輪友の誘い(いざない)により、御成街道の街道歩きをしてきました。
詳細は右記のリンク先『ヤマレコ』に記入しましたので
飛んでみて下さい。
感想として
今回は成田街道前原の追分から派生する東金御成街道を歩いた
わけですが、御成街道の成立とか、言われなどは色々と書かれて
いるのでそれは省き純粋に自分が感じた事を書き記します。
前原の追分から四街道の自衛隊までは、道のそこここに大小の祠
や寺院神社など多く見られますが、自衛隊以東、千城台迄の間
にはまるで記録するようなものがありませんでした。
また、前原追分から実籾の先の千葉市長作町辺りまでは路肩の
歩道のお粗末な事。 ちょいとつまづいてよろめいたりしたら
脇を走る大型車にいとも簡単に引っ掛けられてしまう事でしょう。
道路行政も徳川以後発展した街並みを整理する事も出来ず、
ああした、地獄の道がどうしようもなく残っているのでしょう。
何も記録はないでしょうが、犠牲となった人たちの数を数えたら
1000人じゃきかないんじゃなかろうか。
いわんや排気ガス埃もおびただしく困った街道であります。
長作以東は幾分良く成りますが、まぁ総じて交通量は多い街道です。
御成街道と言えば棒道。
東金迄、どーんと一直線なのですが、実は四街道の自衛隊のところで
道は切断されています。
現在の地図を上げます。
高射学校と言う地区がそれです。
実はこの道、地図左上の千葉県警第二機動隊の辺りから道が曲がっ
ているんですね。本当は下記のように成らなくては変なのです。
緑の線で補正したようにです。
そこで明治初期の陸軍調査の迅速測図を開いたらこんな感じ
じゃないですか。
ちゃーんと道が描かれています。
そこで、『本保弘文』氏の著書『東金御成街道』を読んでみると、幕末
この辺りは佐倉藩の射爆場だったそうで、現在の自衛隊の敷地以上に
広い広大な土地がそれだったんでしょうね。
それを明治陸軍が引き受け、当初は敷地内に引かれていた御成街道を
含め幾多の道ともども廃道にしてしまったんでしょうね。
故に現自衛隊の所でこちょこちょと道が迂回しているでなく、相当
広大に道を破壊させてしまったんですね。
などと言う事を思い浮かべ気が付いて書き記すこととしました。
そそ、もう一つ心に残ったのは千葉市天戸台辺りから長沼原辺りに
点在する庚申塔の多くは慈母観音の石仏なんです。
路傍の石仏の多くは庚申塔とか青面金剛像とか〇〇夜塔とか馬頭観音
や如意輪観音などが殆どなのですが、この地区は慈母観音が多く
ありました。
経緯は知る由もありませんがなんとなく心温かき地区、そんな気が
いたしました。
と、ここまで書いて、フト思いました。
この駒形観音にどうしてこんなに石仏があるのかと。
そーか・・・・
自衛隊、否、陸軍砲兵隊が壊した御成街道部分に在った石仏がここに
集められているんではなかろうかと。
ただ、自衛隊の鎌池交差点から千城台に至る街道に何故に石仏や祠が
まるで無いのは不明である。
ご同行の皆様、お疲れさまでした。
飛んでみて下さい。
感想として
今回は成田街道前原の追分から派生する東金御成街道を歩いた
わけですが、御成街道の成立とか、言われなどは色々と書かれて
いるのでそれは省き純粋に自分が感じた事を書き記します。
前原の追分から四街道の自衛隊までは、道のそこここに大小の祠
や寺院神社など多く見られますが、自衛隊以東、千城台迄の間
にはまるで記録するようなものがありませんでした。
また、前原追分から実籾の先の千葉市長作町辺りまでは路肩の
歩道のお粗末な事。 ちょいとつまづいてよろめいたりしたら
脇を走る大型車にいとも簡単に引っ掛けられてしまう事でしょう。
道路行政も徳川以後発展した街並みを整理する事も出来ず、
ああした、地獄の道がどうしようもなく残っているのでしょう。
何も記録はないでしょうが、犠牲となった人たちの数を数えたら
1000人じゃきかないんじゃなかろうか。
いわんや排気ガス埃もおびただしく困った街道であります。
長作以東は幾分良く成りますが、まぁ総じて交通量は多い街道です。
御成街道と言えば棒道。
東金迄、どーんと一直線なのですが、実は四街道の自衛隊のところで
道は切断されています。
現在の地図を上げます。
高射学校と言う地区がそれです。
実はこの道、地図左上の千葉県警第二機動隊の辺りから道が曲がっ
ているんですね。本当は下記のように成らなくては変なのです。
緑の線で補正したようにです。
そこで明治初期の陸軍調査の迅速測図を開いたらこんな感じ
じゃないですか。
ちゃーんと道が描かれています。
そこで、『本保弘文』氏の著書『東金御成街道』を読んでみると、幕末
この辺りは佐倉藩の射爆場だったそうで、現在の自衛隊の敷地以上に
広い広大な土地がそれだったんでしょうね。
それを明治陸軍が引き受け、当初は敷地内に引かれていた御成街道を
含め幾多の道ともども廃道にしてしまったんでしょうね。
故に現自衛隊の所でこちょこちょと道が迂回しているでなく、相当
広大に道を破壊させてしまったんですね。
などと言う事を思い浮かべ気が付いて書き記すこととしました。
そそ、もう一つ心に残ったのは千葉市天戸台辺りから長沼原辺りに
点在する庚申塔の多くは慈母観音の石仏なんです。
路傍の石仏の多くは庚申塔とか青面金剛像とか〇〇夜塔とか馬頭観音
や如意輪観音などが殆どなのですが、この地区は慈母観音が多く
ありました。
経緯は知る由もありませんがなんとなく心温かき地区、そんな気が
いたしました。
と、ここまで書いて、フト思いました。
この駒形観音にどうしてこんなに石仏があるのかと。
そーか・・・・
自衛隊、否、陸軍砲兵隊が壊した御成街道部分に在った石仏がここに
集められているんではなかろうかと。
ただ、自衛隊の鎌池交差点から千城台に至る街道に何故に石仏や祠が
まるで無いのは不明である。
ご同行の皆様、お疲れさまでした。
コメント
コメント一覧 (8)
今回の行軍?は、何か「謂れのある」会合とか、ょうか? ^_−☆
東金御成街道と言うのは、江戸を居城とした家康が・・・・・・
旧来家康は大の鷹狩り好きで、東金で鷹狩りをしたい。
東金に行く近道を作れと、佐倉藩の土井利勝に命じ、近在の農民などを強制的に徴用し3日3晩で作らせたと言う謂れの有る道(街道)です。
真意は多分、里見氏とか北畠辺りの謀反のおりには一挙に軍を押し出せると言う、信玄の、『棒道』に似たような要素があるんじゃないかと。
ま、自分ら地元民でも特異な道で、なにせ津田沼から東金迄一直線の道なんです。
そんな道を歩いてみたいと言う、酔狂な行軍でした。
しかし、やはり文章とは違い実際歩いてみると詰まらなくて汚くて危ない街道なのですが、いろいろな事を知りますね。
詰まらない汚い危険を冒して、且つ得ることの方が多いんじゃないでしょうか。
そうした街道歩きでしたよ。
現に、一日中歩いてましたが、あそこを自転車で走ってたのは数台。
狭いトリッキーな歩道はママチャリとかじじチャリがたまに走ってましたがね。
とは言え、道の成立の由来が由来だけに、脇街道的なものもありませんね。
こんな道は通らず、安全な道でお運びくださいまし。
Bさんの推察通り、「鷹狩り」は「口実」のような気がしますネ。(^^; 私は、その周辺の地図を見ていて「御成街道」と書かれた道があり、「真っ直ぐ」なので、どんな歴史があるのか? 不思議に思っていた次第です。^_−☆
ねー まっすぐで、いかにも人工的な道って言うのも妙ですが、変ですよね。
まっすぐだった道が軍のために無くなってしまったんですね。
最近でも自衛隊を迂回する道をよく走りますが、、
旧道は敷地内にあった場所もおおいのでしょうね。
下総基地のあたりのなま街道もそんな気がします。
関西はあんまり基地が町の近くにないような気がします。
気のせいですかね~
いわゆる帝都に近かったからかな。
千葉もですが、三浦も相当なもんですよね。
たしかに鮮魚街道は下総基地の中に消えてますよね。
古今マップで見ると良く分かります。
明治政府は良い事もしたが相当に文化を破壊しましたね。
中国の文革タリバンのガンダーラ摩崖仏の破壊とか。
それもまた歴史なんでしょうね。