輪友の誘い(いざない)により、御成街道の街道歩きをしてきました。
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詳細は右記のリンク先『ヤマレコ』に記入しましたので
飛んでみて下さい。



感想として

今回は成田街道前原の追分から派生する東金御成街道を歩いた
わけですが、御成街道の成立とか、言われなどは色々と書かれて
いるのでそれは省き純粋に自分が感じた事を書き記します。

前原の追分から四街道の自衛隊までは、道のそこここに大小の祠
や寺院神社など多く見られますが、自衛隊以東、千城台迄の間
にはまるで記録するようなものがありませんでした。

また、前原追分から実籾の先の千葉市長作町辺りまでは路肩の
歩道のお粗末な事。 ちょいとつまづいてよろめいたりしたら
脇を走る大型車にいとも簡単に引っ掛けられてしまう事でしょう。
道路行政も徳川以後発展した街並みを整理する事も出来ず、
ああした、地獄の道がどうしようもなく残っているのでしょう。
何も記録はないでしょうが、犠牲となった人たちの数を数えたら
1000人じゃきかないんじゃなかろうか。
いわんや排気ガス埃もおびただしく困った街道であります。
長作以東は幾分良く成りますが、まぁ総じて交通量は多い街道です。

御成街道と言えば棒道。
東金迄、どーんと一直線なのですが、実は四街道の自衛隊のところで
道は切断されています。
現在の地図を上げます。
高射学校と言う地区がそれです。
03-05-15御成 自衛隊 現在
実はこの道、地図左上の千葉県警第二機動隊の辺りから道が曲がっ
ているんですね。本当は下記のように成らなくては変なのです。
緑の線で補正したようにです。




03-05-15御成自衛隊 こうあるべき

そこで明治初期の陸軍調査の迅速測図を開いたらこんな感じ
じゃないですか。

03-05-15御成街道自衛隊
ちゃーんと道が描かれています。
そこで、『本保弘文』氏の著書『東金御成街道』を読んでみると、幕末
この辺りは佐倉藩の射爆場だったそうで、現在の自衛隊の敷地以上に
広い広大な土地がそれだったんでしょうね。
それを明治陸軍が引き受け、当初は敷地内に引かれていた御成街道を
含め幾多の道ともども廃道にしてしまったんでしょうね。

故に現自衛隊の所でこちょこちょと道が迂回しているでなく、相当
広大に道を破壊させてしまったんですね。

などと言う事を思い浮かべ気が付いて書き記すこととしました。

そそ、もう一つ心に残ったのは千葉市天戸台辺りから長沼原辺りに
点在する庚申塔の多くは慈母観音の石仏なんです。
路傍の石仏の多くは庚申塔とか青面金剛像とか〇〇夜塔とか馬頭観音
や如意輪観音などが殆どなのですが、この地区は慈母観音が多く
ありました。
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経緯は知る由もありませんがなんとなく心温かき地区、そんな気が
いたしました。

と、ここまで書いて、フト思いました。
この駒形観音にどうしてこんなに石仏があるのかと。
そーか・・・・
自衛隊、否、陸軍砲兵隊が壊した御成街道部分に在った石仏がここに
集められているんではなかろうかと。

ただ、自衛隊の鎌池交差点から千城台に至る街道に何故に石仏や祠が
まるで無いのは不明である。

ご同行の皆様、お疲れさまでした。