を通して、伝えたいメッセージが語られることになります。

「死」とか「滅び」という表現が使われます。そして同時に、「命」「再生」「新しく生まれ変わる」という言葉が使われます。わざと、曖昧に語ろうとしているのでありません。それは、そのようにしか表現できない世界なのです。

これまで自分の中に根強くあった何か、消そうとしてもどうしても消すことのできなかった何か、自分を苦しめてきた何か、そんな何かが、ある時、「死ぬ」「滅びる」というのです。だとしたら、「その何かは私の力や努力で消えたのではない」という自覚が生まれてきたも何の不思議もありません。謙虚に自分の在り方を見つめれば見つめるほど、到底、自分の力によって自分が変わったとは言えない。「神」という言葉を使うかどうかは別にしても、「人の限界を超えた力や働きによって、この私が生かされている」という体験は、皆さんも私も持てるのです。これは極めて宗教的な世界です。そして、キリスト教の信仰の場合には、イエス・キリストの福音を手がかりにして、その宗教的な世界へと冒険を始めるのです。
(佐藤研、『はじまりのキリスト教』、岩波書店、2010年、p. 83-87 参照)


<その体験はじわじわと起こる>

先ほど、私は「サウロの回心」という小見出しが付いている今日の聖書箇所を、「劇的で」「一回限り」のものではなく「地味に」「じわじわと」起こる経験として理解したいとお話ししました。サウロ自身の回心もそのような観点から理解することができます。サウロは、どのようなきっかけがあったから、何とどのように出会ったから、イエス・キリストの福音へと「回心」する道を選ぶことができるようになったのでしょうか。もう一度、聖書学者の佐藤研さんの研究に助けを借りたいと思います。佐藤研さんの本から引用してみます。

なぜパウロにイエス、それも「十字架上で磔にされ殺されたイエス」(※ 原文は「杭殺柱のイエス」)との出会いという体験がありえたのか。これを神学的に見て、神中心の言語でとらえ、「それは神が望んだからだ」という具合には説明したくありません。むしろより人間学的に見たらどうなるのか。とすると、パウロにとっての唯一の情報源は、彼が迫害のためにイエス派の人々を尋問したということです。ですから、尋問中にイエスの情報をいわば間接的に、角度を変えて言えば無意識的に摂取した、ということがおそらく事実なのでしょう。心理的に類推することがもしも可能であれば、パウロは尋問してけしからんと思い鞭をふるったのでしょうが、そのときに鞭打たれる人たちの語ったイエスの話、イエスが「十字架上で磔にされ殺された」(※ 原文は「杭殺柱で殺されていった」)話、その中にどこか、パウロの胸に突き刺さるものがあったのではないかと思うのです。それをいわば抑圧しながら推し進めていったのが彼の迫害活動だったのではないか。その異様な力が、ダマスコ空間におけるある時点で、突然、パウロの心閾中に強烈な鮮明さで躍り出たのではないかと思います。
この事件はしかし、同時にパウロの「自分」というものが、その「十字架上で磔にされ殺されたイエス」(※ 原文は「杭殺柱のイエス」)に呑み込まれ、自分自身が破裂し死滅するといういうほどに強烈な体験だったのであろう、と私は思っています。
(佐藤研、『旅のパウロ その経験と運命』、岩波書店、2012年、p. 40 参照)


【3.崩されたところから】

そろそろ今日のお話しをまとめたいと思います。神様の御心を問いつつ、少しでもイエス・キリストの福音を生きる者でありたいと願います。だから、聖書を読んで自らの在り方を省みたいと祈ります。聖書からメッセージを受け取りたいと望みます。「サウロの回心」という記事をサウロにだけ起こった出来事、自分とは関係の無いとして読むのではなく、自分自身に向けられた問いかけとして受け取りたいと思うのです。私たちは、イエス・キリストの福音の方に向かって生きているでしょうか。私たちは日々、「回心」「悔い改め」を経験しているでしょうか。

「回心」「悔い改め」は、私たちの生活において、時として、不快なもの、苦痛や不安をもたらすものとして表れます。サウロにとっても、「自分が迫害していたイエス・キリストという福音こそが、自分の生きる道だ」というメッセージは衝撃的だったはずです。使徒言行録9章4節からもう一度、読んでみましょう。
4:サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5:「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6:起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
7:同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
8:サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
「サウロは目を明けたが何も見えず、三日間、食べもの見もしなかった」という言葉。サウロが受けた衝撃の大きさを表していないでしょうか。

心理学的な説明によると、不快なもの、苦痛や不安をもたらすものとで合う時、人は様々な反応をすると言います。心理学の用語では「防衛機制」という言葉を使うようですが、要は、実際に目の前に有るものを無いものとして「抑圧」したり、何かと理由をつけて、自分自身の正当性を確保しようと「合理化」したりします。「防衛機制」にはいろいろな反応があるようで、「抑圧」「合理化」「 同一視」「投影」「反動形成」「逃避」「置き換え」「補償」「昇華」など。一つ一つの「防衛機制」についてその正確な意味をきちんと理解することが、今、私たちに求められている作業ではありません。

今、私たちがこの場で分かち合いたいことは、「真実に向き合いたい」ということです。もちろん、真実に向き合うことは「痛い」ことです。けれども、その「痛み」を受け容れる時、私たちは神に出会うのではないでしょうか。なぜ、その「痛み」を受け容れなければいけないのでしょうか。それは、真実に向き合うことこそ私たちが自由になる道だと信じるからです。見たくないもの、向き合いたくないものに出会うということは、私たちがそれまで築き上げてきた生き方、守ってきた生き方が崩されるということです。でも、いいじゃないですか。「崩されたところから」、もう一回、歩いていきましょ。その方が、もっと楽しくて自由な道だということを信じて。