2007年12月06日

元祖大師御法語前編3「聖浄二門」その2

 彌陀如来の、本願の名号は、
 木こり、草刈り、菜摘み、水くむ、たぐいごときのものの、
 内外ともに、かけて、一文不通なるが、
 称うれば、必ず生まると信じて、
 真実に願い、常に念仏申すを、最上の機とす。

(訳)
 阿弥陀如来が「我が名を申す者を必ず救う」とお誓いになられた、
「南無阿弥陀仏」の名号は、

 樵(きこり)をしたり、草刈りをしたり、菜葉を積んだり、
 水汲みをしたりして生きているような、
 智慧に優れているわけでもなく、暮らしむきも優れているわけでもなく、
 読み書きもできないような者が、

「南無阿弥陀仏」とお称えすれば、
 必ず極楽浄土に生まれることができると信じて、
 いつわりなく真実の心で願って、
 常にお念仏を申していくというのが、
 阿弥陀仏の御心に最も適った人であると言えるのである。


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それでは、いかなる人が阿弥陀仏の御心に適う人なのか?
それをはっきりと示してくださっているのが、この言葉です。


いかなることを生業にしている人であっても、
仏教のことについて何もしらない人であっても、
どんな人であろうとも、

「南無阿弥陀仏」とお称えすれば、
 必ず極楽浄土に生まれることができると信じて、
 いつわりなく真実の心で願って、
 常にお念仏を申していく。

このことをする人こそが、
阿弥陀仏の御心に最も適った人であると、法然上人は仰っています。


「南無阿弥陀仏」という名号にいかなる功徳があるのか?
阿弥陀仏の本願がいかなるものであるのか?

人が、それをいかに詳しく知っていようが、
それはあくまでも人の知識、人間の理解にすぎません。

仏の深い御心など、愚かなる人間の身に、はかり知れるものではありません。


だから、樵(きこり)をしたり、草刈りをしたり、菜葉を積んだり、
水汲みをしたりしながら生きている、 
智慧に優れているわけでもなく、暮らしむきも優れているわけでもなく、
読み書きもできないような人々が、

「南無阿弥陀仏」という名号にいかなる功徳があるのか?
阿弥陀仏の本願がいかなるものであるのか?
といったことは知らないまま、

「南無阿弥陀仏」とお称えすれば、
 必ず極楽浄土に生まれることができると信じて、
 いつわりなく真実の心で願って、
 常にお念仏を申していく。

まさにそれこそが、阿弥陀仏が人々に願ってくれた姿であって、
それ以上に、阿弥陀仏の御心に適ったことなど存在しないのです。

だから、愚かなる人の身で、阿弥陀様の御心をはからって、
全ての人に平等に阿弥陀様が与えてくださった、
「南無阿弥陀仏」のお念仏に優劣をつけようとしているうちは、
まだ阿弥陀仏の本願を信じることができてない。

そう法然上人は、厳しく誡められたのです。


つづく

kyoseidb at 20:03│Comments(0)TrackBack(0) 元祖大師御法語 

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